DarwinRoom「料理の人類学」(2020/03/28 )における宮台発言の文字起こし
文字起こし:長谷川果穂さん
■こんばんは、清水さん、鶴田さん。宮台です。たいへん面白い話をありがとうございます。ただ、未来に向けた話に承服がいかない所があります。それを簡単にお話します。
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■僕の考えでは、料理の歴史は、人間中心主義の歴史です。それは今日のお話の中にも入っていることです。要は、技術によって、ハイデッガー的にいえば負担免除の方法によって、自然から間接化された形で食を獲得するようになったということです。例えば調理の技術がそうです。むろん産業化された工業的調理の技術もそうです。そのようにして人間中心主義的な方向性がどんどん進みます。ここで人間中心主義とは、環境に相対的に左右されずに、自分たちの意志でコントロールできるようになるという意味ですね。
■ところで、皆さんご存じのように近代エコロジー思想の出発点は、ナチスです。ナチスの出発点は、シュヴァルツヴァルトで知られるゲルマンに伝統的な自然信仰です。自然信仰の本質は、脱人間中心主義です。例えば、スウェーデンは1972年まで断種法を続けていました。ゲルマンの「森の哲学」──エドゥアルド・コーン──がそうであるがゆえに、ナチス同様に脱人間中心主義だからです。「死の天使」と呼ばれた解剖と人体実験のマニアックだったヨーゼフ・メンゲレもそう。「ジャングルを見ろ。弱肉強食の連鎖で、喰うものが喰われるのであって、中心はない」と。
■昨今の人類学におけるマルチスピーシーズ化や多自然主義の流れが、包括的な脱人間中心主義の提唱だとされています。ヴィヴェイロス・デ・カストロが有名です。でも、間違いです。僕はマルチスピーシーズ人類学の研究会に出て、会場をぶっ壊すような発言をしました。マルチスピーシーズもまた人間中心主義です。ナチスとの関係に言及しないからです。穏やかに言えば、エコロジカルな秩序を保つには人類の大半が死に絶えるべきだとする、それこそナチスの影響を受けた、ゲルマン系であるノルウェー発のディープ・エコロジーと、自分たちの立場のどこが違うのかを、射程に入れていないからです。
■なぜ人類は生き残るべきなのか。もはや少しも自明ではありません。例えば、集まりの必要を負担免除するシステム化(市場化と行政化)で、人間は感情的に劣化していきます。これは必然です。他方、人間の外側では、AIや遺伝子操作によるで改造哺乳類が人間化していきます。これも必然です。ハーバーマスが20年前に危惧したように、非人間的な人間よりも、人間より人間的なAIや改造哺乳類を、仲間にしたいと思う人間が専らになるでしょう。ところが、人間以外の人間的な存在は料理を必要としないということに注意しなければなりません。
■料理は、システム化によるコントローラビリティの増大の流れを象徴するという意味で、人間主義的なものを象徴していました。ところが、システム化が閾値を超えて汎システム化pan-systemizationの段階になると、「料理のための負担免除」や「料理による負担免除」が、「料理そのものの負担免除=不要化」へと置き換わるわけです。つまり、今後の料理の流れは、逆に脱人間主義化を象徴するものになるしかないのです。それだけでなく、実は人間自体でさえも、料理を必要としなくなるに違いないのです。それはなぜでしょうか。
■実証的な話をします。1980年代以降のオタク化の流れの中で、僕は1980年代半ばに大規模な統計リサーチをした所、仮想現実や拡張現実、つまりゲーミフィケーションを生きる人間たちが、スリーピングピルならぬナリシングピルさえあれば、何も必要としないことが判りました。90年の統計リサーチでは、オタク度が高いほど、料理(グルメ)と、クルマと、ファッションと、オシャレスポットに興味を示さないことが判りました。みなさんご存じのように、ナリシングピルを取りながら料理を食べているように錯覚させるようなオーグメンテーションのテック開発も進んでいます。
■システム化(市場化・行政化)やそれを支えるテックは、負担を免除したい(=便利で快適にしたい)という、遺伝的基盤を支えとする人間中心主義的なものでしたが、汎システム化の段階に至って、人間を出来る限りテックに置き換えたいという、人間を不要にする方向で(=人間をノイズやコストとしてカウントする方向で)脱人間中心主義化しつつあります。テックtechnologyに限らず技術techniqueの本質である負担免除は、その本質ゆえに、テック化technologizationの段階になると遅かれ早かれ「人間にとってのコストの免除」から「人間というコストの免除」へと脱人間主義化せざるを得ないのです。それが人間を料理から遠ざけるのです。
■結果、「料理の発達の歴史」の後、今度は「料理の衰退の歴史」が前景化します。別言すれば、ある段階までは、料理の発達はテックの発達と並行しますが、次の段階では、テックの発達によって、料理が衰退するのです。ただしテックの衰退で料理が衰退するのではない。遺伝子改造やAIなどの人間もどき製造テックや、仮想現実や拡張現実などのゲーミフィケーションテックに人間が囲繞されるほど料理が必要とされなくなる、という動きが示すのは、料理が、テックと平行するというより、人間中心主義と平行するという真実です。普遍的なのは、料理の重要性が人間中心主義といつもシンクロするということ。つまり、脱人間中心主義化で料理はどうでもよくなると思うのですが、どうでしょう?
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■SF映画や小説でも描かれるように、サイボーグ化・義体化していけば、基本、エナジーさえあればいいわけですよ。本質的には燃焼という酸化プロセスと機能的に等価なのに、わざわざ時間のかかる酸化プロセスとしての「食事と消化」なんて必要ないんです。でも、サイボーグやロボットが、人間と共にいるために──人間とtogethernessを享受するため──わざわざ料理を食したかのようにふるまい、場合によっては彼らの感覚器の中に、飲食をenjoyするメカニズムを入れ込むという可能性もあるんですね。それが映画版『攻殻機動隊』(1995)に描かれていことは、みなさん御存じの通りです。
■そのことを含めて、やっぱり料理の享受可能性は、自然から間接化された文明以降の人間に与えられた特権だと考えられるし、今後もそのこと自体は変わらないんですね。だからこそ、人間化したAIや改造哺乳類が出てきたときに「お前ら、料理を楽しめないだろ」っていうふうにして差別する可能性も出てくるわけです。すると、この「人間中心主義を象徴する料理」、丁寧にいうと「人間中心主義の進化と並行する料理の進化」っていうものも、必ずしも無条件に褒められるるというか、肯定できるものではない可能性がありますね。
■先ほど申し上げたように、もともと料理の技術的な発展って、テックを含む技術の発展と並行するんだけど、清水隆夫さんがおっしゃったように、同じ技術の発展が社会とりわけシステム(市場&行政)を発展させてきたた歴史があるので、料理・技術・社会全体が互い連関しながら発達してきているということなんですよ。しかも我々は今、近代の文明社会はこのままではもたないんじゃないか、例えばテックの暴走が起こるんじゃないか、という危惧を抱いてもいます。
■とすると、やはり、テックを含む技術の暴走可能性を反省的に危惧するその同じまなざしで、料理の享受可能性というものを手放しに肯定することはおかしい、と考えるべきだと思います。例えば、料理した肉を食べる場合、他の動物を殺してるんですね。さっき紹介した「死の天使」メンゲレなら、ジャングルの弱肉強食だけじゃなく、こういうでしょう。お前、今日の朝食に何を食べた?ベーコン?お前、豚を殺して食ってるじゃないか。じゃあなんで私を批判するんだ?豚と人間は違うだって?私はそういう前提に立つのはエゴだと言ってるんだ。主人公は、人間じゃなく、生態系、つまり前提・被前提関係のネットワークなんだよ、とね。
■我々の人間中心主義的な料理の享受は、やはり明らかに人間とそうでないものを、まるで自明であるかのように差別するし、そのことを前提として社会的なプログラムが成り立っているんですね。でも、エドゥアルド・コーンや、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、ユカギールというシベリア先住民を研究したレーン・ウィラースレフもそうだけど、我々がホモ・ハビルス以来、長らく肉を食べるて来たにしても、鹿や熊を殺す時に鹿になりきったり熊になりきったりする多視座化のプロセスを持っていたので、過剰な人間主義や人間中心主義に陥らずに済んでいたわけです。決して資源の有限性を考えていたんじゃない。
■しかし我々は、加工ないし加工技術によって、なりきりの直接性とともに向き合ってきた環境からいわば「間接化」を遂げたことで、そうした多視座化の可能性を完全に失ったんですね。結果、昔の人たちと違って、肉食が人間と動物の端的な差別になってしまっただけでなく、自然の有限性を考えることもなかったので、地球温暖化による海面上昇や大自然災害化など「有限性からの復讐」に、まるで『ウルトラQ』みたいに苦しんでいます。なので、人類学的に考えることが、今申し上げたような「自然から間接化された結果、意図せず人間中心主義に陥って、生態系から復讐されている」という我々のあり方を反省する機運になりうるということなんです。まぁざっく簡単にいえばですね。
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■先ほど話した技術的な暴走と、料理に見られる人間中心主義から離脱するための処方箋がどこにあるのかということを、僕は考えています。一つのヒントは、80年代に起こったコンビニ化です。ご存じのように、日本では1980年代半ばにコンビニ化が大規模に進んだんですね。85年といえば、セブンイレブンの最初のテレビコマーシャル、ケイコさんのいなりずし編というのがオンエアされたので有名です。夜中にいなり寿司が食べたくなったケイコさんが、セブンイレブンに駆け込んで、コンビニ袋を下げながら出てきて「開いててよかった」というナレーションがかぶるものです。
■実はコマーシャルの内容自体がすごく大事です。まず、昔は夜中にいなり寿司を食べたくならなかったんです(笑)。我々が共同体を生きていたからですね。内山節さんが2007年に書いた『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』にあるように我々が「人々が感じるように感じる存在」だったからです。逆に言うと、共同体が空洞化して個人がバラけると、昔は持たなかった強い欲望を個人それぞれに持つようになります。そのことが表現されたCMです。まず、それが一つ。
■次に、1985年が、CMの大ヒットもあって、コンビニ大爆発の年なんですが、同じ1985年にに男女雇用機会均等法が施行されます。それによって、男女共同参画が行政によって唱えられるようになります。さて、その時に男女共同参画を支えてくれたのがコンビニ弁当です。それによって「共住共食」をしなくてもよくなった、つまりシステム(この場合は市場)による負担免除がなされたのです。専業主婦のお母さんが、0昼間の子どものご飯を作らないといけないという負担を免除されたことで、女性の参画機会が増えたのです。
■社会学は、家族は「共住=ともに住む、共食=ともに食べる」集団だと定義してきました。当時は経済的隆盛を背景に、単身赴任が急増した時代。ただでさえバラバラになりつつあるのに、残された家族の、共食機会もなくなることで──逆側から言うと個人が自由になって多様な社会参画機会を手にすることで──家族の共同性が急速に壊れるということが、表裏一体で進んだんですね。僕の「新住民化」論が論じてきたように、地域の共同性もそれに準じる展開をしていますが、それは今日はスキップさせていただきます。
■実は料理って、冷凍食品であってもなんでもいいんだけど、お母さんであれ、お父さんであれ、おばあちゃんであれ、家族が作ったものを食べることが大切だったんですね。僕はよく料理を作ります。小学1年生の時から日曜日のお昼は僕が作るっていうのが義務でした。それはいいとして、そのように「共に食する営み」によって生み出される共同体感覚──例えば感謝の気持ちとか「こんなに美味しい御飯を作れるなんてスゴイな」って賞賛の気持ちとか──が大切な機能を果たしてきたんですよ。
■それを考えるに当たっては遺伝子的ベースを忘れちゃいけません。昭和の刑事モノを観ると、刑事がカツ丼を食わせる場面が定番だったでしょう。これはなぜか。今日の皆さんであればご存じのように、まず、血糖値が上がると気分が落ち着いたり、ホッとしたりするんですね。つまりreliefされる。僕の恋愛ワークショップでいえば、相手が不機嫌な時、血糖値を考えてみることが実は意味があるんです。特に母体としての機能を持つ女性は、血糖値が低くなることで不機嫌になりやすい。そういう時には「アイス食べようか」って言って相手の血糖値を上げると、ウソみたいに上機嫌になったりします。
■もう一つ、ゲノム的な基盤に基づく反応があります。人間って、食べている時に限って無防備になっちゃうんですね。他の動物もそうだけれど、安全な場所に退避してから食べるという営みが長く続いてきたからです。例えば、食べてる時に女性が口を隠すという昭和の所作には、無防備さを隠すプロテクション機能があったと推測できます。で、一緒にご飯を食べる時には、ゲノム的な基盤ゆえに、無防備になりがちです。だから刑事さんも、取り調べの時に本当は言うつもりじゃなかったことを犯人に言わせてしまうこともできる。
■間をとばして結論を言うと、アルフレッド・アドラーがいう「共同体感覚」、つまり自分はいつも誰かと仲間であるという感覚を、失ってしまった人間は、自分が所属する共同体とはもとより、共同体の外側にいる人間に対する「なりきり」の感覚を、持てなくなるんですよね。これは、僕がいう感情的劣化の一端です。我々はまだ今のところ人間的な社会を生きているので、ウヨ豚や糞フェミみたいに劣化していなければ、人間一般を仲間だと思うことができるかもしれません。
■でも、最近の人類学が明らかにしているように、もともと人間にとっての仲間は人間だけじゃない。哺乳類だけじゃなくいろんな動物も、動物だけじゃなく植物も、動植物みたいな生き物だけじゃなく石や森や川や山や雲などの無生物も、環境倫理学者ベアード・キャリコットが言うように、それ自体が生き物である「場という全体性」の構成要素──彼の言葉では「環境子」──なんですね。彼が先住民を参照するように、我々は実際にそういうふうに生きてきました。
■あれもこれも仲間。この場合、仲間というのはどういう意味か。我々がそれになりきれるということです。鹿になりきれる。木になりきれる。雲になりきれる。山になりきれる。言い換えると、人間だけが「見る存在」ではなかった。樹にも見られる。岩にも見られる。山も見られる。雲にも見られる。お天道様にも見られる。そんな感受性がありました。これをアニミズムと言います。精霊が宿るということじゃない。我々がそれによって見られるという所にだけ本質があります。
■ただ、この感受性は、これもキャリコットが言うように、人間が共同体的な存在である場合にだけ涵養されるものです。さっき紹介した『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の論点と同じです。逆に言うと、人間が共同体的な存在でなくなってしまうと、共同体によって支えられる共同体感覚を前提に保たれてきた、あれも仲間だ、これも仲間だ、という「共生感覚」も失われてしまうんですね。僕の暫定的な結論は、そこから導かれます。冷凍食品を食べようが、ファストフード店で食べようが、みんなで一緒に食べる共食がとても大事だということです。
■これを抽象化して言うと、「料理の中身も大事だけど、食べ方もすごく大事だ」ということです。実際「何かがおいしい」とか「何かが素晴らしい料理だ」というのは、「僕はそう思うけど、君もそう思うだろ」というsharing感覚が、つまり「みんなと共有したい」という感覚がベースになっているはずなんです。それがまさに漫画『美味しんぼ』が描いてきたことでもあります。
■でも、食事がナリシングピルみたいなものに置き換えられていけば、sharing感覚どころじゃなくなる。まして共同体感覚なんてどこえやら。だって、ピルを飲むのは一瞬なんで、みんなで飲むなんて営みは、滑稽でしかないからです。という次第で、やはり「食べ方」も大事なんですよ。料理を享受するときの人間たちの共同性。これを復権しないと、実は料理がもたらす人間中心主義を克服するための、人間以外のものたちへの「仲間の拡張」もできなくなるんじゃないかと思います。
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■食において最終的に問題になるのは、認知recognitionsでなく、倫理ethicsです。倫理は最終的に根拠がないものです。ロジカルな根拠はないという意味です。では倫理の基盤は何か。既にお話ししてきたように一部ジェノミックなベース(遺伝子的な基盤)との関係もありますが、大事なことだけ言えば「何々が許せる、何々が許せない」という我々の感情に由来するものです。だから、何が倫理なのかは、いつも我々の感情の働きという事実性factualityに貼り付いています。多くの人たちが「本当にそうだな」と思えるという「営みの事実」があるかどうかだけが、最終的に倫理の共同主観性を支えているのですね。
■そのことをまず頭に置けば──倫理とは根拠というより共同主観性という事実性の問題なのだということを頭に置けば──倫理の根拠を論理的に詰める必要がないことが分かります。そのことから何が問題になるのか。先ほど「料理の進化史は、自然を間接化するシステム化の歴史であるがゆえに、人間中心主義の進化史である」と申し上げたのを思い出してください。我々は、人類学的時代を生きていた頃に持っていた倫理を、既に失っているんです。理由を簡単に言うと、環境──我々のsurroundings──が、自然=世界であるより、人間=社会になったからです。我々とコミュニケーション可能なものが、人間だけに限られたからですね。
■アミニスティック(アニミズム的)な時代、我々は人間以外のものともコミュニケーションできました。そうした感受性が、近代化=システム(市場・行政)の高度化によって、失われると、我々は「社会に閉じ込めらる」ようになります。実は我々が「社会に閉じ込められる」動きと、料理のグルメ化とか高級化とか複雑化が、非常に密接に関係していると思うんです。理由は簡単で、テックを含めて技術が負担免除であるにせよ、負担免除のプロセスが複雑化すればするほど、我々から見通せなくなるからです。
■技術という言葉で、今の我々は日常的に、technologyつまりテックtechを指します。でも、もともとはテックじゃなくtechniqueのことを指しました。ユク・ホイという中国人の若き哲学者は、これを技芸と呼んでいます。僕が今回使っている言葉で正確にいうと、「技術一般」=「技芸」+「テック」です。昔に遡ればテックが存在しないので、「技術一般」=「技芸」だったという話になるわけです。ここで大切なのは、昔の時代における「技術=技芸」って、確かに負担免除ではあれ、「目に見える」ということ。だから原則として誰にでも「教える」ことができます。専門化して「目に見えなく」なったテックは、そうは行きません。
■なぜか。テックは複雑な分業体系が前提で、その技術的体系の全体を見通せる人がいないからです。それぞれの人間はparticipant(参加者)として技術的体系に組み込まれるだけなのです。後期ハイデッガーはそれを「人間が技術的体系によって駆り立てられている」と見ました。この「駆り立て論」は共時的(≒空間的)なものですが、これを歴史的(≒時間的)に引き伸ばすとブリュノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論(ANT)」になります。この種の議論が出てくるのは、「我々が『社会(人間の界隈)に閉じ込められている』からこそ『人間が主体だ』という頓馬な勘違いしがちなのだ」との問題意識があるからです。
■ラトゥールの専門家である久保明教さんが『「家庭料理」という戦場』をお書きになったのが象徴的ですが、我々が「社会(人間の界隈)に閉じ込められる」動きと、我々の「料理というもの」に対する貧しい認識が、表裏一体になっているのですよ。なので、それを狩猟採集の時代の直接性に戻せと言っているのではなく(笑)、「料理というもの」に対する我々の閉ざされがちな想像力を回復するために、「社会(人間の界隈)に閉じ込められる」動きを逆転させる必要があると、僕は言っているわけです。たとえば「料理というもの」をめぐっても、我々は「言葉の自動機械」というクズになりがちです。それを解除するべきです。
■例えば、想像力が欠けた人たちは、「自然食がいい」とか「有機野菜がいい」とかいう話をしがちだけど、全部「身体にいい」という話に閉じ込められているでしょう。これではダメなのです。スローフードという1980年代前半から始まった運動は、そもそも原理的に「オーガニック」も「トレーサビリティ」も目的ではないことに注意しましょう。辻信一さんがおっしゃっているけれど、要は「システム(市場と行政)に依存することで共同体が失われていく」という汎システム化pan-systemizationに抗う運動です。説明しますね。
■汎システム化に抗うために、まず「顔が見える範囲」に向けて、つまり仲間のために、農作物にせよ工芸製品にせよ一生懸命に作るわけです。今は農作物の話に限りましょう。仲間が食べるのだから仲間のためになるものを作ろうと思うし、そういう努力を見ているから食べる人=買う人も、スーパーマーケットよりは高くても仲間から買おうと思うわけです。なぜかというと、仲間のために善いことをしようと思うという事実性factualityが「存在する」からですね。つまり「我々が倫理を手放さないための運動」なんですよ。
■他方、システム(市場と行政)に取り囲まれた我々消費者は、自分の健康のために「オーガニックかどうか」「トレーサブルかどうか」を気にして製品を需要し、会社や行政にクレームを付けます。クレームの一部は法律や条令の立法legislationに繫がります。だから、企業人も行政官も、市場の需要に逆らえば利益を失うし、法律や条令に反すれば罰を受けることになります。だから「いいもの」を作らざるを得ません。しかし、そこで働いているのは、ウェーバーがいう「資本制のシステムで生き残るための損得勘定」です。つまり、そこでは共同体(=仲間)が失われているがゆえに、倫理が失われているのです。
■念を押すために、貢献性contributionという観点からも見てみましょう。ある方向に抽象化して機能的に見れば、スーパーやコンビニよりも高い農作物(や工芸品)を仲間から買うのは、共同体を維持するための税金に近いところがあります。でも、決定的に違うのは、税金を払うのは、そうしないと罰を受けるからですが、少し高くても仲間から購入するのは、「仲間に報いなければならない」とか「共同体に貢献しなければならない」と思うからです。つまり、動機付けという別の方向に抽象化してみれば、少し高くても仲間から買う営みは、罰を恐れて税金を払うのとは違って、倫理なのですよ。
■平たくいえば、人間的な感情やそれに基づく倫理によって「仲間のために良いものを作ろう」と思っているのか、「そうしないと売れないからオーガニックでトレーサブルなものを作ろう」「有毒な添加物を入れると法律や条令に引っかかるから添加物を控えよう」と思っているのか、の違いです。二つの間の違いを理解するための、分かりやすいヒントが、1995年にアメリカの巨大スーパー「ウォルマート」が始めた「ロハス」です。FMラジオのJ-waveがある時期にヘビーローテーションしたので、日本でも多くの人たちが知っているでしょう。
■ロハスとはLifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字をとったもので、「健康で持続可能な生活」という意味です。これはもともと、1980年代半ばから先進各国を急速に席巻したスローフードの運動に対抗するための、巨大企業のマーケッティングでした。「スーパーマーケットだって、オーガニックなものを売ってるぞ、トレーサブルなものを売ってるぞ」というわけです。アメリカ人とそのケツを舐める日本人は頓馬だから「そりゃいいね」となりましたが、とりわけフランスとイタリアでは、現在EU委員会の議員である農民運動家のジョゼ・ボヴェをはじめとする人たちによって、激しい対抗運動を引き起こしました。
■イタリアのマクドナルドの「地元の有機野菜を使ってますキャンペーン」に政治家まで動員されたことに対して、「そこじゃないんだよ、俺たちが言ってんのは。それはどこまで行っても所詮は損得勘定を動機付けとする単なるシステムじゃないか。結局、お前たちは法に違反しなければいい、売れればいいっていう損得勘定の枠の中でだけ行動しているだけだ」と喰ってかかったわけです。要は「スローフード運動ってのは、損得勘定で回るシステムに対して、内発性に基づく善意を動機づけとして回る共同体を擁護しようとする運動なんだよ」と叫んだのです。このアドヴォカシーにこそ、大きなヒントがあると思うんです。
■誤解がないように言うと、損得勘定がいけないと言うんじゃない。資本制システム内で生きる以上、儲けがなければ終わりです。そうじゃなく、損得勘定の内側に閉じ込められちゃいけないと言うのです。そのためには、資本主義を共産主義に取り替えるんじゃなく、資本制システムを維持しながら共同体をも維持することが必要だと言うのです。共産主義も社会主義も、所詮は匿名性や入替可能性を前提にしたシステム(行政官僚制)に過ぎないでしょう。なぜ共同体を維持しろというのかというと、それは「人間的なものの本質が倫理にある」と見るからです。「善いことをしようと思う」という事実性にあると考えるからですね。
■このように、損得に閉じ込められず、損得を越えた倫理へと開かれるには、まず共同体が回復しなきゃいけません。共同体が回復した時にだけ、我々は、その共同体=仲間を支えるものを守ろうという、損得勘定を越えた内発性=内から湧き上がる力を、手にできます。そこから、共同体の存続を目標とした生態学的な思考──前提するものと前提されるもののネットワークについての思考──をリップル状(雨紋状・水紋状)に広げることができ、「人間じゃないものも含めて仲間なんだ」という感覚を持つことができるようになるんですね。そのためにもまず「損得を越えた倫理こそが人間的なものなのだ」という認識が必要です。
■こうした機能的な連関についての思考それ自体が、実は生態学的な思考です。生態学はエコロジーecologyの訳ですが、多くの人が誤解しているような「自然は大切」というイデオロギーではありません。生態学的な思考自体は、ナチスやディープエコロジーがそうであるように、どこまででも非人間的なものになり得ます。そうならないために必要なのは、論理つまりロゴスではなく、倫理つまり損得勘定を超える感情が働くという事実性です。すると、その事実性が失われつつある中で、どうやってその事実性を回復するための仕組みをどう構築するかという実践が、これまた倫理的に要求されます。
■ここには「鷄と卵の問題chicken&egg problem」があります。でも、これは困難を意味するのではなく、むしろ、鷄から出発しても卵から出発してもいいのだということを指し示しています。損得勘定を超えた感情が失われつつある中で、それを回復するには、単に道徳訓を埀れるミクロな営みはなく、やはり相対的にマクロな仕組みが必要です。それは生態学的思考から明らかです。そうした思考のためにこそ、僕たちが個人化された文明の中で享受している「料理というもの」をめぐる広い意味での──お父さんやお母さんが料理することを含めた──サービスを、どんなアーキテクチャが支えているのかを、考察するべきです。
■これまた誤解なきように言うと、「コンビニ弁当がいけない」といった紋切型を「言葉の自動機械」よろしく反復しているのではない。生態学的思考は、例えば生態心理学が「道具というもの」を前提・被前提関係という関係性へと解体する、というか、押し拡げて想像するためのツールであるように、技術によって結びつけられた「人間を単なる一コマとするような事物の連関」へと開くものです。それを前提にすれば、僕たちが倫理的であろうとする限り、「コンビニ弁当って便利でありがたいな」と思うだけでは済まないということです。
【大竹メインディッシュ】なぜ日本は確実に終わるのか?
大竹まことゴールデンラジオ!|文化放送|2019.12.11放送
大竹まことさん:タレント
壇蜜さん :タレント
宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし :立石絢佳 Twitter:@ayaka_tateeshi)
※若干の語句の変更と補いがあります
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▶深刻な劣等感をもつ人間が染まりがちな「鍋パーティー問題」とは?
壇蜜: 続いては「大竹メインディッシュ」です。こちらはポッドキャストでも配信していますので是非チェックしてくださいね。
本日のお客様を紹介します。首都大学東京[現・東京都立大学]の教授を務められています、社会学者・宮台真司さんです。2ヶ月ぶり、お願いします。
宮台真司(以下、宮台): はい、こんにちは。もう見放されたと思いました。
大竹まこと(以下、大竹): いやいや、そんなことは(笑)。
壇蜜: お久しぶり感が。
大竹: いやお久しぶりって言ったって2ヶ月は早いよ!
壇蜜: 早いですね。サイクルが。
大竹: 全然早いです。6年ぶりって人がたくさんいるんだから。
壇蜜: そうですね、十何年ぶりとかね。
宮台: ははは(笑)。
大竹: さて、いろんなことをお聞きしたいと思っております。
壇蜜: 桜[桜を見る会]、聞いちゃう~!?
宮台: ふふふ(笑)。
大竹: お前、そういうノリかよ、桜聞くときに(笑)。
壇蜜: だって毎日のように報道されてるんですもの。
大竹: まあね、毎日のように新しいこともわかってくるし。テレビ見てると、なんかコントみたいにも見えるし。どうなんですかね、宮台さん。
宮台: これはね、国民の自画像だと思いますね。
大竹: 自画像……!
壇蜜: 桜問題が?
宮台: そうですね。キーワードはやっぱり「劣等感」なんですね。安倍晋三さんって、僕は小学校の同級生を何人か取材したこともあるけれど、劣等感の塊ですよね。単に成績が悪かったっていうだけではなくてね、一族がピカピカだからですよ、学歴的にもね。
壇蜜: 華麗なる。
宮台: そうですね。そういう家系で成績が悪かった場合に、どれほど劣等感を刻まれるのかって、思い半ばに過ぎますよね。僕も父親と爺ちゃんと叔父さんが東大だし、そういうプレッシャーって結構早い頃から感じるものなんですよね。
劣等感って誰にでもあるものです。それを克服するかどうかでマトモな大人になれるかどうかが決まるんだと思うけど、安倍さんは劣等感むき出しで子供のままなんですよ。マトモな大人じゃないので劣等感に由来する「ポジション取りをしよう」という浅ましさばかりが目立って、国民のことを考えるマインドが全く感じられないんですね。
僕はよく「鍋パーティー問題」と言うんですが、そうした、孤独で劣等感にかられている人間って、最初に鍋パーティーを食わせてくれる人間たちのイデオロギーに、面白いほどとんどん染まるって事実があるんですよ。
壇蜜: 最初に鍋パーティー……?
宮台: そうです。1970年代の学生時代から言ってきた「鍋パーティ問題」。たとえば東大でもそうでした。地方から出てきて、自分は優等生だと思ったら、たとえば東京の私立高出身のやつらは楽器もプロ級だったり、スポーツもバリバリだったり、ナンパもしたい放題だったりする。すると劣等感にかられ、ポツンと孤独になっちゃう。
すると、そこに鍋パーティーに誘うヤツが出てくるんです。それがセクトだったりカルトだったりするんですね。半年もすると、あたかも昔からそのセクトやカルトのメンバーであったかのように堂々と振る舞いはじめるわけ。劣等感が埋め合わされたんですね。93年以降の安倍さんがそうだったでしょ。それまでノンポリだったのに、日本会議の前身に当たる団体の人間たちに厚遇されて染まったんです。絵に描いたようですね。
あと、首相官邸に集っている「クズ官僚」たちも同じです。従来の省庁の出世レースの中では1位と2位にしか意味がありません。だから入省順位が低い連中などはハナから劣等感の塊です。僕は進学校出身だからよく分かるけど、入省順位が1位や2位じゃなくて5位っていうだけで決定的な劣等感につながるんですよ。ピカピカの東大出身のキャリア官僚なんだから充分じゃんとシロウトは思うかもしれませんけどね(笑)。そういう劣等感に打ちひしがれがちな下級レベルのキャリア官僚を、官邸官僚に引き立てるでしょ? すると、劣等感ゆえのポジション取りのために、政治家のケツを、クソがついていても舐めるようになるわけですね。
すると、面白いことに、それだけじゃ留まらなくなるんです。省庁内に病巣が拡大するんですね。官僚制ってそういうものなんですが、元の省庁で席次が上だった官僚たちも「なにクソ、この野郎」って思っちゃうのね。自分よりも能力も道徳性もずっと劣るクズが、取り立てられて威張っているのを見ると、従来「自分には公共的な関心もあるし、実力もある」と思っていた上級レベルの官僚たちまで、「クズにやられてたまるか」ってことで、クズ化競争に参加するんです。そうやって「病巣が拡がる」わけです。
大竹: あのー、内閣人事局みたいなものがそうなると、あってもなくても関係ないですか?
宮台: 「官僚とはもともと序列の動物だ」っていう意味では関係ないんですけど、内閣人事局がまさに「序列の動物であるところから来る劣等感につけこんだ人事を可能にしている」っていう意味では関係しています。というのは、かつて省庁人事は、省庁の中で完結していたからですよね。
大竹: そうですよね。だからこそ、政府の立場が対等というか、力を持っていたというか。
宮台: そうです。たとえば、菅さんも、霞が関官僚に比べれば圧倒的に学歴が低いでしょ? 官房長官という政府と省庁全体のパイプ役の仕事を通じて、劣等感を抱えてきたに違いないんです。自分が劣等感の塊だからこそ、劣等感を抱えた人間をどうすれば利用できるかを、よく知っていると思うんですよ。劣等感で釣る仕方をね。僕に言わせると「究極のクズが、至高のクズを選んで、官邸官僚を組織している」っていう形ですね(笑)。
▶劣等感がある人間は自身の免罪のために「言葉の自動機械」になる
大竹: 冒頭でも話したんだけど、同じ土俵だと思っていたのが、今回の反社勢力のことに関しても、なんかこう、リングの形が変わっちゃってるじゃないですか。
宮台: それね、特殊なことじゃないんですよ。右か左かってのも、フェミニストかどうかってのも、全部リングの形が変わっちゃってるわけ。僕が言う「ウヨ豚」や「糞フェミ」を見てくださいよ。劣等感や不全感を抱いて自分を責めてきたような人たちって、多くが、不安を埋め合わせるために脊髄反射的な「言葉の自動機械」や「法の奴隷」になったり、ポジション取りの「損得マシン」になって、「そうだ! 自分のせいじゃない! あいつらのせいなんだ!」と外部帰属化するわけです。
日本人の友達すらほとんどいないくせに「日本すげえ!」と叫ぶのも、恥ずかしいほど滑稽だし、数少ない個人的な不幸の経験から「男は全て敵だ!」とか叫ぶのも、恥ずかしいほど滑稽でしょ? そういうのを見るにつけ、僕は、この人たちと「自分は不幸だ!」とワメいてるだけで、言葉自体には何の意味はないなぁと思うんですね。でも、当人たちは、その恥ずかしさを理解していないわけよ。同じ穴のむじなが、ネットでつながっているだけの話で、おかしいぞって言ってくれる友達がいない寂しい人たちなんですね。
壇蜜: 「騒ぐ」と「劣等感」って、少し補填というか、補正されるんですか?
宮台: そうなんです。
大竹: 発散するってこと?
宮台: そう、気持ちが軽くなるんですよ。「言葉の自動機械」が一番分かりやすいでしょう? たとえば、ウヨ豚は「日本人」とか「中国人」とか「韓国人」とかっていうカテゴリーに脊髄反射しちゃう。日本人の友達も少ないぐらいだから、中国人にも韓国人の友達も当然いないわけよ。だから、何も知らないくせに、インターネットで「見たい情報だけ見て」、言葉の上っ面にだけ反応するんですね。「言葉の自動機械」という意味で、神経症なんですね。糞フェミもそうです。ちょっとしか男経験しかないくせに「男は敵だぁ!」って具合に、哀れにも「男」ってカテゴリーに脊髄反射しちゃう。ウヨ豚の「中国人は敵だぁ!」とかと寸分たがわず同じです。
でも、実際には、中国人の知り合いがいるわけでもないし、男経験が豊かであるわけでもないんですよ。むしろ、逆に、「自分には人間関係が乏しい、寂しいヤツだ」ってことを、無自覚にカミングアウトしちゃってる。不安を言葉で埋め合わせているだけの「言葉の自動機械」っていう神経症の症状を呈しているだけなのに、自分ではイデオロギー=価値を語っているかのように思い込んじゃうわけよ。こういうのを僕は「クズ」と呼ぶけれど、みなさんは、ゆめゆめ「人間扱い」をしないことをお勧めします。
大竹: 中国の人も韓国の人も知らないのに、その総体として、全部をひと括りで見ちゃう。
宮台: そう。「男はこうだぁ!」とか、逆に「女はこうだぁ!」とか。
壇蜜: それはすごく、スッキリするんですか?
宮台: それでスッキリするのが「感情が劣化したクズ」ということなんですよ。要は「自分がいけないんだ」「自分がまずいんだ」っていう劣等感を感じないで済むからですよね。「自分は悪くない! こいつらが悪いんだぁ!」って叫べるから、スッキリするわけですよ。分かるでしょ?
壇蜜: あ~、「だから自分はしょうがないんだ!」みたいな?
宮台: そう。男運がすごく悪くて、ソクバッキーやデートDVとか苦しんできたとしましょう。本人が悪い面もあるに決まってる。だって見る目がないんだからさ(笑)。でも、その「見る目のなさ」を、自分で引き受けるってのはつらいんです。「ヘタレ」だからですね。それで、「男がそもそも敵なんだ!」って考えることで、自分を免罪して、問題が処理したがるわけよ。ほんとは何も処理していないんだけど、クズには分からない。
壇蜜: 楽になっちゃうんですね。
宮台: そう。「ウヨ豚」も全く同じなんです。自分の劣等感、たとえば没落感とか将来不安とか劣等感といった諸々の不安を、「こいつらのせいだ!」「あいつらのせいだ!」って外部帰属化することで、自分を免罪し、問題の処理したつもりになる。クズですね。
大竹: それは論理的に突き詰めずにっていう意味ですよね?
宮台: そう。問題の全体を見渡せないという意味で「頭が悪い」んだけど、それだけじゃなく、無関係な人たちに粘着するっていう意味で「性格も悪い」んですよ。そして、この種のクズが、実は「ポスト・トゥルース/ポスト真実」って呼ばれる昨今の流れにつながっているんですね。アメリカのオルトライトでも、ドイツのネオナチ集団やフランスの国民戦線の賛同者たちでも、全く同じことが起こっています。ってことは、背景に共通のメカニズムがあるってこと。「あまりにも共通しすぎてる」ってのも、僕が「言葉の自動機械」って呼ぶ理由の一つです。まぁ、顔をみればだいたい同じです。フワーとした柔らかいオーラがなくて、ガチガチにこわばってるわけ。これは神経症の印にもなりますね。
▶「言葉の自動機械」になった弱者は自由自在にコントロールされる
壇蜜: どうしたらその劣等感をうまく操縦できるようになるんでしょう?
宮台: ふふふふふ(笑)。
大竹: それは日本だけじゃないよね? アメリカでもそうだし、ヨーロッパのある国でもそうなっているって……。
壇蜜: 世界中で起きてますね。みんな自分を飼いならせないんですね?
宮台: そうです。
大竹: しかも選りすぐられてるな、と思われている人たちは、格差の問題に目もくれずに国を進めていきますよね?
宮台: 昔から知られている面白い現象です。格差の問題って、近代社会では条件次第では劣等感に結びつきがちなんです。格差があるなら、下層に追いやられた人たちで連帯して戦えばいいじゃんね? 昔はそうした組合運動とか階級運動が定番だったんですが、今はダメ。なぜか。共同体が空洞化しちゃってるからです。だから、共通前提を互いに当てにできないんです。だから連帯できません。少し説明しましょうか。
共通前提を互いに当てにできた頃は、自分が困っていたら、それを表に出せば──表に出さなくたって──誰かが助けくくれると思えたし、実際に助けて貰えたでしょ? でも、共同体が空洞化すると、自分が下層だってことで、馬鹿にされるんじゃないかと思い込むわけですよ。だから、自分が下層だって認めたくなくなるんですね。これは戦間期に実例があります。もともと貧乏だった人じゃなく、もっぱら没落中間層が、自分がダメだって認めたくなくて、劣等感の埋め合わせようとして「強く大きなもの」にすがったという事実があります。「ドイツすげえ」ってね(笑)。そこからナチズムが出てきたっていうのが、実証データから分かることです。
壇蜜: へえ~。格差を認めない……。
宮台: そう。たとえば、日本はかなり早い段階から教育格差があるでしょう? でも、そのことを、多くの人は自分が不利益を被っているのに、認めたがらないんですよ。初期状態の格差によって「将来の社会的地位はせいぜいここまでしかいけない」ってことが決まってしまうんだけど、そのことを認めるのってつらいじゃないですか。だから、「見たくない現実を見ない」わけよ。それを、ジョック・ヤング[イギリスの社会学者]って人が「過剰包摂」──「疑似包摂」のほうが正しい翻訳だけれど──って言っています。
たとえば、スターバックスに行くでしょ? すると年収1~2億円のIT長者も、年収200~300万のフリーターも、見掛けでは区別がつきません。でも、昔は違ったんですよね。地方出身者には、田舎臭い雰囲気や、言葉に訛りがあったりしてね。ホワイトカラーかブルーカラーかっていうのも、見た目ですぐに分かっちゃいました。日焼けしているかどうか、髪がさらさらかどうか、みたいなことでね。でも、今は、どの先進国でもそれが判らないですよね。だからこそ、「自分はみんなと同じだ」っていうふうに思いたいヘタレは、そう思えるわけです。だから弱者が連帯できないんです。簡単でしょ?
ってことは、強者からみれば、格差を放置できるし、弱者が連帯して噴き上がらないように自由自在にコントロールできるってことですよ。このコントロールは、リソースがあれば簡単です。ビッグデータとディープラーニング[機械学習]を使うんですね。「言葉の自動機械」になった人間って、どんな「感情の押しボタン」を押すと、どんなふうに行動するのかってことが、統計的な蓋然性としてかなり正確に予想できるんですね。だから、その通りにボタンを押していくと、実際に全体を簡単にコントロールができちゃう。
だから、昨今の民主政は、相手の話を聞いて、自分のことを話して、互いに話し合って合意点を見つける、っていう仕組みではなくなっちゃってるわけ。リソースを総動員した「言葉の自動機械」の操縦競争になっちゃったんですよ。その意味で、民主政はすでに、国家規模では終わりつつあるというふうに断言していいでしょう。今のIT化の流れが続く限り、感情的劣化がますます進みこそすれ、国家規模で感情的劣化からの回復があるなんてことは、到底望めないからですよ。
大竹: 民主的なこと自体も、議論を交わしたりすることも、ハナから「無」に近いことに。
宮台: 全くそう。フランス革命の少し前に、ジャン・ジャック・ルソー[フランスの哲学者]が言ったように、民主政がマトモに機能するには、規模を小さくする必要があるんですね。具体的には、ルソーは2万人以下でしか民主政は成り立たないと見ました。2万人以下だったら、顔がだいたい覚えられるし、名前にも覚えがあるでしょ? 昨今のネットワーク理論で言えば、「知り合いの知り合い」というレベルで全体につながれるわけです。そんな感じだと、ある政治的な決定がなされた時、その決定によって、それぞれの人がどんな目にあうのかって「想像できる」し、それだけじゃなくて「気にかかる」でしょ?
それをルソーは「ピティエpitié」って言います。「全員に対するピティエを、全員が抱く場合にだけ、民主政はうまく行く」ってのが「ルソーの定理」ですね。逆に、直接民主制が不可能なくらいの大規模になってしまうと、全然顔が見えないし、ピティエも小範囲に限られる。そのぶん、人は「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」になりやすい。すると動員合戦になって、リソースを持つ者だけが勝つ。だからルソーは、ジョン・ロック[イギリスの哲学者]が推奨していた代議制を、徹底的にコケにしていたんですね。
壇蜜: 誰かがどっかで、傷ついているとか酷い目にあっているのが想像できないから、こんなことになっちゃっている?
宮台: そう。他者の痛みに寄り添えないんです。そうした昨今の現実を見ると、ロックよりもルソーのほうが正しかったことが分かるでしょ? 顔が見えなくなって、ピティエが働かなくなると、人は「中国人だから」とか「在日だから」とか、カテゴリーで塗り込めて人を理解するようにりがちなの。「中国人だから」とか「男だから」ってだけで説明した気になっちゃうの。何も知らないクズのくせにね。
ってことは、これからはどこの国でも、民主政を立て直すことができるとすれば、スモールユニット、つまり小さな自治単位を再構成して、それで国全体を覆える場合だけ、ということになります。でも、かなりの国では、残念だけれども、スモールユニットの再建はごく少数に留まって、マクロつまり全体には至らないでしょう。特に日本はそうですね。
大竹: そうですよね。
宮台: だから、この間も申し上げましたけど、「社会という荒野を仲間と生きる」っていう、僕が10年前の震災時から提唱してきた「風の谷」戦略だけが、重要になるわけです。でも、その結果、「風の谷」戦略を貫徹できるユニットと、全然できないユニットとが、どんどん分岐していくでしょうね。特に、日本では百パーセントそうなるでしょう。
大竹: でも~……仲間作ろうとして、できるかって……。
壇蜜: 困っている人たちが集えないっていうのが、いま一番怖いですよね。みんな「俺は違うんだ」とか「私は違うのよ」って。
大竹: そう言い合っているわけだから、そうすると、小さな仲間を集うってこと自体が、とっても難しい。
宮台: そうです。だから、さっき言ったウヨ豚や糞フェミだけじゃなくいんです。クズ化、つまり「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」化の現象が、共同体から見放された大人たちの間で、どんどん拡大していますよね。それこそが、「劣等感を抱く人間が、劣等感を抱く人をコントロールすることで、自分の劣等感を埋め合わせようとする」という浅ましくさもしい営みが、とりわけ日本でどんどん拡大してきている理由です。
壇蜜: いじめとかパワハラみたいな……。
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CM
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(後半)
▶劣等感にかられた極めつけのクズ男にしないためには『外遊び』が絶対に必要
宮台: あと、典型的には、性愛からの退却ですよね。たとえば、大学生女子でいうと、ピークだった20年ほど前に比べると、性愛経験率が6割代後半だったのが、3割代後半に、ほぼ半減しているんですよよ。
壇蜜: そんなところにまで……(笑)。
宮台: そうです。その女たちをリサーチすると、たとえば、恋愛映画のポストトークをする場合、お客さんの8~9割が女なんですけれど、すごく魅力的な人たちばかりなのに、だいたい彼氏がいないんですね。で、「なんでいないの? わざと作らないの?」って聞くと、「いや、いろいろやってきたんだけど、男がクズすぎて、諦めました」って言う女だらけなのね(笑)。同じことを男に聞いてきました。男も、大学生は性愛経験率3割後半。ピーク時は6割くらいでしたけれどもね。
壇蜜: 半分だ。
宮台: 半分ですね。「なんで恋愛しないの?」って聞くと、「いやあ~、先が読めないじゃないですか~」「リスクマネジメントできないじゃないですか~」「コストパフォーマンス悪いじゃないですか~」って。最初は耳を疑いました。恋愛って「言外、法外、計算外」だから価値があるはずなのにねえ。本当に、極めつけのクズなんですよ。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」という意味でね。
壇蜜: もうダメだ! 日本が滅ぶ(笑)!
宮台: いや、そうは思ってなくてね(笑)。だからこそ、『恋愛ワークショップ』というのを震災後にやってたんですよ。今はまだ女は大丈夫なんだけど、男がダメすぎるので、途中でやめちゃったけれど……。
壇蜜: 何がダメなんですか?
宮台: 僕が言うことは言葉では分かるけど、感覚では分からないって言うんです。たとえば「相手になりきれ」って言うでしょ? 相手がどういうふうに、世界を、自分を、体験してくれているのかを、徹底的に「なりきって」モニターしないと、マトモなセックスだって出来ないぞ、と。すると、「なりきる」っていうのが、やったことがないので分かりませんって言うわけよ。
20歳代の男の大半がそうなんですね。女の体験が参照点になっていないわけ。としたら、何が参照点なのかっていうと、たとえばAV=アダルト動画ですね。アダルト動画のアレができたとか、コレができたとか……。つまり、アダルト動画と同じように女を扱えたかということ、つまり「コントロールをコンプリートすること」が、目標になっちゃってるんですよ。最悪でしょ?
壇蜜: 携帯ゲームしすぎですかね……?
宮台: あー、それは絶対ありますね。時間があっても、今どきの子供は外遊びしないでしょ? 学校か、塾か、ゲームか、です。これでは無理でしょう(笑)。っていうのは、みんなで虫取りとかトカゲ取りとか、共同で身体行動することで、初めて「言外のシンクロ能力」が身につくからですよ。ってわけで、クズ男が増殖している理由は、生活環境にあるから、親を何とかしなきゃってこと。今やってるのは『親業ワークショップ』です。
壇蜜: 親のためのワークショップ。
宮台: はい。親が、自分よりも優れた感情的能力を持った子を育てなければ、感情的能力の縮小再生産で、セックスすら出来なくなちゃって、少子化対策をしようが何をしようが、社会は終わるんですね。[幼稚園の男親の会でも、よく50歳代になっても子供がぽんぽん出来ますねって訊かれたけど、避妊しなければ妊娠しますけどって答えると、いやぁセックスしたいっていう気持ちがスゴイですねぇ、みたいな感じです]
大竹: あのー、アレですよね。おっぱい触るんでも、女によってちゃんと強さが違うってことがわかんないとね。
宮台: そうなんです。硬さによって強さを変えないとね。でも、そのためには女の目をみないと。なのに、今どきの男は、目を見てセックスしないんですょ。風俗の子たちに聞くと、客が目を見てくれないから心が寂しくなるって言うのね。本当にそうなっているんだと思うよ。でも、目を見なければ、女の子がどういう状態なのかって分からないでしょ? 女から男を見る場合もそうね。結局、目を見ないで、自分の世界に入って、自分がやりたいことをやるっていうのが、いまのクズ男と、それに適応したクズ女なの。これがメジャー(多数)なんだけど、というか大半なんですね。
たとえば、僕が小さい頃ね、いや、中学生だったけれど(笑)、男の挿入時間についての国際統計が週刊誌に出ていたんだけれど、当時23分だったんですね。今はそういう統計がないんだけれど、風俗とかAVで働いている子たちに聞くと、「15分プラスアルファくらいじゃない? 20分はちょっと無理じゃないの?」って言います。
壇蜜: へえ~、短くなってる。
宮台: そうですね。
大竹: まあそういう統計、あんまり出されたくないんだけども(笑)。
壇蜜: しょんぼりしちゃうから(笑)。
宮台: 週刊誌を読んだ僕は、すぐに家にあった「家庭医学大辞典」を調べたんだけど(笑)、男の高まりのカーブに比べると、女のカーブはゆっくりなので、女に合わせなければ、ピークでシンクロすることができないって書いてありました。当たり前ですね。[それで高校時代の僕は、金冷法や、スリコギ法(スリコギで陰茎を叩きまくる)の修行をして、射精のタイミングを完全にコントロールできるようにしたんです。それはともかく]今は、男が女をモニターしません。目を見ないんだもん。ってことは、女に合わせてペースをコントロールしようという意欲さえないわけよ。だから、女の喘ぎ声だけを頼りに、自分だけイッて終わり。女は当然ながら不全感にかられちゃう。
大竹: そうだねえ。そこがダメなんだよね。やっぱしアレだよ、サドはマゾの言うことを聞くしかないってことだね。
壇蜜: そうですね、サービスと満足ですね。
宮台: その通りです。さて、サド・マゾについて言うと、本当はマゾが全てをコントロールしているんですね。そのことは『マゾ・バイブル』っていう対談本で喋っています。
大竹: マゾに握られている中にしかサドは存在できないのに、サドが個として存在するっていう、大きな考え違いを。
壇蜜: はい。
宮台: そうです。
大竹: みんな納得してる?
宮台: さすが大竹さんですね~! この話は非常に高度なので、リスナーが聞いてすぐにわかるとは思わないよ(笑)。でも、サドがマゾの掌の上にあるのを理解できないと、男のセックスが女のセックスの掌の上にあることを理解できないんですよね。
大竹: 壇蜜はすぐにわかりすぎるんだけど(笑)。
壇蜜: サービスして満足してもらうんです!
大竹: な、そうしないとな。マゾの誘導にのっているだけだもんな、サドはな。
宮台: だから、喘ぎ声もサービスであることが多いんです。それが分からない男が増えちゃったのが問題ですよ。さて、ここからが本題です。
劣等感にかられた人間って、全てをコントロールしたがるんですよね。でも、恋愛・性愛、あるいは本当に親しい友人関係も、本当は、コントロールじゃなくてフュージョンでしょう? フェチじゃなくてダイヴだ、とも言えます。相手と溶け合うことがポイントがあるわけ。だから絶えず相手の感覚に「なりきる」ことが大事なんです。「観察して判断する」んじゃない。実際に「なりきる」。相手が感じていたら、それがダイレクトに自分の快感になるような感覚の回路を、作っておく必要があります。そのためには、特に男の子について言うと、絶対に「外遊び」が必要なんです。僕は「共同身体性」って言うけれど、群れとしてつながって外遊びすることで、相手の喜びが自分の喜び、相手の苦痛が自分の苦しみ、っていう感情の回路ができるんですね。
大竹: 絶対ですよね!
宮台: 絶対です。
大竹: 社会の構造がどうなっているかはちょっと別にして、置いといて。
壇蜜: 危ないとかそういうのは一旦、置いといて。
大竹: そりゃね、あるけど。たくさん危なさはあるけれども。
宮台: 親が虫嫌いとかさ、蛇嫌いとか、トカゲ嫌いとかばっかりじゃん。だったら俺に預けろよ、と。虫になりきれば、怖くないんですよ。人間ってのは、遺伝子的には、虫にも爬虫類にもなりきれる可能性があるって話を、前にしたでしょ? なので、「その感じ」を親が与えられないんだったら、他所のおじさん=ウンコのおじさんに預けろと。それしかないんですね。
大竹: そうするとやっぱりさっきの話のところに結びつく。その他所のおじさんは、仲間じゃなくちゃいけない。でも他所のおじさんを仲間にするのには、親の自意識の高さから、相手との差別化をはかってしまうっていう。
壇蜜: プライドが邪魔して、片付けられない。
▶日本はあっという間に三等国になる
大竹: だから、さっき言った組合ができない分断に社会がなっていっちゃうと。前回お話したときに、日本はオリンピックが終わってダメになるっておっしゃいましたけど、ダメんなり方、どんなふうにダメになる……。
壇蜜: え、あと8ヶ月でダメになる。
宮台: [この放送はオリンピック延期決定の2ヶ月前。]まず、単純なことだけど、過剰投資を回収できなくなるので、どこの国でもオリンピック後は必ず不況になります。前の東京オリンピックの翌年1965年にも、ご多分に漏れず不況に陥ったんだけれど、当時は13~14%の成長率があったので、皆はすぐに忘れることができたんですね。日本は、この間も申し上げたように、先進国の中では最も生産性が低くて、1人当たりのGDPはアメリカの3分の2しかない。しかも最低賃金は、先進国の高いところは1600円だけれども、日本は地方にいけば軒並み800円。なんと半分なんですよ。
他にも、もろもろの経済データが日本の終わりを示しています。たとえば、特許の数もそう。5Gの特許は、中国が日本の7倍、アメリカが日本の4倍、韓国が日本の3倍です。だから、次世代技術のプラットフォームには、日本の企業は全く参加できていない。次世代どころか、いま海外の都市に行っても、日本企業の広告はほとんどなくて、だいたいサムソンか、ファーウェイか、LGでしょ?
壇蜜: 出遅れた。
宮台: 過去の技術でとっくに抜かれ、かつ、未来の技術でも出遅れたんです。だから、日本は、オリンピックのあとに必ず急降下しますが、そのあと、前の東京オリンピックみたいには回復できない状態に陥ります。
壇蜜: 一過性のものじゃないってことですか。
宮台: はい。なので、あっという間に三等国になります。お金がないからね。
大竹: そこがダメになってくるってことは、もう一つその次は、公共事業もダメになって、公共サービス、バス、トラック、都電……。
壇蜜: 都電!
大竹: まあ種類はわかんないけど(笑)。そういうのもダメになりますね。
宮台: ダメになりますね。
大竹: 生産性のあがらないところは、赤字になるわけだから。
宮台: 国債をばんばん発行しても財政破綻は起こらないっていう反緊縮のMMT理論が論争になってるけれど、財政破綻が起こらなくても国民1人1人がどんどん貧しくなっていくから、税金で成り立つ国家財政も細って、インフラに金かけられなくなります。税金の裏付けがなく、勝手に発行した紙幣によって成り立つ国家財政って、信用されないんで通貨安になって、外国から買う資源もエネルギーも食料も製品もバカ高くなります。
加えて、子供の義務教育費を見れば絶望的な状況です。1970年代前半の田中角栄の時代には、日本は先進国で一番高い部類だったんですが、今は先進国標準の半分かそれ以下でしょ?
大竹: 25番以下になっていましたね、確か。
宮台: よく御存じで。なので、義務教育費がこれだけ低くなれば……。
大竹: 教育にも金かけない!
宮台: 国民にも国にもお金がないので。
壇蜜: 教育にお金かけないって、えっ!?
宮台: だから人材が育ちません。
大竹: まあでも今までもかけてないんだよ。
壇蜜: あんまりかけてないのか。
大竹: かけてないから、親が一生懸命かけてたんだけど。
宮台: その通り。親が埋め合わせてるから、そのぶん貧乏になって、購買力が下がっちゃうわけ。日本が成長できないのは、生産性が低いからです。生産性が低いのは、産業構造改革ができないからです。産業構造改革ができないのは、既得権益の中でのポジション取りに勤しむクズばっかりいるからです。
ってことは、アメリカやヨーロッパのようなプラットフォーマーがこれからも出てきません。プラットフォーマーって新しいプラットフォームを作って市場を独占する人や会社のことです。GAFAとか、アメリカではFANGAって言うけれど、日本には一つもないでしょ? これも、一つは、金をかけない「教育の失敗」で、もう一つは、新規プラットフォームが会社の既存事業を危うくするので力を入れないってのに象徴される「既得権益へのへばりつき」です
壇蜜: どうするんですか? 脳が弱くなっちゃうじゃないですか。
宮台: 脳があっても、ポジション取りのためにだけ使うわけよ。でもプラットフォーマーって、みんな冒険家でしょ? 今までの競争のゲームの外側で、新しいものを作って独占しようとするわけ。日本ではそういう人が出てこないでしょ? 性愛がリスキーだからって避けるようなクズ男やクズ女が、既得権益の構造の外で冒険すると思いますか? あり得ないよねー。だから「終了」なんですよ。
壇蜜: よし、逃げよう! 3人で逃げよう!
宮台: ははは(笑)。
大竹: ていうか、まあセックスの話に、全部置き換えられる。社会全体がそれと同じことになっているっておっしゃっている。
宮台: そうです、全て同じです。ナンパの現場も同じです。昔ナンパは目が合うところから始まりました。今は全力で視線を避けます。だから結果的に、斜め後ろから声かけちゃうわけです。だから女にとっては「なんだコイツ」ってなるでしょう?
壇蜜: 不審者(笑)。
宮台: ですよね。僕は「性愛講座」と銘打ったワークショップをやっていたこともあるけれど、男があまりにもクズ化していて、もう治せないなっていうふうに思ったので、やめたんですよね。
大竹: もしするならね、何度もナンパ失敗して、1回成功したら成功なんだよね。それを、何度も失敗していちいち傷ついているからダメなんだよな。もうちょっと、傷つき方が違うんだよな。
壇蜜: あと幼少期にお時間のある方は私が蛇にネズミをあげるところをしっかりお見せしますので、ぜひお立ち寄りください。
宮台: 蛇になりきれば、蛇にとってのネズミが、僕らにとってのハンバーグだってことが分かります(笑)。[ヴィヴェイロス・デ・カストロという人類学者の言葉をもじったものです]。
大竹: なるほど~! ただ自分がネズミになっちゃったときのこと考えちゃうよね~(笑)。
壇蜜: (笑)。そろそろお時間がきてしまいました。今日はありがとうございました。首都大学東京[現・東京都立大学]の教授、社会学者の宮台真司さんでした。
大竹: また近いうちに。
宮台: はい、ありがとうございました。
【月イチ宮台】黒川弘務問題と新型コロナ問題にみる日本の劣化
JAM The World | J-WAVE|2020.05.12(火)放送
青木理さん:ジャーナリスト
宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:立石絢佳さん Twitter:@ayaka_tateeshi)
※若干の語句の変更と補いがあります
▶️『#検察庁法改正案に抗議します』は安倍のヘタレっぷりが招いた結果
(前半)
青木理(以下、青木): 今夜は火曜日の月一恒例企画になりました「月イチ宮台」。社会学者で東京都立大学教授の宮台真司先生にリモートでエキサイティングなお話を伺おうと思います。宮台さんこんばんは。
宮台真司(以下、宮台): はい、こんばんは。よろしくお願いします。
青木: 今月もよろしくお願いします。1ヶ月早いもので、もうあっという間なんですけども、宮台さん、『音楽が聴けなくなる日』という本を集英社新書から出されるということなんですけども、これはいつ発売なんですか?
宮台: 5月15日の発売ですね。Amazonの予約などでもう購入できます。15日あたりには届くと思います。永田夏来さんという社会学者の方と、かがりはるきさんという音楽研究者の方が、共著者ですね。
青木: ご共著で。まだ手元にはないんですが、本の帯を拝見すると電気グルーヴのピエール瀧さんが麻薬取締法違反で逮捕されて、いろんな自粛現象というかですね、在庫回収とか配信停止ということが起きたと。こういう自粛の状況というものを、『音楽が聴けなくなる日』というタイトルの中でいろいろ論考されているということなんですけれど、宮台さんの思いとかお考えとか伺ってもいいですか。
宮台: いまコロナ禍で、社会が混乱しています。より正確に言えば、それぞれの社会の性能、たとえば統治機構の性能や、統治者の性能や、人々の性能つまり民度が試されています。共通一次試験やセンター試験みたいなもので、ほぼ同じ条件の下でいろんな社会が試されていますが、日本が際立ってダメさを露呈している状況です。なので、この本を読んでいただけると、日本のどういうところが徹底的にダメなのかがよく分かるようになっています。コロナを想定して書いてはいませんけれども、実は、どこをとっても、今の日本、つまり人々や政治家のダメさが、金太郎飴のように同じなんですね。[だからコロナ禍における日本のダメさの分析と同じ意味を持つ本になっています。]
青木: そういう意味でいうと、まさに月イチで今日も伺いたいことがあるんですけれども。その前に僕自身も興味ありますし、リスナーの方からも宮台先生に質問が来ています。
ラジオネーム: ネクストさん
「ツイッターで『#検察庁法改正案に抗議します』というツイートが500万件超えて拡散されたことが話題になっています。これは一過性のものとお考えですか。それとも政治を変えるきっかけとなりうる持続的な影響力があると思いますか」
この質問に対する回答と、検察庁法改正案の動きについて、宮台さんはどんなふうにお捉えになっているかお話を伺いたんですが。
宮台: ふっふっふ(笑)。これはもちろん、自分が違法な振る舞いをして、そのことを自覚している安倍が、検察庁長官を変えないと自分のお手々が後ろに回って牢屋にぶち込まれることを、恐れているわけです。まぁ「黒川弘務に変えておけば……」と。もともと過去10年以上に渡っていろいろな事件をもみ消してきた、もみ消しの帝王として知られる人だからね[村木厚子厚労次官冤罪後の検察改革検討会議人選介入、小渕優子問題の揉み消し、甘利明問題の揉み消しなど]。
青木: うん(笑)。
宮台: 簡単にいうと「自分の出世のために政権のケツを舐めてもみ消してきたクズ」という昨今定番の図式なんですよね。だから僕は2月下旬に短歌でこう歌いました。[すると瞬く間に、大勢が本歌取りしてくれました。]
国辱の
頂(いただき)究めた
安倍晋三
黒川やめれば
すぐ牢屋行き
悪いことをしたって自覚があるんだから、正々堂々と牢屋に入れ、コラ! お手々が後ろに回るのがそんなに怖いか、安倍晋三!ってことで、意見の開陳はおしまいです。
青木: なるほど。このツイッターというところのムーブメント、500万件を超えたってことを、政権与党なんかは「こんなものは膨らますことができるんだ」と言って軽んじようとしているようなんですけども。
宮台: ですが、計算社会科学者tori氏が、そういうことはないことを数理的に実証しています(笑)。[https://note.com/torix/n/n5074423f17cd]
それはですね、ツイッター社から公表されているツイート数の時間的変化[特にスケールフリー性]から数理的に分析すると、Botによるものではないこと、全ツイートに含まれる新規アカウント割合が0.3%だったから、特定の人間たちがアカウントを作ってばら撒いたものでもないことが、実証されるということです。与党議員やウヨ豚を含む「安倍ケツ舐め勢力」による言いがかりは科学的に反証されてるんですね。
青木: だとすれば、この500万という数字はかなり注目すべきものなのか、注目すべきものだとするならば、これだけ広がった理由というか背景というのはどんなふうに分析されますか。
宮台: 安倍の、ヘタレぶりと、卑怯さですね。悪事を働いた自覚があるのに、国民全体にとって意味を持つ法を曲げて、牢屋に入らないでおこうというのは、まさに政治家にあるまじき振る舞いですよね。
政治家の倫理は「一般よりも高潔であるべきだ」というのがマックス・ウェーバー[ドイツの政治学者・社会学者・経済学者]が言ったことですよね。彼が言うには、法を守っていたら国民を守れない場合、いざとなれば血祭りに挙げられることを覚悟して法を破るのが、あるべき政治家なんですね。
安倍はどうか。何としても法の内側にいるんだというウソをでっちあげ、違法な振る舞いをしたことが明らかなのに何とか逃れようとする。あるべき政治家どころか、一般市民に比べても明らかに劣るんです。[教養や知識だけでなく]人格的にも倫理的にも「国民を思う心がない」という意味でもダメ中のダメですね。それが明らかになったので、多くの人が憤激しているわけです。
もちろん似たことは過去もあった。それは敗戦のあとの反省において明らかになったことです。海軍軍令部、陸軍参謀本部、本当に酷かった。レイテ戦とかインパール作戦とかね9割以上が病気と餓死で死んでいる。[戦闘で死んだんじゃなく、参謀本部の出鱈目な作戦で死んだのに]中央で指揮をしていた連中は、東京裁判で[内心忸怩たる思いはあったが、空気に抗えなかったというショボイ言い訳をして]徹底的に言い逃れをしようとした。アメリカがたまたま東京裁判を主導してくれたせいで一部は絞首刑になったけれど、日本人にはその力がなかったわけだよね。それもあって、直後の日本人は、たとえば一部の人[憲法学者の奥平康弘先生]が言うところの憲法感情において、そういうやつは許せないし、そういうやつが二度と指導者層に来ないように、ちゃんと国を作り変えたいという気持ちになったこともありました。
でも忘れちゃったでしょ、1960年代に入るまでには忘れているんです。それは小熊英二さんという人[社会学者]が『民主と愛国』という本でデータから明らかにした通りです。いろんなデータからも分かりますが、その意味で[憲法感情は]一過性でした。続かなかったんです。
▶️安倍晋三は日本のダメさをあぶり出す中興の祖として機能する
宮台: しかし、青木さんも先程おっしゃったことが重要で、ここまで安倍が人間としてダメであることが明らかになったことで、これは政局になる可能性があります。自分の保身のためにだけ法律を曲げるような政治家が総裁であるような党、というだけでも、ブランドにめちゃめちゃ傷が付きます。で、もう傷が付きまくってますよね。
もちろん安倍だけじゃない。何かというと[安倍昭恵は私人であるなどと数々の滑稽な]閣議決定してきた閣僚も、安倍の周りにいる「君側の奸」(笑)ともいうべき官邸官僚も、国民のためじゃなくて自分の保身のために安倍のケツを舐めてきたという意味で、安倍一人のせいではない。
けれども、ここで何とかしなければ、自民党がどうなるこうなるということだけじゃなくて、基本的に、日本人の社会のプラットフォームがぐじゃぐじゃになってしまうんです。たとえば遵法動機。「首相が平気で悪いことをしときながら、法を曲げて逃れようとしてるんだから、俺たち法を守らなくていいんじゃない?」「俺に自白しろっていうなら、安倍をつかまえて自白させてから出直せよ」って人間が出てくるのは自然です。
悪い政治家たちを捕まえようと思っていた検察官たちの意欲も多いに挫かれます。黒川弘務が長官になれば、正義を貫徹しようという検事たちの努力が、最終段階で握りつぶされる可能性があるからです。病気が体中を蝕むように日本中に広がって、日本全体をダメにするだろうという予感が多くの人にあるわけ。だからツイッターデモが盛り上がっている。
これは、プラットフォーム上でのゲームが間違っているっていう一般犯罪の問題じゃなくて、ゲームがクズすぎてプラットフォーム自体が崩れてしまうという国体の破壊という問題です。「ゲームの妥当性の問題じゃなく、プラットフォームを守れるのかどうかって問題なんだ」というふうに多くの人が気がついたということですよね。同じ理由で政局にもなるわけです。
青木: 気がついたというのは、ある意味でコロナという、我々の目の前に生命を脅かしかねないようなものが現れたときに、政治が無能というか、政治が機能してないと、こんなに被害を受けるんだってことが実感としてわかったということが、これまでは政治的な発言を控えていた著名人の人たちが声をあげたってことにもつながったと、こういうふうに見るわけですか。
宮台: そう見るべきですね。ただし、何度も[この番組に]出てくる度に僕が申し上げているように、「安倍のせいだ」というふうに考えるのはまずいし、「官邸官僚のせいだ」と考えることもまずいんですね。
菅義偉官房長官のやり方だけれども、劣等感をテコに人を操ってきたんですね。干したあとで政権に参画させると「クソをついたケツでも舐める」っていう政治家がいっぱい居たでしょう? 同じように、入省順位も下で劣等感にさいなまれている省庁キャリア官僚を、官邸官僚として呼んで取り立てると、やっぱり「クソをついたケツでも舐める」。つまり劣等感による操縦ですね。
その意味で、このゲームに関わっている人間って、めちゃめちゃたくさんいるわけです。自分よりも無能で、道徳的にも劣るヤツが、自分の頭越しにいい場所について権力を得ると、それまで倫理的だった政治家もキャリア官僚もどんどん崩れていくってことが、病巣が全身に転移するように起こっているんです。ポジション取りのカメレオンに過ぎない、という三島由紀夫が言う日本人の空っぽさが、ものすごく目に見えるようになってきたんだということです。
だからこそ、僕は安倍が二期目をやることにも賛成だったし、安倍政権が長く続いてほしいとずっと言い続けてきた。それは、日本のダメさを加速的にあぶり出して再建のきっかけを与える「中興の祖」として、機能するからなんですよ。中国の習近平も、同じ意味で中国では「加速師」って呼ばれているんです。安倍晋三も「加速師」です。日本人や日本組織の、いろんなところに張り付いているダメさを、あぶり出してくれたって意味で、非常に重要。
あぶり出されたのは安倍のダメさというより、日本の人と組織のダメさだってことを勘違いしちゃいけない。日本文化のもつ弱点だと言えます。[進化生物学的に言えば]かつての状況下は、それで人と組織と国が生き残れた文化的作法が、これからの状況では人も組織も国も加速的に墜落させるわけですね。
青木: それに関連して、リスナーの方からメールが来ています。
「宮台さんは加速主義を標榜されていて、わたくしもこの国は行くところまで行かねば、もはや外に出ることができないと感じています。しかし一方で、段々と長期的な専制政治体制に近づいていくことには強い恐怖も禁じえません。宮台さんはどの程度まで国が壊れることを許容されていますか」
宮台: とてもいい質問ですね。国が1回地位を落とした後──日本は既に経済も政治も社会も崩れているんだけど[https://togetter.com/li/1434201]──これじゃダメだってリバウンドしたとしましょう。でも、リバウンドの方向がどっちに行くのかを、いまから予想することはできないんですよ。もちろん安倍のあとのリバウンドであれば、少なくとも「安倍方向」ではないということだけは言えます。
従って、そこでいろんなバトルが繰り広げられるってことが肝心で、そこで僕たち日本人が真に試されるということだと思います。それでダメなら、また次のチャンスを狙うしかないわけだけれど、[チャンスの利用が遅れるほど国は三流・四流に落ちますから]今回、安倍の御蔭で加速的にあぶり出された日本のダメさを、奇貨として利用するしかないんです。
実は今回は新型コロナのディザスター(禍い)がきっかけで加速された面が大きいけれど、安倍と官邸官僚なんかにしてみれば[憲法13条で統治権力の義務として規定されている]国民の生命と安全を守る気概がないことがバレバレになったという点で、神風の反対ですね。国民にとっては神風ですが(笑)。
しかし日本国民にとっては、新型コロナ対策をめぐって、いまだに配り切れていないアベノマスクとか、いまだに配られていない10万円とか休業補償や融資とか、最近までクラスター対策にへばりついたままだった厚生労働省やクラスター対策班や、いまだにダントツで先進国最低のPCR検査率とかを含めて、安倍や周囲のケツ舐め集団のダメさを、加速的にあぶり出してくれたってことで、やっぱりコロナのおかげで神風が吹いたんですね。
▶️マスメディアの劣化は安倍政権の劣化と同じ
青木: いまクラスター対策班という話も出ましたけど、多くの人が感じているんじゃないかと思うんですが、政治、官僚とかいうものの歪みというのもそうなんですけれど、いわゆる科学者。原発事故のときもそうだったんだけれど、政権の周辺にいる科学者への不信感というか。今回、宮台さんご自身でまとめられたツイート備忘録の中でもクラスター対策班のダメさっていうのをご指摘されてるじゃないですか。ある種エリートの科学者であるはずで、その道の専門家であるはずなのに、なぜダメなのか、どこがダメなのか、もう少し宮台さんの解説というか、お話を伺えますか。
宮台: 学問より保身が優先すること。二つあります。一つは権威がほしくて政権のケツを舐めることで、もう一つは国民のケツを舐める点ですね。日本人の多くは諸外国には見られない変な振る舞い方をします。それは安心厨=ゼロリスクマニアってことだけど、学者たちが安心厨のケツを舐めるんです。[これは、安心厨のケツを舐める政権・のケツを舐める有識者という形で結びついている]。
安心厨には二つの要素がある。一つは善政で知られる江戸時代以来の、伝統的作法なんだけど、「お上に任せときゃ大丈夫!」っていう思考停止の依存厨に由来する「お上を批判するとは、不安を煽るのか!」っていう噴き上がりってやつですね。
あと、もう一つは、周りをキョロ目で生きている同調厨。これは『音楽が聴けなくなる日』にも書いてある「キョロ目企業ソニー」を批判したのと同じロジックだけど、絶えず周りを見回してキョロキョロしている人間って、同調しない人間を見つけ出すと、自分が否定されたと感じて嫌な気持ちがしたり、キョロ目しないで自由に生きる人間に対して嫉妬したりするんです。これは不倫炎上なんかにも見られる典型的な日本人だけの劣等感ですね。
その二つの要素ですよね。面白いことに、絶えずキョロ目で周りに同調したがる同調厨と、絶えず「安倍は大丈夫なんだ!」と思考停止で依存したがる依存厨が、だいたい重なっている。そういう自分で思考する力のない同調厨と依存厨が、安心厨になるわけです。「安心です! 安心です! クラスター対策をやっているから安心です!」……んなわけないじゃん。
クラスター対策の賞味期限は、クラスター対策で捕捉できないところで感染者が出てくるまで。でも、ある段階から補足できない感染者が出まくった。出まくったのにも関わらず、政府からもクラスター対策班からもプランAの次のプランBが出てこなかったんです。考えてなかったならば、ただの頓馬です。
[そこまで頓馬ではないだろうということで]中にはうがった見方も出てきて、「もともとPCR検査をするだけのキャパシティがなかったし、それを一挙に広げるだけの政治的な実力も安倍にはない以上、できることはクラスター対策だけだったから、仕方なくそれを言っていたんだ」と。だとすれば、それも非科学的な発想です。[それは単なる「依らしむべし・知らしむべからず」で少しも科学的ではない。]
専門家の劣化ぶりは、まずマスコミの劣化ぶりと結びついています。毎日、「感染者数が何名でした」とか言ってるでしょ。これ、パーフェクトにナンセンス。だってちょっとしか検査してないから(笑)。グラフを見ればわかるんだけど、検査数と感染者数って相関してるんですよ。だから検査が多い日は感染者がいっぱいでてくる。検査が少なくなると、感染者が少なくなる。バカげてると思いませんか。そうではなくて、捕捉できない人がいっぱい広がっているんだから、ろくに検査もしていない中で感染者数の数なんて、いくら言ってもダメで、「どれだけをどんな方法で検査したから分母はこういう数で、そこから見つかったこれだけの感染者数が分子です」ってことを言わなきゃ科学的じゃないんです。
さらに他方で、全数PCRすればいんだという「全数検査厨」っていうのもいるわけよ。これも思考停止。日本に全数検査をする力はないってとっくに分かっているわけ。というのは、2009年の新型インフルエンザのときに、感染症の専門のCDCのような独立機関を作らなかったという民主党政権の失敗があるからで、これからも当分できないんですよ。でも、できないことはできないとしても、できることがあるんですよ。それは疫学調査。
いろんなところで言ってきたけど、ある程度の数のPCR検査できれば本当は全国的ランダムサンプリングがいいけれど、それだけの数のPCR検査さえできないとなれば、ゾーニングして割り当て調査をすればいい。「東京の都市部では・郊外では」「大阪の都市部では・郊外では」「それぞれの地方都市では・郊外では」というふうにゾーンを設定した上で、規模に比例する数を割り当てて無作為で調べて、感染率と[簡便な抗体検査キットが既に開発されているので]最近は大事だけれど抗体保持率をはじき出す必要がある。
これも何度も言ってきたけれど、抗体を持っているからといって免疫があるとは限らないんですね。中立的な抗体や病気を重篤化させる抗体もあるので、簡単に言えない。けれど、既に感染した人がどれだけ居たかという既往歴の証明になるあるので、抗体保持者をカウントするのは大事なんですね。それで初めてゾーンごとの感染率・抗体保持率と、全国的な感染率・抗体保持率が出てくるんです。
現実的な選択肢のなかで、科学的に意味がある方法はこれだけです。何度も言いますが、マスコミが毎日天気予報のように「今日の感染者数は~」ってバカ丸出しでしょ。いい加減にやめてほしい。全く意味がないんでね。分母がわからない状態や、分母の意味が規定されていない状態で、なんで感染者数だけ言うんだよ。なんの意味もない数に天気予報みたいに流すマスコミもさることながら、一喜一憂する国民も劣化しています。
青木: そういう意味でいうと期せずしてそれしか報じるものがないってこともあるんだろうけれど、発表されると右から左に垂れ流し、その数字で一喜一憂して「勝った勝った」「負けた負けた」みたいな状況になっちゃってるってことですね。
宮台: それがマスメディアの劣化です。感染者数だけ報じて、その意味を言わないっていうところは大問題。それを言わないことで、あたかも感染者数が減って、いい方向に向かっているかのような錯覚を起こさせるという点で[加えて、その錯覚を利用して外出自粛要請の解除を進めたがる政治の片棒をかつぐという点で]メディアの罪は非常に重いし、罪は重い以前に、錯覚を意図していないのだとすれば、単に劣化してます。この劣化は、安倍の劣化や政権の劣化と金太郎飴です。
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ミュージック
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(後半)
▶日本人が『安心厨』であるのをいいことにプランBをさぼったクラスター対策班
青木: 前半の議論の中でクラスター対策班の続きをもう少し聞きたいんですけれども。先程、当初は新型コロナ対策とかMARSとかの対策をちゃんとしなかったので、日本にはPCR検査の準備ができていなかったから、限界があるから、クラスター対策というものに注力せざるを得なかったとして、プランBを作っておくべきじゃなかったか、という話をされましたよね。
宮台: 当然ですね。
青木: このプランB、現実的には検査体制を増やすというのは政治の役割なわけじゃないですか。科学者としてクラスター対策班が出してダメだったのか、そもそも出さなかったのか、どっちにしてもダメなんですけれども。科学者として「こうすべきです」ってことを言わなかったとするんだったら、やっぱりこれは科学者の劣化なんですか?
宮台: 科学者の一部は日本ではかなり劣化しています。ナントカ審議会とかナントカ委員会とかナントカ会議に呼ばれるだけで「名誉だ」と考える学者って、実にたくさんいるんですよ。日本では審議会の委員を2回やると勲章をもらえるっていう慣例があるのも、背景にあるかもしれませんけどね。そうした連中は、政権や官僚のケツをよく舐めます。実際、そういう人間ばかりが多数派になるように、厚生労働省が、あるいは原発事故直後であれば経産省が、人選をしてきた、という厳然たる事実があります。[英国ではこのやり方による弊害が目立ったので、委員会の人選を、官僚でなく、独立行政委員会がやるようになった。]
そういうふうに人選された委員会の中で、座長・副座長の言っていることに異を唱えるって、他のメンバーである日本人には、どうも勇気がいることらしいんですね(笑)。なので、終わってから──終わってというのは「あとの祭り」になってから──クラスター対策班の一部学者が「37.5度うんぬんは国民の勘違いである」とか言い出したわけです(笑)[そして阿吽の呼吸で加藤厚労大臣がそれを追認する答弁をした]。
さっきも言ったけど、もともと日本には検査インフラが準備段階にすらない状態だったんで、クラスター対策しかとれなかったんですよ。選択肢がいろいろある中で、クラスター対策という戦略を、いろんなユーティリティ(効用)を考えて選んだのじゃない。「それしかできることがなかった」ってことです。ところが、後になってから、クラスター対策班の先生方の中から、まさにそういう言い訳をする人が出てきた。
だったらそれを最初からディスクローズ(情報公開)するべきでしょう。「日本には選択肢がなく、できることはそれしかないから、それをやらせてくれ」と言うべきでしょう。ところが、日本人の大半が「安心厨」だってことを前提にして、言わないで黙ってて、いざとなったら「本当はあのときは分かっていたんだ」って言い出すっていうのは、卑怯じゃありませんか。
「本当はあのとき分かっていたんだよ」っていうなら、それがうまく行かなくなる段階に備えて、別のやり方、つまりプランBの準備を、早急に整えるのが倫理でしょう。別のやり方にはいろいろあります。PCR検査を劇的に増やすのもある。アメリカでは初期は日本よりも検査数が少なかったけど、大学まで総動員して劇的に増やしました。日本は増えていない。増やせないのであれば疫学調査のための体制を整えるってのもあるでしょう。それもこれもできないという状況で、クラスター対策だけ続けるなら、その間に中国のように全力で病床をめちゃめちゃ増やす努力をやるべきでした。でも、やらなかった。
さらに、これは非常に重要な問題だけど、「休業要請しかできなかったから効果がなかった、もっと強権が必要だ」とホザく政治家もいる。そうじゃない。[それこそ、村木さん冤罪事件でできた「検察のあり方検討会議」が黒川弘務の策動で、いつの間にか検察権力の強化にすり替わったように、火事場泥棒です]。実際リサーチしてみればいい。僕も近所をリサーチしましたが「すぐに8割手当してくれたら、いつでも休んでやるよ」って自営業者ばかりですよ。なので、休業すればすぐに8割の補償や融資をするっていうやり方をとれば、休業要請でも十分に効いたはずなんですよ。でも、やらなかった。
補償じゃなくても、もちろん無償の貸付でもいいんです。災害のときに無償の貸付がなされてきたし、その場合は財務状況によっては踏み倒しもオーケーなわけです。何でもいいから、とにかく、すぐにキャッシュが手元に渡るようにすれば、要請でも十分に人々は従うんです。ところがそれをすり替えて、「日本には憲法上の制約があるから、緊急事態措置が生ぬるいものにならざるを得なかった」とホザく連中が、続々と虫のように湧いて出てくるんですよ。
青木: 科学者の世界だけにとどまらないんでしょうけど。まさに官僚もそうだしジャーナリズム、メディア業界もそうなんですけれども。要するに現状をきちんと認識して、認識したものとして責任をもってそれをディスクローズして、「いまはこうしかできないけども、将来的にはこうすべきだから現在は、リスクを背負いながらもこうしますよ」っていうことが、きちんと言える官僚であり科学者でありジャーナリストでありっていうのが、少ないってことですよね。そこに尽きる感じがしますよね。
宮台: 尽きますね。だから、相対的にはね、大阪府の吉村知事が、ロックダウンの出口戦略として「何日間、感染者がこれ以下であればロックダウンを段階的に解除する」って数値目標をおっしゃった。それはいいことです。
でも、さっき言ったように単なる「感染者数」には、意味がないんです。何をどのようちどれだけ検査しているのか分からないなら、全く意味がないんですよ。そうではなくて、数値目標を出すなら意味がある指標を出さなければいけない。それは感染死者数かもしれない。ただこの場合もね、感染死者をパーフェクトにカウントしているかどうか。本当は感染死なのに、普通の肺炎で死んだり、野垂れ死にしたことにして、ちゃんと数えていない可能性がある。それはないんだって尤もらしく説得できないといけないんだけど、それもない。
とにかく、科学的に意味があるデータを元にした出口戦略を示せないと、ダメです。でも、それがないまま、感染者数をベースに自粛要請の解除が進む。全数検査なんかできっこないから、そんなものは全く望まないけれど。疫学的な統計リサーチがないのは致命的です。どのゾーンにどれだけ感染が進んでいるのかがわからない状況で、出口戦略もなにもないでしょう。ということで、実際にきちんとしたリサーチをしていないから、本来は出口戦略の立てようがないところに、だらだらと解除が進む。そうなれば、必ず第二波・第三波のぶり返しが来るだろうということですね。
▶宮台真司の考える、この先の社会
青木: これね、宮台先生は社会学者ですけれども、どう考えるべきですか。つまり、韓国なんかもそうだったけれど少し自粛をゆるめれば、感染がわっと広がると。これを抑え込めば、そりゃ多少は当然抑え込められると。実態はよくわからないんだけれど。これの繰り返しだと社会も経済ももたないですよね?
宮台: 従来のありかたではもたないですね。
青木: もたないですよね。だからこれに対して、その方式ではなく……まぁ世界中でその方式を試してはいるんだけれども。将来的には別の方式を探していかないと、とても持たないんじゃないかっていうふうに思いますよね。
宮台: そうですね。まさにそこから先がね、実は大問題なんです。まずね、最悪の場合、新型コロナウイルスには、しっかりとした免疫ができない可能性があるんです。世界中の免疫学者が、免疫の持続は半年から1年の可能性があると言っています。インフルエンザの免疫がそうでしょう。ワクチンによる免疫が半年しかもたないんですね。そういうものになる可能性があるんですね。
しかも、コロナってインフルエンザより少し遅い速度ではあるけど確実に変異するので、ワクチンを打っても「今期は効かなかったな」ってことも起こるでしょう。他にもいろんな理由があって、コロナを封じ込めることができない可能性が高い[から感染スピードを遅らせることで弱毒化を待つしかない──感染スピードが遅い中で強毒だと次の宿主を見つける前に宿主を殺してしまうから]、というふうに世界中の免疫専門家が言っています。すると、世界でいつもどこかの都市がロックダウンしているような状況が、このあとずーっと、十年単位で続く可能性だって、あるわけですね。
だから、それと両立する社会ってどういう社会なんだろうかっていうふうに考えなければいけない。具体的には、経済活動が止まってしまうからロックダウン[=外出禁止]というやり方を継続できない。だから生体モニタリングが必要になるんですね。そうすると、そこから先が問題になるんです。中国みたいな、統治権力によるバーティカルな[垂直的な]生体監視を行うのか。それともヨーロッパが推奨して、一所懸命にGAFA[国際標準の言い方ではFANGA]が推奨しているような、アーキテクチャが匿名の履歴データを動的にモニターして場所や交通経路にフラグを立てることで、後は市民が互いに賢明に振る舞うことを信頼し合うホリゾンタルな[水平的]シェアをするやり方をするのか。この対立が重要になります。ちなみにテックを使わずに、政府が情報をどんどん公開して市民の懸命な行動を信頼し、他方で市民は政府の情報を信頼して他の市民をも信頼する、というのがスウェーデンのやり方でしたね。
[テック面でいうと]垂直の監視か、水平のシェアか、という対立構図が鮮明です。で、それは統治権力の在り方と密接な関係があります。世界の有名な知識人、たとえばユヴァル・ノア・ハラリ[イスラエルの歴史学者]やマルクス・ガブリエル[ドイツの哲学者]が言うように、どうやら勝ち目は垂直の生体監視にあるようです。ってのは、旧西側の社会は、程度の差はあれ、民主主義の前提を壊しつつあるからです。市民が互いを信用しなくなってきていて、だからこそ、民主政による統治権力をも信頼しなくなってきているんですね。
日本が典型だけれど、安心厨を筆頭として、隙きあらばフリーライダー[タダ乗り野郎]になろうとか、隙きあらば自分だけ得をする方向に抜け駆けしようとする人間たちがたくさんいるような状況では、民主制は成り立ちません。同じ理由で、水平のデータシェアリングによって互いに賢明な振る舞いを信頼し合うことで社会を保つことが、ますますできなくなるでしょう。そうすると、統治を可能にするために、新型コロナのせいで、多くの国が次第に中国化していく可能性があります。そのことにどう抗えばいいのか。それをいろんな賢明な人間たちが問題にしているところです。
でも、青木さん、思いませんか? 日本人が問える問題じゃないんですよ。日本人はそのはるか手前。小学生に入る前、保育園に入る前の、よちよち歩きの状態。12才どころかですね[マッカーサーがかつて、日本人は12歳の子供だと述べた]、足腰立たないような幼児です。その状態では、世界スケールの非常に重大な問題に取り組めるような段階じゃないんですね。とはいえ、今後日本はどんどん落ちていくだろうことを考えると、今後、僕たちは「世界が」どうなっていくのかってことを考えなければ、政府とともに墜落します。
アメリカについていけば安心だって時代は、とうに終わっています。テックを含めて、これからのヘゲモニーは、アメリカから中国に確実に急速に移っていくでしょう。そうなると、日本はアメリカについていかないでおこうとしても、もともと自立できる政治力がない以上、どんな具合にどこと連携していくのかを考えなければいけません。そのとき、中国について行って大丈夫なのか? 習近平体制はとても一枚岩とは言えなくて、ものすごい軋轢を生みながらいまの状態を続けているわけだけど、日本人ってそういうことを全然知らないじゃないですか。そうした状態で「アメリカか、中国か」って言っているのは、10年、20年、早い感じがするんですよ。
そんな段階のはるか手前で、日本には安心厨やウヨ豚がウヨウヨしていて(笑)、「安心せずに安全を模索する営み」さえできない思考停止の連中たちが「政府の言うことに逆らうのかー!」「あれは盛ってるんだー」「あれはBotなんだー」などと、思いつきをぎゃあぎゃあ騒いで、そんなコア支持層のネット世論[具体的にはヤフーニュースのコメント欄]を首相官邸が始終キョロ目でうかがっているという、世にも恥ずかしい状況です。これが日本。ザッツ・ジャパンなんですね。
青木: とりあえずだからまあ、当面はこの、安心厨とウヨ豚と(笑)、宮台さんがおっしゃる連中を……まぁこれ症状なんだろうからしょうがないですけど、退治しなくちゃいけないだろうなと。本当はほかにもね、新住民と自粛警察とか実は宮台さんに伺いたかったことがたくさんあるんですけれども、これはまた次回にいろいろお話を伺わせてください。ありがとうございました。
宮台: ありがとうございました。
以上
文字起こし:文化放送サキドリ!|日本人と日本政府のダメさ & 誰が生き残るか?
番組開始後01:10:47〜01:18:11「オピニオン」コーナー
注意:文字起こしは旧知の編集者に御提供いただきました。
語句や言い回しを少し直しました。
[ ]内は文脈を補ったものです。
--『サキドリ』が誇るコメンテーターの皆さんに、気になる動きについて存分に語っていただく「今日のオピニオン」。今日はスペシャル・コメンテーターの宮台真司さんにうかがいます。(中略)宮台さん、今日取り上げる話題は?
宮台
はい。日本人と日本政府のダメさが新型コロナで炙り出されたということ、プラス、これから誰が生き残るのかという話をします。
日本人のダメさを象徴するのが「安心厨」です。「安心」という言葉は英語にはない。あるのは、“feel secure”“feel safe”“feel easy”という言い方。“security”「安全」とツイになるような言葉はない。
なぜかと言うと、「安心」と「安全」は対立するからです。特に不確実な状況下では、ヘタに「安心」をすれば、「安全」がないがしろになるからですね。[それが英語ではfeelという主観性を示す言葉で示されるわけです。]
ところが、日本では、基本「安心厨=ゼロ・リスク・マニア」が多くて、自分の心が安心したいためだけに、何かnoisyなもの、自分にとってイヤなものを攻撃する一方、政府にベターッと貼り付くんですね。[これは善政と移動禁止で知られる江戸期以降のものです。]
安全をないがしろにする安心厨だらけの日本人に、対応しているのが、日本政府のダメさです。先ほど申し上げたような、ヤフコメ[YAHOO!ニュースのコメント欄]を気にし、イコール、ウヨ豚的なコア支持層の支持率を気にして右顧左眄する、倫理のなさですね。
別の言い方をすると、国民のためになる施策は何かという「正しさ」ではなく、支持率に象徴される自分のポジションのため、つまり「損得」のためにだけ、ウロチョロする。つまり「クズ=損得マシーン」が政治をやっている。それが日本政府のダメさです。
日本人のダメさと、日本政府のダメさが、徹底的に明らかになったという意味で、このコロナ禍を福音にすべきです。[すでに犠牲が出ている以上、これを奇貨ととして利用しなければいけないのです。]
先ほどの復習をすると、不確実性下での決定には確実なエビデンスはありません。ところが、ウヨ豚を中心に日本にエビデンス厨が実に多いですね。僕は「エビ厨」って言いますが、「エビ厨」がいかに馬鹿であるかを、彼らの反応がよく表しています
日本は、コロナ感染者数が少ないけど──検査数が少ないので当たり前だけど本当に少ないとすれば──BCG[結核ワクチン]の影響があったかも知れないし、他の人畜無害なコロナ風邪による免疫が効いたのかも知れない。でも不確定。これは過去に関わる不確実性です。
現在も不確実です。無症候感染者が持つ感染力の強さがどんどん明らかになってきているけど、最近までは曖昧でした。症状が出てから検査してきたけれど、感染源の隔離という意味ではもう無意味になりました。[現在の不確実性に配慮したマクシミン戦略=最小利得の最大化戦略を採らなかったわけです。]
未来も不確定です。確実なのはリモート・ワーク化が進むことです。仕事だけじゃなく、「集まりから個人へ」という変化が進みます。娯楽もリモート、医療もリモート、教育もリモート。人々は、家庭や小さな近隣に、閉じ込められていきます。
一方で、集まりの中で行動の過程を見られないので、必ず成果主義になります。[学校の教室を考えれば分かります。]他方で、家庭や近隣から見放された人は、分断と孤立ゆえに不安になって、ますます感情が劣化した安心厨になり、頓馬な政権にベターッと貼りつきます。
さて、これからどんな人がマトモに生き残るのかをお話します。嘘つきの安倍が後にコロナのせいにするでしょうが、コロナ以前から日本はGDPが7.1%マイナスでした。他の先進国は全てプラス。コロナ禍以降では日本は25%GDPが落ちました。他の国は10%前後です。[他にも、最低賃金が欧米の3分の2だったり、一人当たりGDPが昨年イタリアと韓国に抜かれたりと、日本のダメさを示す指標に事欠きません。]
日本が政治的に終っている話はしましたが、経済的にも終っています。なぜ経済的に終っているかといえば、既得権益をいじれないから。アベノミクスでいえば金融緩和と財政出動に続く「第三の矢」の産業構造改革ができていないことに関係します。[第三の矢が、既得権益の負担を軽くするための規制改革だけというのだから、爆笑させられます。]
さて、これからどうなるか。[それが社会も終っているという話なのです。]これからは長くコロナと共生する社会に必ずなります。[ニューヨーク市やチェルシー市で抗体取得者が5人または4人に1人だという事実が象徴的で、撲滅はあり得ません。4人家族がいれば既に1人は無症候感染している(した)計算です。]
そこから先はバランス衡量しかありません。人ごとに、住む地域や家族や職業が違い、地域や家族ごとに生活形式や文化や風土も違います。そんな中で、単一の正解は絶対にないんです。そこから先は、専門的になるけど、ベイズ統計的な戦略が必ず必要になります。
どんな戦略かというと、各事象(ことがら)ごとに事前確率、つまり主観的な確率を割り当て、それら事象ごとにプラマイの期待利得を割り当て、それを合算して、ある決定がどんな帰結を招くのかを利得計算し、他の決定と絶えず比較する、という戦略です。
この計算結果は、個対ごとに想定すべき事象が違い、事象ごとの利得も違うので、個体ごとに異なってくるんですね。このベイズ的戦略にとっての最大の癌が「リスクがあるじゃないか」「政府に逆らって不安を煽るのか」とギャーギャー喚く安心厨です。
[ロックダウンを続ければ都市が死ぬので、ほどなく段階的に解除しますが、リスクがゼロになったからじゃない。]こういうギャーギャー喚く安心厨は、怖くて、家から一歩も出られなくなる。[というか「今後は一歩も家から出るなよ、安心厨(笑)」で終了。]
逆に、バランス衡量しながらベイズ的戦略が取れるのは誰か。分断・孤立を回避し、仲間に守られるがゆえに仲間を守る者です。そうした人だけが、ベイズ的戦略に必要な知識社会化、つまり思い込みの排除ができます。[ベイズ的戦略には、事前確率の割り当てと事象利得の割り当ての適切性が必要なので、1つの頭で考えるだけでは足りないんです。]
次に、安心厨に象徴される感情的劣化層は、若ければ若いほど大きいと考えます。なぜかというと、安倍支持率と感情的劣化率が関係しているというのが、僕の見立てだからです。[余裕がない事情はあれ、正しさより損得を優越させるのが感情的劣化の定義です。また余裕のなさですら「支えられ支える仲間の不在」という生き方によるものです。]
だから、下の世代になるほど感情的劣化層だらけで、感情的通常層が少なくなるということだから、日本は長期的には必ず沈みます。[知識社会化できず、安心厨的に政権にへばりつき、誤った選択や孤独による免疫低下などで、社会的コストを上げるからです。むろんこの社会的劣化が、経済的劣化や政治的劣化をもたらします。]
だからこそ、国家大でのマクロな流れに巻き込まれないで、仲間に支えられ、仲間を支えながら、決して安心せずに、仲間のためにこそベイズ的戦略を動的に変化させるような個人が、勇気と知恵を与え合うネットワークを形成していくことが、必要になります。
日本人にありがちな、横が10万円貰ってるから自分も貰おう、横が貰わないっていうから貰わないでおこう、みたいなのは馬鹿げた選択です。「我が党はもらいません」「なんとか団体の幹部はもらいません」みたいな宣言は、ありえません。[団体内で横並びになれというのは、旧大政翼賛会体制そのもの。貰いたくないなら黙って貰わなければいい。]
まとめます。これからコロナと共存する社会になるのは確実です。でもそれがどんな社会かは不確実です。だから「みんな同じ」は絶対にない。事情がみんな違う。自分たち仲間の事情を自分で考え、仲間の間で訂正し合い、自分で決断するしかありません。
そのためにも[家族を含めて]仲間が必要です。各自ごとに異なる賢明な選択をするには、[知恵も勇気づけも含めて]仲間の助けが必要なのです。その意味で、これからは生き方が問題になるわけです
--なるほど。
宮台
決断が妥当であるほど仲間を助けられます。そうした仲間集団が多い国は新型コロナと共存して生き残ります。そうした仲間集団が少ない国は確実に沈みます。日本が今のままではただ沈むだけで終わります。日本人のダメな生き方を反省するいい機会です。以上です。
--わかりました。宮台真司さんの「今日のオピニオン」でした。
特別寄稿 告知される「蝕の時代」の始まりと、遠き未来の「新生」
︱中澤系『uta0001.txt』二十年ぶりの復刻によせて │ 宮台真司(社会学者)
生体解剖されるだれもが手の中に小さなメスをもつ雑踏で
先日、池袋の書店に講演の仕事で出かける途中、夕方の池袋で、久しぶりに雑踏を歩いた。昔からのクセで行き交う女(や男)のオーラを読んでしまう。一九八〇年代半ばから十年余りテレクラナンパやデパ地下などを含めた街頭ナンパをしていた頃からのクセだ。
そうやって雑踏を歩くと、改めて人々の〈感情の劣化〉を感じ取ることができる。互いによけ合うことをせずに突進したがる者。連絡事項もないくせに気ぜわしげにスマホをいじる信号待ちの者。さしたる用事もないくせに歩行速度の遅さに苛立つ者……。
誰も彼もオーラが防衛的で固く、その周波数を感じるたびにヒリヒリしてしまう。いつからこんなふうになったのか。僕が不特定を相手にナンパをしていた八〇年代半ばから十年間は、こんな経験をすることはなかった。
ナンパをやめたのは、テレビ番組や雑誌に顔を晒すようになってからだ。街路を歩いていても高校生や大学生の女子たちから「あーっ」と指をさされるようになった。雑誌「噂の眞相」に何度も書かれてきてはいたとはいえ、重ねて墓穴を掘りたくなかった。というのは表向きの理由で、本当は僕の中で何かが途切れた。
ワークショップなどで数多くの男たちを観察してきた経験から言うと、街頭ナンパは長くても五年で飽きる。中澤系の表現で言えば「類的な存在」であることに倦むのである。
薔薇のごとき箇所を晒している少女/衝動をただ待てよ歌人
僕は、「入替可能な存在」である自分にも他人にも内発的に関心が抱けなくなった。このさき何を積み重ねても既知性の反復。ならば記憶の引出しから素材を取り出し自慰行為に耽る方がマシ。内発的関心を学門的関心へと置き換え、フィールドワーカーに転じた。
街頭ナンパはしなくなった。だが、すれ違ったり信号待ちで横に並んだりすると、「この人だったら、こんなふうに声かけしたら、こんな表情をして、こう答えるだろうか」と、数十秒を一秒に圧縮してシミュレーションしてしまう。その無意識のクセは抜けない。
そこまでしない場合も、行き交う人それぞれの顔に、目が合っても少しも動じずに意識を置く。すると、人々の意識が僕の中に、入っては抜け、入っては抜ける。しばらくすると僕自身の意識が遠ざかり、僕の身体は人々の意識が通過する器のようになる。
僕は、個々の女や男のオーラを読むというより、そうやって街のオーラを読んでいたのかもしれない。そんなゲームを三十年続けてきた。本を読むのと同じで、街を読むのは、たとえヒリヒリしても、興味が尽きない。だからクセをやめようとは思わない。
あきらめることだねきみのまわりには秩序が隙間なく繁茂した
長く続けていると、街のオーラが集合的に変遷していくのが分かる。僕がフィールドワーカーに転じて街の女子高生に声かけし、援交する子を見つけて話を聞いていた九〇年代前半。街には微熱感があって、女子高生だけでなく、誰もが熱に浮かされていた。
こうした微熱感は七〇年代後半のタケノコ族の頃から二十年弱続いた。街の微熱感がなければ、僕も、女の子たちも、熱に浮かされなかったろう。僕がナンパ師になることもなかった。僕の記憶では、女の子たちというより、街とまぐわっていたようだ。
その微熱感も、九六年を境に失われた。援交する白ギャルに代わり、援交しない黒ギャルやパラキャルがセンター街やマルキューを席巻するようになる。それでも残った最後の微熱感が二〇〇〇年代半ばからの東京ガールズコレクション(TGC)に感じられた。
初期のTGCを演出していた天才デザイナー渋谷範政氏と懇意だったのもあって、NHKの「東京カワイイWARS」という番組を企画立案した。企画は実って、その後もシリーズ化されたが、二〇一〇年代に入る前に「無垢なパラダイス感」が完全に消滅した。
言い換えれば、九七年から街を急に覆い始めた抑鬱感が、十年ほどの間に.間なく全域化した。同じく、過剰なものを「イタイ」と名指して縮まり合う作法が、若い人の間で全体化した。僅かに残ったアジールはネットでは探し出せないように<見えない化>した。
終わりなき日々を気取るも日常は「ロウ」と「スマックダウン」の間
中澤系が短歌表現を始めたのは、こうした「蝕の時代の始まり」においてである。彼の表現期間は、九七年二月から九八年一二月までの一年に満たない習作期間と、九九年一月から〇一年八月までの三年に満たない本格期間。「蝕の時代の始まり」と完全にカブる。
同じ期間、僕はナンパどころかフィールドワークからも退却していたが、親しい教え子や編集者や読者の自殺が重なり、九九年から鬱状態に陥って、やがて伏せった。床から出られるようになってからは、石垣島の今はなき底地浜の安宿に籠った。
曲がりなりにも動けるようになったのは〇一年夏からのこと。僕にとって九七年から〇一年までは個人的にも「蝕」だった。街から微熱感が消えた「蝕の時代の始まり」と、個人的な「蝕」が重なっていた。九七年から〇一年までの中澤系の活動期間に重なる。
だから、中澤系『uta0001.txt』(雁書館、二〇〇四年三月刊)の目次に目を通した途端、一瞬眩暈がした。恐るおそる時系列で──Ⅲ→Ⅰ→Ⅱの順で──読み始めると、記憶の怒濤が引き金を引かれ、しばし時間感覚を失う変性意識状態に陥った。
はなれゆく心地したりき快楽のためにかたちを変えたる時に
八六年に岡田有希子が投身自殺をし、死体の頭蓋が割れて流れ出た脳漿が歩道に飛び散る様が写真誌に掲載された。その後一年ほどの間、周囲が悩みの存在を想像したことすらない少女らが、お便り欄で前世の名を手掛かりに仲間を募り、屋上から続々飛び降りた。
僕はテレクラの中からこのニュースを観ていた。ラブホのピロートークで多くの女の子の口から自殺念慮を聞いた。僕は<性愛に乗り出せないがゆえの悩み>が<性愛に乗り出したがゆえの悩み>にシフトしたことを理解した、というよりも改めて再確認した。
歌手の岡田有希子は三十歳以上離れた男との恋に破れて自殺した──これを真に受けるのは単なる頓馬だと思った。彼女が性愛に乗り出し、どれだけ傷ついた上で、父親よりも年長の男に焦がれたのだろう。僕がナンパで出会った子らはそのことに鋭く感応していた。
七九年に.刊された雑誌「マイバースデー」で、容姿などリソースに恵まれない子らが、代替リソースとしてのオマジナイに思いを託した。それが、八五年秋のテレクラ誕生を境に、どんな子でも一本電話しさえすれば六〇分以内に誰かとセックスできる状況に変わった。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
同じ七九年刊の雑誌「ムー」のお便り欄は八六年の自殺事件を機に前世の名を手掛かりに自殺仲間を探す媒体になった。それに共振して自殺念慮を語る子らは、自死したいというより、生きることと死ぬことの間に違いを感じないというボンヤリした感じに覆われていた。
この時期、高校生の性体験率がとりわけ女子で急上昇、男子を抜き去る。だが彼女らは不全感を抱いた。ナンパでの性交に限らなかった。渋谷駅前で待ち合わせてファストフードをラブホに持ち込んで性交して終了──こんなはずじゃなかった。
だから、九二年頃からブルセラ&援助交際が拡がり始めた際、何の驚きもなく、あー、とうとうそういう話になっちゃったわけか……と感じた。彼女らは、僕と同じように少女漫画を沢山読み、性愛ロマン主義を育ててきたクチだった。だから僕は同感して応援した。
以降の僕は、性愛に乗り出したい、いろんな男の人を相手に経験したいという子に出会うと、やめておいたほうがいいと言うようになった。そう。快速電車が通過するということの意味が理解できない人は、快速電車の通り道から下がらなければならないだろう。
終わらない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で
今時の性愛に乗り出す、というのは隠喩に過ぎない 。それは、もっと大きな何かに棹さすことだ。もっと大きな何かとは何か? それは生活世界に対比されるシステムか? そんなものではない 。それで言うなら、生活世界もシステムも、別の何かに変わりつつあった。
『終わりなき日常を生きろ』を書いた九五年。僕は女子高生がタムロするデートクラブの待機場や予備校生が一人で来て踊るクラブに、息を継げない家・学校・地域とは違った都会を歩く人さえ知らないアジールを見出し、いわば余裕綽々で「第四空間」と名付けた。
生活世界(家・地域)でもシステム(学校・会社・都会)でもない時空。それを作り出して、まったりしよう。それを「まったり革命」と呼んで賞揚した。それが「終わりなき日常を生きろ」という命令形の意味だった。終わりなき日常は鉄条網の檻ではなかった。
だが、〇一年に中澤系が「終わらない日常」の言葉を使ったとき、九五年から一年間だけ語った僕の「終わらない日常」という言葉から、意味が変質していた。終わりなき日々を気取るも「ロウ」と「スマックダウン」の間、になるしかなくなっていた。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
中澤系が表現活動を開始した九七年から数年間、僕の周囲で何人かが自死した。僕は鬱状態に陥り、次第に動けなくなってやがて床に伏し、起き上がれるようになってからは離島に沈潜した。中澤はちょうどその間濃密な表現を遺した後、難病で伏した。
その頃、僕はぎりぎりのところで「蝕」から脱し、「蝕の時代の深化」に正面から向き合う方向へと、奇蹟的に逃れた。本の内容も、より積極的な価値を押し出したものになって、今に到る。なにせ最新刊の題名が『いま、幸福について語ろう』だったりする。
キリスト教におけるバプテスマ(洗礼)とは、ヨハネによるイエスの洗礼の逸話に伺えるように、元は水に沈めた上で引き上げるという危険なものだった。むろん死と新生の隠喩である。死ななければ新生はない。「蝕」を経験せずに「光」の経験はない。
「蝕の時代」が明ける気配はない。これからもずっと光がささないだろう。当初は「蝕の時代」の始まりの引き込みに遭い、敏感な者たちが「蝕」を迎えた。だがイエスの時代がそうだったように、「蝕の時代の深化」につれて一部の者は「蝕」から離脱しよう。
こんなにも人が好きだよ くらがりに針のようなる光は射して
〇一年八月に活動停止する直前のこの歌は、そうした「蝕」と「光」の関係を、中澤系が見通していたことを伝える。針のようなる光は、くらがり(蝕)でなければ見えない。だが、くらがりでこそ見えるその光は、まさに「針のようなる」鋭くて強いものだ。
この歌を見た瞬間、暗い水中に、遠い水面から射し込む一筋の光を、想念した。自らの生物学的な死への自覚に拮抗する新生への意志──パプテスマだと思った。蝕の暗闇を知る者は、この内なる光を、遠い次の時代に備えて、受け継がねばならない。
やがて人が変わり、世界が変わるだろう。なぜなら、人が変わってもモノは変わらないからだ 。中澤のモノへの偏愛──キャンディ・牛乳パック・コンタクトレンズ・プルトップなど──は、変わらぬモノを通過していく変わりいく人を、指さしているようにも感じる。
そうであるならば、僕は、冒頭に述べたように、変わりゆく人が通過するモノのような器になりながら、待ちたいと思う。中澤系が自らの生死を超えて待っているように、僕もまた、針のようなる光を頼りに、生死を超えて待つのである。
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