特別寄稿 中澤系『uta0001.txt』二十年ぶりの復刻によせて
特別寄稿 告知される「蝕の時代」の始まりと、遠き未来の「新生」
︱中澤系『uta0001.txt』二十年ぶりの復刻によせて │ 宮台真司(社会学者)
生体解剖されるだれもが手の中に小さなメスをもつ雑踏で
先日、池袋の書店に講演の仕事で出かける途中、夕方の池袋で、久しぶりに雑踏を歩いた。昔からのクセで行き交う女(や男)のオーラを読んでしまう。一九八〇年代半ばから十年余りテレクラナンパやデパ地下などを含めた街頭ナンパをしていた頃からのクセだ。
そうやって雑踏を歩くと、改めて人々の〈感情の劣化〉を感じ取ることができる。互いによけ合うことをせずに突進したがる者。連絡事項もないくせに気ぜわしげにスマホをいじる信号待ちの者。さしたる用事もないくせに歩行速度の遅さに苛立つ者……。
誰も彼もオーラが防衛的で固く、その周波数を感じるたびにヒリヒリしてしまう。いつからこんなふうになったのか。僕が不特定を相手にナンパをしていた八〇年代半ばから十年間は、こんな経験をすることはなかった。
ナンパをやめたのは、テレビ番組や雑誌に顔を晒すようになってからだ。街路を歩いていても高校生や大学生の女子たちから「あーっ」と指をさされるようになった。雑誌「噂の眞相」に何度も書かれてきてはいたとはいえ、重ねて墓穴を掘りたくなかった。というのは表向きの理由で、本当は僕の中で何かが途切れた。
ワークショップなどで数多くの男たちを観察してきた経験から言うと、街頭ナンパは長くても五年で飽きる。中澤系の表現で言えば「類的な存在」であることに倦むのである。
薔薇のごとき箇所を晒している少女/衝動をただ待てよ歌人
僕は、「入替可能な存在」である自分にも他人にも内発的に関心が抱けなくなった。このさき何を積み重ねても既知性の反復。ならば記憶の引出しから素材を取り出し自慰行為に耽る方がマシ。内発的関心を学門的関心へと置き換え、フィールドワーカーに転じた。
街頭ナンパはしなくなった。だが、すれ違ったり信号待ちで横に並んだりすると、「この人だったら、こんなふうに声かけしたら、こんな表情をして、こう答えるだろうか」と、数十秒を一秒に圧縮してシミュレーションしてしまう。その無意識のクセは抜けない。
そこまでしない場合も、行き交う人それぞれの顔に、目が合っても少しも動じずに意識を置く。すると、人々の意識が僕の中に、入っては抜け、入っては抜ける。しばらくすると僕自身の意識が遠ざかり、僕の身体は人々の意識が通過する器のようになる。
僕は、個々の女や男のオーラを読むというより、そうやって街のオーラを読んでいたのかもしれない。そんなゲームを三十年続けてきた。本を読むのと同じで、街を読むのは、たとえヒリヒリしても、興味が尽きない。だからクセをやめようとは思わない。
あきらめることだねきみのまわりには秩序が隙間なく繁茂した
長く続けていると、街のオーラが集合的に変遷していくのが分かる。僕がフィールドワーカーに転じて街の女子高生に声かけし、援交する子を見つけて話を聞いていた九〇年代前半。街には微熱感があって、女子高生だけでなく、誰もが熱に浮かされていた。
こうした微熱感は七〇年代後半のタケノコ族の頃から二十年弱続いた。街の微熱感がなければ、僕も、女の子たちも、熱に浮かされなかったろう。僕がナンパ師になることもなかった。僕の記憶では、女の子たちというより、街とまぐわっていたようだ。
その微熱感も、九六年を境に失われた。援交する白ギャルに代わり、援交しない黒ギャルやパラキャルがセンター街やマルキューを席巻するようになる。それでも残った最後の微熱感が二〇〇〇年代半ばからの東京ガールズコレクション(TGC)に感じられた。
初期のTGCを演出していた天才デザイナー渋谷範政氏と懇意だったのもあって、NHKの「東京カワイイWARS」という番組を企画立案した。企画は実って、その後もシリーズ化されたが、二〇一〇年代に入る前に「無垢なパラダイス感」が完全に消滅した。
言い換えれば、九七年から街を急に覆い始めた抑鬱感が、十年ほどの間に.間なく全域化した。同じく、過剰なものを「イタイ」と名指して縮まり合う作法が、若い人の間で全体化した。僅かに残ったアジールはネットでは探し出せないように<見えない化>した。
終わりなき日々を気取るも日常は「ロウ」と「スマックダウン」の間
中澤系が短歌表現を始めたのは、こうした「蝕の時代の始まり」においてである。彼の表現期間は、九七年二月から九八年一二月までの一年に満たない習作期間と、九九年一月から〇一年八月までの三年に満たない本格期間。「蝕の時代の始まり」と完全にカブる。
同じ期間、僕はナンパどころかフィールドワークからも退却していたが、親しい教え子や編集者や読者の自殺が重なり、九九年から鬱状態に陥って、やがて伏せった。床から出られるようになってからは、石垣島の今はなき底地浜の安宿に籠った。
曲がりなりにも動けるようになったのは〇一年夏からのこと。僕にとって九七年から〇一年までは個人的にも「蝕」だった。街から微熱感が消えた「蝕の時代の始まり」と、個人的な「蝕」が重なっていた。九七年から〇一年までの中澤系の活動期間に重なる。
だから、中澤系『uta0001.txt』(雁書館、二〇〇四年三月刊)の目次に目を通した途端、一瞬眩暈がした。恐るおそる時系列で──Ⅲ→Ⅰ→Ⅱの順で──読み始めると、記憶の怒濤が引き金を引かれ、しばし時間感覚を失う変性意識状態に陥った。
はなれゆく心地したりき快楽のためにかたちを変えたる時に
八六年に岡田有希子が投身自殺をし、死体の頭蓋が割れて流れ出た脳漿が歩道に飛び散る様が写真誌に掲載された。その後一年ほどの間、周囲が悩みの存在を想像したことすらない少女らが、お便り欄で前世の名を手掛かりに仲間を募り、屋上から続々飛び降りた。
僕はテレクラの中からこのニュースを観ていた。ラブホのピロートークで多くの女の子の口から自殺念慮を聞いた。僕は<性愛に乗り出せないがゆえの悩み>が<性愛に乗り出したがゆえの悩み>にシフトしたことを理解した、というよりも改めて再確認した。
歌手の岡田有希子は三十歳以上離れた男との恋に破れて自殺した──これを真に受けるのは単なる頓馬だと思った。彼女が性愛に乗り出し、どれだけ傷ついた上で、父親よりも年長の男に焦がれたのだろう。僕がナンパで出会った子らはそのことに鋭く感応していた。
七九年に.刊された雑誌「マイバースデー」で、容姿などリソースに恵まれない子らが、代替リソースとしてのオマジナイに思いを託した。それが、八五年秋のテレクラ誕生を境に、どんな子でも一本電話しさえすれば六〇分以内に誰かとセックスできる状況に変わった。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
同じ七九年刊の雑誌「ムー」のお便り欄は八六年の自殺事件を機に前世の名を手掛かりに自殺仲間を探す媒体になった。それに共振して自殺念慮を語る子らは、自死したいというより、生きることと死ぬことの間に違いを感じないというボンヤリした感じに覆われていた。
この時期、高校生の性体験率がとりわけ女子で急上昇、男子を抜き去る。だが彼女らは不全感を抱いた。ナンパでの性交に限らなかった。渋谷駅前で待ち合わせてファストフードをラブホに持ち込んで性交して終了──こんなはずじゃなかった。
だから、九二年頃からブルセラ&援助交際が拡がり始めた際、何の驚きもなく、あー、とうとうそういう話になっちゃったわけか……と感じた。彼女らは、僕と同じように少女漫画を沢山読み、性愛ロマン主義を育ててきたクチだった。だから僕は同感して応援した。
以降の僕は、性愛に乗り出したい、いろんな男の人を相手に経験したいという子に出会うと、やめておいたほうがいいと言うようになった。そう。快速電車が通過するということの意味が理解できない人は、快速電車の通り道から下がらなければならないだろう。
終わらない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で
今時の性愛に乗り出す、というのは隠喩に過ぎない 。それは、もっと大きな何かに棹さすことだ。もっと大きな何かとは何か? それは生活世界に対比されるシステムか? そんなものではない 。それで言うなら、生活世界もシステムも、別の何かに変わりつつあった。
『終わりなき日常を生きろ』を書いた九五年。僕は女子高生がタムロするデートクラブの待機場や予備校生が一人で来て踊るクラブに、息を継げない家・学校・地域とは違った都会を歩く人さえ知らないアジールを見出し、いわば余裕綽々で「第四空間」と名付けた。
生活世界(家・地域)でもシステム(学校・会社・都会)でもない時空。それを作り出して、まったりしよう。それを「まったり革命」と呼んで賞揚した。それが「終わりなき日常を生きろ」という命令形の意味だった。終わりなき日常は鉄条網の檻ではなかった。
だが、〇一年に中澤系が「終わらない日常」の言葉を使ったとき、九五年から一年間だけ語った僕の「終わらない日常」という言葉から、意味が変質していた。終わりなき日々を気取るも「ロウ」と「スマックダウン」の間、になるしかなくなっていた。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
中澤系が表現活動を開始した九七年から数年間、僕の周囲で何人かが自死した。僕は鬱状態に陥り、次第に動けなくなってやがて床に伏し、起き上がれるようになってからは離島に沈潜した。中澤はちょうどその間濃密な表現を遺した後、難病で伏した。
その頃、僕はぎりぎりのところで「蝕」から脱し、「蝕の時代の深化」に正面から向き合う方向へと、奇蹟的に逃れた。本の内容も、より積極的な価値を押し出したものになって、今に到る。なにせ最新刊の題名が『いま、幸福について語ろう』だったりする。
キリスト教におけるバプテスマ(洗礼)とは、ヨハネによるイエスの洗礼の逸話に伺えるように、元は水に沈めた上で引き上げるという危険なものだった。むろん死と新生の隠喩である。死ななければ新生はない。「蝕」を経験せずに「光」の経験はない。
「蝕の時代」が明ける気配はない。これからもずっと光がささないだろう。当初は「蝕の時代」の始まりの引き込みに遭い、敏感な者たちが「蝕」を迎えた。だがイエスの時代がそうだったように、「蝕の時代の深化」につれて一部の者は「蝕」から離脱しよう。
こんなにも人が好きだよ くらがりに針のようなる光は射して
〇一年八月に活動停止する直前のこの歌は、そうした「蝕」と「光」の関係を、中澤系が見通していたことを伝える。針のようなる光は、くらがり(蝕)でなければ見えない。だが、くらがりでこそ見えるその光は、まさに「針のようなる」鋭くて強いものだ。
この歌を見た瞬間、暗い水中に、遠い水面から射し込む一筋の光を、想念した。自らの生物学的な死への自覚に拮抗する新生への意志──パプテスマだと思った。蝕の暗闇を知る者は、この内なる光を、遠い次の時代に備えて、受け継がねばならない。
やがて人が変わり、世界が変わるだろう。なぜなら、人が変わってもモノは変わらないからだ 。中澤のモノへの偏愛──キャンディ・牛乳パック・コンタクトレンズ・プルトップなど──は、変わらぬモノを通過していく変わりいく人を、指さしているようにも感じる。
そうであるならば、僕は、冒頭に述べたように、変わりゆく人が通過するモノのような器になりながら、待ちたいと思う。中澤系が自らの生死を超えて待っているように、僕もまた、針のようなる光を頼りに、生死を超えて待つのである。
関連記事: 特別寄稿 中澤系 『uta0001.txt』