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文字起こしⅡ【時事キャッチ7】(後半のみ)「芸能という闇」と「日本の劣化」 20.06.27

【時事キャッチ vol.7】(休憩を挟んだ後半)文字起こしⅡ(Ⅰから続く)

「芸能という闇」と「日本の劣化」 |阿佐ヶ谷ロフトA 生配信|2020.06.27(日)
石丸元章  :GONZO作家
めりぴょん :ライター/阿佐ヶ谷ロフトAイメージガール
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:立石絢佳 Twitter @ayaka_tateeshi)

(Ⅰから続く)



めりぴょん: それこそ、昨日、元オウム真理教の上祐さんと話していて、いわゆる「上祐ギャル」って呼ばれていた人たちがいるじゃないですか。当時の文献とかいろいろ読んでみても、「上祐ギャル」の生態について詳しく書かれたものって、すごく少ない、あるいは無いに等しいんですね。なんでかというと、95年以降に流れていた空気として、「上祐ギャル」みたいなものって不謹慎なわけじゃないですか。「上祐ギャル」の生態なんか分析したら、きっと抗議殺到だったと思うんですね。


宮台:■それも歴史を補足すると、サブカル系って94、5年に「不謹慎」「時代遅れ」「社会の要らないモノ」になったんですよ。80年代後半に、素人AVブームが起こり、素人読者ヌードブームが起こり──an・anを舞台にしてね──、ジュリアナ東京のお立ち台ブームが起こり……。これって全部「男の視線を参照しない」動きだよね。だから僕は『サブカルチャー神話解体』(1993)に「自己関与化=視線の無関連化」って書いた。その果てに援助交際が出てきた。だから援助交際を見つけたときにも、「とうとうそういう話になっちゃったわけか」っていう感じで、驚きがなかったの。ところが、一見すると「性の上昇」があった。みんなはそう思った。でも実際には「性からの退却」があったんだね。
■そんなこんなで、事情を知らない人は、性がものすごい盛り上がった時代だと思った。他方で、サブカル系がオタクに結びつけられて(オタクが人口に膾炙した連続幼女誘拐殺害事件=宮崎勤事件が1989年)、性愛界隈に乗り出せない臆病者たちのマスターベーション界隈だってことになった。僕が援交を朝日新聞で暴露した93年秋から急にそうなった。だから僕は申し訳なく思った。当時、コアマガジンでも、親会社の白夜書房でも、サブカル系の編集者が突然めっちゃ差別されるようになって、エロ雑誌を編集しているヤツが、めちゃめちゃ偉いってことになった。ところが、95年の地下鉄サリン事件で上祐史裕の露出が増えて、「上祐ギャル」のブームが始まった。これって全員サブカル系だったんだけど、サブカル系雑誌は無視したんだよね。その意みで「上祐ギャル」はサブカルへの差別的な眼差しを後押ししたわけ。ところで「上祐ギャル」の一部には僕の追っかけもしているヤツもいたのね(笑)。

めりぴょん: ははははは(笑)! そうなんですか!? 衝撃の事実!

石丸: 「上祐ギャル」が「宮台ギャル」だった!?

宮台:■そういうのもいたのよ(笑)。

めりぴょん: 今はじめて知った(笑)。そもそも「宮台ギャル」がいたんですか?

宮台:■いたんですよ(笑)。

めりぴょん: 客層かぶってたんですかそこ。

宮台:■かぶってますね。それは理解できるじゃん。

めりぴょん: 言われてみればめちゃくちゃわかるんですけど(笑)。

宮台:■援交ブーム以降に、サブカル女子の一部がゲテモノ系になったの。援交で出会うオッサンを「カワイイ」って形容する流れね。上祐カワイイじゃん、宮台カワイイじゃんってなった。90年代末の「死にかけ人形ブーム」もその流れ。「ゲテモノ教団のイケメン広報」ってことで、当時の上祐はサブカル少女にとっての輝きだったわけ。僕も似た文脈にハマったのね。オウム少女──オーマーって言ったけど──には宗教的コミットメントは全く無かった。それが95年の現象。傍から見ていると、そのことが「サブカル差別」に拍車をかけたんだね。「結局サブカルってオウムを翼賛するんだ」みたいな。
■ってわけで、「自己関与化」や「視線の無関連化」つまり性愛的期待の低下という意味で、80年代後半からエロが衰退したんだけど、その現れとして「性愛インフレ現象」としての援交ブームが93年から起こり、宮崎勤事件以降のオタク差別もあってサブカルの地位低下が起こったんだけど、最後っ屁のようにサブカル少女の「オーマー」化が起こって、かえってサブカルの地位低下に拍車が掛かったという流れ。97年以降は、援交ブーム終焉と結びついた性愛系の地位低下で、オタク系への差別がなくなったけれど、それでも「サブカルの復権」はなかったんだよ。例えばサブカル雑誌って形では復権してない。それは理由があってね。共同性の問題だよ。サブカルって共同性を支える場が必要なの。95年からインターネット化が進んだでしょ? 85年に歌謡曲ブームを支える「お茶の間」が消えて、92年まてにバンドブームが象徴する「教室」も消えた。ところが、ネット界隈だと、サブカルを支えるプラットフォームが細分化されてバラバラになるんだよね。結局、サブカル系の隆盛を支えてきたのは「同じものを愛でる仲間にそれなりのボリューム(大きさ)がある」という共同性なんだね。
■僕は、75年にコミケをはじめた米沢嘉博と親しかったので、コミケがどういうふうに変遷したのかって歴史を知っているけれど、初期と違って、今のコミケって、仲間意識がゼロだよね。あれはテーマパークになっちゃった。例えばディズニーランドには何の共同性もないよね。だからワンフェス(フィギャアの祭典「ワンダー・フェスティバル」)の主催がゼネラルプロダクツから海洋堂に移った(=岡田斗司夫が主導権を手放した)92年夏から起こっていたことだよね。そこに、95年からのインターネット化がかぶさる。ネット化はリアルな祭り場の共同性を衰退させるから、一方で80年代後半から始まっていた性愛的なものの衰退を加速させ、他方で90年代前半から始まっていたサブカル的なものの抑圧からサブカル系が復権するも抑圧したんだね。そんな流れだと思う。

めりぴょん: 「上祐ギャル」と「宮台ギャル」の客層がかぶっていたっていうところを聞いて思ったのは、上祐さんっていうのは、今でこそ認識としてはカテゴリーでいうと犯罪者カテゴリーじゃないですか──対談しといて翌日に言うのもなんですけど──。

宮台:■しかたがないよ、犯罪者なんだから。

めりぴょん: 当時はいわゆるサブカル男子カテゴリーというか、そういう分類だったってことですか?

宮台:■オウムがサブカルだったんです。

石丸: そうそう、オウムがサブカルカテゴリーだから。

めりぴょん: はあ~。その観点は、正直言うと無かったんですよ、私は。オウムは犯罪カテゴリーだと完全に思っていたので。

宮台:■それは学研『ムー』の効果だって言われている。95年の地下鉄サリン事件の少し前からは「オウムショップ」なんてのも各地にあった。

石丸: だって(『ムー』のオウム広告で教祖麻原が)空中飛んじゃうんだから。これはもうサブカルとか『ムー』とか。

宮台:■「上祐ギャル」以前に、そういうオウムショップに押し寄せていて、オウムグッズをいっぱい買っていたわけ。これが「オーマー」ことオウム少女のルーツだよね。

石丸: 自分なんて買いに行ったもん、山のように。

めりぴょん: 買いに行ったんですか(笑)。

石丸: ダンボールにいっぱい買っちゃった。それで事件が起きて、えらいことになったなと。

めりぴょん: お二人は最近流行っている『鬼滅の刃』ってご存知ですか?


宮台:■中学生がよく読んでるよね。

めりぴょん: あの『鬼滅の刃』って、家族が殺された主人公が仇とるために鬼退治に行く。序盤で主人公が鬼退治に行くために修行する場面があって、その修行の内訳が、山の中にでっかい岩があって、その師匠みたいな人から「気を込めて、呼吸を集中させれば岩を斬れるようになるんだ」とむちゃくちゃなことを言われて、刀で岩を斬るようになるまで2年くらいかけて、岩を斬れて、やっと鬼退治の修行に出れるっていう話なんですけど。私はそれを見て、「めちゃくちゃオウム真理教じゃん」って思ったんですね。それを昨日、上祐さんに聞いたんですけど。そしたら「そう感じるかもしれないんだけど、サブカルチャーの中にずーっとそういう流れはあった。修行とか努力とか積み重ねによってパワーを得て、超能力を得るってシナリオはずっとあって、80年代からずっとあったその流れの中で、オウムが超能力開発みたいなキャッチフレーズでみんなを集めたんだ」と。つまり『鬼滅の刃』がオウム的なのではなく、むしろオウムが『鬼滅の刃』的なんだって話になったんですね。それを聞いてストンと腑に落ちたんですよね。

宮台:■あのね、たとえば『巨人の星』(『少年マガジン』で1966年から連載)っていう梶原一騎脚本の漫画。「大リーグボール1号=バットに吸い寄せられる魔球」とか「ダイリーグボール2号=消える魔球」ってまさにそうじゃん。あれ魔法なんだよ。その魔法を獲得するまで、星飛雄馬がどれだけ血の汗を流したかが描かれていたわけ。

石丸: 練習という名の修行だから。


宮台:■そう。同時代に『サインはV』っていう少女漫画(『週刊少女フレンド』1968年から連載)があって、テレビ実写シリーズ(TBSで1969年から)にもなったけれど、「稲妻サーブ」っていう魔球があったよね。血の滲む修行の末に獲得する魔法だったよ。

石丸: 『柔道一直線』なんて、階段ごろごろ転げ落ちて、それが稽古なの、修行なの。『空手バカ一代』なんかもそうですよね。

宮台:■そうなの。スポコンものブームが終わってからは『アストロ球団』(『少年ジャンプ』1972年から連載)が「血の汗で獲得した魔球」をギャグ扱いしていたけど、ジャンプはその後も「強い敵が現れる→修行して勝つ→もっと強い敵が現れる→もっと修行して勝つ」っていうパターンをギャグ込みで反復してきた。『キン肉マン』(『少年ジャンプ』1979から連載)とか『ドラゴンボール』(『少年ジャンプ』1984年から連載)みたいにね。それをオウムが、ギャグ抜きのマジガチで、受け継いだってことだよね。

めりぴょん: 本気でやっていたっていうのが、まぁ、面白いっていうか(笑)。

石丸: それ(上祐史裕氏とめりぴょんのトーク)は今、アーカイブで見れますね。

めりぴょん: すみませんなんか、宣伝みたいになっちゃって(笑)。よろしくお願いします。

石丸: ということで、今回もぼちぼち時間なんですけども、先月から1ヶ月。次回には選挙の結果も出たりしたりとか。コロナの動きとかもこれからまた移っていくと思うんですけども。いかがですか。

めりぴょん: 私はなにかすごいことが起きて、都知事選の結果がめちゃくちゃなことになったら面白いなって思ってますけど。あまり無いでしょうけどね。変な人が当選してほしいなと願いつつ、暮らしていきたいと思っております。めちゃくちゃになってほしいんで、東京都が。

宮台:■選挙で勝つはずの希望の党が小池の一言で百からゼロにポシャった事件みたいなのがあったりするのが、最近の政治のやや面白いところではある。ただ僕が選挙なんかに関心がない理由は、今日の話で、もう皆さんにはお分かりいただけたと思うんだよね。まぁ僕にとっては社会がどうでもいいものになってるってことです(笑)。

石丸: 今後、河合案里さんがメンヘラだから、喋らなくていいことまで喋っちゃって、誰も想像してなかったような大事件に発展する、まさかの家宅捜索が行われたりとか。

宮台:■「メンヘラ」って本当にキーワードだね。「メンヘラ」と「スピッちゃうヤツ」っていうのがキーワード。安倍もどう見てもメンヘラだろ? 社会から闇が消えた代わりに、個人の内面にギャグ以上にショボイ形で闇が移転した。闇った言ったって、所詮はただの劣等感だったりするから、まぁ笑える。

石丸: そうですね。こんな騒動のときに自宅でコーヒー飲んでたんですからね。あの感覚はメンヘラですね。

宮台:■完全にメンヘラだね(笑)。

石丸: ということで、今日はありがとうございました。この放送は2週間アーカイブで見れるということです。何度かくり返してご覧になってください。

めりぴょん: よろしくお願いします。

石丸: 宮台さん今日はありがとうございました。

めりぴょん: ありがとうございました。


宮台:■ありがとうございました。

めりぴょん: ご視聴いただいたみなさまも、ありがとうございました。
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-07-02 - 20:24:22
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文字起こしⅠ【時事キャッチ7】(後半のみ)「芸能という闇」と「日本の劣化」 20.06.27

【時事キャッチ vol.7】(休憩を挟んだ後半)文字起こしⅠ

「芸能という闇」と「日本の劣化」 |阿佐ヶ谷ロフトA 生配信|2020.06.27(日)
石丸元章  :GONZO作家
めりぴょん :ライター/阿佐ヶ谷ロフトAイメージガール
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:立石絢佳 Twitter @ayaka_tateeshi)


石丸元章(以下、石丸): ということで後半、よろしくお願いします。

めりぴょん: さっきの話の続きなんですけど、宮台さんがおっしゃっていた「アイドル」と「ハレとケ」について思ったことがあって。
 アイドルに対するオタクの欲求ですが、ジャニーズに聖域でいることを要求する人って、結局はアイドルに「ハレ」の存在であることを願っているから、プライベートやSNSという「ケ」の部分はあまり見たくないという勢力だと思うんです。「次清(すげきよ)」ってあるじゃないですか。皇室に仕える内掌典と呼ばれる人たちがいるんですけど、彼女たちって常にスピリチュアル的にというか、皇室のルール的に清潔であることを要求されるんですね。たとえば「穢れ」とされるようなものに触ったときは、すぐに手を洗わなければいけないとか、神に仕える存在だから清らかでいなければいけないとかいった要求が、常になされている世界。皇室至上主義というか、保守の人たちってそれを肯定しているわけじゃないですか。そうであってほしいと願っている人たちがいるわけです。そことすごく通底する部分があって、結局そういうところから逃れられないという。


宮台真司(以下、宮台):■もっと一般的に言いますね。「聖」と「俗」の時空分割って、僕たちが定住してからずっとあるわけです。実際、定住する以前はなかったんですよ。それは、僕たちが変性意識状態にあったからですね。
■みなさん『セデック・バレ』っていう台湾の首狩族を描いた映画を観ていただくといい。台湾の先住民は、高砂族を中心として日本軍に協力しました。数人だけで100人以上の部隊を倒せる力があった人たちです。それが定住以前の人間の力です(実際には小さな沖積平野が点在する山間地を半定住半遊動の焼き畑民のように移動する狩猟民)。日本軍の精鋭が1時間で移動する森の中を年端もいかない少年が10分で移動することが記録されています。
■男は常時トランス的な戦闘状態にあり、敵の首もスパッと斬るし、仲間の首もケガで苦しんでいたらスパッと斬っちゃう。しかし味方も敵も死後は、尽きない狩場を備えた「天の家」で仲良く暮らせると、どの部族も信じている。実際そういうふうにして生き残ってきたという意味で、合理的な集団生存戦略です。女・子どもは首狩り的な戦闘をもちろんしないけれど、『セデック・バレ』を観ていただくと分かるように、家族が首を狩られる状態を常態としているという点て、やはり聖なる時間を常時生きています。
■定住民の生活はこれとは違う。定住を支えるのは農耕収穫物のストックだし、農耕は計画しなきゃいけないし集団で作業しなきゃいけない。だから、所有と計画と集団規律を守るために「法」が支配します。つまり普段は法の秩序にがんじがらめの状態で、それが「俗profane」と呼ばれる時空になった。それに対して、昔の遊動段階において「力に満ち満ちていた状態」のことを「聖sacred」と言うようになったんです。
■法に縛られた生活は、遺伝子的基盤に逆らっているという意味で不自然です。だから、定住社会には必ずお祭りがあります。お祭りで「聖」の時空と身体性を呼び戻すためです。その証拠に、お祭りのときには被差別民が呼ばれます。被差別民とは、定住や定住のための法を認めないがゆえにはじき出された人々です。だから、平時は差別されますが、「定住以前の心身を持つ」ということで、祝祭時には「聖なる存在」として召還されるわけです。
■これを単純にパラフレーズすると、定住することで僕たちは力を失うということなんですね。法に縛られたルーティンの中に「閉ざされる」と、なんのために生きているか分からない感じになっていく。自分たちがどっちに向いて歩いているのかも分からなくなっていく。なので、定期的に祭りをして法の外に「開かれる」わけです。具体的には日本でいう「無礼講」をする。「無礼講」という言葉通り、「僕たちが昔持っていた聖なる力を取り戻すために法を破る」という営みです。タブーとノンタブーを反転して乱交したり、強者・弱者の役割を反転したり、男と女の役割を反転したり。そもそも被差別民が「穢」から「聖」に反転するわけです。
■僕がずいぶん前から心配して書いてきているのは、インターネット化によって「聖」と「俗」という区画が消えていくことです。「聖」と「俗」で大事なのは、自分だけがそう思っているというだけじゃ成り立たないということです。「誰にとっても、これは聖なるものだ」つまり「誰にとっても、ルーティンの中への埋没から脱して力を回復できるんだ」というふうに、誰もが思えるはずだということが、自分の「聖」と「俗」の認識を支えてくれる構造があるんです。だから、インターネットのように分断されちゃうだけでも、「聖なる時空」が成立しなくなります。後は「聖なるもの」がどうなるのかなあ?という意味で、アイドル問題は僕のいろんな問題意識の中でも重要なポイントなんですね。
■さて「聖なるもの」は、タブー視される「穢(え)なるもの」と実は表裏一体です。これは網野善彦[歴史学者]が明らかにしたことです。「聖なる存在」は、先ほど言った理由で平時は目障りなので、聖なる存在を貶めて「こいつはダメなヤツだ」っていう扱いをします。そのとき、「聖」から「俗」に落とすんじゃなく、「聖」から「穢」に落とすんです。被差別民の中でも、江戸時代に「穢多・非人」と言われた人たちのうちの「穢多」の一部は、その昔「聖なる存在」でした。でも、社会がミカドという「聖なる存在」を頂点とする階層的な構成になったときに、各部族(日本では氏族という)でシャーマン的な役割を演じていた「聖なる存在」が、「俗なる存在」を超えて「穢なる存在」へと叩き落とされます。穢多の一部はそういう人たちの末裔だと分かっています。その観点から見ると、何もかもがフラットに忘却されつつある現在、「聖なる時空」がない分「穢れの時空」つまり、奥まったアンダーグラウンドに向かうメンタリティも、わかる気がするんです。
■ところで、さっき楽屋で話していたことだけど、めりぴょんの持続的な興味の源泉ってなんなの(笑)?

めりぴょん: ふふふ(笑)。「やらかし」という固有名詞で呼ばれる、ジャニーズのストーカーにすごく興味があって。ストーカーのべ10人くらいに取材して、2000年代から最近に至るまでのジャニーズの「やらかし(ストーカー)」の歴史を紐解くっていうお仕事をやったんですけど。「その興味はずっと続くの?」と先ほど聞かれました。ジャニーズのストーカーの歴史的な背景にも由来しているんですけど、結局あれって「任侠」と一緒なんですよ。

石丸: ジャニーズが?

めりぴょん: ジャニーズのストーカーというか、「ジャニオタ」がです。ジャニーズのファンの組織っていうのは、反社なんですよ。ただ、ジャニーズはその存在を公に認めていないんですね。これがすごく不思議なんですけど。
 まずジャニーズの関連会社に「ジャニーズファミリークラブ」という組織があって、これはジャニーズのファンクラブの運営をしているんですけども、裏の役割として、「オリキ」と呼ばれる、公認の「出待ち」を統括する役割を負っている社員も抱えている。その社員はどうやって社員になるか。
 出待ちにもカーストがあるんですね。まずは平の出待ち=「オリキ」から、ちょっと偉くなると「お手伝い」を略して「おてつ」──これは仕切る人を手伝う役割です──。そしてもうちょっと偉くなると、その場を「仕切り」、その「仕切り」がさらに偉くなると、とうとう社員として登用されるようになるわけです。そういう縦社会があるんですけど、その文化として「SNSにそういうことを書いてはいけない」と。書く人はいますけど、書くと、その場には行けない。だから私はジャニーズの出待ちはできないんですよ。すっごい記事で書いてるんで(笑)。好きなジャニーズの子いるんですけど、いったら多分ボコボコにされます。「お前なにネットに書いてんだ」って。だから「任侠」と一緒なんですよ、ジャニーズの出待ちって。


宮台:■面白いね。「任侠」のことを若い人は知らないと思うけれど、「法の外にある掟」の世界を生きる人たち、あるいは掟それ自体のことを、「任侠」と言う。

めりぴょん: まさにその通りで、ジャニオタの仕組みって法の外にある掟ですね。

宮台:■なるほどなあ~。

めりぴょん: それがすごく面白くて、ずっと追いかけてしまうんですね(笑)。

宮台:■そうか。めりぴょんは、生まれてくるのがちょっと遅かったね。昔の芸能の界隈は、掟に満ちていたんですよ。ご存知かもしれないけど、芸能の界隈には、在日や被差別部落の人たちがもともと多かった。古くからの「河原者」、祭祀に呼ばれる「聖なる被差別民」の伝統があったからですね。興行の界隈はもともとヤクザが仕切るのが当たり前だったでしょ? 場所取りなどの利権の調整をしなきゃいけないからです。1つの例ですが、このロフトも昔は厚生年金会館新宿の横にあったでしょ。厚生年金会館って厚労省の社保庁が管轄する公の施設で、そこで働く人は謂わば準役人。会館で爆竹とか火とかを使うときには許可が必要なんだけれど、申請して許可をもらうのに、普通は申請してから2年かかるところが、それを1~2ヶ月に短縮するために、彼らにいろんなものを供与してきたんですね。
■電通の「食わせる・抱かせる・握らせる」じゃないけれど、昔は「抱かせる」っていうのよく使った。今はほとんど風化しているけど、昔は「裏の掟」が支配していたからです。もう少し詳しく言うと、「裏の掟」の界隈の内側に自分が生きていることを示す必要があったので、面白いことに、供与を断れないんですよ。芸能関係者とかその周りにいる(準)役人とかも含めて、「抱かせる」攻撃は謂わば踏み絵です。テレビに出るようなまだ駆け出しの子たちがその役をした。いろんないかがわしいパーティーにも、そういう子たちが誘われる。そういうパーティの会場を昔は僕も幾つか知っていました。たとえば僕が芸能関係の仕事をしていて、しかじかの子を抱いてやってくれって言われた場合、断れない。「別にセックスしなくてもいい。でも一晩だけ指定したホテルで過ごしてくれ。部屋にいれば訪ねてくるので」っていう仕組みだった。面白いでしょ? それが任侠ですね(笑)。
■つまり、こういうこと。芸能の界隈は、昔からの伝統と繋がった「聖なる世界=被差別の世界=法外の掟の世界」をずっと保ってきたということ。この伝統は、バブルの80年代はもとより、90年代半ばの「街に微熱感があった頃」までは明確に残っていた。僕の知り合いの芸能プロダクション系の人たちも、今は有名になった女優やアイドルの名前あげて相手をしたと告白してくれたけど、「宮台さん、羨ましそうな顔してるけど、断れないんだって!」(笑)。

石丸: 「踏み絵」というか、そこで試されるわけですね。

宮台:■ただし持続的に踏まされる「踏み絵」ね。

めりぴょん: ジャニーズって、言ってしまえば宮台さんが言うような80年代的なものの最後の砦の側面を、2020年代になってもまだ持っていて。五輪とか万博とかワールドカップとかそういう、まさに公権力そのもの系の仕事を享受している。手越くんがなぜ事務所に怒られたかっていうのは、ジャニーズ事務所の性質にそのまま結びついていて、ジャニーズ事務所が政府からの仕事を受注しているから。自粛破りっていうのは本来無い概念ですよね。自粛っていうのは自ら粛することですから。「自粛破り」で本来怒られる道義は無いんですけど、それでもタレントをあんなに厳しく怒らなきゃいけないっていうのは、政府の言うことには基本的に、無理を通しても従わなきゃいけないわけですよね。

石丸: お得意さんだから。

めりぴょん: それで、手越くんを怒ると。それと同時に「オリキ」みたいな縦社会の任侠みたいな追っかけを飼っている。そこが面白いなって。それでずっと興味があるんだと思います。


宮台:■つまりさ、めりぴょんは表の世界とは違う、裏の掟の世界に惹かれる人なんだよね。

めりぴょん: それは間違いないと思いますよ。

宮台:■だから、もうちょっと前に生まれていたら、もっとディープな「裏界隈」を知ることができたよね。ただし、書けたかといえば、それはどうかな。昔は梨本勝・前田忠明・福岡翼・東海林のり子とか、芸能記者がいっぱいいたでしょ。みんな「裏の掟」を知っているし、裏で何が起こっているかを幾らでも詳らかにできるんだけど、それをすると、場合によっては殺されたりする可能性もあって(笑)できないんですね。そんな感じで、芸能ニュースって言っても、知っていることの上澄み1割くらいだけを喋るだけ。それが芸能レポーターです。芸能レポーターも任侠の界隈にいて、水面下の氷山の部分を共有していたというわけです。だから、その時代に(めりぴょんが)生きていたら、興味の尽きない話がいっぱい知ることがでぎても、表では芸能レポーターのように普通のことを言うしかないでしょうね。「本当はこんなのは違うんだけどな~」とか思いながらね(笑)。僕も80年代に芸能の子とつきあったことがあって、いろんな「裏の掟」を聴いたけれど、いまだにバラしていないでしょ。今日お話ししている程度のことだって、今だから話せます。

石丸: でもめりぴょんは、本来は書いたり喋ったりしてはいけないことを、書いたり喋ったりしてしまっている。掟破りが芸風ということになるの?

めりぴょん: 書いたり喋ったりしてはいけないというか……たとえば私がジャニーズの出待ちに行くとなにが起きるかというと、最初に「仕切り」と言われる、オタクの中でも偉い人から説明が読み上げられるんですね。「手紙を今から回収します~」と言って、手紙をみんなで回して集めたり、「SNSに列のことを書くのは禁止です、やめましょう」みたいなことを言われるわけですね。そのルール説明の文章も、実は全部持ってるんですよ、私。でもそのルールは、そこにいる裏の掟の世界にいる人だけに向けられているものなので、私がいくら書こうが問題はないんですけど、それを勘違いして「書くな」と言ってくるヤツがいるという認識ではあります。

石丸: いろんなことにおける裏の掟みたいなものっていうのは、どんどん消滅しつつあるのかなと思いますね。たとえば大相撲の八百長問題もしかり。先ほど、政府の仕事をしているから、なかなか厳しいことがあるんだって話。それ「吉本興業」なんかのお笑いもそうですよね。政府って大きなクライアントさんだから、政府に従わなきゃいけない、反社との付き合いは特に気をつけなきゃいけない。
 なかなかそうすると、裏の部分っていうのがどんどん希薄になっていって、無くなっちゃうんですかね? そしてそれは我々にとって必要なものなんですかね?


宮台:■「私は裏界隈の人間じゃないから、書いても問題ない」っていうのが、まさに希薄化だよね。さかのぼれば、「聖」と「俗」と「穢」っていうコスモロジー──つまり世界観あるいは世界設定──は、僕たちが歩いているときに、どちらの方向に向かっているのかを知るために、ずっと必要だったものです。長い歴史に鑑みて、それが完全に消えることはないだろうけれど、いわゆる「芸能界の掟」「お笑い界の掟」みたいなものは、なくなっていくしかないと思う。めりぴょんの活動もそうかもしれないけれど、インターネットでバラされて、バラされたらスキャンダルになってイメージダウンするからです。そんなふうにサイバー空間が芸能情報のメインフィールドになったとき、コスモロジーの具現化が、何によって置き換えられるのかということに、僕は興味があるんですね。
■たとえば、サイバー空間にも裏サイバー空間ってのがもちろんあります。みなさんご存知のように「ダークウェブ」って言われているけれど、個人情報が本当に安い値段でバンバンやりとりされています。そのダークウェブ界隈というのも、オフラインでダークな時空が維持できなくなってきたので、サイバー空間にダークな界隈を作ろうって人たちが出てきた結果だと思うんですね。そこは、「知る人ぞ知る」人しか入れないようになっていて、漏らすことは許されないというふうになっているけれど、それでさえどんどん漏れちゃっているというのが、サイバー空間ならでは、だよね。まぁ、どうしようもないわけ。

めりぴょん: その点でいうとですね、若手俳優のオタクのジャンルの中には、最近すごく大きな動きがあって。私の知る限り、6年くらい「オタクの悪口を言う専用の掲示版」っていうのがあったんですよ。スレッドのタイトルが、全部「○○のファン」みたいなタイトル。パスワードはついてるんですけど、口コミでみんなに拡まり、結果的にみんな知ってるっていう掲示板があったんです。それが木村花さんの件を受けて、インターネットの誹謗中傷に対しての法的措置について取り沙汰されていた時期に、すごく不思議な現象が起きたんです。今までは、喜んでみんなで悪口を言う、いわば閉鎖的な楽しい空間だったその掲示板に、「この掲示板を消してください」っていう請願運動が起きたんですね。なぜ請願運動が起きたかっていうのは、その掲示板に今まで悪口を書き込んでいた人たちが、突然一変して裁かれる側になる潮流になってきたということに、恐れをなしたと思うんです。

宮台:■面白いなあ。

めりぴょん: 「この掲示板を消しましょう」「悪口はよくありません」って流れになって、とうとうなくなったんですね。今までは、その掲示板というのは本当になんでもありで、オタクの働いている風俗を晒し上げるとか、顔写真を晒し上げるとか、AVを晒し上げるとかっていうのは日常茶飯事で、盗撮画像なんかも載ってましたし、ダークウェブみたいなもんなんです。それが世の中の流れにころっと流されて無くなってしまった。

宮台:■実に面白い。それは、組つまりヤクザの動きと関係があるよね。若い人は知らないと思うけれど、80年代に組事務所立ち退き運動が各自治体や各地域で起こるようになって、それが92年から施行される暴力団対策法(暴対法)として実った。それについて僕は暴対法に反対する運動をしていました。理由はこれからお話しするような感じです。
■共同体には必ず表があって裏がある。表共同体に属せないヤツが裏共同体に属する。そのことで無秩序にならないで済む。それをお巡りもよく知っていたんだ。当時まで組員には、電話番や運転手をやるような「三下」がいっぱいいた。それは表の共同体では排除されちゃって生きられないヤツらなのね。犯罪歴があったり怒りっぽくてすぐ人をぶん殴ったりとか。そんなヤツらの受け皿が裏共同体としての組。でも92年の暴対法施行でビジネスヤクザ化せざるを得なくなって三下が吐き出された。その三下が多くは鉄砲を持って逃げちゃった。以降「鉄砲持ってるから組のヤツだ」って言えなくなった。「こいつヤバいヤツなんだけど、誰なんですか?」って組幹部に尋ねると、「あーこいつ10年前に辞めたんだけど、紐ついてないんでヤバいよ」って答えるような状況(これは実話)。
■その辺を予備知識として言うと、芸能界隈で掟としての任侠が守られていたのは、さっきの「ぶっ殺される問題」ね。つまり組があったからなんだよ。色街とか売春を取材していてすごく変わったのが90年代後半なのね。本に何度も書いたように、同じ頃に売春界隈でも「微熱感のある街」が消えたのだけど、その頃まではお巡り界隈でも裏の事情は知られていた。お巡り界隈が「泳がせて情報を得る」手法を基本していたからだね。売春って昔は合法だったけど、1958年から非合法になった。すると非合法の界隈だから、トラブルがあってもお巡りを呼べない。そういうときにヤクザが入って締めてきたわけ。そうやって非合法の色街界隈で掟を守らせる役割をしてきた。非合法界隈ではあれ秩序維持には大切な働きをしていたのね。お巡りもそのことを弁えていたし、その役割をしてくれているヤクザから情報を取らないと、お巡りには界隈の実態を知りようがないの。だから「見逃す代わりに情報を要求し、ときには袖の下も要求した」わけね(笑)。
■それが長く続いていたのが、大阪府警なんかの「汚職問題」として90年代後半に取り沙汰されるようになった。共同体の表と裏の二重性を知らない人たちが増えちゃったという「新住民問題」が背景です。僕は当時、大阪府警の刑事さんに「この動き、ヤバくないですか?」って尋ねた。「宮台さん、おっしゃる通りやけど、もう昔のやり方はできまへんで」とね。80年代には郊外で、そして90年代には街で、昔からのあり方を知らない「新住民」が増えてきた。かつてはどんな場所にも「法の界隈」と「掟の界隈」の二重性があったのに、それを知らない「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」イコール「クズ」が、増えた。つまり「言外・法外・損得外」のシンクロを知らないヤツらが増えたの。
■つまり、80年代の組事務所撤去運動から、90年代の警察汚職告発運動まで含めて、お巡りの従来型手法を一切許さない「新住民」が増えて、その意を受けた何も知らない新住民系議員がワーワー言うようになった。それが「もう昔のやり方はできまへんで」って言われたことの意味だったのね。これは、「微熱に満ちた街」の消滅や、援交女子高生の「トンガリキッズから自傷系へのシフト」を含めて、いろんな事態と連動していた。だから、当時の僕はかなり重大な動きだと思っていたわけ。けれど、たぶんそうした巨大な流れに影響されて僕は鬱になっちゃってね(笑)。鬱明けしてからは「それはもうどうでもいいや」ってなっちゃったんだよね。
■そんな個人的な遍歴があるので、さっきのめりぴょんの話を聞いて、めりぴょんの興味はすごく理解できる。でも、可哀想だなって気がするのは、やっぱり「裏界隈」の濃密さが足りないからだね。昔から続いて97年までに消えた「光の世界」ならぬ「闇の世界」や、「法の界隈」ならぬ「掟の界隈」に比べて、いまやドラマがないというか、影絵のようなロボットが動き回っているだけみたいなイメージが、話を聞いているとすごくするんだよね。

めりぴょん: それは本当にそうだと思いますよ。私も惹かれるのは90年代のアイドルオタクのカルチャーのほうなんですよ。私のすごく好きな本に、『アイドルバビロン―外道の王国』っていう本があって。私がやっていたイベントが『外道ナイト』って言うんですけど。

宮台:■外道ナイト? マジか(笑)。

めりぴょん: ははは(笑)。その本に「昔は、いわゆるアレなアイドルオタクのことを『外道』と呼んでいた。『外道』というのはアイドルをストーカーしたり、アイドルの嫌がるようなことをしてアイドルの興味を引く連中だ」と。どうやら、アイドルの制服向上委員会の現場で、普通のファンがアレなオタクに「そんなことをするヤツは人間じゃない、外道だ!」と言い放ったことから、「外道」と呼ばれるようになったそうで、私はそういうことに興味があるんですけど、そういうエッセンスを探すとなると、最近だとなかなか難しいですね。消えつつありますし。

宮台:■つまり、つまらなくなりつつあるんだよ。クラブも全く変質したし、街も全く変質したし、性愛界隈も全く変質したし。昔知っているヤツから見ると、「これはただの幻だといいなあ」と思うくらいだよね。

石丸: 警察の取り調べとかでは、最近はカツ丼とかってありえないみたいですね。

めりぴょん: 石丸さんはカツ丼出されたことあるんですか?

石丸: 私は覚醒剤なんでね、カツ丼じゃないんだけど、一応コーラとかカップ麺とか。「今日はこれで終わりだから、カップ麺でも食べて、どうなんだ? これからはやるなよ?」っていうのはあるわけ。

宮台:■カツ丼と同じだよね、それは(笑)。

石丸: そう。カツ丼関係をやる時間があったわけよ。96年には刑事とカツ丼の関係やりましたよ。でも今は本当にないんだって。最近捕まった人たちに聞くと、コーラ1本の接待もないんだって。

宮台:■だからさあ、そういうのも今、すごく予算の監査が厳しくて、お巡りが自由に使えるお金ないよね。

石丸: そういうお金って、いわゆる捜査の裏金から作っていくわけよ。

宮台:■もちろんね。カツ丼ってね、コーラもそうだけど、2つの意味で、大脳生理学的にすごく大事なんです(笑)。第一に、人間は食っているときには無防備になるのね。女性が食べるときに口を隠したりする日本的な作法も、無防備さを隠そうっていう意識の表れだと考えられる。人間だけじゃなくて、どんな動物も、獲物を他に盗られないために、他から見えない場所に持っていって食べるのよ。だから食べるときは無防備になるわけ。第二に、血糖値。人間は血糖値がすごく低い状態からひゅっと上がると、ゴキゲンになって、いろいろ喋りたくなるんだよね。

石丸: じゃあ生理学的に、それはもうなるようにできてるんだ。

宮台:■そう。だから、お巡りさんは、大脳生理学は知らないだろうけれど、経験的にそういうことがあるっていうのを知っているからやっていたわけだけれど、それも法の厳格な適用の中で出来なくなったということだね。

石丸: 取り調べの可視化で、ビデオを回すとか、クリーンになっていくことで大分変わっていっているんだろうなあ。めりぴょんが本来、興味を持っていた部分っていうのがどんどん少なくなっていっているんだと思います。

めりぴょん: 石丸さんがさっき言っていた、いわゆる「カツ丼関係」ってDVと一緒じゃないですか。基本的には酷いことを1日中されるんだけど、最後にカップ麺とかもらうと、嬉しいような、なにか一緒に成し遂げちゃって、なんとなくいい感じで終わってしまうって、DVと一緒ですよね。

宮台:■短期的な共依存だね。AがBに依存し、BはAが依存してくれることに依存するっていう。

石丸: あと、警察官の好きなストーリーなんですよ。最後に「もうやるなよ」っていう話をして、相手が頷いたときにカタルシスを感じるっていう。

宮台:■それいいじゃん。すごくいい話じゃん。

石丸: そういう彼らが望むストーリーってあると思うんですよね。

めりぴょん: それ自分に酔ってますよね、完全に。

宮台:■それもあるんだけれど、昔は全体としてちゃんとした構造があるじゃない? 無防備さと血糖値上昇もあって本当に自白しちゃうしね。今ならマジガチで自分に酔ってるだけかも。でも昔は作法によって支えられた構造があったんだ。作法をちゃんとすることって、自己満足でもあるけれど、それだけじゃなく、それで全体がうまく行くような構造が確かにあったの。お巡りの作法にもそれがあったし、組の作法にもそれがあったし、芸能の作法にもそれがあったよ。つまり、裏界隈の掟である「任侠」って、表社会の法律のような法ではないけれど、むしろ法以上に界隈の秩序を支える機能があった。その分、法律を破るよりも、掟を破るほうが、よほど恐ろしい報いを受けたわけだ。作法が全体の秩序を支える機能を持ったからからこそ、作法に従うことで人が方向感覚を得られたんだよね。

めりぴょん: まさにその通りですね。ジャニオタなんかストーカーすると、平気で殴られますからね、他のファンに。殴られる蹴られるボコられるとか。警察もそれに介入しないので、「追っかけはほどほどにね」っていう姿勢で済ませる。

石丸: 今回、政治でも裏の掟、これは掟として考えたほうがいいのか、あるいはどうなんだろうっていうのが、河合夫妻のお金を配っていた件。広島のいろんな人がそれをもらって最初は黙っていた。なぜならいろんな人に迷惑がかかるかもしれないから。だけどここにきて、逮捕されたってことになってから「実はもらってました」って人もではじめた。本来なら出なかったような話が出ている。これもそういう流れだったとして考えたほうがよろしいんですか。


宮台:■考えたほうがいいね。英語で教える大学院のレポート採点を今日までやってたけれど、アフリカや東南アジアの貧しい国から来ている院生たちが言うには、選挙におけるvote buying(買収)って当たり前なの。違法は違法なんだけど、レポートに書かれた彼らの理解では「明らかに共同体の掟を守るために必要なことだと考えられてきた」わけ。日本は裏がどんどん消えてきた。かつては、法があって任侠があって、表共同体があって裏共同体があって、両方が貼り合わさって社会が回ってきた。戦間期に「銀座よりも浅草が良い」とした川端康成や江戸川乱歩なら「光と闇の織り成す綾」って言うだろうね。
■前近代の社会が近代化するとき、強くなりゆく光と消えゆく闇が重なる期間が必ずあります。それがかつての浅草的なものや、vote buyingの途上国。でも、いずれ時間が経てば、強くなった光が闇を覆う。日本でも90年代半ばに闇の時空が消えました。でも途上国に行くとまだ残っている。でもいずれは光が闇を覆う。そこに問題のヒントがあります。日本は既に25年も前に、目に見えるフェイズが変わった。だから、以前と同じことをやる頓馬か、違うことをやるクレバーなのか、という違いが出てきます。まぁ安倍以下のいろんな人間たちの動きは、頓馬のケツ舐め連鎖っていうことで終了だと思いますが。

めりぴょん: 最近だと、東京医大が男女傾斜を付けていたのが掟ですよね。男子を多く入れなきゃいけないと。その掟が暴露によって公の目に晒されたっていうのは、頓馬の発露というか。

宮台:■全くそう。さっき申し上げたことだけど、第一に、これだけ新住民的な存在が増えた中で、第二に、これだけネットがはびこっているところで、昔ながらの「裏界隈」の「掟」を維持できると思っているヤツは、情弱です。任侠=「裏界隈の掟」を、支えるものは倫理です。倫理を欠いたクズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」=新住民的存在がこれだけ覆い尽くした中では、倫理はあり得ない。だから任侠もあり得ない。

石丸: 「あらいぐま」(河合克行)と「アンジー」(河合案里)っていうあのユニットは、その辺の感覚が情弱であると同時にうまく掴めないまんま昔通りにやって、案の定問題になったという構図ですか。

宮台:■「案の定、問題になった」というより、いくつかの偶然が重なって、本当だったら出ないはずのものが出ちまったんでしょうね。

石丸: そうですよね。だって法務大臣だったんですから。直前まで。出ないと思ってるから法務大臣なんだ。

めりぴょん: 私は旦那さんのほうが「法務大臣になったからとりあえず大丈夫だ」みたいに言っていたっていう話を見てですね、涙が禁じ得ないくらいの、「あらかわいそうに」くらいの不運が重なってしまったのかなと。

石丸: あの夫婦は、並んで二人で写真で出てると、本当に夫婦感がないんですよね。自分の見立てなんだけど、性的な関係じゃないんじゃないかって気がする。

宮台:■もちろん、安倍夫妻を含めてね(笑)。

石丸: そう(笑)。アンジーはしかも、見るからにメンヘラじゃないですか。

めりぴょん: すごいですよね。ODして運ばれたのが全国ニュースになるっていう。

石丸: どう見てもメンヘラな顔でいきなりデビューして、そしたら「私、自殺未遂したじゃない? いろんな薬をいろんなお酒で飲んで、たくさん飲んでも死ななくって、運ばれちゃった」みたいなことを平気で文春に答える感じとか。メンヘラの夫婦感のないパートナー的な「あらいぐま」と「アンジー」というユニットが国会議員で、こういうふうになるって、すごくナウい感じがするんですよ。

めりぴょん: 石丸さん、河合案里出てきたら呼んだらいいんじゃないですか。「病ダレアイドル」に呼んでくださいよ。

石丸: もう大ファンですよ、「アンジー」の(笑)。


めりぴょん: 石丸さんがやってらっしゃる「病ダレアイドル」って企画があって、メンヘラのアイドルとかを集めて話を聞くってイベントがあるんです。河合さんピッタリじゃないですか。

石丸: ピッタリ。でね、アイドルって基本的に全員自分はメンヘラだと思っているわけ。まあ基本、メンヘラですよ。


宮台:■AV女優ほどじゃないけどね。AV女優は何度か付き合ったことがあるんで。

石丸: メンヘラですか?

宮台:■たいがい、メンヘラ。

石丸: 政治家って、顔見て「うわ~この人メンヘラだな」ってあまり感じたことなかったんだけど──ちょっと前に自殺した元小沢ガールの人とかは、メンヘラかなって思ってた──。「アンジー」は自殺報道が起きる前に出てきたときの顔がいきなりメンヘラ顔。


宮台:■そうだったね。形相が変わっていたね。

石丸: 国会議員にもメンヘラのウェーブがきているのかなって。

宮台:■それは「裏界隈が消えたのに、裏ごっこをやってる頓馬」の流れだから面白いよね。安倍って、ただの犯罪者じゃんね? 違法な営みの天こ盛り。ところがそこに関わっている人間は任侠(任侠は「裏の掟」という意味に加えて「裏の掟を生きる人」の意味もある)ではない。所属集団でポジションを保つだけの損得マシーンのクズじゃん。任侠ってそうじゃないんだよ。任侠の言葉って『仁義なき戦い』の「仁義」って言葉と重なることから分かるけど「裏界隈の正義」なのね。掟だから必然的にそういう意味を含んでいるってことだ。ところが、安倍界隈のクズどもって、表社会の法を守らないと罰せられて一生を棒に振るから必死に隠蔽して、安倍のように法さえ変えようとするような輩だらけ。界隈への倫理的コミットメントなんてなく、損得勘定オンリーのクズだらけ。それが表と裏の区分が消えてからの非合法領域の実相だよね。そのあたりを元暴力団組長の視座から記述したのが中野太郎『悲憤』(2018)だよ。安倍的な非合法性って「裏の掟」界隈とは全く違って、自分は森羅万象だと勘違いした頓馬が、表界隈での損得ゲームが昂じて法を踏み外しただけ。だから、損だなと思った途端、裏切り者が次々と出るわ出るわ(笑)。河合夫妻に買収された連中が蜂の巣をつついたように「安倍の巣」から逃げ出してるじゃん(笑)

めりぴょん: それこそ「安倍とともに去りぬ」って、前に言ってらっしゃった(笑)。

宮台:■その通り。すごく大事なポイントは、お二人がおっしゃった「メンヘラ化」。つまり、酒鬼薔薇事件の時に僕が使った言葉で言えば「闇の個人化」だよ。その酒鬼薔薇事件が1997年だってことが象徴的だよね。善悪判断は横に置いて、社会が変化する方向を話しているだけなんで、聞いている人は誤解してほしくないけれど。「表と裏」「光と闇」の二重構造が消えて、「表の中」「光の中」での表層的な戯れだけになったわけ。そこから先は「捕まらないで、いかに切り抜けるか」という戯れだけになった。それを「あらいぐま&アンジー」は勘違いしたんだね。安倍と同じで馬鹿だからだね。この馬鹿さは、しかし安倍と河合夫妻だけじゃなく、自民党議員も超えて、多くの人間たちに共有されている。今日の僕の話はちょっと難し目だけれど、反芻して考えてほしい。
■僕自身が反芻しようか。安倍や河合夫妻みたいな頓馬は「投票買収みたいな脱法は昔ながらだ」と思っている。しかし昔は、表と裏の二重性があった。「裏界隈」があって「裏の掟=任侠」の世界があった。途上国の人たちがレポートに書いてくれたように「自分たちの国ではvote buyingは、単なる脱法じゃなく、共同体の保全行為、つまり共同体へのコミットメントそのものだ」。それを読んで僕は「日本もそうだったんだよな、30年前までは。でも今はもう違うんだよね」って思った。日本の掟の界隈は90年代半ばに消えた。どの界隈からも一斉に消えた。なのに20年以上も経ってもまだ「これは昔の作法だ」と思っている頓馬が大量に残っている。どうして頓馬が大量発生しているのかというと、本人が悪いんじゃなくて、歴史を含めた世の中の全体が見えていないからだよね。
■だから、今日も歴史の話になったでしょ? ある社会で何かが起こったときに、それがどういう意味を持つのかは、少なくとも50年の歴史を見なければ絶対に分からない。売春1つ取ったって、クスリ1つ取ったって、何にしたってそう。善い悪いは別として「今こうなっているのは何の意味を持つのか?」は歴史を遡らないと分からない。歴史を遡ると全体が分かるからそれが分かる。それは社会学ではトータリティ(英語)とかトタリテート(ドイツ語)って言うけど、全体性が昔のいわゆる大物には分かっていた。もちろん社会学者はトータリティなんか全然分からない頓馬だらけ。僕が援交の存在を朝日新聞で暴露した93年、「宮台君、キミとは縁を切る」に言ってよこした社会学者が多数いた(笑)。だけど、昔の「表の大物」って必ず「掟の界隈」と繋がっていて、全体が見えていた。全体の流れも知っていた。語り伝えられていたからだね。だから勘違いがない。でも今は勘違いだらけ。「あらいぐま&アンジー」夫妻だけじゃなく、至るところに、歴史知らず&全体性知らずの頓馬がはびこっている。頓馬どもは「見掛けの類似」だけで「昔と同じことをやっても、別にいいんじゃね?」と思っちゃうんだね。それが至るところに見てとれるわけだ。

石丸: 本当に「あらいぐま&アンジー」のユニットが興味深くって。顔見た瞬間にファンになっちゃったわけ。「あらいぐま」の髪型って変じゃない、なんか? なんか特殊なカットを……どこで切ってんのかなって。広島じゃないと思うんだよ。

宮台:■微妙に好感度があがるヘアスタイルだよね。

石丸: そう、悪くないんですよ! メガネとかも奇抜すぎないでナウいし。オシャレに見えるんですよ。

めりぴょん: ナウいって言葉がナウくないですけど(笑)。

石丸: わざと使ってんのよ。「ナウい」って言葉が好きなのよ(笑)。


宮台:■僕も好き。「イカしてる」とかね(笑)。

石丸: 「ナウい」って言葉自体はダサいわけよ。でも髪の毛をあのぐらいの年齢で一生懸命に気を使うのって、ダサいじゃん。だからナウいって言葉とマッチングするのよ。

めりぴょん: それはそうですね。ナウいって言葉の文脈がね。

石丸: もうファンなんですよ~。

めりぴょん: 石丸さんが河合夫妻のファンだってことは、もう充分伝わりました(笑)。


宮台:■めりぴょんさ、引退した芸能レポーターとかに話を聞きにいくといいんじゃないかなあ。そうすると芸能における「掟の界隈」の歴史がわかると思うんだよね。

めりぴょん: それこそジャニーズの「ヤラカシ」みたいな分野って、研究している人がほぼほぼいない。先人がいないっていうのは、私は令和になってはじめてるけど、令和の時代だと誰も止める人がいないわけですよね。ところが今までの研究してきた人たちは、ジャニーズの表について分析することは出来ても、裏について研究しようとすると怒られが発生するので、それが文章になってないっていうのがある。それは令和になってインターネットが拡がって、どんどん掟の社会が無くなってきている利点として、それをまとめておくっていうのはやっといたほうがいいのかなって思っていますね、私も。

宮台:■社会学会でもジャニオタ研究って定番なんだけど、そこに踏み込んだ研究はほぼ皆無。単にファンクラブの偉い人から聴き取ってるだけ。それだとオモテしか見えない。「裏の界隈」に踏み込んでそれをやると、語り伝え・述べ伝えとしてすごく意味がある。それだけじゃなくて、めりぴょんにとってめちゃ面白いと思うよ。めりぴょんの性格にあった仕事は他にないってくらいね。

(文字起こしⅡに続く)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-07-02 - 18:51:41
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後編【DarwinRoom】料理の人類学9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)

【DarwinRoom】料理の人類学9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

後編


【質問1: 技術の役割:技芸からテクノロジーを経てテックへ】


鶴田: 会場からの質問を受け付けたいと思います。

宮台:■今日は若い方がとても多いように感じます。多分昭和的なものを全然知らない人達が多いと思うんですね。なので、僕のしゃべることが、概念的には分かるけど、まったく体感できません、みたいなことがあったら、おっしゃってくださると嬉しいですね。

山上さん(質問者): さっきの身体感覚の話で、僕がこれかなと思うのが小さいときに田んぼに入ったときのことです。質問は共通の身体感覚を得るようなデザインをするにあたって科学が果たす役割は何なのかな?ということで、昔に戻るだけじゃないって時に科学が大事になってくるんじゃないかって僕は考えました。

宮台:■おっしゃる通り。思考停止のシステム化に貢献する科学から、思考停止のシステム化が孕む問題を明らかにする科学へ、オルタナティブなシステムを作る科学へ、ということです。今までの歴史を見る限り、システム化が進むと、便利で快適になるだけじゃなく、僕らはただの駒になる。システム側からみると、僕らが入れ替え可能な道具的パーツになる。そこでは、異論を言う面倒くさいヤツはただのコストになる。なぜか。それは、時間と空間含めて、手が届く範囲within arm’s length から、手が届かない範囲 beyond arm’s length の合理性が、損益としてカウントされるようになっているからです。より拡げれば、市場だけじゃなく行政を含めた分業連関の全体を、テクノロジーがカバーするようになれば、そうした流れが必然的にマクロに生じます。
■だから「科学にどんな役割があるでしょう?」という質問には意味がなく、「科学をどう使えばいいでしょう?」という質問にだけ意味があります。今は、分業編成がシステム化から汎システム化pan-systemizationへと展開し、技術technicはクラフトのテクニークtechniqueからテクノロジーtechnologyを経てテックtech(ハイテクノロジーhigh technology)へと展開し、汎システム化とテックが結合したプラットフォーマーの時代になっています。その動き自体には抗うことはできない。だから、どういう方向にこの流れを導けるのかが、僕ら次第だということです。正確にいえば「僕らのニーズ次第」なのです。だから、「技術に何を要求するのか」から始めて、「新たな要求に対処するには技術によるどんな体験デザインが必要なのか」へと思考をつなげていくような、「倫理的な体験デザイン論としての、技術デザイン論」が必要だということです。
■一口で言えば、テックを倫理的にデザインするという課題です。そういう風に問題を立てれば、共同身体性を触媒するようなテック、人間が思わずアフォードされたり感染させられることで脱主体化できるようなテック、というヴィジョンが得られるはずです。そんなのは幾らでも思いつくし、コロナ禍がそうした思いつきのスピードを加速してくれている。例えば、音楽イベントも、ライヴハウスから、ネットのライヴ配信へと、急速に展開している。これはカネだけが物を言うテレビのライブ中継とは、全く違う意味を持つ。ネットのライヴ配信も、よりアフォーダンスや感染を容易に触媒する方向にテックが使われていくだろう。結局、僕らがテックに使われてきた状態から、僕らがテックを乗りこなす側に立つことが重要なのね。だから「テックにどんな可能性があるか?」という質問への答えは「テックの可能性は無限だが、どれが実現するかは僕ら次第」です。神成淳司さんとの共著『計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦』を読んで下さい。

山上さん(質問者): テックをどう使うかっていうところに視点があるのかと思ったんですが、科学がどう世界を見るのかっていうことを、身体感覚を踏まえたうえで、新たな見方が生まれるのか、それとも見るって時点で、見たいものしか見ないから、汎システム化にしか繋がらないと考えられているのか。

宮台:■ひとつ分かりやすい例。90年代、インターネットのチェリーピッキング(いいとこどり)を問題にしたキャス・サンスティーンが、オピニオン系のブログに、必ずカウンターオピニオン系のリンクをつけることを、法律で義務付けたらどうかという提案をした。でもそれは採用されていない。なぜか。皆が望んでいないからだ。一事が万事、そういうこと。我々は、今後も市場経済だから、人々に需要していただけない限り、テックは我々の生活に実装されないし、我々が民主主義を続けるのであれば、人々から投票していただけない限りは、テックを使った制度は我々の社会に実装されない。あとは、市場や政治のマクロな流れに抗って、どれだけ共同体自治を実現できるかということです。飯田哲也氏との共著『原発社会からの離脱――自然エネルギーと共同体自治』を読んで下さい。


【質問2: 料理と、クオリアのシンクロ率】

守屋さん(質問者): 宮台さんの著書の中で、奥様とデートに行くときに、思い出の場所に行ったり、奥様に自分の手料理を振る舞うというようなことが記述されていて、確か宮台さんと奥様は20歳くらい年が離れていたと思うんですが、料理や食事について奥様と感受性が違うなと感じることはありますか。

宮台:■ないですね。ないから結婚しているんだと思う。それで話が終わるのはつまらないから(笑)、話をつなげます。蓑原敬さんとの共著『まちづくりの哲学』にも書いたけど、僕が幼い時からよく経験した昭和的作法は、よそん家でご飯を食べることです。その時に衝撃を受けたのは、食をめぐる作法や文化って、家庭ごとに、親御さんの職業ごとに違うってこと。そこで違和感を感じたり、感心したりを、ずっと繰り返してきたんです。一般的な言い方をすると──幾らでも例外はあるけど──、自分と同じような、料理に関わるgathering(集まり)の体験データベースを持ち、その体験質をシェアできると信じられるような相手と、仲間になりやすい。
■人に話したことないことを話します。最初のデートは、諸般の事情でお台場だったんだけど(その前のデートが、妻が上司や同僚に「噂の眞相に何十回も書かれた悪魔と会うのか」と言われて監禁されて、流れて…)そこで今はもう日本では食べられない極辛四川を食べました。辛いもの好きの僕よりもずっと速く完食して、やっと仲間を見つけたっていう感じになったんです。いずれにしても、料理に関わるクオリアをシェアできる人とは、仲良くなりやすい。だから、人間は、御飯を通じて仲良くなりやすい。冷蔵庫をあけてみて、たまたまの材料があったときに、どんな料理をするようにアフォードされるかが、それぞれの家族文化であり、クオリア史です。コンビニ人間だらけの若い人たちには、そういうイメージがない人がほとんどだろうけど。そこが御質問の潜在的なポイントです。
■料理を作る場合も、食べる場合も、それを通じて集まりの個人史の中で育まれる共同身体性や共通感覚を、シェアできる人かどうかを判断できれば、結婚生活のイメージを想像できます。最近では20代後半から40代くらいまで、特に女の人は婚活に熱心ですが、話を聴いてると「何を見ているのかなぁ」っていつも思います。見るべきものは共同身体性と共通感覚です。イケメンかどうか、収入はどうか、それはそれで大事だろうけど、それ以上に大事なことは「シンクロ率」だよね。一緒に料理を作るプロセスと、一緒に食べるプロセスの、両方をやって「シンクロ率」を確かめるといいと思います。妻との最初のデートでは、「シンクロ率」が高くて、一緒にやっていくしかないって思い、最初のデートで事実上のプロポーズをしました。


【質問3: 家庭料理とは何か】

坂田さん(質問者): 私は昭和生まれで、仕事でキャンプとか自然体験をしています。多くの子供たちと外でご飯を食べている中で、何を食べるかを自分で選択せずに、与えられたものだけを食べてきたというような子供にも何人か遭遇しまして、シュタイナーが言っていることに、「子供っていうのは間違った食べ方をしなければ、水一滴に至るまで必要なものを欲するように育っていく」というものがあります。東洋医学的な観点だと、体を温める温の植物ですとか、夏に体を冷やす寒のものとか、そういうものをとることで総合的に人間というものを捉えていると思うんですけれども。宮台さんの中でどういう料理を食べるかということではないんですけれど、季節感や旬とか今は冷蔵庫があり年間通じてどんなものでも食べれると思うんですけど、何を食べるのかということをご家族で実験的にされていることがあるのかということを質問させていただきました。

宮台:■今の話はかなりハードルの高い質問です。例えば家庭料理と区別された日本料理の特徴は、旬のものを出すことですよね。料亭に行けば必ず旬のものを出すでしょ。お通しから始まってね。そこが家庭料理での日本料理との違いです。僕の考えでは、家庭料理は、そんなことにこだわってられない。余程ひまな人、金がある人以外はね。だから、あるべき家庭料理の手がかりをそこに求めるのは、ハードル高すぎます。
■昭和と違って、平成・令和の子たちは、好き嫌いがめちゃ多くて(昭和は無理矢理食べさせられた)、旬のものを出そうものなら「たけのこ嫌いなんだけど」で終了(笑)。旬のものは家族の誰もが欲望するわけじゃない。家族の誰もが欲望するようなものをプラットフォームにするしかない。ただし、ナス科やウリ科など「ぶらさがるもの」はカリウム代謝で体温が下がって夏にいいことや、芋類など「地中に育つもの」は体温が上がって冬にいいことは、家族旅行で旬のものが出て来たときなどに繰り返し教えています。


【質問4: システムの間接性から感情の直接性を取り戻す】

湯本さん(京都大学・霊長類研究所所長): 宮台さん、初めまして。私は宮台さんと同い年です。1959年生まれなんですけれども。それで2つコメントがあります。1つはシステム論、歯車になってしまうという。私は30年くらい前に教養部で生物学の講義をしていた時に始めにそのことを話していて、エコシステムって言葉がありますよね。あれは普通にエコロジカルシステムなんですけど。あえていうと。あれは実は、エコノミックシステム(economic-system)とも読めるもので。それで経済の歯車になってはいけないというところが、もちろんその頃から社会学でもあったと思いますけれど。生物学でもそうで、生き物というのは、生態系の歯車などではない。それぞれが勝手に生きているんだというような内容で講義を始めた覚えがあります。
 なので、宮台さんが清水さんのガイアというのに対して違和感を表明されて、私も何となく違和感があるんですけれども、その違和感は宮台さんも共有されているのではないかと勝手に思っております。今度ここで植物の世界というのを、ここでするんですけれども、その時のテーマというのは植物というのは、生産者という生態系の中の機能として定義されるものではなくて、それは重要だけれども、そもそもそれだけのものにはとどまらないということを改めて思いました。
 もう1つは、人間と自然という大雑把な二分がありますけれど、今色んな経済システムに取り込まれていって、自然との接点がなくなってきているというのが当然そうで、人間といったら、人間の周りの人間社会のシステムとの対応で手いっぱいで、その先の自然に対して滅多にそれは触れ合わない。あるとすれば、今回のコロナのようなものが現れると自然と向かい合うんですけれども、普通は自然社会システムの対応で手いっぱいなんですね私たちは毎日毎日。なかなか自然にまでは想いは至らないんだけど、そこは重要で、そのつながりを取り戻すための料理っていう視点。
 私も昭和の人間なんで『美味しんぼ』は楽しく読むんですけれども、主人公の周りの引き立て役の人たちの視点は、どうやら料理とは社会システムのものであるという、料理人がいて、料亭があって、シェフがいて、レストランがあってという、社会システムのものだという風に周りの人たちは思っているわけですね。ただ、主人公はそうではなくて、その向こうにある自然というものにまっすぐ向かうわけですよね。そこは一貫しているんですね。
 そういうところで、自然か資源管理となかなか周りにあるから自然管理できるというわけでもないんだけれど、そこは想像力を超えてしまっているので、例えばエコロジカル・フットプリント(Ecological footprint、EF、地球の環境容量を表す指標)などの、サプライチェーンのトレイサビリティ(traceability)や環境ラベルというような特別な工夫をして、自然とむすびつけて確認しあう。先ほどの科学にどんな意味があるのかもそうですけれども、実態は分からないんだけれども、そこを結びつけることで、せめて自然との距離を体験できるようなエコロジカル・フットプリントで数値化をしてみたり、サプライチェーンのトレイサビリティと言ってみたり、スーパーマーケットに置いて工夫してみたりしてるんだなと。そういう意味で料理、食を取り巻く人と自然の関係ということ。この2点を今回思いました。どうも失礼しました。


宮台:■湯本先生、ありがとうございます。すごく印象的なコメントでした。やっぱり僕も自分で昭和だなと再確認させられたからです。エコロジカル・フットプリントとかフードマイルみたいなものって、所詮はロハスで、昭和人間は騙されません。ロハスって、Life style Of Health And Sustainability のことで、スローフード運動に対抗して1995年にウォルマートが始めたものでした。「俺たち巨大流通企業だってトレーサブルでオーガニックなものを提供できまーす」みたいな。そしたらすぐイタリアとフランスでふざけんなって反発が生じた。「あんたらは儲けるためにやってるだけだろ」とね。うちらはそうじゃない。儲けるためにオーガニックを作るとか売るとかじゃなく、仲間にいいものを提供したいからオーガニックを作るし売るんだ、法律が禁じているから添加物を使わないんじゃなく、仲間にいいものを提供したいから添加物を使わないんだってね。僕はこれを、システムを介さない「感情の直接性」の回復って言っている。
■実際、スローフードって、日本の昭和期の運動なんだけど、やっぱりそういう「感情の直接性」を取り戻すってことが、全てにおいて基本になっています。ロハスは「地球を考えています」っていうマクロ志向。スローフードは「仲間のために生きる」っていうミクロ志向。マクロ志向なんて所詮はブランディングや意識高い系と結びついた流行です。ただの個人化された「ライフスタイル」だから、すぐに忘れられる。スローフードは共同体の生き方をめぐる「ソーシャルスタイル」だから、忘れられない。だいいち、フットプリントだろうがマイルだろうが、不当表示でしたとか、集計プロセスが間違ってましたみたいなことになった瞬間、「えぇ!騙しやがって」ってなるでしょ。今欠けているのは、湯本先生のように、ロハスに違和感を感じたり、スローフードに凄いなって感じたりする、「感情の直接性」のベースになる体験が欠けているんですね。湯本先生の仰ることには本当に共感いたします。ありがとうございました。

清水: ちょっと宣伝だけ、先ほどお話いただいた湯本さん担当で、来月の19日から5回、植物の惑星の特別企画シリーズってことで、ぜひ参加いただきたいと思います。

宮台:■湯本先生が最後におっしゃった「エコロジカルシステムにとって重要なので、森や木や花を守りましょう」みたいなイデオロギーじゃなく、花が手折られたり、木か切られたり、森が切り崩されたりするすると、「お前には痛みが感じられないのかよ、許せないヤツめ!」って腹が立つ感情が生じるかどうかが、問題なんです。それを社会学では自己包絡 self involvement と呼んできた。自己の拡張身体のなかに、花や木や森が含まれて involved いれば、腹が立つよね。人類学でいう合体combineであり、宮台語でいえば「なりきりbecoming」です。これは「ナチスのエコロジー問題」に直接関係する。
■つまり、マクロスケールのイデオロギーじゃなく、マイクロスケールの感覚をベースにした実践を実装する営みが「環境エコロジー」であれば、いいと思う。それじゃないと、特に劣化した日本では、三島由紀夫の言う「空っぽ問題」になっちゃう。「一夜にして天皇主義者が民主主義者になる問題」「一夜にして家父長制主義者がフェミニストになる問題」です。昨今でも「これからはSDGsが旬らしい」とか「これからは持続可能性でしょう」とかホザいているクズがいっぱいいるでしょ。もう、そういうのうんざりだよ、はっきり言って。以上です。


【質問5: アドボカシーから体験デザインへ】

安永さん(質問者): 北欧のfood movementやオランダのマライエ・フォーゲルサングを筆頭にした食のデザインを見ていると、人々に食べ物の背景や環境問題、実験的な食の試みなどを表現している人たちがたくさんいるように見えます。これらはオルタナティブな思考でしかないのでしょうか。またメインストリームにそれを求めることはどうなのでしょうか。

宮台:■問題は、思考やアドボカシーに留まるのか、「体験デザイン」の実践なのか、です。フォーゲルサングは「体験デザイン」の実践をしますが、日本人の受け止め方はどうでしょう。エコロジー運動とか何とか運動みいたなアドボカシーレベルで、物事が展開している限りは──日本人は「からっぽ」なのでそうなりがちですが──それはロハスとなにも変わらない。個人が「意識高い系」的に選択できるライフスタイルでしかないということです。大切なのは、共同体全体の実践としてのソーシャルスタイルです。
■ってことは、仲間全体に関わるミクロな実践しかないってことです。人間関係の中で何がドライブ(駆動因)になって営みが展開しているのかを、敏感に観察して修正する感受性を、仲間みんなに拡げる実践です。そのためには、まずは仲間がいないとどうしようもないでしょ。だから日本は殆どどうしようもないわけです。単なる個人化されたライフスタイルだと、This wayに対してalternative waysもあるよっていう話になって、「どっちがいいんでしょう?」とか「エビデンスは?」とか「統計的なリサーチは?」みたいな話になる。それは意味がないと断言します。
■哲学って言葉を使わせていただくのであれば、ギリシャの哲学って確かにフィロ・ソフィーで「知を愛する」なんだけど、ギリシャの場合には主知主義じゃなくて主意主義だって。DarwinRoomでも映画批評ラボで何度も言ってきたことだけどね。どうにもならない摂理を受け容れるってことです。まぁ言えば「引き受ける覚悟」です。「こうすれば、ああなるから、良いのだ」っていう条件プログラム的な思考に乗っかるのが主知主義。「そうすればこうなる、危険だからやめたほうがいい」とかね。
■こうした条件プログラムつまりIf-them文とは関係なしに、「私は摂理を受け容れた上で、端的に何かを貫徹する」っていう意志をベースにするのが主意主義です。ギリシャは常時ポリス間で戦闘してたけど、重装歩兵の集団密集戦(ファランクス)だったから、「死ぬかもしれないと分かっていながら、それを恐れない果敢さ」が、英雄として讃えられた。先ほどの湯本さんの質問に引き寄せれば、間接的なものが主知主義=条件プログラム、直接的なものが主意主義=目的プログラムです。仲間のために善いことをしたい、それをしてくれる仲間を見てるから高い金を払いたい、というのが大切です。以上です。


【質問6: 真のハレを回復する:交換から贈与へ】

鈴木さん(質問者): 家庭料理から郷土料理に話を遡るとハレの日とケの日に料理を食べると思います。今後、食べるという行為が作業と化してくるのであれば、それはある意味ケの文化に近づいているということだと思います。そこでハレの日的なものを取り返すことが共通感覚をデザインする意味で可能性があるのか。ハレの日的な料理について。

宮台:■そろそろ鶴田さんも答えてくださいよ(笑)。

鶴田: なるほど。ハレの日的なものは、昔はある種宗教性を帯びていたと思うんですよね。だから宗教的なものがあってこその、ハレの日的なものであり、そこに一種の倫理性というものがあったと思うんですけれども。今、それを虚構的に、加工的に作り出したとして、それがかつてのハレの日的なものとして機能するかどうかは分からない。例えば正月の集まりというのは、一種のハレの日の集まりなわけですよね。そこで家族が集まって皆でご飯を作る。だけどそこでご飯をつくっているのが、主婦だったたり、お母さんだったりすると、あまり前進しているとは思わない。
 先ほど宮台さんがおっしゃった体験デザイナーとしての食として考えるときに、僕が思い出したのが関野吉晴さんがカレーライスをいちから作るって映画を作られていて、武蔵美の学生たちと先生が、いちからつくくる。しかもスパイスや材料も自分でつくるし、鶏も自分で育てますし、塩も海水を蒸発させて取るわけですよ。それは体験デザイナーとしては、かなり面白い取り組みだなっていう風に思いました。それはハレの日の概念を拡張しすぎですけれども、授業を通じて普段の料理を作ったわけじゃないわけですよ。このカレーをつくるって行為は、ものすごい快適な行為でこれをつくるために一年間鶏とか育ててきたわけですよ。そういう意味で、その日がハレの日ってニュアンスでもいいのかなっていう答えになります。


宮台:■僕が答えるよりも印象的なすばらしい答えですね。僕は人類学・民俗学ベースで思考する。すると本当に鶴田さんの仰ったように、僕らが近代社会でハレの日って呼ぶハレの日と、昔の定期的なお祭りのハレって、全く違うんです。今でも、そういう感じの、七年に一度の御柱祭りがあって、お祭りが終わった次の日からまた七年後のお祭り「に向けて」日常が始まる。日常に耐えることができるのは、またお祭りが来るって思えるからですよ。まさにその感じを、三十年前に青森のねぶた祭りを見て感じました。そのころの青森の中高生の初体験は、たいていはねぶた祭りの期間だった。今はもう違うんだろうな。
■その感覚って分かりますか。定住以前には祭りは全くなかったんです。定住社会は、法に従わないと、農耕に必要な集合的で長期プログラムに従った行動ができないでしょ。収穫物の所有もできないしね。だから法がメインになった。法に従う生活は、クソな生活だし、法に支配された社会もクソです。でもそれで我慢するしかない。だからこそ、定期的な祭りを通じて法と不法を逆転した。男女も逆転し、主従も逆転し、性的タブーとノンタブーも逆転する。日本で戦後もしばらく残っていた無礼講がまさにそれでした。
■そうやって定住以前、つまり法以前・言語以前・損得以前を取り戻す。抽象的に言えば、exchange(交換)じゃないgift(贈与)を取り戻す。そのために、被差別民を聖なる存在として召還する。所有や法を否定して定住を拒絶するがゆえに差別されるようになった被差別民をね。そのことで、風化しつつあった力を取り戻す。クソ社会のつまらない日常に耐える力を取り戻す。それがハレです。「今日は誕生日だからみんな集まって普段食べないケーキを食べましょう」なんてのは人類学的・民俗学的なハレとは程遠い。だたのパーティーの非日常的日常です。つまり日常のエピソードです。ハレって言葉に相応しいだけの重さを、体感的に知っていれば、そのために料理を含めて全てを組織する、っていう御柱祭り的な実践もあり得ると思う。
■人類学者が数多く報告してきたように、ポリネシアンは祝祭時に「蕩尽」します。食べられないだけの料理を作りまくる。今でも日本の一部にそういう習慣が残っています。20年少し前に『美しき少年の理由なき自殺』の主人公のS君の実家に行った時のこと。今こんな原稿が今書けていて、もうすぐ本になりますって、僕と共著者の藤井誠二の2人で報告にいった。そしたら、2メートル×5メートルのテーブル一面が、料理がのったお皿で埋め尽くされていたの。「すいません、絶対食べきれませんけど」「いや、今日は大切な客人が来たハレの日ですから、もったいないとか関係ないんです。できる限りのご馳走を作って、飲みきれないほどお酒を用意するのが、当地のしきたりです」と。「ショートケーキを人数分買ったほうが、デコレーションケーキよりも安いんだけど」みたいな世界じゃない(笑)。というわけで、皆さんのハレの日のイメージはどこまでハレなんだろうってとこから考え直して下さい。以上です。


【質問7: 言葉の詰め込みから、言葉による蓋の取り除きへ】

カホさん(質問者): アフォードされるには、アフォードされる力が必要だと思うんですが、受け手に必要だと思うんですが、それはどのようにして身に付けられるものなんでしょうか。教育でしょうか。

宮台:■教育といっても、アフォーダンスに関わる教育は、さっき言ったように、体験によって触発される遺伝子的可能性のことです。「皆さんには潜在的な可能性はあるんだけど、言葉によって蓋がされている」という感じです。だから対処には2つあります。1つは、言葉の蓋を取り除くこと。言葉に固着するのは神経症の症状です。神経症の背後には埋め合わせたい不安があります。だから言葉の外に出ても不安はないんだよって思う方向性に行くことです。
■もう1つは、そのためにも、ってことだけれど、何々を見たら思わず何々をしている態勢を育てること。そこには言語的な条件プログラムはない。「認知して、評価して、自己指令して」何かをするという言語的回路とは、全く別の回路が自分に働く可能性を、まず言語的に自覚させます。実は、「認知・評価・指令」の言語的な条件プログラム(if-then文)で僕たちが行動するという理解は、古い行動学的モデルです。当人が「こういう理由でそういう決定をして、意図して行動した」と自己理解する場合も、そうした意図以前に脳が発火することが知られています。そのことも含めて、直接性をもっと自覚する方がいいでしょう。
■クズの定義である「言葉の自動機械」も自動機械だけど、バッタを見たら思わず手にバッタを握っているってのも、別の意味での自動機械。前者が言語的自動機械。後者が身体的自動機械。パブロフの条件付けと違ってかなり生得的だけど、生得性を開花させるにも履歴的に陶冶された身体性が必要です。その証拠に、かつて激しい武道やスポーツをやって身体性を構築した若者は、「言葉の自動機械」の神経症的症状を呈していても、週1の宮台ゼミで言葉の蓋を取り去れば、自由自在に何かにアフォードされるようになります。その意味で、マシーンはマシーンでも「言葉の自動機械」ほどバリエーションの少ない貧しいマシーンはない。言葉の蓋を取り去れば、人が踊っていたら思わず踊っているとか、人が笑っていたら思わず笑っているとか、目があったら思わずニッコリしてナンパしてしるとか(笑)一挙にできるようになる。アフォードされる身体的な自動機械は豊かです。

鶴田: 教育によって覚え込ませるとかではなく、もっと内発的なものを引き出すっていう意味であれば教育だということですよね。ありがとうございます。



【質問8: 普通の親が禁じることを全てやらせる】

三井さん(質問者):現在4歳の子供を育てています。感情の直接性を育てるために、母親が気を付けることや、母親同士で共有する方法はありますか。子育てにおける感情の直接性について。

宮台:■一番大事なことは、安心・便利・快適じゃないものに連れ出すってこと。まずは危険なことをやらせてほしい。4歳だったら、原っぱで焚き火をしたり、滑り台の逆さ登りとかから始めてほしい。小学生だったら、今時の親が「やってはいけません」っていうことを全部やらせることから始めてほしい。すると、決まりを破ることが、いかに楽しいのかが分かってもらえる。つまり「法外の享楽」です。しかも、その楽しさは個人的なものじゃなく、みんなも楽しい。つまり「法外のシンクロ」です。そこがポイントです。
■その時「みんなはダメっていうから、こっそりね」と声を掛ける。そうすれば「なりきりbecoming」と「なりすましpretending」の両輪を教えられる。そこから始められるといい。僕の例だと、人の家の庭で遊ばせる。すると翌日には「立ち入り禁止」って看板につけられちゃうけど。マンションに侵入して屋上まで上がる。子供たちは「関係者以外、立入禁止」って書いてあるよ」と言ってくる。「知ってるよ、でも怒られるの俺だけ。君らは大船乗ったつもりで大丈夫」と言えばいい。そこから眺めてみれば、昭和の子たちと違って、平成や令和の子たちがどれだけ不自由だか、分かるでしょう。以上です。


【質問9: コンテンツを使った体験デザイン】


吉永さん(質問者): 身体の動作を指導する仕事をしています。コロナにより何もかもオンラインで行わなければならなくなった。そうすると何もかも言語化しなければならない。その言語化しなければならない中で、感情の回復をするにあたってどのようなことを、オンライン化に関わらず、感情の直性性を伝える、育む方法を教えてください。

宮台:■僕は体験デザイナーですが、コロナになってリモート授業が多くなって、僕はますますコンテンツに依存するようになりました。『ウンコのおじさん』には体験デザインの2つの柱が挙げてある。1つは、虫取りのような外遊びを通じた体験デザイン。もう1つは、昭和コンテンツを通じた体験デザイン。両方とも説明しましたよね。僕は、この十数年、いろんな授業で、テーマが違っていても、コンテンツを見せたり聴かせたりってことをやっています。2つ理由がある。1つは、外遊びと同じで、言葉の向こう側にあるシニフィエ(指示されるもの)としてのクオリア(体験質)を、実装させるため。もう1つは、リアルワールドでの体験が難しいからです。映画なら映画の世界で、ドラマならドラマの世界で、言語的な出来事と並んで、非言語的な出来事が描かれています。登場人物の一部は「言葉の自動機械」として振る舞ってるけれど、別の一部はアフォードされたりミメーシスが起こったりして振る舞っていることが、描かれるわけです。
■何百回も言ってきてるけど、昭和の子供向けコンテンツって、とりわけ1960年代には勧善懲悪がとても少ない。代わりにあるのが「本物か偽物か」ってモチーフだ。「人間は善に見えて、実は偽物の善。怪獣は悪に見えて、実は本物の善」っていう。こうした「本物・偽物図式」って今の子供コンテンツにはほとんどない。同じ良さげなことを言っていても、本物と偽物の違いがある。同じ悪をやっていても、本物と偽物の違いがある。日本人の大人たちがそれが分かるように育っていたら、安倍晋三のような犯罪者が首相であり続けるなんてあり得ないよ。
■キリスト者は「善きサマリア人の喩え」を知ってるから伝えやすいけど、本物って何なのかを言葉で伝えるのは難しい。でも、あえてやると、法を破るにせよ、愛や正義のために法を破るのか、それとも、自分の損得勘定から法を破るのか。あるいは、法を守るにせよ、自分の損得勘定から法を守るのか、それとも、愛や正義のために法を守るのか。あるいは、真の境い目は、法を破ることと、守ることの間にあるのか、それとも(法を守るにせよ破るにせよ)動機が愛や正義である場合と、損得勘定である場合の間にあるのか。そういう問題設定は昭和ならではです。
■そういうコンテンツって今の大学生は見たことがない。だから、僕のゼミで──今日も何人かゼミ生が聴いてるけど──そういう昭和の小学生向けコンテンツを見せるだけで、かなり衝撃だし、夢中になっちゃう。僕ら世代は、そういうものを見て育ってきているんだね。だから「善は善、悪は悪」ってトートロジーが描かれてると、間違ってると思うし、それ以前に端的につまらない。「日本スゲー、中国は悪」って本当にクズだと思うのは、中国人の仲間どころか日本人の仲間さえいない「言葉の自動機械」なのもあるけど、つまらないことに浅ましく群がるからだよ。敵の中で味方を見つけ、味方の中に敵を見つけるのが、最もエキサイティングだ。それをコンテンツで体験してもらえる。なるほどってね。そうして初めて僕が言う「損得を超えろ」「法を超えろ」って言葉の本当のシニフィエが分かる。「世界は本当にそうなんだなー」って感覚が分かる。分かってほしい。
■確かにコロナはtogetherでいるのが難しい。だからtogether じゃないと伝えられないものは伝えられなくなりがち。だけど必ず何でそれを補うのか考えて欲しい。これからは放っておいたってバーチャル化やサイバー化が進む。コロナで10倍速で進んでいるだけ。どのみち起こることが起こっている。どのみち起こることは早く起こった方が、ゆでガエルにならないで気がつける。それだけのアドバンテージをゲインできてるんです。そこを意識できれば、後は自分で考えて、みんなと相談して、コンテンツを通じた体験デザインを工夫できる。自分が与えたい体験を与えられるかどうか考えて、コンテンツの一揃いを工夫していただくってこと。以上です。


【質問10: 体が勝手に反応するだけではダメ】

森山さん(質問者): 体が勝手に反応してしまうような体験っていうのは、自分もあるような気がするんですけど、それが宮台さんの仰っていることなのかが分からない。そういう体験に自信がもてないっていう点で共通感覚がないってことなんでしょうか。

宮台:■本質的な質問です。例えば、中国人って言うだけで「てめぇ、中国に帰れ!」とか、安倍さんが黒川問題で批判されてるだけで「安倍さんがかわいそうじゃないか、安倍さんが自殺したらどうするんだ!」とか。自分が排斥しようとしている中国人の悲惨に寄り添うことがないのに。単なる「言葉の自動機械」なんですね。僕は元々、言葉の働きと体の働きの間のリンクに興味があるんです。例えば、言葉に神経症的に固着する人って、言葉だけで「鳥肌が立っちゃったり」「足がすくんじゃったり」する。「ヤクザは怖い」なんてのが典型です。「言葉の自動機械」のなせる技です。だから、体が勝手に反応してしまうからといって、決して「言葉の外」を生きていることにはならない。
■「右翼は怖い」なんてのもそう。右翼って、ある時代から怖い人を意味するようになった。僕が10年ぐらい前から「ウヨ豚!」とか「アメリカの糞がついたケツ・を舐める首相の糞がついたケツ・を舐めるだけのウヨ豚のクズ!」とかラジオで言ってきた。するとディレクターが「宮台さん、よく怖くありませんね」って言うのね。「えっ? 怖い? あんな駄文を書いてるヤツの顔が浮かびませんか? ヘタレに決まってるでしょ」って返してた。今はウヨ豚なんて誰も恐がらないけど、10年前はまだ恐がられていた。以上です。


【質問11: 五感すべてを使うという料理の優位性】

松本さん(キュレーター): 共通感覚を取り戻すために、特に料理が持っている、まぁ料理だけじゃなく虫を捕るとかいろいろ体験はあると思うんですけど、料理だからできる可能性みたいなのって、宮台さんはどのようにお考えなのかを伺いたいです。

宮台:■昭和の時代は、夕方にオモテを歩くだけで、今よりもっと食べ物の匂いがしたんです。味噌汁の匂いだったり、カレーの匂いだったり、「おぉ、ここ、スキ焼きの匂いしてるぜ!」みたいな。今は夕方歩いても「なんでこんなに匂いがしなくなったんだろう」っ思います。これも重大な問題です。五感すべてを使う体験って、今は結構珍しいですよね。でも料理ってどうですか。五感を全部使うよね。五感全部使っているから、匂いを嗅いだだけで、食卓の風景が浮かんで、ニコニコしながらスキ焼きを食ってるガキンチョの姿が見えてきたりする。こういう感覚が昭和なんですよ。
■昭和では61歳って本当ジジイだった。だから僕はもうジジイです。僕や清水さんを含めて昭和のジジイをリスペクトしてほしいです。みんながみんなじゃないと思うけど、結構みなさんが知らない体験をしてきた人がいっぱいいる。料理のいいところは、料理と無関係に生きてきた人がいないことと、料理から時代ごとの社会的な文脈を誰でも想像できること。だから、ジジイやババアにとって料理が何だったのかを訊いて、今の自分たちと比べることができ、自分たちを反省できる。話を聞けば自分たちにかけている体験が何なのか分かると思うので、昭和のおじいちゃんをリスペクトしてほしい。


【質問12: ウーバーイーツの配達員に子供が憧れるのはなぜか】


住田さん(キュレーター): 私も昭和生まれですけれども、令和を考えると東京でよく見かけるUber Eatsの配達員の人たちなんですけど、子供たちが配達員を見ると喜ぶんですね、カッコイイと。自分たちもなりたいと。これは宮台さんのいう感染に近いのかなと。料理について外部化しているんだけど、共感しているのかなと。分業化してるんだけど、分業化している人たちにも共感する部分が令和の時代にはもしかするとあるのかなと思った次第です。

宮台:■住田さん、すごく敏感なアンテナですね。それは料理を運んでるからだと思うんです。さっきの五感を刺激する料理。これを運んでいる。ってことは「幸せを運ぶ人」なんですよ。単に荷物を運んでるんじゃない。そこが子供達にとってリスペクトの原点なんじゃないかな。「幸せを運ぶ」っていえばサンタクロースですね。もちろんUber Eatsの配達員が背負うボックスもかっこいいし、あの黒いTシャツのコスチュームもかっこいいけれど、「幸せを運ぶ」人だから喜ぶってことが絶対にある。昔は自転車の片手運転で、もう片手で盆にのった丼を運んでいる出前屋がいましたけど、やはり「いいな」って思いましたもん。あの先に食べる人がいるんだなって思うと、ステキな気持ちになった。


【クロージング】


鶴田: 今日は遅くまでありがとうございました。本当に盛沢山でかなり抽象度の高い話から、具体的な話まで伺えて本当に面白かったです。


宮台:■鶴田さんのおかげです。まだ20代でしょ?

鶴田:30歳です。


宮台:■今どき珍しい、本当に絵にかいたような好青年ですね。僕は必ずそういうときには、そうならざるを得ない闇もあったのかなって思うんで、そのうち鶴田さんの闇も伺うことがあるのかなと楽しみにしています。

以上
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-22 - 11:07:46
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中編【DarwinRoom】料理の人類学.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)

【DarwinRoom】料理の人類.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

中編

宮台:■まぁ音楽の話を続けると、「感覚の共同性」が分断された状態で「オレはこれがいいと思う」というようになる。それを「こだわり」という言葉で表現するようになったのが、この25年間。「イタイ」という言葉と並行して拡がってきたんだよね。「イタイ」ってのは、僕のいろんな文章にあるように、過剰さを忌避する言葉です。ってことは「分断されているがゆえに、むしろ過剰さを忌避するようになった」んだね。僕の十八番のサブカルチャー研究からは、そのように言えます。だからさ、鶴田さんが一生懸命料理して、みんなにごちそうしたとしても、それは共同体的共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いているから、「他の人がやらないことをやってすごいね」で終わるっていう。
■共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いた状態だと、僕のよく使う言い方で言うと「技芸がmimesis(感染)を生じさせない」。「僕も料理してみたいなぁ」とか「自分も楽器が弾けるようになりたいなぁ」とかね。身体性をベースにした感染がどんどん生じなくなってるでしょ? だからoperational goal(作業目標)としては、mimesis(感染)が容易に生じるような条件を、どうやって回復するかが、戦略的に大切になるんですね。鶴田さんがみんなの前で料理をふるまうだけじゃ、回復しないんですよ。「わざわざ作らなくてもいいのに、どうもありがとう」で終わっちゃう(笑)。だから、僕は子どもを相手にする場合、虫取りとかトカゲ取りみたいな外遊びとかから始めるわけです。
■最近ちょっと面白いことがあってね。コロナによる外出自粛要請で、子どもたちが外で遊ばなくなったでしょ? うちの虫好きだった6才のガキも、あんなに虫好きで、いつもバッタを取ってカマキリにあげていたのに、マインクラフトしかやらなくなっちゃったんですよ(笑)。いや、マイクラも、一応ゲームの中では一番クリエイティブだなっていう信念で、子どもたちにオススメをした結果なんだけれど、マイクラの外に全く出なくなっちゃった。「散歩しようよ」「面倒くさ~い」「あんなに虫好きだったじゃん」「昔の話~」ってね、箸にも棒にもかからないわけだ(笑)。
■ところがね、こないだ外出自粛要請も軽くなったので、山梨のある場所で虫取りをしたんです。正確にいうと、虫がたくさんいる所に行った。すると面白いですね。6歳児が、虫を取ろうと思っていないのに、気がつくと体が動いちゃってるの。イナゴとか蜘蛛とかを自動機械のように採っているんです。「お~やっぱ虫取り好きじゃん」って言ったら、「別に好きなんじゃなくて、虫がいると自然に捕まえちゃうんだよ〜」って言ってね。これってすごいなと思った。これだよなって。つまりギブスン流の生態心理学が言う「環境によるアフォーダンス」が生じていたんですよ。まさに虫がアフォードしていたわけ。アフォードするってのは「モノの配置がヒトに行為を〝与える〟」という意味ですけどね。
■まぁとにかく、すごい光景を見ちゃったわけよ。料理でいうと、冷蔵庫を開けて何か食材が見えた途端、選択としてよりも、視界に入った素材によってアフォードされて、気がついたら料理を作っちゃってた、みたいなこと、あるでしょ? 生態心理学の発想からすると、技芸的な意味での技術的遂行って、簡単に言うと「モノから呼びかけられて」やってるもんなんですよ。生態心理学がよく出す例でいえば、ある場所に石があって、思わず腰掛けたとする。すると、「どこに腰掛けようかな」と思って、石を探して座ったんじゃなくてね、石が座るに適した形状があると──正確にいえば「座っている状態を〝身体的に〟想像させるような物理的性質があると──気がつくともう座ってるっていうね。
■だから、技芸の本質って2つあることになる。1つは、ヒトから心身への呼び掛けとしてのmimesis(感染)。もう1つは、モノから心身への呼び掛けとしてのaffordanceなんですね。ガキを見ていて思い出しました。子どもの頃、僕もそうだったんですよ。っていうか、今でもそうなんだけど、虫を見ると思わず捕まえちゃってる。選択じゃない。虫を見た瞬間ガーッと体が動く。ちなみに、子どもって虫目(むしめ)なんですよ。視線が低いせいもあるのかな。これは子どもに適わない。僕が1匹見つける間に、ガキが5匹見つけてるの。そうやって、どんどん森にアフォードされて自動機械みたいに動いているガキを見ると、僕はどう思うかって、「お~やっと仲間に戻ってくれた~!」ってね。その感じですよ。あっ、伝わってますね。みなさん、笑ってくださってる(笑)。
■これは昭和の問題じゃなくて──しつこいけど(笑)──、すごい普遍的な問題だと思うんです。人はね、選択している限りは、ヒトから呼び掛けられるmimesis(感染)も生じないし、モノから呼び掛けられるアフォーダンスも生じない。なんか、気がついたらそれをやってちゃってるっていう状態。それこそが、キャリコットがいう「生物も無生物も含めた場が与えるcommunal(共同体的)な感覚」の出発点だということです。
■かつて性愛ワークショップをやってた時に言ったことだけど、「どうやってセックスすればいいのかな」って考えている状態は、「どうやって虫を取ればいいのかな」って考えているのと同じで、それは「クズの始まり」なんです(笑)。そこは技芸。修行して、慣れて、アフォードされるしかない。人間は、モノからだけじゃなく、ヒトからもアフォードされるんです。表情とか姿勢とか体温とかバイブレーションとかによってね。そんなふうに、「だからこうしよう」って判断する以前にアフォードされて、自動的にある振る舞いが生じている状態が、僕がいうフュージョン。性愛はコントロールではなくフュージョンです。ってことは、既に心身の体制が「フュージョンからコントロールへ」と頽落している場合、性愛だけをうまくやることは到底無理だということになりますね。
■共同体のベースは、ヒトから呼び掛けられる感染と、モノから呼び掛けられるアフォーダンスです。ただし、アフォーダンスにはヒトの心身からの呼び掛けも含まれます。そして、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」を、僕はフュージョンと呼びます。ただし、この他者には、動植物も無機物も含まれます。共同体の定義は「みんなが同じように体験していると信頼し合うこと」だと言いましたね。「同じように体験する」というのは、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」、つまりフュージョンがベースです。言葉はその後にやってくる。だからフュージョンを「共同身体性」と呼びます。共同身体性common physicalityが与える共通感覚common senseが、言葉に共同体的共通前提communal common-premiseを与え、それが共同体community=communal groupつまり仲間を与えます。それが性愛論などで示してきた概念系ですよね。
■だから、共同体的communalなものを取り戻すとは、共同身体性に裏打ちされた共通感覚・に裏打ちされた言葉の共通前提を、取り戻すことです。それが「言外・法外・損得外のシンクロ」と呼んでいるものです。感覚が人ごとの言葉によって分断されている状況に抗って、communalなものを取り戻すことが、『美味しんぼ』の主題でもあったことを思い出してください。「料理の美味しさってなんなんだろう?」と。グルメ的な意味での、つまり意識高い系的な意味での「これは1つ星・2つ星・3つ星の美味しさだ」っていうんじゃなく、長い道のりを歩いていって、やっと着いたナントカ庵で、美味しい湧き水を1杯飲ましてもらったら、何にも増して美味しかった、っていうような体験。この体験を味わえることこそ「最高のグルメ」なんだって『美味しんぼ』が描いていたでしょ?
■ここまで語って、やっと、料理って何なのかを語れます。作るプロセス、食べるプロセス、遡って、食材を育てるプロセス、食材加工のプロセス、流通のプロセスを含めて、今話した意味でのcommunalなものを取り戻さないと、僕らは「料理を通じて倫理を回復する」ことはできない。言い換えると「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の状態から外に出て「言外・法外・損得外のシンクロ」を体験することできない。それが体験できないと、料理が味わえないだけでなく、性愛が忌避され、祭りが忌避されることになる。逆に言うと、その意味において料理や性愛や祭りを味わえれば、「共同身体性→共通感覚→共同体的共通前提」という回路が回復されている。単に言葉で何かを想像する営みではないということです。あの、鶴田くんに伝わってますか、これ(笑)。

鶴田: まぁ、消化中ですね(笑)。


【本題2: ナチスとシュタイナー:能動と中動】

清水: 1つちょっと、いま宮台さんのお話を聞いていて、いろんなお話が混在しているなと僕は思っています。たとえばアフォーダンスの話をすると、最初のアメリカのミキサーを使ったり皮むき器を使ったりっていうところから考えると、日本の箸とか包丁とかっていうのは、全く文化が違うわけですよね。そこにはアフォーダンス的な要素が過分に入っているような気がするんですけど、我々は機械との共生において、人工物に命を持っていく前のチャンスがまだ残っているんじゃないかなというふうな観点でいうと、「料理のメガネ」の私なりの目標は、地球という惑星が生命の1つのシステムだということを認識することが、あると思うんです。
 さっき第3の革命「環境革命」ということを申しましたけども、まだ革命は終わっていなくって、これから起こさなきゃいけないと。そこで気付かなきゃいけないのは、地球が1つの生命の1つのシステムであるという認識が必要だと思うんですよ。それがないために、産業化だとか、いろんなことが今、人間中心主義と言われる私たちのエゴが充満しているわけですよね。そこに料理というものが関わっていて、機械との共生において追いやられていって、そのまま為す術もなくいくとですね、環境革命の前に我々はおかしくなっちゃうという状態。それが今だと思うんですね。そういう観点でいうと、どうなんでしょうか。


宮台:■問題意識はよく分かるんです。ガイア(地球生命圈)という意味での生態系の全体性を考えなければいけないと。これはよく『朝生』のときに言っていたけれど、「~しなければいけない」と言って済むのであれば、社会はもうこんなふうになってないんです。清水さんがおっしゃったようなことって、少なくとも1960年代後半からずっと言われていて、ナチスやシュタイナー[神秘思想家]に遡ると、戦間期やそれ以前から言われていることなんですね。なので、それも、処方箋と言うより、先取りされた帰結そのものです。ガイアという意味での生態系のことを感じたり、考えられるようになること。それがまさにターミナル(終着点)です。僕らは、終着駅に到達する可能性が、もうほとんどない状態で、さてどこから始めようかということを、考えざるを得ない段階にあるわけですよ。
■さっきの「アフォードし、アフォードされる関係」とか「感染し、感染させる関係」とか。あるいは「自分で選んでいないのに体が動いている」とか「自分で楽しもうと思っていないのに、人の表情で楽しくなってしまう」とか。そういう体験をベースにして、出発点になる感情の働きを習得する以外に、もうないだろうというふうに僕はずっと思っています。だから、親も教員もここでイベントやる僕らも、全員が常に既に「体験デザイナー」として機能していると言うんです。これを聞いている若い人たちには、そのことを意識してほしい。建築家も都市計画家も、映画監督も劇作家も「体験デザイナー」として機能している。料理を作る人も、プロか素人かを問わず「体験デザイナー」として機能している。料理を作る場合にさえ、自分が作ったものでどんな体験が可能になり、逆にどういう体験が不可能になっているのかを、たえず意識しつつ前に進むことができるんですよ。
■僕が『サイファ 覚醒せよ!』という本を2000年に出した頃から、ずーっと考えてきたことです。キャリコットがいう「人間中心主義という非人間性」を脱することは重要だ。でも、それに気付いても「脱人間中心主義という人間性」が獲得できるとは限らない。藤原辰史さんがおっしゃっる「人間中心主義から生命圏平等主義──僕の言葉では無生物を含めた生態系平等主義──へのシフトが、どうすればナチスを帰結しないで済むのか」という問題意識。キャリコットも藤原さんも答えあぐねているこの問題に、うまく答えることができるかどうか。これは、体験デザインという実践の方向性にかかっているんです。
■今日はそれが主題ではないから、詳しくは『ウンコのおじさん』に譲るとして、ちょっとだけ言います。ナチスは確かにゲルマンの「森の哲学」の延長線上にある。ゲルマンの「森の哲学」を知りたければ、『ミッドサマー』(2019)というアメリカ映画を見るといい。スウェーデンの山深い村で「森の哲学」を生きている村人たちが、森のために──森の祝祭のために──人を殺しまくる、半分コメディの半分ホラーです。最後に、アメリカ人旅行者の主人公女子が、森にシンクロしている村人たちにシンクロして、旅行仲間たちが殺されていくのを享楽の対象として味わえるようになる……ってところでニッコリ笑って終わる。とはいえ、森が要求する数だけ殺すのであって、際限なく殺そうと思っているわけじゃない。そこがナチスと違うところです。そこに問題のヒントがあります。
■ナチスの基本は「コントロール志向」です。「フュージョン志向」ではない。たとえば「森の哲学」に相当するものを、ナチスは「土と血の思想」って言う。これは「土が血を育てる」という思考です。土とは「生態学的な全体性」という意味で、血とは「優れた民族」という意味です。併せると「生態学的な全体性が、優れた民族を育てる」です。これがナチスによって、あれこれパラフレーズされます。「全体性を取り戻した農法で作った食材」が「健康で賢い人間を作る」とかね。お分かりのように、後段が目的で、前段がそのための手段。つまり、生態学的思考を最終的にコントロールに結びつけるんです。全てのコントロール志向は、必然的に排除主義です。だから、排除と選別を現に伴うわけです。
■「ナチスは生態学的全体性を考える『のに』、排除主義じゃないのか」と問うても、意味がない。そんなのはナチスが百も承知です。なぜなら、生態学的全体性を、コントロールのために──目的のための手段として自覚的に──使っているんだからね。ナチスは「土によって育てられない血」を「劣等な血」として排除し、「土によって育てられた地」を「優良な血」として選別にしようとします。つまり、ナチスの思考は「クズは死ね」というもの。そこに最大の問題がある。おい、宮台だって、いつもクズって言ってるじゃねえか。違います。どう違うか。僕がやってきた「コントロールからフュージョンへ」という体験デザインの性愛ワークショップ・親業ワークショップに答えがあります。
■「クズ」という言葉はワークショップで使い始めました。「クズになりたくないだろ」「クズに育てたくないだろ」と。土によって育てられない血は良くない。感情的に劣化する。クズになる。血を「心身」という意味で使うなら完全に正しい。だから僕はワークショップをします。性愛ワークショップは「クズをどうすれば元に戻せるか」を、親業のほうは「クズを育てないにはどうすればいいか」を、つまり回復と回避を主題にしている。だから、排除主義exclusionismではなく、普遍主義universalismなのです。無論、クズを回避せよという意味では差別している。皆さんが不勉強による頓馬を回避せよというのと同じです。クズや頓馬という言葉を使うかに関係なく、どのみち皆さんは「感情的に劣化した人間」や「頓馬な人間」になりたくない。そうした倫理的に正しい感情が存在する。その事実性を踏まえて、成長への欲望を惹起するために、言葉を選んでいるだけの話です。
■だから僕のゼミは、ウヨ豚大歓迎。ウヨ豚みたいなクズ男も、結構簡単に変わる。最近は女もクズだらけ。だけど、やはり変わる。繰り返すと、クズとは「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」です。これは神経症の症状「だから」治せるんです。そこでは「土が血を育てる」メカニズムを使う。ただしゼミ生は成人以降だから、条件が必要です。ある種の素養です。ゼミで回復する子は押し並べて、幼少期から武道やスポーツ──経験的にはテニスやラグビーや新体操──に激しくコミットした経験があります。なぜなら「その時のこと思い出してみて」と言われた時に、想起できる体験質があるからです。僕からすると、「選択じゃなかっただろ。体動いてただろ」と取っ掛かりを探せるんです。
■その意味では、選別と排除を伴うとも言えます。実際、これから紹介するような話題をゼミで続けると自動的に脱落します。これは中高生にも使える方法です。他方、小学生以下は「そんなヘタレを育てないために」と親業ワークショップでカバーします。さてどんな話題か。武道では、言葉で全体戦略を考えたりするけど、「相手が動いた場合、こう避けるのと、ああ避けるのと、どっちがいいか」って考えていたら終了(笑)。相手の身体性になりきることが必要です。「相手に生じた全反応が同時に自分にも生じる状態」じゃないと勝てない。この物言いは相手に武道経験があれば伝わります。伝わったら、そこから「あれもこれもそうなんだよ」って芋づる式に色んなものを引っ張り出せるんですね。
■それが、清水さんが言った「今はまだ完全な劣化はしていない」って意味をどう考えるべきかに、つながります。相手が僕の物言いを言葉で概念的に理解できても、当てになりません。言葉のクオリア(体験質)が問題だからです。夕陽を見ている清水さんが「赤いね」と言う。僕が「うん」と言う。でも、清水さんが体験するアカさ──アカさのクオリア──を僕が体験しているとは言えない。そこで当てになるのは身体性──心身の態勢──だけです。その意味で、全員じゃないけど、一部の人に多かれ少なかれ、まだ緒がある。適切な実践を通じて、感染やアフォーダンスやそれらをベースにした共同身体性が生じるんですね。それってフュージョンに引き金を与えるだけで、コントロールではない。一旦フュージョンを知れば、後は身体性をベースに言葉の世界は自己運動的に展開する。
■藤原辰史さんのようにナチスとシュタイナーを対比させれば、違いは一言で言えます。2つは「森の哲学」がベースだから、よく似ています。でも決定的に違う点がある。ナチスはコントロールの思想です。「ゲルマン以外は全体性を考える力がない。ゲルマンは土によって育てられた優れた血ゆえに全体性を考えられる。だから戦争を含めた総ゆる戦いに勝てる。だからゲルマンが世界を支配できる」というコントロールの話に落ちます。シュタイナーはそうじゃない。確かに共通して「土と血の思想」だ(ただしここでの血は個体の身体性)けれど、シュタイナーの場合は「力の流れの思想」です。「力の流れの思想」は元々ギリシャ・ルーツだ。皆さんは「バーチャル」って言葉を使う。これは「ヴァーチュー」ってラテン語からきてる。「力」って意味です。「力の流れ」がそこにあるのかを見るのがギリシャ思想の本質。「力の流れを、言語的に理解しているから、何物も制御できるぞ」がナチスだとすると、「力の流れに気づいているので、流れに心身を委ねられる」というのがシュタイナーです。
■シュタイナーはご存知のように、ミネラル(鉱物界)・エーテル(植物界)・アストラル(動物界)・エゴ(人間界)って4段階で考える。ただしステップ・バイ・ステップの上昇じゃない。僕らのエゴ(自我)が全てアストラルに、アストラルがエーテルに、エーテルがミネラルに繋がっている。だから、それを逆向きにした「ミネラル→エーテル→アストラル→エゴ」という「力の流れ」にいつも動かされている。さっきのアフォーダンスの話と似て、言葉によるコントロールが「力の流れ」を阻害します。だから言葉を解除して「力の流れ」に心身を委ねるんです。つまりコントロールを手放して「力の流れ」にフュージョンしろと言うんです。僕の言葉でいうと「社会に閉じ込められている状態から世界へと開かれろ」と言ってる。ナチスがコントロール系だとすると、シュタイナーはフュージョン系。性愛ワークショップのキーフレーズだけど、コントロールはいつも「コントロールする主体つまりコントロールタワーを要求する」けど、フュージョンはむしろ「コントロールタワーを放棄する」。そこにナチスとシュタイナーの決定的違いがあります。
■フュージョンって、口で言うのは簡単だけど、実際、劣化した僕らにとっては難しい。難しいけど、たとえば疲れた時に、なんかそこに石や岩があったら座ってしまうってアフォーダンスの延長線上で、僕らがどんな風に感覚・感情・意思・体が動くのかってレベルからの観察を始めて、感覚や想像力を、ロゴスじゃなくレンマのレベルで取り戻すための長い道のりが必要になります。レンマってのは中観派の言葉で、ロゴスを使う時に「常に既に」踏まえられている「世界はこうなっている」という触知された全体性を言います。スペンサーブラウンの原始代数が記述する「書かれざる囲い」に当たります。それについて別の文章に書いたけど、こんな感じです。
■言語の全ては指示だ。指示を「紙に囲いを描く」営みに喩える。囲いが意味を持つには、囲いをどこに書いたのか指示されてなきゃいけない。囲いをどこに書いたのかを指示するには、囲いの外にもう1つ囲いを書いて指示しなきゃいけない。今の外側の囲いが意味を持つには、外側の囲いをどこに書いたのか指示されてなきゃいけない。これは無限退行する。無限退行には無限時間がかかる。でも僕らは、指示を一瞬で了解する。ってことは、最初の指示=囲い描きの前に、無限回の営みを「常に既に」終えていることになる。この先取りされた規定不可能な無限性=全体性が、レンマ。規定不可能なのは、無限の囲いの後にもう1つ囲いを加えても、その外側が囲われていないので、何も変わらないから。
■あるいはさっきの人類学の話で言うと、ヒトは昔から別に資源が有限だから食べ過ぎなかったわけじゃない。それは後知恵。基本的には、囲いの同心円なんですよ。「すごく親しい仲間」「ちょっと親しい仲間」「あんまり親しくないけどまぁ仲間」「親しくないけど仲間」という同心円になっていた。シュタイナーの「力の流れ」で言うと、「親しくないけど仲間=ミネラル」「あんまり親しくないけどまぁ仲間=エーテル」「ちょっと親しい仲間=アストラル」「すごく親しい仲間=エゴ」っていう向きに力が流れている。それぞれが別領域に分断されていなくて、外から内に力が流れるという感じなんですね。
■これはロジックじゃなくクオリアです。つまり、現にそういうふうに世界が体験されていたということです。そうした体験をどう取り戻すのか。これはスローフード問題と似た課題です。「有毒なものを使ったら罰せられるから良いものを使う」とか「儲かるからオーガニックでトレーサブルなものを作るとか売るとか」を、スローフード運動は嫌います。かわりに、「仲間に対して作るんだから、いいものを作りたい」という「仲間の存在からアフォードされる体験」を愛でるんです。そうした体験枠組を、いろんなところに実装できれば、「ユダヤ人は一人残らず殺せ」にはならない。
■「ユダヤ人だから殺していい」って「言葉の自動機械」じゃんね。ユダヤ人とそれ以外っていう言葉のカテゴリつまりロゴスさえなければ、友達になれるはずなのに。恋人にもなれるはずなのに。実際、そういうユダヤ人とドイツ人のカップルも少なからずいたでしょ。そう、性愛は社会の外だからです。言外・法外・損得外だからです。そんな風に、社会=特定のヒトの集まりの、外側で働く僕らの感覚を取り戻せば、ナチスのようなクズな「コントロール系」にはならないで済むんです。ナチスは、僕に言わせると「森の哲学を信奉している、と自分たちを意識している」だけの、自意識のオバケです。
■他方、ヤノマミのようなアマゾン先住民には、「森の哲学を信奉している、と自分たちを意識する」類の自己意識はなく、「森の哲学を生きている」だけ。その差異は、先ほどの『グリーン・フロンティア』にも描かれていましたね。別の言い方をすると、先住民たちの営みは受動的能動つまり中動態ですが、ナチスの営みは過剰に能動態です。同じことですが、シュタイナーは中動態ですが、ナチスは過剰に能動態です。その意味で「森の哲学」とは、イデオロギーみたいな選択肢じゃなくて、体験様式そのものなんです。ロゴスではなく、レンマだということです。結果としては同じように森を大切にしていると見えても、体験様式が全然違うんですよね。
■体験様式とは、感情や感覚の働きの形式です。これは選択じゃなく、選択できない感覚の働き。能動態ではなく中動態。問題は、そうした感情や感覚の働きが実装されているかどうかです。そう、これまた性愛ワークショップで話してきたことと同じです。『グリーン・フロンティア』でも、先住民のボスに収まった元ナチスの在り方に、問題が集約されていた。彼の書斎が描かれるけど、あらゆる「森の哲学」の文献を勉強し、全体性の原理を「知っている」。だから、先住民のグルに比べても遜色ない、カッコ付きの「神通力」を使えるわけですね。
■事情を知らない人は「先住民のグルもすごいが、このナチス残党もすごいわ!」となる。でも違う。先住民グルは「フュージョン系」。元ナチスは「コントロール系」。コントロールのためにフュージョンテクニックを勉強した。もちろん映画全体としては「共に神通力が使えてるけど、片方はクズだ、なぜならば……」っていうふうにロゴスでは描いていません。後から勉強したからいけないとは描いていないんです。かわりにレンマ的に断定している。理由を言語化できないけれど、とにかく不快感を与える存在だと。佇まいが不快なんですね。実に素晴らしい映画だと思う。
■思えば、僕がクズって言葉を使うのも、みんなに不快になってもらいたいからです。一部の頓馬は、僕の言葉に不快になるけど(笑)、それは言外のシンクロ能力が存在しないか、自分がクズだから認知的に整合化しているだけです。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」って端的に不快じゃん。そんなヤツと友達になりたい? 恋人になりたい? 結婚して家庭を築きたい? ありえないよ。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」って存在の佇まいそのものが端的に不快だからだよね。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」ってクズなんだぜ、と一万回言明することで、〝「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」=クズ〟っていう感覚や感情の働きを実装させる実践なんです。そうして「言外・法外・損得外」のシンクロ可能性を回復しようとしている。それだけです。
■「排除はいけません」みたいな藤原達史さんの物言いの気持ちは分かるけど、単なる終着点の言語的先取りに過ぎません。「排除はいけない」って伝えても、物事は1ミリも変わりません。必要なのは、感覚の実装です。「伝達ではなく、実装implementation」と今申し上げたことは、実は「真理ではなく、『内なる光』」「認識ではなく、動機づけ」というプラグマティズムの定理のパラフレーズでもある。そうした認識も一重に紀元前5世紀の初期ギリシャやインドに遡ります。認識そのものじゃなく、認識によって何が引き金を引かれるかが問題なんです。

鶴田: ありがとうございます。そろそろ前半を終えて休憩に入らせていただきたいと思うんですけれども、僕の方から感想を述べさせていただきたいんですが。
 まず今おっしゃったような終着点についてはある程度色んな人が昔から言ってきているところであって、そのための処方箋っていうものが考えられないが故に、終着点ばかりの言説が繰り返されてきていると。そして「その処方箋の1つに料理がなり得るか?」ということをここまで考えてきたんですけども、お話を伺っていると、どうなんだろうって感じで。
 料理をするっていうときに、道端に生えている木から何かをもぎ取って食べるってことではなくって、スーパーで食材を買って、整備された台所という環境に立って料理をするわけですよね。だからいくら身体性だって言っても、かなりコントロールされた空間でやっている選択的行為に過ぎないと思うわけですね。なので、そこで感染性が生じないっていうのは確かにそうなのかなと。料理もやはり技術だとおっしゃったので、技術のもともとの語源はギリシャ語のテクネーとかで、もともと芸術と同じ意味なわけですよね。
 最近宮台さんも本を出されましたけれど、音楽とか、ここで映画批評ラボもやってらっしゃって、「アートと料理はどこがどう違うのか」っていうお話も伺いたかったんですけども、今おっしゃったことでなんとなく分かったような気もして。やっぱりちょっと料理の感染性が今のままでは低いのかなっていう。誰かが料理をやっていると「それ、やりたい!」ってならないような、既に切り離された人工化された空間になっているが故に、いま宮台さんがおっしゃったように「あぁ、ありがとう、助かった」って、それだけの話になっちゃってんのかなっていう気がして。



【本題3: 料理とアート:外に連れ出すもの】

宮台:■そうですね。僕が話しているアートの概念って、18世紀末から出てきたロマン主義のものなんですね。ロマン主義のアートの概念は、初期ギリシャを参照します。ってのは、何を参照してることになるかっていうと、要は「社会に閉じ込められるな」っていうことなんです。社会の外に出れば、もはや社会の原理は通用しない。つまり、社会から見れば、言葉や法や損得勘定が通用しないデタラメがあるだけなんです。
■それだけじゃない。頽落した後期ロマン派は、「社会の外に世界がある」と描きました。でも、本当は「社会の中にも世界がある」んです。ソポクレスの「ギリシャ悲劇」がそうでしょ。ゼミでも『オイディプス』や『アンティゴネー』を議論してきました。「社会の中にも、世界は闖入している」んです。ベン図で描けば、世界に相当する円の中に、社会に相当する円がある。正確には「書かれざる囲い」を意味する点線で描いた世界の円の中に、実線で描いた社会の円がある。だから、世界の性質は社会をも貫徹する。世界がデタラメであるように、社会もデタラメ。初期ロマン派はそれを自覚していたんです。
■皆さんは、社会に不愉快なことが多くてイライラするでしょ。「なんで安倍晋三が首相をやってんだよ」ってイライラしているはずです(笑)。それは皆さんが「社会に閉じ込められている」からです。社会に安倍やトランプがいて首相や大統領をやっているというデタラメは、当たり前であって、そんなものは社会のデフォルトに過ぎない。それを突きつけるのが、ギリシャ悲劇の役割でしたし、ギリシャ叙事詩の役割でした。殺人・強盗・強姦・放火のオンパレードだった「暗黒の400年」を忘れないための営みでした。
■すると、社会に閉じ込められていた人が、社会の外のみならず社会の中をも貫徹している世界のデタラメに、触れることになります。すると、傷つきます。「あぁ、俺達は何を見てたのだろう」「俺たちが社会だと思って見てたものは、何だったのだろう」「社会って、所詮は幻みたいなものなのかなぁ」ってね。だから、近代のアート論、つまり、ロマン派起源のアート論は、「社会の中に閉じ込められた人々」を傷つけることで「開く」ことが作業目標になります。人畜無害なものは、いかなる意味でもアートとは言えません。
■桜を見て「美しいなぁ」って、どういう次元で感じているのか。同じ意味で、アートを見て「美しいなぁ」って、どういう次元で感じているのか。その美しさには、「社会に閉じ込められていた自分」が「社会の外に連れ出されて震える」ような凄まじさが、含まれているのかどうか。坂口安吾の『桜の森の満開の下』の美しさは、死の残酷さと表裏一体で、「墓場の桜は美しいのは、死体が埋まった土の上の桜が美しく咲くからだ」という民間伝承を下敷きにするけれど、そういう美しさなのかどうかということです。
■料理に戻ると、料理がアートと機能的に等価であるには、料理を通じて、僕らが社会の外に連れ出されるかどうか、閉じ込められている僕らが閉じ込められていない状態に移行できるかどうかってことです。できるならば、料理はアートでありうる。それが『美味しんぼ』の主題です。雁屋哲原作の『美味しんぼ』は昭和的コンテンツなので、若い人はもう知らないかもしれないけど、「フィジカル(物理的・身体的)に舌で味わって美味しいっていう問題じゃねぇんだよ!」ってことをずっと言ってきているのは、そういうこと。つまり「世界は思っていたようなものじゃなかった」っていう気づきを与える契機に、料理がなるわけです。

清水: 後半に入る前に忘れる前に私も言いたいことがあるんですね。地球は1つの生命のシステムだ、これはもう随分前から言われていることなんですが、それの根本が今のコロナの問題で今チャンスなんじゃないかというのがあって、宮台さんが常に言われる損得マシンが実はこれが一番問題で、全人類が今考えているのは消費というウソのモーターをどういう風にコロナ前に戻すかっていうことが、みんなの頭にあるわけですよ。
 これは何かっていうと、今の地球っていうその惑星の生命の一つチームのシステムっていう前に、今まで動かしてきたシステムが政治であり、経済っていうところで損得マシンが消費を回すわけですよ。ここを何とかする力が料理なんじゃないかと直感的に思っていて、料理を経済の中に組み込んで資源として流通させるっていう農業革命以降そうなったのも分かるし、産業革命以降工業化まで工業製品にしてしまっているわけですよ。
 そういうことが、一つの生命システムってことが認識できる前に、今問題になっている一番元なんで、ここを何とかする方法がないのかと思っている。法に触れる問題なんですけど、本当にいつも宮台さんのラジオをいろいろお聞きしていて損得マシンっていわれる度に、そういうことを考えているんですけどね。この消費のモーターに入っている食・食べるっていうものをもう一度取り出すっていうことはできないもんですかね。


宮台:■今は普段の生活じゃ無理だと思う。僕だったら、これも昭和的なものだけど、キャンプファイヤーとか焚火とかを使う。いいですか、皆さん。昔も各自治体の火災消防条例でも焚火はダメだったんだけど、1990年代半ばまでは焚火をやって通報されて消防が来るなんてことはなかったんですよ。代々木公園の中でも、1991年くらいまでは、みんな焚火しがなら花見をしていました。打ち上げ花火も男の子はみんな水平に撃っていたよね。それが禁止されている学校もあっけど、大人を含めて「法の奴隷」じゃなかったから、さして問題にしなかった。大人も、焚火や、花火の水平撃ちに関する、共同身体性を持っていたってこと。つまり、大人も花火を見ると、思わずアフォードされていたわけ(笑)。
■昭和の料理と言えば、家庭料理もあるけど、焚火の焼き芋とか、飯盒炊飯とか、キャンプファイヤーもあったよね。外でみんなで調理をした。飯盒炊飯といえば、僕の家族や複数の家族が集まって、何十回もやりました。よく小学生たちみんなでカレーを作ったよ。今の若い人たちは調理の面倒を考えてコストだと思うかもしれないけれど、振り返ると、コストどころか1つの財産、宝だったことが分かります。お腹が空いていたら、本当はすぐにレトルトで食べたいじゃん。小学生のころはレトルトじゃなく、缶入りカレーだったけれど。お腹空いてるのに、水を沸かして、玉ねぎとじゃがいもと人参を切って、って始まるわけ。昔は水を沸かしてから玉ねぎ入れたのね。まちがった順序じゃなくて。昭和の順序は、水を沸かして玉ねぎとじゃがいも人参を入れるの。どうでもいいけど(笑)。
■そうやってみんなでカレーを作ると、お腹が空いてるのになかなかできないの。やがて「結構いい匂いしてきたじゃん」とか言って、みんなでがつがつ食べる。空間性も時間性も、当時からして既に「体験デザイン」だったんです。それを思うと、料理をめぐる「体験デザイナー」が今どれだけいるのかってことが、ポイントです。だから、繰り返しているけれど、料理って、体験デザインの橋頭堡なんです。料理を媒介にしてどう共通感覚や共同身体性を回復するのかを考えれば、料理を越えた他の営みについても処方箋が見えてくる。そういう風に分野や界隈を串刺しにして、普遍的な処方箋を見つけ出す。すると、それを一つの「体験デザイン」の方法論として確立し、拡大していけるようになります。
■さっき言ったことをもう一度言います。「排除はいけません」とか「いつも全体性を考えましょう」とか「全体性を考えるからといって人間を蔑ろにしちゃいけません」とか──これらはキャリコットの枠組みだけど──そんな中途半端なロゴスを幾ら展開しても、無意味です。処方箋として意味があるのは、体が動くのか、それゆえに心が動くのか。つまり共同身体性と共通感覚だけです。これも繰り返すと、そこで大切なのは、動かないヤツをどうするかっていう問題です。クズがクズであるのはクズのせいじゃない。だから「土によって育てられない劣った血の輩」とかじゃない。クズもまた包摂し、治していく方法を考えることが重要です。僕のゼミはそのための方法論のカタマリです。料理は、美味しいと誰もが食べたくなるよね。料理を食わないでナリシング・ピルだけで生きる人も幸い今はいないよね。将来は分からないけれど、今のところ料理は重要な橋頭堡。
■だから、清水さんへのお答えは、「工夫すれば出来る」ってことです。とにかく工夫が大事です。さっきの、うちの一番下の子と同じで、「虫取り? それ一年前の話でしょ? 今はマインクラフトなの!」って言ってる子に、「いや、虫取りでしょ!」なんて幾ら言っても、「パパ、一人で虫取ってきたら」で終了(笑)。言葉なんて通用しない。彼を再びアフォードするには何をしたらいいかを考えて、言葉の外側に体験を組織してみせること。それが『ウンコのおじさん』で示した「体験デザイナーの極意」です。だから、多くの場合、「料理に関わる体験デザイナー」が、料理する人とは別に必要になるんです。

鶴田: はい、我々がコストだと思っているものが、実は財産であると、そういう発想の転換をデザインする体験デザイナーの先頭に料理が立ち得るっていうかなり前向きな結論がでたところで、いったん休憩にしたいと思います。


休憩


以下、後編

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-22 - 11:01:25
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前編【DarwinRoom】料理の人類学9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)

【DarwinRoom】料理の人類学No.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

前編


【まえふり:前回までを受ける】

清水隆夫(以下、清水): 本日は第9回「料理の人類学入門」にご参加いただきありがとうございます。私、DarwinRoomの代表の清水隆夫でございます。よろしくお願いいたします。今日はゲストに社会学者で東京都立大学教授の宮台真司さんをお招きして、「料理から見える逆説」というテーマでスタートしたいと思っております。今日の担当のキュレーターは鶴田想人さんでございます。
 「料理の人類学」がはじめての方もおられますので、簡単に「料理の人類学」のコンセプトのお話をさせていただきます。今回のコロナ騒動で大変なことになっておりますが、今はある人によれば「第3の革命」、環境革命じゃないかというふうに言われています。「第3の革命」というのは、第1回目が農業革命、第2回目が産業革命という意味で、第3の革命というふうに言われておるわけです。ホモ・サピエンスの我々にとっての3回の革命ですが、今回の「料理の人類学」は、その前に「料理の革命」があったんじゃないかという考え方からスタートしております。
 第1回の「料理の革命」というのは、およそ200万年前のホモ・ハビリスとかホモ・エレクトス、私たちの先祖が火を使って料理をはじめたというところから、私たち人類の進化ははじまっているんじゃないか、そういう観点で「料理の人類学」を注目いたしました。それは200年前、料理というのは内的にあったものを外化してはじめたという、他の生き物にはない行為を人類ははじめたわけです。それによって脳が大きくなり、二足歩行をやり、今日まで進化してきた。
 こういうことからすればですね、今も進化の途中であって、おそらく料理が私たち暮らしを動かしているOSなんじゃないかと。そういう観点で料理自体を研究するのではなくて、料理から見た社会というか、「料理のメガネ」を発明しようと。「料理のメガネ」というのは、チャールズ・ダーウィンが進化の概念を作ったように、「進化のメガネ」に対して「料理のメガネ」というふうに呼んでいます(笑)。そういう俯瞰したモノの見方で考えていこうと。今日はそういう意味で、コロナウイルスの騒動の真っ只中ではありますが、宮台さんのご提案いただいている「料理から見る逆説」というのはとても大きなテーマで、今の私たちの現実を考える意味でも大きなところに触れるテーマなんじゃないかなというふうに考えております。それでは鶴田さん、よろしくお願いします。

鶴田想人(以下、鶴田): よろしくお願いします。今日の担当をさせていただく鶴田と申します。僕は東京大学で科学史の修士課程の学生なんですけども、去年の8月からDarwinRoomで「料理の人類学」というイベントに参加してきました。今日は宮台真司さんをお迎えしてお話を伺うんですが、以前、宮台さんには3月28日に「料理の人類学」の第7回を、はじめてオンラインで開催した際にご参加いただいて、そこで本質的な、クリティカルなコメントをいただいたので、それを文字起こししたものを今回、配布テキストという形で配らせていただきました。このテキストを読んだ方、どれくらいいるかお伺いしたいのですが。


宮台真司(以下、宮台):■これは前回の長い質問をブラッシュアップして、皆さんにお見せしたということですよね。

鶴田: はい。一応今日は、これを前提にということなんですが、この話も簡単に振り返っていただきながら、この先を話していただくことなので、よろしくお願いします。今日は前半で僕から質問させていただいて、後半には皆さんからの質問コメントに対して、宮台さんからお話をいただきたいと思います。
 その前に、もう少し僕のほうから、これまでの流れをご説明させていただきます。これまで実際にゲストとしては、たとえば関野吉晴さんという文化人類学者・探検家の方に「ヤノマミ族」という、我々とは正反対の暮らしをしている人たちの暮らしのあり方、料理のあり方のお話。あるいはホモ・サピエンスの起源から現在までの料理以前の料理の話を伺ったりだとか。一方で石川伸一さんという、分子調理学の専門家の方をお招きして、料理とテクノロジーが掛け合わされることで、今後どのような料理を我々は食べていくのかという、そういうお話をしていただきました。その中で、長期的なスパンで、人類の誕生からその先まで、見通してきたわけなんですけども。今回宮台さんには、もう少し我々の時代に近接したお話、質問をしたいと思います。
 まず、これまでの探求は長期的スパンだったので、上手に扱えてなかった部分というのが「料理・食の産業化」の部分だったんですね。料理や食が産業化する中で、我々が火を囲むようにして、料理を中心として最初に発展してきたホモ・サピエンスというのが、いつしか料理を中心から周縁に追いやって、料理を周縁化して、かつ周縁化した料理すら自分でしなくなったと。できあがった製品を食べるようになっていった。そういう歴史を少しクローズアップして見てみたいと思っていたところに、宮台さんの(前回の)問いかけがありました。
 この中に「システム化」という言葉があって、その前提として「料理は技術である」というお考えがあるかと思うんですけども。この「料理が技術である」ということが引き起こすシステム化の逆説というか、それについて、もう一度お話いただきたいと思います。


【準備1: 技芸からテクノロジーへ:社会に閉じ込められる】

宮台:■鶴田さんありがとうございます。ざっくり言うと、僕らは便利で負担のないものを求めるんです。どうせある場所に行くんだったら、特に理由がない場合は近道をしようとするわけですよ。これはゲノム的な基盤に基づきます。近道しないと獲物をたくさん捕れなくて、生き残り競争に負けるといった事実があったということですね。だから便利で快適なもの、負担が少ないものを求めて技術が進化してきたわけです。それが、負担免除――負担を我々から取り除いてくれるもの――が技術だというハイデッガーの理解です。
■ここから先、ここにいらっしゃる方はハイデッガー[ドイツの哲学者]に詳しくないという前提でハイデッガーのことを出さずに言うと(笑)、「技術」technicって、たとえば僕ならば武術とか楽器演奏とかも、技術なんです。ただ、これはテクニックというふうに言えるようなもので、それを特に指す時は「技芸」「芸事」techniqueと訳してもいいでしょう。弓矢をうまく使えるとか、人をうまく組織して集団でマンモスを狩れるとか、これらも負担免除という意味での、技芸的な技術です。注意してほしいのは、ここでは僕らが主体であることです。別の言葉で言うと、僕らが僕らのために技術を使っているのは自明なことだ、と体験しているんです。
■ところが、技術は、最初は技芸・芸事だったものが、やがて一部が科学技術technologyに進化します。これは社会学の重要な主題だけれど、テクノロジーの進化は社会の分業体制の進化と表裏一体です。テクノロジーと分業の進展は「鷄・卵問題」です。その結果どうなるか考えてみてください。皆さんお分かりのように、分業体制そのものが、自分で全部はやらないで他に任せるものですね(笑)。国際分業体制を正当化したリカード[イギリスの経済学者]の比較優位説を見れば分かります。「自分たちは自分たちが得意なものを作ればいい、他は国際貿易で他に売って、他から必要なものを買おう」と。これも、国際貿易が回っているという事実に依存できることを、前提にしています。ちなみに「テック」techという場合はハイテクノロジーを指すけど、今回は立ち入りません。
■まとめると、技術の「技芸から科学技術へ」という流れは、負担免除の複雑化というだけじゃなく、「依存化」なんです。ぶっちゃけ「自分だけでは立てない状態になっていく方向」ですね。これは必然的な流れなので、方向を間違ったわけじゃありません。まず、こうした分業化とテクノロジー化が一体になった結果としての依存化を「システム化」と呼んでいます。だから、システム化とは、今お話しした国際分業体制に象徴されるような、あるいは、デュルケーム[フランスの社会学者]という人が言った「有機的連帯」に象徴されるような、複雑な全体性の中で自分がまさにparticipantとして――分業体制の分掌に参加する形で──生きるようになることです。だから、システム化とは依存化なんです。
■「システム化」の英語はsystemizationなんですけれど、ある段階から敷居=thresholdを超えて、「汎システム化pan-systemization」という主客が逆転した状態になります。主客逆転って難しいように聞こえるかもしれないけれど、簡単な事実です。最初、人間は、自分が便利で快適になるために、入れ替え可能な道具としてシステムを使いますが、やがて、人間のほうが、システムにとっての道具になります。僕らの側が自己維持的な当体bodyなのではなく、システムの側が自己維持的な当体になっていくわけですね。これも、どこかで道を間違えたのではありません。システムが複雑化していけば、やがて起こらざるを得ない体験です。
■その結果、残念だけれど、pan-systemizationによってあらゆる領域で例外なく不透明性が増大して、僕らは尊厳を失いがちになります。鶴田さんに読んでいただいた『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という本も、pan-systemizationによる不透明化を、犯罪や消費や宗教やサブカルチャーなど、いろんな分野に則して事細かに記述したものです。僕らはもう国際分業体制がどうなっているのか知らない。国際分業サプライチェーンの末端がコンビニですが、なぜコンビニのレジでお金を払うと弁当が食べられるのか知らない。弁当の食材たちがどんなふうに僕らの手元までくるのか知らない。pan-systemizationとは、システムへの過剰依存ゆえに、僕らが世界や社会が分からなくなった状態に相当します。それが先ほどの「僕らが便利になるためにシステムを使っていたのが、いつのまにか自分たちの意思に関わらずシステムに使われる状態になる」です。
■これは、マックス・ウェーバー[ドイツの政治学者]が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』──「プロ倫」──などに、資本主義や行政官僚制の特徴としてすでに書いていることです。「我々が、宗教的に形成された資本主義の精神によって、資本主義を営みはじめた時期とは違って、資本主義が一旦回るようになると、資本主義からこぼれ落ちると生きていけないから、資本主義の精神があるかないかに関係なく、過剰な損を被らないように否が応でも資本主義に参加していくのだ」と。官僚制について書かれた数多の論文は、人事と予算の動物である官僚を「没人格」──いわばボット──として記述していますが、同じ没人格化が資本主義においても生じるというわけです。
■再確認すると、全ての人間が、入れ替え可能なボットとして、システムに使われるようになる、というpan-systemizationの概念的なコアは、「ウェーバーの予想」としてに語られていることです。そうなってくると、ウェーバーも想定していなかった次の段階が生じます。僕らが負担免除――コストダウンとかですが――を狙ってシステムを使っていたところが、今度はシステムにとって人間がコストになるんですよね。人間って面倒くさいじゃないですか。食わせなきゃいけないし、ご機嫌を取らなきゃいけない。そんな人間を労働力として使うよりも、マシンに置き換えたほうが便利でしょう。そういうふうに20世紀前半には社会学者が「フォード化」と呼ぶオートメーション化が進んだわけですね。
■今、システムが人間をコストと見ているだけでなく、僕ら自身が人間をコストだと思っています。たとえば、消費においては、お店で店員と話したり交渉することを面倒くさがるようになっています。性愛においては、生身の女を相手にすることを面倒くさがって、ヴァーチャルに向かっています。「無人レジのほうがいい」「ゲーム・キャラのほうがいい」という感受性が拡がりつつあります。人間をコストだと感じる人間自体が、システムから見るとコストとしてカウントされている皮肉な状態です。このことが、僕が、料理だけじゃなく、ポップカルチャーとかいろんなものを論じる時の前提になっています。
■前回、鶴田さんにお話したのは、日本でpan-systemizationが顕著になるのが1980年代だということ。セブンイレブンのようなコンビニが大爆発しました。コンビニでは顕名性と「善意&内発性」が支配する地元商店と違い、匿名性と「マニュアル&役割」が支配します。その出発点が70年代から世界に拡がったマクドナルドのようなファストフード。調理師が技芸を使って料理を作るのではない。マニュアル通りに調理器具を操作する役割をしたり、接客する役割をしたりします。変わらずにどーんと存在するのはマシナリー(マシンの集合体)で、簡単なマニュアルをこなせれば人間は「誰でもいい」。技芸がテクノロジーに変わったんです。だから各国で「ミミズ肉伝説」と呼ばれる都市伝説が拡がりました。日本だけがなぜか「猫肉伝説」。マクドナルド関係者がいらしたら、そういう都市伝説があったという事実を話しているだけなので、気を悪くしないで下さい(笑)。
■人々にとって得体のしれないものが拡がると、都市伝説が生まれます。1800年前後のロンドンで、人々は初めて知らない人に作ってもらった料理をお店で食べるようになり、初めて知らない人に喉をさらしてヒゲをカミソリで剃ってもらうようになりました。それって今までありえない「得体のしれないこと」だったので、スウィーニー・トッド伝説が生まれます。繰り返し芝居が打たれ、映画にもなってますよね。スウィーニートッドの床屋でヒゲを剃ってもらっていると、店主に頸動脈をスパッと切られる。店主がペダルを踏むと椅子がどんでん返しになり、滑り台で死体が裏隣りのミートパイ屋の地下に送られる。そこで死体がミンチにされて…という話。モータリゼーションが幕を開けた20世紀初等のアメリカでは、『13日の金曜日』の元になった都市伝説が拡がります。車の中で男と女がイチャイチャしてると、ぬっと怪物ジェイソンが現れる…という話。1985年に世界初の出会い系であるテレクラが出てきた時にも、女が待ち合わせた白い車に乗ると…という都市伝説が日本全国に拡がります。これら全てが匿名化に関わる都市伝説です。
■マクドナルドの都市伝説は少し違ってて、匿名化が自明になっていた時代の、新たなシステム化に関わります。マクドナルドは歩行者天国のハレ=非日常でしたが、それがコンビニになると近所のケ=日常になります。つまり、1970年代に種が蒔かれたpan-systemizationが、1980年代半ばに花を開きます。コンビニ弁当が男女共同参画が可能になる一方で、共食の時間が減って家族が空洞化したことを、前回に話しました。コンビニ化と並行して、ワンルーム・マンションに象徴される単身世帯化も進んで、地域の空洞化に拍車がかかりました。男女共同参画にみられるように、ミクロには僕らの選択肢が増えて主観的には自由になったと感じます。でも、マクロで見るとシステムに依存しないと生きていけない状態が拡がっています。客観的にみると「依存しないこと」はもう選べないんですよね。これが「システムに使われていて、使われないことを選べない状態」です。
■さて、ファストフードの料理も、ファミレスの料理も、最終段階を除いては、すべてが工場で作られています。マクドナルドのハンバーガーもそう。ファミレスのビーフステーキ(といっても多くが工場で圧着したコミートステーキ)もそう。だからロイヤルホストがファミレスと呼ばれることを嫌がるでしょ?「ふざけるな、我々の店には工場で作っているものはないから――本当は全くないわけはないんだが、まぁ一応――ファミレスではなくてレストランなのだ」と。ファミリーレストランもレストランなんだけど(笑)。まぁいいや、そういう流れが生じてきているわけですね。
■つまり、今の話の中にも含まれているけれど、冒頭に清水さんがおっしゃったように、最初の料理はdigestion(消化)の外部化として始まったもので、しかも技芸techniqueに関わるものとしてありました。間をすっとばして、重化学工業化以降でいうと、20世紀半ばからは「家庭料理」という形で専業主婦が作るわけだけど、当たり前でもなんでもなくて、専業主婦が作るだけの余裕がある、あるいは、専業主婦が作らざるを得ないという社会構造があったので、「家庭料理」というものが存在し、いろんなものが「家庭料理」に流れ込んでいきます。たとえば、家庭料理に日本料理の伝統をどう活かせばいいのかという土井勝から善晴[料理研究家]に受け継がれた問題設定が出てきたりとかしたんですね。
■僕の母親は結婚する前に、土井勝の料理教室に通っていて、通った時の大学ノートが5冊あるんですよ。すごく事細かに書いてあってビックリしたのを覚えています。僕は昭和34年(1959年)生まれの長男だけど、昭和30年代に入ると、あるいは1950年代後半になると「お袋の味」とは違う「家庭料理というもの」が開発されたことが分かります。この「家庭料理」という新しいジャンルに、日本料理や西洋料理をどうやって落とし込むかということに、土井勝が本当に力を尽くしていたのだと、母のノートを見るだけでヒシヒシと分かるんです。なぜこの話をするか分かりますか。ノート5冊分のノウハウを習得して技芸techniqueとしての料理を作るなんて、いま考えられないからです。ちなみに母がノートを見て作っている姿を見たことはありません。すべて技芸として習得していました。
■さて、久保明教さんの『「家庭料理」という戦場』で描かれているのが、「小林カツ代[料理研究家]」対「栗原はるみ[料理研究家]」っていう対立なんですね。いま申し上げたような「5冊の大学ノートを習得して自在に家庭料理を作る」なんてことができなくなった時に、2つの方向がでてきたってことです。1つは「家庭料理」をより簡略化する方向。小林カツ代の「時短」です。もう1つは「家庭料理」ってカテゴリーをやめる方向。これは栗原はるみの「レストランの味を手軽に」です。僕らの社会の分業体制が変化したことで、技芸としての料理の余地が狭められてきたことの結果です。このことからお分かりのように、技芸としての料理から、テクノロジカルなプロダクツとしての料理へという流れが、はっきり見てとれます。
■昔と違って、グルメ番組はたくさんあるけれど、基本は「どこに行けば美味しいものが食べられるか」という話と、「家庭料理にこだわらないで、美味しいものを食べたい時にどうしよう」という話だけになっているでしょ? 何度も言うけれど、これらは僕らの選択じゃないんですね。「選択して、美味しいところに食べにいく」とか「選択して、美味しいものを食べたい時にこうする」とか思っているけれど、そう思うしかないように、ハイデッガー的に言うと「駆り立てられてgestellt」いるだけなんですよね
■この間、第8回で鶴田さんたちに質問させていただいたのは、そういう意味で「料理の将来は明るくないんじゃないか」ということです。そもそも人間自体がコストとしてカウントされつつあるような状況では、当たり前だけれど「料理を作らなきゃいけない人間」どころか「料理を食べなきゃいけない人間」も、システムから見ればコストなんですよ。ときどき食材を消費してくれるって意味では必要だったりもするけど、マクロに言えば産業構造を変えちゃえば、別に食材を消費してもらう必要はないんでね。ということで、前回の僕のコメントは「僕らは料理を必要としなくなっていくだろう」ということでした。
■そして、これから「人間モドキ」が確実に出て来ます。人間によく似た、人間よりも人間的な、AIとかゲノム改造哺乳類とかです。これらの登場はもはや時間の問題です。彼らには、エネルギーは必要だけど、人間が食べるような料理は必要ない。消化もそうですけれど、燃焼とは違うゆっくりとした酸化によってエネルギーを取り出せればいいだけです。だから、まさにアニメ『攻殻機動隊』(1995年)問題が出てくるわけです。「人間モドキ」が、人間に合わせて、時々ご飯を食べてあげるとか、一緒にお酒を飲んであげるとか。「面倒くせえな」とか思いながらね。ということで、僕のような社会学者から見ると、最終的に料理の話そのものよりも、料理を通して見えてくる変化が重大です。
■具体的には、僕らがどんなふうに断片化され解体されて没人格化しつつあるのか、あるいは、してしまったのか。僕らがどれほど自分を選択できない存在になりつつあるのか、あるいはなってしまったのか。思えば、社会の各所が「金太郎飴」みたいに同じ方向に変容しています。たとえば民主政。「民主主義のもとで僕らはいろいろな政策を討議を通じて選択できます」っていうんだけど、ジョナサン・ハイトがいうように、大規模に資源投入して人々の5つか6つの「感情の押しボタン」を押しさえすれば、ほぼ確実に「人々の選択」を誘導できるんですね。という次第で、「僕らに選択ができるようで、実は選択の余地がない」という事態を徹底的に利用したpan-systemizationが進んでいるのだという話をさせていただきました。


【準備2: 台所からキッチンへ:倫理基盤の空洞化と無効な処方箋】

鶴田: ありがとうございます。そうすると、食の産業化とか料理の産業化っていうふうに、「産業化」って言葉を使うと「産業革命」を連想させて、そうすると18~19世紀に遡る現象のような気がしますけれども、それが先ほど申し上げた、自分たちが食を作らなくなって、完全に外注するようになったという産業化っていうのは、80年代以降、コンビニ化・ファミレス化の現象というふうに言えるってことですね。

宮台:■はい。料理に限ると、「技芸techniqueから科学技術technologyへ」という流れと、それが必然的にもたらさざるを得ないpan-systemizationが、1980年代半ば以降に急進展したということになると思うんですよね。楽器演奏みたいなものも確かに技芸として残されてはいるものの、プロを除けば、所詮は娯楽ですよね。それに比べると料理は、少なくとも僕にとっては、最後に残された「生きるために必要と結びついた技芸」っていう感じがしていました。とはいえ、それが実は微妙になりつつあるということなんです。
■昔は男が料理をすると「へぇ~すごいじゃん」って言われた。「暇なんだね」という意味も含めてね(笑)。いまは女だって、毎日わざわざ料理作っているって言ったら、やっぱり「へぇ〜すごいじゃん」ですよ。やっぱり「暇なんだね」って意味が含まれている。ある種レクリエーションとしての料理になっているわけ。実際、僕らが自分の身体性を使って技芸や芸事を現実化して、自分を取り戻したような感じになれるのは、料理ぐらいでしょ? 楽器や武術はすごく修練がいるからね。つまり、料理は、生きるために必要な技芸じゃ、なくなったんです。残ったのは「へぇ〜すごいじゃん」。だって、久保明教さんの本を読んで、「へぇ〜久保さん、料理するんだ、すごいじゃん」って思わなかった?
■システム理論的な言い方をすると、そこに残った共同体や生活世界は、残ったように見えて、システムが「そのぐらいのコストだったら人畜無害なので残してやろうか」みたいな感じで残してくれているものになっている。「手つかずの自然」と同じです。「開発するの面倒なんで手をつけないでおいてやろうか」っていう。そうした、システムによる「不作為omissionという作為commission」の場所として存在するだけになったものが、昨今の料理であって、いまやそれすら消えつつあるというのが、現状だと思っているんです。「家庭料理」だって本質的には同じことですが、今は「消えつつある」というのがポイントなんですよ。

鶴田: 「料理の人類学」では料理を通して人類社会を把握し返すとともに、ある種の共同性の回復というか、宮台さんの言葉で言うと「生活世界」の復権みたいなものにつなげていけないかと。それを、料理を考察することでできないかという探求をしているんですね。たぶんそれは、身体性。料理をするには身体を使い、かつ完全に自然とは言えないまでも、野菜とか生の素材に触れる。そこで一種の野生性みたいなものというのが、料理をするたびに立ち現れる。そういったことを通して、社会変革を考えられないかっていうのが根底にあって。もともと清水さんがおっしゃっていたことなんですけど、料理って普通は作られた食べ物のことを意識しますけども、そうじゃなくて我々が「料理する」ということを名詞ではなく動詞で捉えることで、料理ってことが昔からある、一種の共同行為のようなものの名残り――今は一人ですることが多いけども、もともとは狩りをする人、それをみんなで解体する。共同的な、祝祭的なイベントだったりする――そういった名残りが人間の中にあるはずだと。だからそれを梃子にしてひっくり返せないかっていうコンセプトがあります。そういうことに関して宮台さんに少し、批判をいただきたんですが(笑)。

宮台:■そうですね。批判という以前に、これ(料理を通じた共同行為の回復)はすごく難しいプロジェクトなんですよ。僕の経験談から始めます。実は、小学校1年生のときから日曜の昼ごはんは、家族4人分、僕が作るってことになってました。作るって言っても、インスタントラーメンとか、野菜炒めとか、その程度のもの。時々、1年生なのに餃子を作ったりしてハシャいだんですけれど(笑)。餃子の皮をちゃんと結ぶって、「大阪王将」や「餃子の王将」じゃなくても技芸・芸事でしたので、「これは僕が作った餃子だよー!」って家族に自慢してたし、お客さんが来た時に「僕が作った餃子だよー!」って出してた。それもあって、僕は小さい頃から料理番組を見るのが好きでした。
■グラハム・カーの「世界の料理ショー」が小学校高学年くらいから放映されます。時代としては1960年代後半くらいから。よく見ていたんだけど、超~~~違和感があった。まずジューサー、ミキサー、チョッパー、ミル、そういう機械を使いまくる。「え~!?」っていう感じ。僕らが箸1本で済ませるのに、欧米人はナイフ、フォーク、スプーンを使い分けるのに似てる。僕らは包丁1本でやっているのに、「じゃがいもには皮むき器を」「トマトのヘタを取るときはこの特殊ナイフを」とか。「え~!? それって卑怯じゃん!」みたいな。「皮むき器使うの!? 皮は技芸を使ってむくんだよ!」みたいな。この違和感、分かりますか。「皮むき、散々練習したのに、ズルいよー」みたいな感じ。
■その頃から、実は始まっていたわけ。技芸の場だった「台所」に、テクノロジーが入って「キッチン」になるという。もうそれだけで「家庭料理」じゃないよ。だから「世界の料理ショー」は最後は観客を二人テーブルに招いてパーティーになる。結局パーティー料理を作っているわけね。パーティーは祝祭です。「仕込みはできるだけ機械を使って楽して、パーティを楽しんじゃおうね」ってコンセプトだった。「台所にそんな機械ないしなぁ…」って違和感を抱いてるうちに、違和感を忘れて、気がついたらジューサー、ミキサー、チョッパー、ミルがいっぱいあって、皮むき器もある「キッチン」で料理を作るようになっていた。
■また同じ問いだけど、僕らはそれに抗えたのか。抗えないよね。昔は「まず、林檎の皮を、次に、じゃがいもの皮を、むく練習をしましょう」だったのが、今は「皮をむくのは危ないから、皮むき器を使いましょう」ってね。この間話したように、1980年代からは「安心・安全・便利・快適」のクズ系の人たちがどんどん増えてきちゃったんで(笑)。でも、僕らの小さい頃からも、既に「鉛筆を削るのは鉛筆削りを使え、ナイフを使うのは危ないから」っていうのがあった。僕の親父なんか昭和一桁だったから「鉛筆くらいナイフで削れなくて、なにができるってんだ!」って言ってた。最後の身体性の固執が、ナイフで鉛筆を削ることだったっていうね(笑)。それも気がついたら全部なくなっている。
■そういう流れの中で、料理を通じた自己回復って「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」みたいなところがあって、非常に難しい課題だと思う。とすれば、僕らが考えるべきことは、「なんで、今の自分には、こんなに難しくなっているんだろう」あるいは「なんでこれだけ僕らが、技芸を失って、テックシステムにべったり依存してるんだろう」っていうことじゃないか、という思いがすごくしますね。だから鶴田さんのおっしゃる批判というよりも、技芸を失った自分について「ちょっと違和感があるな」って感じるみんなが、どうしたらいいか知恵を出し合わないと、ちょっと一人で解決できる問題じゃない。一人で何かできても、さっきの「暇だからやってるんだね」って言われるのと同じになる。そう言われないような状況をもたらすには、圧倒的にマクロの問題として問題を考えなきゃ。
■問題をマクロに考えるのに役立つ本として、最近だったら、といっても、もう15年くらい前になるけど、藤原辰史さん[農業史研究者]の『ナチス・ドイツの有機農業』っていう本がある。ナチスとシュタイナーの違いや関係について描き出した素晴らしい本です。でも、皆さんは読まないほうがいいかも。あまりにも情報が多すぎて、なにを読んでいるのか分からなくなってしまう可能性があります(笑)。

鶴田:ふふふふふ(笑)。

宮台:■余程ナチスが好きな人向きです。僕はナチス大好きだけど。大好きって誤解しないでくださいね。学問的な興味の対象として昔からいろいろ書いてきてるし、映画批評家としてもナチスを描いた映画に批判的に言及してきてる。だいたいがナチスを極悪として描く勧善懲悪でしょ。僕は「違うんじゃないの?」って注目してきた。これは戦後直後のフランクフルト学派が言ってたけど、「気が狂ったヤツ、まともに頭が働かないヤツが、ナチスになったんだ」という考え方じゃ太刀打ちできない。そうじゃなく、ナチスの最大の問題は「過剰な理性主義」「過剰な合理主義」にあったんだっていうね。
■フランクフルト学派は、フロイトの神経症概念をベースに社会を分析したので「フロイト左派」とも呼ばれるけど、ナチスに迫害されてアメリカに亡命したユダヤ人たちです。今の若い人は、こういう古いフロイト系やマルクス系の議論を知らないので、藤原辰史さんの本を読むと、「え!? ナチスと有機農業? エコロジーってナチスがルーツなの?」とびっくりしちゃうかも。ただ、正確に言うと、ナチスがルーツっていうよりも、ナチスにも見られるゲルマン的な「森の哲学」がルーツなんですね。そう言えば、みんながびっくりするほど不思議な話ではない。。
■昨年、映画批評ラボで、シーロ・ゲーラっていう先住民の血が入った中南米コロンビア出身の監督の『グリーン・フロンティア』っていうNetflix作品を論じた時に、その話はしましたね。「絶対に近代に汚染されないぞ」っていう原理主義的な先住民部族が、なぜかナチス残党をボスにしている。ボスがなぜナチスなのか。若い人は、みんなすごく驚くわけね。「これって思いつきにしても、突拍子もないな」と。そうじゃない。中南米にたくさんのナチスが逃げたってこともあるけど、ゲルマンの「森の哲学」を体現したナチスがエコロジーのルーツだってことも知らないの?っていうね。エコロジーをただの「自然は大切」という思想だと思っている人は、このことは知っている義務がある。ドイツ「緑の党」だって、80年前後まではナチスに連なろうとする右翼政党だった。
■右翼時代の「緑の党」の思想を「ディープ・エコロジー」つまり「深いエコロジー」と言って、これが事実上──というのは言葉自体は同じゲルマン民族であるノルウェーの哲学者が使い始めたものだから──ゲルマン自然信仰をルーツにしたナチス・をさらにルーツにしていたわけです。だからドイツでは1980年代までエコロジーを語ることがタブーだった。「エコロジーってナチスの思想でしょ」と言われたからね。5年前に出した『まちづくりの哲学」に書いたけど、実際ディープ・エコロジストの中には、「地球生命圈を生態系として維持するには、人類が6億人まで減る必要があり、そのためには、核戦争でミサイル撃ち合って人類がほぼ全滅するのがいい」みたいに言うヤツがゴロゴロしていた。
■そんな中で、こうしたドイツ的な状況に抗いながら、注目すべき仕事をしたのが、ベアード・キャリコットという環境倫理学者。アメリカの人で、ネイティブ・アメリカンやインディアンの研究もたくさんやってた人なんだけれども。皆さん、僕の『まちづくりの哲学』って本を読んでいただくと書いてあったと思うんだけど、僕の学問遍歴の中ではすごく大事な意味を持っている。彼はマイケル・サンデルにも大きな影響を与えた。80年代にこういう図式を出しているんです。生き物を守るべき理由は何か。シンガーみたいな功利論と、レーガンみたいな規範論の立場がある。功利論は最大多数の最大幸福。快不快をカウントしてあげる対象を人間に限ろうが限るまいが、多数者の御都合主義になる。義務論は、たとえば動物に限っても、何を人倫の対象に含めるかで、人間の御都合主義になる。共通して人間中心主義がアポリア(細道)である。アポリアを抜ける唯一の方法が、全体論だというんですね。
■要は、場こそが1つの「生き物としての全体性」だと言う。ただし人間よりもどんな生き物よりもライフスパン(寿命)が長い。だから人間のスパンが短い人間の都合でずたずたにされる。でも場の「生き物としての全体性」が損なわれると、人間の尊厳も損なわれる。なぜなら、人間の尊厳は、1つの生き物としての場に結びついているからだ、と。生き物としての場には、人間や動植物だけじゃなく、岩や山や川や海も含まれている。そして、場を1つの生き物として捉える力は、共同体が与える共通感覚と結びついている。彼は自分の議論を京都学派から得たとしているけど、本体の多くはナチスの生態系平等主義から得ているのは明らかです。唯一の違いは「無生物を含めた生態系の全体が、人間の尊厳を与えている」という主張です。つまり、「最後は人間の尊厳に資するかどうかが大事だ」って話になる。これって唐突です。僕の尊厳に生態系は関係ないという人だらけであれば通用しない。
■藤原辰史さんだと、「やっぱり排除はいけない」って結論になる。これも唐突すぎて、全く処方箋にならない。僕らの企画に引きつけていえば、人間がコストとしてカウントされるだけになっていく脱料理化の流れに抗うって段になって、「やっぱ人間が主人公だよね」とか「システム依存も程々がいいよね」と言うのも、全く処方箋にならない。なぜなら、単に結論の先取りだからです。だって、「排除はいけない」とか「人間が主人公だ」とか「過剰なシステム依存はダメだ」という倫理に到達するために、どんな道筋があるかを、僕らは問うているんだからね。その辺の困難が、「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」「いまさら料理を作るの?」という問いに答える困難のコアになります。
■「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」みたいな批判をしばしば僕がするのは、御存知の通り。でも「過剰に楽天的だなあ」って思うでしょ? そんな話は散々言われてきたし、そんな処方箋モドキが全く役立たないってことは僕らはすでに知っているよね。僕が「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」という趣旨の批判をする時には、「感情が劣化したクズ人間」とか「僕らが社会に閉じ込められたままになるようなクソ社会」といった物言いをするけど、これらは、処方箋としての無効さを承知の上で、「なるほど、そう思う」みたいな感情的シンクロが起こるという「事実性」を当てにしてのこと。つまり、一周した後の戦略なんです。
■さきほどの鶴田さんの投げかけに、答えるのが難しいといったのは、なぜか。僕らが「なんかおかしい」って違和感を解消する方向に動くとして、「どう動けばいいんだろう」って時に「えー、それってまた昔の繰り返しで、無効が証明されてるじゃん」っていうふうにならないことが、すごく難しいということですね。この難問を解くには、「そもそも倫理とは何か」というところに遡らなければいけない。それを、これから語ります。

鶴田: ありがとうございます。かなりお話も、抽象的で難しくなってきていると思うんですけども。今のに関連して、僕らが現状の、食の産業化の状態を「なにかおかしい」と感じると。その処方箋を探すときに、つい家庭料理の時代に戻ってしまう。つまり「家庭料理の時代に回帰すればいい」という、すごく安易なバックをしてしまいがち。でもそういった共同体性は、たとえば専業主婦に過剰な負担が押し付けられるとか……そこに戻ってはいけないという考えもあるわけですね。


【本題1: フュージョンからコントロールへの頽落:共同身体性・共通感覚・共同体的前提】

宮台:■そう。前置きが長かったけど、ここから本題です。いつもの僕の言葉だけど「社会はいいとこどりできない」。どんなリベラル思想も、「我々の平等」を主張するので、「誰が我々か」を巡る排除を必ず伴います。そのことに敏感であれと主張したのがシャンタル・ムフみたいな「ラディカル・ディクラシー」です。でも、彼女らの「処方箋」は、「討議を闘議にレベルアップすることで、『誰が我々か』の境界線を絶えず動かすべきだ、動かさないから問題が生じるのだ」というもの。はい、その通りです。だけど、さっきと同じ単なる「結論の先取り」だよね。「そうなればいいなぁ」という誰もが抱きがちな願望を、「それが倫理だ」と結論しているだけ。所詮は「処方箋モドキ」に過ぎない。
■ただ、僕自身も、まさにその水準で「クズ」「クソ」「クソがついたケツをなめるクズ」という言葉を使っている。誰もが倫理を口にした瞬間、結論の先取りにならざるを得ない。なぜなら、倫理には「時間的貫徹の構え」が含まれるからです。だから、あくまで「仮の姿」で「これが共同性だ」──正確には「これが共同性たるべきだ」──という結論を先取りした倫理を語る限り、その営みは否定されてはならない。実際僕は、いつも3人の子どもたちに「パパ、また昭和かよー」って言われてる。6歳児にさえ言われてる(笑)。それは悲しい状況だけれど、僕が昭和を生きてきた以上、何をどう語っても必ず「昭和すごろく」的な昭和プラットフォームが残響する。それは仕方ないんです。僕が言いたいのは、いいとこどりの倫理を語る「だけ」じゃダメだということです。問題はその先です。

鶴田: 僕みたいに昭和を実際に知らない人間でさえ……。


宮台:■知らないんだよね、おっそろしいことに(笑)。

鶴田: ははは(笑)。でも昭和の家庭的な雰囲気、昭和の食卓みたいなものを、一種の規範化されたカッコ付きの理想の食卓としてイメージしてしまいがちだと思うんですよ。ただ、それはいけないってことも、平成のフェミニズムとかの流れを知っていると分かるんですね。ただ具体的にどのような、一種の共同性とか、どのようなものに向かえばいいのかっていう、そのイメージがすごく貧困なんですね。昭和ではいけないと分かっているけども、でも昭和しか思いつかないという状態があって。その上で、前回宮台さんにお話いただいた、先の人類学が言っているような、人間と動植物まで含めたそれらに成り切ることで、仲間であるという意識を育んでいた、かつての共同体とか。宮台さんもテキストの中で、「そういった感覚ってものから倫理は生じるんだ」ってお話をされていて。やっぱり「共同体」ってことは、なにがしかの手がかりになると思うんですね。

宮台:■そう。一定の条件を備えた環境の中でだけ「倫理が育まれる」。

鶴田: 僕もそうですけど、短絡的で貧困な共同体のイメージではない、いかなる共同体が可能なのかってことを、料理に関連させていただければありがたいんですけども。宮台さんの理想とされる共同体のイメージって、どんなものなのかなっていう。

宮台:■イメージの話はなかなか難しい。粗雑な具体例をあげると、鶴田さんでさえ「また昭和かよー」って僕を揶揄することになる(笑)。

鶴田: ははは(笑)。

宮台:■具体的水準ではなく、抽象的に──正確にはfunctional(機能的)に──考えなければいけない。共同体の定義って社会学でも幾つかあるが、古くから知られているのは「みんなが何事も同じように体験していること」。正確にいうと「そのように当てに出来ること」。これを「共通感覚をお互いに当てに出来る」とも表現できる。人間の感覚が本当に同じかは検証しようがないので、「お互い当てにし合っている」ってところで議論を進めるのが社会システム理論の特徴。「共通感覚」っていう言葉もその意味で使います。それを踏まえると、取り戻すべきは「僕だけがそう思っているんじゃない」「僕だけがそう感じているんじゃない」って思えるという意味での、お互いの共通感覚への信頼だと思います。それが問題だということは、料理だけではなくて、あらゆる問題について言えます。
■なぜ共通感覚を取り戻さねばいけないのか。そうしないとこの社会から倫理が消えるからです。倫理っていうのは、ロジックやロゴスが基盤じゃない。「それは許せない。みんなも許せないはずだ」という感情が基盤です。「許せないという感情を自分が持ち、それを不特定の他者に対しても当てにできる」というfactuality(事実性)です。短く「許せないという感覚の共同性」と言ってもいい。事実性だから、倫理が社会から消えることがあるってことです。「それは許せない、みんなも許せないはずだ」なんて誰も思っていなくても、単に「監視と処罰」だけで秩序が保てる社会を考えることができるでしょ?マイケル・サンデルがアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を引いて「倫理で回る社会」から「監視と処罰で回る社会」への変化を憂えていたでしょ?抽象化には「内発性から損得勘定へ」への頽落です。中国のような「全面信用スコア化」がもたらす変化です。
■僕の定義では、クズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」。この3つは同時に起こるんだけれど、僕は「人間がただの損得マシンになる」のを許せないし、みんなも許せないはずだと確信する。何かいいことをする場合、「得になるから」じゃなく、「いいことをしたいから」やるんだっていう態勢が圧倒的にいい。そうじゃなくなることが、僕は許せないし、みんなも許せないはずだと思う。福音書が語る「善きサマリア人の喩え」が告げることです。僕は、「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情が社会から脱落すること自体に「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情を持つ人が、まだ社会に残っているというfactuality(事実性)への信頼をベースに、尻すぼみになりがちな「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という「許せない感覚の共同性」をどうやって取り戻すかっていうところから、ものを考えます。

鶴田: そうすると、共同体ってことでイメージしがちな、横並びの共同性というよりは、縦の共同性というか、そういう感覚を持っているものと持っていないもの、そういうところを含めた共同性なのかな……。

宮台:■まさにそう。社会学でいう社会とは、言葉と法と損得勘定がないと回らない定住社会のことだけれど、事実として、社会には「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちと持たない者たちが必ずいて、事実として、現世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちが次世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちに「感覚の共同性」をsuccession(継承)してきました。鶴田さんが言う通り、横の共同性が生じるためにも、縦の共同性が必要なんです。コミュニタリアンが先祖代々から子々孫々まで含めた「時間軸の共同性」を重視するのも、そのことがあるからですよね。
■たとえば僕はプログレ系のドラムスをプレイするけれど、昔は音楽っていうとバンドでやる、あるいはオーケストレーションでやるのが基本だったでしょ? 今はDTM(デスクトップミュージック)のテックがダウンサイジング化して、打ち込みでやる人が増えてるよね。すると、昔と違って……まぁこの例も「また昭和かよ」になるなあ(笑)。

鶴田: ふふふふふ(笑)。

以下、中編
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-22 - 10:54:37
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