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DarwinRoom「料理の人類学」(2020/03/28 )における宮台発言の文字起こし

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-18 - 18:50:40
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
DarwinRoom「料理の人類学」(2020/03/28 )における宮台発言の文字起こし
                 文字起こし:長谷川果穂さん

■こんばんは、清水さん、鶴田さん。宮台です。たいへん面白い話をありがとうございます。ただ、未来に向けた話に承服がいかない所があります。それを簡単にお話します。
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■僕の考えでは、料理の歴史は、人間中心主義の歴史です。それは今日のお話の中にも入っていることです。要は、技術によって、ハイデッガー的にいえば負担免除の方法によって、自然から間接化された形で食を獲得するようになったということです。例えば調理の技術がそうです。むろん産業化された工業的調理の技術もそうです。そのようにして人間中心主義的な方向性がどんどん進みます。ここで人間中心主義とは、環境に相対的に左右されずに、自分たちの意志でコントロールできるようになるという意味ですね。
■ところで、皆さんご存じのように近代エコロジー思想の出発点は、ナチスです。ナチスの出発点は、シュヴァルツヴァルトで知られるゲルマンに伝統的な自然信仰です。自然信仰の本質は、脱人間中心主義です。例えば、スウェーデンは1972年まで断種法を続けていました。ゲルマンの「森の哲学」──エドゥアルド・コーン──がそうであるがゆえに、ナチス同様に脱人間中心主義だからです。「死の天使」と呼ばれた解剖と人体実験のマニアックだったヨーゼフ・メンゲレもそう。「ジャングルを見ろ。弱肉強食の連鎖で、喰うものが喰われるのであって、中心はない」と。
■昨今の人類学におけるマルチスピーシーズ化や多自然主義の流れが、包括的な脱人間中心主義の提唱だとされています。ヴィヴェイロス・デ・カストロが有名です。でも、間違いです。僕はマルチスピーシーズ人類学の研究会に出て、会場をぶっ壊すような発言をしました。マルチスピーシーズもまた人間中心主義です。ナチスとの関係に言及しないからです。穏やかに言えば、エコロジカルな秩序を保つには人類の大半が死に絶えるべきだとする、それこそナチスの影響を受けた、ゲルマン系であるノルウェー発のディープ・エコロジーと、自分たちの立場のどこが違うのかを、射程に入れていないからです。
■なぜ人類は生き残るべきなのか。もはや少しも自明ではありません。例えば、集まりの必要を負担免除するシステム化(市場化と行政化)で、人間は感情的に劣化していきます。これは必然です。他方、人間の外側では、AIや遺伝子操作によるで改造哺乳類が人間化していきます。これも必然です。ハーバーマスが20年前に危惧したように、非人間的な人間よりも、人間より人間的なAIや改造哺乳類を、仲間にしたいと思う人間が専らになるでしょう。ところが、人間以外の人間的な存在は料理を必要としないということに注意しなければなりません。
■料理は、システム化によるコントローラビリティの増大の流れを象徴するという意味で、人間主義的なものを象徴していました。ところが、システム化が閾値を超えて汎システム化pan-systemizationの段階になると、「料理のための負担免除」や「料理による負担免除」が、「料理そのものの負担免除=不要化」へと置き換わるわけです。つまり、今後の料理の流れは、逆に脱人間主義化を象徴するものになるしかないのです。それだけでなく、実は人間自体でさえも、料理を必要としなくなるに違いないのです。それはなぜでしょうか。
■実証的な話をします。1980年代以降のオタク化の流れの中で、僕は1980年代半ばに大規模な統計リサーチをした所、仮想現実や拡張現実、つまりゲーミフィケーションを生きる人間たちが、スリーピングピルならぬナリシングピルさえあれば、何も必要としないことが判りました。90年の統計リサーチでは、オタク度が高いほど、料理(グルメ)と、クルマと、ファッションと、オシャレスポットに興味を示さないことが判りました。みなさんご存じのように、ナリシングピルを取りながら料理を食べているように錯覚させるようなオーグメンテーションのテック開発も進んでいます。
■システム化(市場化・行政化)やそれを支えるテックは、負担を免除したい(=便利で快適にしたい)という、遺伝的基盤を支えとする人間中心主義的なものでしたが、汎システム化の段階に至って、人間を出来る限りテックに置き換えたいという、人間を不要にする方向で(=人間をノイズやコストとしてカウントする方向で)脱人間中心主義化しつつあります。テックtechnologyに限らず技術techniqueの本質である負担免除は、その本質ゆえに、テック化technologizationの段階になると遅かれ早かれ「人間にとってのコストの免除」から「人間というコストの免除」へと脱人間主義化せざるを得ないのです。それが人間を料理から遠ざけるのです。
■結果、「料理の発達の歴史」の後、今度は「料理の衰退の歴史」が前景化します。別言すれば、ある段階までは、料理の発達はテックの発達と並行しますが、次の段階では、テックの発達によって、料理が衰退するのです。ただしテックの衰退で料理が衰退するのではない。遺伝子改造やAIなどの人間もどき製造テックや、仮想現実や拡張現実などのゲーミフィケーションテックに人間が囲繞されるほど料理が必要とされなくなる、という動きが示すのは、料理が、テックと平行するというより、人間中心主義と平行するという真実です。普遍的なのは、料理の重要性が人間中心主義といつもシンクロするということ。つまり、脱人間中心主義化で料理はどうでもよくなると思うのですが、どうでしょう?
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■SF映画や小説でも描かれるように、サイボーグ化・義体化していけば、基本、エナジーさえあればいいわけですよ。本質的には燃焼という酸化プロセスと機能的に等価なのに、わざわざ時間のかかる酸化プロセスとしての「食事と消化」なんて必要ないんです。でも、サイボーグやロボットが、人間と共にいるために──人間とtogethernessを享受するため──わざわざ料理を食したかのようにふるまい、場合によっては彼らの感覚器の中に、飲食をenjoyするメカニズムを入れ込むという可能性もあるんですね。それが映画版『攻殻機動隊』(1995)に描かれていことは、みなさん御存じの通りです。
■そのことを含めて、やっぱり料理の享受可能性は、自然から間接化された文明以降の人間に与えられた特権だと考えられるし、今後もそのこと自体は変わらないんですね。だからこそ、人間化したAIや改造哺乳類が出てきたときに「お前ら、料理を楽しめないだろ」っていうふうにして差別する可能性も出てくるわけです。すると、この「人間中心主義を象徴する料理」、丁寧にいうと「人間中心主義の進化と並行する料理の進化」っていうものも、必ずしも無条件に褒められるるというか、肯定できるものではない可能性がありますね。
■先ほど申し上げたように、もともと料理の技術的な発展って、テックを含む技術の発展と並行するんだけど、清水隆夫さんがおっしゃったように、同じ技術の発展が社会とりわけシステム(市場&行政)を発展させてきたた歴史があるので、料理・技術・社会全体が互い連関しながら発達してきているということなんですよ。しかも我々は今、近代の文明社会はこのままではもたないんじゃないか、例えばテックの暴走が起こるんじゃないか、という危惧を抱いてもいます。
■とすると、やはり、テックを含む技術の暴走可能性を反省的に危惧するその同じまなざしで、料理の享受可能性というものを手放しに肯定することはおかしい、と考えるべきだと思います。例えば、料理した肉を食べる場合、他の動物を殺してるんですね。さっき紹介した「死の天使」メンゲレなら、ジャングルの弱肉強食だけじゃなく、こういうでしょう。お前、今日の朝食に何を食べた?ベーコン?お前、豚を殺して食ってるじゃないか。じゃあなんで私を批判するんだ?豚と人間は違うだって?私はそういう前提に立つのはエゴだと言ってるんだ。主人公は、人間じゃなく、生態系、つまり前提・被前提関係のネットワークなんだよ、とね。
■我々の人間中心主義的な料理の享受は、やはり明らかに人間とそうでないものを、まるで自明であるかのように差別するし、そのことを前提として社会的なプログラムが成り立っているんですね。でも、エドゥアルド・コーンや、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、ユカギールというシベリア先住民を研究したレーン・ウィラースレフもそうだけど、我々がホモ・ハビルス以来、長らく肉を食べるて来たにしても、鹿や熊を殺す時に鹿になりきったり熊になりきったりする多視座化のプロセスを持っていたので、過剰な人間主義や人間中心主義に陥らずに済んでいたわけです。決して資源の有限性を考えていたんじゃない。
■しかし我々は、加工ないし加工技術によって、なりきりの直接性とともに向き合ってきた環境からいわば「間接化」を遂げたことで、そうした多視座化の可能性を完全に失ったんですね。結果、昔の人たちと違って、肉食が人間と動物の端的な差別になってしまっただけでなく、自然の有限性を考えることもなかったので、地球温暖化による海面上昇や大自然災害化など「有限性からの復讐」に、まるで『ウルトラQ』みたいに苦しんでいます。なので、人類学的に考えることが、今申し上げたような「自然から間接化された結果、意図せず人間中心主義に陥って、生態系から復讐されている」という我々のあり方を反省する機運になりうるということなんです。まぁざっく簡単にいえばですね。

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■先ほど話した技術的な暴走と、料理に見られる人間中心主義から離脱するための処方箋がどこにあるのかということを、僕は考えています。一つのヒントは、80年代に起こったコンビニ化です。ご存じのように、日本では1980年代半ばにコンビニ化が大規模に進んだんですね。85年といえば、セブンイレブンの最初のテレビコマーシャル、ケイコさんのいなりずし編というのがオンエアされたので有名です。夜中にいなり寿司が食べたくなったケイコさんが、セブンイレブンに駆け込んで、コンビニ袋を下げながら出てきて「開いててよかった」というナレーションがかぶるものです。
■実はコマーシャルの内容自体がすごく大事です。まず、昔は夜中にいなり寿司を食べたくならなかったんです(笑)。我々が共同体を生きていたからですね。内山節さんが2007年に書いた『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』にあるように我々が「人々が感じるように感じる存在」だったからです。逆に言うと、共同体が空洞化して個人がバラけると、昔は持たなかった強い欲望を個人それぞれに持つようになります。そのことが表現されたCMです。まず、それが一つ。
■次に、1985年が、CMの大ヒットもあって、コンビニ大爆発の年なんですが、同じ1985年にに男女雇用機会均等法が施行されます。それによって、男女共同参画が行政によって唱えられるようになります。さて、その時に男女共同参画を支えてくれたのがコンビニ弁当です。それによって「共住共食」をしなくてもよくなった、つまりシステム(この場合は市場)による負担免除がなされたのです。専業主婦のお母さんが、0昼間の子どものご飯を作らないといけないという負担を免除されたことで、女性の参画機会が増えたのです。
■社会学は、家族は「共住=ともに住む、共食=ともに食べる」集団だと定義してきました。当時は経済的隆盛を背景に、単身赴任が急増した時代。ただでさえバラバラになりつつあるのに、残された家族の、共食機会もなくなることで──逆側から言うと個人が自由になって多様な社会参画機会を手にすることで──家族の共同性が急速に壊れるということが、表裏一体で進んだんですね。僕の「新住民化」論が論じてきたように、地域の共同性もそれに準じる展開をしていますが、それは今日はスキップさせていただきます。
■実は料理って、冷凍食品であってもなんでもいいんだけど、お母さんであれ、お父さんであれ、おばあちゃんであれ、家族が作ったものを食べることが大切だったんですね。僕はよく料理を作ります。小学1年生の時から日曜日のお昼は僕が作るっていうのが義務でした。それはいいとして、そのように「共に食する営み」によって生み出される共同体感覚──例えば感謝の気持ちとか「こんなに美味しい御飯を作れるなんてスゴイな」って賞賛の気持ちとか──が大切な機能を果たしてきたんですよ。
■それを考えるに当たっては遺伝子的ベースを忘れちゃいけません。昭和の刑事モノを観ると、刑事がカツ丼を食わせる場面が定番だったでしょう。これはなぜか。今日の皆さんであればご存じのように、まず、血糖値が上がると気分が落ち着いたり、ホッとしたりするんですね。つまりreliefされる。僕の恋愛ワークショップでいえば、相手が不機嫌な時、血糖値を考えてみることが実は意味があるんです。特に母体としての機能を持つ女性は、血糖値が低くなることで不機嫌になりやすい。そういう時には「アイス食べようか」って言って相手の血糖値を上げると、ウソみたいに上機嫌になったりします。
■もう一つ、ゲノム的な基盤に基づく反応があります。人間って、食べている時に限って無防備になっちゃうんですね。他の動物もそうだけれど、安全な場所に退避してから食べるという営みが長く続いてきたからです。例えば、食べてる時に女性が口を隠すという昭和の所作には、無防備さを隠すプロテクション機能があったと推測できます。で、一緒にご飯を食べる時には、ゲノム的な基盤ゆえに、無防備になりがちです。だから刑事さんも、取り調べの時に本当は言うつもりじゃなかったことを犯人に言わせてしまうこともできる。
■間をとばして結論を言うと、アルフレッド・アドラーがいう「共同体感覚」、つまり自分はいつも誰かと仲間であるという感覚を、失ってしまった人間は、自分が所属する共同体とはもとより、共同体の外側にいる人間に対する「なりきり」の感覚を、持てなくなるんですよね。これは、僕がいう感情的劣化の一端です。我々はまだ今のところ人間的な社会を生きているので、ウヨ豚や糞フェミみたいに劣化していなければ、人間一般を仲間だと思うことができるかもしれません。
■でも、最近の人類学が明らかにしているように、もともと人間にとっての仲間は人間だけじゃない。哺乳類だけじゃなくいろんな動物も、動物だけじゃなく植物も、動植物みたいな生き物だけじゃなく石や森や川や山や雲などの無生物も、環境倫理学者ベアード・キャリコットが言うように、それ自体が生き物である「場という全体性」の構成要素──彼の言葉では「環境子」──なんですね。彼が先住民を参照するように、我々は実際にそういうふうに生きてきました。
■あれもこれも仲間。この場合、仲間というのはどういう意味か。我々がそれになりきれるということです。鹿になりきれる。木になりきれる。雲になりきれる。山になりきれる。言い換えると、人間だけが「見る存在」ではなかった。樹にも見られる。岩にも見られる。山も見られる。雲にも見られる。お天道様にも見られる。そんな感受性がありました。これをアニミズムと言います。精霊が宿るということじゃない。我々がそれによって見られるという所にだけ本質があります。
■ただ、この感受性は、これもキャリコットが言うように、人間が共同体的な存在である場合にだけ涵養されるものです。さっき紹介した『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の論点と同じです。逆に言うと、人間が共同体的な存在でなくなってしまうと、共同体によって支えられる共同体感覚を前提に保たれてきた、あれも仲間だ、これも仲間だ、という「共生感覚」も失われてしまうんですね。僕の暫定的な結論は、そこから導かれます。冷凍食品を食べようが、ファストフード店で食べようが、みんなで一緒に食べる共食がとても大事だということです。
■これを抽象化して言うと、「料理の中身も大事だけど、食べ方もすごく大事だ」ということです。実際「何かがおいしい」とか「何かが素晴らしい料理だ」というのは、「僕はそう思うけど、君もそう思うだろ」というsharing感覚が、つまり「みんなと共有したい」という感覚がベースになっているはずなんです。それがまさに漫画『美味しんぼ』が描いてきたことでもあります。
■でも、食事がナリシングピルみたいなものに置き換えられていけば、sharing感覚どころじゃなくなる。まして共同体感覚なんてどこえやら。だって、ピルを飲むのは一瞬なんで、みんなで飲むなんて営みは、滑稽でしかないからです。という次第で、やはり「食べ方」も大事なんですよ。料理を享受するときの人間たちの共同性。これを復権しないと、実は料理がもたらす人間中心主義を克服するための、人間以外のものたちへの「仲間の拡張」もできなくなるんじゃないかと思います。

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■食において最終的に問題になるのは、認知recognitionsでなく、倫理ethicsです。倫理は最終的に根拠がないものです。ロジカルな根拠はないという意味です。では倫理の基盤は何か。既にお話ししてきたように一部ジェノミックなベース(遺伝子的な基盤)との関係もありますが、大事なことだけ言えば「何々が許せる、何々が許せない」という我々の感情に由来するものです。だから、何が倫理なのかは、いつも我々の感情の働きという事実性factualityに貼り付いています。多くの人たちが「本当にそうだな」と思えるという「営みの事実」があるかどうかだけが、最終的に倫理の共同主観性を支えているのですね。
■そのことをまず頭に置けば──倫理とは根拠というより共同主観性という事実性の問題なのだということを頭に置けば──倫理の根拠を論理的に詰める必要がないことが分かります。そのことから何が問題になるのか。先ほど「料理の進化史は、自然を間接化するシステム化の歴史であるがゆえに、人間中心主義の進化史である」と申し上げたのを思い出してください。我々は、人類学的時代を生きていた頃に持っていた倫理を、既に失っているんです。理由を簡単に言うと、環境──我々のsurroundings──が、自然=世界であるより、人間=社会になったからです。我々とコミュニケーション可能なものが、人間だけに限られたからですね。
■アミニスティック(アニミズム的)な時代、我々は人間以外のものともコミュニケーションできました。そうした感受性が、近代化=システム(市場・行政)の高度化によって、失われると、我々は「社会に閉じ込めらる」ようになります。実は我々が「社会に閉じ込められる」動きと、料理のグルメ化とか高級化とか複雑化が、非常に密接に関係していると思うんです。理由は簡単で、テックを含めて技術が負担免除であるにせよ、負担免除のプロセスが複雑化すればするほど、我々から見通せなくなるからです。
■技術という言葉で、今の我々は日常的に、technologyつまりテックtechを指します。でも、もともとはテックじゃなくtechniqueのことを指しました。ユク・ホイという中国人の若き哲学者は、これを技芸と呼んでいます。僕が今回使っている言葉で正確にいうと、「技術一般」=「技芸」+「テック」です。昔に遡ればテックが存在しないので、「技術一般」=「技芸」だったという話になるわけです。ここで大切なのは、昔の時代における「技術=技芸」って、確かに負担免除ではあれ、「目に見える」ということ。だから原則として誰にでも「教える」ことができます。専門化して「目に見えなく」なったテックは、そうは行きません。
■なぜか。テックは複雑な分業体系が前提で、その技術的体系の全体を見通せる人がいないからです。それぞれの人間はparticipant(参加者)として技術的体系に組み込まれるだけなのです。後期ハイデッガーはそれを「人間が技術的体系によって駆り立てられている」と見ました。この「駆り立て論」は共時的(≒空間的)なものですが、これを歴史的(≒時間的)に引き伸ばすとブリュノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論(ANT)」になります。この種の議論が出てくるのは、「我々が『社会(人間の界隈)に閉じ込められている』からこそ『人間が主体だ』という頓馬な勘違いしがちなのだ」との問題意識があるからです。
■ラトゥールの専門家である久保明教さんが『「家庭料理」という戦場』をお書きになったのが象徴的ですが、我々が「社会(人間の界隈)に閉じ込められる」動きと、我々の「料理というもの」に対する貧しい認識が、表裏一体になっているのですよ。なので、それを狩猟採集の時代の直接性に戻せと言っているのではなく(笑)、「料理というもの」に対する我々の閉ざされがちな想像力を回復するために、「社会(人間の界隈)に閉じ込められる」動きを逆転させる必要があると、僕は言っているわけです。たとえば「料理というもの」をめぐっても、我々は「言葉の自動機械」というクズになりがちです。それを解除するべきです。
■例えば、想像力が欠けた人たちは、「自然食がいい」とか「有機野菜がいい」とかいう話をしがちだけど、全部「身体にいい」という話に閉じ込められているでしょう。これではダメなのです。スローフードという1980年代前半から始まった運動は、そもそも原理的に「オーガニック」も「トレーサビリティ」も目的ではないことに注意しましょう。辻信一さんがおっしゃっているけれど、要は「システム(市場と行政)に依存することで共同体が失われていく」という汎システム化pan-systemizationに抗う運動です。説明しますね。
■汎システム化に抗うために、まず「顔が見える範囲」に向けて、つまり仲間のために、農作物にせよ工芸製品にせよ一生懸命に作るわけです。今は農作物の話に限りましょう。仲間が食べるのだから仲間のためになるものを作ろうと思うし、そういう努力を見ているから食べる人=買う人も、スーパーマーケットよりは高くても仲間から買おうと思うわけです。なぜかというと、仲間のために善いことをしようと思うという事実性factualityが「存在する」からですね。つまり「我々が倫理を手放さないための運動」なんですよ。
■他方、システム(市場と行政)に取り囲まれた我々消費者は、自分の健康のために「オーガニックかどうか」「トレーサブルかどうか」を気にして製品を需要し、会社や行政にクレームを付けます。クレームの一部は法律や条令の立法legislationに繫がります。だから、企業人も行政官も、市場の需要に逆らえば利益を失うし、法律や条令に反すれば罰を受けることになります。だから「いいもの」を作らざるを得ません。しかし、そこで働いているのは、ウェーバーがいう「資本制のシステムで生き残るための損得勘定」です。つまり、そこでは共同体(=仲間)が失われているがゆえに、倫理が失われているのです。
■念を押すために、貢献性contributionという観点からも見てみましょう。ある方向に抽象化して機能的に見れば、スーパーやコンビニよりも高い農作物(や工芸品)を仲間から買うのは、共同体を維持するための税金に近いところがあります。でも、決定的に違うのは、税金を払うのは、そうしないと罰を受けるからですが、少し高くても仲間から購入するのは、「仲間に報いなければならない」とか「共同体に貢献しなければならない」と思うからです。つまり、動機付けという別の方向に抽象化してみれば、少し高くても仲間から買う営みは、罰を恐れて税金を払うのとは違って、倫理なのですよ。
■平たくいえば、人間的な感情やそれに基づく倫理によって「仲間のために良いものを作ろう」と思っているのか、「そうしないと売れないからオーガニックでトレーサブルなものを作ろう」「有毒な添加物を入れると法律や条令に引っかかるから添加物を控えよう」と思っているのか、の違いです。二つの間の違いを理解するための、分かりやすいヒントが、1995年にアメリカの巨大スーパー「ウォルマート」が始めた「ロハス」です。FMラジオのJ-waveがある時期にヘビーローテーションしたので、日本でも多くの人たちが知っているでしょう。
■ロハスとはLifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字をとったもので、「健康で持続可能な生活」という意味です。これはもともと、1980年代半ばから先進各国を急速に席巻したスローフードの運動に対抗するための、巨大企業のマーケッティングでした。「スーパーマーケットだって、オーガニックなものを売ってるぞ、トレーサブルなものを売ってるぞ」というわけです。アメリカ人とそのケツを舐める日本人は頓馬だから「そりゃいいね」となりましたが、とりわけフランスとイタリアでは、現在EU委員会の議員である農民運動家のジョゼ・ボヴェをはじめとする人たちによって、激しい対抗運動を引き起こしました。
■イタリアのマクドナルドの「地元の有機野菜を使ってますキャンペーン」に政治家まで動員されたことに対して、「そこじゃないんだよ、俺たちが言ってんのは。それはどこまで行っても所詮は損得勘定を動機付けとする単なるシステムじゃないか。結局、お前たちは法に違反しなければいい、売れればいいっていう損得勘定の枠の中でだけ行動しているだけだ」と喰ってかかったわけです。要は「スローフード運動ってのは、損得勘定で回るシステムに対して、内発性に基づく善意を動機づけとして回る共同体を擁護しようとする運動なんだよ」と叫んだのです。このアドヴォカシーにこそ、大きなヒントがあると思うんです。
■誤解がないように言うと、損得勘定がいけないと言うんじゃない。資本制システム内で生きる以上、儲けがなければ終わりです。そうじゃなく、損得勘定の内側に閉じ込められちゃいけないと言うのです。そのためには、資本主義を共産主義に取り替えるんじゃなく、資本制システムを維持しながら共同体をも維持することが必要だと言うのです。共産主義も社会主義も、所詮は匿名性や入替可能性を前提にしたシステム(行政官僚制)に過ぎないでしょう。なぜ共同体を維持しろというのかというと、それは「人間的なものの本質が倫理にある」と見るからです。「善いことをしようと思う」という事実性にあると考えるからですね。
■このように、損得に閉じ込められず、損得を越えた倫理へと開かれるには、まず共同体が回復しなきゃいけません。共同体が回復した時にだけ、我々は、その共同体=仲間を支えるものを守ろうという、損得勘定を越えた内発性=内から湧き上がる力を、手にできます。そこから、共同体の存続を目標とした生態学的な思考──前提するものと前提されるもののネットワークについての思考──をリップル状(雨紋状・水紋状)に広げることができ、「人間じゃないものも含めて仲間なんだ」という感覚を持つことができるようになるんですね。そのためにもまず「損得を越えた倫理こそが人間的なものなのだ」という認識が必要です。
■こうした機能的な連関についての思考それ自体が、実は生態学的な思考です。生態学はエコロジーecologyの訳ですが、多くの人が誤解しているような「自然は大切」というイデオロギーではありません。生態学的な思考自体は、ナチスやディープエコロジーがそうであるように、どこまででも非人間的なものになり得ます。そうならないために必要なのは、論理つまりロゴスではなく、倫理つまり損得勘定を超える感情が働くという事実性です。すると、その事実性が失われつつある中で、どうやってその事実性を回復するための仕組みをどう構築するかという実践が、これまた倫理的に要求されます。
■ここには「鷄と卵の問題chicken&egg problem」があります。でも、これは困難を意味するのではなく、むしろ、鷄から出発しても卵から出発してもいいのだということを指し示しています。損得勘定を超えた感情が失われつつある中で、それを回復するには、単に道徳訓を埀れるミクロな営みはなく、やはり相対的にマクロな仕組みが必要です。それは生態学的思考から明らかです。そうした思考のためにこそ、僕たちが個人化された文明の中で享受している「料理というもの」をめぐる広い意味での──お父さんやお母さんが料理することを含めた──サービスを、どんなアーキテクチャが支えているのかを、考察するべきです。
■これまた誤解なきように言うと、「コンビニ弁当がいけない」といった紋切型を「言葉の自動機械」よろしく反復しているのではない。生態学的思考は、例えば生態心理学が「道具というもの」を前提・被前提関係という関係性へと解体する、というか、押し拡げて想像するためのツールであるように、技術によって結びつけられた「人間を単なる一コマとするような事物の連関」へと開くものです。それを前提にすれば、僕たちが倫理的であろうとする限り、「コンビニ弁当って便利でありがたいな」と思うだけでは済まないということです。



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