■連載の第六回ですが、前回までに「社会システム」概念を理解するの必要な知識をお話
ししました。第一回は「社会とは何か」、第二回は「一般理論とは何か」、第三回は「シ
ステムとは何か」、第四回は「秩序とは何か」、第五回は「社会システムとは何か」です。
■全体を復習します。「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な
前提の総体です。それを明るみに出すのが社会学ですが、中でも「一般理論」は、特定の
文脈に縛られないよう、できるだけ多様な主題を、できるだけ限定された形式で扱います。
■社会学の一般理論として有力なのは「社会システム」理論です。「システム」とは複数
の要素が互いに同一性のための前提を供給し合うループです。多細胞生物の個体が死ぬと
臓器や細胞も死滅するように、全体の同一性維持なくして部分の同一性維持はありません。
■同一性を「秩序」と言い換えられますが、あるマクロ状態に含まれる「ミクロ状態の違
いによって区別された場合の数=複雑性」が小さく、存在確率の低い状態です。システム
は、要素間の交互的条件づけという内部メカニズムの、永続的作動で、秩序を維持します。
■「社会システム」は要素や関係の同一性は、物理的記述によっては与えられません。火
星人が初めて野球を観察する場合、物理的記述を重ねても、意味を知らないので野球の記
述に至れません。社会システムの意味や関係の同一性は、意味によって与えられるのです。
■正確に言うと、社会システムの秩序定義に必要な、マクロ状態に含まれる「ミクロ状態
の違いによって区別された場合の数」は、恣意的な示差性・二重の選択性・否定性保持と
いった意味の機能が与える「選び直し」の可能性を前提に、初めて数えることができます。
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■渋谷・赤坂の小学生少女監禁事件が騷がれたせいで、援交の低年齢化が起こったように
言われている。それは違う。実際に起こっていることを紹介する。幾つかの変化が重なっ
ている。
■先ず《高校生の常習援交は確実に減った》。第一に、街よりも家にタムロするのでカネ
が不要になった。第二に、学校も家もユルイ場所になって鬱屈が減った。第三に、かくし
てギャル系が撤退し、常習援交するのが自意識系ばかりになって、カッコ悪くなった。
■次に《常習は減ったものの、臨時援交は増えた》。携帯代や授業料が払えないとか、旅
行代金が必要だとか、彼氏のプレゼントが買ってあげられないとかで、必要に駆られて時
折援交する。中学生から大学生やフリーターやOL・主婦にまで共通する。
■臨時援交の特徴は、低年齢の場合、親を困らせたくないとか、彼氏を喜ばせたいなど、
「人のため」という意識があること。成人女性の場合、消費者金融を利用するよりリスク
が低いと、「トラブル回避のため」という意識があること。
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■WHOのレポートが示すように、精神的依存性・身体的依存性・健康被害のいずれにおいても、アルコールがマリファナを上回る。
■米国での実験では、酒酔いは反応速度を著しく低下させるが、マリファナは低下どころか向上させる場合もあり、車の運転との親和性も酒のほうが低い。
■ゆえにマリファナを販売し、流通を放置することが、個人的法益を侵害するとは言えない。とすれば規制の理由は、論理的にいって社会的法益の侵害しかない。
■これが難しい。「10の疑問」Q7にあるステップストーン理論(ソレを踏み台にしてもっと上に昇る)は、問題が社会的文脈によるので、単純に実証できない。
■酒を飲むと薬物へとエスカレートするという踏み台は、どこの国にもない。とっくに合法化されていて禁忌の意識がないからだ。マリファナはどうか。
■非合法化された国では、禁忌を破って薬物にアクセスしようとするという行動習慣の入口にマリファナが位置し、踏み台として機能してしまいがちだ。
■社会政策上の微妙さがここにある。第一に、酒のように常態化すれば踏み台として機能しなくなるが、それまでの過渡的期間、解禁が踏み台を与える可能性がある。
■第二に、社会との親和性。近代社会は長く酒と共存してきたが、マリファナとの共存は歴史が短い。社会と親和的な吸引習慣のありようが不透明なのだ。
■解禁せずとも社会的法益上の問題が生じる。第一に、闇勢力の資金源になる可能性。第二に、規制するからこそ踏み台になる可能性。第三に、一定以上拡がった段階では、重罰を伴う取締りが、行政権力の恣意的な狙い打ちに利用される可能性。
■利害得失判断は客観的計算で済まない。どんな社会をよしとするかの議論と表裏一体だ。Just Say No から Just Say Know へと転換、議論を始める必要がある。
以前ここにアップした寺山についてのインタビュー原稿を三倍の分量に拡張したものを、
別の場所に載せました。
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■維新派の公演を「演劇」と呼ぶべきなのかどうか分からない。でも「演劇」という概念
自体の自明性が崩れてから少なくとも(例えばブレヒトから数えて)半世紀。面倒だから
「演劇」と呼ぶことにする。私にとっての最大の演劇経験は、いまでも維新派だ。
■評判には聞いていても大阪まで出かけるのは億劫。ビデオで見たことはあっても、結局、
私が初めて維新派を直接体験したのは、今から三年前のこと。忘れもしない、今はなき大
阪南港ふれあい港館広場で行われたヂャンヂャン☆オペラ『流星』の公演だ。
■南港は遠い。東京から行くとなおさら遠い。翌年の奈良県室生村での『さかしま』も遠
かったし、翌々年の岡山県犬島での『カンカラ』も遠かった。でも、繰り返し経験すると
分かるのだが、遠いことが大事だ。
■旅の道中は、神殿参拝のための禊ぎの時間のようなもの。スポーツでいえば準備体操の
ようなもの。日常の時間と空間をそのまま公演会場に持ち込むのではなく、すぐさま水に
飛び込む代わりに、非日常の時間と空間に向けて徐々に体をならしていくのだ。
■日の落ちた後の薄暮。南港の広場に近づいていくにつれて、赤々とした灯が、火が、見
えてくる。屋台が立ち並んでいる。呼び込みの声がする。食べ物の匂いがする。人が多勢
渦巻いている。ああ、あの感覚だ。子供の頃に経験したお祭りの日と同じだ。
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