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【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|中編

(以上前編、以下中編)

▶仲良くなりたければ一緒に長い散歩をしろ

宮台:■そうなんです(言葉よりも言葉を得るまでの工程こそ大切だというダースさんに、応答)。だから、僕の恋愛講座・ナンパ講座でもね、まぁ僕の本(「愛のキャラバン」ほか)でも再現されているけれど、女の子……まぁ友達でも同じなんだけれど……仲良くなりたかったら長い散歩をしてほしい。長い散歩をすると、最初合わなかった歩調や呼吸がだんだん合ってくる。しかも、同じ風景を同じ順番で経由することで、共通の時空のベースができあがる。それができあがれば、その後は、ほんのちょっとの言葉や仕草だけで大きなことが生じるんですね。年少の世代になるほど、こうした時間軸に関する想像力がないので、どうやって告白するかってときに、告白の内容ばかり考えちゃうんです。
■そうじゃなくて(笑)、いつもの決めフレーズを言えば「告白するまでに、何をするかが8割だ」です。時間軸を通じて、共同身体性とそれによる共通感覚が、生まれた後、そこから先は、ホンのちょっぴりだけでいい。ここでも、いつもの決めフレーズを言うと「そこから先は、目だけでいい」。その意味では、宗教も舞台芸術も性愛も、同じ時間構造を持ちます。それが、ポストコロナの時代に、宗教が……実はそれだけじゃなくて舞台芸術や性愛も同じだけれど……生き残れるかを左右する「共通の大問題」を示しているんですね。つまり、共通して、「体験デザイン」として有効であり続けるか、です。その意味では、教育もまた、同じ「共通の大問題」を抱えています。

ダース: ちょっとね、僕のこのチャンネルで、別枠で僕の友達だったり知り合いと、オンライン教育の今後についてちょっと話したんですけれども、基本的にはオンライン教育っていうのはまさに同じ問題を抱えていて。で、たしかにzoomでできることもあるし、テクノロジーで、ある種、この知識をこの人に渡すってことだけだったら、まあ、むしろいろいろできるくらいの話で。
 これは最初のほうに宮台さんが言っていた、大学のゼミでも会議でも、これやっちゃったあとわざわざ教室に集まるってのは、情報量の行き来だけ考えたら、すごくコスパが悪いんじゃないかっていうのは当然あって。でも、そうじゃないものってなんだっけ? ってことを考えながら進まないと、オンライン教育のほうがいい……ていうかいまはオンライン教育するしかないわけだけれど。
 そういったときに失われるものがなんなのかっていうのは、言語化しておいたほうがいいんじゃないかっていう会話をしたばっかりなんですけれども。やっぱりそれって、大学生のアンケートを取った場合、実はオンライン化に賛成している学生の大部分が、学校行くまでの時間が2時間かかるとか、それがなくなったから、すごくいいっていう……その感覚でオンライン教育を良しとしている学生が多くて。でも僕、高校のときとか1時間くらいかけて通っていて、途中から電車乗るのやめて走って通うようにしていたんですけれど(笑)。

宮台:■ははは(笑)。

ダース: そうすると、やっぱりできあがっているんですよ。学校着く頃には40分以上ジョギングして学校通っていたんですけれど、着いたときにはできあがっていて、その学校体験っていうのが全然違うものになったっていうのが実体験としてあるから、たしかに知識の受け渡しだったりコストパフォーマンスってことを考えるとオンライン化のほうが遥かに良くなるし、これは技術が進めば進むほど、その場でファイルのやりとりもできるし、画面共有すれば映像もその場で見せられるし、音もなんでもできるわけだから、それはいんだけど……でもそれってそもそも秤(はかり)に乗せられるものなのかっていうのが、ちょっと僕は分からなくて。どっちかを選ぶっていう類いのものなのかなっていうのが、すごく難しい気がしたんですけれどね。

宮台:■おっしゃるとおり、秤に乗せるというやり方じゃなくって、zoomならzoomを使って、かつてのオフラインが分厚く存在したときの体験を、どうやったら実装・再現できるか、っていうふうに、みなさんには問題を立ててほしいんです。さっきお話ししたDarwinRoomでの「映画批評ラボ」でやったのが、ブレイクアウトルーム=班分けです。これは、別の英語で教える大学(至善館)のほうで、班分け機能を使うとものすごい効果があることが分かったからです。そこに、かつて存在した時間構造をオンラインで再現できるかという問題が関係するんです。
■班分けをすることの意味は、機能的には分かりやすい。班分けでは、スーパーバイザーあるいは教員である僕が強いて望まなければ参加できないので、「僕の見ていないところでみんなで話せる」んですね。そうすると、よく「インターネットを使った教育は双方向だ」って言うけれど、実際には片手落ちであることが分かります。教員と生徒の間の双方向だけじゃなくて、生徒と生徒の間の双方向性や、双方向性を超えたギャザリング(集まり)も大事だということが分かります。
■「班分けして5分間喋ってくださいね」って言うと……僕の場合は意図的にシステムによるランダムなブレイクアウトを使うけれど……毎回はじめて出会った人と話し合うことになります。そして、次のブレイクアウトでも、また初めて出会った人と話し合うことになる。それを3、4回繰り返すと、50人や100人の規模でも、ある種の共同性ができあがるんですよ。「こういう人たちが参加しているんだ」「疑問を感じていたのは僕だけじゃなかったんだ」という感覚も抱ける。
■それだけじゃなく、レクチャーやセッションが全部終わった後、zoomミーティングルームを落とさないでおけば、zoomのチャット機能を使って、みんなで二次会になだれ込めるわけ。20人以下の規模でやる場合は、zoomと並行してLINEを開いておいてもらうんだけれど、LINEでやってもいい。繰り返すと、みんな「双方向」ってことばかり強調しているけれど、生徒間の関係はどうなんだよということです。これはダースさんがずっとおっしゃってたことですね。生徒間の関係をどうやって作るのかを考えないで「双方向だからいいんだ」とホザく教員は、頓馬です。教員にそう言われて「それでいいんだ!」って思う親も生徒も、頓馬です。教室内の関係って、むしろ生徒間の関係なんだよ。

ダース: 小学生くらいの教室って、突然変なこと言い始める子が4つくらい離れた席で、「先生はーい!」って言った後に全然関係ないこと言いはじめたりとか、やたらと答えるのが早い子もいたり、手をあげて喋ったと思ったらなにもまとまってなかったりとか、先生がなにか言ったときに周りが思わず笑っちゃったりとか。そういった場の空間の体験をインターネットにどれだけ移行できるのかっていうことが大事だと思っていて。「そもそもできるのか」っていうのと、さっきのに戻っちゃうけど「していいのか」っていう話もあって。これをインターネットが代わりをできるようにするっていう方向に進んでいいのかっていうのも考えたいなと思って。
 もう1つ宮台さんがずっと話していたのが、長時間散歩することによって、人間関係の8割は一緒に散歩すればできるんだっていうことが、そもそも耐えれられない人がいっぱいいて。5分と間が持たないみたいな。一緒に散歩もできないっていうのが一定数、実はいるんじゃないかなと。それはさっき言った「大学に2時間かけて通うのがダルいから、zoomでいきなりオンラインできて良かったです」っていう人は、やっぱり耐えられない……それは「痛み」だったり「つらさ」だったりというのが。zoomだったら3秒で入れるけど、こっちだったら2時間かけて大学行きますよっていうのが、もう耐えれられないっていう人が結構な数いるっていうのが(笑)。


宮台:■そう思います(笑)。僕も中学・高校はだいたい1時間50分片道かけて通っていたんですね。

ダース: 1時間50分ですか(笑)。

宮台:■そう(笑)。でも、おかげで、少なくとも帰宅については、友達と途中まで一緒に帰れるわけ。だんだんお別れしていって、最後は一人になるんだけれど、長い場合には一人か二人の友達と1時間は電車に乗っているわけです。これ長いよ。だから、いろんなこと喋れるよ。それがすごく重要だったなっていうことを、さっきのダースさんの話を聞いて思い出しました。同時に、今どきの子たちは、もたないだろうなとも思った(笑)。たぶん、沈黙を恐れたりとか、自分が本当に思っていることを喋ったりするのはまずいんじゃないかとか。そんなヤツらが将来、性愛に乗り出せるはずもないわけよ。
■本当は、これは「ニワトリと卵」の問題なんです。たとえば、1時間いつも同じ電車に乗って話していれば、話題が尽きてくるよね。すると、だんだん本当に思っていることしか喋ることがなくなるんです(笑)。「俺さぁ本当はさぁ」っていうふうな話をしないと、もたなくなるんだよ。だから、長い間一緒にいるっていうことだけでも、本当のことを喋れるようになるのに役立つんですね。「いろいろ喋ることがあるから、長い間一緒にいるんだ」「喋ることがないから、一緒にいられないよ」って思うのは、長い間物理的に一緒にいざるを得ないという経験の、不足からくる勘違いなんですね。
■さて、zoomは「長い間物理的に一緒にいざるを得ないという経験」を実装できないですよね。いつでも「落ちまーす」ってできるから。要は「つまみ食い」になるんですよ。cherry pickingって英語で言うでしょ。おいしそうなサクランボだけをつまみ食いするわけよ。付き合いたいヤツと、付き合いたいときにだけ、付き合う。この貧しいアーキテクチャ(仕組み)を、zoomでカバーできないかな、別方向に引っ張れないかなって思う。
■そこで思うのは、この「100分de宮台」もそうだし、他の配信もダースさんはいっぱいやってらっしゃるけれど、やっぱり継続なんです。配信を継続すると、だんだん時間が蓄積して、教室になぞらえれば、先生と生徒のつながりも、生徒同士の横のつながりもできていく。Zoomであれば、さっき言ったように、班分けと事後のチャット2次会を利用すれば、その都度の横のつながりを作れるから、それを継続するだけでコミュニティができる。縦の関係でも、継続していけば、生徒は先生の言外のコンテクストを受け取れるようになっていく。先生が喋り出す前に、何を伝えたいのか分かるようになっていく。この横と縦が合わさると、先生の言外にシンクロできる生徒たちというコミュニティができてく。
■単に、送り手が大事な情報を伝えることだけを目的とするケースだと、受け手の知識は蓄積していくだろうけれど、縦にも横にも関係が積み重ならないよね。関係が積み重ならない限り、オフラインの対面コミュニケーションが持つギャザリング(集まり)の機能を、zoom配信が実装することはできない。関係を積み重ねることに注意をするのが大切で、レクチャーするときも「そういえば君はこないだこういう質問をしたよね」とか、グループワークや二次会をするときも「こないだの話の続きを話していいかな」とか。そういう「こないだの話」に言及する構えが、送り手にも受け手にも必要だと思うんです。

ダース: いまの宮台さんの話を聞きながら思い出したんですけれど、僕の学生時代の記憶ですごく大事なのは、帰りの時間に一緒に帰る。僕はサッカー部でやっていたんですけれども、サッカー部の仲間は部活が一緒ということで、普段の趣味とか学問領域とかは全然違う。けれど部活が一緒で、3~4人で一緒に帰るんですけれど、そこでの会話は実はすごく記憶に残っていて、それがすごく大事だったなってことが後になって思うし。「そういう音楽聴いてんの?」とか「なにその本」みたいな話って、そういう目的意外の時間で……学校も終わってサッカーも終わった、さらにその先の時間を一緒に過ごすことで、ほかの話ができるっていうのがあった。
 僕の小学校のときの帰りって、ちょっと私立で離れてたところに通っていて、歩いて通っていたんですけど、ダンジョンドラゴン的な高等ロールプレイングゲームをやっていたんですよ。僕がゲームマスターになって、毎回4人とかで帰るときに「お前は魔法使いで、お前は戦士で」みたいなことを言って、歩きながらロールプレイングゲームをやっていて。でも家に帰るまでにロールプレイングゲームって終わらないから、次の日に解散したところからもう1回ゲームをはじめる。でもそのときに、子供だから設定とか曖昧になって覚えてなかったりして、ちょっとずつゲームが変わりながらも、ずーっと遊んでるっていうのを帰り道でやっていて。あれはすごく間をもたせる技術だったり、人と会話をするときに、「みんな違うけど、このプラットフォームに乗っかればこういう話ができるよね」みたいなのを探るのにすごく役立ったなっていうのが。
 で、これを、たとえば宮台さんといま僕が話しているのはライブ配信でやっているんですけれど、同時に僕は宮台ゼミとかも通っていて……それもいまはzoomになっちゃったんですけど。だから基本的には情報の受け渡しっていうよりは、「宮台さんがこのタイミングでこういうことを言っているということは、その裏にこういう考えがあって……」とか「あ、この作品の例を出しているっていうことはそれはこういうところに接続してて……」っていうのが蓄積として分かるから、オンラインでもそのままできるけど、それが無い人同士がこれからガッチャンコしていくときにどうなのか。
 もう1つ、宮台さんもさっき言っていた、いまの子供たち。そもそもこれがスタートだった場合、別に全然違う進化をしていく可能性があって。そうすると僕や宮台さんがここで言っている「時間を積み重ねるのが良かった/散歩するのが良かった」という良い悪いじゃない、良い悪いに進化していく可能性があると思っていて。それがガンダム的にいうとオールドタイプとニュータイプで分かれる分岐点みたいなのが……要は、昔一緒に散歩していた人類と、ずーっとzoomで話していた人類というので、全然違う存在になっていくっていう分岐点に僕らはいまいるんじゃないかなっていう気もちょっとするんですよね



▶「イエスとはどういう人間だったか」を抽象化することが「倫理」のコアとなる

宮台:■それは、1960年代の「ニューウェーブSF」が扱ってきた問題でしたね。テックのプラットフォームが変わっていくと、僕たちの感受性も変わっていきます。10年・50年・100年したらずいぶん変わってしまうでしょうね。だから、1950年代の「オールドSF」は、100年後のプラットフォームを生きる人たちの生き方や感情の働きが非人間的になるだろうと、批判するタイプが多かった。ところが、その未来批判を批判したのが「ニューウェーブSF」です。
■一口で言えば、テックの急展開の流れにあって、今の感受性を持つ僕たちが、100年後の感受性を批判することに、どんな意味があるのかを問題にした。100年後のニュー・プラットフォームに適応した未来人たちは、オールド・プラットフォームに適応した僕たちが持つ感受性を既に持たない。現在の感受性を持つ僕たちが、突然ニュー・プラットフォームに放り込まれたら苦しくて仕方ないだろう。でも、未来人が現在の僕たちの感受性を持たない以上、苦しくないだろう。僕たちが未来を批判することにどんな意味があるのかと批判したんです。
■これはジェームズ・グレアム・バラードというSF作家が1960年代に最初に問うた大問題で、多くの作家たちが連なった。この問題は今も解決できていないし、そもそも解決できない問題です。しかし、そもそも解決って何なんだよって思いませんか。思うに、この「バラードの問い」は、「倫理とは何なのか」を問題にしている。倫理は、いつでもどこでも、今ある僕たちの時空間における生活をベースにしたものです。なぜなら、倫理のベースは、事実として存在する「許せない」という感覚の、共同主観性だからです。「許せない」という感覚が、僕だけのものじゃなく、みんなのものであるべきだ、と理解されたとき、その感覚が、規範や倫理に昇格するんです。
■ここでちょっと考えてください。強い倫理の感覚は、「この感覚もどうせしばらく経てば誰からも忘れられるだろう」なんて感覚とは両立しない。それが強いという意味です。「細部は別にして、倫理のコアは変えてはいけない」というこだわりがあって初めて倫理になる。憲法学者のローレンス・レッシグが、立憲意思とは何かについてこう解説した。ファウンディング・ファーザーズ(建国の父たち)が今生きていたら、昔はなかった今の問題についてどう言うだろうか。それが立憲意思なのだ、と。だから、立憲意思は憲法の文面そのものじゃない。彼らが生きていたら、同じ文面は書かないからです。
■「時代を経て、細部が変わろうとも、コアが変わらない」とは、そういう意味です。彼らによって合衆国憲法とりわけ修正条項が作られてから230年経ちますが、テクノロジーも社会状況も劇的に変化したにもかかわらず、文面もさることながら、倫理のコアを維持しつつ今日まで来ています。僕は初期ギリシャ思想の倫理から影響を受けているし、ギリシャ的なものを継承したイエスの倫理にも影響を受けていますから、2000年間も2500年間も変わらない倫理のコアがあるとさえ、思います。だから、テックがどうあろうとも、変わらない倫理のコアを、子供たち・孫たちに述べ伝えていくことそのものが、その倫理に含まれているんですね。貫徹されるものこそ倫理です。

ダース: ベースにあるのが「倫理」って話で、今回のテーマに戻ろうと思うんですけれども。たとえばキリスト教っていうのが2000年続いてきたっていうのは、その西暦0年前後にイエスという人物が語っていたことは、いまでも倫理であるということを継続するっていう仕組みがキリスト教全体として……カトリックもプロテスタントもいろんなやり方があったとしても、基本的には「あのときイエスが言った言葉こそが僕らが守らなきゃいけない倫理なんだよ」っていうことだと思うし。
 ユダヤ教に戻れば、それは「モーセがシナイ山で聞いたことこそが、いまでも守らなければいけないことなんだよ」っていう考え方だと思うし。仏教で言ったら釈迦が、あのとき弟子に言った考え方……仏教の場合は考え方の話になると思うんですけれど。「ああいう考え方が、いまでも持ってなきゃいけないんだよ」っていう意味での倫理の保持っていうのが、宗教の1つの役割だと思うんですけれど、それが今後どう機能していくのか、宗教がそれをできるのかっても……。

宮台:■あぁ、ダースさん。それ、すっごい重要な問いかけだと思っているんですね。今日、最も語りたかったことの1つです。倫理のコアっていう言い方をしたけれど、これはとても重大なものです。重要すぎるので、いろんなパラフレーズが必要になると思います。あのね、さっきイエスの言葉っていうふうにおっしゃった。僕らがイエスの言葉を理解できるとは、どういうことなんだろう、というところから始めます。
■さっき僕が紹介した田川建三っていう宗教研究者は、1972年から『イエスという男』と題する文章を断片的に書きはじめて、80年に本になるんです。これが素晴らしい本なんです。でも少し難しい。一口で「イエスはどういう人間だったのか」を問う本です。歴史の資料から見て、イエスは実在しました。そのイエスが故郷から出て歩き回って活動したのは、32歳前後のたった1年。ガリラヤからエルサレムに向かう曲がりくねった道行きです。それで世界を変えてしまった。むろんイエスの教説から生まれたキリスト教がなければ近代世界もないわけです。たった1年で世界の歴史を変えた男。凄い男だったに決まっている。
■何が凄かったのか。大切なことは、僕らがイエスの言葉をじかに聞けないこと。言行録しかない。言行録つまり福音書は4つある。自分の思想をイエスに仮託したヨハネ福音書を除いた3福音書が、時代がズレながらも記述が重なるので「共観福音書」と呼ばれる。さて本題。言行録を書いた人は、どう考えてもイエスより小さいじゃんね(笑)。小さいヤツが伝える「イエスはこう言った」みたいな言葉は「私はこう聞いた」に過ぎない。だから真に受けちゃダメだって田川建三は言います。彼は、イエスが歩いた、その時代のその場所を、歴史学の手法で細かく考証して、共観福音書の重なる記述のシニフィエを明らかにしていく。つまり、文脈を厳密に補ってイエスの真意を再現するわけです。
■田川建三には一貫したモチーフがあります。イエスが行く先々で人々の痛みに寄り添ったことはよく知られています。でも「痛みに寄り添う」という言葉を簡単に理解できると思っちゃいけない。福音書の著者たちも後年の聖職者たちも、自分たちが想像できる範囲で「あー、痛みってこんな感じかな」みたいなシニフィエをあてがっている。これは、とんでもない。歴史的に考証すると、イエスが寄り添った痛みは我々の想像を絶している。イエスが寄り添ったのが現実にどんな痛みだったのかを再現すると、まさに想像を絶したイエスの凄さが浮かび上がる──これが田川建三の史的イエス論のモチーフです。
■だからといって「その時代その場所の痛みと、同じ痛みに苦しまない者には、イエスの言葉が理解できない」というんじゃない。激烈な痛みへの、寄り添い。それも、寄り添うだけで反体制だと思われた時代に、敢えてなされた、激烈な寄り添い。そこから「イエスという男」がどんな存在だったのかが浮かび上がる。浮かび上がってくると、信じる・信じない以前に、誰もが感染してしまわざるを得ない。もうダースさんに伝わっていると思うけれど、さっき僕が言ったコアって「感染の源泉」のことです。このように抽象化して初めて、倫理が継承される理由、なぜ倫理が時間的耐用性を持つのかも分かってきます。
■シナイ山で、モーセが神から授かった十戎にしても、ゴルゴダの丘で、人々がイエスから授かった山上の垂訓にしても、あくまで、その時代その場所のユダヤ的生活形式を、前提にした物言いに過ぎません。僕たちとはもう、生活形式が全然違います。その意味で、字義通りに受け取っちゃいけません。字義通りに受け取れば、それじゃ生活できませんとなって、終了しちゃう。むろん、それでも字義通り生活しようというのが、ユダヤ教の一派だったりもするんですけれど。いずれにせよ、倫理のコアが大切で、「感染の源泉」に実存的にシンクロするのが大切なんです
■すると、田川建三の発想って、立憲意思についてのレッシグの発想と、パラレルなことが分かります。「ファウンディング・ファーザーズが今生きていたら、憲法をどう書くかを想像せよ。それが立憲意思である」ってレッシグは言う。同じように「イエスという男が今生きていたら、何を言うかを想像せよ。それがイエスの意思である」って田川建三は言う。そういうふうに抽象化して考えることだけが、倫理のコアを掴むための道だということだね。ダースさんや僕が倫理的だとすると、百年後の子々孫々が「ダースさんや宮台が今生きていたら、何を言うか」を想像して、倫理のコアを受け取るわけです。

ダース: いまの話のちょっと伏線っていうか、題材になるかもしれないのが、Netflixで最近追加された『メシア』っていうドラマがあって、これはまさに、いまの社会にイエスがいたらどう振る舞うかってことを作ったドラマで。よく分かんないんだけど、あのドラマもモヤモヤを残したまま終わって「結局こいつなんなんだ」って終わり方を敢えてしているんだけれども、それこそ前段部で宮台さんが話していた、そういったハードルを乗り越えることこそが、理解に近づくっていう構造をちゃんと製作者が分かっていて作っているっていう意味も含めて、すごくよくできた作品だと思うんですけれど。
 あともう1つが、使徒が語っていることが、「ヨハネがこう言いました」「パウロがこう言いました」っていう、使徒がいろんなことを言っているっていう断片で、それぞれはイエスより小さいに決まっているわけで、これが宮台さんがよく言っているベンヤミンの、バラバラに砕け散った世界全体ってことを分かることはできないけれど、砕け散った断片から、一瞬こういうものなんじゃないかって想像はできる。という意味では、いま残っている聖書だったり、「師はこう言った」とかそういうものを含めた全部の断片から立ち上がるなにかの全部っていうものを想像するっていうことが、宗教的な構えであるっていうのがつながるのかなと思ったんですけれど。

宮台:■そこは本当につながります。「砕け散った瓦礫の中に一瞬の星座を見る」というのが、ベンヤミンのアレゴリー(寓意)論です。アレゴリーとは「世界は確かにそうなっている」と感じた一瞬に浮かび上がっているものです。ここで世界とは、あらゆる全体です。何かが分かるとは、何かとその外側の間に線が引けること。でも、世界はあらゆる全体だから、世界とその外側の間に線は引けない。だから、世界はシンボル(指示対象を持つ記号)のようには分かりません。一瞬、世界が訪れたと感じるだけです。だから、言葉で指せない。全体である世界が、オーラとして、部分である事物の集合に一瞬まとわりつくだけ。
■だから、アレゴリー論は、アウラ(オーラ)論と一体です。アウラは、神性降臨において生じる体験です。イエスという人を通して神が現れたときに人々に生じている体験です。そして、アートとはアウラの体験だと言います。目の前にあるのは「〇〇を象った彫刻」という規定された事物つまり部分品ですが、それを通して名状しがたい何かが……「世界は確かにそうなっている」という一瞬の感覚が……生じた時、そこに芸術作品があることになります。ギリシャの発想では、我々は社会という規定されたものに閉じ込められていているので、世界という規定不能なものが現れた瞬間、大きく傷つけられます。だから、アートは人を傷つけることで解放するものです。
■そこで先ほどの話。ネット環境が当たり前になって、仮想現実・拡張現実を含めて、リアル空間よりもサイバー空間に滞在する時間のほうが長くなった時、いまダースさんと僕がここで話し合ったような、宗教や掟を含めた倫理のコアに当たる部分がどうなるか。倫理は、具体的な行為の外形じゃなく、もっと抽象度が高い何かです。イエスが言うように、律法を守って倫理を穢す、あるいは、律法を破って倫理を貫徹することがあり得る。
■その抽象度の高い何かが「イエスが今生きていたら何をするか」に関係します。パラメータが変化しているから、以前やっていたのと同じことはしないでしょうし、以前言っていたのと同じことは言わないでしょう。にもかかわらず一貫している何かがあって、そこに人々が感染するんです。そういう感染を、子々孫々のサイバー世代に受け渡せるかどうかだけが、問題になります。
■テックの発達でサイバー化が進むほど、世界はますます「いいとこ取り」ができるようになります。「なぜ私を痛みが襲うのですか」などと宗教にすがって解決しなくても、心身の苦痛から未規定な世界に向き合う苦痛まで含めて、ドラッグとゲーミフィケーションで忘却できるようになる。でも、その場合、全てが、いいとこ取りした断片の集積になるわけです。そこには、断片をトータルに串刺しするような力や、「串刺しにせよ」って促すような力は、働かない。まぁ今までのところは一切働かなかったと言っておきましょう。ほとんどの時間がサイバー空間で消費される社会になった時に、そうした全体性への力が働くようにできるのかが、ポイントかなと思っています。

ダース: 「串刺し」っていう言葉が、いまはエヴァが無料で見れているから分かりやすく言うと、ロンギヌスの槍っていうので刺すみたいなイメージっていうのがあるんですけれども。要は刺して貫いてっていう、実際的な行為っていうのがオンラインでいまできるのかっていう。みんなインターネットって勝手なことができるじゃないですか。世界中で60億の人が勝手なことをやっている状況っていうのを、ガッと、「っていうのはこうだよね!」っていうなにかがインターネット上でできるかどうかっていうのが、このオンライン上における、宗教的なものが生まれるかどうかの肝になるのかなと思うんですけれども。
 同時に、なぜそれが必要かっていうと、いまこれがどれくらいの期間続くか分からないんですけれども。小さい話をすると日本で「緊急事態宣言1ヶ月伸びま~す」みたいなこと言ってるけどそんなレベルの話じゃなくて、何年単位で、「いままでハグしてました」とか「会ったらとりあえずほっぺにキスしてました」とか、そういうことにブレーキがかかっちゃったわけで。1回ここにブレーキかけた後に、気にせず戻るっていうことがあり得るのかっていうとそれもちょっと想像し難くて。だから集まれない、人と会えないってことが基本となったときに……僕はイメージがあって。手塚治虫が描いてたんですけど、「火の鳥」の未来編で、地上が全部、核戦争なんかでぶっ壊れちゃってみんな地下に住んでいて、それぞれの都市に住んでいるけど、お互いの都市がでっかい中央コンピュータみたいなので交流しているみたいな映像があるんだけど。それこそああいったイメージが立ち上がってくるときに、オンライン上にそういったものを保管するなにかが設計できないと、すごく人間の……いままで宗教だったり、近年でいったらコンテンツ享受に伴うSF研だったりが担っていたものっていうのが、失われてしまい、そして僕らよりも下の、10歳とかいま生まれたばっかりに子供は、そもそもそれを持たないで成長していった結果どうなっていくのか。っていうことの想像が、すごくいま大事なテーマになってくると思うんですけれど。


(以上中編、以下後編)

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-28 - 23:41:52
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|前編

【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|You Tube2020.05.02(土)ライブ配信
  ダースレイダーさん :ミュージシャン
  宮台真司     :社会学者/東京都立大学教授
    (文字起こし :立石絢佳 Twitter:@ayaka_tateeshi)


▶コロナによって宗教はどう変化していくか

ダースレイダー(以下、ダース): はい、みなさまお待たせしました。本日5月2日(土)の15時から「100分de宮台」の第3回。ゲストに宮台真司さんをお迎えしてお送りしたいと思います。「片目のダースの叔父貴」ことダースベイダーです、よろしくお願いします。

宮台真司(以下、宮台):■宮台です。よろしくお願いします。

ダース: なんか宮台さん、先程まで取材を受けていたということで。家籠もり中も忙しい感じですか?


宮台:■うん、雑誌がお店で売れなくなってしまったので、Web展開を含めて生き残りをかけているんですね。取材謝礼も、ずいぶん相場が下がりましたね。どこもかしこも経済が回ってないので、広告が取れなくなっちゃってるそうなんですね。なので、実売の部数×価格から全てを賄わなければいけないということで、謝礼額もかなり下がっていますね。

ダース: 広告の種類だったり、どういったものが機能するのかっていうのも変わってきていると思うので、なかなか難しい。なにを載せるのか、誰に対して広告を打つのか、そういったことが難しくなっているとは思うんですけれども。
 で、このシリーズ3回目で、2回目もいまのところアーカイブで残していて、結構な数の人が見てくれていて、ありがたいんですけれども。今回も生配信をしていて、ライブ配信の制作費、この配信を製作するにあたっての制作費は、見ている方々のチャットの「投げ銭」で賄うことにしているので、ぜひ、「面白かった!」と思う人は「投げ銭」をしてくれると、広告主とかを媒介した経済の回り方とはまた違う……まあこれもGoogleとかに一定は持っていかれるんですけれども(笑)、プラットフォーム代としてそれは発生するものだとして……。割と直接「この人たち面白かった!」ということにお金が払えるというのは、これはYou Tubeに限らず、いろんなところで実装されていくと思うんですよね。


宮台:■ただし、Googleにずいぶん持っていかれますよね(笑)。

ダース: そうですね(笑)。ただ、それでも利率はユーチューバーはいいほうで。

宮台:■あ、そうなんだ。

ダース: それは、マネタイズするのにハードルがいくつか用意されていて、チャンネル登録者が1000人以上いて、400時間再生とかっていう条件をクリアしていないと、そもそもYou Tubeを使ったマネタイズができないっていう設計にはなっているんですけど。


宮台:■なるほどね。

ダース: 昨日くらいに、ストリーミングのプラットフォームをFacebookで用意するっていうことをザッカーバーグ[Facebookの創業者]が発表していて、Facebookがそう動くってことは、基本的には世の中がそこに投資するっていう方向に入っていると思うので、とくにいま音楽系の配信が……ZOOMをトークでは扱っているんですけども、音楽だとどうしても音質の劣化とかがあって、しかもタイムラグとかが発生するため、セッションをネット上でやるっていうのは、まだまだ難しいところがあるのをどう解消していくかってことに、かなりあちこちが頭を使っているっぽいですね。日本だとe+[イープラス]っていうチケットを売っているところが、ハイレゾの、すごく音質のいい配信をできるようにして、それで少しお金を回して、前売りチケットを売ってURLを発行してって形で、演者だったりにお金を循環する方法っていうのを構築しているみたいなんですけれども。
 宮台さんが前回言っていたテクノロジーが10年早回しで進化していくっていう中で、目に見えてわかりやすく伸びていっているのは、インターネットを使った配信サービス。単純な、FaceTimeの電話とかもそうだと思うし、いろんなところが一気に進むと思うんですけれども、それが一気に進んだときに、これはなにが起こっているのかっていう分析っていうのを、定点観測しながらやっていく必要はあると思っているんですけれども。
 少なくとも、このZOOMとかを使ったトークっていうのは、ほぼ世界中で当たり前になってきている。この絵面も、世界中でこの絵面が並んでいるっていう。なかなかね、見栄えも慣れちゃうとなんか、最初の頃は面白いなと思って「ゼーレの会議」みたいな雰囲気があったんですけど。


宮台:■うん。今日の話につながるポイントだと思うけれど、テックの10倍速の変化がもたらすこと。いい面を言えば、ゆっくり変わると、「ゆでガエル[の法則]」が適用されちゃう可能性があるけれど、早く変わると、変化の方向についての問題点が発見しやすい。これは以前お話したところだと思うけれど。
■他方で、変化が早いので、このインターネット配信、たとえばZOOMの場合には、一方向でレクチャーを聞くとか、そのアーカイブスをあとで取り出して聞くっていうことじゃなくて、質疑応答もできるし、グループ分けをして班内でのコミュニケーションもできるでしょ。そうしたテックを通した、遠隔をものともしない臨場感と、それゆえに持続する注意力を知ってしまうと、従来の、教室という空間に集う授業形式って、今後どうなっちゃうんだろうって思う。
■同じことで、ZOOMイベントみたいな情報の授受に慣れ親しむと、それまでのテレビやラジオの享受はどうなるんだろう。ZOOMイベントがどんどん増殖して耳学問が可能になる中で、本を売るっていう書店はどうなるんだろう。既にいろんなところにめちゃくちゃ大きな影響を与えていて、急激すぎるので、ゆっかり吟味してみた場合には淘汰されてはいけないと判断されるところも、淘汰されてしまう可能性があります。非常に気をつけなければいけない面だと思います。
■しかし、また良い面を言うと、幼稚園や小学生の時分から、この番組みたいなZOOM配信に馴染んだ人たちが、高校や大学に上がった時に、テレビ見たりラジオ聞いたりするだろうかと考えてみると、はっきり言って絶望的だと思うんですね(笑)。

ダース: そうですね~。

宮台:■インターネットだと、自分にふさわしいコンテンツ、あるいは、自分にとって救いになるコンテンツを、探すことが、すごく容易になりますよね。すると、これは本日の主題に関係すると思うけれど、現実に絶望して宗教に救いを求めるしかなかった人たちが、必ずしも宗教に救いを求めなくてもよくなるかもしれない。また、従来の、カルトを含めた宗教が、成立するための「わざわざ集まる」といった条件が、インターネット化でスキップされるようになった時、宗教はどうなってしまうのかも、考えてみたいですね。

ダース: いま宮台さんが話の筋道を作ってくれたんですけれど、あらためて今日「100分de宮台」で伺いたいテーマっていうのが、「withコロナ・afterコロナにおける宗教の役割や意味」っていうものを考えたほうがいいと僕は思っていて、いまの話のちょっと前に戻ると、なにが残ってなにが失われるのかってことの検証をしてないと、あとになって失くなってしまったらどうにもならないとうことは起こり得ると思うんですけど、そういったことの中に、宗教というもののあり方っていうのがどう関わってくるのかっていうのが、僕はちょっと疑問を感じていて、宮台さんにそれを聞きたかったんですけれども。
 そもそも、このコロナをめぐる社会の一番の変化っていうのは、「人々が集まってはいけない」「ソーシャルディスタンスを保て」っていう中でなにができるかってことを、みんな模索して、それがZOOMだったりって言っていると思うんですけれど。そもそも集まるっていうことをベースにして成り立っていたのが、宗教的なあり方……世界にはいろんな宗教があると思うんですけれど、基本的には集まってなにかをする。で、具体的な例でいうと韓国の大邸[テグ・韓国の都市]の宗教組織で、クラスターが発生してしまったと。エジプトで「ラマダン[断食月]」がはじまって……昼間はみんななにも食べずに、暗くなってからお祭り騒ぎをして、そしてまた朝になるっていう、イスラム教がずっと続けてきたあり方っていうのが、それをやってはいけないっていう強制力がある。実はそれって、宗教的に積み重ねてきた歴史の長さと……コロナって最近はじまったばかりのことじゃないですか。でもそれによって塗り替えられてしまっているっていうことが、宗教にとってどういう意味があるのか。
 すごく小さな例でいうと、日本のどこの神社か忘れてしまったんですけれど「触るとご利益がありますよ」という石が置いてあると。ところがいま「触ると感染リスクが高いから、触らないようにしてください」ってなると、いままで「この石に触るとご利益がある」というみんなが信じて、そしてみんなが信じることによってそういう力を持っていた場所っていうのが、動きが封じられてしまったときに「これってどう理解すればいいのか」という人々の気持ちだったり。
 もう1点が、この時期に必ずでてくるなと思っていて、それがどういう形になるのかまだわからないんですけれども、僕の考えでは、コロナによって生まれる新しい宗教。これが、必ずなにかしらの形で出てくる。僕が考えられるパターンとしては、重篤患者になった人が治癒して戻ってきたときに、なにかしらの「啓示を受けた」「こうして私はなにかに出会った」「こういった体験をした」っていう話をもとに……それは実際にその人がコロナを克服したゆえに持つ説得力とともに、いろんな人たちに拡がっていくんじゃないかって、こういうことがあり得るのかっていうところを……まあ、「宗教ってそもそもなあに?」っていうあたりを宮台さんに聞きながら、考えていければなと思います。


▶「オウム真理教」と「オタク」のブームはシンクロしている

宮台:■はい。どこから喋ればいいでしょう。じゃあ手始めに、僕が最初に振った、宗教に対するニーズが増えるのか減るのか、もしかしたら減るかもしれないという問題について、1つだけお話をしますね。
■文脈を省いて言いますが、「オウム真理教」の事件が1990年代半ばに起こります。その頃までは、70年代後半から続く新・新宗教ブームが隆盛でした。従来の宗教は、「貧・病・争」ゆえに、生きることが物理的に苦しい人たちが、どうしょうもなくて宗教にすがるっていう形だった。それが、新・新宗教のブームでは、「オウム真理教」もそうだったけれど、中流階級以上で、学歴もあって、将来的に食うに困らない人たち、あるいは争いを経験していない人たちが、入信するようになったんですね。
■実は、オウムの動きが、オタクのブームとシンクロするんです。オタクは、90年代に入ると、激しい差別やバッシングの対象になります。きっかけは「M君事件=宮崎勤事件=連続少女誘拐殺人事件」です。ネットで検索すればすぐ分かるので、調べてほしいんだけれど、この事件では、テレビの捏造報道で、宮崎勤がオタクだったっていう嘘が流されまくったことで、オタクバッシングが生じるようになったんですね。学校の教室でも、オタクだというだけで、いじめの対象になるということが起こったわけです。
■ちなみに、オタクって何なのか。90年代以前の文脈を知らない人たちは分からないと思うんで、マニアとオタクの違いから説明します。マニアは一般市民です。パラフレーズすると、マニアは一般市民から理解できます。ところが、オタクは一般市民じゃない。パラフレーズすると、オタクは一般市民から理解できない。いわば「エキセントリックな変態」っていう位置づけです。だから宮崎勤がオタクだったってことで、オタク差別が拡がったんです。

ダース: 共通しているのは「エキセントリックな一般市民ではない人」っていうカテゴリで、「じゃあオタクだろ」って結びつけたってことですよね?

宮台:■そういうことです。実は同じことが宗教にもあった。既成宗教とカルト宗教の違い。既成宗教は一般市民が参加するもの。だから、一般市民から動機も教義も理解できる。信じるかどうかは別としてね。でも、カルトは一般市民じゃない。つまり、一般市民からは動機も教義も理解できない。「頭が狂ったヤツが入る」っていうイメージになる。だから、カルトとオタクは、概念的には、機能的に等価なポジションです。まず、そのことをみなさんに踏まえていただいたうえで、次に進みます。
■オタクが、90年代前半にめちゃくちゃバッシングされた。それで、オタクがどんどん生きづらくなった。だから、オタクの間に拡がったのが「ハルマゲドン幻想」なんです。フランス語だと「アルマゲドン」。要は、キリスト教の新約聖書の「ヨハネ黙示録」に出て来る宗教的最終戦争です。それが前提としているのが「アポカリプティック=黙示録的」って呼ばれる世界観。世界が終わる時に、長らく沈黙していた神が現れ、新しい「ERA=世紀」がはじまるっていう。
■これをオウムが取り込んだ。たとえばオウムの食堂に行くと、「ハルマゲ丼」っていうどんぶりがあったりしましたよね。

ダース: 「ハルマゲ丼」ありましたよね(笑)。

宮台:■ふふふ(笑)。そこがオウムのポピュラリティ(人気取り)戦略だったんだけれど、オウムは、自分たちでキャッチーなアニメを作って、「ハルマゲドン幻想」を増殖させるようなことをひたすらやり続けた。

ダース: なんか「ハルマゲドン」っていう名前自体のキャッチーさがあって、結構90年代の中盤くらいからよく見かけたなと思うんですけれど。「ハイスクール奇面組」っていう漫画が昔あったんですけれど、その主人公は僕と同じ名前で「一堂零[イチドウレイ]」(ダースレイダーさんは和田礼)、その隣の家に住んでいたヤツが「春曲鈍[ハルマゲドン]」ってヤツで(笑)。

宮台:■ふふふふふ(笑)。

ダース: そいつがすごくどん臭いヤツなんですけど。そういった意味ではある種、キーワード的に浸透しやすい。「アルマゲドン」って映画も出たり……97年くらいかな、あれは。で、いまの話って、[この配信を]見ている人の年齢層によっても変わると思うんですけれど、90年代の中盤から後半に至っての終末思想的なものは、別に信仰があるとか教養があるに関わらず、なんとなくそうなるんじゃないかなってイメージが、みんなの中に共通してあって。それは、ちょうどいまYou Tubeで無料公開されている『新世紀エヴァンゲリオン』とかそういったものにも具体的なイメージとして描かれるようになっていたり。様々な創作物に、なんとなくこういう終わり方をするっていうイメージが……黙示録とかに書かれているものを映像化したりとか、小説にしたりってことをしているんですけれども。結構色濃く共有されていた時代感っていうのがわかると、いまの話はすごくストンとくると思う。

宮台:■「オウム真理教」と、「終末論的オタク」と、この両方の拡張媒体として機能した学研『ムー』と。これらが三位一体になって、時代の気分を増幅する役割を果たしたんですね。オウムの麻原の「空中浮遊」の写真も、『ムー』に掲載されたことで、たくさんの信者を呼び込んだ、という事実も実際にありました。

ダース: 『ムー』は買ってましたよ、僕も(笑)。

宮台:■僕も買ってた(笑)。小学生時代から「世界の七不思議」系が大好きなのでね。
■ところが、95年にオウムによる「地下鉄サリン事件」が起きて、オウム教団がめちゃめちゃバッシングされた。それだけじゃなく、カルト宗教から既成宗教まで含めて、宗教一般が差別の目で見られるようになる。それで、どの宗教教団も、新規参入者のエンロール(巻き込み)に困るようになった。それが95年半ばからの話です。そこに出てきたのが、95年10月から放映された『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズ。モチーフがその後も継承されて「セカイ系」という系列が生まれました。『エヴァ』の製作はその1年前からだから、95年の、オウム事件と『エヴァ』放映開始は、偶然に起こった一致です。
■偶然の一致と言えば、翌96年がいろんな界隈でエポック(画期)になります。たとえば援助交際のブームが終わった。それまでは、女の子たちのロールモデルになるようなカッコいい子が援交していて、だからこそ拡がったんだけれど、フォロワー層が増えるにつれて、自傷系の子たちが増えて、カッコ悪いイメージになっちゃったのが背景です。それだけじゃなく、援交に限らず、性愛に過剰にコミットするヤツは「イタイ」って話になる。
■ほとんど同じタイミングで、オタク界隈でも同じことが起こった。知識で圧倒する「うんちく競争」に勤しむ過剰さが「イタイ」として避けられるようになったんですね。そのかわりに、“隠れオタク”(外から見分けられないオタク)や“多元オタク”(相手次第で違う引き出しを開けるオタク)に見るように、オタクであることがワイワイガヤガヤ戲れるためのコミュニケーション・ツールになった。
■こうしてオタク界隈が「表層的な戯れ」になる一方で、「表層的な戲れ」だったはずの援助交際が「イタイ系」の自傷ツールになっていった。それで、性愛的・ナンパ的なものが地位を落とし、オタク的なものが地位を上げた。その結果、ナンパ系によるオタクの差別が終わった。僕が89年の『中央公論』論文で予測していた「総オタク化」(これは論文内の用語でもあった)が97年には実現した。こうして、ナンパ系も、あまたあるオタク系トライブの1つになり下がったんですね。

▶オウム事件後に登場した『新世紀エヴァンゲリオン』の役割

宮台:■ここで、「痛み」というキーワードを導入します。僕は70年代後半の学生時代から、田川建三という宗教学者の影響を非常に受けています。彼によると、世界の宗教は、近代においては例外なく、アフリカや中南米や東南アジアも含めて、「痛み」の宗教なんです。それは、みなさんも想像がつくように、「この『痛み』を失くしてください」っていうことでもあるけれど、もっと重要なのが、「なぜこの『痛み』があるのですか?」「なぜこの『痛み』が、他ではなく、この私を/この国を、襲うのですか?」という問いに答えることです。僕は「痛みの意味の理解」と呼んでいます。僕は、田川建三さんの影響を大きく受けているので、宗教を考えるときはいつも「痛み」を起点にして考えます。

ダース: いまの宮台さんの言っている「痛み」っていうのは、メンタルの「痛み」あるいはリアルな外傷・怪我とかも含めた「痛み」、それと社会全体に与えるダメージだったり、格差が生むダメージだったり、ある種、王様であろうがどんなガバナンスであろうが統治機構が生み出す「痛み」だったり、様々な「痛み」っていうのが全て入っている「痛み」っていうことですね?

宮台:■全部入っています。「貧・病・争が、他ではなく私を襲うのは、なぜか?」みたいな物理的な痛みから見ると小さく見えるけれど、「私は何のために生きているのか?」とか「私が生きていることに意味があるのか?」という「規定不能なものについての悩み」の全てが、ここでいう「痛み」です。それをどうにかすることが、宗教の機能です。具体的には、「その未規定性は、この神を信じないことに由来するのだ」という形で、信心を奨励する方向で解決してみせるわけですね。
■このように「痛み」を、他ではなく自分を襲うのはなぜか、という「規定不能性」や「未規定性」の問題として理解すると、重大なことが分かります。新・新宗教以前の入信動機だった「貧・病・争」を、「よい社会」がどんなに解決してくれたにせよ、「なぜ私はここに生きているのか?」という問題は、「貧・病・争」の解決によっては解決できない問題として残るということです。その意味で、「痛みに関わる未規定性」という視座からすると、「宗教の機能」が永久に要求されることが分かるんですね。
■それを踏まえて、次に進みます。90年代半ばから宗教がバッシングされたことで、人々は宗教に帰依する代わりに、実はオタク・コンテンツの中に「痛みに関わる未規定性」についての回答を求めるようになるってことが起こりました。それを象徴したのが、『新世紀エヴァンゲリオン』のブームだと思います。その証拠に、エヴァンゲリオンの主人公「碇シンジ」は、リストカッターみたいな「自傷系」の一種として設定されていました。つまり、95年のオウム事件の、翌年の96年から「自傷系の時代」が始まったんですね。
■援助交際する女子高生も、自傷系だらけになりました。リストカッターもました。インプランティング・マニアもいました。タトゥーイング・マニアもいました。この人たちは総じて、自分を傷つけて、フィジカル(物理的・身体的)な「痛み」を感じることで、「自分はここに生きているんだな」と感じる。そうした「自傷系」が、大挙して『新世紀エヴァンゲリオン』になだれ込み、それと完全にシンクロしながら「私はAC(アダルトチャイルド/アダルトチルドレン)です」ってカミングアウトする人たちが出てきた。
■「私は『碇シンジ』です」っていう人がたくさん出て来たけど、同じです。ACとは何かというと、「自分は、両親や先生に気に入られる『いい子』になろうとして生きてきた結果、いつの間にか『自分が誰なのか』が分からなくなりました」っていうタイプの人たちです。こういう人たちが、「自分はACです」ってカミングアウトすることで、コミュニケーションの回路を切り開くっていう営みが、96年から大爆発したんですね。それが『エヴァンゲリオン』ブームの、意味なんです。

ダース: いまの話ですごくわかりやすいのは、「痛み」に対する回答を宗教に求めていて、それを求める対象っていうのをみんな必要としていたけれど、表面上宗教というものにすがれなくなった、バッシング受けるから。それで全く同じ機能を持つものを探した結果、そこにちょうどタイミングよくスポンとハマったのがエヴァだったり、ACとして自分に名前をつける、ある種ラベリングして、こういうことで自分の「痛み」とか「なんで痛いのか?」ってことが、このラベリングを貼ることで、もしかしたらわかるかもしれない。エヴァを見ることでわかるかもしれないっていうふうに、そのままただスライドしたっていう。

宮台:■その通りですね。僕は95年から連載した朝日新聞の「論壇時評」で初めて「セカイ系」の内容を説明しています。「『エヴァンゲリオン』の特徴は『世界の謎』の解決と『自分の謎』の解決とは等価であると主張したところだ」とね。当時はまだ「セカイ系」という言葉こそなかったけれど、「『自分の謎』を解決したら『世界の謎』も全て解決するという特殊な設定」と僕が言ったことが、4年すると「セカイ系」と呼ばれるようになります。2000年に始まった高橋しんの連載漫画『最終兵器彼女』から出て来た言葉です。
■これなんかが象徴的だけれど、等身大の「憧れの彼女」と自分がどう関わるかが「世界の救済」に直接結びつくという表現です。この「セカイ系」的な表現の元祖が、『エヴァンゲリオン』の最終2話です。「セカイ系」は明らかに「自傷系」の世界観です。「自分はなんでここにいるんだろう?」「なんで生きている感覚がないんだろう?」という問いが、「自分についての問い」であると同時に、「そういう自分がいるという世界についての問い」でもあることに注目してください。この種の「自傷系」を取り込むことで、オタク・コンテンツ界隈の内容の豊かさや深さが、ものすごく増したんですね。

ダース: それまで宗教組織が担っていたことを、ある種そういった創作作品がそのまま機能として担うことになっていくことによって、宗教的な深みというものが与えられていくということですよね。どんどん考えていくわけだから。

宮台:■そうです。僕こないだ、下北沢のイベントスペースDARWIN ROOMで「宮台真司・第5回・映画批評ラボ」を開催して、そこで「世界はなぜ世界なのか」「世界が世界であるとはどういうことか」というテーマを設定しました。実はそれも、90年代後半以降の、アニメを中心とする日本のコンテンツ界隈がもたらしたものなんですよ。最初は95年の『エヴァンゲリオン』だったけど、10年後には『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)、その5年後には『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)に継承されたでしょう。
■このモチーフが、いまや完全にユニバーサルに引き継がれていて、アニメだけじゃなくて、ハリウッド映画を含めた全てのコンテンツに拡がっています。いま流れているNetflixオリジナル・アニメでいえば、日本人スタッフが作った3Dアニメーション版『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX2045』がそうだし、アメリカ人スタッフが作った『ミッドナイト・ゴスペル』がそうです。
■「世界が世界であるとはどういうことか」という問いのモチーフ。これは、日本のアニメが90年代半ばから急速に深めていったモチーフが、海外の人たちに継承されて展開しています。そして、その出発点を遡ると、「オウム事件」による「宗教からコンテンツへの大量移民」なんですね。歴史というものは、とても不思議です。

ダース: それを、ちょっとすごく危険な言い方をしますと、「オウム起源」とも言える90年中盤に日本で起こったカルチャーのスライドみたいなものが、ある種の世界宗教として、宗教の代替物として発展していったものが世界に拡がっているという意味では、世界の宗教的な役割を、アニメからスタートしたものが担っているという現状が実際にあるということですよね。

宮台:■そうですね。

ダース: 終末思想のときにちょっと話した、要は別にみんなそういった教養がなかったり聖書とかを読んでなかったりしても、なんとなく終末イメージっていうものを共有していたっていう感覚が90年代末くらいまであったと思うんですけれど、いまの世界中の、そういったコンテンツを消費している人の共有しているベースが、実はエヴァからスタートしていった「世界とはなんなのか」とか「セカイ系」的な考え方っていうのが、別に教養として意識していなくてもなんとなく実装されちゃっているっていうのが、いまの世界。

▶モヤモヤを共有する集まりこそが宗教的な共同性を生み出す


宮台:■そうなんです。ただね、そこから「集まり」っていう問題に移動することができるんですね。たとえば、いわゆる「セカイ系」のコンテンツの末裔たちというか、最近の「世界が世界であるとはどういうことなのか」というモチーフの映画は、おしなべて、やはり難解なんですね。これは当たり前です。この問いは、難解でなければ意味を持たないし、御利益もないんですよ(笑)。

ダース: 要は、わかんないから、それがわかった気になるっていうハードルがちゃんと設定されていて、「これがわかったということは!」という錯覚も含めた感覚を起こさせるという機能があるんですよね。

宮台:■そこです。それがすごく大事なポイントです。そうしたモチーフのコンテンツがすごく分かりやすかったら、「自分はこんなに分かりやすいことに悩むようなポンコツだったのか」っていう話になっちゃうでしょ(笑)。だから、「自分が自分の悩みを悩んでいるのは、当然のことなんだ」って、悩んでいる人に思わせるくらいのハードルの高さがなければダメなんです(笑)。その高いハードルを超えて、「おぼろげながら回答」を与えることが要求されている。しかし、その回答は「おぼろげ」なので映画を見終わったあとに、完全にクリスピーな(輪郭がはっきりした)感じにはならないんですよね。
■さて、そこで僕が振り返って気がつくのは、そういうタイプの表現、「世界はなぜ世界なのか」っていうタイプの表現の、ルーツって、実は1950年代後半以降の英米のSF、とくに「ニューウェーブ」と呼ばれる1960年代のSFなんですね。僕は自分が中高生だった1970年代前半に、そうしたSFに耽溺しています。でも、中高生だったから、SFの本を読んだあとの「モヤモヤ感」といったらたいへんなものだった。だから、学校に行ってSF研の先輩や同級生と話して、「そういうことなのか!」ってやっと思えたんですね。
■今にして思えば早合点だったのかもしれないけれど、それでも別に構わないんです。モヤモヤを抱えたまま長い時間を生きるっていうことをしないで済んだところがポイントです。実は、それが、宗教でいう、キリスト教の「チャーチ」や、そのルーツであるユダヤ教の「シナゴーグ」なんです。SF研みたいに、定期的に行われるギャザリング(集まり)を通じて、モヤモヤをそれなりに腑に落とすこと。あるいは、そういう仕方でモヤモヤを腑に落とすことができるのかって分かること。あるいは、「モヤモヤしていたのは自分だけじゃない、みんなも同じだったんだ」って思えること。それが大事なんですね。

ダース: いまの機能性の話を整理したいと思ったんですけど、教会でいうと、牧師でも神父さんでもいんだけど、なにかを語ってくれる人がいて、みんなモヤモヤを抱えて日曜日に教会に行ったとして、なにか抱えているのを、なんかよくわかんない話をされることによって、なんかわかった気にしてとりあえず1週間送るっていう。すごく機能的に、人間が抱えている悩みだったり、不安っていうものを解消する機能として、設計をずっとされてきたっていうのが教会の役割としてあって。
 で、SF系の話とかも先輩が「それはそういうことなんだよ」って言ってくれることが大事で。そのメンタルに作用する機能っていうのが、実は人間にとって必要なんだよっていうのがいろんな場所で、集まりとして行われていて。
 僕なんかすごくSF研の話でポンとわかったのが、「それで世界はこういうことなんだ」っていう解釈を与えられるっていうものが出てきたのが、藤子・F・不二雄[漫画家]の表現だったり……SF研で集まって話してたことっていうのがそのまま漫画とかにスポンと描かれていくっていうのが60~70年代くらいにあったなあと。


宮台:■藤子不二雄A[漫画家]は別として、藤子・F・不二雄には明らかにSF研の匂いがあります。彼の漫画コンテンツって、読み終わったあとに不可解感でモヤモヤさせるものですよね。「あれ、この話って結局なんなのかな?」っていうふうに(笑)。実際、1960年代当時のSFマガジンによく単発の漫画が載っていましたよね。それを読んだあと、SF研の定例会で、「これ、分からなかったんですけど、先輩、これって何なんですか?」って尋ねたわけですよ。
■そこでのポイントは、「チャーチ」「シナゴーグ」「SF研」もそうだけれど、「モヤモヤしているヤツが集まっている」「モヤモヤしているヤツは自分だけじゃないんだ」っていうコミューナリティ(共同性)です。すごく重要なポイントだったと思うんですね。「モヤモヤしている同士だから話し合えるんだ」ということです。実際、素晴らしい先輩がいて、「それはね……」って答えてくれるから、みんな取り敢えずは納得して家路につくことができた。そこでは、「私は納得した」じゃなくて、他のみんなも納得したと思えるので、「私“も”納得した」という体験が生じます。それこそが、宗教的なコミューナリティ(共同性)のポイントだったと思うんです。

ダース: あの、やっぱり共同性の話になると同じ構造が……。たとえば60年代だったら、学生運動の人たちも同様に、「なんでこの社会ってこんなにわけわかんないことになっている?」と。安保闘争していた人たちも、「なんなのこれは?」っていう人たちが集まって、その度にちょっとエリートだったり教養のある人が難しいことを言うことによって、みんな「そうだー!」っていう構造っていうのは、実は完全に宗教と同じことが、左派でも右派でも学生が集まって行われている場所で、実は同じ機能のことが行われていたんだなって、いまの話聞いていてすごくわかりましたね。

宮台:■ちょうどその裏腹で、宗教とコンテンツ享受の違いは、「いままでのところは」って限定をつけると、コンテンツ享受のほうには充分な共同性がないということです。もちろん年に1回のコミックマーケットはある。でも、あれはお祭りですから、モヤモヤを共有する場所じゃない。たとえ黙示録的・終末論的なコンテンツをどんなに深く享受していたところで、モヤモヤを共有するかつてのSF研に相当する集まりの契機は無いわけですよ。
■別の言い方をすると、「自分はこういうふうに解釈したんだけれど、その解釈でいいのかな?」って、他人に投げる機会が無い。だから、集まりを経て、思い違いがあったなと反省して、更に先に進むっていうことが無い。「ああ、そうか、俺だけじゃないんだ」って、悩みや痛みを共有できているという体験の機会も無い。それが「宗教からオタクコンテンツへの移民」によって解消できない問題だったんだと思います。
■今回のコロナ禍で、こうしたZOOMのセミナーやトークイベントなどを含めて、かつて触れたことの無かった内容に、かつて想像もしなかったやり方で接触できる機会が増えていくでしょう。当然ながら、宗教的なコミュニケーションも、多分ZOOMのような形式になるでしょう。そのときに、いまさっき話してきたようなギャザリング(集まり)の機能を、どれだけオフラインと同等以上に再現できるのかということが、大きなポイントになると思うんですね。

▶オンラインの集まりでは、従来ある「すでにできあがっている」状態が作れない

宮台:■さっきダースさんがおっしゃったことに含まれていたけれど、チャーチやシナゴーグに集まるのは週1回ですよね。場合によっては2回の人もいるけれど。週に1回チャーチやシナゴーグに行く場合の時間感覚が、昔のお祭りと似ています。「シナゴーグやチャーチに行くのを楽しみにしながら、モヤモヤに満ちた日常を生きる」。あるいは「日曜日にモヤモヤを解消できると思えるから、平日を耐えて生きられる」。お祭りもそうですね。
■僕は「御柱祭」が好きで、何度か行ったことがあるけれど……といっても7年に一度だから二度だけれど(笑)。地元の人たちは、お祭りが明けたらすぐに、7年後の祭りに向けて準備を始める。そして、祭りを待望しながら、毎日のつまらなさをやり過ごす。僕の言葉でいえば、仮の姿に「なりすまして」毎日を生きる。これに相当するチャーチやシナゴーグの時間感覚を、ZOOMは実装できるだろうか。ZOOMイベントって、空いた時間にすぐ開けるし、すぐ見られる。しかも移動しなくていい。チャーチのように場所はいらないわけ。

ダース: 教会とかシナゴーグ、僕がロンドンに住んでたときにはユダヤ人地区に住んでいて、その通りの一番はじっこの角にシナゴーグがあって、そこにみんな日曜日の朝行くわけですよ。で、その行く家で準備して、出かける支度をして……みんな丸い帽子を被ったりしてっていう行動から全てはじまっているから、すぐシナゴーグに移動できてはじまるっていうよりは、朝起きて「今日は行きますよ」って家族で集まって準備して行って、お話を聞いてみんなで集まって帰るっていう全体の動作の機能性っていうのがあって。そのシナゴーグって場所があって、そこでありがたいお話を聞けるっていう表面上のそのことだけが大事ではないっていうことはすごく実生活のリズムの中で組み込まれていたと思うから、冒頭で宮台さんが言った、テクノロジーが進化していくときになにが失われるのか。失われたものが、実はそれこそが大事だったんだってことが起こり得るっていうのは、まさにそういったことで、実感としては……あれは、多分、無駄ではないはずだっていうのがあるんですよね。

宮台:■そうですね。実は、コンテンツ享受にとっても、こうした時間感覚は重要な意味を持ちます。松本雄吉さん[演出家]の「維新派」という芝居の集団があって……松本さんは何年か前に亡くなったけれど……維新派の芝居は、瀬戸内海の小島とか、本州の山奥でやるんです。行くの大変なんですね。最寄り駅から歩いて2~3時間のところに場所が設営してある。最初、知らない人は「なんでこんなところでやるんだよ」と思う。でも、実際に行けば分かるんですね。
■長い間歩くうちに、これは散歩と同じだけれど、リズムや体温上昇や疲れで身体性ができあがっていく。維新派の芝居は、それぞれの季節の夕暮れ時に始まる。散歩しているうちに、日没で暗くなってくる。芝居の場所には「飯場=屋台の集合」が設営してあって、歩いていくと遠くに篝火(かがりび)が見えてくる。近づいていくと、「逢魔が時」のダークブルーの空間にわぁ~っとオレンジ色の祭り場が拡がっている。そこで、ちょっとした晩ごはんを食べたり、屋台の杏子アメを楽しんだりしていると、やがて芝居が始まる。すると、芝居が始まる前なのに、既に前座を観てきたかのように「できあがっている」。
■さっきダースさんがおっしゃった問題も、こうした時間性……ただの物理的時間じゃなくて「準備をして、みんな揃ってでかけ、それまでとは異質な空間に入っていく」という助走路を進む営みによって……シナゴーグに入ったときには「できあがっている」んです。「その時空に入ったときには、既にできあがっている」っていう状態を、ZOOMでは絶対作れないわけですよ。それをどうするかってことですね。

ダース: そこなんですよね。これもすごくズレた例えになっちゃうかもしれないんですけども、漫画の話で、「美味しんぼ」って漫画があって、美味しんぼでおもてなしをしなきゃいけなくて、ごちそうを用意してくれってなったときに、すごいお金持ちの爺さんだから、「世界中の有名なシェフの料理なんか食ったことあるし、なんにもそんなの用意されても面白くねえ」とか言う爺さんに、山をひたすら登らせて、延々歩かせて、それでたどり着いた小さな小屋で、水を一杯だすと。ほんで、水を飲んで「はぁ~」って言ったときに、「実はこれでおしまいです」って話をされて、「これで良かったんだ」っていう会話をする回があるんですけど。いまのはまさにそういうことで、ごちそうっていうのは、「走って、用意して、そしてその瞬間に喜ぶ顔を見るために準備することがごちそうなんだ」みたいなことが解説されているんですけれども。
 それが本当に、ZOOMで突然ポンっとやって会いたい人に会えるっていうのでは、その距離……要は待望したりたどり着かないってことを味わうっていうことが先につながるっていう……最初に宗教の役割で言ったとき「痛み」っていうテーマも、「痛み」って「なんでこんなに歩かなきゃいけないの?」とか。「え、めちゃめちゃ遠いじゃん」っていうのも、これは鈍いけど実は「痛み」の一種だと思うし、それが到達したときにできあがるっていうことが、ある種それまでの長い緩やかな「痛み」の回答として与えられるって機能が同時にあると思うので、これはZOOMとかネットでっていうのが、ちょっと難しい気がしますね。


宮台:■そうなんです。これは宗教にとって極めて大事な論点です。オウムの麻原彰晃が、ヘッドギアのような電気刺激と、LSDのような薬、マントラのような声や音の反復を通じて、長年の修行の末にやっと到達できるとされてきたはずの法悦……ニルヴァーナですね……に100倍速で到達できるんだ、というふうに言っていた。この物言いをどう理解するべきか。確かに、快楽状態そのものは、脳内環境の対応物です。だからといって、快楽状態に対応する脳内環境を再現すれば、法悦の再現になるのだろうか。
■もちろん、なりません。それは、ダースさんがおっしゃったのと同じ理由です。難航苦行を乗り越えて、やっとここまで到達した結果得られる法悦だ、という記憶をベースにした時間感覚が、本当の解放を与えてくれる。つまり、さっきの「できあがった状態」というのも、やはり記憶をベースにした時間感覚抜きにはあり得ないということです。そう考えると、脳内環境のコントロールで快感を再現しても、それは法悦とは別物であらざるを得ないだろうと思われる。それは時間感覚=記憶が伴ってないからですね。

ダース: たとえば釈迦牟尼でもイエスでも、歩くじゃないですか。これは当時、物理的にそうせざるを得なかったっていうのは当然あるんですけれども、すごい距離を弟子と歩いたりして、そして街から街へと歩いたりして、そこでなにかしらの話をする。で、話自体は短い話をぽっとするだけで、また次に旅立っていくんですけれども、その工程の長さっていうものの意味がもう実はわかっているというか、これは歩いて、しかもその間は水一杯で砂漠を歩くとか山を超えていくっていう体験をしたあとの言葉こそありがたいっていう感覚が、実はかなり早い段階から実装されているっていうのがわかりますよね、そういう話を聞いていると。

(以上前編、以下中編)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-28 - 08:30:26
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

後半の続き|宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える|2020.05.16ライブ

後半の続き【宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える】
  You Tube|2020.05.16(土)ライブ配信
  福山哲郎さん : 参議院議員/立憲民主党幹事長
  宮台真司   : 社会学者/東京都立大学教授
  (文字起こし : 立石絢佳 Twitter: @ayaka_tateeshi)

   後半がオーバーフローしたので、後半の続きです。大事なテック問題。

▶ポストコロナ社会はどうなるのか

福山: ははは(笑)。先生、今日は長時間お付き合いいただいてありがとうございました。あのー、当初、先生かなりお言葉が、キツい部分もあったので、お聞きいただいた方、そこはあの、先生の趣旨をご理解いただければと思いますが。やはり先生のお話は、いまの日本社会をよく表していただいたというふうに思います。先生あの、結びに短く、「ポストコロナの社会とは」ということで質問がきておりますので、先生なりに語っていただければと思います。

宮台: 基本的なこと。抗体ができるかどうか分からず、抗体が免疫をもたらすかどうかも分かりません。世界中の免疫学者たちは、半年~1年以上もつ抗体はできないだろうと予想しています。しかも、抗体による免疫は弱いものだろうと予想しています。ということは、今後10年あるいはそれ以上の長きにわたって、世界中の都市ごとに、ロックダウンしては再開し、またロックダウンしてはまた再開し、って繰り返しになるでしょう。
 そうなると、感染対策と経済と両立させるために、テクノロジーを用いたハイテックな生体監視が必ず持ち込まれます。繰り返すと、これは必然です。その場合、二つの方向が分かれます。一つは、生体監視を中国のようにバーティカル[垂直]に貫徹する方向。これは統治権力のプライバシー監視に基づく私生活介入との合わせ技です。もう一つはFANGA[日本でいうGAFA]が推進し、ヨーロッパが推奨しているようにホリゾンタル[水平]に展開する方向。データを匿名的に蓄積した上で、交通経路や都市にフラグを立て、あとは市民の賢明な判断に任せるっていう。
 スウェーデン方式は、テックは使わないけれど、政府が、掻き集めた情報を全面的に情報公開した上で、あとは市民の懸命さに期待するっていう、典型的パターンです。死者数は多めですが、日本と違って「政府に対する信頼」も「市民相互の信頼」も、失われていません。
 はい、ここでキーワードがでましたね。バーティカルなテックは「政府に対する信頼」も「市民相互の信頼」も不必要で、汎用性があります。ホリゾンタルなテックは「政府に対する信頼」と「市民相互の信頼」の両方を要求するけれど、どちらかが欠けるだけでバーティルなテックの方が有効になります。今後は2つのテックが競争していくことになります。これが「非民主主義的なレジーム」と「民主主義的なレジーム」との戦いであるのは、明白です。果たして、どちらが勝つでしょうか。
 民主社会に必要なホリゾンタルなテックが生き残るのに必要なことは、まず市民相互の信頼です。自粛警察はその反対物です。もう1つは統治権力への信頼です。安倍政権はその反対物です。論理的に言えば、市民相互が信頼できなければ、市民が多数決で作り出す政権が信頼できるわけない。ウヨ豚が支援し、ウヨ豚を支援する、安倍政権が典型です。まぁ、それ以前に、嘘・隠蔽・改竄の常習犯である安倍政権から出てくる情報や、政権周辺のケツを舐める学者から出てくる情報を、信じられるわけがありません。信じられない情報をベースに、どうやって市民相互が信頼して適正に行動できるわけ?ということで、問題外の外とも言える安倍政権は、ひたすら市民相互の信頼を壊し続けています。
 安倍政権はどのみち終わりますが、「統治権力に対する信頼」と「市民相互の信頼」を維持できるかどうかが、中国のような徹底した垂直的生体監視に陥らないで済むかどうかの、カギになるんですね。今後、テックがどんどん入ってきますけれど、どういう種類のテックが良いのかっていう倫理的な判断を、忘れないでほしいんですね。そこでも、やはり倫理が問題になるんですよ。
 テックといえば、いまZOOMでこうやってミーティングをブロードキャスト(放送)していますが、これが何をもたらすのかってことについても、「言葉の自動機械」にならずに、良い面と悪い面が必ず両方あることを、忘れないようにしてほしいです。そのことに触れる時間はないけれど、もしこのようなオンライン化やリモート化に悪い面があるのだとしても、良い面もある以上、直ちに切り捨てるんじゃなく、悪い面を他の手段でどう補うのかって方向で、たえず考えていただいたいと思います。

福山: 先生が先ほど言われたことは本当に重要で、匿名の個人に紐ついたものを使うんじゃなくて、匿名化して使うことによって、ポストコロナの社会がより有効にいくためには、「ちゃんと匿名でやりますよ」という統治側に信頼がなければ、「これ悪用されるんじゃないか」とか。そうなった瞬間にそのやり方は崩壊して、不安の中で……まぁ中国的って僕が言うとまずいかもしれませんが……。

宮台: ははは(笑)。

福山: 要は、トップに、独裁的なものに対してなびいてしまうような社会に変わっていく可能性が、リスクが高まるということですよね。

宮台: そうです。しかも、中国の習近平のような独裁的指導者に比べて、日本の独裁的指導者モドキの実力は、あらゆる面で圧倒的に劣ります。いずれにせよ、5年10年のスパンでね、それぞれの西側社会がどっち側に向かったのかが見えるようになります。そのとき、日本の国民や政治家の性能が高かったのか低かったのかが明かされるでしょう。結果は、みなさんの頑張り次第です。

福山: 示唆に富んだお話をいただいて、ありがとうございました。先生とお話するといつも、頭が整理できますので、本当にありがとうございます。お忙しい中、長時間お付き合いいただいてありがとうございます。

宮台: ありがとうございました。失礼します。

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-23 - 01:59:33
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後半|宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える|2020.05.16ライブ

後半【宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える】
  You Tube|2020.05.16(土)ライブ配信
  福山哲郎さん : 参議院議員/立憲民主党幹事長
  宮台真司   : 社会学者/東京都立大学教授
  (文字起こし : 立石絢佳 Twitter: @ayaka_tateeshi)

   後半(※長いので前半と後半に分けています)

▶検察の暴走を止める必要はあるが「検察庁法改正案」では内閣が暴走する

宮台 ここに付け加えておきたいのは、検察は正義ではなく、しばしば暴走すること。福山さんに近いところでは、政権を執った元民主党の代表になるはずの小沢一郎さんが「国策捜査」で追い落とされるっていうことがありました。田代政弘特捜検事(元)による捏造調書で知られる陸山会事案は冤罪です。他にも、検察は1980~90年代から数々のインチキな「国策捜査」をしてきました。ホリエモン事案といい、やまりん[鈴木宗男]事案といい、佐藤優事案といい、厚生省村木次官事案といい、検察は「国策捜査」で数多くの冤罪を積極的に作り出してきました。先ほどの田代政弘に対する不起訴処分や、森友学園問題で文書捏造を指揮した佐川宣寿財務省理財局長(元)に対する不起訴処分のような、物的証拠もあるのに起訴をしないという「不作為」であれば、枚挙に暇がありません。
 インターネット番組「マル激」でもやったけど、ホリエモンを摘発した特捜も、全くデタラメな「国策捜査」をした。そのホリエモンが、「みんなの気持ちは分かるけど、検察が正義だというのは間違いだ。検察の暴走を止めるに、政治権力が検察をコントロールするのは当たり前だ。だから、検察庁法改正は良いんだ」って言っている。
 でも、気持ちは分かるけど、無知に起因する愚かなロジックです。さっき紹介した緒方事件に見るように、「政権から意を直接伝えられて従うケツ舐め検察幹部ら」の実例があるからです。検察の暴走がいけないように、それ以上に内閣の暴走もいけない。だから、内閣の暴走を止める役割が検察が期待されるのと同じように、検察の暴走を止める役割を何かが果たさないといけない。実はそれが、刑事訴訟法改正問題における可視化だったんですね。警察・検察の全ての……

福山: 取り調べの可視化ですね。

宮台: つまり、全事件・全過程の録音録画です。冤罪のパターンは決まっています。長期間拘置所に留め置いて、裏司法取引をするんです。実質は脅迫。「叩きゃホコリが出るだろ。こんなホコリ、あんなホコリ、もう全部掴んでるぞ。表に出されたくなかったら、我々が言うように言え!」。あるいは「共犯者はもう自白してるぞ。お前だけが自白しないでいると、お前の量刑だけが重くなるんだぞ。それがイヤなら、我々が言うように言え!」。これが検察による冤罪作出の常套手段。今でも使われます。そういう常套手段を使えなくするのが、全事件・全過程の録音録画です。
 ところが、例の黒川弘務が、取り調べ全面可視化を食い止めた。それだけじゃなく、「火事場泥棒」的に検察による冤罪作出をやり易くした。つまり刑事訴訟法改正の功労者なんです。村木さん冤罪事件の後に「検察のあり方検討会議」の事務局責任者として人選に関わったのが大きい。結果的に、取り調べ可視化を裁判員裁判案件に限定する一方、通信傍受の範囲を大幅拡大し、自己負罪型[自白することで刑を軽くする]ではなく訴追協力型[他者をチクることで刑を軽くする]の司法取引を導入する、などをした。検察を監視・制約するための司法制度改革が、冤罪作出を支援する方向に「焼け太り」した。これは黒川弘務の功績です。ちまたでは軽く見られているけど、黒川の出世は検察内部の論功行賞でもあるんです。
 さて、もう一度整理します。①内閣の暴走はまずい。だから、内閣を監視する検察の機能を解除するのはまずい。②だが、検察も暴走する。だから、検察を監視しなければならない。③だからといって、内閣に検察トップの人事を委ねるのはまずい。内閣を監視しなくなるどころか、冤罪作出や不起訴を連発することで内閣の暴走を助けるから。以上。

福山: ホリエモンさんが言われるように、検察は全て正義でやっているとは限らないっていうことですね。

宮台: そうです。とくに「国策捜査」と言われるものは、「それが国体のためになる」という類の、検察の思い込みによる妄想的正義です。鈴木宗男さんと佐藤優さん絡みの冤罪は、自民党の従来的外交が否定されてはならないという妄想的正義。小沢一郎さん絡みの冤罪は、自民党が与党であるべきだとする妄想的正義。ホリエモンの冤罪は、5系列16社によるマスコミ独占体制が維持されるべきだとする妄想的正義。どれも簡単に論破できる、くだらない思い込みです。

福山: 先ほど、先生が言われたのもちょっと早かったので、みなさんアレだと思うんですけれど、ホリエモンさんは逆に言うと、「今回検察の権力を抑えるために検察庁法改正は必要だ」という議論が、非常にYou Tube上では盛り上がっているわけですけれども……。

宮台: いや、盛り上がってないですよ。一部の頭の悪い人が賛同しているだけです。まともな人は、僕の言うように「検察の暴走を止める必要があるが、内閣が検察トップ人事に介入すれば今度は内閣が暴走してしまう」と反応しています。検察の暴走よりも、内閣の暴走のほうがもっと怖いよ。だって、内閣の指令で、検察トップを操って、冤罪を自由自在に作り出せるんですから。それがいいわけないじゃん。

福山: ということですよね。そこの議論は、検察のあり方とか、さっき先生が言われた可視化の問題とかは制度としてちゃんと整えていって、やっぱり検察の信頼性を高めていくのは、どうしてもこれからやらなければいけない課題だと。この話を、今回の検察庁法の改正が良いか悪いかという議論にしていっちゃいけないということですよね。

宮台: そうなんです。黒川弘務は両義的存在なんです。今回の検察OB有志が言うようにね、黒川弘務が検事総長になったら、検察の威信も機能も台無しになることは確かです。実際に、黒川弘務のもみ消しで、売国的な安倍内閣の犯罪が隠蔽されてきた。これだけでも検察にとっては屈辱です。でも、さっき申し上げたように、検察の妄想的正義による暴走を止めるための改革を、骨抜きにして焼け太りさせる役割を果たしてくれたので、今後も「国策捜査」は安泰になった。だからここまで出世できたんで、内閣の力だけじゃありませんよ。

▶全ての人の痛みに寄り添うことができる人間しか政治家になってはいけない

福山: まぁ僕から見ると、逆に黒川さんなんかは、先生がおっしゃる話で言えば、行政官僚としては非常に有能なんですよね。

宮台: 実に有能ですよ。愛嬌もあるし。

福山: はい。別にお人柄が悪いわけでもないし、我々も政権のときに、いまみたいな偉い立場ではなかったですけど、逆に言うと行政官僚の行為として、先ほど先生がずっとおっしゃっておられた、言葉は悪いですけど、ある種の保身的なものとかですね。ある種のポストとかっていうのは、それは行政官僚としては、先生も悪いことではないとおっしゃったけど、当然のことだと僕は思うんですよね。

宮台: さっきお話ししたように、当然ですね。

福山: だからこそ逆に言うと、三権分立も含めて、それぞれが牽制しあわないと、人間っていうのはそもそも愚かな存在だから、そのなかで間違うことで暴走するから、それぞれが牽制しあうという話を、いま検察庁法改正では、まさにそこを崩そうとしているということですよね。

宮台: そうです。さっきの言い方で、いま一度パラフレーズすると、行政官僚は、予算と人事の最適化を求めて動く動物です。でも、そのことで行政官僚の振る舞いが全て予測可能になります。その予測可能性=計算可能性は、政治にとって不可欠なものです。だから、行政官僚の振る舞いは「損得マシーン」のままでいいのです。ただし、人事と予算の最適化のためであれば何でもするので、放っておけば暴走します。だから、操縦桿を付けなければいけない。操縦桿を握る役割をするのが、政治家です。
 さて、どこに向けて操縦桿を操作するか。日本国民の利益に向けてです。ところが、今の、安倍……イヤ安倍さんや、取り巻きどもは、モリカケ、サクラ、クロカワ……どれを見ても日本国民の利益を考えてない。日本人のためを考えていない。自分の利益と保身ばかり考えているクズです。つまり、行政官僚と同じような種類の人間が政治家をやっている。これは、マックス・ウェーバーが最も恐れていた「ダメな国体」で、その「ダメな国体」に日本が成り下がっているということです。そのことを、愛国者であれば誰でも憂えざるを得ません。

福山: 先生が先ほど言われた、保守主義の話もですね、保守主義について日本はずいぶん誤解をされていて、先生と若い頃、よく議論しましたけど。保守主義というのは、先ほど先生が言われたように急な改革を求めるのではなくて、時間とともに少しずつ少しずつ改革をしていくんだと。人間はそもそも完全な存在ではないからこそ、ゆっくりゆっくりやっていくんだというのが保守主義の立場なのが、正直申し上げて、日本の戦後、ずーっと先人が作ってきた、例の集団的自衛権の問題にしても今回の検察庁法の改正にしても、そういったものについて、安倍政権は非常に乱暴なやり方で……数の力で押し切る、数は正義だと言ってしまう。私は数は正義だとは思わないんですけれども。

宮台: 思わないのは当然のことです。「数の力を頼る多数決は民主政とは何の関係もない」というのが、ジャン・ジャック・ルソー[フランスの哲学者]がフランス革命の少し前に言ったことですね。

福山: ですからそこのところで、逆に並行して、官僚組織の劣化も起こってるというのが、いまの先生の御議論ですよね?

宮台: そうです。ルソーの名前を出したので、せっかくだからルソーの話をしましょう。彼はとても面白いことを言います。いわく、民主政は国民の「ピティエ pitié」を不可欠とします。「憐れみ」って訳されているけれど不正確です。正確には2つの要素を含みます。第1に、ある決定がなされたら、他の成員がどんな目にあうかについて各成員が「想像できる」こと。第2に、他の成員がどんな目にあうかについて各成員が「気にかかる」こと。この2つの要素がなければ、多数派工作のためのリソースを持つ「既に勝っている者たち」がずっと「勝ち続ける」トトートロジーになります。実際に日本はそうなっていますよね。

福山: まさにそうなんですよね。

宮台: ウェーバーの名前を出したので、ウェーバーについてもう一つ申し上げましょう。彼のキーワードは「倫理」です。市民倫理は、法を守って生活するべしということだけれど、政治倫理は全く違う。政治家とは、国民のためにイザとなれば法を踏み越える覚悟をし、なおかつ、そのことで血祭りに挙げられることを覚悟するような存在でなければならない。要は「国民のためなら死ねる存在であるべし」ということ。これは倫理的命題です。だからウェーバーは「政治倫理」と言います。
 そういう政治家が行政権力のトップにいるべき理由は、何か。複雑で大規模な国では、国民はさっきの「ルソーの2条件」を大体において満たさないからですね。分かりやすく言えば、自分さえ良ければっていうフリーライダーだらけなんです。短く言えば「損得マシン」だらけ。なぜなら、市場で生きていかなければならないからです。市場は、損得勘定だけを動機づけにするメカニズムだから、そうなるんです。

福山: でも先生それは、人それぞれ生活があるから、決してそれは批判的なものではないですよね? 生活するために当たり前のことですよね?

宮台: そうです。だから、ヘーゲル以来、市場と国家を別の原理だとされてきました。市場は損得勘定の認知が支配する領域で、国家は国民のためという規範[倫理]が支配する領域です。こういうふうに二つに分けて考えるべきなのは、なぜか。社会が大きいからです。小さな社会では、市場のプレイヤーが、アダム・スミスがいう同胞感情に基づく同感能力を持ち得ます。そういう時代であれば、国家は最小限の夜警国家でいい。ちなみに、スミスはルソーの同時代人です。ルソーが政治領域でピティエを持ち出したように、スミスは市場領域で同感能力を持ち出した。同感能力っていうのは、他人の苦しみや悲しみを、自らの苦しみや悲しみとして体験する能力のことです。
 でも、社会が大きくなると、同胞感情や同感能力が全体を覆えなくなります。だから、市場を外から統制する政治と行政が必要になります。むろん、政治と行政は「国民のために」市場を統制しなきゃいけません。さもないと、たとえ市場の負の副作用があっても、政治と行政が存在しないほうがマシという話になりかねない。でも、政治と行政が「国民のために」統制を行なうなんて、あり得るのか。単純な人は、だから民主政が必要なのねって言う。
 でも、民主政がちゃんと回わるには条件が必要なんです。それがルソーのピティエ。とすると、ちょっとおかしくなるなと思いませんか。国民が市場ゆえに損得マシーンだらけになる一方で、それを統制する政治と行政が損得マシーンを越えるなんてあり得るのか。そこにウェーバーが登場して言う。市民どころか行政官僚でさえ損得マシーンで構わない。ただし政治家さえ損得マシーンを越える倫理を持てるならば。彼の発想では、処罰されるのがイヤだから法に従うのは損得勘定です。だから、政治家はイザとなれば国民のために法を踏み越えろというのは、国民のために損得勘定を越えろ=血祭りを覚悟しろという意味です。つまり、大きな社会の要石は、政治倫理を持つ政治家がいるかどうかになる。

福山: そうですね、それはよくわかります。ただそういう方ばかりが政治家に……自分も含めて反省して言えば、そういう人間ばかりが政治に出て、そういう人間をちゃんと選択できるシステムがあるかっていうと、民主主義ってそこまで機能が整っているわけではないですよね?

宮台: そうです。そこをウェーバーが問題にしたんです。普段は損得生活を送りながら、政治家を選ぶ時に、損得を越える政治家を選ぶなんて、あり得るのか。そこで、あり得ないことをあり得るようにするために、ウェーバーは教育による国民化が必要だと考えました。でも、後継者にあたるカール・シュミットは、ウェーバーと全く同じ論理を使いながら、戦間期のドイツ国民の民度の低さに絶望し、民主政を否定して倫理的な独裁者による政治を推奨しました。で、ヒトラーが倫理的な独裁者だと思ったら、とんだ勘違いだった…という顛末です。
 この歴史を踏まえて10年間僕が申し上げていることは、民主政が終わりつつあるってことです。福山さんも近いところまでおっしゃった。「国民の全体のことが分かり、かつ、気にかかって仕方ないような」倫理的で高潔な政治家を、国民が選べないんです。単に、自分が属する集団にとって得だからとか、ウヨ豚のクズが典型的だけれど「韓国人が悪いんだぁ!」「中国人が悪いんだー!」って言ってくれてスッキリさせてくれるから、という浅ましくさもしい理由だけで、政治家に投票する。すると、たとえ制度が民主政でも、「ルソーの条件あらためウェーバーの条件」を満たさないクズだけが政治家になります。今そうじゃないですか。安倍政権が長く続くっていうのはそういうなんですよ。
 だから、僕は安倍政権の誕生を喜んだし、安倍政権ができるだけ長く続けばいいと言ってきました。いずれ、必ずボロを出すどころか、国民に対する犯罪的なことをやるに違いないと確信していたからです。それで、国民が懲りて、自業自得で「悲劇を共有」すれば、少なくとも悲劇を忘れない間は、民主政を延命できるかもしれないからですね。だから、今回のようなことになって、「あぁ僕の予想通りだった、やっぱり安倍を支持していて良かった」と思いました。

福山: 先生の話を聞いていると、逆にいま野党にいる我々の責任も非常に感じるわけですよね。それは安倍政権がやはりこれだけの支持を、そうはいっても受け続けていると。そういう状況を作っている片方には、野党側の政治家の、ある種のだらしなさとか、先生の言われる、ルソーやウェーバーが言っているような状況を我々自身も体現できてないところがあるわけで。我々も正直言って、政治家としては……なんていうのかな……うーん。

宮台: 福山さん。僕は、それは「生き方の問題だ」というふうに言ってきました。新型コロナ問題についてドイツのメルケル首相のスピーチがあれほど感動的なのに、安倍さんのスピーチが1ミリも感動を呼ばないのはなぜか。「お笑いプロンプター問題」でしょうか。プロンプターって本来は資料の数字を間違えないためのものですが、フリガナだけじゃなく「ここで間を置く」とか「水を飲む」とまで書いてあるのを、それらしく振り付けされて必死で読んでいる空っぽさは、世界に知られた事実。僕は彼のスピーチを眺めるたびに爆笑します。
 でも、安倍さんのスピーチのダメさは、プロンプターが理由じゃない。簡単に言うと「国民のためを思っていない」のが佇まいから明らかだからです。メルケル首相やニューヨーク州クオモ知事のスピーチから漂ってくる「国民のためを思っている」「国民のために自分は犠牲になってもいい」というオーラ。安倍さんにはこれが皆無なんです。ただし、ドイツでもアメリカでも感情的劣化は進んでいて、オーラに反応できない人が増えたがゆえに、オーラに満ちたスピーチによって国民がクズとそれ以外に分断される皮肉な事実があります。いずれにせよ、倫理的な政治家に選べないと、国や州は終わるのですね。
 その意味では、野党も倫理的な政治家だらけだとは思えないところに問題があります。立憲民主党だって国民民主党だって労働組合政党。自民党が経済団体を動員し、公明党が宗教団体を動員しているように、組合団体を動員する。だから、経済団体のゴキゲンを損ねちゃいけない、創価学会のゴキゲンを損ねちゃいけない、労働組合のゴキゲンを損ねちゃいけない、と損得勘定が支配する。むろん選挙は勝負事。勝負に勝つには戦略が必要。戦略とは損得計算。だから、ある程度は仕方ない。けれど、戦略は敢えてする役割演技でなければならず、戦略を越えた圧倒的な倫理を持つことを人々に納得させられなければ、野党は沈滞します。野党も与党もどうせ同じなら、権力に慣れた与党に投票するでしょう。

▶安倍晋三は日本人の象徴である

福山: 先生。でも、現実問題としてこの1000万のツイートが起きた。検察庁法については、私がすごいなと思うのは、インターネット上で国会の内閣委員会をですね、何万人の方が見ているんですね、生で。それでそれに対して反応していると。これはたしかに、この10年、我々の責任もあるんですけれど、劣化をしている日本の社会、経済的にも厳しくなっている。少子高齢化が圧倒的に進んで、それに対する道筋も見えなくなっている。そういう状況の中でも、こんだけ国民のみなさんが、いまの内閣委員会・国会に注目をしていただいている。ということは少し次の時代の、光にならないんでしょうか。

宮台: まさに光になるように、この機会を「奇貨」として利用するべきだと思います。おっしゃったように、国会の内閣委員会がこれだけウォッチされているのもね、これも新型コロナ禍のおかげです。リモート勤務や失職で在宅している人が多いから、見ることができるんです。ドイツやフランスなどヨーロッパが年間1500時間労働なのに、日本は残業などを含めると2000時間労働。忙しすぎて社会参加できない。社会参加とは、家族と地域と政治への参加。社会参加できないから、家族も地域も政治も空洞化しているわけ。ワークライフバランスって家族と地域と政治に参加するという意味なのに、趣味の時間が増えるという意味に誤解する頓馬がワンサカいる状態でした。ところがコロナ禍で初めて国会中継を見られて「何なんだ、この惨憺たる有様は!」って急速にバレた。いいチャンスなんです。
 新型コロナは、災厄をもたらしているはけれど、物事には必ず良い面と悪い面があるので、コロナ禍で良いこともいっぱい出てきているんです。簡単に言うと、変わらなかったものが変わらざるを得なくなった。あるいは、10年かかって変わるはずのものが10倍速の1年で変わっていくことがあります。

福山: すごい早いと思いますね、これから。

宮台: 産業構造改革もどんどん進むでしょうね。ただ、そのときにやっぱり物事を細かく見る最低限のオツムが必要です。コロナ禍は経済禍だから、フローだけで生きている人も会社も、どんどん淘汰されてしまいます。逆に、ストックさえあれば淘汰されずに生き残る。だから大企業は淘汰されないし、ストックのあるような中小企業も淘汰されないわけです。
 これはマズイ展開です。ストックかフローかという問題と、イノベイティブで生産性が高いかどうかという問題は、別物です。頭の悪い自民党議員が、「これで潰れるところは潰れてくれたほうがいいんだ」とかホザくけれど、フロー・ストック問題と、生産性問題は違う、という小学生でさえ分かることが、分かっていないという惨状です(笑)。

福山: 本当に先生がおっしゃるように、難しいんですけど、いろんなところに芽が出てきていて、僕思うんですけど、日本の企業人って忙しすぎるし、本当に普通に働いている人は政治を見るような暇がないんですよね。だからNHKの国会中継なんて視聴率1%しかないし、テレビのコメンテーターで国会の審議見たことない人でコメントしている人って結構いると思うんですよ。こないだもある方が「私こないだはじめて国会審議見たんですけど、びっくりしました」っておっしゃってて。「この人、国会審議見ないでコメントしてたんだ」と思ってびっくりしたんですけれども。やっぱりそういう状況では政治は変わらないんだけど、いますごくチャンスで、政治家もですね、こういう状況だと国会審議でなに言うかって、すごく慎重にならざるを得ないんですよね。加えて、そこの次に参加をしてもらわなければいけないし、経済の状況についてもさっき先生が言われたように、完全に日本っていつの間にか、いわゆるサービス産業の社会に変わっていたんですよね。だからこそ、先生が言われた、フローのところが全部いまやられているわけですよ。

宮台: そうです。高い生産性をあげて、欧米であれば立派に生きていける中小企業であってすら、物価が安すぎてストックをなかなか蓄積できない。それが、産業構造改革をさぼってきたがゆえに、全体の生産性が極めて低くて、物価が上がりようもないという、今の日本です。デフレの最大要因は、1人当たりGDPが欧米の三分の二という生産性の低さにあるんですね。だから、どんなに金融緩和をしたって、デフレが終わるわけがないんです。
 あと福山さんね、大事なことはね、安倍や首相官邸やその周りにいる……。

福山: 「安倍さん」ですね(笑)。

宮台: 「安倍さん」の(笑)ダメが、日本の至ることにはびこっていることも、もう1回強調しておきたい。たとえばNHK見てください。安倍のケツを糞がついていても舐める、Iっていう女性記者を見てくださいよ。私人だから、名前は挙げないでおくけれど(笑)。

福山: いやまぁ私はなんとも言いようがないすけど(笑)。

宮台: どうせ、この女も「安倍とともに去りぬ」なので、「ざまぁ」という感じですが、一応、国会で予算を決めている「準公共放送」なんですよ。にもかかわらず、政権ベッタリ。NHKのWEBサイトを見ると、いろんな社員たちがいて抵抗しようとしていることがよくわかるけれど、多くの人たちが見るようなテレビニュースでは、政権にとって都合の悪いことは一切報じないっていう、昔の「大本営発表」なんです。こんなインチキ放送に受信料を払う必要はない。
 その意味で言えばね、今後、安倍政権ではなくなったとき、自民党政権であろうが野党政権であろうが、NHKの放送の公共性を保たなければいけません。しかし、それはともかく、予算権を握られているだけで、ここまで政権のケツを舐めるNHKの経営幹部のあり方って、みなさん、情けなくありませんか? なんで内部告発するヤツがでてこないの?「私は違う」っていう人間がでてこないの? 実際は、他の企業もNHKと同じなんですよ、基本的にはね。
 ということで、日本はどこをとっても金太郎飴的に同じです。だから安倍さんは日本人の象徴です。そういう意味で、「安倍さんさえ変えれば日本は良くなる」はありません。安倍さんを変えても、また同じような人が出てきます。特にに検察庁法さえ変えてしまえば、何によってもチェックされずに、頭が悪くて倫理の全くないような政治家が行政権力中枢に居座り続けることになります。
 しかも国民の多くがそれをチェックする倫理観を持ち合わせない。嘘・隠蔽・改竄が常習の犯罪者が政治家なのに、「他よりマシ」というのは損得勘定です。むろん損得も大事です。人間は生活するからね。でも、損得だけで生きるのは人としては貧しいし、ルソーも言うようにそういう人が大半だと国が滅ぶし、ウェーバーが言うようにそういう輩が政治家だと国体がめちゃめちゃになっちゃう。そういうことをみなさん考えてほしいなと思いますね。

▶マスメディアが報じる「感染者数」は全く無意味

福山: まあでも今回は、非常にコロナで本当にいま大変な思いをしている方がたくさんいらっしゃるし、患者の感染者の方もいらっしゃるんですけど、やっぱりそれぞれが考えるきっかけの1つになったというふうに思いますし……。

宮台: そうです。たとえば、報道の頓馬ぶりが明らかになりました。「感染者数」って報じ方やめてくださいよ。ただの「感染判明者数」じゃないですか。

福山: まあそうですね。

宮台: 「何を分母にしてこれだけの感染者数が出た」ってことを言わなければ、全く意味がない。分母に当たるのは「どんな検査で、どれだけの検査数をこなしたか」です。それが分からない在外の日本人学者の中には、ただの「感染判明者数」に過ぎないものを「感染者数」だとみなした上で、「それが感染者数である限りにおいて優れたモデル」を作った人もいる。その意味では頭がいい人もいるなって思ったけれど、残念ながら、出発点において、あれは「感染者数」じゃなく、ただの「感染判明者数」なんでね。

福山: 検査をした人ですからね。

宮台: そう。尾身さんにしろ、あるいは西浦さんにしろ、たぶん意図的だろうけれど、「感染判明者数」を「感染者数」って呼んでいたでしょ? 尾身さんなんか、福山さんの質問で答えちゃったじゃないですか。「20倍はいる」って(笑)。

福山: 「10倍か12倍か20倍かいるか、わからない」とおっしゃったんですけれどね。[正確には「10倍か15倍か20倍」]

宮台: ありがとうございます。だったら、それをクラスター対策班あるいは専門家会議で言えばいいじゃないですか。何をいまごろ言ってんの? そこに「倫理の欠如」「倫理よりもポジション」「倫理よりもケツ舐め」っていうあり方を……。

福山: せ、先生ッ、「ケツ舐め」はまずいと思いますね(笑)。

宮台: はい(笑)。なので、みなさん。まるで天気予報みたいに、マスコミが「今日の感染者数はナントカです」って言っていますが、意味ありません。面白いでしょ? 検査数の多い日は感染者が多いんですよ。だから「週末がになるといつもナンタラカンタラ」ってなっちゃう。分かりやすいですよね。「感染者数」の大本営発表とは違って、感染死者数には「少し」意味があります。でも、肺炎死者や脳梗塞死者に対する事後検査をしていないから「完全には」信用できない。超過病死者数、つまり「毎月なら毎月の病死者数の過去平均から、インフルエンザ死者数を割り引いたものが、どれだけ超過しているか」ならば、「かなり」目安になります。実は、僕はこれを参照しています。
 でも、なぜか日本ではPCR検査数が先進各国の十分の一以下のオーダー。安倍政権に統治能力か存在しない証拠です。ただ、6月からは抗体検査が解禁されるから、抗体検査が十倍のオーダーで拡がると思う。ただ、アメリカや多くの国では、抗体検査キットを薬局で買えます。でも、日本では医師会権益もあって、医者を通じてだけ調べられようにするでしょうね。とにかく、抗原であれ抗体であれ検査数を増やさなければ実態はつかめません。実態がつかめない以上、「感染者数」という名の「感染判明者数」には意味がない。まぁ、専門家でもないクセにってほざくウヨ豚は、これからも「感染者数」を信仰してください(笑)。

福山: 全員のPCR検査は無理でも、圧倒的に無症状者や軽症者も含めた全体像で、各国は感染者数を出しているという事実はありますよね。

宮台: 各国はそうです。それを「疫学リサーチ」と言います。ベストな方法は、ある程度大規模な無作為抽出ですが、それだけの検査インフラさえないなら、「東京都市部・近郊/大阪都市部・近郊/地方都市部・近郊……」とゾーニングして、「割り当てた上での無作為抽出」をすれば、最小限の検査数で、感染実態や感染履歴実態が推定できます。いずれにしろ「今日の東京の感染者数は何人です」っていうのは意味がないので、テレビが「今日の感染者数は……」って言うたびに、「あー、このテレビ局もバカだな」と爆笑して下さい。

▶本当の保守主義は「社会保守」だけ

福山: まああのー、コロナの問題も先は長いと思いますし、経済的に言うとまだ厳しい状況が続いて、世界的にも経済が落ちていくと。それから、たとえば外に出た工場とか生産拠点が国内回帰するとか、これだけグローバリゼーションの中で、ものがぐるぐる回るはずだったのに、いきなりアメリカが「医療機器については出さない」と言い出したりですね。やっぱりこの25年くらいのグローバリゼーションの流れが、若干ここでこう、少し状況が変わると思うんですけれど、そこは先生、どう思われますか。

宮台: まず古典的な経済学理論を押さえましょう。リカード[イギリスの経済学者]の「比較優位説」です。グローバル化の基本理論ですね。それぞれの国は得意なものを作り、あとは国際貿易でなんとかやればいいっていう。この考え方だと、農業自給率はゼロでもいい。ただし、グローバル化は国際貿易以上のもので、資本移動つまり「ヒト・モノ・カネの事由な移動」を伴うから、本社や工場をどんどん海外の固定費(地代と労賃)が安いところに移動していく流れを含みます。でも、リカード説に依存しているのは全く同じことです。
 さて、リカード説の欠点は、安全保障を考えていないこと。たとえば、特定品目の輸出入禁止措置や、経済封鎖がなされれば、直ちに成り立たなくなります。今回のコロナ禍のようなパンデミックがあれば、軍事的理由じゃなくても経済封鎖がなされがちです。

福山: なされましたね。なされようとしましたね。

宮台: だったら「農業自給率ゼロでも、国際貿易があるから大丈夫」はあり得ない。当たり前だけれど、「自由な国際貿易を前提としたグローバル化が今後も続くだろう」という呑気な想定で振る舞う国は、どんどんダメになります。さて日本はどうでしょう。水道法とか、種子法とか、種苗法とか、枚挙にいとまがないけれど、「経済財政諮問会議」的なネオリベ勢力によってどんどん無防備にグローバル化に棹さす方向にガイドされてきています。
 実は、ひたすらそっち方向にスロットルを全回したのが、安倍政権なんです。「安倍政権こそが、日本の国家安全保障に最大限に反する振る舞いをしてきた」っていう決定的事実があるわけです。コロナ禍によって「パンデミック経済封鎖」が起こったことで、やっと多くの日本人が問題を認識できました。これも革命的なことですよ。僕に限っても二十年間同じことを言ってるんだからね。
 水道法・種子法・種苗法の改悪[種子法は廃止]を進めてきたクズたちは、日本国民がそれによってどれほどの安全保障上の欠陥を抱えようが、関心がないんですね。同じ意味で、安倍政権にも関心がないんですよ。だから、ひたすら「安全保障を考えない場合にだけ妥当であるような学説」に乗っかって、政策を推進をしてきた事実を忘れてはいけないんです。

福山: 種子法も水道法も、我々は徹底的に反対したわけですね。私は本会議場でヤジった経験がって、「どっちが保守なんだ!」って言ったんですけれども。「こんな法律を通して、この国をどうするつもりだ」って本当に思いがあって、でもこのコロナの状況で、確実に国内回帰とか、国内の中のあらゆる食料安全保障やエネルギー安全保障、そういった安全保障も含めてどういうふうに……まあ、国際社会と付き合わない、鎖国をしろなんてバカなこと言うつもりはないですけれど、どういうふうに最低限、この国を守るための構えを作るかって議論を、具体的にはじめなければいけないですよね。

宮台: そうですね。だからそ、安全保障という言葉で軍事だけのことしか考えない安倍さんみたいな頭の悪い政治家は、日本を滅ぼしてしまいます。しかも、種子法や水道法の改悪は、基本的にアメリカの要求に呼応しています。その意味で安倍さんは「売国政治家」です。今回のパンデミックがあって初めて、安倍さんが本当に安全保障を考えていたかどうかが、分かったでしょ? 先進国でCDC[アメリカの感染症専門の政府機関]がないのは日本くらいです。
 ここで、政治学に詳しくない方々に、概念的なヒントをあげましょう。先ほど申し上げたように、人間にはもともと、すごく複雑な社会を理解できるだけのオツムはない、誰にもね。だから「思い込みで社会を変えると、とんでもないことが起こるよ」って言ったのが、エドマンド・バーク。それが保守主義の真髄です。こういう立場を僕は「社会保守」と呼びます。
 それに対して、「経済的に自由でありさえすればいいんだ。政治はそれに介入するな!」っていう、昨今で言えばネオリベ的な立場を僕は「経済保守」って呼びます。実は、社会保守の後に出てきたのが経済保守で、歴史的には19世紀末からのものです。20世紀になって戦間期にソビエト連邦共和国ができて、第2次大戦後に東西冷戦になると、「反共こそが保守だ!」っていうイデオロギー保守が出て来ます。僕は「政治保守」って呼びます。

福山: そうですね。日本はずっとそれできましたね、戦後は。

宮台: アメリカ政府の命令でしたからね。ただ、自民党には、ドブ板政治をするそれなりの地域政党でもありました。他の西側では、強者と弱者の対立が「資本家と労働者」っていう都市的対立=階級対立だったけれど、日本の場合、強者と弱者の対立が「都市と農村」っていう対立だったのですね。戦後復興に移民労働力を使った他の西側と違って、日本は農村の過剰労働人口を都市移転して使ったことが、歴史的な背景です。
 そんな歴史に即して、地方から人口を吸い上げるかわりに、お金をつけるってことをやった「再配分政党」が自民党。それがコンクリート一辺倒の公共事業政策の背景です。地方の弱者にとっては、都市部しか考えていない社会党や共産党を頼るのは自殺行為でした。田中角栄にこそ地方再配分の典型的な功績がありました。それは認めなければいけないと思う。  
 さて、それとは別に、1970年代以降のアメリカでは、1960年代の「リベラルな風」への反発として、思考停止の宗教的原理主義者が大量生産されます。僕は「宗教保守」って呼びます。実は社会保守と経済保守と政治保守と宗教保守の間には何の共通性もありません。それを「保守」という言葉で一括してきた人たちは、歴史に対する無知をさらしています。
 で、安倍は……イヤ安倍さんは(笑)どうか。安倍政権は、経済保守と政治保守の相乗りで、社会保守が1人もいない。日本会議的な宗教保守もいるように思うかもしれないけど、所詮は、選挙の時の実務的な動員装置として都合よく利用してきただけで、生粋の宗教保守はいません。いずれにしても、ポイントは、今の自民党には、石破茂さんとその周辺を除けば社会保守はいないと断言できます。

福山: ない。それは違いますね。

宮台: そうです。保守主義の真髄は、歴史的に蓄積された共通感覚(コモンセンス)を大切にすること。だから、保守主義の名に値するのは「社会保守」だけ。ゆえに、安倍自民党は保守政党ではない。証明終わり。このスカスカな連中は所詮「自称保守」でしかない。安倍さんの「私は保守ですから」っていうセリフほど笑えるものはありません。みなさん、「経済保守」や「政治保守」や「宗教保守」に過ぎない、思考停止の「言葉の自動機械」を、ゆめゆめ保守だと勘違いなさらぬように。そうした輩は、むしろ、保守主義の反対物です。

福山: つまりそこがですね、立憲の枝野代表が言われる、「自分は保守だ」と枝野代表が言われて「なんでだ!」って言われるんですけど、実は我々が言っているのは「社会保守」の部分なんですよね。だからそこの整理をちゃんとしないとですね、日本の政治はなかなか説明つかないって、僕はもうずーっと、命題のように15年くらい考えてきたんですけれども。


宮台: だから、福山さんね、日本に限っては、何なに党所属っていうのは、当人の政治的構えには関係なくて、そこにこだわると「言葉の自動機械」になっちゃうわけです。そのことを分かってほしくて、僕は早い時期から、沖縄の、もう亡くなった翁長元知事を、すごい方だと言ってきたし、沖縄知事選にも及ばずながら協力しました。自民党に属していようがなんだろうが、実に立派な社会保守であられたんですね。翁長さんはずっとそういう発想を人々に訴えてこられたから、自民党県連の会長だったけれど、素晴らしい政治家でした。そいう政治家が、今の自民党の中には極く少数ですが、いらっしゃいます。

福山: いらっしゃるでしょうね。

宮台: 当時、僕が沖縄の人たちに繰り返し語ったのは、真の保守とは「社会保守」であり、「社会保守」とは、「経済は社会に貢献する道具」「政治も社会に貢献するための道具」っていう発想を捨てないことだってこと。反対に、安倍自民党は「経済守って、社会守らず」「社会の穴を、経済で埋める」、特に最近では「社会を削って、経済に盛る」だけ。
 同じことを、憲法改正問題でもやりたがる。頓馬な政治的イデオロギーのために社会をズタズタにしようとするわけ。集団的自衛権問題での解釈改憲が典型でしたね。内閣法制局長官を伝統を破って挿げ替えた手法も、憲法解釈も、デタラメだらけ。保守の反対物です。ちなみに、福山さんも御存知のように、僕は過去三十年間一貫して「重武装・対米自立」を主張してきているので、「護憲平和」の「9条信仰者」じゃない。枝野さんも同じですね。
 繰り返すと、人を所属で見てはいけない。それだとカテゴリーに脊髄反射する「言葉の自動機械」です。実際、今回の検察庁法改正について異を唱えた人、出てきましたよね。今現在だと、泉田さんであり、船田さんであり、石破さんです。その意味では「自民党だからダメ」って脊髄反射する「言葉の自動機械」のクズには、ならないでほしいです。

▶安倍晋三は統治可能性が全くないオッサン

福山: あの先生、いっぱいコメントがきているんですけど。「自民党の世襲制議員村の政治は自らの権力の強化、その継続しか目的がない」とかですね……それから、まあ先生がちょっと過激に言われたので、あとで僕も整理しようと思っているんですけれど、安倍さんのことを「犯罪者」というような雰囲気で言って……。


宮台: 僕は犯罪者だと確信しています。

福山: まあそこも含めて、そういう話とか……。そうですね……うーんとそうですねぇ……。

宮台: 犯罪者のくせに、のうのうと法を改正して、自分だけ生き延びようとしている。そのために、たかが行政権トップに過ぎない分際で、立法府を差し置いて、違法な法解釈で黒川弘務の定年延長を図る。私は森羅万象である、ですか、くっくっく。日本人にもこんな卑怯者がいるのかと思いました。子供の道徳教育の格好の教材として、教員のみなさんにご利用いただきたいです。

福山: あと、「安倍さんが保守主義でないのは明らか」というコメント。それはもうその通りですよね。

宮台: でも「経済保守」「政治保守」ではあります。

福山: あと、「延長してください」「もっと喋ってください」というコメントが多数きています。ありがとうございます(笑)。

宮台: あ、よかった(笑)。

福山: あのー、安倍政権ももう、7~8年経ちましてですね、この状況になってきていると。まあ、どれだけ続くかわかりませんし、一方で選挙が来年の10月まで延期ということは、1年ちょっとの間には必ず衆議院選挙があります。ただの権力闘争という意味の、野党だ自民党だということではなく、先生がさっきおっしゃられたような、時代の変わり目とか、劣化している日本の社会、経済もそうですし、それらをどうして立て直していくかということも含めて、この1~2年、結構大切だと思うんですね。その最中に、これだけの政治に対する注視・監視の目が拡がっていると。我々政治家も大事なんですけれども、有権者も先生がさっき言っていただいたように、やっぱりいろいろ考えて、投票行動を起こしていただくと。

宮台: そう。だから、これも福島の原発爆発から十年言ってきているけれど、「右か左かじゃなく、まともかクズか」です。コロナ禍の御蔭で、安倍…イヤ安倍さんを含めたクズどもが、いよいよあぶり出されてきました。ところが、周りを見ると、「右だ左だ」とほざく「言葉の自動機械」のクズが、うようよ湧いています。その意味では、ウヨ豚も糞リベもクズです。まともかどうかというところで政治家を判断していってほしいです。

福山: なるほど、なるほど。最後に、もう時間がそろそろなので……あーでも2つコメントがきてますね。「維新の会がなんとなく支持があがっているのはなぜですか?」というのがきているんですが。

宮台: 「ポピュリズム政党としては」最近うまくやっているからです。別にポピュリズムが悪いっていう意味じゃない。1960年代からアメリカで政治に使われるようになった言葉で、もともとは良い意味でした。たとえば「出口戦略が曖昧じゃないか」と大阪府の吉村知事が出口戦略を示したでしょ? 同じように東京でも出口戦略が示されようとしている。都民ファーストって維新に近い政党だからね。この「出口戦略問題」がポピュリズムの良い点と悪い点を両方示してくれています。
 安倍政治に何が欠けているのかが誰にとっても自明なので、逆にそれがフツーの政治家にとっての大きなヒントとなります。たとえば、吉村知事が出口戦略を数値として明確に示す。それは良いことです。人々の不安に応答しているからです。ただし、感染者数が何日間これ以下だったら……と、安倍政治と変わらず「感染判明者数」を「感染者数」だと勘違いさせている。さっき申し上げたように、疫学調査は地域ごとにローコストで可能なのにね。

福山: それともう1つはやっぱり、東京都知事にしても大阪の知事にしても、現場の自治体の権限行使ができるっていうのが非常にメッセージとしては強いですよね。

宮台: まさに。そこだけが今の希望です。「安倍とともに去りぬ」じゃ都道府県民が困るなぁってことで、各自治体が政府の言うことを差し置いて、自分は首長としてこうやるってことを明言するようになりました。たとえば和歌山県知事なんかは……。

福山: 非常に初動が良かったですよね、和歌山県知事は。

宮台: ね。ところが、他方に、「安倍さんの言うことを信じればいいんだ」みたいな「安心厨」が目立つでしょ? 「安倍さんに楯突くのか! 不安を煽るのか!」っていうクズがうようよ湧いている。「安心厨」は「自粛警察」の原因にもなっているけれど、二つの要因があります。まず、江戸の善政の副作用でオカミ依存的な文化が醸成されたのもあって、政府が言うことを信じれば安心だとい信じる「依存厨」ないし「ヒラメ厨」が湧いています[ヒラメとは上目遣いで伺いを立てる様を差す昭和語]。次に、絶えず周囲に同調しているがゆえに、同調しない人間がいるだけで、自分を否定されたと感じて嫉妬しちゃう「同調厨」ないし「キョロメ厨」がいます。これは不倫炎上の背景でもあります。「ヒラメ厨」と「キョロメ厨」の合体が「安心厨」です。
 「安心厨」って「不安を煽るのかぁ!」ってほざくでしょ? でも、不完全情報下の非常時には安心したら、安全は消えるんです。安心せずに、各人が置かれた状況で、各人なりに事象の重み付けをしながら、数少ないデータから生起確率を主観的に予想して、ベターな安全を選択をするしかない。統計学でいう「ベイズ統計的な決定戦略」です。ところが、安心と安全を取り違える自動機械が湧いているんですね。
 それとは別の話だけれど、日本政府も一部自治体も卑怯なことをやっているでしょ? 自粛を強制はしない。強制的な都市封鎖や、強制的な外出禁止はしないと。

福山: ロックダウンはしないと言っていますね。

宮台: ロックダウンは外出禁止のほうですね。当たり前だけれど、日本はロックダウンを強制する法律がない。でも、それを逆手にとった卑怯な政権運営ができる。強制ロックダウンをすれば、結果について政治が責任を負うしかない。だから、たとえばヨーロッパ各国標準では8割の休業補償や所得補償をします。むろん、国民のためを考える倫理的な政治家が、日本と違ってそれなりにいるというのもあります
 ところが日本では「私たちがやっているのはあくまで自粛要請で、どうするのかはみなさんの自己責任です」って言える。加藤厚労大臣のクズな物言いみたいにね。強制ではなくて自粛だってことが、政治家の責任逃れに使えるわけです。だから、現に休業補償や所得補償をするところは少数でしょ? ヨーロッパでは財政が厳しくてもやるのに、それをしないでいるためには、強制よりも自粛が好都合です。「最終的には自己責任で」って言えるんで。
 僕の推測では、実はそこに、日本人に蔓延する「安心厨」が自粛警察として振る舞うことで、事実上の強制力になるだろう、っていう見込みがあると思う。とすれば、卑怯に卑怯の輪をかけています。さらに、卑怯に輪をかけるのが、政治家にうようよ湧いてきた火事場泥棒です。自粛が不充分なので、政治に強制力を与える憲法改正をして、緊急事態法制を敷こうっていうのが典型です。安倍政権の無能さって、強制力には全く関係ないんですよ。

福山: 全く関係ないですね。

宮台: 安全保障の観点からインフラを整えていなかったこと。「感染者数」ならぬ「感染判明者数」しか分からない状態も、安倍政権だけが変えられない。安倍さんが「一生懸命努力しているんだけど検査数が増えません」って神保哲生さんの質問に答えて言っちゃったじゃないですか。

福山: 言っちゃいました。

宮台: ガバナビリティー[統治能力]が全くないオッサンなんだなってことが、内外に知らしめられた瞬間でした。

▶経済成長率は安倍政権より民主党政権のときのほうがずっと上

福山: コメントの中では、「コロナの前に経済で死にそうです。本当に政治をなんとかしてほしい」という声があります。

宮台: 本当に大事です。失業者数と自殺者数って、少なくとも日本ではものすごく相関しているんですね。だから経済がダウンして、失業者がどんどん増えれば増えるほど、自殺者もそれに比例して増えるというふうに予想されます。コロナで死ぬのも怖いし嫌なことだけれど、経済が落ちて自殺することも、やっぱり怖いし嫌なことでしょ? なので、ここから先は、政治家の方々も、国民のみなさんも、コロナ死者数と、経済死者数≒自殺者数との、両方を合わせた数がどれだけ少なくなるか、っていうバランスで政策を立てる必要があります。

福山: 本当にそうですね。我々は今回、僕なんかは自由主義経済の中で我々はみんなそれぞれ頑張って生きておられる、国民はですね。しかしながら国が、営業の自由を制限してくれ、表現の自由も制限してアーティストには公演も音楽活動もやめてくれと。そしてさらには、移動の自由すら制限をしているわけですから。


宮台: しかも、数値データに基づく科学性もなく(笑)。

福山: そう。だからそれはもう悪いですけど、そこの部分について国が保障するというのは当たり前の話だと僕は思っているわけですよね。

宮台: ヨーロッパでは8割保障です。

福山: そうですよね。つまりその原理原則がない中で、国がどれだけ面倒みてくれるかわからない中で、何ヶ月自粛しなきゃいけないのに、あとは自己責任で借金しろっていうメッセージは、僕は当初あまりにも酷いと思いましたね。

宮台: それだけ酷い政権なんです。

福山: だからやっといまね、良い悪い別にして、野党が強くいろんなことを言ってですよ、保障という言葉は使わないけど、だいぶカバーしてきたんですけど、それでも全然まだ、先生がさっき言われたように、経済による、本当に厳しい状況に陥っている人がたくさんいる声も聞いていますし。そこのところをどうカバーしていくのかが、我々、本当にやらなきゃいけない、野党ですけど。

宮台: ただ確認しておくべきなのは、これもコロナ禍によって10倍速で現実化しただけってこと。日本の経済はコロナ禍の遙か前から徹底的にダメでした。特に安倍政権になってから、日銀とGPIFで盛れる株価データと、非正規雇用で盛れる失業率データ以外は、ズダズタです。第2次安倍政権で正規雇用者が少し増えたけれど、就業率が非正規雇用によって盛られている事実に変わりはない。たとえば、経済成長率は民主党政権のときが安倍政権のときよりもずっと上です[宮台ツイッターまとめhttps://togetter.com/li/1434201]。
 その意味で、「民主党政権という悪夢」って安倍さんが繰り返してきたけれど、まさに「安倍自民党政権という悪夢中の悪夢」を国民が体験した今、その安倍から……イヤ安倍さんから、「民主党政権という悪夢」っていう言葉がまたいつ聞けるか楽しみでしようがありません(笑)。

▶ポストコロナ社会はどうなるのか

[すみません、後編がオーバーフローしました。後編の続編へとつづきます]
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-23 - 01:05:01
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

前半|宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える|2020.05.16ライブ

【宮台真司×福山哲郎|緊急配信 検察庁法改正案を考える】
You Tube|2020.05.16(土)ライブ配信
福山哲郎さん : 参議院議員/立憲民主党幹事長
宮台真司   : 社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし : 立石絢佳 Twitter: @ayaka_tateeshi)

前半(※長いので前半と後半に分けます)


▶黒川弘務が辞めてしまうことで牢屋にぶち込まれるのが怖い安倍晋三

福山哲郎(以下、福山): 立憲民主党の福山哲郎です。日頃からご覧いただいてありがとうございます。
 昨日、検察庁法の改正が衆議院の内閣委員会で強行採決か、という緊迫した中で開会がされました。やっと出てきた森法務大臣の答弁は、やはり任期延長の基準については曖昧な答弁に終始して、全く説明がなされていないという状況でした。
 昨日の審議に関して言えば、委員会は終わって、理事会が休憩をして協議をしている最中に野党側から武田担当大臣の不信任決議案が提出をされまして、内閣委員会は昨日の段階では散会になりました。
 これはですね、大臣の不信任案というのは非常に重たいものですから、これを処理をしないと、他の議案については議論ができないという状況で、この大臣の不信任案を来週に火曜日の本会議に裁決をする、議題にするという状況で国会が動くことになっています。ですから少なくとも来週の火曜日の本会議、武田大臣の不信任案がどちらにいくかわかりませんが、決着がつかない限りは、内閣委員会の裁決については、もしくは審議については行われないという状況になっています。
 しかしながらこの土曜日・日曜日・月曜日とこの3日間、国民のみなさまに声をあげていただいて、なんとしてもこの検察庁法の改正案については「やめろ」「おかしい」「裁決をするな」という声をあげていただければと思いますし、同時に昨日ですが、松尾元検事総長をはじめとした元検察官のみなさんが、抗議の意見書を出されました。私、意見書を読ましていただいたんですけれども、ちょっと正直申し上げて、こういう意見書というのは堅い言葉が多いんですけれど、非常に理に尽くした名文だったと思っておりまして、実は読みながらちょっと、胸が熱くなりました。検察OBのみなさまがここまでの思いを持って意見書を出されたと。これは与党もしっかりと受け止めるべきだというふうに考えております。
 コロナの問題は、こういう内閣委員会の問題があるにも関わらず、昨日の夕方ですけれども、政府・与野党連絡協議会が開かれまして、野党側が変わらずに、家賃の問題、学生支援の問題、与党は「10万円」と言っていますが、これ実は対象がすごく少ないので、「20万円一律」やるようにという話とか。それから地方の交付金の大幅の増額、等々について要望を新たに出しています。
 一方で新しい形としては、いわゆる企業に対する……昨日レナウンの民事再生法の申請というニュースも流れていますが、大企業も含めた企業に対する公的機関の出資等についての対策の要請、それから公共交通機関が極めて経営が厳しくなっておりまして、この問題についての支援要請、それから子ども食堂やあらゆる子ども、それから障害を持った方々、等々に対するNPOをはじめとした公的法人の活動がですね、非常に活動が制約されているのと、資金が非常に厳しい状況になっておりますので、このことについても充分に留意した支援策を講じることも含めて、野党側としては、要望しました。もちろん、雇用調整助成金の上限額の1万5千円は当然のごとく要望に入れました。
 こういった状況の中で、実は家賃の問題についてはいまだに自民党は、1つの店舗だけ、1つの事業法人だけという話になっておりまして、これについても我々としては抗議をしているところでございますので、しっかりと今後の要望を伝えていきたいと考えております。来週また緊迫した週がはじまりますけども、みなさまにもぜひ、声を引き続き上げていただければと思います。
 さて、お待たせいたしました。今日は社会学者で東京都立大学の教授でいらっしゃいます宮台真司先生にお越しをいただいております。宮台先生と私はもう、かなり古いお付き合いで、私はもう宮台先生の大ファンで、ずっとご指導いただいてました。10年ほど前には一緒に、恥ずかしながら共著も出さしていただいて、先生の社会を見る目には、本当に僕は目から鱗が落ちる場面が、一度や二度ではなく、何度もあります。今日は宮台先生にお忙しい中お越しいただいて、いまこの検察庁法について、そしてコロナの対策、そして日本社会をどう先生が見ておられるか等についても、お話を承っていければというふうに思っております。宮台先生、こんばんは。


宮台真司(以下、宮台): はい、こんばんは。

福山: すみませんお忙しいのに急にお願いをして来ていただいて、ありがとうございます。

宮台: とんでもありません、よろしくお願いします。

福山: 先生のご活躍はいつも拝見しておりますので、今日ももう存分に先生の、「宮台節」をお伺いしようと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

宮台: 「宮台節問題」についてちょっと言いますと、去年の3月に終わった「[荒川強啓の]デイキャッチ」ですね。その時代から「安倍」っていうふうに呼び捨てにしています。それは、安倍は犯罪者だと確信しているからですね。なので、本来だったら「安倍」っていうふうに呼び捨てにしますが、福山さんのことを考えて今日は「安倍さん」というふうに呼ぶことにしましょう。

福山: すみません、ありがとうございます、ご配慮いただいて(笑)。

宮台: ネトウヨは、右翼ではない単なる神経症なので、「ウヨ豚」と呼んできていますが、従来通り「ウヨ豚」という言葉を使わせていただきます、よろしくお願いします。

福山: 先生の使用用語ということですよね(笑)。


宮台: そうです!

福山: わかりました(笑)、ありがとうございます。まずは、松尾元検事総長をはじめとする元検察OBら15人が意見書を出したということです。さて、この検察庁法の改正ですが、コロナのこの状況の中で急に降って湧いて、実は去年からこの問題はくすぶっていたわけですけれども、まずは500~1000万といわれる「#検察庁法改正案に講義します」というリツイートの数、大きな反響になっていますが、この現象について宮台先生はどのようにお考えでしょうか。

宮台: ふふふ(笑)。まず前置きとして言うとね、「コロナなのに桜かよ」みたいにウヨ豚や安倍応援団のインチキ知識人が言っていましたよね?

福山: はい、言ってました。

宮台: それを言うなら「コロナなのに検察庁法改正かよ」。本当に酷い話です。しかも、安倍応援団のインチキ知識人たちが、「いやこれは昔から問題になっていた公務員法の定年延長の問題なんだ」って言いくるめようとしているわけです(笑)。でも、公務員の定年延長の問題と、検察庁法の改正とは全く違う。もちろん、バカじゃない限りはわかっているんだけど、残念だけど、バカがウヨウヨいるので、今日は説明させていただきます。
 まず、人々の「怒り」の根源は、「自分だけは牢屋に入りたくない安倍さん」の醜悪さです。自分が違法な振る舞いをしているのを自覚しているから、検察庁長官を必死で変えるたがるわけ。変えないと、自分のお手々が後ろに回って牢屋にぶち込まれる。それが怖いんでね。それだけの理由で、もみ消しの帝王として知られている黒川弘務を検事総長にしたくて、無理筋の定年延長をした。そういう経緯があまりにも詳らかなので(笑)、人々が怒ったわけですね。僕はね、2月の下旬ですけれど、短歌を詠いました(笑)。

 国辱の
 頂(いただき)究めた
 安倍晋三
 黒川やめれば
 すぐ牢屋行き


 分かりやすいでしょ?(笑) それで、いろんな人が本歌取りのような形でこれに続けてたくさんの歌を詠っていただきました。ツイッターのまとめで、みなさん見ていただけます。[https://togetter.com/li/1474966]
 さて、500万という数に至った段階で、この膨大な数について、計算社会科学を研究してらっしゃる、tori氏が膨らましではないということを数理的に証明しておられます。[https://note.com/torix/n/n5074423f17cd]。彼の記事については、直後から僕がツイートして紹介したし、別のラジオ番組でも紹介しました。そうしたら、それを拾ってくれて、テレビの一部も記事の内容に準じたことを報じてくれるようになったっていう経緯ですね。
 どんな実証かっていうと、簡単です。ツイッター社がツイート数の時間的変化を明らかにしてくれています。そこから数理的に分析をすると、スケールフリー性が存在することから、Botではないことが証明されます。あともう1つ、全ツイートに含まれる新規アカウントの割合が0.3%だということから、特定の人間たちがアカウントをどんどん作って膨らましているんじゃないことも実証されているんですね。ウヨ豚やそれにつらなる一部与党議員が──僕が言う「安倍ケツ舐め勢力」が──「膨らましているだけだ!」って言いがかりをつけていますが、そうした言いがかりこそが嘘っ八であることが証明されています。
 話を元に戻しますけれど、安倍さんの振る舞いはね──まあ「さん」なんて本当は付けたくないけれども──本当にヘタレで卑怯ですね。安倍さんが一般市民なのであればまだしも、政治家なんですよ。それなのに「牢屋に入りたくない」という私的な動機だけで検察庁法を曲げるなんて、いやはやあり得ない。早く牢屋に入れよ、コラ!
 マックス・ウェーバー[ドイツの政治学者・社会学者・経済学者]がね、「政治家には市民よりも高潔な倫理が求められる」というふうに言っています。彼は、「法を守っているだけでは国民を守れない場合、敢えて法を超えることで国民を守るのが真の政治家であり、真の政治家は、それに成功しても失敗しても法を守らなかったことで血祭りにあげられることを覚悟するのである」というふうに、はっきり言ったんですね。

福山: 言ってますね。

宮台: ね? それと比較すると、安倍さんっていうのは何なんでしょう(笑)。何としても「自分は法の内側にいる」っていう嘘をでっち上げる。これはモリカケ問題からはじまって、桜問題まで続く。同じような事案が他にもたくさんあるわけだけれど。ひたすら嘘をつき、嘘をつかせ、そのことで人を死に追いやりもしながら、自分の保身をだけ貫徹してきたわけ。違法な振る舞いをしているのに、「法の内側にいるんだ」って言い続け、どうにもヤバクなったんで、今度は法を変えると言い出す。政治家の資格もないどころか、市民としての資格さえない。血祭り覚悟で法を破って国民を助けるどころか、お縄が恐いというだけで自分は法の内側にいると言い続け、挙句は法まで変えようと。どれだけヘタレなんだ(笑)。
 これを見るとね、やっぱり僕は、東京裁判でのいわゆる軍部指導者の言い逃れと同列だなって思います。たとえば、ご存知のように、レイテ戦やインパール作戦では、戦死者の9割以上が戦闘で死んでないんです。餓死と病死で死んだんですね。

福山: そうですね。そうです、そうです。

宮台: なぜか。兵站がなかったからです。兵站がなかったところで作戦を強行したのは、陸軍参謀本部ですよね。陸軍参謀本部といえば、陸軍士官学校出身のピカピカのエリートたち。帝国大学出身者よりもエリート視されていました。この人たちは、東京裁判で裁かれるときに、まぁ徹底してショボい言い逃れをしたわけ。「自分は内心、忸怩たる思いがあったが、空気には抗えなかった」みたいな。

福山: 『「空気」の研究』って[書籍が]ありますよね。

宮台: 山本七平さんですね。彼がそのザマを紹介しています。彼は「空気」のほうに注目したんだけれど、僕は「卑怯さ」に注目したい。っていうのは、本当に恥さらしな指導者だったからですね。こんなクズどもが、日本の戦争を主導していた。その結果、本当に多くの日本人がムダに死んだんです。本当に、こうした輩こそが国賊であり、国家に対する逆賊そのものです。そういうクズどもの姿と、安倍さんの姿が、全く重なって見えます。

福山: 先生が言われた、嘘をついてきたという話で言えば、国会で役人が虚偽答弁をさせられる状況を作った。さらには公文書を改ざんせざるを得ない状況も何度もあった、というようなことですよね。

宮台: そういうこと。そのことを含めて、政治家としてあるまじき……というか、自称保守のくせに、保守主義の政治家としてあるまじきこともやっていますよね。
 保守主義は、エドマンド・バーク[イギリスの政治思想家・哲学者・政治家]がフランス革命の同時代から提唱した、比較的新しい近代思想です。どういう思想かを彼が語った一節で例をいうとね、「そこに塀がある理由が完全に明らかになるまでは、塀を一切いじってはならない」です。特に古い塀であれば、そこに塀がある理由が百パーセント分かるなんてことはない。だから、なおさら簡単にはいじっちゃいけない。やむをえず、いじるときにも、様子を見ながら少しずつ変えなければいけないという、インクリメンタリズムの発想です。
 抽象的にはこうなります。“理性のキャパシティは限られている。だが社会はすでに複雑化している。だから、社会がうまく行く理由も、うまく行かない理由も、理性の力ではさして明らかにならない。だから、うまく行かない社会を変えようとして「何か」を変える場合にも、その「何か」の機能を見定めるべく、少しずつやるべきだ”と。つまり、完全に合理主義の枠内に入る思想です。実際、伝統主義とは合理主義だと言ったのが戦間期の社会学者カール・マンハイム。“保守主義とは伝統主義ではなく、再帰的伝統主義である”と言いました。再帰的というのは、伝統の機能を合理主義の観点で評価する営みのことです。
 さて、保守主義からは、法がどう見えるか。法は、単独では機能しません。法には、「疑わしい半影」がつきものだからです。これは、法理学者ハートの言い方です。ボールで電球を照らすと、普通の濃い影の外側をぼんやりとした薄い影が覆います。それが半影です。法には、法だけで規定できない未規定な部分があることを言います。とすると、法を適用できるのはなぜか。それは、法をコモンセンス(共通感覚)が補うって形になっているからです。
 だから、保守主義の立場からすれば、とりわけ政治においては、法に「やってよい」と書かれていないことは「やってはならない」。これは、市民においては、法に「やっちゃダメ」と書いていないことは「やっていい」のと反対です。なぜか。社会生活を支えている僕たちが必ずしも気付いていないコモンセンス(共通感覚)を、守るために必要だからですね。
 ところが安倍ときたら……あっ、安倍さんときたら(笑)本当にすごいわ。長年の慣行を破って、内閣法制局長官を勝手に変えた。非難されると「だって、変えちゃいけないって法律に書いてないもん」。同じように、全会一致が慣行の、宮内庁長官人事もNHK予算も会長人事も、勝手に変えた。非難されると「変えちゃいけないって法律に書いてないもん」。左派である社会党や民主党が政権をとっていた時代にもあり得なかったことです。その意味じゃ、安倍さんは、保守どころか、左よりも左の「破壊的革新」なんですよ(笑)。
 法は、法を支える「プラットフォームとしてのコモンセンス(共通感覚)」という前提があって、初めて社会を支えるものとして機能する。それが保守主義の真髄です。実際、コモンセンスを壊して、法治国家が機能するはずがないんです。これはイデオロギーではなく、保守主義という合理主義的理論が、疑問の余地なく証明しています。ところが安倍さんは、保守主義を名乗りながら、そんなことも知らないという。「大丈夫なの、この人?」っていうね(笑)。これはもう、僕が何年も前から主張してきたことだけれどね。それだけでも、本当に酷い政治家だと断言できます。


▶日本の政治の中枢や経済団体の中枢はクズが作っている


宮台: さて、いまプラットフォームについて話したけれど、これはすごく大事な概念です。たとえば、一般の犯罪者が法を破れば、司法プロセスを通じて粛々と裁かれる。ということは、プラットフォームは変わらないわけです。でも、もし犯罪者が政治家で、犯罪の罰を逃れるためにどんどん法を変えるってことをやったらね、プラットフォームが変わってしまうわけです。そうしたら、このプラットフォーム上で暮らしている日本人の生活や、それに貢献している政治の営みは、ぐちゃぐちゃになります。
 たとえば、警察に逮捕されたり送検・起訴されたりして取り調べを受けてもね、「オレの前に、安倍を逮捕して自白させろよ」「安倍を自白させたら自白してやるよ」っていうヤツが出てきても不思議はないです。あるいは、「国のトップが平気で犯罪をやってノオノオとしているのに、俺のちっちゃい犯罪を裁くなんてオカシイだろ」っていうヤツが出てきても不思議はない。つまり、これが「プラットフォームの崩壊」が意味するところなんですね。

福山: そうですね。

宮台: いま話したのは人々から遵法動機もなくなるという話ですが、それだけじゃない。もみ消しの帝王の黒川弘務が検事総長になれば、安倍政権に関連する政治家の事案を持っていっても、潰されます。それだけじゃない。握りつぶしだけじゃなく、冤罪も好き放題です。安倍が黒川に「あいつを何とかしてくれ」と耳打ちすれば、平気で冤罪をデッチあげます。実際、安倍さんには実例があります[第1次安倍政権]。
 2007年の緒方事件=朝鮮総連所有権移転詐欺事件です。朝鮮総連が被害を受けていないと繰返し訴えたにも拘らず、検察が、北朝鮮への強硬路線で名を上げる安倍政権の意向に直接従って、政権の意に抗って朝鮮総連の仕事を請け負った元高検検事長・緒方重威さんが冤罪で逮捕起訴されちゃった[https://tinyurl.com/y7b2o24e]。緒方さんの本を読むと具体的なことが分かるけれど、「政権から意を直接伝えられて従うケツ舐め検察幹部ら」の実例です[https://tinyurl.com/yas8pg54]。
 政権が総長人事を握れば、「政権から意を直接伝えられて従うケツ舐め検事総長」の下で、揉み消しも、冤罪も、自由自在。従来から検察は、政権忖度を含めた勝手な思い込みで暴走してきたけれど、「疑獄事件で政権を終わらせる」という形で、ときどきは政権の暴走を食い止める機能を果たしました(笑)。それすらあり得なくなるわけです。国民は、検察の暴走と、政権の暴走の、二重苦に苛まれることになっちゃう。
 これが、国家公務員法という一般法に優越する特別法である検察庁法を、国家公務員法の解釈を変えたという出鱈目な言い訳をしながら、東京高検トップの黒川弘務の定年延長を違法に図ったという問題の、本質中の本質なのです。違法な定年延長だから、黒川弘務はもはや東京高検検事長「ではない」のです。そのうち、黒川決裁の書類なんかが出て来たら訴訟のオンパレードになるでしょうね。
 でも、「黒川弘務問題」に留まらないんですよ。検察庁法の改正は、違法な定年延長を、事後法で正当化するものです。それ自体が法が過去の事案に効力を持たないという「不遡及原則」ないし「事後法禁止原則」に反しているってのもお笑いだけれど、検察庁法が改正されてしまえば、詳しくは後で説明しますが、内閣がオーケーと言った場合にはいくらでも定年延長できちゃうんですね。延長、延長、延長っていうふうに繰り返せる建て付けだからです[検察庁法改正案第9条]。そうしたら、黒川弘務の後にも、第2、第3の黒川弘務が検事総長になって、黒川モドキが永久に連鎖するわけ。これが安倍応援団がいうような「国家公務員の定年延長問題」であるはずがない。安倍応援団の頓馬ぶりについては、以上で証明終わり(笑)。
 次に、誰が悪いのかを話します。安倍政権や安倍政権モドキに選ばれる検察トップが悪いわけじゃない。それが行政官僚というものだからです。さっきのウェーバーが言うんですが、行政官僚って「予算とポストの動物」なんです(笑)。でも、だからこそ行政官僚の振る舞いが計算可能で、それゆえに行政官僚として機能するのだ、と。だから「予算とポストの動物」であることは悪いことじゃない、とウェーバーは言います。僕もそう思います。しかし、だからこそ、政治家が行政官僚を「うまく使う」必要があるんですね。
 彼が言うには、行政官僚制の作用因子は「予算とポスト」だけ。だから、国民の利益に反する方向に幾らでも暴走する。それを抑止するには、政治家が大目的を持って、行政官僚に目的を与えなきゃいけない。なぜなら、近代国家では、権力関係の建て付けが「国民>政治家>官僚>国民>政治家>官僚>……」っていう循環関係だから。部分だけとれば「市民が操縦する政治家・が操縦する官僚」になる。ところが、安倍さんときたらどうか。行政官僚が「予算と人事の動物」であることを利用して、国民の制御を離れて、お仲間の私利私欲や「お縄から逃げたい」という私的動機だけで、行政官僚制を引き回すわけ。クズです。
 そのときに用いられる手法も、卑怯で姑息です。僕は昔から言ってきたように、劣等感を抱く人間は、劣等感に抱くヤツがどう振る舞うがよく分かるので、他人の劣等感につけこんで操縦する、っていうことをやるわけです。僕の定番の言葉なんで、不愉快でも聞いていただきたいんですが、“劣等感を抱くヤツ・のケツを舐める劣等感を抱くヤツ・のケツを舐める劣等感を抱くヤツ……”という「ケツ舐め連鎖のムカデ競走」になって、“どこを切っても安倍さんの顔“という「金太郎飴」になっているんですね。
 たとえば、1回人事で政治家を干した後に、そいつを取り立てると“クソがついたケツでも舐める”ようになります。行政官僚も同じです。キャリア官僚ってご存知のように、入省したときに1位か2位か、せいぜい3位までに意味がある。あとは次官になれないからです。事務次官って、菅義偉によって今の内閣人事局が作られるまでは、役人トップの地位でした。ただし法務省を除いてはね[法務省は検事総長がトップ]。すると、入省順位が1位か2位か、5位か6位かって意味が違うんです。5位・6位とかはずーっと劣等感を持って生きてきたわけ。それを官邸官僚として取り立てるでしょ? そうすると、やっぱり“クソがついたケツでも舐める”ようになるんですね。
 もちろんだけど、この背景には、安倍さん自身が劣等感の塊であること、そして菅さんも劣等感の塊であることが、あるでしょうね。繰り返すけれど、深い劣等感を持つ輩たちは、深い劣等感を持つ輩たちがどう振る舞うのかを、よく分かっているんです。だからこそ、こういった非常に問題ある人事がなされるわけです。ところが、行政官僚制って、行政官僚が「予算とポストの動物」なので、自動的に“病巣を拡げる”働きをしちゃう。
 たとえば、入省順位1位・2位の官僚にしたら、自分よりも能力も道徳もはるかにも劣るクズが、官邸に入って偉そうに振る舞っているわけよ。官邸官僚トップの今井尚哉[内閣総理大臣補佐官]も、所詮は次官レースから外れた男だからね(笑)。すると、当たり前だけど、「何であんなクズが偉そうにのさばっているんだ!」ってなって、それまで能力もあったし倫理的にもそれなりに高潔だった官僚が、「だったら、俺もケツ舐めるぜ!」っていうふうに、こぞって劣化競争に参加していく。だから、劣等感の塊である安倍と菅によって、本来は国民に奉仕するはずの霞ヶ関全体にモラルハザードが拡げられているわけです

福山: 先生、「安倍さん」と「菅さん」ですよね(笑)。

宮台: あっ、「安倍さんと菅さんによって」です(笑)。もちろん、これは本当に大問題です。「国民への奉仕、云々(でんでん)」は自明すぎるので横に措くと、民主主義が本来もたらすはずの知識社会化が──知恵を集める機能で「官僚の知恵」も「国民の知恵」もそうだけど──できなくなるので、統治や国家運営に知恵が集められなくなるんですね。それが企業だった場合を考えれば思い半ばにすぎるけれど、国がすごい勢いで墜落します。
 実際コロナ問題で見てもわかるように、日本はすごい勢いで墜落しつつあります。でもコロナ以前から急降下しています。たとえば経済。アメリカの一部やヨーロッパに比べて、日本の最低賃金が3分の2から半分でしょ? 過去20年間で実質の経済成長がない国って先進国では日本だけ。もう日本は先進国じゃなくなりました。1人当たりGDPは去年、韓国とイタリアに抜かれました。僕は2030年までに抜かれるだろうって公言していたので、予想が外れたことを謝りますね(笑)。5Gの基幹特許数は、日本に比べると、中国は7倍、アメリカは4倍、人口が半分の韓国でさえ3倍。皆さん記憶しておられるところでは、コロナ禍が起こる直前、昨年12月の実質成長率は既に7.1%ダウンしていました[詳しくは宮台ツイッターまとめhttps://togetter.com/li/1434201]。まじ、日本スゲエ(笑)。
 なぜこうなったのか。既得権益を守るために産業構造を変えなかったせいです。これはMMT[Modern Monetary Theory:現代貨幣理論]が正しいか正しくないかって以前の問題です。国債をばんばん発行しても財政破綻は起こらないっていう反緊縮のMMT理論が論争の的だけれど、財政破綻が起こらなくても国民1人1人がひたすら貧しくなるから、税金で成り立つ国家財政も細ってインフラに金かけられなくなります。税金の裏付けがないまま勝手に発行した紙幣によって成り立つ国家財政って信用されないんで通貨安になって、外国から買う資源もエネルギーも食料も製品もバカ高くなるからですね。ってな具合にね、
国全体の経済の実力が、もう見る影もないほど下がっています。

福山: 落ちていますね。

宮台: それは福山哲郎さんと原発問題を話し合ったり、それで本を出したりするっていう中でも明らかにしたことでしたね[https://tinyurl.com/y74b234y]。ほかの国は、日本という他国の原発事故なのに、それをキッカケに次々に産業構造改革をしたんですね。

福山: チェンジしましたよね、パラダイムをね。

宮台: はい。日本だけがしていない。だから、巨大市場へと成長した再生可能エネルギー界隈で、日本の会社は上位50位にさえ入っていません。系統線を巨大独占的地域電力会社によって支配されている状況が何も変わっていないので、いまだに旧態依然たる巨大電力会社が承認しないと系統線さえ利用できないんですね。原発事故以降、他の先進国が次々に、政策的市場を設定することで産業構造改革を推進したのに、原発事故の当事者である日本だけが何もできないない、ということに象徴されるのが、日本が激烈な速度で急降下しつつある理由です[https://tinyurl.com/yd4p2hap]。かくして日本は個人別GDPは、OECD加盟国で下から数えたほうが圧倒的に早いところにまで落ちました。ただし、これは安倍ひとりのせいじゃなく……

福山: 「安倍さん」(笑)。

宮台: だから、「安倍さん」ひとりのせいじゃなく(笑)、まさに“「安倍さんのような人」が首相をやっている“っていうそのこと自体によって、まさに急降下の原因が象徴されているわけです。僕はよく「安倍さんが悪いんじゃないよ!」って言うでしょ? それどころか、僕は安倍さんが二期目に総理になることを望むと言ってきたし、第二次安倍政権ができるだけ長く存続してほしいって言ってきたでしょ? なぜかというと、安倍さんのおかげで、日本における人と組織のどうしようもない劣化が、どんどんあぶり出されていくからです。
 だから、僕がここ20年間いろんな場所で言っていたことに、やっと人々が耳を傾けてくれるようになりました。原発事故の時にそうなるかと思ったら、1年半で忘れられちゃったんですが(笑)、その時よりも圧倒的に大勢が、「本当に宮台の言うとおりだ、この国ってこんなに劣化していたんだ、気がつかなかったな」って言ってくれるようになった。まぁ「ちょっと気がつくのがオセエよ」とは思うけれど。でも、気がつかないままでいるよりもマシです。これも安倍さんのおかげ。だから「安倍さん、ありがとうございま~す!」(笑)。

福山: 先生、そういう……まあいろんな方々が先生の言う……まあ先生、過激な言葉が多いんでアレなんですけど(笑)、先生が言われるような日本社会の劣化みたいなものを国民がある程度感じて、そしてこのコロナでみんなが「協力をしよう」「我慢をしよう」と言っている最中に、こういう検察庁法改正などを出してきたことに対して、潜在的になんとなく感じていたようなものが、今回のツイートに「怒り」や「おかしい」という声になって、ドーンと、逆に顕在化をしたということですかね。

宮台: そうです。過激な言葉で敢えて言うとね、“何と、日本の一般市民よりも遥かにクズな連中が、政治家をやっていることが、明らかになった”わけですよ。僕の場合、汚い言葉に見えるけど、ちゃんと「クズ」を定義しているでしょ。これも十年の歴史があります。「言葉の自動機械」で「法の奴隷」で「損得マシン」というのが、一貫した「クズ」の定義なんですよね。さっき説明したように、安倍さんの振る舞いがまさにそうでしょ? 劣等感を持つがゆえに、取り立てられた瞬間に“クソがついたケツでも舐める”になった人間たちもそうですよね。つまり、日本の政治の中枢、電力会社を筆頭にするような経済団体の中枢とにも、もう本当に、クズが巣喰っているんですよ。
 経済団体のついで申しますと、エデルマンっていうアメリカのPR・情報会社が分析した結果、ボード(取締役会)の経営幹部に対するリスペクトの度合いって、先進各国の中で日本が1番低いんです。なぜかっていうと、日本の経営幹部って、他国と違って、仕事が優秀だからなれるんじゃなく、上司に媚びてクソがついてケツで舐めるような「イエスマン」だらけだっていうことを、日本の勤労者が知っているからですね。まぁ、エデルマンのデータ分析からすれば、日本の組織は、何と企業まで含めて、そうした「ケツ舐め連鎖のムカデ競争」的な文化に浸されているんです。だから、この「ケツ舐め連鎖」の中では、当たり前だけれど、構造改革なんてできるはずがないわけです。
 対照的なのが、たとえばGAFA。これは国際標準ではFANGAって言いますけれどね。「プラットフォーマー」って呼ばれます。「斬新なアイディアで、新しい市場を作って、そこを独占する会社や人間たち」っていう意味です。どうしてそうしたプラットフォーマーが、日本に限って出て来ないのか。斬新なアイデアを出すと、そこに経営資源が集中するでしょ? すると「従来の組織」の中での既得権益が失われちゃう。だからアイデアを尊重しないし、アイデアを考えた人たちも、トップに対するオブジェクション[異議申し立て]になっちゃうのを、恐れるわけ。だから、新しいことができない。国も会社も「沈み欠けた船の中で座席争いをする」だけの、浅ましくさもしいクズだらけなので、産業構造改革できない。それで、日本が加速度的に落ちてきているわけですね。
 そのことに気がつかなかったっていうのは、本当に大問題です。っていうか、本当は気がついていても、「オレが生きている間に船が沈まなけりゃ、それでいい」っていうクズだらけであることが、もっと大問題です。ところが、コロナ禍で、予想よりも早く船が沈む気配になってきた。こついらにとっては自業自得っていう意味でね「ざまぁ」。でも、毎日ぼおっと生きているみなさんも、たいへんなことになるんですよ、安倍……「さん」のような存在がトップであることが許されてるってことで(笑)。つまり、犯罪者が首相をやっていて、お手々が後ろに回るのを逃れるために、法律を変えようとしているっていうのが本質です。

▶検察庁法改正案と公務員の定年延長は全く別の問題

宮台: さて、先ほど、みなさんに説明するって予告したことを説明させていただきます。これは福山さんが説明したほうがいいかもしれませんけれど、検察庁法改正は、公務員定年延長と全く別の問題です。

福山: 違いますね。

宮台: 先ほど話したけれど、桜問題などで牢屋にぶちこまれるのに脅えた安倍さんが、一般法である国家公務員法に優越する、特別法である検察庁法を差し置き、国家公務員法の解釈変更という違法なやり方で、黒川弘務の定年延長を図ったのが、出発点です。それでは違法性がバレバレだというので、事後に「合法化」を図るために──遡及禁止ないし事後立法禁止の原則に反するので合法化は不可能だけど──検察庁法改正を企てたというわけです。
 検察庁法改正案第22条には、今申し上げた構図が丸分かりです。一口で言うと、検察庁トップの定年延長について、従来「人事院の承認を得た場合」「人事院の規則で」「人事院の承認を得て」とあるのを、つまり時の内閣の恣意によっては変えられないとあるのを……

福山: それも国家公務員法ですよね。検察は、もともとこれは適用されてなかったわけですから。

宮台: そうです。従来は、検察庁法が国家公務員法を上書きするので、検察トップ人事には国家公務員法が適用されなかったのに、検察庁法第22条では突如として国家公務員法の変形版が適用されるという話になった上に、元の国家公務違法には人事院が規則に基づいて公務員の定年延長を決めるとあったのが、公務の運用に著しい支障が生じるか欠員補充が困難となると「内閣が勝手に認めれば」、検察トップの定年延長を決められるという話になっちゃった。こんなデタラメはないでしょう。どこが公務員の定年延長問題なんだよ。

福山: この基準が曖昧なんですよね。

宮台: そう。それが、「内閣が勝手に認めれば」と申し上げたことです。「内閣が定める事由があれば」って言うけれど、「どんな基準を用いて事由を定めるのか」が少しも明らかじゃないんです。でも、当たり前だけれど、そんなの基準はないに決まっているんですね。内閣が思うがままに検察の人事に介入することが、検察庁法改正の目的だからです。事由を人事院規則のような形に定めてしまったら、検察庁法を改正する意味がなくなるんですよ。


福山: だから曖昧なままで、こないだの答弁もやるということなんですよ。

宮台: 安倍にとっては……イヤ安倍さんにとっては、「内閣が定める事由」を曖昧なままにしなければ、法改正の意味がなくなっちゃうんです。もしかすると、「自分だけはお縄を逃れたい」と願うヘタレな犯罪者の動機を利用して、政治権力が絶対に検察によって妨げられないような状況を作りたいと願っているような、検察にルサンチマンを抱く勢力があるのかもしれませんね。
 さて、ここで問題なのは、やっぱり頭の悪い人が──安倍さんもそうですけれど──「検察官は行政官なんだから、内閣の人事権に服するはずだ」などという、非常識な駄弁を噴き上げていることです。

福山: うん、言ってますね。

宮台: 笑えると思いませんか? 検察庁の職員の身分が行政官だというのは、一般的には当たり前です。ここで言う「一般的には」っていうのは「国際標準では」って意味です。でも日本ではそれだけじゃ片付かないのです。それはなぜか。ヒント。どうして日本では起訴された事案の99.8%が有罪なのでしょう? 答え。起訴するかどうかを検察が「前裁き」する段階で、事実上「裁き」がなされるからです。特捜検察が捜査に動けば百%起訴になるし、起訴された事案は百%有罪になります。ということは、身分上が行政官であったとしても、機能的には司法官なのです。

福山: 当然ですね。

宮台: だから、三権分立の観点から言えば、形式上の身分が行政官であろうがなかろうが、内閣をチェックできる司法官としての機能を持つということです。ということは、内閣の恣意的な人事によって検察官の司法官としての機能を妨げてしまえば、三権分立は直ちに壊れてしまうんです。司法権力と等価な機能を、検察庁長官以下のトップが有しているってことが、この際最も重要なことなのです。

福山: そうなんですよ。唯一の公訴提起機関なんですよね。先生が言ったのは、起訴できるかできないかっていうのは、いわゆる、法的には唯一の公訴提起機関だから、だから逆に裁判所に準ずる身分の保証がいるし、一般の公務員とは違うという整理ですよね。

宮台: その通りです。検察以外からの提訴があり得ず、提訴の段階で「前裁き」という「裁き」がなされているからです。ところが、頭の悪い「言葉の自動機械」は、「行政官じゃないか!」っていうわけです。はぁ?それが何か?「言葉の自動機械」じゃない人間は、歴史を見ることで機能を見るのです。それが保守主義者であるということでもあります。身分が行政官であれ、司法官として歴史的に機能してきていれば、まさにその司法官としての機能が妨げられてしまえば、直ちに社会は回らなくなるんです。それが、まともに頭の働く人の考えることですが、安倍さんは「反保守」だから最低限の頭が働かないわけですね。

福山: 昨日ですね、先ほども申し上げた、松尾元検事総長らOBのみなさんの意見書にですね、いま宮台先生が言われたことと実は同じことの表現がこういうことで言われてまして、昨日すごく印象に残ったことをいま、先生が説明されているのでちょっとご紹介します。

「検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。」

と、昨日の意見書にこう書かれてあるんですよ。

宮台: そうです。まともなオツムがある人間であれば、それ以外の思考は選択できません。元検事総長の松尾さんは、元刑事局長だった時代に、僕にとってはカタキだったんですね。“盗聴の全過程が録音されて後から操作できないといった国際標準の最小化措置”が欠けた盗聴法を推進したこととか、まぁ他にも幾つかあるけれど。しかし「あぁ~あの松尾さんですら、安倍さんに比べれば、この程度まではマトモなんだな」と(笑)。いや〜、今の安倍……安倍さんや、その周りにいる政治家や官邸官僚のような劣化した連中と比べるだけで、松尾さんにはあまりにも失礼なのですが。

福山: だからまあ、元のOBすら「皮相的な解釈は成り立たない」ってこれ、言葉としては相当キツいと思うんですよね。

宮台: あれは、身分だけを見て機能を見ないような「言葉の自動機械」ではダメだと述べているのですよ。実際、検察官が司法官として機能することで、我が国の社会の円滑な作動が担保されているのです。昔の言い方だと「国体を支えている」のですね。だから、行政権力のトップは機能的連関を見極めて守ることができるだけの、保守主義的な頭脳と倫理がなきゃいけないのです。安倍さんにはそうした頭も倫理も皆無だから、行政権のトップとしての資格も皆無だ、という当たり前の事実を指摘したという点で、OB有志のアピールには意味があると思います。まぁ、呆れたんだろうね。

(以下、後半)
▶検察の暴走を止める必要はあるが「検察庁法改正案」では内閣が暴走する
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-05-21 - 07:08:45
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