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文字起こし|【月イチ宮台】日本は過酷な「悲劇の共有」がないと永久に変わらない|J-WAVE|2020.06.02

【月イチ宮台】日本は過酷な「悲劇の共有」がないと永久に変わらない
  JAM The World | J-WAVE|2020.06.02(火)放送

    青木理さん:ジャーナリスト
    宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
   (文字起こし:立石絢佳 Twitter:@ayaka_tateeshi)




▶敗戦後アメリカのケツを舐めた日本では「悲劇の共有」がされなかった



青木理(以下、青木): 今夜は火曜日恒例の月一企画「月イチ宮台」です。社会学者で東京都立大学教授の宮台真司さんにリモートでお話を伺います。宮台さんこんばんは。


宮台真司(以下、宮台):■はい、こんばんは。よろしくお願いします。

青木: 前回も申し上げたんですけど、1ヶ月っていうスパン。昔は月刊誌とかがあって、物事を思考するのになかなかいいんじゃないかって改めて思っていてですね。この1ヶ月間でいろいろな物事が動きましたですね。リスナーの方々からも、宮台さんに聞きたいことというのがいっぱい来ています。

ラジオネーム:エビさん
「権力と賭け麻雀の問題もあり、権力とメディアのあり方が改めて問われていると思うのですが、日本でジャーナリズムが自浄作用として機能するためには、どのような制度設計が必要なのでしょうか。生活必需品だから軽減税率が適用されるはずの新聞よりも、文春のほうが良い仕事をしているのもなんだかモヤモヤします」

と(笑)。宮台さんはどんなふうに思われます?


宮台:■制度設計の問題ではないんですよ。これは「倫理」の問題です。倫理を持つ人間たちが日本では育たないように、もともとなっているんです。だから、制度よりも「文化」の問題です。じゃあ「倫理」とはなにかと言うと、いつもキョロ目の日本人には分からないかもしれないけれど、ユニバーサルには「これは絶対に許せない」っていう感覚の公共性です。たとえば世界の法はいろいろあると見えて、「殺すな・盗むな・火をつけるな・犯すな」は全て共通しています。これは、「ひどいことについては絶対許せない」という強いネガティヴィティの感覚を、自分が持ち、自分だけじゃなく多くの人も持つだろうと期待できるということ。そういう社会に「倫理」があるということです。実際に、すべての社会で、「殺すな・盗むな・火をつけるな・犯すな」という法は共通しています。だから、そこから自然法思想(法は人が作ったものではないという思想。対極が実定法思想)も出てきます。それに対して、何が善いことかというポジティヴィティのほをは、人それぞれに分解しやすいんです。
■さて、「倫理」は、いま申し上げたように、「絶対許せないこと」についてのこだわりをみんなが持つかという期待を要素とするんだけれど、そういうふうに期待できるかどうかを左右する歴史的な前提が、「悲劇の共有」なんですね。

青木: 「悲劇の共有」。

宮台:■なぜかっていうと、簡単です。もし「それが絶対いけない」ってことをみんなでシェアできなかったら、その社会は事実として滅びてしまったからです。滅びに瀕した社会は、そのことを記憶としてたえず再生しながら、倫理を保ってきたわけです。ところが、日本の場合には「悲劇の共有」がないんです。先の敗戦も、悲劇としては共有されなかった。理由は単純で、アメリカのケツを舐めたからですね。実際アメリカに戦争で負けたあと、東西冷戦体制があって、アメリカについていけばいいことがあると思えた。まさにそれが「ギブ・ミー・チョコレート」であって、庶民感覚でもあったんですよね。
■しかし、冷戦体制はいずれ終わってしまう。実際、終わってしまった。冷戦体制が終わってしまえば、「アメリカが自由な西側を守ってくれる」という公共性がアメリカ自体から失われていきます。なので、冷戦体制が終わった90年代半ばに、日本はアメリカのケツを舐めるのをやめるのかと思ったら、「2+2」という実務者会議を通じて、全く逆に、「アメリカが戦争をしたらついていきます」という図式になった。それが1999年の通常国会での周辺事態法であり、有事法制であり、盗聴法=通信傍受法であり、国旗国歌法であったわけです。その意味でいうと、残念ながら、未だに日本人には一般的に倫理がない。もちろんメディアにもないし、政治家にはましてない。

青木: いま宮台さんがおっしゃった「悲劇の共有」って言葉がキーワードなんですけどね、宮台さんは、先の対戦におけるところの無残な敗戦も、悲劇として共有されなかったというふうにおっしゃったんですけども。ただ、一定度は共有されたというかね……「あのようなことはしちゃいかん」とか「戦争だけはやめよう」とか、憲法9条がいいかどうかは別としてですね、旗頭として「憲法9条を大事にしようじゃないか」というような一定程度の共有はあったんだけれども、しかし……。

宮台:■いい加減でした。

青木: いい加減かつ、そういう体験者・共有者たちが、どんどんどんどん社会の中枢からいなくなっていって、ますます悲劇を忘れ去るというか、共有しなくなってしまった。こういう見方はできないですか?

宮台:■それを、「私たちが悪かった」VS「私たちはダメだった」の対比で考えるといい。ドイツでは、「私たちは悪かった」ではなく、「私たちはダメだった」というふうに、「ダメさ」を明らかにして、そこを変えなければ、また同じ悲劇が起こると考えたわけです。
■日本人の場合、謝罪が大好きという文化もあるけれど、「悪かった」って言うものの、じゃあどこが悪かったのか、つまり、どこがダメだったのかを、はっきりさせない。だから、ダメさの根源を全く変えられないまま、「たえずキョロ目しながら(周りを見ながら)所属集団の中でのポジション取りにいそしむ」とか「統治権力にべったり依存し、統治権力に文句を言う人を見つけると『不安を煽るのかー!』と浴びせかける」といった、敗戦を導いた劣等性つまりダメさを、変えられないままなんです。

青木: 「悲劇の共有」って意味でいうと、たとえば3.11――東日本大震災と福島第一原発の事故――、あるいはここにきての新型コロナの感染拡大。いわゆる「検察庁法改正案に抗議します」っていうムーブメントがネットで拡がったっていうのは、ある種の悲劇を市民たちが共有したので、「ポンコツ政府に任しておくと大変なことになるよ」ってことにようやく気づいたことによって、「これは許すべきじゃない」っていうのが一定程度は拡がったというふうに見るべきですか。



▶日本はもっともっと奈落の底に落ちなければならない

宮台:■そういうふうに見られればいいですけど、そう簡単じゃない。それは1960年の安保条約改定の時とか警職法(警察官書職務執行法)改正の時とか、たびたび日本でも大規模な異議申し立ての運動が生じているんだけど、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということが繰り返されてきたんですね。
■そこで、丸山眞男[政治学者]が、日本人がキョロ目で周囲に依存し、ヒラ目(上目遣い)でオカミに依存するままでは、同じ悲劇を繰り返してしまうから、日本人は「一身独立して一国独立す」という福沢諭吉の自立原則に戻るべきだ、とはっきり言いました。多くの人たちは「まさにそうだ!」と思って、丸山眞男のブームが知識人に限らず、大衆的に起こった。
■ところが、結局は「ブーム」に過ぎなかった。周りが読んでいるから、丸山を読む。周りが「良い」と言っているから、「丸山は良い」と言う。キョロ目して丸山につどった人間たちは、ブームが終わると丸山から離れて、気がつくと社会には丸山の痕跡が残っていない状態になりました。10年経つと、もう社会は丸山を完全に忘れた状態になったんですね。
■なので、いっとき「これは絶対に許せない」っていうふうに国民が噴き上がるだけでは、「噴き上がっては、また忘れて」という同じことが永久に繰り返されるんです。そのことを、そろそろメタ的に学ばないとまずいな、日本は消えるだろうな、というふうに思います。

青木: 宮台さんに質問がきています。

ラジオネーム:ミュラー13さん
「安倍内閣はなぜこのような状況の中でも、政局にならないのでしょうか。もう嘘で固められた内閣で、使えないマスクを配ろうとしたり、お国の一大事の時に出てくるものとは程遠い感じがします。なにしろそれを自慢するのですから、目も当てられません。どうしてこうなるんでしょうか」

っていうお尋ねも来ているんだけど(笑)。今のが答えっていうことですか。


宮台:■そうです。悲劇を共有していないからです。なので、「安倍をトップに頂いていることで、日本が奈落の底に落ちる」という悲劇を、ぜひとも経験していただきたい。それを「加速主義的な立場」というふうに申し上げてきました。その意味で、僕は次安倍内閣が誕生したときも喜んだし、今も安倍さんに四選してほしいと思っています。日本人が、自分のいい加減さによって、自業自得の悲劇を被るだろうと予測したからです。早くもそうなりつつあるのは、とても良いことです。
■でも、まだまだウヨ豚が跋扈しるし、「安心厨」がウヨウヨ湧いている。周りをうかがってポジションを取るキョロ目厨と、上をうかがって媚びへつらうヒラ目厨が、合体して「安心厨」になっている。醜悪です。相変わらず「自分の頭で自分が置かれている状況を観察し、自分の周りの人間たちを守るために決して安心せずにベターな選択をしていく」という当たり前のことができない。「不安を煽るのかー!」「バーカ、不安にならないと各人が安全に近づけないんだよ」っていう(笑)。そういう頓馬が大勢いるので、もっと落ちるべきです。

青木: これね、宮台さんは別の場所でも議論されているのを注目したんですけれども。恐らく多くの人々、それなりにきちんと思考能力のある人であれば、決して、今の日本の国だったり社会だったり政治だったりっていうのが、いい方向にいっているとは思っていないと。しかし「なんとかやれているよね」と。
 最近、某大手新聞社がですね、なんでこんな世論調査をしたのか、意味があるのかどうかは別にして、未だに日本の人の6~7割は「自分が中流だと思っている」と。つまり、「まだまだ呑気に暮らせるよね」と。宮台さんの言葉で言うと「ゆでガエル」ですかね。急速に温度が上昇していけば気がついて「これは許せない」っていうふうになるんだけど、まだ「なんとなく暮らせちゃっているよね」と。徐々に温度が上がっているので、悲劇がどんどんどんどん先送りされて、カタストロフの度合いがでかくなっちゃうんじゃないかって恐怖も、僕は描くんですけど。


宮台:■カタストロフは本当は不幸なことだけど、日本人には必要です。日本の経済データは「盛られたものしか発表されていない」。失業率は非正規で盛られ、株価はGPIFと日銀の買い入れで盛られている。盛れないのは最低賃金と一人当たりGDPですが、実にひどい値でしょ。最低賃金はアメリカの高いところや欧米の3分の2ないし半分です。個人別GDPは、去年、韓国とイタリアに抜かれました。国家レベルのGDPを見ると、日本は20年間まったく成長していない。家計レベルの実質所得が1番高かったのは97年で、なんと23年前。皆さんどう思っているかわからないけど、オリンピックは多分もうありません。

青木: そうですね。

宮台:■それは、選手に、練習や選考会を強いることが残酷だからです。日本でそれができたとしても、他の国ではできません。すると、いま日本は経済的になんとなく成り立っているように見えますけれど、これからは成り立たなくなります。オリンピック後はどの国も過剰投資の反動で必ず不景気になるし、1964年のオリンピック後も日本は不景気になったけど、これがオリンピックが不開催となれば、ダメージは計り知れません。
■日本人は能天気なので、モダン・マネタリー・セオリー=MMTが成立するかどうか、つまり財政が破綻するかどうかってことを議論します。財政は破綻しないかもしれない。ちなみに年金財政だって破綻しない。いざとなったら受給をキュッと絞っちゃえばいいだけ。問題は、日本人がどんどん貧乏になっていることです。財政破綻しなくても、貧乏になる。貧乏になれば、日本は8割が内需で回っているけど資源やエネルギーは外に依存するので、購買力に比べて高い身銭を切らされる。それで、ますます貧乏になり、という悪循環です。
■今でさえ義務教育費は先進国の中で最低の予算比率。だから、皆さんは家計の中から3分の1から4分の1のお金を教育に回す。だから、それを除いた可処分所得が低く、中流以下はたいへんです。ヨーロッパを中心として多くの国では、教育は無料。医療も北欧を中心として無料。その代わり、税金は高い。税金は高いけど、中流以下が貧乏に喘ぐことはない。ヨーロッパ全体として、所得は日本よりも高いが、物価も日本よりも高い。最低賃金は日本の1.5倍から2倍である代わりに、ワンコインで外食はできない。昼間でも1000円以下では無理。でも、賃金が高くて、物価も高いということが、豊かな国ということなんですね。
■そういう意味で、日本はもう終わっているんですけど、それをマスメディアが報じないですね。それは、みんなのいい気分、何となく中流でいられるみたいな気分を、壊すことで不人気になりたくなりからですね。しかし、潮目があって、閾値を超えると、逆に、能天気なことを言うと叩かれるように変わります。それは、近いうちに生じます。でも、潮目を超えるまでは、何となく中流気分のまま。だから、真実を知るにはカタストロフが必要なんです。


▶「倫理」「貫徹」がない日本は歴史が作り上げた特性

青木: これだからね~、カタストロフに行く前の段階でね、宮台さんがよくおっしゃってる産業構造の変換にしてもね、その他いろいろな問題点というのに気がついて、どこかでなにかを変えるっていうのが、あるいは変わるっていうのが、人間の理性であり知恵であり知性でありという感じがするんだけれども、おっしゃるようにカタストロフなのか、あるいはカタストロフの直前までいかないと変わらないっていうのは、これは日本人特有ってことなんですかね。


宮台:■特有です。これは古い歴史があるので、よほどひどい「悲劇の共有」がなければ変わらないでしょう。人類学や民俗学を調べればわかるけど、日本人はね──日本という国はと言っておきましょうか──この地域は、実は農耕が始まる前から定住していました。縄文の初期段階がそうです。縄文の途中から農耕が入ってきますが、その前の狩猟採集段階から定住していました。半定住と言います。それは、日本の国土は当時9割が山地で、各地に多数点在する小さな沖積平野に人が住んでいて、動き回れなかったからです。沖積平野と沖積平野の間に距離があって、狩り場を争う必要もなかったので、ジェノサイドもなかった。山だらけだけれど沖積平野が極端に少ない台湾先住民(かつて首狩り族とも呼ばれた)とはそこが違います。

青木: 地域的にいうと、日本という国の、ある種の島国根性という言葉によく置き換えられるのかもしれない。たとえば直接的に侵略されたこともないし、存立事態が本当の意味での危機に陥ったというのが……先の大戦は、自業自得で存立事態の危機に陥ったんだけども。そういう意味でいうと、よく言えばのんびりしているというか、悪く言えば自分たちが生き残るためになにを選択し、どういうふうに向かっていったらいいかってことができなかった。

宮台:■そうです。過酷な全殺戮がなかったから「倫理」がない。代わりに周りに合わせるだけ。倫理とは「貫徹」です。「それをしなければ我々は滅びてしまうから、許せないことは絶対に許さない」という「貫徹」なんです。でも日本にはその「貫徹」がない。代わりに「学習」がある。キョロ目して態度を変えるんです。「周りがもういいって言っているんだから、いんじゃない?」っていうふうにね。それはそれでやってこられた。淘汰されずに済んだんです。それは、地政学的ないし風土的な特徴があったからです。そういう特徴がある場所って世界にはないので、これは日本人の歴史が作り上げた特性だと言えます。

青木: まぁそれはちょっと……悲しい気もしますけれども。


宮台:■そこで考えてもらいたいのは、それがひどいことにつながる可能性です。まず、日本人が日本人だけでゲームができた時代が終わっている。脳天気な民族と、倫理的な民族との間の生存競争では、倫理的な民族だけが生き残ります。次に、テック。いまZOOMとFaceTimeを使って、このブロードキャストをやっています。こういうリモートワークやリモート授業が拡がると、2wayではあるけれど、集まりの構造=ギャザリングがなくなります。ところが、みなさん小学校の頃を思い出してください。教室の教室たる所以って、先生と生徒との間の双方向のコミュニケーションというより、「横のつながり」だったでしょ?

青木: 「横のつながり」。


宮台:■生徒の間のつながりです。生徒同士で遊んだりとか、組替えで知らない子と出会って「喧嘩して仲良くなる」みたいなプロセスですね。そうしたギャザリングがあったから、先生に聞けない質問を友達にしたり、先生に言えない悩みを友達に相談する。単に親しくなるだけじゃなく、仲間の知恵で問題を解決をするという「知識社会化」を学べたわけですよ。でも、いまはリモート化のせいで、アメリカの二国間外交みたいに分断された、レクチャラーと生徒の間の縦割りの関係があるだけ……。あれ、パソコンが落ちました(笑)。

青木: あ、それじゃ宮台さん、ここで曲を1回挟んで仕切り直しましょう。


宮台:■わかりました、ありがとうございます。



ミュージック




▶コロナ禍で横のつながりがなくなると「倫理の基盤」がつくれない


青木: 宮台さん、後半もよろしくお願いします。

宮台:■よろしくお願いします。

青木: 前半の後半部分、スタジオにいる作家の人間が「僕も興味あるんです!」と言っていたんですが、要するにリモートでいろいろ出来るのは利点も利便性もあるんだけど、ギャザリング、つまり集まることができなくて横の場がなくて分断されちゃうという話でしたけども。これはやっぱり問題ある?


宮台:■めちゃくちゃ問題ありますね。倫理の基盤って何だろうって考えると、基本的に「言葉の外」「損得の外」「法の外」でつながっているというシンクロ感覚なのです。これはたとえば、外遊びで生じることです。一人で虫を取っていても無理で、みんなで虫を取る。みんなで球技をする。みんなでブランコで遊ぶ。長縄跳びなんてのが一番わかりやすいけれど、共同身体性が生じて、それをベースにした共通感覚が生じるんです。すると、人が「痛っ」てなると、自分にも痛みが生じる。ダイレクトな身体性でつながるっていうことです。そういう「共同身体性が与える共通感覚」という経験の中で与えられるものが、倫理の基盤。
■それが失くなってしまうと、残念だけど、たとえ「仲間」という言葉が残っても、僕らには仲間を作ることができなくなっちゃう。そうすると、「僕だけが許せない」じゃなくて「みんながそれを許せないはずだ」という感覚や、それをベースにした「仲間のために自分が問題を背負うぞ」という意欲も消えます。すると、残念だけど、僕らからは倫理が消えます。今でさえ安倍や官邸官僚に見るように、共同体の空洞化でどんどん脱倫理的になっている。辛うじて残っていた子ども時代の外遊びが消えることで、加速度的にひどくなるでしょう。

青木: つまり、ただでさえ日本人には希薄な「これは許せないことなんだ」という公共性みたいなものが、このコロナ禍の中で――子どもたちでいうと、3ヶ月くらい喪失しているんですけど――、これが更に進んでしまう可能性があると。


宮台:■可能性があるということです。今後、新型コロナで、ロックダウンあるいは疑似ロックダウンをしてはそれを緩和してってことを、グローバル化状況の下で長い期間くり返すことになるので、「集まりの構造」をどれだけ意識的に保つのかが非常に重要になります。
■当たり前だけど、コロナで死ぬのも大変だけど、経済死、経済で死ぬことも、大変ですよ。ただ、経済で死ぬって言ったって、餓死することじゃなく、日本の場合は自殺なんですね。失業率と自殺者数はとても高い相関率ですから、コロナ死者数と自殺者数を合わせた数を、減らさなければいけない。もっというと、コロナ死と、経済死と、縦割りに分断されることによる社会死=孤独死との、合わせた数を、減らさなければいけないんですね。
■なので、コロナ死者数を減らすほうがいいけれど、そればかりに傾注するのはまったくダメ。貧しくなった人々の経済状況と、人々の倫理的感覚のベースになる集まりの構造を、保つ必要があります。それも、長い間、意識しながら保っていくことが必要なんです。もしそのことがうまくいくのであれば、まさにコロナを奇貨として、日本人が自覚しなかった倫理の基盤を、僕らが再構築できることになるかもしれません。


▶9月入学は日本社会が良くなることを意図していない


青木: 宮台さんに聞くのは愚問かもしれないけど、9月入学っていうのが一時盛り上がって、政権基盤が揺らいでいるので与党からはねられたらしくって、結局ポシャったんですけど。9月入学への移行っていうのは、宮台さんはどんなふうに考えてらっしゃるんですか。

宮台:■くだらないと思います。それは以前デイ・キャッチっていうラジオ番組でも言ったことですがね。「安心・安全・便利・快適」っていう便宜っていう観点からすると、留学がこれから増えていく──出ていくのも入っていくのも──のであれば、9月入学にしたほうがコストが掛からなくなるように見えます。全部じゃないけど9月入学の国が多いのは事実なので、4月と9月の半年間という無駄な時間を使わなくて良くなるってことですね。
■でも、ちゃんと考えてほしい。国際化って、これからはイメージが変わるんです。ビル・ゲイツがどうしてBH=ビッグヒストリーに関心を持ったかというと、コロナ以前から始まっていた大学のリモート授業なんですね。それをでビッグヒストリー関心を持って、ビッグヒストリー研究に10億円を出したってことで、ビッグヒストリーがブームになった。これからは、海外に留学するって言っても、リモート授業にお金を払って参加するって形になる可能性があります。たまにスクーリングやコーチングを受けるために、ワンシーズンに一度チューターに会って、1週間セミナーを受けるみたいな形になっていくでしょうね。
■そうすると、英語教育の問題と同じ未来になります。ポケトークみたいなのがどんどん性能アップして普及していけば、一般人には英語教育はいらなくなります。これは英語教員にとっては非常に大きな利権問題だけれど、どのみちそうなることは百パーセント確実なんですね。留学もそうで、リモート授業やリモート学習が中心になることは確実なんです。どちらも、新型コロナの流行で5倍速・10倍速で進むだけの話ですね。テクノロジーが発達した未来に何が生じるのかを考えれば、人の移動が要らなくなっていくに決まっています。
■さて、日本の場合、なぜ4月なのだろう。日本の春って、単にいろんなものが芽吹くというだけじゃない。桜が咲いて、花見をして、桜の木の下で宴会して、墓参をする。日本人が長く続けてきた生活形式と、それに結びついて長く抱いてきた共通感覚に、マッチしているということがあると思うんです。さっきの「集まりの構造」っていう話でいえば、お花見に集まって、新しい一区切りのはじまりを称え合う形で新年度を迎える、っていう日本的な感受性って、結構、大事かもしれない。
■なぜ大事「かもしれない」っていう言い方をするかっていうと、安全・安心・便利・快適みたいな計測可能なエビデンスに還元できない可能性があるからです。以前、全米ライフル教会の会長をやっていたチャールトン・ヘストンが、「銃を持つことによってカナダの300倍も人が死んでいます。これはおかしいんじゃないですか?」と尋ねられて、「あなたの言う通り、ガンを手放せば、たしかに秩序は保てるだろう。だが、アメリカ人にとってガン(銃)はシンボルである。ガンを手放して秩序が得られたとしても、もはやそれはアメリカではない」って言ったんだね(笑)。
■だから、「社会が良くなる」っていう言い方をする時、単に「安全・安心・便利・快適」が増すっていうふうな、のっぺらぼうな考え方でいいのか、ということです。つまり、まさしく、「日本人にとって、日本の社会が良くなること」を意味しているのか、ということなんですよ。それを考えるのが、実は、合理の知のみを考える主知的な「左」とは区別された、情意を考える主意的な「保守」ないし「右」っていうことです。
■僕らの共同身体性と共通感覚を、壊すような社会の改革によって、「安全・安心・便利・快適」の度合いが上がったとしても──それで確かに抽象的な意味で社会は良くなったにせよ──「日本の社会」つまり「日本人にとっての社会」が良くなったことを意味するのか。これは文学者が長く問うてきた問題です。三島由紀夫が「空っぽな日本」という言葉で問うた問題です。日本浪漫派の保田與重郎が、「西洋的なもののパッチワークしかできない、キョロ見とヒラ目で右往左往するだけの恥ずかしい日本人が、それでも日本人たる所以だと言えるもの」として言挙げしたことです。

青木: ということは、9月入学なんてものをレガシーが欲しいのかなんか知らないけれど……。

宮台:■レガシー欲しいだけの、クズの損得計算でしょう(笑)。

青木: この期に乗じてやろうなんていうのは、いまの政権だったりとか、今回進めようとしていたのは、自称「保守」の人たちなんだけど、とても保守とは思えないと。


宮台:■単なるインチキ保守ですね。

青木: ははは(笑)。

宮台:■だって牢屋に入りたくないというだけで、特別法の優越するはずの国家公務員法を、たかが行政機関であるくせに勝手に解釈変更して、黒川の定年延長をはかるなんてことをやった。黒川さんは今、東京高検の検事長ということになっているけど、僕は検事長としては認めない。なので、黒川決済の書類が出てきたら、みなさんどんどん行政訴訟を起こしましょうと呼びかけているわけです。


▶自粛警察は神経症。彼らの内側に倫理はない。

青木: ふふふ(笑)。それとね、もう1つ屁理屈を唱えるわけじゃないんですけれど、「これは許せない」っていう公共性っていうのが、どうも日本人は薄いんじゃないかという話だったんですけれども、一方で最近、新住民と自粛警察っていうね。「自粛警察」ってコロナでムーブメントになったじゃないですか。これってある種、「みんなが我慢して感染防止のために頑張っているのに、こんなことしているヤツは許せない!」っていう感覚を持っている人たちとも言えないことはないかなと(笑)。

宮台:■そう。それはしかし、「みんなで頑張っていれば安心」という具合に、安心と安全を取り違える、劣化した「安心厨」の神経症的な個人感情で、ショボい。自分たちはキョロ見とヒラ目で思考停止で頑張っているのに、正々堂々と自分の頭で考えて生きている人たちを見ると、自分が否定されたと感じて、劣等感を覚える。だから、みんなで一斉に叩く。これは不倫炎上にも見られることで、内側に倫理があるからじゃない。なぜかっていうと、こうした劣化した連中は、周囲次第で基準がコロコロ変わるからです。「安倍がこう言っているのに!」って強く大きなもの(笑)をヒラ目で参照して、みんなでキョロ見しながら従っていく。ところがそこに自由な人が一人いると、「こいつ目障りだからやっちまえ!」となる。日本人の劣等性がまさに「安心厨」「自粛警察」として現れていると思います。


▶アメリカ社会の排外主義や人種主義は神経症とは違うもの

青木: 「許せない」っていう公共性がないっていうのが、日本の場合もともと無いのかもしれないけども、たとえばアメリカなんかでも、トランプ政権なんか見ていると、トランプを支持している人たちっていうのは、別に悪いわけじゃないんだけど、そういうものが崩壊していってるっていうかね。自分たちが中流から落ちたせいなのか、あるいはエスタブリッシュメントへの反発なのか理由は別として、なんか「許せない」っていう公共性がアメリカでも壊れかけているっていう感じがするんですけど、それは違うと思いますか?

宮台:■アメリカの場合はだいぶ違うと思います。トランプの支持母体はラストベルトの、旧自動車工業を中心とする、昔に中流だった白人の製造業労働者たちなんですね。この10年間、オピオイドがアメリカで蔓延していますが、こもも、この人たち、つまり白人の旧製造業労働者たちが中心です。この人たちは、まず心身ともに痛んでいて、次に「昔はこうじゃなかったのに」って思っている。そこにトランプが出てきて「オレに任せろ。あの古き良きアメリカをオレが復活させてやる。オレがお前らの痛みを止めてやる」って言っている。
■すごくアメリカ的ですよね。というのは、「あの古き良きアメリカをオレが復活させてやる」ってところで、インテリのテクノロジスト──反動主義者や加速主義者──もトランプを支持しているからです。彼らは、テクノロジーを通じて――それはバーチャルとかオーグメンテーションだけれど――「古き良きアメリカを復活させる」ことを願っています。
■つまり、アメリカには、たえず「古き良きアメリカ」という参照点があり、それから離れれば離れるほど痛みを感じる旧中流層が増えるという法則があります。だから、「オレに任せれば痛みを止めてやる」と「古き良きアメリカに戻してやる」っていうメッセージが合体する。もちろんポピュリズムです。政治的動員を意図した感情的扇動であって、政策の合理性は埒外。けれども、それが意味を持つところに、アメリカ的な文化を感じますね。
■これが実は、いま起こっている人種暴動の背景でもある。アメリカを一つの乗物だと考えましょう。リチャード・ローティ[アメリカの哲学者]が1990年代半ばにこう言った。「リベラルの思想は、乗り物の座席に余裕がたくさんある時の話。余裕があったから、昔は乗ってなかったヤツが座っていても、たとえば女や黒人やヒスパニックが座っていても、まぁいいかとなった。だが、座席が減ってくると――90年代半ばからだんだん減ってきた――、何でお前が座っているんだよ、そこは元々オレたちの席だったんだ、と昔から座っていた人間たちが主張しはじめる。これが人種主義や性差別や排外主義の復活として現れる」と。
■7世紀の飛鳥時代から大陸中国の帰化人と長く共存してきた日本での「不安を埋めたいだけのウヨ豚みたいな神経症的排外主義者」と違って、アメリカの排外主義や人種主義を担う人々は、神経症的な気休めなだけじゃなく、座席が少なくなってきたときに「元々誰の場所だったのか」を入ってきた順番で主張する人たちです。これはむしろ「移民国家だから」起こることです。「最初に入ってきたのは誰か」から来ていることです。
■だからアメリカは多様性があるって言うけど、それは「古き良きアメリカ」を作っていた、白人男性キリスト教徒の多様性です。「クエーカー教徒(プロテスタント一派)が作ったペンシルバニア州があってもいい」「モルモン教徒(キリスト教新興宗教一派)が作ったユタ州があってもいい」という多様性。13州による合衆国とはそういう意味です。それは白人男性キリスト教徒の多様性でしかなかった。そこには女や黒人やヒスパニックはいなかった。だから「バスの座席に座っていなかったな。だったら出てけよ」となるわけです。
■その意味で「古き良きアメリカ」という参照点がある分、原理主義的になりやすい。日本の場合に、原理主義になりうるような参照点がない。だから、たとえば安倍や安倍信者のように「保守」を自称する連中を見ても、「一体こいつらなにを参照しているんだろうな? 頭は大丈夫なの? まず劣等感を何とかしたら?」っていうふうにしか感じられないんです。

青木: わかりました。宮台さん、そろそろお時間です。毎回本当に頭の中がギュッと絞られるくらい、知的刺激を受けつつ、あっという間に時間が過ぎちゃうんですけど。また次回、月一ですから、7月7日ですけども、よろしくお願いします。


宮台:■はい、よろしくお願いします。

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-08 - 08:55:45
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

前半の2分の2:文字起こし|DarwinRoom|料理を通じて倫理を回復する

(前半の2分の1からつづく)

【本題1: フュージョンからコントロールへの頽落:共同身体性・共通感覚・共同体的前提】

宮台:■そう。前置きが長かったけど、ここから本題です。いつもの僕の言葉だけど「社会はいいとこどりできない」。どんなリベラル思想も「我々の平等」を主張するので、「誰が我々か」を巡る排除を必ず伴います。そのことに敏感であれと主張したのがシャンタル・ムフみたいな「ラディカル・ディクラシー」です。でも、彼女らの「処方箋」は、「討議を闘議にレベルアップすることで、『誰が我々か』の境界線を絶えず動かすべきだ、動かさないから問題が生じるのだ」というもの。はい、その通りです。だけど、さっきと同じ単なる「結論の先取り」だよね。「そうなればいいなぁ」という誰もが抱きがちな願望を、「それが倫理だ」と結論しているだけ。所詮は「処方箋モドキ」に過ぎない。
■ただ、僕自身も、まさにその水準で「クズ」「クソ」「クソがついたケツをなめるクズ」という言葉を使っている。誰もが倫理を口にした瞬間、結論の先取りにならざるを得ない。なぜなら、倫理には「時間的貫徹の構え」が含まれるからです。だから、あくまで「仮の姿」で「これが共同性だ」──正確には「これが共同性たるべきだ」──という結論を先取りした倫理を語る限り、その営みは否定されてはならない。実際僕は、いつも3人の子どもたちに「パパ、また昭和かよー」って言われてる。6歳児にさえ言われてる(笑)。それは悲しい状況だけれど、僕が昭和を生きてきた以上、何をどう語っても必ず「昭和すごろく」的な昭和プラットフォームが残響する。それは仕方ないんです。僕が言いたいのは、いいとこどりの倫理を語る「だけ」じゃダメだということです。問題はその先です。

鶴田: 僕みたいに昭和を実際に知らない人間でさえ……。

宮台:■知らないんだよね、おっそろしいことに(笑)。

鶴田: ははは(笑)。でも昭和の家庭的な雰囲気、昭和の食卓みたいなものを、一種の規範化されたカッコ付きの理想の食卓としてイメージしてしまいがちだと思うんですよ。ただ、それはいけないってことも、平成のフェミニズムとかの流れを知っていると分かるんですね。ただ具体的にどのような、一種の共同性とか、どのようなものに向かえばいいのかっていう、そのイメージがすごく貧困なんですね。昭和ではいけないと分かっているけども、でも昭和しか思いつかないという状態があって。その上で、前回宮台さんにお話いただいた、先の人類学が言っているような、人間と動植物まで含めたそれらに成り切ることで、仲間であるという意識を育んでいた、かつての共同体とか。宮台さんもテキストの中で、「そういった感覚ってものから倫理は生じるんだ」ってお話をされていて。やっぱり「共同体」ってことは、なにがしかの手がかりになると思うんですね。

宮台:■そう。一定の条件を備えた環境の中でだけ「倫理が育まれる」。

鶴田: 僕もそうですけど、短絡的で貧困な共同体のイメージではない、いかなる共同体が可能なのかってことを、料理に関連させていただければありがたいんですけども。宮台さんの理想とされる共同体のイメージって、どんなものなのかなっていう。

宮台:■イメージの話はなかなか難しい。粗雑な具体例をあげると、鶴田さんでさえ「また昭和かよー」って僕を揶揄することになる(笑)。

鶴田: ははは(笑)。

宮台:■具体的水準ではなく、抽象的に──正確にはfunctional(機能的)に──考えなければいけない。共同体の定義って社会学でも幾つかあるが、古くから知られているのは「みんなが何事も同じように体験していること」。正確にいうと「そのように当てに出来ること」。これを「共通感覚をお互いに当てに出来る」とも表現できる。人間の感覚が本当に同じかは検証しようがないので、「お互い当てにし合っている」ってところで議論を進めるのが社会システム理論の特徴。「共通感覚」っていう言葉もその意味で使います。それを踏まえると、取り戻すべきは「僕だけがそう思っているんじゃない」「僕だけがそう感じているんじゃない」って思えるという意味での、お互いの共通感覚への信頼だと思います。それが問題だということは、料理だけではなくて、あらゆる問題について言えます。
■なぜ共通感覚を取り戻さねばいけないのか。そうしないとこの社会から倫理が消えるからです。倫理っていうのは、ロジックやロゴスが基盤じゃない。「それは許せない。みんなも許せないはずだ」という感情が基盤です。「許せないという感情を自分が持ち、それを不特定の他者に対しても当てにできる」というfactuality(事実性)です。短く「許せないという感覚の共同性」と言ってもいい。factualityだから、倫理が社会から消えることがあるってことです。「それは許せない、みんなも許せないはずだ」なんて誰も思っていなくても、単に「監視と処罰」だけで秩序が保てる社会を考えることができるでしょ?マイケル・サンデルがアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を引いて「倫理で回る社会」から「監視と処罰で回る社会」への変化を憂えていたでしょ?抽象化には「内発性から損得勘定へ」への頽落です。中国のような「全面信用スコア化」がもたらす変化です。
■僕の定義では、クズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」。この3つは同時に起こるんだけれど、僕は「人間がただの損得マシンになる」のを許せないし、みんなも許せないはずだと確信する。何かいいことをする場合、「得になるから」じゃなく、「いいことをしたいから」やるんだっていう態勢が圧倒的にいい。そうじゃなくなることが、僕は許せないし、みんなも許せないはずだと思う。福音書が語る「善きサマリア人の喩え」が告げることです。僕は、「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情が社会から脱落すること自体に「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情を持つ人が、まだ社会に残っているというfactuality(事実性)への信頼をベースに、尻すぼみになりがちな「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という「許せない感覚の共同性」をどうやって取り戻すかっていうところから、ものを考えます。

鶴田: そうすると、共同体ってことでイメージしがちな、横並びの共同性というよりは、縦の共同性というか、そういう感覚を持っているものと持っていないもの、そういうところを含めた共同性なのかな……。

宮台:■まさにそう!社会学でいう社会とは、言葉と法と損得勘定がないと回らない定住社会のことだけれど、事実として、社会には「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちと持たない者たちが必ずいて、事実として、現世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちが次世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちに「感覚の共同性」をsuccession(継承)してきました。鶴田さんが言う通り、横の共同性が生じるためにも、縦の共同性が必要なんです。コミュニタリアンが先祖代々から子々孫々まで含めた「時間軸の共同性」を重視するのも、そのことがあるからですよね。たとえば僕はプログレ系のドラムスをプレイするけれど、昔は音楽っていうとバンドでやる、あるいはオーケストレーションでやるのが基本だったでしょ? 今はDTM(デスクトップミュージック)のテックがダウンサイジング化して、打ち込みでやる人が増えてるよね。すると、昔と違って……まぁこの例も「また昭和かよ」になるなあ(笑)。

鶴田: ふふふふふ(笑)。

宮台:■まぁ音楽の話を続けると、「感覚の共同性」が分断された状態で「オレはこれがいいと思う」というようになる。それを「こだわり」という言葉で表現するようになったのが、この25年間。「イタイ」という言葉と並行して拡がってきたんだよね。「イタイ」ってのは、僕のいろんな文章にあるように、過剰さを忌避する言葉です。ってことは「分断されているがゆえに、むしろ過剰さを忌避するようになった」んだね。僕の十八番のサブカルチャー研究からは、そのように言えます。だからさ、鶴田さんが一生懸命料理して、みんなにごちそうしたとしても、それは共同体的共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いているから、「他の人がやらないことをやってすごいね」で終わるっていう。
■共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いた状態だと、僕のよく使う言い方で言うと「技芸がmimesis(感染)を生じさせない」。「僕も料理してみたいなぁ」とか「自分も楽器が弾けるようになりたいなぁ」とかね。身体性をベースにした感染がどんどん生じなくなってるでしょ? だからoperational goal(作業目標)としては、mimesis(感染)が容易に生じるような条件を、どうやって回復するかが、戦略的に大切になるんですね。鶴田さんがみんなの前で料理をふるまうだけじゃ、回復しないんですよ。「わざわざ作らなくてもいいのに、どうもありがとう」で終わっちゃう(笑)。だから、僕は子どもを相手にする場合、虫取りとかトカゲ取りみたいな外遊びとかから始めるわけです。
■最近ちょっと面白いことがあってね。コロナによる外出自粛要請で、子どもたちが外で遊ばなくなったでしょ? うちの虫好きだった6才のガキも、あんなに虫好きで、いつもバッタを取ってカマキリにあげていたのに、マインクラフトしかやらなくなっちゃったんですよ(笑)。いや、マイクラも、一応ゲームの中では一番クリエイティブだなっていう信念で、子どもたちにオススメをした結果なんだけれど、マイクラの外に全く出なくなっちゃった。「散歩しようよ」「面倒くさ~い」「あんなに虫好きだったじゃん」「昔の話~」ってね、箸にも棒にもかからないわけだ(笑)。
■ところがね、こないだ外出自粛要請も軽くなったので、山梨のある場所で虫取りをしたんです。正確にいうと、虫がたくさんいる所に行った。すると面白いですね。6歳児が、虫を取ろうと思っていないのに、気がつくと体が動いちゃってるの。イナゴとか蜘蛛とかを自動機械のように採っているんです。「お~やっぱ虫取り好きじゃん」って言ったら、「別に好きなんじゃなくて、虫がいると自然に捕まえちゃうんだよ〜」って言ってね。これってすごいなと思った。これだよなって。つまりギブスン流の生態心理学が言う「環境によるアフォーダンス」が生じていたんですよ。まさに虫がアフォードしていたわけ。アフォードするってのは「モノの配置がヒトに行為を〝与える〟」という意味ですけどね。
■まぁとにかく、すごい光景を見ちゃったわけよ。料理でいうと、冷蔵庫を開けて何か食材が見えた途端、選択としてよりも、視界に入った素材によってアフォードされて、気がついたら料理を作っちゃってた、みたいなこと、あるでしょ? 生態心理学の発想からすると、技芸的な意味での技術的遂行って、簡単に言うと「モノから呼びかけられて」やってるもんなんですよ。生態心理学がよく出す例でいえば、ある場所に石があって、思わず腰掛けたとする。すると、「どこに腰掛けようかな」と思って、石を探して座ったんじゃなくてね、石が座るに適した形状があると──正確にいえば「座っている状態を〝身体的に〟想像させるような物理的性質があると──気がつくともう座ってるっていうね。
■だから、技芸の本質って2つあることになる。1つは、ヒトから心身への呼び掛けとしてのmimesis(感染)。もう1つは、モノから心身への呼び掛けとしてのaffordanceなんですね。ガキを見ていて思い出しました。子どもの頃、僕もそうだったんですよ。っていうか、今でもそうなんだけど、虫を見ると思わず捕まえちゃってる。選択じゃない。虫を見た瞬間ガーッと体が動く。ちなみに、子どもって虫目(むしめ)なんですよ。視線が低いせいもあるのかな。これは子どもに適わない。僕が1匹見つける間に、ガキが5匹見つけてるの。そうやって、どんどん森にアフォードされて自動機械みたいに動いているガキを見ると、僕はどう思うかって、「お~やっと仲間に戻ってくれた~!」ってね。その感じですよ。あっ、伝わってますね。みなさん、笑ってくださってる(笑)。
■これは昭和の問題じゃなくて──しつこいけど(笑)──、すごい普遍的な問題だと思うんです。人はね、選択している限りは、ヒトから呼び掛けられるmimesis(感染)も生じないし、モノから呼び掛けられるアフォーダンスも生じない。なんか、気がついたらそれをやってちゃってるっていう状態。それこそが、キャリコットがいう「生物も無生物も含めた場が与えるcommunal(共同体的)な感覚」の出発点だということです。
■かつて性愛ワークショップをやってた時に言ったことだけど、「どうやってセックスすればいいのかな」って考えている状態は、「どうやって虫を取ればいいのかな」って考えているのと同じで、それは「クズの始まり」なんです(笑)。そこは技芸。修行して、慣れて、アフォードされるしかない。人間は、モノからだけじゃなく、ヒトからもアフォードされるんです。表情とか姿勢とか体温とかバイブレーションとかによってね。そんなふうに、「だからこうしよう」って判断する以前にアフォードされて、自動的にある振る舞いが生じている状態が、僕がいうフュージョン。性愛はコントロールではなくフュージョンです。ってことは、既に心身の体制が「フュージョンからコントロールへ」と頽落している場合、性愛だけをうまくやることは到底無理だということになりますね。
■共同体のベースは、ヒトから呼び掛けられる感染と、モノから呼び掛けられるアフォーダンスです。ただし、アフォーダンスにはヒトの心身からの呼び掛けも含まれます。そして、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」を、僕はフュージョンと呼びます。ただし、この他者には、動植物も無機物も含まれます。共同体の定義は「みんなが同じように体験していると信頼し合うこと」だと言いましたね。「同じように体験する」というのは、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」、つまりフュージョンがベースです。言葉はその後にやってくる。だからフュージョンを「共同身体性」と呼びます。共同身体性common physicalityが与える共通感覚common senseが、言葉に共同体的共通前提communal common-premiseを与え、それが共同体community=communal groupつまり仲間を与えます。それが性愛論などで示してきた概念系ですよね。
■だから、共同体的communalなものを取り戻すとは、共同身体性に裏打ちされた共通感覚・に裏打ちされた言葉の共通前提を、取り戻すことです。それが「言外・法外・損得外のシンクロ」と呼んでいるものです。感覚が人ごとの言葉によって分断されている状況に抗って、communalなものを取り戻すことが、『美味しんぼ』の主題でもあったことを思い出してください。「料理の美味しさってなんなんだろう?」と。グルメ的な意味での、つまり意識高い系的な意味での「これは1つ星・2つ星・3つ星の美味しさだ」っていうんじゃなく、長い道のりを歩いていって、やっと着いたナントカ庵で、美味しい湧き水を1杯飲ましてもらったら、何にも増して美味しかった、っていうような体験。この体験を味わえることこそ「最高のグルメ」なんだって『美味しんぼ』が描いていたでしょ?
■ここまで語って、やっと、料理って何なのかを語れます。作るプロセス、食べるプロセス、遡って、食材を育てるプロセス、食材加工のプロセス、流通のプロセスを含めて、今話した意味でのcommunalなものを取り戻さないと、僕らは「料理を通じて倫理を回復する」ことはできない。言い換えると「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の状態から外に出て「言外・法外・損得外のシンクロ」を体験することできない。それが体験できないと、料理が味わえないだけでなく、性愛が忌避され、祭りが忌避されることになる。逆に言うと、その意味において料理や性愛や祭りを味わえれば、「共同身体性→共通感覚→共同体的共通前提」という回路が回復されている。単に言葉で何かを想像する営みではないということです。あの、鶴田くんに伝わってますかこれ(笑)。

鶴田: まぁ、消化中ですね(笑)。

【本題2: ………

(後半の2分の1に続く)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-07 - 11:07:13
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前半の2分の1:文字起こし|DarwinRoom|料理を通じて倫理を回復する|2020.05.30

【DarwinRoom】料理の人類学No.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

【まえふり:前回までを受ける】

清水隆夫(以下、清水): 本日は第9回「料理の人類学入門」にご参加いただきありがとうございます。私、DarwinRoomの代表の清水隆夫でございます。よろしくお願いいたします。今日はゲストに社会学者で東京都立大学教授の宮台真司さんをお招きして、「料理から見える逆説」というテーマでスタートしたいと思っております。今日の担当のキュレーターは鶴田想人さんでございます。
 「料理の人類学」がはじめての方もおられますので、簡単に「料理の人類学」のコンセプトのお話をさせていただきます。今回のコロナ騒動で大変なことになっておりますが、今はある人によれば「第3の革命」、環境革命じゃないかというふうに言われています。「第3の革命」というのは、第1回目が農業革命、第2回目が産業革命という意味で、第3の革命というふうに言われておるわけです。ホモ・サピエンスの我々にとっての3回の革命ですが、今回の「料理の人類学」は、その前に「料理の革命」があったんじゃないかという考え方からスタートしております。
 第1回の「料理の革命」というのは、およそ200万年前のホモ・ハビリスとかホモ・エレクトス、私たちの先祖が火を使って料理をはじめたというところから、私たち人類の進化ははじまっているんじゃないか、そういう観点で「料理の人類学」を注目いたしました。それは200年前、料理というのは内的にあったものを外化してはじめたという、他の生き物にはない行為を人類ははじめたわけです。それによって脳が大きくなり、二足歩行をやり、今日まで進化してきた。
 こういうことからすればですね、今も進化の途中であって、おそらく料理が私たち暮らしを動かしているOSなんじゃないかと。そういう観点で料理自体を研究するのではなくて、料理から見た社会というか、「料理のメガネ」を発明しようと。「料理のメガネ」というのは、チャールズ・ダーウィンが進化の概念を作ったように、「進化のメガネ」に対して「料理のメガネ」というふうに呼んでいます(笑)。そういう俯瞰したモノの見方で考えていこうと。今日はそういう意味で、コロナウイルスの騒動の真っ只中ではありますが、宮台さんのご提案いただいている「料理から見る逆説」というのはとても大きなテーマで、今の私たちの現実を考える意味でも大きなところに触れるテーマなんじゃないかなというふうに考えております。それでは鶴田さん、よろしくお願いします。

鶴田想人(以下、鶴田): よろしくお願いします。今日の担当をさせていただく鶴田と申します。僕は東京大学で科学史の修士課程の学生なんですけども、去年の8月からDarwinRoomで「料理の人類学」というイベントに参加してきました。今日は宮台真司さんをお迎えしてお話を伺うんですが、以前、宮台さんには3月28日に「料理の人類学」の第7回を、はじめてオンラインで開催した際にご参加いただいて、そこで本質的な、クリティカルなコメントをいただいたので、それを文字起こししたものを今回、配布テキストという形で配らせていただきました。このテキストを読んだ方、どれくらいいるかお伺いしたいのですが。

宮台真司(以下、宮台):■これは前回の長い質問をブラッシュアップして、皆さんにお見せしたということですよね。

鶴田: はい。一応今日は、これを前提にということなんですが、この話も簡単に振り返っていただきながら、この先を話していただくことなので、よろしくお願いします。今日は前半で僕から質問させていただいて、後半には皆さんからの質問コメントに対して、宮台さんからお話をいただきたいと思います。
 その前に、もう少し僕のほうから、これまでの流れをご説明させていただきます。これまで実際にゲストとしては、たとえば関野吉晴さんという文化人類学者・探検家の方に「ヤノマミ族」という、我々とは正反対の暮らしをしている人たちの暮らしのあり方、料理のあり方のお話。あるいはホモ・サピエンスの起源から現在までの料理以前の料理の話を伺ったりだとか。一方で石川伸一さんという、分子調理学の専門家の方をお招きして、料理とテクノロジーが掛け合わされることで、今後どのような料理を我々は食べていくのかという、そういうお話をしていただきました。その中で、長期的なスパンで、人類の誕生からその先まで、見通してきたわけなんですけども。今回宮台さんには、もう少し我々の時代に近接したお話、質問をしたいと思います。
 まず、これまでの探求は長期的スパンだったので、上手に扱えてなかった部分というのが「料理・食の産業化」の部分だったんですね。料理や食が産業化する中で、我々が火を囲むようにして、料理を中心として最初に発展してきたホモ・サピエンスというのが、いつしか料理を中心から周縁に追いやって、料理を周縁化して、かつ周縁化した料理すら自分でしなくなったと。できあがった製品を食べるようになっていった。そういう歴史を少しクローズアップして見てみたいと思っていたところに、宮台さんの(前回の)問いかけがありました。
 この中に「システム化」という言葉があって、その前提として「料理は技術である」というお考えがあるかと思うんですけども。この「料理が技術である」ということが引き起こすシステム化の逆説というか、それについて、もう一度お話いただきたいと思います。

【準備1: 技芸からテクノロジーへ:社会に閉じ込められる】

宮台:■鶴田さんありがとうございます。ざっくり言うと、僕らは便利で負担のないものを求めるんです。どうせある場所に行くんだったら、特に理由がない場合は近道をしようとするわけですよ。これはゲノム的な基盤に基づきます。近道しないと獲物をたくさん捕れなくて、生き残り競争に負けるといった事実があったということですね。だから便利で快適なもの、負担が少ないものを求めて技術が進化してきたわけです。それが、負担免除――負担を我々から取り除いてくれるもの――が技術だというハイデッガーの理解です。
■ここから先、ここにいらっしゃる方はハイデッガー[ドイツの哲学者]に詳しくないという前提でハイデッガーのことを出さずに言うと(笑)、技術って、たとえば僕ならば武術とか楽器演奏とかも、技術なんです。ただ、これはテクニックというふうに言えるようなもので、それを特に指す時は「技芸」とか「芸事」と訳してもいいでしょう。弓矢をうまく使えるとか、人をうまく組織して集団でマンモスを狩れるとか、これらも負担免除という意味での、技芸的な技術です。注意してほしいのは、ここでは僕らが主体であることです。別の言葉で言うと、僕らが僕らのために技術を使っているのは自明なことだ、と体験しているんです。
■ところが、技術は、最初は技芸や芸事だったものが、やがて一部がテクノロジーに進化していきます。これは社会学の重要な主題だけれど、テクノロジーの進化は社会の分業体制の進化と表裏一体なんですね。テクノロジーと分業の進展は「鷄・卵問題」です。その結果どうなるかを考えてみてください。皆さんお分かりのように、分業体制そのものが、自分で全部はやらないで他に任せるものですね(笑)。国際分業体制を正当化したリカード[イギリスの経済学者]の比較優位説を見れば分かります。「自分たちは自分たちが得意なものを作ればいい、他は国際貿易で他に売って、他から必要なものを買おう」と。これも、国際貿易が回っているという事実に、依存できることを、前提にしているわけです。ちなみに「テック」という場合はハイテクノロジーを指しますが、今回は立ち入りません。
■まとめると、技術の「技芸からテクノロジーへ」という流れは、負担免除の複雑化というだけじゃなく、「依存化」なんです。ぶっちゃけ「自分だけでは立てない状態になっていく方向」ですね。これは必然的な流れなので、方向を間違ったわけじゃありません。まず、こうした分業化とテクノロジー化が一体になった結果としての依存化を「システム化」と呼んでいます。だから、システム化とは、今お話しした国際分業体制に象徴されるような、あるいは、デュルケーム[フランスの社会学者]という人が言った「有機的連帯」に象徴されるような、複雑な全体性の中で自分がまさにparticipantとして――分業体制の分掌に参加する形で──生きるようになることです。だから、システム化とは依存化なんです。
■「システム化」の英語はsystemizationなんですけれど、ある段階から敷居=thresholdを超えて、「汎システム化pan-systemization」という主客が逆転した状態になります。主客逆転って難しいように聞こえるかもしれないけれど、簡単な事実です。最初、人間は、自分が便利で快適になるために、入れ替え可能な道具としてシステムを使いますが、やがて、人間のほうが、システムにとっての道具になります。僕らの側が自己維持的な当体bodyなのではなく、システムの側が自己維持的な当体になっていくわけですね。これも、どこかで道を間違えたのではありません。システムが複雑化していけば、やがて起こらざるを得ない体験です。
■その結果、残念だけれど、pan-systemizationによってあらゆる領域で例外なく不透明性が増大して、僕らは尊厳を失いがちになります。鶴田さんに読んでいただいた『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という本も、pan-systemizationによる不透明化を、犯罪や消費や宗教やサブカルチャーなど、いろんな分野に則して事細かに記述したものです。僕らはもう国際分業体制がどうなっているのか知らない。国際分業サプライチェーンの末端がコンビニですが、なぜコンビニのレジでお金を払うと弁当が食べられるのか知らない。弁当の食材たちがどんなふうに僕らの手元までくるのか知らない。pan-systemizationとは、システムへの過剰依存ゆえに、僕らが世界や社会が分からなくなった状態に相当します。それが先ほどの「僕らが便利になるためにシステムを使っていたのが、いつのまにか自分たちの意思に関わらずシステムに使われる状態になる」です。
■これは、マックス・ウェーバー[ドイツの政治学者]が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』──「プロ倫」──などに、資本主義や行政官僚制の特徴としてすでに書いていることです。「我々が、宗教的に形成された資本主義の精神によって、資本主義を営みはじめた時期とは違って、資本主義が一旦回るようになると、資本主義からこぼれ落ちると生きていけないから、資本主義の精神があるかないかに関係なく、過剰な損を被らないように否が応でも資本主義に参加していくのだ」と。官僚制について書かれた数多の論文は、人事と予算の動物である官僚を「没人格」──いわばボット──として記述していますが、同じ没人格化が資本主義においても生じるというわけです。
■再確認すると、全ての人間が、入れ替え可能なボットとして、システムに使われるようになる、というpan-systemizationの概念的なコアは、「ウェーバーの予想」としてに語られていることです。そうなってくると、ウェーバーも想定していなかった次の段階が生じます。僕らが負担免除――コストダウンとかですが――を狙ってシステムを使っていたところが、今度はシステムにとって人間がコストになるんですよね。人間って面倒くさいじゃないですか。食わせなきゃいけないし、ご機嫌を取らなきゃいけない。そんな人間を労働力として使うよりも、マシンに置き換えたほうが便利でしょう。そういうふうに20世紀前半には社会学者が「フォード化」と呼ぶオートメーション化が進んだわけですね。
■今、システムが人間をコストと見ているだけでなく、僕ら自身が人間をコストだと思っています。たとえば、消費においては、お店で店員と話したり交渉することを面倒くさがるようになっています。性愛においては、生身の女を相手にすることを面倒くさがって、ヴァーチャルに向かっています。「無人レジのほうがいい」「ゲーム・キャラのほうがいい」という感受性が拡がりつつあります。人間をコストだと感じる人間自体が、システムから見るとコストとしてカウントされている皮肉な状態です。このことが、僕が、料理だけじゃなく、ポップカルチャーとかいろんなものを論じる時の前提になっています。
■前回、鶴田さんにお話したのは、日本でpan-systemizationが顕著になるのが1980年代だということ。セブンイレブンのようなコンビニが大爆発しました。コンビニでは顕名性と「善意&内発性」が支配する地元商店と違い、匿名性と「マニュアル&役割」が支配します。その出発点が70年代から世界に拡がったマクドナルドのようなファストフード。調理師が技芸を使って料理を作るのではない。マニュアル通りに調理器具を操作する役割をしたり、接客する役割をしたりします。変わらずにどーんと存在するのはマシナリー(マシンの集合体)で、簡単なマニュアルをこなせれば人間は「誰でもいい」。技芸がテクノロジーに変わったんです。だから各国で「ミミズ肉伝説」と呼ばれる都市伝説が拡がりました。日本だけがなぜか「猫肉伝説」。マクドナルド関係者がいらしたら、そういう都市伝説があったという事実を話しているだけなので、気を悪くしないで下さい(笑)。
■人々にとって得体のしれないものが拡がると、都市伝説が生まれます。1800年前後のロンドンで、人々は初めて知らない人に作ってもらった料理をお店で食べるようになり、初めて知らない人に喉をさらしてヒゲをカミソリで剃ってもらうようになりました。それって今までありえない「得体のしれないこと」だったので、スウィーニー・トッド伝説が生まれます。繰り返し芝居が打たれ、映画にもなってますよね。スウィーニートッドの床屋でヒゲを剃ってもらっていると、店主に頸動脈をスパッと切られる。店主がペダルを踏むと椅子がどんでん返しになり、滑り台で死体が裏隣りのミートパイ屋の地下に送られる。そこで死体がミンチにされて…という話。モータリゼーションが幕を開けた20世紀初等のアメリカでは、『13日の金曜日』の元になった都市伝説が拡がります。車の中で男と女がイチャイチャしてると、ぬっと怪物ジェイソンが現れる…という話。1985年に世界初の出会い系であるテレクラが出てきた時にも、女が待ち合わせた白い車に乗ると…という都市伝説が日本全国に拡がります。これら全てが匿名化に関わる都市伝説です。
■マクドナルドの都市伝説は少し違ってて、匿名化が自明になっていた時代の、新たなシステム化に関わります。マクドナルドは歩行者天国のハレ=非日常でしたが、それがコンビニになると近所のケ=日常になります。つまり、1970年代に種が蒔かれたpan-systemizationが、1980年代半ばに花を開きます。コンビニ弁当が男女共同参画が可能になる一方で、共食の時間が減って家族が空洞化したことを、前回に話しました。コンビニ化と並行して、ワンルーム・マンションに象徴される単身世帯化も進んで、地域の空洞化に拍車がかかりました。男女共同参画にみられるように、ミクロには僕らの選択肢が増えて主観的には自由になったと感じます。でも、マクロで見るとシステムに依存しないと生きていけない状態が拡がっています。客観的にみると「依存しないこと」はもう選べないんですよね。これが「システムに使われていて、使われないことを選べない状態」です。
■さて、ファストフードの料理も、ファミレスの料理も、最終段階を除いては、すべてが工場で作られています。マクドナルドのハンバーガーもそう。ファミレスのビーフステーキ(といっても多くが工場で圧着したコミートステーキ)もそう。だからロイヤルホストがファミレスと呼ばれることを嫌がるでしょ?「ふざけるな、我々の店には工場で作っているものはないから――本当は全くないわけはないんだが、まぁ一応――ファミレスではなくてレストランなのだ」と。ファミリーレストランもレストランなんだけど(笑)。まぁいいや、そういう流れが生じてきているわけですね。
■つまり、今の話の中にも含まれているけれど、冒頭に清水さんがおっしゃったように、最初の料理はdigestion(消化)の外部化として始まったもので、しかも技芸techniqueに関わるものとしてありました。間をすっとばして、重化学工業化以降でいうと、20世紀半ばからは「家庭料理」という形で専業主婦が作るわけだけど、当たり前でもなんでもなくて、専業主婦が作るだけの余裕がある、あるいは、専業主婦が作らざるを得ないという社会構造があったので、「家庭料理」というものが存在し、いろんなものが「家庭料理」に流れ込んでいきます。たとえば、家庭料理に日本料理の伝統をどう活かせばいいのかという土井勝から善晴[料理研究家]に受け継がれた問題設定が出てきたりとかしたんですね。
■僕の母親は結婚する前に、土井勝の料理教室に通っていて、通った時の大学ノートが5冊あるんですよ。すごく事細かに書いてあってビックリしたのを覚えています。僕は昭和34年(1959年)生まれの長男だけど、昭和30年代に入ると、あるいは1950年代後半になると「お袋の味」とは違う「家庭料理というもの」が開発されたことが分かります。この「家庭料理」という新しいジャンルに、日本料理や西洋料理をどうやって落とし込むかということに、土井勝が本当に力を尽くしていたのだと、母のノートを見るだけでヒシヒシと分かるんです。なぜこの話をするか分かりますか。ノート5冊分のノウハウを習得して技芸techniqueとしての料理を作るなんて、いま考えられないからです。ちなみに母がノートを見て作っている姿を見たことはありません。すべて技芸として習得していました。
■さて、久保明教さんの『「家庭料理」という戦場』で描かれているのが、「小林カツ代[料理研究家]」対「栗原はるみ[料理研究家]」っていう対立なんですね。それは、いま申し上げたような「5冊の大学ノートを習得して自在に家庭料理を作る」なんてことができなくなった時に、2つの方向がでてきたってことです。1つは「家庭料理」をより簡略化する方向。小林カツ代の「時短」です。もう1つは「家庭料理」ってカテゴリーをやめる方向。これは栗原はるみの「レストランの味を手軽に」です。僕らの社会の分業体制が変化したことで、技芸としての料理の余地が狭められてきたことの結果です。このことからお分かりのように、技芸としての料理から、テクノロジカルなプロダクツとしての料理へという流れが、はっきり見てとれます。
■昔と違って、グルメ番組はたくさんあるけれど、基本は「どこに行けば美味しいものが食べられるか」という話と、「家庭料理にこだわらないで、美味しいものを食べたい時にどうしよう」という話だけになっているでしょ? 何度も言うけれど、これらは僕らの選択じゃないんですね。「選択して、美味しいところに食べにいく」とか「選択して、美味しいものを食べたい時にこうする」とか思っているけれど、そう思うしかないように、ハイデッガー的に言うと「駆り立てられてGe-stellt」いるだけなんですよね
■この間、第8回で鶴田さんたちに質問させていただいたのは、そういう意味で「料理の勝利は明るくないんじゃないか」ということです。そもそも人間自体がコストとしてカウントされつつあるような状況では、当たり前だけれど「料理を作らなきゃいけない人間」どころか「料理を食べなきゃいけない人間」も、システムから見ればコストなんですよ。ときどき食材を消費してくれるって意味では必要だったりもするけど、マクロに言えば産業構造を変えちゃえば、別に食材を消費してもらう必要はないんでね。ということで、前回の僕のコメントは「僕らは料理を必要としなくなっていくだろう」ということでした。
■そして、これから「人間モドキ」が確実に出て来ます。人間によく似た、人間よりも人間的な、AIとかゲノム改造哺乳類とかです。これらの登場はもはや時間の問題です。彼らには、エネルギーは必要だけど、人間が食べるような料理は必要ない。消化もそうですけれど、燃焼とは違うゆっくりとした酸化によってエネルギーを取り出せればいいだけです。だから、まさにアニメ『攻殻機動隊』(1995年)問題が出てくるわけです。「人間モドキ」が、人間に合わせて、時々ご飯を食べてあげるとか、一緒にお酒を飲んであげるとか。「面倒くせえな」とか思いながらね。ということで、僕のような社会学者から見ると、最終的に料理の話そのものよりも、料理を通して見えてくる変化が重大です。
■具体的には、僕らがどんなふうに断片化され解体されて没人格化しつつあるのか、あるいは、してしまったのか。僕らがどれほど自分を選択できない存在になりつつあるのか、あるいはなってしまったのか。思えば、社会の各所が「金太郎飴」みたいに同じ方向に変容しています。たとえば民主政。「民主主義のもとで僕らはいろいろな政策を討議を通じて選択できます」っていうんだけど、ジョナサン・ハイトがいうように、大規模に資源投入して人々の5つか6つの「感情の押しボタン」を押しさえすれば、ほぼ確実に「人々の選択」を誘導できるんですね。という次第で、「僕らに選択ができるようで、実は選択の余地がない」という事態を徹底的に利用したpan-systemizationが進んでいるのだという話をさせていただきました。

【準備2: 台所からキッチンへ:倫理基盤の空洞化と無効な処方箋】

鶴田: ありがとうございます。そうすると、食の産業化とか料理の産業化っていうふうに、「産業化」って言葉を使うと「産業革命」を連想させて、そうすると18~19世紀に遡る現象のような気がしますけれども、それが先ほど申し上げた、自分たちが食を作らなくなって、完全に外注するようになったという産業化っていうのは、80年代以降、コンビニ化・ファミレス化の現象というふうに言えるってことですね。

宮台:■はい。料理に限ると、「技芸からテクノロジーへ」という流れと、それが必然的にもたらさざるを得ないpan-systemizationが、1980年代半ば以降に急進展したということになると思うんですよね。楽器演奏みたいなものも確かに技芸として残されてはいるものの、プロを除けば、所詮は娯楽ですよね。それに比べると料理は、少なくとも僕にとっては、最後に残された「生きるために必要と結びついた技芸」っていう感じがしていました。とはいえ、それがすごく微妙になりつつあるということなんです
■昔は男が料理をすると「へぇ~すごいじゃん」って言われた。「暇なんだね」という意味も含めてね(笑)。いまは女だって、毎日わざわざ料理作っているって言ったら、やっぱり「へぇ〜すごいじゃん」ですよ。やっぱり「暇なんだね」って意味が含まれている。ある種レクリエーションとしての料理になっているわけ。実際、僕らが自分の身体性を使って技芸や芸事を現実化して、自分を取り戻したような感じになれるのは、料理ぐらいでしょ? 楽器や武術はすごく修練がいるからね。つまり、料理は、生きるために必要な技芸じゃ、なくなったんです。残ったのは「へぇ〜すごいじゃん」。だって、久保明教さんの本を読んで、「へぇ〜久保さん、料理するんだ、すごいじゃん」って思わなかった?
■システム理論的な言い方をすると、そこに残った共同体や生活世界は、残ったように見えて、システムが「そのぐらいのコストだったら人畜無害なので残してやろうか」みたいな感じで残してくれているものになっている。「手つかずの自然」と同じです。「開発するの面倒なんで手をつけないでおいてやろうか」っていう。そうした、システムによる「不作為omissionという作為commission」の場所として存在するだけになったものが、昨今の料理であって、いまやそれすら消えつつあるというのが、現状だと思っているんです。「家庭料理」だって本質的には同じことですが、今は「消えつつある」というのがポイントなんですよ。

鶴田: 「料理の人類学」では料理を通して人類社会を把握し返すとともに、ある種の共同性の回復というか、宮台さんの言葉で言うと「生活世界」の復権みたいなものにつなげていけないかと。それを、料理を考察することでできないかという探求をしているんですね。たぶんそれは、身体性。料理をするには身体を使い、かつ完全に自然とは言えないまでも、野菜とか生の素材に触れる。そこで一種の野生性みたいなものというのが、料理をするたびに立ち現れる。そういったことを通して、社会変革を考えられないかっていうのが根底にあって。もともと清水さんがおっしゃっていたことなんですけど、料理って普通は作られた食べ物のことを意識しますけども、そうじゃなくて我々が「料理する」ということを名詞ではなく動詞で捉えることで、料理ってことが昔からある、一種の共同行為のようなものの名残り――今は一人ですることが多いけども、もともとは狩りをする人、それをみんなで解体する。共同的な、祝祭的なイベントだったりする――そういった名残りが人間の中にあるはずだと。だからそれを梃子にしてひっくり返せないかっていうコンセプトがあります。そういうことに関して宮台さんに少し、批判をいただきたんですが(笑)。

宮台:■そうですね。批判という以前に、これ(料理を通じた共同行為の回復)はすごく難しいプロジェクトなんですよ。僕の経験談から始めます。実は、小学校1年生のときから日曜の昼ごはんは、家族4人分、僕が作るってことになってました。作るって言っても、インスタントラーメンとか、野菜炒めとか、その程度のもの。時々、1年生なのに餃子を作ったりしてハシャいだんですけれど(笑)。餃子の皮をちゃんと結ぶって、「大阪王将」や「餃子の王将」じゃなくても技芸・芸事でしたので、「これは僕が作った餃子だよー!」って家族に自慢してたし、お客さんが来た時に「僕が作った餃子だよー!」って出してた。それもあって、僕は小さい頃から料理番組を見るのが好きでした。
■グラハム・カーの「世界の料理ショー」が小学校高学年くらいから放映されます。時代としては1960年代後半くらいから。よく見ていたんだけど、超~~~違和感があった。まずジューサー、ミキサー、チョッパー、ミル、そういう機械を使いまくる。「え~!?」っていう感じ。僕らが箸1本で済ませるのに、欧米人はナイフ、フォーク、スプーンを使い分けるのに似てる。僕らは包丁1本でやっているのに、「じゃがいもには皮むき器を」「トマトのヘタを取るときはこの特殊ナイフを」とか。「え~!? それって卑怯じゃん!」みたいな。「皮むき器使うの!? 皮は技芸を使ってむくんだよ!」みたいな。この違和感、分かりますか。「皮むき、散々練習したのに、ズルいよー」みたいな感じ。
■その頃から、実は始まっていたわけ。技芸の場だった「台所」に、テクノロジーが入って「キッチン」になるという。もうそれだけで「家庭料理」じゃないよ。だから「世界の料理ショー」は最後は観客を二人テーブルに招いてパーティーになる。結局パーティー料理を作っているわけね。パーティーは祝祭です。「仕込みはできるだけ機械を使って楽して、パーティを楽しんじゃおうね」ってコンセプトだった。「台所にそんな機械ないしなぁ…」って違和感を抱いてるうちに、違和感を忘れて、気がついたらジューサー、ミキサー、チョッパー、ミルがいっぱいあって、皮むき器もある「キッチン」で料理を作るようになっていた。
■また同じ問いだけど、僕らはそれに抗えたのか。抗えないよね。昔は「まず、林檎の皮を、次に、じゃがいもの皮を、むく練習をしましょう」だったのが、今は「皮をむくのは危ないから、皮むき器を使いましょう」ってね。この間話したように、1980年代からは「安心・安全・便利・快適」のクズ系の人たちがどんどん増えてきちゃったんで(笑)。でも、僕らの小さい頃からも、既に「鉛筆を削るのは鉛筆削りを使え、ナイフを使うのは危ないから」っていうのがあった。僕の親父なんか昭和一桁だったから「鉛筆くらいナイフで削れなくて、なにができるってんだ!」って言ってた。最後の身体性の固執が、ナイフで鉛筆を削ることだったっていうね(笑)。それも気がついたら全部なくなっている。
■そういう流れの中で、料理を通じた自己回復って「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」みたいなところがあって、非常に難しい課題だと思う。とすれば、僕らが考えるべきことは、「なんで、今の自分には、こんなに難しくなっているんだろう」あるいは「なんでこれだけ僕らが、技芸を失って、テックシステムにべったり依存してるんだろう」っていうことじゃないか、という思いがすごくしますね。だから鶴田さんのおっしゃる批判というよりも、技芸を失った自分について「ちょっと違和感があるな」って感じるみんなが、どうしたらいいか知恵を出し合わないと、ちょっと一人で解決できる問題じゃない。一人で何かできても、さっきの「暇だからやってるんだね」って言われるのと同じになる。そう言われないような状況をもたらすには、圧倒的にマクロの問題として問題を考えなきゃ。
■問題をマクロに考えるのに役立つ本として、最近だったら、といっても、もう15年くらい前になるけど、藤原辰史さん[農業史研究者]の『ナチス・ドイツの有機農業』っていう本がある。ナチスとシュタイナーの違いや関係について描き出した素晴らしい本です。でも、皆さんは読まないほうがいいかも。あまりにも情報が多すぎて、なにを読んでいるのか分からなくなってしまう可能性があります(笑)。

鶴田:ふふふふふ(笑)。

宮台:■余程ナチスが好きな人向きです。僕はナチス大好きだけど。大好きって誤解しないでくださいね。学問的な興味の対象として昔からいろいろ書いてきてるし、映画批評家としてもナチスを描いた映画に批判的に言及してきてる。だいたいがナチスを極悪として描く勧善懲悪でしょ。僕は「違うんじゃないの?」って注目してきた。これは戦後直後のフランクフルト学派が言ってたけど、「気が狂ったヤツ、まともに頭が働かないヤツが、ナチスになったんだ」という考え方じゃ太刀打ちできない。そうじゃなく、ナチスの最大の問題は「過剰な理性主義」「過剰な合理主義」にあったんだっていうね。
■フランクフルト学派は、フロイトの神経症概念をベースに社会を分析したので「フロイト左派」とも呼ばれるけど、ナチスに迫害されてアメリカに亡命したユダヤ人たちです。今の若い人は、こういう古いフロイト系やマルクス系の議論を知らないので、藤原辰史さんの本を読むと、「え!? ナチスと有機農業? エコロジーってナチスがルーツなの?」とびっくりしちゃうかも。ただ、正確に言うと、ナチスがルーツっていうよりも、ナチスにも見られるゲルマン的な「森の哲学」がルーツなんですね。そう言えば、みんながびっくりするほど不思議な話ではない。。
■昨年、映画批評ラボで、シーロ・ゲーラっていう先住民の血が入った中南米コロンビア出身の監督の『グリーン・フロンティア』っていうNetflix作品を論じた時に、その話はしましたね。「絶対に近代に汚染されないぞ」っていう原理主義的な先住民部族が、なぜかナチス残党をボスにしている。ボスがなぜナチスなのか。若い人は、みんなすごく驚くわけね。「これって思いつきにしても、突拍子もないな」と。そうじゃない。中南米にたくさんのナチスが逃げたってこともあるけど、ゲルマンの「森の哲学」を体現したナチスがエコロジーのルーツだってことも知らないの?っていうね。エコロジーをただの「自然は大切」という思想だと思っている人は、このことは知っている義務がある。ドイツの「緑の党」だって、80年前後まではナチスに連なろうとする右翼政党だった。
■右翼時代の「緑の党」の思想を「ディープ・エコロジー」つまり「深いエコロジー」と言って、これが事実上──というのは言葉自体は同じゲルマン民族であるノルウェーの哲学者が使い始めたものだから──ゲルマン自然信仰をルーツにしたナチスをさらにルーツにしていたわけです。だからドイツでは1980年代までエコロジーを語ることがタブーだった。「エコロジーってナチスの思想でしょ」と言われたからね。5年前に出した『まちづくりの哲学」に書いたけど、実際ディープ・エコロジストの中には、「地球生命圈を生態系として維持するには、人類が6億人まで減る必要があり、そのためには、核戦争でミサイル撃ち合って人類がほぼ全滅するのがいい」みたいに言うヤツがゴロゴロしていた。
■そんな中で、こうしたドイツ的な状況に抗いながら、注目すべき仕事をしたのが、ベアード・キャリコットという環境倫理学者。アメリカの人で、ネイティブ・アメリカンやインディアンの研究もたくさんやってた人なんだけれども。皆さん、僕の『まちづくりの哲学』って本を読んでいただくと書いてあったと思うんだけど、僕の学問遍歴の中ではすごく大事な意味を持っている。彼はマイケル・サンデルにも大きな影響を与えた。80年代にこういう図式を出しているんです。生き物を守るべき理由は何か。シンガーみたいな功利論と、レーガンみたいな規範論の立場がある。功利論は最大多数の最大幸福。快不快をカウントしてあげる対象を人間に限ろうが限るまいが、多数者の御都合主義になる。義務論は、たとえば動物に限っても、何を人倫の対象に含めるかで、人間の御都合主義になる。共通して人間中心主義がアポリア(細道)である。アポリアを抜ける唯一の方法が、全体論だというんですね。
■要は、場こそが1つの「生き物としての全体性」だと言う。ただし人間よりもどんな生き物よりもライフスパン(寿命)が長い。だから人間のスパンが短い人間の都合でずたずたにされる。でも場の「生き物としての全体性」が損なわれると、人間の尊厳も損なわれる。なぜなら、人間の尊厳は、1つの生き物としての場に結びついているからだ、と。生き物としての場には、人間や動植物だけじゃなく、岩や山や川や海も含まれている。そして、場を1つの生き物として捉える力は、共同体が与える共通感覚と結びついている。彼は自分の議論を京都学派から得たとしているけど、本体の多くはナチスの生態系平等主義から得ているのは明らかです。唯一の違いは「無生物を含めた生態系の全体が、人間の尊厳を与えている」という主張です。つまり、「最後は人間の尊厳に資するかどうかが大事だ」って話になる。
■これって唐突です。僕の尊厳に生態系は関係ないという人だらけであれば通用しない。藤原辰史さんだと、「やっぱり排除はいけない」って結論になる。これも唐突すぎて、全く処方箋にならない。僕らの企画に引きつけていえば、人間がコストとしてカウントされるだけになっていく脱料理化の流れに抗うって段になって、「やっぱ人間が主人公だよね」とか「システム依存も程々がいいよね」と言うのも、全く処方箋にならない。なぜなら、単に結論の先取りだからです。だって、「排除はいけない」とか「人間が主人公だ」とか「過剰なシステム依存はダメだ」という倫理に到達するために、どんな道筋があるかを、僕らは問うているんだからね。その辺の困難が、「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」「いまさら料理を作るの?」という問いに答える困難のコアになります。
■「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」みたいな批判をしばしば僕がするのは、御存知の通り。でも「過剰に楽天的だなあ」って思うでしょ? そんな話は散々言われてきたし、そんな処方箋モドキが全く役立たないってことは僕らはすでに知っているよね。僕が「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」という趣旨の批判をする時には、「感情が劣化したクズ人間」とか「僕らが社会に閉じ込められたままになるようなクソ社会」といった物言いをするけど、これらは、処方箋としての無効さを承知の上で、「なるほど、そう思う」みたいな感情的シンクロが起こるという「事実性」を当てにしてのこと。つまり、一周した後の戦略なんです。
■さきほどの鶴田さんの投げかけに、答えるのが難しいといったのは、なぜか。僕らが「なんかおかしい」って違和感を解消する方向に動くとして、「どう動けばいいんだろう」って時に「えー、それってまた昔の繰り返しで、無効が証明されてるじゃん」っていうふうにならないことが、すごく難しいということですね。この難問を解くには、「そもそも倫理とは何か」というところに遡らなければいけない。それを、これから語ります。

鶴田: ありがとうございます。かなりお話も、抽象的で難しくなってきていると思うんですけども。今のに関連して、僕らが現状の、食の産業化の状態を「なにかおかしい」と感じると。その処方箋を探すときに、つい家庭料理の時代に戻ってしまう。つまり「家庭料理の時代に回帰すればいい」という、すごく安易なバックをしてしまいがち。でもそういった共同体性は、たとえば専業主婦に過剰な負担が押し付けられるとか……そこに戻ってはいけないという考えもあるわけですね。

【本題1: フュージョンからコントロールへの頽落:共同身体性・共通感覚・共同体的前提】

(以上、前半の2分の1。前半の2分の2に続く)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-07 - 10:43:17
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【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|後編2

(以上後編1、以下後編2)

▶コロナ禍における不確定性が良い宗教にとっての「培養地」でもある

宮台:■僕はね、昔まさに『サイファ 覚醒せよ!』って本でね、「宗教者であれ無宗教者であれ、世界の規定不能性に向き合うことをちゃんと決断できる存在でいてほしい」って書いた。「見たくないものは見ない、見たいものだけを見たい」っていう態度を捨ててほしいんだね。かわりに、「見えないところ」に何があるのか、「自分が見たくなくて見ないところ」に何があるのか、そこで誰が痛みを被っているのか、をちゃんと見る存在でいてほしい。結局みんなは「そこに痛みを被っている人がいるのを気付かなかったよ」でスルーするわけ。それって僕は、倫理的に許せないって思うんです。
■そのことに関連して、田川建三の『イエスという男』が今日届いたんです、これが(と、本を掲げる)。

ダース: あ、バーチャ背景で見えない(笑)。あ、そこなら見えます。

宮台:■見えますか?(笑)田川建三が72年から書きためて81年に出版した『イエスという男』。大学生の時に読んだのに、なぜまたこれを読もうと思ったのか。やっぱり迷いがあるんだよね。その迷いってかなりユニバーサルなものだと思うけれど。さっき、「見たくないものを見るのが倫理だ」って言ったけれど、人間には快・不快の限界があるから、「できないことはできない」。痛みに耐えきれなかったら叫んじゃうのと同じだよね。叫ぶなって言われたって「叫ばないことはできない」でしょ?
■だとしたら、どうしたら「見たくないものを見る」ことができるんだろう? 僕は長らく「見たくないものを見ろ」って言ってきたけれど、言いながら「できないものはできないよな……その場合どうしたらいいんだろう」って考えてきたんだよ。そこで田川建三を思い出した。つまりね、田川建三が想像する「イエスという男」は、そのことについてどう考えていたんだろうって知りたくなった。これは僕のクセで、迷った時に「イエスという男」はどう考えていたんだろうって考えるんです。
■ちなみに、僕の授業では──ダースさんは聞いてらっしゃるけれど──、カール・グスタフ・ユング(スイスの精神科医)が「イエスはグノーシズムの原型的な感受性を持っている」って考えていたことを話してきたよね。グノーシズムと言っても、みなさん解りづらいかもしれない。一言でいうと「神も聖霊も悪魔も含めて、もろもろは、結局は人間が考え出したものだ」ってこと。システム理論の言葉でいえば「もろもろは、心と社会が作り出した内部表現だ」ってこと。これがグノーシズム思想の出発点で、僕は「原グノーシズム」って呼んでいるけれど、イエスは同時代の原グノーシズムに連なっていました。
■人々は一生懸命戒律を守っている。なのに何もいいことがない。悪いことばかり起こる。だから人々は「神はどこにいるんだ!?」って探し回る。挙句は「神なんていないじゃないか!?」って憤慨する。そんな人々に対してイエスは「神はいつもあなたとともにある」って説く。イエスは譬え話の名人です。喩(ゆ)の達人なの。ユングによると、イエスが言いたかったのは、神も天使も悪魔も、あるいは世界にある万物も──ソレが人間だってのも含めて──心と社会が生み出した内部表現だということ。もっと厳密なシステム理論の言葉でいうと、「もろもろは、社会システムと心理システムの作動が、社会システムと心理システムの内側に投影した、ただのビジョンだ」という思考です。
■そのことに気がついたとします。実際、イエスという男は気がついた。とすると、これはヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論と同じで、「全ては内部表現だ」という認識もまた内部表現にならざるを得ない。そのことについてもイエスはちゃんと気がついていた、っていうのがカール・グスタフ・ユングの見立てなのね。この見立てをベースにして、あるいは、この見立てゆえに、イエスという男が、何を考えて、何をしようとしていたのかを、やっぱり知りたいって思ったんだよね。
■いま内部表現の話をしたのは非常に大事でね。Netflixみたいなコンテンツ・プラットフォームが僕らの社会認識どころか世界認識を作りつつあります。「世界は確かにそうなっている」というベンヤミン的なアレゴリー(寓意)でさえ、コンテンツ・プラットフォームでの体験をベースに作られつつある。だから僕が「ウンコのおじさん」として、子供たちの体験をデザインする「体験デザイナー」になれって言う時、いつ何をどんな順番で見せるのかっていうような「コンテンツ体験のデザイン」を含んでる。でも、リアル体験もコンテンツ体験も、全ての体験は、社会を前提に心が作り出した内部表現なんだよね。
■ちなみに、僕の考えでは、そのことを分かりやすく喩的に表象したのが、『攻殻2045』の「シンクポル=思考警察=思考投票」だ。「社会を前提に心が作り出す」というリーズニング(理路)が貫徹しているからね。『攻殻2045』のモチーフの一つでもあるんだが、もろもろが「社会を前提に心が作り出した」内部表現に過ぎないって分かった時、人はその事実にどの程度耐えられるのか。耐えられないとすればどこに限界線があるのか。限界線を越えたらどうなっちゃうのか。それを僕は知りたいわけ。だから今の僕は「イエスという男」に戻ろうとしているんです(笑)。

ダース: いまの、内部表現の、結局投影されたものだっていう……これまた藤子・F・不二雄の話になるんですけれども、藤子・F・不二雄はその違和感を感じた少年のーーちょっとタイトル忘れちゃったんですけどーー短編を描いていて。なんか日常生活を送っているけど、なんか怪しいと。「なんなんだこれは?」というふうに思って、突然、窓からものを投げてみたりとか。突然叫んでみたりすることによって、裂け目がつくれるんじゃないかっていう考えをはじめて、その後周りが「なにを妄想にとらわれているんだ」「ちょっとパニクっちゃって不安なんだね、大変なんだね」っていうふうに言われるけど、「いやなにか違う。これは見せられているものだ」っていうふうに悩んで、それで、内部表現……これは僕らは見せられているに過ぎないんじゃないかっていう疑問をどうにか破ろうと試行錯誤して。
 その短編自体は結局、予期せぬ動きをしたら、シナリオライターみたいな人がいる部屋にポンッて出ちゃったっていう話になるんですけど。これは藤子・F・不二雄はクリエイターなんで、そういう落とし所を用意しているんですけど。でもその部屋が、クリエイターが脚本をつくって世界をつくってましたよっていう部屋が、あるってことは、その部屋がある世界が、もう1個そこにあってっていうことになっていくわけだから。それをイエスは分かっていて、そういうことにずっととらわれるしかない僕らが、どう生きていくのかっていうことを、イエスはどう僕らに伝えてくれていたのかっていうことを想像するっていうのが……。
 いまはコロナを巡るもろもろで、宮台さんの第1回・2回目で具体的な施策とかそういったものとか、僕らがいま生きている社会がやるべきことってレベルでの話っていうはいろいろ聞いてきたんですけれども。そもそも存在している世界自体がどうなっているのか分からないってときの考え方の構えとして言えば……ちょうどこれ100分間お話を伺っているんですけれども、宮台さんが最後に言った、イエスという男っていうところ。
 それはファウンディング・ファーザーズの意思を考えることだったり、まあこれを見ている人はそれぞれ戻れる参照点っていうのがもしかしたらいろいろあるかもしれないんですけれど、そこに戻って、「あのときのあの人だったらこれはどう思うのか」っていう時間軸を想像して、いまに戻ってくるっていう行動を繰り返していく。本来は、宗教はそういった役割をしていたものだよってことも踏まえて。
 でもいまは宗教自体がある種のポピュリズム、大衆的なものに堕してしまって、その機能を失いつつあるのを、宗教自体が分かって、もう1回それを回復する動きになるのかどうかっていうのも、すごく今後見ていく必要があるってことですね。


宮台:■ありがとう。うまくまとめてくれました。少し付け加えると、前回言ったように、新型コロナを巡る社会的な大騒ぎって、ちょっと変なところがある。多くの人は、コロナで苦しむ人や死ぬ人を見ていていない。「〜という事実があるそうです」という情報によって大騒動が引き起こされているわけ。むろんメディカル(医療)関係者は、目の前でそれらを目撃し、自らの死の危険に瀕しながら、命を賭して治療行為を行っていらっしゃる。とはいえ、多くの人にとっては、それさえ「医療従事者には〜という事実があるそうです」という情報に過ぎないの。
■ってことは、僕らがテレビを通じて「感染者数は……」「検査数は……」「各国は……」「政府は……」って思ってるけれど、全部情報じゃんね。情報だから、社会を通じて──たとえば無能なディレクターやコメンテーターによって──加工されているし、情報を受け取った各人のヘタレぶりによって──たとえば「安心厨」的に──加工されている。つまり社会システムと心理システムによって体験加工されている。ウイルスが見えないだけじゃなく、ウイルスに感染して苦しむ人も見えないし、それに命をかけて対処している人も見えないんだ。それを思うと不思議な営みだよ。
■だからこそ、そうした逆説的事情に薄々勘づいた、不安であたふたするヘタレが、そのヘタレな心ゆえに「いや、コロナウィルスなんて、本当は居ねえんだよ」って(笑)極端なポスト・トゥルース方向に向かうことだって、本来できるんだよね。実際、アメリカのアンチ・ロックダウン運動にはそうしたところがあるでしょ? そうしたところから世に言う「陰謀論」が蔓延していくわけさ。じゃあ、そこで問われているものは何か。陰謀論に与しちゃいけない理由は何か。そこでも、やっぱり「倫理」が問われているわけですね。
■何が本当の世界なのか。あらゆる全体が本当はどうなっているのか。合理性を理性的に突き詰めると分からなくなる。だって、エビデンスないどころか、それが本当らしいと思える材料さえ見ていない。でも、そのことに気付いたとしても、僕たちの多くは「コロナ・ウィルスなんて存在しない」っていう前提では振る舞えない。思えば、同じことが、コロナ禍みたいな非常事態に限らず、普段の日常をも貫徹しているのね。地球が太陽の周りを回っているとか、水分子は水素原子2つと酸素原子1つから成るとか。全部「人がそれを事実だと前提にしているから、自分にとっても事実だ」というふうに体験加工されている。
■合理的理路を突き詰めた時に現れてくる、この不確定性──規定不能性──こそが、僕は「良い宗教」にとっての培養地になると思ってきた。たとえば福音書は、「全ては内部表現に過ぎない」という事実に気付いてしまったイエスという男が、にもかかわらず、というか、だからこそ、人々のどうしようもない「痛み」に寄り添うという決断をしたことを伝えている。冒頭に話したように、痛みには、神経システムが作り出す誰にも避けがたい内部表現から、合理的な理路を突き詰める営みだけが作り出す規定不能性という内部表現まで、広くが含まれる。イエスは全ての痛みに寄り添うことを決めている。なぜなのか。
■それを知りたかった僕は、ずっと旧約や新約を読んできた。それでも、確たることは言えない。でも、それが肝腎なんだよ。確たることは言えないものの、「かつてイエスという男がいて、こういうふうに生きた、ああいうふうに言った」という「事実」を知ることで、「なるほど、だったら、僕もそういうふうに生きよう、そういうふうに言おう」って思えるのね。それがミメーシス(感染的摸倣)ということなんだ。ミメーシスは能動じゃなくて、コンヴァージョン(回心)がそうであるように、不意に襲われる受動だ。でも、求める者にだけが襲われるという能動の契機もある。こういう能動的受動は出産によく似ている。僕のゼミで長く問題にしてきたように、それを「中動態」というんだ。
■翻ってみれば、ユダヤ教にもキリスト教にも仏教にもイスラム教にも、いま言ったのと同じ契機が「丸ごと」含まれている。ユニバーサルに言えば、ロジカルじゃない、散文的なロゴスでは表現できないような「何か」が、すごく大きなものとして感じられて、促しの動機づけを与えてくれるってことがあるでしょ? そのことが「良い宗教」とは何かを暗示してくれている。ドラッグ体験やゲーム体験が与える「痛み止め」の機能にだけ留まるような「凡庸な宗教」との違いを指し示してくれていると思うんだよ。さっきコンテンツと宗教の機能的等価性の話をしたよね。でも、飽くまで凡庸な等価性だった。その意味で、コンテンツにとっても今こそが正念場でね。コンテンツが「良い宗教」とコンペティティブ(競争的・競合的)に争ういいチャンスだよ。宗教にとっても、コンテンツにとっても、深いものが出て来るチャンスだと思っているんですよ。

ダース: 不確定性というものの認識。いまは割と分かりやすく不確定だっていうのを体験できている、結構珍しい時期にきていて、「あれこれってよく分かんないじゃん。誰も分かってないじゃん」っていうことを分かることができるっていう状況なので(笑)。
 今回まとめると、そんな中で僕が最初にちょっと想像していた、コロナによって生まれる新興宗教的なあり方っていうのが、いまの宮台さんの話と全部ひっくるめて説得力を持つのは、重篤化した患者さんの誰か、つまり実際にそれを体験した、「私はそのときこう生きた。私はそして戻ってきてそのときこういうふうに考えた」っていうことを伝える人っていうのは、一定の説得力がでる。みんな分かんないものに対して不安なんだけど、「私は分かるよ」って人がでてきたときに……ツイッターで「いまコロナにかかってます」ってアカウントが何人か出て、僕も見つけて「あー、こうなんだ」とか見ながら思ったんですけど。その人のほうが、なんか分かんないけど知ったように喋っている人よりも、実は説得力あるんじゃないかと思わせるものがあって。で、その人がなんかしらカリスマを身につけて、「私はコロナのギリギリのところまでいって、それを体験して還ってきました」って話をはじめた場合、ある種それが、いまの情報の不確定性に対する回答のようにみんなが思い込む、ネオを見つけた感覚になる可能性っていうのはあると思っていて、それってサイファーになる人たちもいまいっぱいいるけど、モーフィアスになったとしてもそれは、まだその先があるんだよってことも考えなきゃいけないって、宮台さんの話を聞いてて思いました。
 で、第3回の『100分de宮台』もあっという間に100分お話を聞いていて……いまね、1432人。


宮台:■この話題で1400ってすごいね(笑)。

ダース: すごいですね。結構難しい話をしていたと思うんですけども。ちなみに投げ銭もたくさんいただいていました。ツイッターでね、「ダースレイダーは投げ銭を集めるのに必死で宮台のいう損得野郎じゃねえか」というツッコミがあったんですけれども。

宮台:■ふふふ(笑)。生きていくには損得も必要だって繰り返してきてるだろ?

ダース: 僕はあくまでも、この話を聞いて「面白いなあ」と思った人が、それに対して「私はこういった価値を与えます」というのと、僕らが生きている社会上、僕だったり宮台さんだったりがジュースを買いに行くにも、実は先立つものがないとできないっていうのがあったりね(笑)。

宮台:■そう。ちょっとダースさんね。本当に困るなと思うのは、損得勘定はいけないっていう「原理主義」だよ。自分だけじゃない。家族や仲間が生きていくためにも金が必要なんだよ。よく出す例だけど、20年近く前に、あるNPOイベントに出たとき、若い男女が「これからはカネの時代じゃない、思い遣りの時代だ」って尤もらしく壇上から語っていた。違和感を感じた僕は、「何だよ、その二分法は。思い遣りを貫徹するためにも、カネが必要なんだよ、たわけが」とコメントタイムで一蹴した。社会を生きていくって時に、損得勘定と無縁に生きられるヤツは、余程の親の財産でもない限り、あり得ないんだよ。

ダース: 親の財産とかがあるってことは、ある種の損得勘定ベースの、スタート地点が違うってだけの話ですよね。

宮台:■そうなんだよね。だから、そいつだって、いざとなったら、生きなきゃいけないので損得勘定をするわけだ。そんなことは自明すぎて、否定すべくもないんだけど。「カネじゃなくて、思い遣りだ」って「言葉の自動機械」だろうが。意識高い系のクズにありがちだよね(笑)。ウェーバーが言っていたように「カネのために何かをする政治家と、何かをするためにカネを使いまくる政治家は、根本的に違う」。政治家だけじゃなく、ユニバーサルに同じことが言えるよね。僕が言うのは、損得勘定の外側を──そのためにカネを使わざるを得ない何かが「やむにやまれぬ感染源」の結果としてあるかどうかを──意識するべきだってことだ。それが倫理的であるということの本質だよ。

ダース: 僕もその方に言ったのは、損と得っていうのがなにを基準に……お金の数字の基準での損得っていうものだったり、この話を聞いて、「なんかいい気持ちになったな」っていう損得だったり、様々あって、しかもそうじゃないものもあるっていうところから、いろんなことを考える思考がはじまるんじゃないかなっていうふうにお返ししたんですけれども。
 まあそういった意味でも、僕はなんだかんだ宮台さんのゼミに通っているので慣れてきてしまっているんですけど、結構濃厚な話を聞かせていただいたかなと思います。ゴールデンウィークで、前回から間を空けずに登場していただいたんですが、緊急事態宣言も伸びますから、みなさん家にいる時間も増えると思うので、ちょっとまた宮台さんにぜひ、4回目もお願いして、また100分ほどの講義をしていただければと思います。みなさんご視聴ありがとうございました!


宮台:■ありがとうございました。

(終了)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-01 - 13:46:35
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【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|後編1

(以上中編、以下後編1)

▶「痛み」の意味がなくなった世界では宗教が基盤が掘り崩される

宮台:■そこを、冒頭に持ち出した「痛み」という概念を使って、有効にパラフレーズできると思う。たとえば、ゼミでも扱ってきた新反動主義者、なかんずく加速主義者の発想に従えば、こうなる。社会を生きるのが苦しい人たちがいる。昔だったら「再配分しろ」「いやだ」「同じ国民は仲間だろ、革命するぞ」「同じ国民だから仕方ない、再配分しよう」となる(笑)。今はならない。「再配分しろ」「いやだ」「同じ国民は仲間だろ、革命するぞ」「同じ国民は仲間? 知るか? どうでもいいクズに再配分なんかするものか。でも苦しいなら、ラクになれるゲームとドラッグをあげるよ。それでいいだろ?」となる。
■金持ちの言い分を補完すると、昔は国家の外はあんまり見えなかった。だから「みんな平等」と言えば国民の平等のことだった。でも、今は国家の外が見える。だから「みんな平等」と言えば「みんなって誰だよ」ってなる。「国民だよ」「は? イヤだね。俺は本当に痛みを感じている弱者のために財産を使う。豊かな自国のずるい怠け者より、貧しい他国の正直者にね」。実際、私財をメリンダ&ビル・ゲイツ財団に注ぎ込んだゲイツや、そこに財産の9割を寄贈したウォレン・バフェットみたいに、自国アメリカのためより、貧しい他国の弱者のために自分のお金を使いたいと思う有名な金持ちが目立つようになった。僕は全面的に共感できる。
■金持ちの言い分を、もう一つ補完すると、脳科学が進歩して、人々の考え方が変わってきたのもあるよね。さっき話したように、オウム教団は、法悦を、ドラッグと電極でもたらせる脳内環境の問題だと考えた。すると、豊かな生活で幸せになれるように、ゲーミフィケーションがもたらす仮想現実・拡張現実でも、大麻のような安価で無害なドラッグでも幸せになれるじゃないか、となる。そして実際、脳内環境を整えられるのだったら全く問題ないかもっていう発想をする人が貧乏な若者たちにも増えてきた。すると、金持ち寄りの統治権力が「それで痛みは消えるだろ?」と言っても「確かに!」と思うようになった。
■今のトランプ政権が「オピオイド政権」なのが象徴的だよね。アメリカではこの十年でオピオイド中毒がめちゃめちゃ増えた。日本人もタイガー・ウッズの一件や米国トヨタの幹部が日本にオピオイドを持ち込もうとした一件で知ってるよね。オピオイドって人工オピウムのことだ。オピウムは「阿片」と訳されてけど、昔は「痛み止め」として使われた。マルクスが言った「宗教は阿片だ」も「宗教は痛み止めだ」と訳すべきなんだ。「痛みの原因である貧困を取り除かなくても、痛み止めだけで満足しちゃうこと」を批判していたからだよね。今アメリカではラストベルト(錆びた地帯=旧製造業地域)を中心に心身に痛みを抱えた人が大勢いる。だからトランプは大統領選挙で「俺が大統領になったら痛みを止めてやる」と訴えた。実際大統領になると、反中国や排外主義で彼らの溜飲を下げて、痛みを軽くした。そのトランプを「テックによる痛み止め」を推奨する新反動主義者が支持してるって図式(笑)。
■さっきダースさんが言ったのは、「キスできない痛み」とか「ハグできない痛み」とか「一緒にいられない痛み」とかは、昔それらをやっていた人たちが感じるものであって、生まれたときから「キス」や「ハグ」や「一緒に長く過ごす営み」を知らない人たちにとっては「痛み」にならないでしょってこと。すると、これは、さっきニューウェイヴSFの問題設定に仮託して話した、倫理のfactualな(事実的な)基盤としての「それは許せない」っていう感情の共同主観性──みんなが「許せない」という感情を持つとみんなが当てに出来ること──という問題に、直結しているのが分かるよね。だから、痛みを痛みとして継続できなければ、「コアな倫理」を支える基盤が失われてしまうことになる。
■人間関係も選べる。ドラッグも選べる。ゲームも選べる。そうすると、「生きているのがつらい」っていう痛みを感じていたとしても、「私的なつながりが悪いんだよ」「見ているコンテンツが悪いんだよ」「使っているドラッグが悪いんだよ」という話になっちゃう。っていうか、既にそうなってる。これを社会学者たちが「社会の心理学化」って呼んでる。というのは、アンタが痛むのは、痛みを与える社会が悪いというより、心身から痛みを取り除く方法を知らないからだよってことだから。「私的なつながりが悪いんだよ」「見ているコンテンツが悪いんだよ」「使っているドラッグが悪いんだよ」ってのは全部それ。すると、痛み、社会制度の問題というより、ミステイクの問題になっちゃう。

ダース: あ、選択を間違える。「間違ったもん見ちゃった!」「間違ったヤツとSNSでやり取りしちゃった」とか。

宮台:■そう。すると、「この社会を生きる痛み」っていう物言いの意味がなくなるじゃんね。そしたらどうなるか。倫理が消えるんだけれど、その現れとして、宗教の基盤が掘り崩されることになる。宗教は、単なる栄養ドリンクやスタミナドリンクと同じようなものになっちゃう。マンケル・サンデルが言っていたようにコンバージョン(回心)が襲うという受動性が宗教の本質だったのが、宗教が「どんなスピリチュアルを選ぼうかな」っていう能動性、つまり選択の問題になっちゃう可能性がある。だから、宗教とスピリチュアルの違いって、僕の言葉でいえば、全体に関わる「ソーシャル・スタイル」の問題か、個人的な「ライフ・スタイル」の問題か、っていう違い。先のスローフードとロハスの違いに重なりますね。倫理が消えるって、そういうことなんですよ。

ダース: ちょっと元気づけてくれる。オヤジの小言みたいなのがトイレに貼ってありますけど。そういうレベルになってしまう可能性があるってことですよね。
 いま言っていた宮台さんの話って、たとえばNetflixでもAmazonでもなんでもいんですけど、要は予測しながらオススメをしてくるってことがどんどん高度化していって、なんだったらAmazonでもNetflixでも「なんで知ってんの?」っていうレベルどころか、「こんなの面白いの?」って見たらめちゃめちゃ面白いってものすらも提案してくるようになってきていて。これに抗うことって、僕は基本的にはできないと思っていて。「Amazonのオススメなんて一切買わないぞ!」っていうことをやっていった結果、ただひたすら不利益を享受し続けることになるのがもう分かっちゃうわけで(笑)。
 だからこの流れは、横に美味しそうなものが置いてあって、「ほらこれ君、好きでしょ?」ってずっと言われ続けているような環境にこれから生きていくってときに、痛みっていうのがなんなのかっていうのは……概念が変わってしまうっていうのは、たしかにあると思っているんですよね。それを、痛みを残さなければいけないって言い方って、警鐘しづらいというか、そのまま字面通り言うとなんか悪いことしているように感じられるから(笑)。今日1時間以上話したら、なんとなくそういうことなのかなって分かると思うんですけれど、たとえばこれをいま、そういったことがない若者に、「痛みを伴う改革が必要だ!」とか小泉純一郎みたいな話になっちゃうと意味がないわけで。概念自体をつたえることも結構ハードルが高くなってきている気がするんですよね。


宮台:■そのことに対処するための、最近の僕の活動の工夫があると考えてほしいんですね。ダースさんが参加しておられるゼミを含めてね。こないだのDarwinRoom映画ラボのテーマは、「世界は世界であるとはどういうことか?」だった。複数の切口を使ったけれど、その1つが、「快・不快は脳内環境の問題です。だからクスリとゲーミフィケーションで解決できます。適切なクスリの選択と、適切な仮想現実や拡張現実の選択があればOKです。適切な選択肢の存在と、それに向けたナッジ(小突いて知らせる営み)の存在があれば、全ては解決するのです」という意見に、「違和感がありますか?」という問いかけだった。これにはほとんどの人が違和感が表明したわけ(笑)。
■でも、「じゃあ、なんで違和感があるんですか?」って尋ねると、ほとんどの人が「えー……なんでかなあ?」ってなっちゃう。そう。この問題は、すごく言語化しにくい。でも、なんとなくモヤモヤとみんなが気づいているんですね。で、この言語化しにくいけどモヤモヤって、どれだけ継続できるものなんだろうということが、僕には不安なんです。学問的な答えは出せるし、それを今語れるけれど、せっぱつまった痛みを抱える人たちにそんな物言いは届かない。だから、実践的には今のような違和感を惹起してそれを継続させる営みが専ら必要で、そのために映画コンテンツを使ってるんです。
■これは、僕がよくいう「ゆでガエル問題」に関係してる。みんなが新しいテックを実装した社会に単に適応していった場合、もやもやとした違和感が消えてしまう可能性がある。違和感が消えれば、違和感がもたらされる理由について答えを知っていたところで、なんの足しにもならない。また、そうした違和感を主題化したコンテンツが単に散在しているだけでは、敢えてそうしたコンテンツを選んで見ようとは思わないでしょ? たとえ見ても、大きな流れの中では、違和感を感じるのは少数派なんだろうと思ってしまう。すると、少数派になりたくないから、認知的な整合化で違和感を忘れちゃう。
■なにごとにつけ原理主義は、人を社会の中に──言葉や法や損得の中に──閉じ込めるので、よくない。痛みの原因である社会を放置して痛み止めに淫するのはダメだと言ったけれど、ドラッグやゲームは絶対にいけないなんて思っちゃいない。なにせ僕は3歳の頃からアーケード・ゲーマー(ゲームセンターで遊ぶ人)で、体感ゲーム華やかなりし1980年代末には当時のセガ開発部長に話を聴きに行ったり、アーケード・ゲームの業界紙に連載記事を書いていたほどだから。ダースさんが言ったように、痛み止めにせよ何にせよ、自分の心身が要求するゲームやコンテンツを享受したがるのは当たり前。NetflixやHuluのアーキテクチャを利用しないなんてことはありえない。ただ、利用しながら、そうした利用で問題解決よりも問題放置に貢献してるんだろうな、と、ぼんやりとではあれ思えること。そこに僕らがどれだけ働きかけていけるのかです。

ダース: 宮台さんね、ちょっと前の、ナッジと選択の話がでたところなんですけれども。要は「お前の選択が悪い。この中からもっと良い物を選べばそれで済む」とか「このゲームをやればいいんじゃないか/このドラッグをやればいいんじゃないか」という選択に問いする問いで、キャス・サンスティーンの『選択しない選択』っていう本があって。選択肢っていうものが用意されていて、選択肢が乗っかっているテーブルがあって、それは誰が選択したのかっていう選択肢がそもそもそこにはあって、そこに乗ってないものはなんなのかっていうことを考えていくっていう考え方を、常に実装してけば、「コレです!」って言って「この中から選べばいいんだよ」って言ったのはなぜそれが選ばれているのかとか。そこに入っていないものはどういうものなのかってことを想像しながら当たっていけば、少しずつブレーキを自分にはかけられるかなと思うんですけれど。そういった考え方、選択肢ってなんなのかっていうのを、僕、日本の政治状況・社会状況を話すときに、いつも僕が疑問に感じるのは、これはどういう選択肢から誰が選択したのかっていうことが、明示されていないものになぜみんな従ってしまうんだろうっていうのがあって。
 これはコロナ対策で言うと、すごく分かりやすく言えばクラスター対策班っていうのがバンッて出てきたときに、僕が一番違和感を感じたのは……「日本独自の手法です」って言われたけど、どの選択肢からなにをオミットして、クラスター対策班っていうものを看板にしてやるって選択肢は、誰が、どんな選択肢から選んでやったんですか、とか。政策決定で「30万円を渡します」とか「10万円を渡します」とかいろいろ出てきているのは、なんの選択肢からどう選んで誰が決めているのかっていうのが僕は全部気になるから、そこが出ていないと「ちょっと待って」って言うようにしているんですけれども。
 その疑問をまず持つことによって、ガーッと進んでいくテクノロジーって、基本的にはいま、選択肢をどんどん与えられて、しかも選択肢の最適化をされて、「あなたにとっていい選択肢はコレとコレとコレですよ」って言われている状況に対しての疑問を提示し続けるってことが、少なくともスピードコントロールする上では大事かなと思うんですけれど。

宮台:■はい。ダースさんのおっしゃったのは、僕がよく言う「3択問題という問題」です。「正解はどれでしょう?」と3つの選択肢が提示される。その中からどれを選んでも自由だと。でも、考えてほしい。なぜ3択であって、4択じゃいけないのか。そもそも、そんな問いに答える必要があるのか。問いを選んだのは誰なのか。結局、回答者には問いを選ぶ自由も答えない自由もないじゃないか。そのことに気付かないまま、自分は自由だと思うヤツは、頓馬という他ないじゃないか。そこからダースさんが言ったディクスロージャー(情報公開)の問題をパラフレーズすると、こうなる。
■単にソレをしているという「目に見えるところ」だけじゃなく、どんな選択肢がある中でソレをしているのかという「目に見えないところ」にも着目しなきゃいけない。経済学者アマルティア・センはこれをケイパビリティ(行為の潜在的可能性群)と呼んだ。ディスクロージャーで社会成員のケイパビリティが増すんだね。どんなプレイをしたかという目に見える部分だけじゃなく、どんなプラットフォームがあるから然々のプレイの選択肢があるかという目に見えない部分が分からないと、プレイの「意味」が分からないんだね。
■だからダースさんが言ったのは「プラットフォームをまず明らかにしてくれ」ということに当たる。プラットフォームを示されれば「コレに満足しかけていたけれど、騙されるところだったぜ。コレ以外にアレもソレもあるじゃないか、隠しやがって」となる。日本の統治権力は被治者がそう言い出すのを嫌う。だから統治のエコノミーを考えてプラットフォームを知らせない。これを「依らしむべし、知らしむべからず」と言う。これは僕が言う「任せてブーたれる政治」と表裏一体。でも、これだと日本は到底生き残れない。「全選択肢を吟味して何かを選ぶ」過程がスキップされて、知識社会化ができないからだ。だから統治権力は政策選択に際してプラットフォームをアナウンスすべきなんだ。
■クラスター対策班は「クラスター対策以外に選択肢がないのか、それとも他にあれこれ選択肢があるのか」を情報公開すべきだった。ところが2002年のSARS大流行の時に被害を被らなかったので、アメリカにCDCみたいな感染症専門機関を作らなかった。だから制度やノウハウを含めたPCR検査インフラが皆無で、今回クラスター対策「しか」できなかった。ならば厚労省やクラスター対策班は「日本のプラットフォームは然々なので未感染者や軽症者の検査体制はなく、発症者のクラスター対策しかできない。その外側で市中感染が拡がったら選択肢はないので病床確保の緊急措置を発動する」と言うべきだった。当然「偶然SARSの流行がなかっただけなのに隣の韓国を含めた他の国にあるプラットフォームがないのは何故だ?」「2009年の新型インフルエンザ大流行でCDCが検討課題になったのに厚労省や感染症専門医は何をやってた?」と批判を受ける。それを異様に恐れたのね。
■しかし、日本の政治家や行政官の低能力ぶりを考えたら、予想通りの体たらくだったわけで、どうってことはない。それより、僕が注目したいのは、プラットフォームが全ての選択の意味を決めてしまうという抽象原理だよ。ゲームの仮想現実や拡張現実が、リアルな現実とどこがどう違うかは、そのことに関係している。「ゲームは世界足り得るか」という問題は、そのことから自動的に導かれるということだ。ヒントは、ゲームには作り手がいるが、世界には作り手はいないということ。世界の作り手は、強いて言えば神だ。神が世界の中にいたら世界を作れないから、神は世界の外にいる。でも、世界はあらゆる全体だから、世界に外はない。映画ラボでは、このスコラ神学的問題に切り込んだんだね。

▶Netflixに違和感をもたず享受することは「感情の劣化」である

ダース: いまのちょっとね、宮台さんのその話が、僕は何度も聞いているのでなんとなく自分の中で……要は中にいて、外をつくるってことはできない。つくる人は常にその外側にいなきゃいけないって前提がまずあって。みんながいる世界って……よく分かんないすんごい広大な宇宙とかも銀河も何個も入っている全ての世界をつくるための、その外側にいなければつくれないっていう前提があってっていうことですよね? 中に神がいないっていうのは。

宮台:■そうです。初めて聞くと難しいから、僕の映画批評を読んでほしいところだ。けれど今できるだけ平たく言うと、世界を作るには、世界の外に作り手がいなければならないが、世界はあらゆる全体なので、世界の外に作り手が存在するなら、その作り手も世界の一部になってしまう、という逆説がある。この逆説は原理的に、解くことができない。映画批評ラボなどでは、そのことを語った途端、みなさんが変性意識状態(ハイな状態またはトランス)に陥るんだね。そのタイミングで、みなさんに問うわけ。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教でThe God(世界の創り主)の偶像崇拝を禁止する理由を。

ダース: これは教科書ではただ単にアイコンを作るなっていうふうにしか書いてないんですけれども。

宮台:■そう。でも「アイコンを作るな」というのは恣意的な規範じゃないんだよ。むしろ今話した逆説にロジカルに関係する。神は「世界の外」なのでイメージできたらおかしいでしょ。ちなみにイエスはもともと神じゃない。人だ。だからイメージできる。つまり、偶像化して構わないんだ。そもそも人として実在したんだから。ただし、イエスは世界の外にいる神と交信できる、という設定だ。世界の中にいる人が、世界の外にいる神と交信できるはずがない。だから、イエスは特別な存在、つまり「神の子」でなければならない。ルーマン的に言うと、この設定は、さっきの逆説の痕跡を指し示すサイファ(暗号)なんだね。
■という具合に、偶像崇拝禁止はロジカルな要請だ。世界の中にいる人は、世界の外にある神を認識できないし、ましてコミュニケートできない。だから、神に偶像があるはずがない。でも、人は神の存在を知っているし、神からのメッセージも知っている。これは逆説だ。この逆説を特異点に集約したものが、神と人を媒介する特別な存在だ。それがアブラハムであり、モーセであり、キリスト教ではイエスだ。逆に言えば、普通の人はたとえ聖職者であれ、神とはコミュニケートできない。だから、偶像崇拝はもとより「生贄を捧げて許してもらう」「罪を犯さないことで許してもらう」という交換取引もあり得ない。これをウェーバーは「御利益信仰は神に交換を強いる神強制は瀆神だ」としたわけ。ところが、この基本ロジックを教えられる学校の先生も聖職者もいないという惨状がある(笑)。
■ここで宗教を離れよう。世界と違って、社会には普通の作り手がいるし、社会に作り手がいても、逆説は存在しない。ちなみに、それが、世界の創造譚と違って、社会の創造譚が単なる英雄譚──スサノオ伝説や折口信夫の貴種流離譚──である理由だ。さらに伝説も離れれば、社会の作り手は1人じゃなく、複数の人々が作り出した歴史だ。ということは、「歴史次第で社会はどうとでもあり得た」ってことだ。世界の創造譚が、神の意思に言及して「神次第で世界はどうとでもあり得た」とするのと同じだ。でも神は、存在しないのに存在する逆説的存在つまりサイファ(暗号)だ。他方の人は、存在するので逆説はない。この違いが、世界と社会の違いに並行するんだね。
■いわゆるゲームはどうか。PCやスマホのゲームだ。ゲームにも作り手が存在する。作り手がなければゲームはなかった。別の作り手がいたら別のゲームになった。「作り手次第でゲームはどうとでもあり得た」ってこと。ゲーム「の中で」僕らはプレイする。だから、ゲームはプラットフォームだ。「作り手次第でプラットフォームはどうとでもあり得た」ってことになる。ゲームのプレイに複数の選択肢があるように、ゲームのプラットフォームにも複数の選択肢がある。つまり「その3択問題」以外に「別の3択問題」があり得た。そして、ここが肝腎だけれど、ゲームのプラットフォームの作り手は、社会「の中に」存在する。それは、僕にとってのダースさんだったりする。だから、それを意識できるかどうかが、「ゲームは世界であり得るか」に答えるポイントになる。つまり結論は自明。「ゲームは世界であることができない」んだね。
■今は多くの人たちが在宅を続けていて、退屈でつまらないと思うんだ。だから、一生懸命NetflixとかHuluとかAmazon Primeを探す。探して見た後に「あー、今日もクソつまんなかったな」「チョイスを誤ったわ~」と思う。それは半分以上真実だけど(笑)。でも、そこで思考を止めちゃダメだ。「なんでチョイスがこれだけしかないのか」とを意識しなきゃいけない。クイズの3択問題で言えば、「3択問題に正解したヤツは賢い」という『東大王(東大生が答えるクイズ番組)』的な発想もあるだろう。でも「なんでその3択問題に答えなきゃいけないんだ? そんなことに答えることが大事なのか」ってことを見失っちゃいけない。それが「プラットフォーム制定権力」を意識することにつながる。

ダース: いまの3択問題の話で、すごく重要な描写が1個入っているなと思うのは、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』なんですけど。それの1番最後ーー「ネタバレすんな」みたいな話はさすがに千と千尋くらい見ておいてほしいって話なんですけどーー最後に、豚に変わっちゃった両親を探せっていうふうに千尋が言われて、「この中に豚がいるから、この中にお父さんとお母さんがいるから、それを見つけたら返してあげるよ」ってなったときに、千尋が「お父さんとお母さんはこの中にはいない」って答えを出すんですね、それが正解なんですけれども。あの描写の意味っていうのは、湯婆婆がつくった選択肢が正解だと思い込んだら、湯婆婆の世界からは出れないわけですよ。湯婆婆がつくった世界から出るためには、湯婆婆がつくった世界の中で用意された選択肢の外に正解がある。ってことに気付かないと、あの世界からは出れないっていうのを宮崎駿が描いていて、それはすごく重要な視点だと思うんですけれども。
 Netflixの中にあるオススメは、Netflixをつくった……Netflixが上手なのは「記名性=クレジット」を実はしていなくて、誰がこれやってるのかっていうのを、Netflixはあんまり……だからマーク・ザッカーバーグ[Facebookの創業者]とか、スティーブ・ジョブズ[Appleの創業者]がやってないことが、21世紀の今後のプラットフォーマーのヒントだと思っていて。やっぱりどんなにやってもAppleやスティーブ・ジョブズとかビル・ゲイツ[Microsoftの創業者]、そういう人がつくったものの中で、「この人は頭いいからこの人の選択肢だったら信用できるな」ってレベルのものでしかないんだけれど、Netflixはそこをもう1個さらに拡げて「誰が選んだかよく分かんないけど、こいつ俺のことよく分かってるな」って意味では、かつての、神がかり的な啓示の選択肢の用意の仕方には似ているとは思うんですけれども、それでも人がつくってるってことは、みんな分かっているから。


宮台:■なるほど。それこそが1988年に書いた博士論文『権力の予期理論』(1989年1月出版)の最大のキーコンセプト「奪人称性」だよね。奪人称化された権力は、権力の起点に対する疑念や抵抗を消去できるんだ。そんな中にあって、『千と千尋の神隠し』の「両親はこの豚たちの中にはいない」というのと同じ回答が果たしてできるだろうか。できるのであれば、奪人称化された権力もまた権力であること──別のプラットフォームが幾らでもあるのにそれが制約されていること──を意識できる。
■でも、それが意識できたとしても、さらにその先に問題がある。ウォシャウスキー兄弟(現在はウォシャウスキー姉妹)が監督した『マトリックス』には、サイファっていう名の男がでてくる。簡単に言えば、彼は「この3択問題の中には答えがない」あるいは「ここにいる豚の中には正解がない」ということを知っている。つまり、奪人称性にもかかわらず、「プラットフォーム制定権力」の存在を意識できている。でも、だからといって、3択問題の外に正解を探すかというと、探さない。「私は探さない」って宣言する。
■確かに、探すのは苦難の道だ。何が起こるか全く分からないという規定不能性があるからです。探したところで何も約束されていない。3択問題がたとえ虚偽問題だと意識されても、その3択から答えを選ぶ限りは、何がどうなるかが約束されている。つまり、規定可能性の内側にいられる。これは映画冒頭の「赤いピル・青いピル問題」としても出て来るモチーフです。実は同じモチーフが映画の中で繰り返しでてくるわけだ。一口でいえば、なぜ一部の人は規定可能なものの外側に出ようとするのかという問題ですね。
■話を少し戻すと、Netflixは、権力の人称性、つまりプラットフォームの全体を誰が作ったのかを、消去しています。プラットフォームの説明責任を担う主体を消去しているということ。これはすごいよね(笑)。僕もこれは意識的な作為だと思う。ザッカーバーグが目立つほど、フェイスブックのプラットフォームについての説明責任がザッカーバーグに人称的に帰属される。他方のNetflixって「正体不明の集団指導体制」だから、どこにプラットフォームの説明責任があるか分からない。だから単に「プラットフォームがある」という事実を享受するしかない。高度にネクスト・ジェネレーション的だと感じる。

ダース: そうなんですよね。いまのNetflixの話は、僕ちょうどいまオーソン・ウェルズの『1984』を読み直していてーーこれいまちょっと読んでおいたほうがいいかなと思ってーー『1984』のビッグブラザーっていうのは、悪しき者として描かれているふうなんですけれど。これはディストピアで、酷い監視社会で、話の中ではテレスクリーンっていうテレビ画面があって、そこから全部監視されているんですけど。そこから音楽とか映像が流れてそれをひたすら享受している。で、ビッグブラザーは常にウォッチング、視ているよって中でみんな生きてるんですけど、これってNetflixじゃんって思ったんですね、読んで。
 Netflixって画面で見てて、画面から常に「これオススメ」「あなたが見ていたものはこれ」「いま1番人気あるのはこれ」……Netflixがビッグブラザーと違うのは、気持ちいい快楽を与えてくれているから、悪いものとして認識できないけど、でもビッグブラザーって何者か分からないんですよね、『1984』で読んでいても。なんだか分かんないものに支配されていて、それがテレスクリーンからずっと監視しているっていうのが、これが実はAmazon……Amazonは先行しているからまだ記名性があるんですけれども、Netflixはかなりこのビッグブラザー的なものなんじゃないかなってことを、少なくとも考えながら……まぁでも「いいビッグブラザーなのかな?」みたいなことを考えながら僕は見ちゃってるんですけれども(笑)。
 あと、『マトリックス』の話もーーもし『マトリックス』観てないって人は、いま暇だからぜひ1だけ、最初のやつだけ観てほしいんですけど(笑)。ーーサイファって存在が出てきて。モーフィアスっていうのがまさに外側の回答を探している存在なんですけど、「いや、モーフィアスの言っていることが分かる、たしかに。でも、こんなの夢見ていたほうが幸せじゃん俺ら」っていう、サイファーのリアリティっていうのは反応が難しい。だってモーフィアスは常に傷つきながら苦労しながら、なにが正解か分からない道をずーっといっているのに対して、サイファーの選択を取れば「寝てるだけでいんだよ俺ら」って話になるわけだから(笑)。これってコスパで考えるサイファーのほうにむしろ理があって。
 そして、いま話していて思ったのは、モーフィアスは「その外側にある回答はネオなんだ」っていうことを言うわけじゃないですか。「見つけた、カギを見つけたんだ」と。
 でもそのネオっていう存在も、誰かがーーマトリックス(という世界)をつくった預言者とかいろいろ出てくるんですけどーー結局用意されていて、「この人こそが預言者だ」「これが救世主だ」っていうふうに言っているっていう選択肢をモーフィアスは結局掴んじゃっているだけっていう、すごく皮肉な描写もあって。「あ、やっぱり違う選択肢があったじゃないか」って気付いたのに、それはモーフィアスがいる世界があらかじめ用意している選択肢を1個取ったに過ぎないっていうのが、僕は『マトリックス』の怖いところというか。


宮台:■そうですね。ダースさんその『マトリックス』の設定は実は、アニメージュ連載版の『風の谷のナウシカ』の最後に出てくるモチーフでしょ?

ダース: 第7巻ですよね。

宮台:■そう、第7巻。みなさんの多くは、映画版しか知らない。ってことは、第2巻までしか知らない。第2巻までだと、悪だと思っていた腐海や王蟲が、世界を浄化する善であることに、ナウシカだけが気付いたという話。ところが、いろいろあって第7巻に至ると、「善」である腐海や王蟲の存在も、それが「善」だと気付くナウシカの存在も、『新世紀エヴァンゲンリオン』における「ゼーレ(魂を意味するドイツ語)』のような「賢人たち」が設計したものということに、ナウシカが気付いてしまう。そして、そのことだけが「賢人たち」によって予定されていなかったことにも気付いてしまう。全てが設計されたものであることに気付いたナウシカが、ネオラッダイツのユナ・ボマーのように、発狂的に全てをぶち壊して終わる。その後に何世紀も経ってもナウシカが伝説の存在として記憶されているっていうね。
■宮崎駿自身、あの連載版の最後は「自分でも何を描いていたのか全く覚えていない」って証言している(笑)。記憶を失っているくらいにトランスしていたっていう意味だ。むろん読者も激しい変性意識状態に陥っちゃう。その理由は、「世界が世界であるとはどういうことか」(宮台真司映画批評ラボのテーマ)という、世界の根源的未規定性に触れる問いに、巻き込まれてしまうからだ。この「世界が世界であるとはどういうことか」という問題設定は、この50年で言えば宮崎駿が最初に示したものだけれど、遡ると、手塚治虫が『火の鳥』シリーズで描こうとしたものだよね。今世紀に入ると、それがハリウッド映画を含めたたくさんの洋画で描かれるようになった。そして直近で言うと、『1984』に出て来る「シンクポル=思考警察」を重大なモチーフとした神山健治の3Dアニメ『攻殻機動隊 SAC2045』がさらに深化させようとしている気配なんだ。

ダース: そのまま『1984』に出てきますもんね。言っちゃうとアレなんですが(笑)。

宮台:■そう。ポルには世論調査って意味があるんで、「シンクポル=思考警察=思考投票」という掛詞(かけことば)にもなってる。そのことは、実際に視聴していただければ立ちどころに分かります。
■ところで、『攻殻2045』も第1シーズンでしょ? さっきの『メシア』も第1シーズンでしょ? 僕がよくオススメしている『グリーン・フロンティア』も第1シーズンでしょ? これは二つの意味で興味深い。第一に、作り手たちも、3択問題の外という問題が抱え込まざるを得ない規定不能性ゆえに、たぶん問題に対する答えを用意しきれていないということ。第二に、にもかかわらず第2シーズンがちゃんと作られるのかどうかが「シンクポル」そのもので、みんなが観れば──思考投票によって思考警察をすれば──第2シーズンが作られるけれど、みんなが思考投票しないと第2シーズンはないんだよね(笑)。
■すると、一方に「Netflixの進化しつつあるプラットフォームを誰が主導しているのか分からない」という未規定性があり、他方に、みなさんが観ることを通じて「シンクポル」──思考投票による思考警察──が機能し、場合によっては第2シーズンがデリート(削除)されるという未規定性があることになります。すると、Netflixのまさに「ネットは広大だわ」(映画『攻殻機動隊』1995のセリフ)みたいな「世界」の、見渡せない全体性が、それ自体「シンクポル」の作動の場そのものだっていうね。さすがに神山健治なんだけれど、『攻殻2045』を観て、Netflixを含めた昨今のサイバー空間化に対する違和感をみなさんが惹起されないとすれば、僕はかなり感情的に劣化していると思うな(笑)。

ダース: やっぱり便利だから観る、面白いから観るってっていうのと別軸の、なんで自分はこれを選択しているのかとか、自分がコミットしているのはなんなのかっていうことを少なくとも考えるっていう訓練自体は、僕は宗教がーー結局そこに戻るんですけれどもーー考えてずーっと退行していくわけじゃない? 「ってことはそれをつくったのは誰? ってことはそれをつくったのは誰? ってことはそれをつくったのは誰?」ってずーっと続いていくっていうことを前提として、それにある種セーフティネットというか、「はいここまで!」って言ってくれる存在が宗教で。「うん、よくできました。そこから先はこうなっております」みたいな、神的なものを設定したりすることによって、無限退行していくところに、「オーケー、よくやった」って言ってくれるような存在が宗教だと、僕は思うんですけれど。
 でも、少なくともそのスタートラインとして、前提確認はずっとしていくっていうこと自体を放棄しちゃうと、それをやっているからこそ宗教は、それで悩んじゃって。「なんなんだ? これはどうなっているんだ? なんでこういうことが起こるんだ? なんでこんな目に遭うんだ?」っていうのをずーっと繰り返しているところに、「オーケー」って止めてくれるのが宗教だとして、無限退行っていうこと自体が起こらなくなってきたら、宗教の役割はなくなると思っていて。その無限退行がなくなる方向に、テクノロジーっていうのは……「だってそれって大変じゃん」みたいな。「え、そんなこと考えているよりもこっち見なよ」とか。


宮台:■『マトリックス』に出て来る「サイファ」という男の方向だよね。

ダース: 「サイファ」的な方向にみんな行こうとしていて。「これが生理的には楽だし、コスパ的にもいいし」っていうことに……「いやでもなんで?」っていうのをどう保持するかっていうのが、宗教はそこにコミットしていかないといけないと思うんですけれど、現状、既存の大宗教がそういったレベルの動きをどれだけできているかなあ? っていうのが。
 たとえばオンライン礼拝しますとかっていうテクノロジーに乗っかってやるっていうときに、アメリカの場合テレビ伝道師っていう謎の存在がたくさんいるんですけど(笑)。


宮台:■はっはっは、それな(笑)。

ダース: あれって、要はコスパじゃないですか、テレビ伝道師ってのは。そういった意味で、アメリカの福音派とかがやっていることって、本来の苦しみをひたすら乗り越えていった先に、本当に大変だったことに対して「オーケー」と言ってくれる宗教じゃなくしちゃった、テレビ伝道師とかが。そういった意味で、宮台さんふうに言うと劣化がはじまっているんだと思うんですけれど。宗教がいまそこにどれだけコミットできるかってのが、すごく重要な……僕は無神論者で、無宗教だっていうことは自覚をしつつもそれは思うんですよね。

(後編2に続きます)
投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-01 - 12:43:45
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