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■ 宮台真司ETV特集「海を行く〜寄せては返す日々」

◆その6 直接性への回帰 2

 雷雨の時にマンションの屋上で避雷針につかまる、みたいなことって、いいよね。

 (おれ:!?…怖いじゃないですか。)

 そうだよ。そういう人間はさ、死にたいとか思わないじゃん(?)。

 それは極端な例だけど、そういうふうにして、やっぱり強度とか直接性というのは、維持されていないと駄目なんだよ。もちろん強度が重要ということは言ってるから繰り返さなくていいんだけど、直接性だよね。うん。それがあまりにも間接化されている。

 だから今、なぜ性がずっとこうやって吹き出してくるのか。90年代に入ってからオウムというのがあったけど、宗教と性が同時に吹き出している感じがする。それは理由を考えれば、全面的な包括、つまり両方とも「こんな私でもいいのかしら」「そんな君でいいんだよ」というところで共通性がある、と言ったけど、やっぱり、性の方に芽がある、と思う、僕は。それは直接性の領域に近いからです、簡単に言えば。宗教は直接性の領域に行こうとすると「修行」ということになる。修行のメソッドが直接的な体感を与えるという形式になると思う。それはそれで全然構わないと思う。

 そういうふうにして問題を整理すると、何と何が機能的で等価なのかということはよく分かってくるから、それぞれの持っているリソースの中で直接性を調達するということ、だから、強度の話の新しいキーワードが直接性なんだな、って思いました。

 「やるせない」かぁー(『眠らない女』を見ながら)。でもナゾがいろいろあってね…

(おれ:その直接性をさ、再び獲得するための手段として何が挙げられると思いますか?)

 宗教の修行、あるいは体を使う様々なもの…サッカー、ダンス、セックスとかは全部体を使う。ボディペインティング、ボディピアッシング、エステ、格闘技…。体がキーワード。後は、暴力、性もキーワード。全部直接的だよね。そういうものです。

 つまり「体感」ということ。恐怖とか緊張とか、暖かい、冷たいというような五感、おいしいとか…こういうものだよね。

 濃密さ濃密さって言ったって、直接性にアクセスできない人間は、濃密さを調達するということはとても難しい。意味にすがるしかなくなっちゃう、と僕は思うよ。

 だから、地域共同体もお祭りも、僕に言わせると手段に見えるわけ。直接性というものを調達するための。で、この祭りは、漁師の人にとってよりも、今回はやっぱり町の人にとって大きな意味を持っているわけだ。町に生きている人が、油津にいるということの意味をつかめないわけだ。

 (人口は)2万、3万という感じ。だから、ある種の地域だから、最大広くとっても5万人以下。まあ、非常に小さい。2万人と考えるといいと思うけれども、漁師は、元々ずっと一日中海に出ている存在だから…

(おれ:その中で30人っていったら少ないですね)

 少ないよー。だから、漁師町と言われる部分はその中の6千人くらいなんだけど。

 あ、つまり、だから日南市が5万人くらいいるわけね。でもその油津の地域には6千人くらいいるっていう感じだけども。

(おれ:その中で、油津地区でお祭りをやるんですよね。)

 そうだよ。参加者は、せいぜい大きく見積もっても数百人という感じ。でもね、これは、やってる側からすると、さっき言ったように、このお祭りはもはや、丘の人にとってのものだよ。で、漁師にとってももちろん意味があるんだよ。でもむしろこの祭りの持っている意味は、丘人にとっての意味だろうと思う。

 それは町にいることのある種の一体性とかね、実存的な体感だよね。これを獲得する源泉、リソースがこの祭りになっているという構図は、とてもはっきりしていると思う。  他に質問があったら聞いて。

(おれ:あのー、この町に住んでいる人達って、素直というか、自分たちで体感、直接性を得ようと、いろいろ努力しているじゃないすか。)

 それは出戻り組が多いからだと思う。出戻り組がいて、自分たちが都会で生活して何が足りなかったのかっていうのを、すごく分かっていると思う。それこそ、「やるせなさ」というものを知っていると思う、皆。手応えがないとか、人にいつも頭を下げて、何のために下げているのか分からない、とか、あるいはなぜここにいるのか、とか、そういうことだね。

(おれ:僕たちは、そういうのを相対化できなかったというか、やっと気づき始めた段階じゃないですか。彼らほど切迫感もないというか。敏感な人は感じ取っているけど、大部分はだらだらやってる感じが、比較してみるととても「負けるなー」と思っちゃいます。)

 それは、おれが思ったよ。だからうらやましい。でもおれはうらやましいと思って、東京に帰って来てよく見てみると、東京にいる奴の中ではうらやましい位置にいると思うよ、それでも。お前もそう。おれの周りにいる奴は、皆マシな方だと思う。東京にいる奴の平均から比べると、圧倒的に。

 あとやっぱり、W君っていたじゃん(自殺したA君の親友)。Wみたいな奴がいっぱいいたよ、はっきり言えば。明晰で、物事をよく見てて、逃避しているわけじゃなくて。でも、直接性…世界といろんな場所でうまくシンクロする回路をいっぱい持っていて…つまり手応えを感じるから毎日生きている感じが、とってもいいねえ。

 やっぱり僕が仮説していた通り、Wみたいな奴は昔はいっぱいいたんだ、ということは、それは分かるよ。ただ油津の場合は、単に昔のままじゃなくって、一回出戻って、あるいは祭りを復活して、敢えて意識してそういう立場を選択しているということが、ありありと分かるのね。

(おれ:先生、昔の田舎の漁師さんにはWくんのような人がいっぱいいるだろう、って言ってましたよね。)

 いっぱいいたよ。でもさ、もう今じゃごくまれなわけじゃんか。だから、これは前途多難さを思わせるものがあるなぁ。

 講演とかするじゃん、いろんなところで。………本当に変わりつつあるなあと思うけど、僕が言う意味と強度の話とかは、もう50、60歳の官僚たちもめっちゃくちゃもう分かってて、びっくりしちゃった。言葉がないからさ、僕が言葉を貸しに行くって感じ。

 そういう意味で言うと、だから、僕たちの方のキツさがむしろ照らし出されているね。向こうがもともとハンディキャップだったはずのものが、今はアドバンテージになっているから…というか少なくとも僕からはそう見えるから。

★★★ヽ(´ー`)ノ★★★

 「(船に)酔わなくなるまでどのくらいかかりますか」とか言ったら、毎日漁をやって、早くて3カ月、長ければ2年だって。

 で、ハエナワを、ちゃんとセッティングして巻き上げるというウチナワあげができるようになるまで、10年だって。

 それで、潮目が分かるとか、いろんな経験を積むということで言うと、それはまあ際限はない、って。毎日の経験が新しいものになるんだって。

 一応潮目があったらば、こういう方向にハエナワをうつということは、大体先祖から教わっているわけだ。でも、もちろん皆違うことをやってみるわけだ。「こういうふうにうたなかったらどうなるのか」という、ありとあらゆる試行錯誤を自分でやって、「あーなるほど、だからダメなのか」って。全部、経験を通じて確証しているって。

 だから僕たち、「潮目がこうだったらこういうふうに縄をやるんじゃなくって、こういうふうにやってみたらどうなんですか」って言ったら、「そんなのは全部やったよ、漁師やってる奴は全てやってみてる」って(笑)。そうやってみて、やっぱりしきたり通りにやるのが一番いいんだって。全部分かってる。単に観念を頼ってやっているんじゃない。 実際に海流がある方向に流れてて、潮目がこうあって、こういうふうに出したらいいじゃないか、と言って出しちゃったら、ハエナワがたるんで絡んじゃったりして、「こういうふうになるから駄目なのか」とか、全部分かるって。

 それも直接性だろ?なあ。例えば、「売春がいけない」とかって言ったってさぁ、例えば「こういう方向にハエナワを繰り出さなきゃいけない」というのと、違うと思わないか?「何でいけないのか」ってのは、売春してみたって分からないだろ。ハエナワだったら別の方向に縄をうっていったら、何で駄目なのかすぐに分かるんだよ。縄が絡んじゃったり、魚が全然捕れなかったりするんだもん。

 昔は、売春が危険だとか、病気移っちゃったりとか、売り飛ばされちゃったりとかいうことがあったからさ、直接性に近かったんだけどな。今はいろんなことが分かんないよな。何でそういうルールになるのかって。

 そういう意味で言うと、漁師の世界というのは、合理的だと思うよ。皆と同じようにするのが退屈だとかゴタク言ったって、捕れなかったら終わりなんだから、やっぱりそれが狩猟文化で…

 で、さっき言ったもう一つのポイントはね、狩猟文化と農耕文化の違いは、漁村に行くとよく分かる。日本は元々共同体主義だけど、漁村は農村共同体とは全く違うということが分かる。

 まず成果主義、結果主義だよ。捕れなきゃしょうがないんだよ。捕れる、というのは毎日の話だから、皆一緒にお互い助け合って一緒に一丸となって頑張って、村全体の収穫が1年後に上がりました、ということはあり得ないんだよ。場合によってはルールを犯してまで、抜け駆けしてまで頑張って、一日「今日は丸もうけだぜ」とか「今日は少なかった」とか、そういう世界。そうするとやっぱり、実質主義、サブスタンスというか、なんて言うんだろう、実利的というか、現実的なんだよ。そういう特徴がすごくある。

 あとやっぱりさ、おれはこないだ広末涼子と話したじゃないか。広末の出身地の高知は、性的にはルーズなんだけど、やっぱりそれは漁師文化だからじゃないか、と言うんだよ。だから「宮台さんの本を読んで、いろんな学校がこんなにキツいんだという話を聞いてもピンと来ない」と。土佐も有名な漁師文化だよ、九州と並んで。それは分かるよ。

 まず、漁師の文化が実利主義だというのと、あと、例えば漁師町があると、必ずその周りには女郎屋があるんだよ。だって遠洋に出掛けていったらさ、そこで女を買わないとやっていけないから、それで漁師は皆女を買うわけだよ、一人の例外もなく、昔から。それで港町があれば、自分たちは買わないけど、他の港から来た奴が買うための女郎屋があるわけだよ。それは必要不可欠なのね。

 そういう文化の中で育ってきていれば、当然のことながら形式的な禁欲主義とか、何のために役立つのか分からないルールなんてものは、全部2の次になっていくよね。全てのルールには、全部機能がある。「なぜそういうルールがあるのか」ということも、ちゃんと、正しいか正しくないかじゃなくって、「こういうふうにしないとこうなります」というふうに、全部因果的に言えるような仕組みになっていると思う。

 あとやっぱり、皆同じ、皆一緒、というふうにすることがいい、というふうにならないはっきりした理由がある。それは、毎日の取り分が、簡単に言えば、Aさんがいっぱい捕ればBさんは捕れないんだよ。だから、お互いに食い合う関係が生まれる。でもその同じ町の漁師の間でお互いに食い合う関係にありながら、尚且つ共同防衛をしないと漁業権を犯される、ということに象徴的だけども、様々な外部者によって侵害されるということがある。

 そういう漁師の間の共同利害と、漁師の間の特殊利害が絶えずせめぎあっている、というのは、農村には絶対にありえない状況だよね。

 もちろん農村と漁村に共通する面もあるよ。漁村というのは漁業権を争っているだろ、その争いは、港と港の間に起こるんだよね。それだと、水利権もそうだろ、水利権も、村と村の間に生じる問題。もちろん、村の中でもまれに水利権の問題が生じる、そういうところは似ているけど、違うのは漁師の場合は漁師の間に絶えずそういう特殊利害の違いがある。漁場を教えれば皆がもうかるけど、自分の取り分は減るよ。「わ、ここはすごい漁場じゃないか!」って見つけたときに、「どうしよう、皆に言った方がいいだろうか…」という選択に絶えず直面するのがやっぱり、漁師文化なんだよ。

 漁師の話を聞いていて、よく分かった。僕たちがどうして、共同体的な文化をもっているのか。それは農村共同体だからだ、というのが、本で散々読んできたから頭では知識としてあるけど、今回の漁師さんの話を聞いて、漁師さんの生活ぶりをたった3日だけども見て、めちゃくちゃ納得いきました。

 僕たちはもう、農業やってきてない以上、そういうメンタリティにする必要性は全くない。現に漁師文化は違うから自分の生活形態( )違うルールにできる。

   (・・・雑音があって聞き取れず・・・)

 でも、皆ほっとするみたいだよね、東京に出るとさ。でも、それからしばらくするとキツくなるんだよ、だんだん。

(おれ:そうですね。何でそんな変わっちゃうんっすかね。いろいろ慣れちゃうとキツいですよね。全部制度化されてるから、見えちゃうじゃないですか、全部。)

 でも、全部見えてるっていうとさ、抽象的には漁師の生活はこういうものです、って見えているわけじゃない。

(おれ:ああ、情報としては。でも、その場に…)

 でしょ?直接性っていうのはそういうことなんだよ。毎日同じことの反復です、漁師も。例えば、毎日捕れるかどうか分からないっていうことは、毎日同じで変わらないよ。でも、直接性という観点からすると、( )感があるんだよ。今やってることが、どういう結果が出るのか分からない、って言ったけど、必ず情報で跳ね返るようにして存在しているから…やっぱり、それだよね。

 それでさ、テレクラのこともちょっと思い出したんだよ。テレクラとか、ナンパもそうなんだけど、ハンティングっていうのは、どうして面白いのかっていうと、やっぱりそこにあるよね。どんな風になるか分からないからだよ。誰に会うか分からない。「何でそんなキモチワルイことやるんだ」っていっても、誰に会えるか分からないからやめられないんだよ、面白くて。

 お前も、一時期テレクラにはまったりしてただろ?それは、分かるもん。テレクラとか、そういうのにはまった奴は分かるんだよ。どんな奴が来るのか分からない、というのがイイんだよ。危険だからいいだけじゃん、はっきり言えばさぁ。

 それ(直接性)がテレクラと売春だっつーのは、やっぱりリソース乏しいよなぁ。おれたちにも漁師の生き方はできる。テレクラと売春だ(笑)。

(おれ:それしかないんっすかねー(笑))

 手っ取り早いのはないよ、それしか。残念ながら今のところはね。似たような種類の、直接的な体感っていうのは。

 乏しいんだよ、直接性のリソースというのは。都会では、僕たちの周辺で。

(おれ:でも、テレクラとか売春とか、そういうのって僕たちの生活全部がそれに負っているわけじゃないですよね。漁師さんたちは本当に生活がかかってて、それで生きていけるわけじゃないですか。その差は大きいですよね。)

 そうだよ。だからテレクラは飽きちゃうけど、漁師は飽きるもクソもないよな。

 漁師に飽きたっていう話は聞かないよね。皆、近海の漁師やめて、いつでもマグロ船に乗ったり、別の仕事に移ったりできるのにな。ということは、やっぱり飽きないんだろうね。そういう種類の緊張感は、あるんだろうね。

 釣りも今すごい今ブームだけど、釣りも同じような不確定性にいつもさらされてるよね 「ハンティング」だよね、キーワードは。ほら、海の漁師さんも漁師で、山で鉄砲撃ってるのも(音は違うけど)猟師じゃないか。日本には「リョウシ」がいるよね、ずっとさ。リョウシっつうのは、楽しいんだよ。

 僕がテレクラにはまったっていうのは、リョウシ歴10年みたいなもんかなー。

 直接性にもいろんなタイプのものがあるけど、一つは、今言ったハンティングに結び付いたような、「どうなるか分からない」というのが絶えずありながら、「どうなった」という帰結が結構すぐ分かる、ということだよね。どうなるか分からない、それで、こうなった。それが毎日起こる、ということがポイントだろうなあ。

 どんな女が来るのか分からない、こんな女が来た。どんなオヤジが来るのか分からない、そんなオヤジが来た…。これで「分からない」が半年や一年続くんじゃしょうがないよな。だからテレクラでなぜ「一週間後に会いましょう」というのが意味がないのかっていうと、こういうことなんだよね。それじゃあダメなんだよ。今ここの話なんだよ、一週間後なんていらないんだよ、関係ないんだよ、という感じになるじゃない。今、ここで結果が知りたい。

 なんかテレクラの話で終わっちまったなぁ。

(おれ:超オッケーすよ(笑))

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