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◆その5 直接性への回帰 多分ね、別に自然とかじゃなくていいのかもしれないんだよね。建物を作るとか、土建屋じゃないけど、モノを作るという作業も、そうなのかもしれないよね。 (おれ:ちょっとよく分からないんですが、どうして「モノを書く」ことがダルくなっちゃうのか、もう一度説明してもらえませんか?) うーん、それは、自分に対して期待されている役割がもうはっきりしてきて、 (おれ:「宮台だったらコレを言うだろう」とか、ある程度周りの要求が固まってきちゃうという…) それも含めてね、もちろん新しいこともどんどん書いていこうとするわけだし、一生懸命努力しているわけだけど。僕はどんどん新しいもの書いてる方だと思うけど、新しいことを書く、ということを続けると、「宮台はどんどん新しいことを書く奴だ」という役割になるわけじゃないか。 だから、僕が過去にやったものが宮台という役割をどんどん作っていって、相手が、要するに「宮台君、ここに投げてね」と皆ミットを構えているところに投げている、という感じ?だから、「ミヤダイ」と「みやだい」というのを分けたことがあるけど、やっぱり「宮台」がどこにいるのか分からなくなるっていう状況だろうな、実感が消えていく、ということは。 多分「ミヤダイ」役は「みやだい」にしかできないんだろうけど、でも、そうやって期待の地平がはっきり確立すると、「何でこのミットに投げないといけないんだろう」っていう。「宮台」のイメージが固定されたくないから、フィールドワークの対象も、書くことも、どんどん変えていかなきゃ、と思うことすら、最近ではまたそれを(周りが)期待しているから、「宮台くん、今度また新しいことやるんだよねー」って。 (おれ:行き場所に構えられてる、みたいな…) そういう感じ。そういう意味では手応えはなくなっていくという。 だから、そういう情報産業というのは元々、そういうところがあるよ。だからまあ、それでもフィールドワークの対象を持つとか、具体的にリアクション返してくれる人間と直接話す可能性があるとか、講演活動も、同じこと何度も言うのは嫌だと思って昔は嫌っていたんだけど、自分がその都度書いたことがどういうふうに受け止められてるのか知るチャンスでもあるから、だからそういう意味では僕はまだモノ書きの中では直接性に恵まれている方だと思うけどね。それがなかったら辛いんじゃないかなぁ。 だから結局、若い奴が職業選択ということを考えるとしても、時々直接性が存在する、つまり手応えをできるだけ遠隔化、先延ばしにしないで、手応えを結構その都度得られる、というタイプの仕事に就くということは重要なんじゃないかという気がする。 で、おれさぁ、これ(『眠らない女』酒井あゆみ著)、まだ一行も読んでないから分からないけど、酒井あゆみっていうのはちょっとAC系の子だよね、僕彼女と話したことがあるから分かるんだけど。やっぱりほら、向こう(風俗等での客)は性的な欲求を持って来るわけじゃないか。もちろん、その相手の、つまり自分という女の子じゃなくて別の女にだって性欲を発露できるんだけども、何だかんだ言ったって、やっぱり必要とされているじゃないか。だから、タクシーに乗るときに、タクシーが必要だろ。そのタクシーじゃなくたっていいけど、でもお客さんをタクシーで運搬しているときに、そのタクシーは必要とされているわけだから… そういう意味ではさ、「このお客さんは喜んだ」とか、「私のことを褒めてくれてる」とかっていう直接性があるよね。そのことは、酒井あゆみも、前に言ってたことがあるのね。「直接性」という言葉では言ってなかったけど。日ごろの仕事に手応えはない、直接性はない、というふうに思っている子たちが風俗に来ると、本当に直接性だっていうことが… 書いてあるの?そういうことが。 (おれ:後書きの、こことか。)
あ、これだよ、これ!これなんだよ、僕が直接性と言っているのはね。このことなの。別に、風俗じゃなくたって、漁師じゃなくたって、他にもいろんなことがあると思うけど、抽象的に言えばさ、この成熟社会の中でどんどん意味の輪郭や物語がボケていくから、やっぱり身体は直接的だからね、ダンスとかスケートとかにひかれるのも分かるよね。車も直接的だろ、車でドリフトするとかローリングするとかっていうのも、とても直接的なことだ。格闘技もとても直接的じゃないか。自分の体を使って、痛みを感じたりしながら…まあ、リストカットとかさ、自分の体をいじるっていうのもとても直接的じゃないか。 やっぱり、全体として直接性に戻るという動きがあるよね。 「意味から強度へ」と言うときに、「強度とは何なのか」ということを、具体的に「意味に回収できない濃密さ」とは何なのか、といったときに、それはやっぱり直接的なものということだよ、はっきり言えば。だから、その直接的なものを僕たちがいかに、意味とか物語というものによって目を曇らされる…いいことでも悪いことでもないけどね、それ自体は…そのことによって、忘れちゃってきたのか、ということは、一見反文明的なメッセージに聞こえるかもしれないけども、やっぱり感じるよね。 特に嵐の日に漁師さんの船に乗って出掛けた時に、こちとら、全然知恵がないわけじゃない。船をどうするのかとか、魚をどうするのかとか、嵐の中でどう振る舞うのか、とかって、何の知恵もないよね。だからもう全部、運を天じゃなくてその漁師さんに任せるしかない。完全に委ねちゃうわけだけれども、その時やっぱり彼が圧倒的な力を持っているように見えるのは、やっぱりその彼が直接性、その極めて豊かな直接性のただ中にいて、僕たちはその中にはいないんだよね。 例えば、潮目ってあるんだよ。黒潮と沿岸流の境目を潮目って言うんだよね。晴れた日に、「ここが潮目だろ」と言うと、黒いところとブルーのところだから分かるんだよ。でも真夜中の嵐の中で「潮目が分かるか」っていうと、「ライトを海に当てればすぐに分かる」と言うのね。「ここが潮目だ」って言うんだけど、全然分からないわけ。つまりこちらに認識能力がないわけね。どんなに説明されても、「分かるか?」と言われても誰一人分からないわけだ。丘にいる奴はね。 役割とかさ、権威とかあるじゃん、「僕は電通の社員だ」「NHKの社員だ」「年収3000万だ」って。あーいう場では何の役にも立たないよな。そういう直接性から程遠いものっていうのは、あーいう場面で本当に空虚さを突き付けられちゃうわけじゃないか。と同時に、豊かな直接性の世界を持っている人間のすごさというのもやっぱり、圧倒的に突き付けられちゃうわけ。 やっぱり…なんじゃらほいって感じになるよね。「おれは社会学のこと知ってるんだ」って言ったってさ、むなしいよね(笑)。その場では。 直接性というのは、多分そういうことだよね。多分、そういう…まあ、この間自殺したA君(『ダ・ヴィンチ』で特集が組まれた、宮台ファンだった男の子)でもいいけれども、直接性の領域というのを持っていれば絶対に自殺しなくて済んだと思う。 男の子より女の子の方がなぜ図太くて死なないのかというと、女の子の方が…まあ、今までこういうふうには考えてなくて、そこで初めて考えたんだけど、やっぱり直接性ということに近いよね。それはね、第2次性徴以降ということで構わないんだけども、やっぱり生理があるし、例えば性的な視線にさらされる、というのも、究めて直接的だよね。 (おれ:ああ、男だと性的な直接性にあまりさらされることのない分、キツいっすよ) うーん、やっぱりそういうものが遠隔化されてるっていうのは、ものすごく大きなハンディキャップになりうるね。 ということで、直接性というキーワードも重要かな、って思ったね。 本当はさ、おれ思うんだけど、こういうのって民俗学の研究とも絡むのね。例えば、何で地名が「油津」なのかというのをいろいろ調べると、アビラツ神社というのがあって、アビラツ姫っていう、古事記のお姫様を祭っているところなんだよ。宮崎県の海って、そうなのね。「この花咲くや姫」とか、古事記でいろんな登場人物が出てくる神話が満ちあふれている、そういう場所なの。まあ、九州は全体的にどこ行ってもそうなんだけども。で、どういうわけだか全く由来も分からないんだけれども神事を司る家が決まってて、っていうことがもう今は忘れ去られちゃったのね、ほとんど。全部そういう役割、コスモロジーが決まってて、というのがある場所なのね。宮崎県というのは実際に岡倉が全部山の方に登ってて、日本の比較的民俗文化の古い層が圧倒的に残っている場所だから、民俗学的な見地から多分、こういうお祭りとか油津という町を調べても面白いと思うけど、僕が言いたかったことは、社会学だろ。まあ、僕はまだそういう力量がないけれども、そういう民俗学的な領域と社会学的な領域の接点に、とても豊かな問題があるな、と思いました。 どういうことかって言うと、今直接性というふうに言ったけれども、例えばある民俗学的な風習とか文化、お祭りの形式とかしきたりとかが残っているっていうことは、お祭りで言えばある種の強度、あるいは人間に即して言えば直接性というのを崩さないための枠組みだよね。絶えずある場所に行けばある直接性、ある強度が訪れるような、そういう環境が整備されてると言ってもいいけども、そういう平衡状態、ホメオスタティックな恒常性を維持するシステムだな、というふうに思いました。 やっぱり僕たちの文明化というのは、普遍的な意味や意義というものを使って、そういうローカルなコスモロジーを解体していくじゃないか。そこはどこでも言われるところだけれども、そのことによって、やっぱりその直接性とか強度を巡る恒常性の維持メカニズムが、完全に壊れて、壊れた部分が意味に求心化することで何とかそのことに気づかなくさせる、あるいは意味のまぶしさに目をくらませて、恒常性が壊れているということに気づかないことにさせてきたけど、今それができなくなって、何で皆苦しいのか、とか… |