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◆その2 うらやましい おれは一日の経験だけどさ、毎日似たような経験しているわけじゃん。それもすごいなって思ったし、あとやっぱり、どこでやったら何が捕れるっていうことは、いくら経験を積んでも不確定なわけじゃん。全部試行錯誤でやってて、でも当たればどーんと魚が捕れて、手ごたえがある。ダメだったらダメで、今日はスカだった、というのもあるわけじゃない。 まあ、狩猟民族は皆そうって言えるけど、それもなんか、いい感じがした。 つまりね、全体としてはっきり言ってちょっとうらやましい感じがしたんです。その船に乗った経験を。そういう手ごたえのある仕事っていうのは、なかなか難しいよね。僕のモノ書きの仕事にも確かに似ているところがある。 サラリーマンつうのはさ、例えば「〜の企画をたてろ」といって、企画を立てて成功したかどうかは、しばらくしないと分からないし、成功しても成果は会社や上司に持っていかれちゃうから、自分がやって自分が成功して、それが自分のものになるという経験を持たないじゃないか。すごく「間接化」されてるよね。見えない、延期されてる。遠隔化されてるよね。だからダルいと思う。 だからそういう意味で言うと、僕たちにとって遠隔化(間接化)されてるはずのものが直接性を帯びて身の回りに存在するから、それがやっぱり、すごくうらやましいという感じがしたし、凡庸な言い方だけど毎日やりがいがあると思う。 それはね、漁師さんたちに聞いても、やっぱりそれは言うわけ。油津の、30人の近海の小型船の漁師さん…僕たちが乗ったのはその小型船組合の組合長さんである広若さんの船に乗ったんだけど、広若さんもそうなんだよ。20代までは東京生まれ・東京育ちで、お父さんが元々漁業をやっていたんだけど、漁業をやめて、東京に行って会社を興そうとしたのね。その時に東京に生まれた人なの。20代まで東京にいたんだけど、お父さんがいち早く田舎に帰って漁業を始めて、そのお父さんが病気で倒れちゃったのね。その時に、迷いに迷った上で、(油津に)戻って来たわけだ。 そういう人がとても多くてね、小型船組合の半分ぐらいがそういう感じの人なわけ。 その理由としては、一つは、世代の問題があるかもしれないね。つまり、50代の人というのは、団塊の世代よりも一つ上くらいの人だと思うんだけど、そういう人は大体そういうのが多いわけ。多分、都会に対するあこがれが強かった時代じゃないか。1960年代というのは、金の卵とか言われたし、都会の景気もよかったし。 出身はいろいろで、油津の出身の人もいれば、油津の近所の日南市、あるいは更に宮崎県の沿岸の他の町の出身の漁師さんもいるんだけど、その多くが、成人になってからも、まあ要するに一回都会に出て、サラリーマンをやった人が多い。広若さんもサラリーマンをやっていたし。それから、島田さんという人は、何と51歳まで日南市の役場で役人をやっていたんだよ。まあ、他にもそういう人が何人かいるのね。だから、出戻り組だよね、本当に。 そういう好景気とか、都会へのあこがれの強かった時代に町に出て、大体オヤジが病気になったとか、倒れたとか、死んだとか、その時に、船とか様々な網とか、そういう資源があるじゃん。それで「後を継ぐのか継がないのか」という選択に直面して、結局ふに落ちないまま戻ってきたという感じの人。 でもね、広若さんも、やって3〜4年するうちに、「こっちの方がいい」って、やっぱり思うようになった。さっき行った島田さんという役所の人は、元々釣りが趣味だったということもあって、年金って勤続20何年くらいしないともらえないんだけどさ、勤続年数勤めあげて、「漁師になろう」って。「漁師の方がやりがいがあるから」って。 広若さんは、逆にある程度時間が経ってからやり始めたから、「こりゃやりがいがあるな」って、やっぱり思うようになるんだね。それは、漁師さんの言葉では、「全部、人を頼らないで自分でやるところが面白いところだ」「人に頭を下げないで済むというとこも、この仕事のいいところだ」、と。だから、全部自分しか頼りにならない世界だから、皆と協力して何かやってりゃ捕れるとか、収穫があがるとか、そういう保証が全くない。あるいは台風が来れば皆同じくらいに被害を受けるということもないわけだよ。 だから、一応ルールで、漁場は教えあうことになっているんだけど、お互いはライバルなんだよね。だから、「あの人は捕れて、こっちは捕れない」とか、そういうことばっかりなわけ。 漁法も、皆実はトロールやってる奴もいれば、ハエナワやってる奴もいる、ハエナワも実はいろんなやり方があって、それぞれちょっと違うやり方でやってるのね。そういう意味で言えば、ちょっと農村共同体の「皆おんなじ」的共同体主義っていうのが、全然ないんだな。 でも、仲間うちで険悪にならない理由は、やっぱり、お互いライバルだけど、共同利害があるわけ。それは、「漁業権」というものを他に対して守らないと、他の町の漁師の人達に持って行かれちゃったりとか、漁場を荒らされちゃったりとかするわけ。あるいは、ライバル同士だから、おきてを破らないと決めておかないと、侵害しあっちゃうわけ。微妙なわけだよ。 例えば、漁師の数は油津の中でこれからもどんどん減っていくわけだよ。減っていけば困るわけだろ。と思いきや微妙で、減ると縄張りが増えるから喜ばしいという面も、正直言ってある。でも減れば、漁師の数が減るということはさびれるということ。だから、そこは、「数が減ると困りますねぇ」「うん、本当に困ったもんだ」というふうに皆ならないっていうのが、農村と違うところなんだよねー。大分違う。 ★★★ヽ(´ー`)ノ★★★ まず、いくつか整理するけどね、最初の方に言った問題、「出戻り組」という問題が一つある。あともう一つは、農村と漁村の違いということも随分思った。 そのことと両方関係あるんだけど、僕は「意味と強度」ということをずっとやっていたじゃないか。 こういう時代になったせいで、ああいうところで漁業をやっているという意味がすごく変わってると思うのね。その辺のことを順次話したいと思うんだけど。 今回のこの番組は、実は油津の、十五夜の「綱引き祭り」という祭りを取材する、これがメインなんだよ。それはどういうことかというと、僕はこう思う。個人に着目すると、出戻り組が多いだろ。このお祭りも、実は1962年から81年まで、19年間中断しているのね。要するに、お祭りも、出戻りじゃないけど、要するに復活したお祭りなんだよ。復活して約17〜18年経っているという感じなのね。 両方に共通して、単なる共同性の自明性の中に浸っているというんじゃなくて、「選んでる」という感じがすごくするのね。お祭りも漁業も、敢えてやっている。 その辺が、僕にはすごく感慨が深かった。 多分この番組の柱はね、「敢えて」ということだと僕は思ったの。「敢えてやる」、ということ。敢えてやる理由は、まずその個人が漁業をやるという点について言うとね、やっぱりさっき言った直接性、手ごたえということだと思う。自分たちのやっていることは金にはならん。実際金にはならんのね。大体、船を出すだけで7000円のコストが一回かかるんだけど、水揚げ高が3万円しかないんだよ。そうすると手元には2万円ちょっとしか残らないんだよ。大体25日出るとしても、売上で50万になるかならないか。大体さ、子供3人くらいいるんだけど、年収600万だぞ。それで、ものすごい重労働だよ。尚且つ、けが、遭難などのリスクがすごくあるし、これから漁業資源は先細りだし、近海も含めてマグロの総量規制というのも始まろうとしているし、とてもじゃないけど先行きが明るいとは言えない仕事だけど、でもやっぱり、手ごたえがあるんだよね。 「漁師の仕事は面白い」と、皆はっきり言うわけ。僕は思うんだけど、昔だったら、金がもうかるのにね、別のことをやったら、例えば、同じ漁師でも、遠洋のマグロ船に乗ると、お金がもうかるんだよ。昔だったらそういうのにわざわざ背を向けて、自分でちまちま小型船を動かしているのっていうのはすご対抗的で、ナンセンスで愚かな振る舞いに見えたと思うんだよね。 でも、時代が違ったんだなーと実感するのは、話を聞いて、愚かに聞こえるどころか、やっぱりはっきり言ってうらやましく聞こえるんだよね。「そうか、こういう種類の仕事、こういうふうにして金を稼ぐやり方があるのか」というのは驚きであると同時に、うらやましいね。 僕はさ、ちょっと自分の仕事のことを考えたんだけど、まだサラリーマンやったり、今なら今教員をやったりするということに比べると、漁業は一回一回、一日で完結する仕事じゃないか。まあ、モノを書くというのも、ややそういうところがあるよね。一回一回、その一回について成功や失敗ということがわかる、というのは、まだ自分はラッキーな仕事をしてるかな、と思ったし、そういう意味では「手ごたえを楽しむ」という態度で仕事に関われば、それはちょっと漁師っぽい仕事なのかな、と思った。 (おれ:でも結果が出るまで待つことになるからちょっと間延びしますね) そこは残念だよね。でもね、おれ、書いてて思うんだけど、モノを書いた時点で、うまく書けたか書けないかというのは、自分がよく分かるんだよ。で、自分が思った通りの反響しかこないよ。おれが成功したと思うものはやっぱりいい反響だし、おれが失敗したと思うものは悪い反響で、狂うということは今まで一回もないから、予測できる。 (おれ:それはちょっとつまんないすね) そんなことないよ。いいモノを書こうと思って書けるもんじゃないもん。偶発性があるから。一生懸命頑張って、「ああ、よかった、今回はたまたまうまく書けた」「たまたまうまくいかなかった」っていう。そういうもんなんだよ。うまく書こうと思ったから書けるもんじゃないから、それは漁と同じで、「今日はいっぱい捕ろう」と思ったから捕れるもんじゃない、というのはよく似ているのね。ただ、反響は確かに遅れるけど、手ごたえというのは反響とは別に、自分でやったことを自分で読むから、それで自分で読んだ時に手ごたえがあるわけよ。「書けたな」とか「こりゃだめだ、スカだ」とか。特に、翌日読んだらはっきりするよね(笑)。 そういう意味でね、そういう「直接性」っつうのは、一つキーワードなのかな、と思った。 |