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◆その4 手応えを感じるということ 今ようやくね、「街で生きる」つって東京出てきてもクラブもあるしストリートもあるしダンサーも( )できるし、急速に変わりつつあると思うんだよ。でも、そのことを少し割り引いて考えるとしても、例えばTVを見て、吉本の連中とかジャニーズの連中に憧れて、東京に憧れて東京の大学にして、就職してどっかの会社に入って…という生き方って、やっぱ、輝いてないよね。 つまり、僕が言いたいのはね、今は過渡期のせいかもしれないけど、僕みたいな大人から見ると、昔は全く輝いていなかったこの街が、バブル崩壊で社会のムードが変わりつつある中で逆転して見えるんだよね。東京とか都会の生活とか、サラリーマンやることとか、情報産業に関わることとかさ、全て昔は景気が良かった時はすごく輝いていたと思うんだよ。むしろ情報から隔離されてることとか、金がもうからないとか未来がないとか、上昇チャンスがないというのは、すごく沈滞して見えたと思うんだけども、都会の輝きというのは、やっぱり景気がよかったからだ、という感じがとてもするよね。 バブルが崩壊して、まあそれだけじゃなくて背景には「成熟社会化」という、いろんなことがあるんだけど、少なくともまあ、僕みたいな世代の人間からすると、都会はあんまり輝かしくなくなってきつつあるから、やっぱり逆転して見えるんだよね、どっちが輝いているのかということが。 そこいくと、漁師やってる連中も、そういう世の中の変化のこと,広若さんとか、やっぱりある意味では分かってると思うんだ。だから自分たちが今取材されてるし。 ただ、何度も言ったように、自分たちが、未来が明るいわけじゃない。完全に先細り。ただ、自分たちが今漁をやって、先が暗いけれども充実した毎日を生きているということは、実はとても大きなアドバンテージではないかということは、直感していると思うんだよ。 だからサラリーマンをやめた人達も、役人やめた人達も、皆「やめてよかった」と思ってるわけだよ。一人の例外もなくさ。 昔だったら「負け惜しみ言いやがって」みたいに聞こえたかも知れないけど、全然そういうふうには聞こえないよね。やっぱりそういう時代状況が大きく変わっていく中で、昔輝いてなかったものが輝いて見える、というその事実は、やっぱり否めないんだね。 あと、まあ、単なる共同体主義と勘違いされやすいんだけども、やっぱりああいう祭りの共同性をね、つまり祭りを通じてある種の共同性を復活するということの意味は、とてもよく分かるのね。 これはなぜかっていうと、いくつか理由があると思う。それはさ、もう自明な共同性じゃないんだよ。もう、一回壊れているものだから、それをその、祭りというものを軸にして、人為的に選び直すという契機があるのね。つまり、自己決定で共同性を選択するという契機があると同時に、「祭り」だということが重要なんだよ。祭りには直接的な意味は何もないし、何も主張しないし、何か意味に人を巻き込むわけじゃなくって、単に暴れる、喧噪の中に身を浸すというね。 (おれ:その祭りって結構盛り上がるんですか?) 参加している当人は盛り上がるって。だから、そういう祭りの準備を通じても、盛り上がっているのはよく分かるよ。縄を作ったり、「獅子頭」っていう竜の頭を一生懸命作っているんだけど。 無意味だよ、はっきり言えば。「何やってんだ、漁で疲れ切ってる漁師さんたちが竜の頭を作ったり縄を作ったり」って。でも、すごく楽しそうなんだよ。 だから、その共同性の質が、意味よりも強度を、つまり体感とか濃密さとか、そうしたものを中心にしたものだということが、もうやっぱり大きなポイントだと思うのね。 そういうことが重なるから、僕にとっては、これはすごい…どう言ったらいいんだろう、僕から見たらうらやましく見えるような選択肢を選んでるな、っていう感じがすごくするよね。 ディレクターたちとも話したんだけど、「モノを書く」という作業もそうだし、TVでも番組を作るという作業もそうだけど、最初モノを書いて、人に読んでもらえる、という、それ自体が手応えだったし、興奮することだったんだけど、2年もしないうちに、何も感じなくなっちゃうんだ、実は。 自分の書いたモノが人に読まれるなんていうことは、何も感じないことになっちゃったよね。「お前はアレを書いた宮台か」と言われるのが、ウザいよね、かえって。…とさえ思うくらいであって、だから全体として、モノを書くっていうのは意味を紡ぐ作業だから、そのこともあるんだと思うんだけど、そういう作業自身に意味を認めるとか、…さっき言ったことと一見矛盾するように見えるけれども、手応えを感じるということはなかなか難しいことなんだよ、簡単に言えば。どんどん風化していくし、どんどん実感(体感)が間接化されていくわけ。それで結局ルーティン・ワークになっていって、僕もそうだったけど、今回たまたま漁師の取材で、「ああ、おれ体感というものを取り戻すことができないわけじゃないだろうな」と思うわけだけども、ともすればルーティン・ワークで締め切りがやってきて、ルーティン・ワークで書いて、それで自分の書いたものを整理したりしてないで、もうこーんなにたまっちゃってるけど、自分が何書いたかも全然忘れちゃってて…という。そうなるじゃないか。 で、ごめんなさい、反文明的に聞こえるかもしれないけど、あそこで思ったことは、正直に言うけれども、「意味から強度へ」という方向に今成熟社会が向かいつつある、ということを繰り返し繰り返し言っているけど、で、それはいいことなんだよ。 そういうベースの中で言うんだけど、つまり今まで…ほら、僕、よく例えば「モノの豊かさも、未来のために頑張るというのも、社会のために犠牲になるというのも必要な振る舞いだった」というふうに言ったけれども、それによって覆い隠されていたものの大きさというのは、自分では、言ってはいたけど、すごく大きいな、という感じがするよね。 ちょっとうまく口では出てこないけど、…「直接性」だよね。つまり「手応え」。毎日生きるだろ?それで、今日生きたことの手応えはこれだ、という感じって、実は昔の人は持っていたよね。まあ、狩猟民は皆持ってるのは当たり前だ。じゃあ、農耕民はどうかと言うと、農耕民はもちろんタイムスパンずっと大きいけど、林業になるともっと大きいよ、10年、20年というスパンだからね。でも、やっぱり毎日土に触れて、育つのを見ているからね、毎日毎日。畑と言ったって、単に一種類のものを栽培するわけじゃなくて、複数のものをやったりするわけだし。やっぱり、その日やったことの手応えというのはあると思うんだよね。まあ、昔は貧しいからそういうものがあったと言ってもいいんだけど。 逆に言えば、豊かになればそういう直接性から逃げるから、離脱することができる、と言ってもいいんだけどね。 でもね、やっぱり直接性は、大事だよ。大事。 (おれ:その感覚を取り戻すのに一苦労ですね。) 一苦労だね。僕は、『ダヴィンチ』に今度書くときにもしこのことに絡めて書くとすれば、やっぱり直接性ってことだよね。 |