まもなく上梓される幻冬舎からのハードカバー本の「あとがき」
まもなく幻冬舎から宮台のハードカバー本『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』が上梓されます。告知をかねて、あとがきをご覧に入れます。
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あとがき:誰が誰のために何をするのか
【グアンタナモ収容所という出鱈目】
オバマ大統領は、2013年5月30日の会見で、2001年の同時多発テロ事件の後、テロとの関係が疑われる外国人を、令状なしに拘束しているキューバ隣接地のグアンタナモ収容所について、「アメリカを安全にするには収容所は必要ない」と述べ、議会に対して収容所閉鎖を認めるように求めていく方針を強調した。だがこれは真意の疑わしい表明だ。
国際世論はグアンタナモ収容所で人権侵害が行われているとの批判を浴びせてきた。オバマは2009年の就任当初、収容所内の特別軍事法廷での審理を停止、1年以内の収容所閉鎖を打ち出した。だが「収容者を国内移送すればテロの標的になり、収容所から解放すれば復讐のためにテロを行いかねない」と議会の大反対に遭い、実現が頓挫したままだ。
オバマは議会の反対を理由とするが、実は口実に過ぎないだろう。オバマ自身そうした危惧を抱くことが間違いないからだ。だが、どんな理由にせよ収容が長引けば長引くほど、怨念が蓄積する。怨念が蓄積すれば、ますますヘ復讐テロの蓋然性が高まる。かくして、グアンタナモ収容所は、脱出することの困難な悪循環に入り込んでしまったのだ。
この悪循環をオバマの政策的失敗だと考えて済ませる訳にはいかない。誰が大統領であれ、収容所廃止による復讐テロの蓋然性があれば、そのリスクよりも近代の人権価値を優先して収容所を廃止することは、ウェーバーの政治責任論的にも困難だ。「結果倫理としての政治責任より、心情倫理的に市民責任を優先させた」と批判されるからだ。
2004年に原著が出版された『許される悪はあるのか?』で、自身が政治家でもあった著者マイケル・イグナティエフが、「デモクラシー擁護のためのデモクラシー停止は、手順がデモクラシー的に正当化されれば許容される」と述べた。むろん2001年の同時多発テロを踏まえた議論だ。こうした道理によってグアンタナモ収容所も正当化されるのか。
だが、彼が言う「デモクラシー擁護」も「デモクラシー停止」も中身は未規定のままだ。「過ぎたるは尚及ばざるが如し」だとしても、これでは「過ぎたる」か否か判断不能だ。加えて彼が想定しなかったことだが、仮に「過ぎたる」ことが分かっても、先の悪循環ゆえ「今更やめられない」。実際、この悪循環で「人権の盟主アメリカ」は地に落ちた。
【遺伝子組換え作物の特許権侵害訴訟】
アグリビジネスの最大手モンサントが、遺伝子組換え作物の特許権を侵害されたとして、2007年にインディアナ州の農家を訴えた裁判で、アメリカ連邦最高裁判所は5月13日、モンサント側の主張を認める判決を下した。判決は、特許権が設定された種子を、特許権所有者の許可なく農家が栽培することは、特許法で認められていないと判断している。
だが、よく読むと判決には微妙なところがある。問題の種子は、モンサントの除草剤ラウンドアップに耐性を持つ遺伝子組換え作物「ラウンドアップレディー大豆」であった。強力な除草剤であるラウンドアップを撒くと、雑草がパーフェクトに除去されるにもかかわらずラウンドアップレディー大豆だけが残る。除草コストを省く「便利」なものだ。
農家はラウンドアップレディー大豆の種子を盗んだ訳ではなかった。別の種苗会社から種子を買っただけ。だが中にモンサントのラウンドアップレディー大豆の種子が含まれていた。それは花粉飛散ゆえに必然的だ。いずれにせよ買った種を蒔いてラウンドアップを散布すれば、ラウンドアップレディー大豆の種子から出た苗だけ生き残る。
農家はそれを承知していた。そのため、ラウンドアップレディー大豆の種子の入手を目的として別の種苗会社から種子を買ったと見做された。農家は別の会社から購入した種子からラウンドアップレディー大豆の種子を除去すべきで、それが不可能なら―実際不可能だが―ラウンドアップを散布すべきでなかった、と裁判所は判断している。
だが、モンサントによるラウンドアップレディー大豆の開発さえなければ、農家は種子の選り分けなどしなくてもよかった。その意味で本来ならモンサントがラウンドアップレディー大豆の除去作業をすべきだろう。むろんこれも現実的でない。それゆえ、膨大な開発費用をかけた遺伝子組換え作物の開発を保護すべく、この奇妙な判決が下された。
【ミリアド・ジェネティクス社の特許裁判】
2009年5月、アメリカ分子病理学会を含む7団体は、ミリアド社の遺伝子関連特許を無効であるとして、ニューヨーク州南地区地方裁に提訴した。問題の特許は、①乳がんと卵巣がんの発症をもたらす単離された遺伝子の特許、②これらの遺伝子の変異を検査する方法についての特許、 ③これらの遺伝子を用いたスクリーニング方法の特許、である。
特定遺伝子が特定機能を有するという事実を発見するには莫大なコストがかかる。だからといって、遺伝子と機能との間の結びつきについての情報を特許だとすることは、従来の法実務から見て極めて異常だ。そのことは「ある臓器がどんな機能を果たしているか」という情報が特許になっている社会を考えてみれば、思い半ばに過ぎることだろう。
実際、2010年3月のニューヨーク州南地区地方裁判決は、これら特許を一切認めなかった。ところがこれにミリアド社が上訴し、2011年7月に連邦巡回控訴裁判所は、①と③についての特許を認める判決を下した。これに対し2012年3月、連邦最高裁が審理やり直しを連邦巡回控訴裁判所に命じたが、2012年8月の差戻し審で、結論を変えないとの判決が出た。
これに対し原告7団体が上訴、2013年4月から最高裁で口頭弁論が開かれている。6月下旬に最高裁判決が予定されている。本書が出回る頃はは既に最高裁判決が出されていよう。仮に、連邦巡回控訴裁判所と同じように、連邦最高裁でもミリアド社の主張が認められたとした場合、昨今の法実務が直面する状況を象徴するケースになることは間違いない。
一口で言えば、先の遺伝子組換え作物の特許権侵害訴訟と同じ「大岡裁き」ということになる。法が想定していない事態に直面して、判例からかけ離れた法解釈を施すからだ。社会学者ニクラス・ルーマンによれば、実定法システムは立法を通じて法がたえず社会を学習せねばならない。だが社会変化の速度が過剰である場合には学習が追いつかない。
一般には、憲法がリテラルな法文面よりも立憲意思を参照して解釈せねばならなのに対して、法律は立法意思ではなく専らリテラルな法文面を参照して解釈するべきだとされてきた。統治権力が市民社会に従属するべきだとの観点から、憲法については市民の意思を参照し、法律については統治権力の恣意的運用を抑止すべく法文面を参照するのだ。
だが今日では社会変化の速度が過剰であるがゆえに、こうした法原則の適用が難しくなった。例えば、法律であるのに立法意思をあたかも憲法であるかのように参照せねばならなくなったり、場合によっては法文面からも立法意思からもかけ離れたような法運用をせねばならなくなってきている。私が若い頃には考えられなかったような事態である。
ちなみに2013年5月のニューヨークタイムズ紙に載ったアンジェリーナ・ジョリーの寄稿によれば、彼女は、卵巣がんの発症に関わる遺伝子に変異があるとして、乳がん予防のために乳房切除の手術を行った。この遺伝子こそ、その機能情報についてミリアドジェネティクス社が特許を主張する当のものだ。だが、日本のマスコミは全く報じていない。
【クラフトワークのワールドツアー】
2013年5月、赤坂ブリッツにクラフトワークのワールドツアーライブを見に出かけた。クラフトワークのライブは何度か見てきたが、今回は群を抜いていた。2つポイントがあった。第一に、自らの35年の営みを大きな歴史の流れの中に位置づけていた。第二に、全体主義を批判するのに全体主義を以てすると言う逆説を意図的かつ見事に体現していた。
実験ロックから出発したこのバンドが、テクノポップに転向したのは1975年。以降の彼らは、アルバム『アウトバーン』にせよ『ヨーロッパ特急』にせよビークル(乗物)をモチーフにすることになった。その理由が、今回、3Dのデジタルムービーを通じて極めて明確に表現されていた。一口でいえば「テクノロジーが引き起こす眩暈」ゆえである。
今回のワールドツアーで使われた3Dデジタルムービーは、メルセデスやフォルクスワーゲンや超特急列車の魅惑的な姿が、巨大な走行音のリズムとシンクロした電子音と相俟って、強烈で独特な酩酊感を与えることに貢献していた。そこに突如ハーケンクロイツが提示されたとしても違和感を感じないと思わせるような、全体主義的な作りであった。
これが意識的表現であることは、もう一つのモチーフに照らせば明白だ。アルバム『ツール・ド・フランス』の楽曲に使われた3Dデジタルムービーでは、肉体の機能美が強調された。これは、もちろん、戦間期に活躍し、ナチスオリンピックの重要なアイコンとなった、写真家レニ・リーフェンシュタールへのオマージュであることが明らかである。
ところが、こうして夙に知られた全体主義的な動員装置を連発した挙げ句に突如、観客に「原発、すぐやめろ!」のメッセージが提示される。アルバム『放射能』の楽曲につけられた3Dデジタルムービーを通じて、まさに「テクノロジーの眩暈」こそが我々を思考停止的に原発へと誘った本体だという事実が暴露される。極めて逆説的な表現である。
このメッセージは、観客が「テクノロジーの眩暈」ゆえに変性意識に入った段階で、巨大な日本語ロゴと、ツアー向けに作られた日本語歌詞によって、圧倒的迫力で示される。背筋がゾクゾクするほどの洗脳力だ。「テクノロジーの眩暈」という全体主義的方法によって、当の「テクノロジーの眩暈」が全体主義的にもたらした原発行政が批判される。
翻ってみれば、40年前にティモシー・リアリーが推奨したドラッグレスハイとしてのコンピューターグラフィックスやコンピュータミュージックは、「テクノロジーの眩暈」と言う点がそもそもバウハウス的で、全体主義と親和性が高いのだ。私自身うっかり見逃していたこの事実を、クラフトワークはかねて明瞭に意識していたということなのだ。
【全体主義を以て全体主義を制す】
全体主義に抗うのに、非全体主義的な―徹底して民主主義的な―やり方は、採用できないのか。あるいは、有効性が低すぎて、全体主義に抗いきれないのか。今日、最先端の政治学や政治哲学においては、悲観的な見方が広がっている。そうした見方は法学者キャス・サンスティーンや政治学者ジェームズ・フィッシュキンによって代表されている。
背後にあるのはグローバル化=資本移動自由化である。資本移動自由化によって格差化と貧困化が進む。中間層が分解し、共同体が空洞化して、個人不安と鬱屈にさいなまれるようになる。そのぶん、多くの人々がカタルシスと承認を求めて右往左往しはじめる。かくして、ヘイトスピーカーやクレージークレーマーが溢れがちな社会になるのである。
そうなると、不完全情報領域があれば、極端な意見を言う人ほど、カタルシスと承認を調達できるがゆえに、他を圧倒するようになりがちになる。こうした傾向が、投票行動において見られるのみならず、投票に先だつ熟議においてすら見られるようになる。こうした現象をサンスティーンは「集合的な極端化」と呼び、民主主義の危機だと見做す。
彼らは、こうした傾向に抗うには、取り敢えず不完全情報領域の最小化が必要だとする。そして、そのために周到に設計された熟議を提案する。熟議の制度設計に際しては、専門知を有したエリート、すなわち卓越者の働きが極めて重要になる。このような立場を、サンスティーンは「二階の卓越主義」と呼ぶ。耳慣れない言葉だから、少し説明しよう。
意味は「コミニュケーションの内容選択において卓越性を示すかわりに、コミュニケーションの手続選択において卓越性を示す必要がある」ということだ。このことから分かるように、二階の卓越主義は、卓越主義一般と同じくエリート主義的なパターナリズムの一種である。このパターナリズムは、必然的に全体主義の色合いを帯びざるを得ない。
パターナリズムは父親的温情主義と訳される。「お前にはまだわからないだろうが、これはお前のためだ」と言う類のコミニュケーションを指す。親や先生の子供に対するコミニケーションは、親や先生を選べない子供にとって、必然的にパターナリズムの色合いを帯びる。一口で言えば、教育はどのようなものであれパターナリズムを前提とする。
制度設計に関わるパターナリズムは、社会的全体の観点から個人を非自己決定的に誘導する点で、多少なりとも全体主義的だ。たとえ「パターナリズム」と言い換えられ、さらに「(二階の)卓越主義」と言い換えられてはいても、今日では、民主主義保全のための全体主義的方向付けが、条件付きではあれ、肯定されるようになってきているのだ。
要約しよう。グローバル化と民主主義の両立不可能性に抗うために、民主主義を補完する装置として、[二階の卓越主義⊂パターナリズム⊂全体主義的方向]が必要であることが、少なくともアカデミズムでは理解されるようになってきた。「民主主義単独では、民主主義の外部性を調達できない」と見立てられるようになった、ということである。
外部性とは経済学の概念である。「市場自身によっては調達できない、しかし市場にとって必要不可欠な前提」のことを言う。かかる理路に従えば、民主主義にも当然ながら外部性がある。すなわち「民主主義自身によっては調達できない、しかし民主主義にとって不可欠な前提」が存在するのである。これは例外のない完全に一般的な命題である。
敗戦後の日本に対するGHQ(占領軍総司令部)の構えを見れば明らかなように、民主主義の外部性にかかわる、場合によっては検閲さえをも伴う全体主義的な注入は、かつて全体主義的な後発国すなわち枢軸諸国にのみ、専ら必要なことだと考えられてきた。それが昨今、民主主義の先進諸国においてすら必要だと考えられるようになってきている。
【卓越者の公的貢献動機が疑わしい】
だが、それだけでは話が済まない。卓越者が公の利益のために活動すると何ゆえに信じられるのか、という問題が残る。グローバル化による様々な共同性の空洞化が民主主義の健全な作動を危うくしたから二階の卓越主義が要求された訳だが、同じ共同性の空洞化が、卓越者の公的貢献動機―社会への価値コミットメント―を怪しいものにするのだ。
エリートが公的貢献動機を持つのは自明でない。それは国民国家が奇蹟的産物であることから分かる。近代社会は、国家を社会の道具だと考える。言い換えれば、統治権力を市民の道具だと考える。この国家道具観を刻印するのが憲法だ。統治権力の暴政による「悲劇の共有」をベースにした、統治をどう縛るかについての市民の覚書きに相当する。
さて国家が道具としての機関stateに過ぎないなら、道具の使い勝手が悪ければ放棄して移住すれば良いことになる。日本で言えば、アメリカの51番目の州になるとか、漢字文化圏として中国に併呑されるとか。だが属領化や奴隷化の恐れがある。自分たちで自分たちの機関を持つしかない。自分たちという意識を可能にするのが国民共同体nationだ。
だから、社会が国家を道具とする近代では、国民国家nation-stateの形が必然的なのだ。国民共同体への価値コミットメントは、自生的だろうが注入的だろうが歴史的事実性であり、論理的正当化だけ済む訳ではない。日本の歴史を見ると、維新後の(不十分な)近代化では、天皇という表象が国民共同体nationをもたらした。ここに実は矛盾がある。
三島由紀夫は矛盾を意識していた。確かに三島は天皇絶対主義を説く。ところが、彼は、日本が天皇絶対主義を必要とする理由を理路整然と述べた文章をしたためる。然々の機能があるので、絶対的存在たる天皇が不可欠だ、と。おかしい。機能が存在理由ならば、天皇は入替え可能だ。等価な機能を果たせば天皇でなくてもいいという話になるからだ。
この矛盾は近代天皇制の宿痾だ。機能的理由を根拠に天皇絶対主義を説く。つまり相対主義的理由で絶対主義を置く。この構えは岩倉使節団系に由来し、戦前戦中にも田中智學の國柱會に先鋭な形で見られた。現に岩倉使節団系にも國柱會にも真の天皇主義者はいなかった。これらの場合、天皇はエリートが民を操縦する手段だから、矛盾が小さい。
とはいえ、矛盾は消えはしない。民を国民共同体に所属させる手段が天皇なのは良いとして、エリート自身がなぜ国民共同体に貢献しようとするのかが、謎として残るからだ。エリートに、国民共同体への貢献動機のかわりに、単なる蓄財動機しかなければ、矛盾はしない。西郷隆盛が大久保利通の単純欧化主義を疑惑するのは、この点においてだ。
こうした似非エリートを取り除くには、真に国民共同体への貢献動機を持つエリートが存在する必要がある。かかるエリートをもたらすには、エリート自身が天皇絶対主義に帰依する必要がある。だが「必要がある」というのは機能的思考だ。こうして、相対主義的な機能的思考の延長上に、天皇絶対主義的エリートの存在が要求されることになる。
これが三島の機能的思考だ。現に三島は東大全共闘との討論会で全共闘エリートが国民共同体への貢献動機を持つかどうか疑い、天皇陛下万歳を要求した。だが、機能的理由で「エリート自身の」天皇絶対主義を要求するのは、絶対性の相対化であって、矛盾だ。矛盾を橋川文三に突かれた三島はあっさり認める。当初から矛盾を自覚していたからだ。
矛盾を弁えていた三島は、橋川との応酬で、自らが今上天皇に絶対的に帰依するという事実性を示すに留める。だが、三島はこの事実性を、所詮はどうとでも言える文筆で示すのに飽き足りず、最終的には自衛隊市ヶ谷駐屯地での切腹を以て示すに到る。ことほどさように、三島の言動は、巷間の理解とは違って、意外にも筋が通っているのである。
【旧枢軸国から旧連合国への疑惑の拡張】
こうした矛盾や疑惑は元々日本だけに見られるものではない。国民共同体の意識をエリート層が意図的に醸成しようとした後発近代化国には多かれ少なかれ見出されるものだ。ベネディクト・アンダーソンは国民共同体意識の意図的醸成を支配層の危機対処として描き出すが、ここではヘルムート・プレスナーに従って全体性との兼ね合いで見てみる。
三島は全共闘に尊王を要求した。無論彼らが天皇陛下万歳を三唱したところで所詮は邪な動機による尊王の扮技があり得る以上は解決にならない。優等生病(竹内好)的な尊王扮技を恐れるからこそ三島は徴兵制にも愛国教育強制にも反対した。だがここでは「君らはどんな全体性に帰依するのか」という後発国につきものの疑問に注目すれば足りる。
全体性は、一般にカオスが覆う場所でこそ―全体性が非自明な所でこそ―言挙げされる。そのことは、古くはゲルマン的な抵抗権(トマス・アクィナス)と英国的な抵抗権との分化として現れた。後者では王が議会との契約を破ったことが抵抗権の根拠となったが、前者では神に根拠を持つ自然法からの人定法の乖離が抵抗権の根拠となったのであった。
英国における先例主義的な自明性とは対照的に、大陸ではかかる自明性の不在ゆえに誰が全体性を体現するのかが絶えず問題となった。トマスの場合、それは信仰が与える普遍世界=地の国で、教皇が君主に優越するとされた。だがイタリアのダンテの場合、歴史的にはより新しい教皇が全体性を体現することはあり得ず、君主が教皇に優越するとされた。
全体性を僭称する者を疑い続けてきたゲルマンでは、何が全体性か、誰が神を体現するかが、絶えず思考され続けてきた。教皇による全体性体現が疑われ、君主や王による体現が疑われ、聖書による体現が疑われてきた。こうした全体性への疑いを背景として、普遍論争(実念論/唯名論)やグノーシズムや神秘主義が、活性化してきたのであった。
全体性への疑念は、人が究極何に動機づけられるのかの疑念で、政治的紛争を招き寄せてきた。プレスナーが指摘する、ゲルマンに拡がっていた信仰者を俗物視する意識が、典型だ。彼によると、そうした場所では「超越の挫折」が「啓蒙の挫折」をもたらす。宗教的普遍への疑念ゆえに、世俗に普遍が投射されがちだからである(民族精神!)。
「超越の挫折」が「啓蒙の挫折」をもたらす場所では、人が完全であれば名指せるはずの全体性(普遍)があるとする実念論(普遍実在論)が―従って真理に依存する主知主義が―支配的になる。これは、全体性はもともと規定不可能だとする唯名論(普遍仮象論)が―従って内発性を称揚する主意主義が―支配的な英国や後の米国と対照的である。
そうした思考伝統ゆえに英米アングロサクソンでは「全体性とは何か」「全体を操縦する方法は何か」という類の思考が胡散臭がられる。例えば、ウェーバーを通じて「全体性とは何か」「全体を操縦する方法は何か」というドイツ的パターナリズムを継承したパーソンズは一時期を除けばアメリカ本国で不人気で、日本での方がずっと人気がある。
こうして、先例主義的な自明性から見放された旧枢軸圏では、全体性が言挙げされざるを得ないゆえに、全体性が(疑念を含めて)思考の対象になり続けてきた。維新以降の日本もそうだ。それが観念論の生産性を支える一方で、そうした場所では「誰が誰のために何をするのか」が疑われ続けてきた。西郷隆盛の疑いであり、三島由紀夫の疑いだ。
だが、民主主義の外部性(民主主義自体が生み出せない民主主義的前提)が危機に陥って、民主主義の先進諸国ですら全体主義的な注入が必要だと思われるようになった昨今、かつて全体主義的な後発国すなわち枢軸諸国にだけツキモノだと考えられてきた全体性への疑念―「誰が誰のために何をするのか」が、重大な疑問として浮上して来つつある。
【私たちはどこから出発するのか】
このあとがきを書いているたった今、テレビが重大ニュースを報じている。アメリカ政府による「電話やメールの受発信ログからメールやSNSの中身まで含めた個人情報の収集」を報じた英ガーディアンと米ワシントンポストの情報源が元CIAの職員エドワード・スノーデン氏であることが、本人の告白によって明らかになった、というのである。
アメリカ政府の情報機関による極秘の個人情報収集は、無論プライバシーを侵害するものだが、テロ対策の一環としてブッシュ政権下で始まった。ブッシュ政権を批判して人権重視を看板にしてきたオバマ政権が、しかしこうした政策を拡張してきた。テレビには、オバマが会見で「テロ対策上やむを得ない措置だった」と弁明する姿が映っている。
「誰が誰のために何をするのか」。今やこの問いは、近代民主主義の先進ぶりを誇ってきた国を含めて、全ての国・全ての人のものになった。エリートにどんな価値コミットメントがあるのか。彼らが言う公や公共が果たして何を指すのか。グローバル化による社会的流動性の上昇と、共同体の空洞化を背景にして、これらが自明ではなくなっている。
韓国ではエリートが資産の海外移転を進めていると報じられ、エリートの逃走が危惧されている。日本では、アベノミクスとは既得権益を身軽にし追銭するための金融緩和と財政拡大ではないかと危惧されている。どの国でも、社会的流動性上昇と共同体空洞化(による溜飲厨と承認厨)が国民的共同性を疑わしくし、貢献動機を信頼不可能にする。
国民国家nation-stateにおいて「誰が誰のために何をするのか」が自明でなくなったのなら、私たちはどんな社会を営めば良いか。本文でも述べたように中間集団主義ないし共同体主義を出発点とする社会学にとって、実は昔ながらの問いである。この問いを踏まえて、本書では戦後の日本を舞台に「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」を見た。
そこには「誰が誰のために何をしてきたのか」「誰が誰のために何をしていると人々は期待してきたのか」という歴史が示されている。それを一瞥すれば、何ゆえに昨今、国辱的と言うべきヘイトスピーカーや、地域の恥と言うべきクレージークレイマーが、この日本を跋扈しているのかを、つぶさに理解できる。私たちはそこから出発する他ない。
最後になるが、本書の編集に携わってくださった、幻冬舎の穂原俊二氏と志摩俊太朗氏に心から感謝を申し上げたい。住民投票条例に関連する活動や、世田谷区の行政に関わる活動などで、当初の予定から大幅に遅れてしまったことについてお詫び申し上げたい。本書のもとになった各種の講演の主催者の方々にも、御礼の言葉を申し上げたいと思う。
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