文庫版『宮台教授の就活原論』(ちくま文庫)が出ました http://goo.gl/9reqxd
『宮台教授の就活原論』文庫版あとがき
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『14歳からの社会学』から『宮台教授の就活原論』へ
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本書を上梓したのは2011年9月。東日本大震災と福島原発事故の半年後のこと。これらの悲劇が「会社で働くとはどういうことか」という認識に刷新を迫っている⋯と感じつつ本書を著した。それから3年経ち、被災地の大半は復興から程遠いにもかかわらず、原発再稼働を含めてビジネスの世界では、まるで震災や原発災害などなかったかのごとき空気だ。
本書の後も書籍を何冊か上梓した。震災に伴う原発災害に関連した本。それに関わる日本社会の構造的問題を記した本。それに関わる戦後日本の意味論(大衆における観念と命題のセット)の変化を記した本。性愛ワークショップの記録を元にした本。沖縄問題に関わる本。共通するモチーフを一つ挙げれば「〈感情の劣化〉に抗う」ということに尽きる。
このモチーフと本書との関連を述べて文庫版あとがきにかえる。本書は「〈感情の劣化〉に抗う」という震災後の共通モチーフの出発点に位置する。ちなみに社会学者なら誰もが知るように、19世紀末以来の近代社会学ではこのモチーフは伝統的だ。民主制は自立した個人というありそうもない存在を前提にする。この前提が確保されていないとどうなるか?
こうした思考を広い意味で「大衆社会論」と言う。戦間期には、最初の最終戦争である第1次大戦の契機に、社会成員の自立や理性を懐疑する〈反啓蒙の思考〉が拡がる。大衆社会論もその一部だ。例えばW・リップマン『世論』は、戦争や大統領選挙で、新聞やラジオなど当時のマスメディアが張る疑似環境が成員の〈感情を釣る〉可能性を深刻に憂慮した。
戦間期後期(1930年代)に入ると、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムなどの形で憂慮が現実化するが、これに対応してK・マンハイムは日本の霞が関に当たる行政官僚エリートの倫理と手腕に期待を寄せた。むろんそれが無駄だったことは歴史が証明している。H・アレントが言うように、行政官僚らは権力に頭を垂れる「凡庸な悪」に抗えなかった。
第2次大戦後、第2の大衆社会論が勃興した。一つは亡命ユダヤ人らによる批判理論。もう一つはアメリカでのマスコミ効果研究。批判理論は、不安と鬱屈がもたらす〈感情の劣化〉を背景にした〈理性の暴走〉を摘抉した。効果研究は、マスメディアが成員の〈感情を釣る〉のは、各人が対人ネットワークから孤立した場合に限られることを明らかにした。
両者の議論は密接に関連する。前者の議論はT・アドルノやE・フロムの議論が代表的で、後者の議論はJ・クラッパーやP・ラザースフェルトの議論が有名だ。ところが戦後復興に伴う重工業化と人口爆発を背景に、敗戦国を含めた先進国に分厚い中間層が形成され、諸個人が家族や近隣のネットワークに包摂された結果、〈感情の釣り〉への危惧が後退した。
公衆が大衆に頽落する危惧が薄らいで、最近ではトマ・ピケティが言うように、1950年代後半から20年ほどだが民主制(制度としての民主主義)の健全な作動が信頼される時期が続いだ。だが福祉国家政策が財政的に破綻し、国家が「小さな政府」として身軽になると、負担を転嫁された諸個人の不安と鬱屈が再び増大、社会が機能不全を露呈しはじめたのだ。
1990年代に入ると冷戦が終焉し、グローバル化=資本移動自由化が加速した。先進国で格差化と貧困化──中間層分解と共同体空洞化──が進み、不安と鬱屈は誰の目にも見えるようになる。いつでも資本移動できるので有力経済主体は社会の手当てに関心を寄せず、いつでもポピュリズムで〈感情を釣れ〉るので有力政治主体も社会の手当てをしなくなる。
読者が知る社会学は、1950年代後半から1990年頃までの、大衆社会論的な問題設定を忘れた「呑気な社会学」だろう。民主制の作動がそれなりに信頼できたからこそ、フェミニズムやカルチュラルスタディーズのように「民主主義を前提にした覇権」の主題化がなされた。だが民主制の作動が懐疑されるようになると「呑気な社会学」は後景に退いた。
かわりに「民主主義の不可避性と不可能性」というアンビバレンスを主題化する政治学や政治哲学が前景に躍り出る。M・サンデルに象徴される過去20年間の政治哲学ブームもその証だが、ポイントは議論の内容だ。戦間期のように官僚エリートに望みが託されることはない。社会が劣化していれば〈感情の劣化〉を被ったエリートが量産されるからだ。
第2次大戦後の「呑気な社会学」の時代のように、中間層における対人ネットワーク(小集団)に望みが託されることもない。中間層分解がもたらした対人ネットワークの破壊こそ、劣情に訴えて〈感情を釣る〉ポピュリズムの背景だからだ。かわりに望みが託されるのは、小集団の熟議を用いた共同体自治であり、それを支える有能なファシリテイタの存在だ。
こうした議論をC・サンスティーンは「二階の卓越主義」と呼ぶが、マンハイム的なエリート主義と二点で異なる。第一に、マンハイム的エリートは国民国家のマクロなレイヤーで機能するが、ファシリテイタは自治的共同体というミクロなレイヤーでだけ機能する。実は、マクロな世直しが放棄され、ミクロな世直しの積み重ねが辛うじて期待されている。
第二に、ファシリテイタは人々に内容的な指南を与えるのでなく、文字通りファシリテイション(形式的な仕切り)に能力を発揮する。こうした仕切りがないと、J・フィッシュキンの調査が示すように熟議は失敗、サンスティーンの言う「集団的な極端化」を招く。不安と鬱屈を背景にした不完全情報下では、極端な議論をする人々が座を支配できるからだ。
こうした議論はマンハイム的エリート主義における期待のハードルを下げたと見えよう。マクロからミクロへ、内容から形式へ、という点を見ればそうだと言える。だが、ファシリテイタに要求されるコミュニケーション能力、特に〈感情の能力〉は、手続主義的に内容の決定に関わる行政官僚に要求されるそれの比ではない。だから状況は楽観を許さない。
楽観できようができまいが、〈感情の能力〉が豊かなファシリテイタを供給できない限り、ミクロな共同体自治が「集団的な極端化」を招いて失敗することは必定。むろん共同体成員の〈感情の能力〉もそれなりでないと、ファシリテイタの有能さも空回りに終わる。なすべきことは明瞭だ。〈感情の劣化〉に抗う全ての手立てを、自分たちで採用すること。
J・ハイトら道徳心理学者が、L・コールバーグら発達心理学者を踏まえて強調する通り、感情プログラムのインストールには臨界年齢がある。焦点ごとに臨界年齢が異なるとはいえ「大人になれば取り返しがつかない」。プラグマティストの社会学者G・H・ミードも、戦間期にそれを強調した。2008年に上梓した『14歳からの社会学』でもそれを意識した。
ちなみに感情プログラムのインストール自体は「大人になれば取り返しがつかない」が、すでにインストールされた感情プログラムの利用の仕方にはそれなりに工夫の余地がある。それを実証すべくここ二年ほど性愛ワークショップを重ねてきた。下敷きとしたのがA・アドラーの理論だ。『14歳~』より年長読者を想定した本書も実はアドラーを下敷きとする。
要は、就職は目的ではなく手段に過ぎないということだ。目的と手段は系列をなすから最終目的が問題になる。最終目的をどう設定するかで現在の優先順位が変わる(=プライミングされる)。最終目的を親や経営者に握られると他人の人生を自分の人生だと勘違いする。挙げ句は失敗の果てに「話が違うじゃないか」と他人を恨む。昨今の日本人にありがちだ。
だから他人のではない自分の最終目的を考え抜く機会として就活を利用する必要がある。日本の教育制度は大学進学を目的とし、大学進学は就職を目的とするから、大目的が就職だというあり得ない話になる。だが、仕事に失敗すると全てが終わるような人生は今この時点で終わりを宣告されている。多くの人にとっては就活がそれに気づく最終機会となる。
年長世代の多くはそれに気づく機会を逸したまま就職=就社した結果、市民社会という〈外集団〉の存在を意識できないまま、〈内集団〉(たかが会社)への貢献を「滅私奉公」だと信じ、自分の居場所はそこしかないと思い込んで「空気(同調圧力)」に負けがちになった。震災がなかったことになるのもそのせいだ。年少世代の承認(いいね!)への強迫も同じ反復だ。
年少世代に同じことを繰り返してほしくないという思いが本書を貫いている。その思いは同じく筑摩書房から文庫版を上梓した『14歳からの社会学』と似る。だから『14歳~』と同じ筑摩書房から文庫版が出ることをうれしく思う。今回も文庫化の作業を筑摩書房を羽田雅美さんに担当していただいた。毎度のことだけれど心より御礼を申し上げたい。
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