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MIYADAI.com Blog > Category : 連載・社会学入門   ↔ See also Archive

連載第二三回:政治システムとは何か(下)

■連載の第二三回です。前回「政治システムとは何か」の前編をお話ししました。第一に、政治を集合的決定(社会成員全体を拘束する決定)だとするパーソンズの定義を紹介し、この拘束「を」可能にするもの、拘束「が」可能にするものが問題になると言いました。
■第二に、拘束「を」可能にするものを討究するウェーバー的思考を紹介しました。それによれば、人々は第一に「権力」を通じて、第二に「正統性」を通じて拘束されます。ここでいう「権力」は、相手の抵抗を排して意思を貫徹する能力によって定義されています。
■更に「正統性」とは、ウェーバーによれば、決定への自発的服従契機の存在です。問題は自発性の中身ですが、彼は内包的にでなく外延的に記述していて、「カリスマがあるから/伝統だから/合法手続経由だから、自発的に従う」といった類型論を展開しています。
■第三に、拘束を巡るウェーバー的思考を洗練させる試みとして、宮台の予期理論的な権力理論を紹介しました。概括すると、選好構造と予期構造の組に由来する、回避選択への圧力が存在するとき、この圧力を体験する者を服従者とする権力が存在すると見做します。
■ある人iが、自分の行為が招く相手jの行為(がもたらす社会状態)を予期し、理想的状態y(をもたらす行為)を断念して次善的状態x(をもたらす相手の行為を招く行為)に甘んじる場合、iは権力を体験しています。相手jが権力者で、自分iが服従者です。
■iが理想的状態yを断念するのは、それをもたらす筈の行為(が招く相手の行為)が、次善的状態xよりも悪い社会状態(回避的状態z)をもたらすからです。回避的状態zを避けるために次善的状態xをもたらす選択に甘んじる選択を、「回避的選択」と言います。


            【図1】権力的体験マトリックス

  なお、>i は「iの選好」、>ji は「jの行為へのiの予期」を表す。
  また、yは理想的状態、xは次善的状態、zは回避的状態に当たる。
  iの予期構造(予期の組)が正しければ、jの行為でxが実現する。

■宮台理論の特徴は、権力が服従者の了解(選好と予期)に即して定義されることです。了解の正しさは問われません。例えば、玩具の拳銃でも本物だと思い込めば権力を体験します。だから権力を行使したい者にとって、相手の了解を操縦することが重要になります。
■服従者の了解に定位すると、他にも様々な了解操縦を問題にできます。例えば「権力主題」(服従者に与えられた行為選択肢群)の操縦です。図の例ではjが権力者たらんとすれば、「勉強する/遊ぶ」以外の選択肢が存在しないとiに思い込ませることが大切です(「学校をやめる」など“ゲームから降りる”選択肢を主題化させないことが大切です)
■最も重要な了解操縦は「権力の人称性」です。図の例では、及第基準が誰が作ったから分からない制度で決まっている場合、服従者iが被る「及第/落第」という体験の選択性は、jにも誰にも帰属できません。こうしたタイプの権力が「奪人称的権力」です。
■また、直接にはjが「及第/落第」を選択したのだとしても、世間一般(任意の第三者)が選択を支持し、誰が教師でも同様に振舞うだろうとiに予期される場合、あたかも世間が選択したかのように了解されます。これが「汎人称的権力」です。
■奪人称的権力は抵抗の宛先を「消去する」ことで、汎人称的権力は抵抗の宛先を「分厚くする」ことで、権力の服従蓋然性を高めます。ウェーバーが自発的服従契機の存在として定義した「正統性」は、宮台理論では、権力の人称性を巡る了解操縦だと記述されます。
■合法的正統性(法だから従う)は権力の奪人称化の装置と見做せます。また伝統的正統性(皆がそう振舞うから従う)は汎人称化の装置と見做せます。カリスマ的正統性は、心酔がある場合は選好構造自体が変わる(排するべき抵抗がない)ので権力でなく、心酔がない場合は伝統的正統性(皆がそう振舞うから従う)と同じ汎人称化の装置と見做せます。
■以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。

【権力反射と権力接続】
■さて今回は「権力源泉の社会的配置」を巡る話をします。権力を可能にする了解操縦のリソースを一括して「権力源泉」と呼びます。「権力源泉の調達コスト」と「服従がもらたすベネフィット」との相殺勘定が、権力動機を左右し、また権力の安定性を左右します。
■権力源泉の調達コストを考察する場合、「権力連鎖」の形成戦略が要になります。権力連鎖とは3人以上を権力で結合することを言います。権力連鎖は「権力反射」と「権力接続」との組合せで形成されます。この形成仕方で権力源泉の調達コストが変わります。
■権力反射とは、「Xがjに従うようにiに命じる」(iはXを恐れるがゆえにjに従う)場合です。これに対して、権力接続とは、「Xがiを従えるようにjに命じる」(jはXを恐れるがゆえにiに命じる)場合です。両者では、権力源泉の配置が全く異なります。
■まず、権力反射を先の図(権力的体験のマトリックス)を使って表現します(図2)


              【図2】権力反射


■左側は「iが体験するXからの権力」の図です。権力主題は「jに従うか否か」です。右側は「iが体験するjからの権力」の図です。この場合、iにおけるjからの権力の体験(右側)は、iがXからの権力を体験(左側)するからこそ、もたらされています。
■権力反射の特徴は、第一に、権力源泉が全てXに集中しています(だからXが死んでしまえばjの権力は直ちに消滅します)。第二に、それゆえに、iとjの間の権力関係では権力主題が任意化されています(jが何を言っても従えとiはXに命じられています)。
■権力主題が任意だといっても一定の限界があり、この任意性の範囲を(Xから与えられたjの)「権限」と言います。この権限の範囲内でjからiへの権力はXによって「正統化」されています(正統性の概念は、権力の継承線を指すこちらの用法がもともとです)

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投稿者:miyadai
投稿日時:2005-04-16 - 09:49:57
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連載第二二回:政治システムとは何か(上)

■社会学の基礎概念を紹介する連載の第二二回です。過去二回は「法システムとは何か」を紹介しました。まず、法定義史を振り返り、法を主権者による威嚇的命令だと捉える法実証主義と、法を慣習の延長線上で捉える自然法思想の、二つの主要伝統を一瞥しました。
■ところが、法実証主義=主権者命令説では「法内容の恣意性」を克服できず、自然法思想=慣習説では「近代実定法の法変更可能性」を記述できない、という対称的な欠点があります。これら欠点の克服を目指したのが、H・L・A・ハートの画期的な法理論でした。
■ハート理論によれば、法現象は、「社会成員が互いに責務を課し合うという言語ゲーム」を支配する一次ルールと、「一次ルールが孕む問題(不確定性・静的性質・非効率性)に対処するための承認・変更・裁定の各言語ゲーム」を支配する二次ルールとの、結合です。
■ところがハート理論は、英国法的伝統のバイアスゆえに、憲法を含めた全法の法変更可能性を持続的に体験させる実定法的法段階を、専門の裁定者が出てきたとはいえ「既に存在する法を発見する」との擬性から抜け出せない高文化的法段階から区別できていません。
■この問題を補完しようとしたのがルーマンの法理論です。それによれば原初的法段階が法的決定手続を分出していないのに対し、高文化的法段階は法的決定手続が法適用(裁定)に限定される段階、実定法的法段階はそれが法形成(立法)にまで拡張される段階です。
■ところがルーマン理論では、原初的法段階までの法定義と、高文化的法段階以降の法定義を一貫できていません。原初的法の段階では「予期の整合的一般化」として定義されていた法ですが、高文化的法の段階以降は幾つかの理由でこの定義を維持できないからです。
■そこで宮台理論では、法システムを、(1)公的に承認可能な(=任意の社会成員が受容すると予期可能な)仕方で(2)手打ち(=死滅するまで闘わずに決定に従うこと)をするために必要な(3)決定の非特定人称性をもたらす、コミュニケーションの機能的装置だとします。
■決定の非特定人称性には、決定に表明された予期の選択性を、任意社会成員に帰属できる「汎人称性」と、予期の選択性を、どの社会成員にも帰属できない「奪人称性」がありますが、特定人称的決定と違って、いずれも決定を特殊利害から隔離する機能を持ちます。
■自明性が支配する単純な原初的社会では、決定の汎人称性が容易に調達されるがゆえに手続の分出は要りません。汎人称性の調達が不可能になる複雑な高文化社会以降、分出された法的決定手続を巡る凡ゆる擬制は、決定の奪人称性を担保する機能的装置になります。
■例えば、近代社会では、法変更(立法)の意思決定は、投票(選挙)に支えられた代議制下での、投票による議決(多数決)がもたらします。選挙にせよ多数決にせよ、投票による決定手続は、事前の不確定性ゆえに、決定を奪人称化する機能を持つことになります。

【集合的決定における拘束〜権力と正統性〜】
■今回は「政治システムとは何か」です。結論的には今述べたことの中に既に政治システムの機能への言及があります。即ち、政治システムとは、社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体です。
■例えば「法変更のための法」に従って新たな法的決定前提をもたらす投票による議決(多数決)は、集合的決定です。のみならず、変更の不作為(あえて変更しないこと)による旧来の法的決定前提の維持もまた、集合的決定です。これらは政治システムの産出物です。
■以上のように近代の社会システムでは、法システムは政治システムに、決定の正統性の供給によって、集合的決定をもたらします。政治システムは法システムに、集合的決定によって、法システム外の環境の学習を通じた法的決定前提の正統的な変更をもたらします。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2005-03-18 - 10:40:21
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連載第二一回:法システムとは何か?(下)

■連載の第二一回です。前回は「法システムとは何か」の前編でした。法とは、紛争処理の機能を果たす装置でした。紛争処理とは紛争の根絶ではなく、公的に承認可能な仕方で──社会成員一般が受容すると期待(認知的に予期)できる仕方で──収めることでした。
■公的に承認可能な仕方で「手打ち」をする。それが法の機能です。どちらかが死滅するまで戦う代わりに「手打ち」をするのは、生命や財産などの社会的損失を抑える意味があります。でも、それだけが重要なら、初めから戦わないという選択もありそうに見えます。
■しかしそれだと強い者のやりたい放題になってしまう。今日まで続いた社会はどこでも、「やりたい放題は許さない」という意思(規範的予期)を社会成員一般が持つことを前提にしています。だから、やりたい放題に対して断固戦い、その上で「手打ち」するのです。
■公的に承認可能な「手打ち」を実現する方法を巡り、法定義が分岐します。伝統的には、法実証主義的な「法=主権者命令説」と、自然法思想的な「法=慣習説」が、対立します。でも前者は、法内容の恣意性を克服できず、後者は、法変更可能性を基礎づけられません。
■双方の難点を克服するべくH・L・A・ハートの言語ゲーム論的な法定義が登場します。それによると法現象は、社会成員が互いに責務を課し合うというゲームを支配する一次ルールと、一次ルールの孕む問題に対処するというゲームを支配する二次ルールの、結合です。
■一次ルールの孕む問題は複雑な社会で顕在化します。即ち不確定性(何がルールかを巡り争いがち)や静的性質(変化しにくさ)や非効率性(自力救済のコスト)が問題になります。これらに対処するのが、承認・変更・裁定の二次ルールに基づく二次的ゲームです。
■むろん承認や変更や裁定の二次ルールを巡る疑義が生じる場合もあります。そこで立法や裁判を支配するこれら二次ルールの妥当性を、改変不能な最高基準(憲法)を参照して確認する「最後のゲーム」が要請される。これを支配するのが「究極の承認のルール」です。
■ハートの議論は、単純な社会の法現象と複雑な社会のそれとを関係づける卓抜なものですが、難点がありました。憲法(最高基準)を参照しながら行われる変更のゲーム(立法)が憲法を如何ようにも変え得るという近代実定法的な事態を、うまく記述できないのです。
■そこでは究極の承認のルールと変更のルールが円環します。かかる円環がある場合、言語ゲーム論的には単一のゲームと見做されます。ハートはこの円環を線形に引き延ばすので、変更不能な最高基準を持つ高文化の法と、そうではない実定法を区別できないのです。

【法定義の基礎は原初的社会にある】
■さて話を社会学に引き戻し、立ち位置を確認します。法実証主義に見られるように法学では司法権力の存在で法を定義する仕方が一般的ですが、間違いです。司法権力の存在しない社会には法がないことになるからです。こうした批判の嚆矢が、マリノフスキーです。
■彼によれば未開社会には司法権力と等価な社会現象が見出されます。トロブリアントに特徴的な、紛争の際の自殺。中国で伝統的な、公衆の面前での口論。多くの社会における、嫌疑が濃厚でない場合の呪術の遂行。これらは公的に承認可能な「手打ち」だと言います。
■これとは別に、威嚇による紛争回避が法の機能だと見る通念もありますが、間違いです。なぜなら「人を殺してはいけない」というルールを確立した社会を我々は知らないからです。代わりにあるのは、「仲間を殺すな」と「仲間のために人を殺せ」というルールです。
■後述する通り、原初的社会では血讐(同害報復)が権利でなく義務です。「殺してはいけない」がルールであるためには「やりたい放題は許さない」との意思が表明される必要があります。原初的社会では、侵害を受けた当事者が意思を表明することが期待されます。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2005-01-17 - 23:55:57
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連載第二〇回:法システムとは何か?(上)

■連載の第二〇回です。前回は「宗教システムとは何か」の後編でした。前編では、宗教定義史を振り返った上で社会システム理論的な宗教定義を示し、後編では、宗教進化論を紹介した上で、内在/超越の二項図式に基づく宗教的コミュニケーションを説明しました。
■今回は法システムについてお話しますが、前回扱った宗教進化論の知識が直接役立ちます。そこで若干の復習をしましょう。宗教とは、前提を欠いた偶発性を無害なものとして馴致する装置の総体です。偶発性の現れ方と馴致主体との組合わせが宗教類型を与えます。
■まず、偶発性が個別の「出来事」として現れるか、一般的な「処理枠組」として現れるかで、分岐します。次に、偶発性が「共同体」にとって問題になるが故に「共同体」が処理するのか、「個人」にとって問題になるが故に「個人」が処理するのかで、分岐します。
■原初的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」が儀式によって馴致します。例えば天災・飢饉などの期待外れでパニック状態となった共同体が、聖俗二元図式を用いた共同行為=儀式により、問題を聖化します。
■古代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」がこれを戒律として秘蹟化します。複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決し、この処理枠組を神が与えた戒律だと理解します。
■中世的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを信仰において秘蹟化します。階層化や征服被征服によって複雑になった社会では、処理枠組も、それを秘蹟化する神も、共同体でなく、個人のものになります。
■近代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを馴致します。馴致には、幸せになるために呪術を行う浮遊系、ソレを不幸と感じる境地があるのみとする修養系、万事定められているとする覚悟系が、あります。
■宗教学では「内在/超越」という二項図式が登場する以前(原初的宗教)と以降(古代的宗教以降)を区別し、前者を「呪術」、後者を「(狭義の)宗教」と、しばしば呼び分けます。超越とは〈世界〉の外。内在とは〈世界〉の内。〈世界〉とはあらゆる全体です。
■一部の古代的宗教は、コミュニケーション可能なものの全体である〈社会〉でなく、ありとあらゆる全体である〈世界〉を唯一絶対神が作ったという観念を伴います。その結果、論理必然的に、「唯一絶対神は、内在なのか超越なのか」という二項図式が刻印されます。
■「所有/非所有」という二項図式を前提にして、所有に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「貨幣」であるのと同様、「超越/内在」という二項図式を前提にして、超越に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「信仰」であると見做せましょう。

【法とは紛争処理機能を果たす装置】
■実は今復習した宗教進化図式の中で、既に宗教から分化した法形成が言及されています。即ち、原初的宗教から古代的宗教への進化において、複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決するのだと言いました。分化した法形成の萌芽です。
■連載でも述べましたが、法とは紛争処理の機能を果たす装置の総体です。紛争処理とは何か。紛争の抑止ではありません。紛争を公的に承認可能な仕方で収めることです。公的に承認可能な仕方とは、「社会成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方です。
■「収める」とは何か。紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦うことを以て「収める」こととし、その結果を「公的に承認」することもあり得ます。ただ、今日まで生き延びた社会はどこも、そこまでせずに、「手打ち」することを以て「収める」こととしています。
■従って、先の「公的に承認可能な仕方」は「手打ちの仕方」に結合しています。当事者が死滅するまで戦うのでなく「公的に承認可能な仕方」で「手打ち」するのは、単に人命や財産の損失の如き社会的損失を低く押さえるためでしょうか。無論それもあるでしょう。
■ですが、もしそれだけが重要なら「始めから戦わない」選択こそが賢明です。当然「それだと強い者のやりたい放題になるだろう」との反問が予想されます。そう。「やりたい放題は許さない」との意思を社会成員一般が持つことを、我々は常に当てにしています。
■「やりたい放題は許さない」という意思を社会成員一般が抱くと期待されている中で、紛争に際して「成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方で「手打ち」をし、それによって、紛争蔓延や復讐連鎖や相互殲滅を回避すること。これぞ、法の機能です。


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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-12-30 - 14:31:33
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連載第一九回:宗教システムとは何か(下)

■社会学の基礎概念を紹介する連載の第一九回です。前回に続いて「宗教システムとは何か」についてお話しします。前回は宗教定義論を扱いました。即ち、宗教定義史を振返り、改めて社会システム理論的な宗教定義を示しました。今回は宗教進化論を扱う段取りです。
■復習しましょう。宗教の機能は「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にすること」です。一口で言えば「根源的偶発性処理の機能」です。偶発性とは、「別様でもあり得たのにそうなっていること」を意味します。様相論理学上の可能&非必然です。
■〈世界〉内の事象は基本的に偶発的ですが、大抵は事後的な前提挿入により馴致可能です。「病気に罹ったのは不摂生だったからだ」というとき、「自分だけ病気に罹る」という偶発性は「不摂生だった」という前提が持ち込まれることで、受容可能に加工されます。
■ところが偶然の出会い・不慮の死等は、そうした前提挿入を以てしては納得不能な、前提を欠いたものとして現れ得ます。「個別の出来事」のみならず、なぜ「その」法則、「その」道徳が存するか、という具合に「一般的枠組」も前提を欠いたものとして現れ得ます。
■前提を欠いた偶発性は、期待外れの衝撃を吸収困難にし、意味あるものに意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定にします。前提を欠いた偶発性は、何らかの形で受け入れ可能なものに馴致される必要があります。この馴致の機能を果たす社会的装置が宗教です。
■前提を欠いた偶発性の現れ方は、社会システムのあり方に応じて変化します。また、受容可能なものへと馴致するメカニズムにも複数の選択肢があります。前提を欠いた偶発性の「現れ方」と「馴致メカニズム」の組み合わせが、宗教のバリエーションを構成します。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-11-18 - 11:30:04
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