■連載の第一三回です。前回は「社会統合とは何か」をお話ししました。例によって復習
しましょう。社会統合の観念は、社会秩序の観念と等価に扱われがちです。しかし、秩序
の「合意モデル」ではなく「信頼モデル」に立つ私たちは、両者を区別して扱うのでした。
■秩序とは確率論的な非蓋然性(ありそうもなさ)です。正確には、ミクロ状態の差異に
よって区別される場合の数が相対的に小さなマクロ状態です。社会秩序という場合、行為
の織りなす秩序のことを言います。ミクロ状態の差異が行為によって定義されるわけです。
■社会システム理論における社会秩序の観念は「あるべき社会」についての価値観からニ
ュートラルです。ですが社会学史を振り返ると、行為配列の単なる確率論的な非蓋然性を
超えて、ある特定の性質を有する非蓋然性のみを社会秩序と称して来ました。
■そこには「あるべき社会」についての先入見が反映しています。そこで、社会システム
理論家は、社会秩序とは別に社会統合の概念を以て、この先入見に対応する社会秩序観念
を取り出そうとします。従って、社会統合の概念は、社会秩序よりも特定された概念です。
■「あるべき社会」についての先入見とは、連載で紹介した社会秩序の「合意モデル」か
「信頼モデル」かということです。社会統合の概念を導入することによって、「合意モデ
ル」か「信頼モデルか」という択一は、社会統合概念の分岐に相当することになります。
■合意モデルでは、人々が合意した価値や規範の内側でだけ行為が展開する場合、社会統
合されていると見做します。信頼モデルでは、価値合意とは無関係になされる信頼(制度
的予期)が、破られない範囲で行為が展開する場合、社会統合されていると見做します。
■誤解を恐れず縮めて言えば、合意モデルは社会統合を「行為の統合」だと見做しますが、
信頼モデルでは社会統合を「予期の統合」だと見做します。前者では逸脱行為を社会統合
への紊乱だと見做しますが、後者では信頼が脅かされない限りは紊乱だとは見做しません。
■因みに信頼を見ると、単純な社会では、面識圏内での相互行為の履歴が形成する自明性
(慣れ親しみ)が、信頼を与えますが、複雑な社会では、相互行為の履歴を負担免除し且
つ逸脱の可能性を先取りして免疫形成する構造化された予期(制度)が、信頼を与えます。
■その意味で、逸脱行為を脅威と見做す合意モデル的な社会統合観は、単純な社会ないし
共同体的作法を色濃く残す社会に適合的であり、逸脱行為を必ずしも脅威と見做さない信
頼モデル的な社会統合観は、複雑な社会ないし共同体的作法を頼らない社会に適合的です。
[続きを読む]
■連載の第十二回です。前回は「制度とは何か」をお話ししました。私たちの行為は「二
重の偶発性」に晒されています。二重の偶発性とは「『私の偶発的な振舞いに対する他者
の予期次第で、その他者の行為が偶発的に左右される』と私が予期する状態」のことです。
■言い換えると「『私がどのように反応する人間なのかについて他者が抱くイメージ次第
で、他者の振舞いが変わるだろう』と私が思う状態」です。私たちはこの二重の偶発性の
下で、予期外れが起こらないように偶発性が消去されることを必ずしも必要としましせん。
■現に私たちは「あらゆる人々があらゆる規範に合意している」との前提では行為しない。
そうした合意はあり得ません。それでも先に進めるのは、私たちが「私の偶発的な振舞い
に対する他者の予期」(「他者の予期」と略)を操縦することに注意を向けているからです。
■抽象的に言えば、私たちの注意が「他者の行為」それ自体というよりむしろ「他者の予
期」に焦点づけられているがゆえに、行為水準の予期外れに一喜一憂するよりむしろ「他
者の予期」をコミュニケーションの履歴を通じて操縦することに、私たちは努力します。
■「他者の予期」の操縦というのは、私(たち)がどのように反応する者(たち)なのか
を相手に思い知らせることです。しかし知らない者たちと出会う機会の多い複雑な社会で
は、出会う度に、操縦に向けてコミュニケーションの履歴を積み重ねるのは、不可能です。
■そこで「他者の予期」の操縦を免除する機能を果たすのが「制度」です。制度とは「『任
意の第三者の予期』について私が予期を抱く状態」です。つまり「『誰もがそう思う』と
私が思っている状態」です。制度があれば手間暇かけて思い知らせる負担は免除されます。
■単に私が「お巡りさんに訴えれば助けてくれる」と思うだけでなく、「誰もがそう思う」
と私が思っている場合、私にとって制度はある。制度があれば、仮に助けてくれなかった
ら「?すぐに社会的反応を動員でき、?警官もそれを弁えるだろう」と、当てにできます。
■それゆえに制度には二重の偶発性について、「『他者の予期』の操縦に必要なコミュニ
ケーションの積み重ねを負担免除」し、かつ予期外れに際する社会的反応への予期を通じ
て「『他者の行為』の予期外れがありうることとした上で免疫形成」する機能があります。
[続きを読む]
■連載の第十一回です。前回「二重の偶発性とは何か」をお話ししました。二重の偶発性
double contingencyについて、パーソンズ(彼の場合は「二重の条件依存性」と訳します)
とルーマンとでは、一部共通、一部異なる問題設定の下で、語られたことを紹介しました。
■共通の問題設定とは、社会秩序は如何にして可能か──自分も他人もどうとでも振舞い
うるのにもかかわらず社会秩序が存在するのは如何にしてか──というホッブズ以来の問
いに答えるための戦略的拠点として、double contingency問題を持ち出すところです。
■連載第八回の「合意モデル」を採用するパーソンズは、double contingencyを「第三者
から見て、花子さんの振舞いが太朗君次第、かつ太朗君の振舞いが花子さん次第」という
事態と捉え、連立方程式で言えば「解が発散しないこと」を、秩序の成立と等置しました。
■その上で、解が発散しないのは、価値合意による期待の相補性──医者が相手を看護婦
だと思い、かつ看護婦が相手を医者だと思う──のお陰で、看護婦が医者の予期に適合し
て振舞い、かつ医者が看護婦の予期に適合して振舞うことができるからだ、としました。
■「信頼モデル」のルーマンは、パーソンズの解決は価値合意による偶発性の消去だと批
判します。現実には医者のセクハラのような予期破りがいつあるかも分からない偶発性に
もかかわらず看護婦は職務を全うするわけで、それが可能な理由を問うべきだと言います。
■この観点から彼はdouble contingencyを、第三者視点でなく「私から見て偶発的な他者
の振舞いが私自身の偶発的な振舞いに不確定的に“依存”すると私が理解した状態」とし
ます。但しこの“依存”は私が現になした振舞いへの依存というより、予期への依存です。
■なぜならば、私が現になした振舞いは、私の反応に対する他者の予期を構成することで、
他者の行為を左右するからです。ゆえに「二重の偶発性」とは、要は「私の反応に対する
他者の予期が、他者の行為を左右すると、私が予期する状態」を意味することになります。
■ルーマンの「偶発性が消去されぬまま前に進む」のイメージは明らかです。私が命令し
たときの他者の反応が、従うか否か次第で私がどう偶発的に反応するかについての他者の
予期に偶発的に左右されることを、私が弁えているという意味で、「二重に偶発的」です。
■この「二重の偶発性」は消えることがない。消えはしませんが、私は一定の構えで前に
進めます。すなわち、従う蓋然性を高めるべく、私は「他者の予期」を予期しつつ、その
「他者の予期」を操縦しようとして、コミュニケーションの履歴を積み重ねていくのです。
■先の例で言えば、看護婦が医者がセクハラしないと確信するという「偶発性の消去」は
あり得ない。しかしセクハラするか否かは、看護婦がどう反応するかについての「医者の
予期」に左右されると看護婦は理解し、看護婦は医者に対する行動戦略を立てうるのです。
■あえて単純化するとルーマンは、私が他者がどう振舞うかにビクビクしないのは、価値
合意によって他者の振舞いが決まっているからでなく、他者の振舞い次第で私がどう振舞
うかについての「他者の予期」の操縦可能性に、私の注意が向いているからだと言います。
[続きを読む]
■連載の第十回です。前回は「予期とは何か」をお話ししました。話の繋がりを確認する
と、社会システム理論では社会秩序の実現を、出発点での法や規範への合意ではなく、偶々
破られないがゆえに継続する根拠のない信頼において記述します。
■信頼は予期の一種です。予期には「殴ると思っていない」という消極的予期と「殴らな
いと思う」という積極的予期があります。積極的予期は更に「殴らないだろう」という認
知的予期と「殴らないべきだ」という規範的予期とに分けられます。
■単純な原初的社会では、信頼は「考えたこともない」という消極的予期の形──未分化
な予期──を取ります。社会が複雑化して違背頻度が高まると、信頼は積極的予期──分
化した予期──の特定の構造(予期と違背処理の先決)により担保され始めます。
■ちなみに、信頼の形式変化が宗教を進化させます。原初的社会の宗教は、未分化な予期
を破るパニック的事態を儀式で聖化する機能を果たします。複雑な社会の宗教は、分化し
た予期の先決された構造が存在する理由を神によって説明する機能を果たします。
[続きを読む]
■連載の第九回です。前回は「社会秩序の合意モデルと信頼モデル」についてお話しました。合意モデルも信頼モデルも、社会の秩序──確率論的にありそうもない状態──が如何にして成立・維持可能かに答える秩序モデルですが、合意モデルのほうが古典的でした。
■合意モデルとは、秩序の出発点に、ホッブズの自然権譲渡やパーソンズの価値共有のような「合意」があると見倣す立場です。これは秩序のありそうもなさを合意のありそうもなさに移転しただけで、神話としてならいざ知らず、社会システム理論としては失格です。
■社会システム理論は信頼モデルを採用します。社会システム理論は、秩序はいかにして可能かという問題を、まず二重の偶発性問題──私の偶発的な振舞いに依存する他者の偶発的な振舞いの見通し難さにもかかわらず私はなぜ平穏に行動できるか──に移転します。
■その上で、私たちが、逆上した相手に刺されるかもしれないのに文句をつけたり、猫肉を売られるかもしれないのに知らない相手からハンバーガーを買ったりするのは、合意の確認によるのではなく、そういうことがありえないという信頼に基づくのだ、と考えます。
[続きを読む]
«Prev
||
1 |
2 |
3 |
4 |
5 ||
Next»