■連載の第一八回です。前回は下位システムとは何かを説明しました。補足しつつ復習します。下位システムsub systemは上位システムmain system に対比されます。因みに上位システムは連載で単にシステムと呼んできたもので、下位システムとの対比で用います。
■一般にシステムは数多の機能的達成をせずには存続できません。社会システムで言えば、どんな社会システムも、経済機能(資源配分機能)、政治機能(集合的決定機能)、法機能(紛争処理機能)、宗教機能(根源的偶発性処理機能)等を調達せずに存続できません。
■システムが、自らの存続に必要な機能的達成を、システムの中に存在するシステムに委ねたものが下位システムです。下位システムは単数でもあり得ますが、システムが、数多の機能的必要ごとに下位システムを分出させることを、システムの機能的分化と呼びます。
■システム存続に必要な諸機能の一部を分掌する下位システムを、単に全体に対する部分や部品と等置してはいけません。私たちが「部分システム」という巷で用いられる名称を使わない理由もそこにあります。部分や部品は必ずしも機能の分掌を意味しないからです。
■人体のシステムにとって臓器は部品であり、臓器のシステムにとって細胞は部品であり、細胞のシステムにとって細胞内器官は部品です。ことほどさように、有機体的システムは、環境に開かれた定常システムであることで、上方ならびに下方に開かれます(連載第三回)
■システムは前提供給のループです。システムが別のシステムと前提供給のループをなせば上方のシステムを構成できます。またシステムを構成する前提供給のループの担い手自体が下方のシステムたり得ます(連載第三回)。これらは全体と部分の範疇に収まります。
■ところが、下位システムと呼ぶ場合、単に下方のシステムあるいは部分のシステムではなく、「機能的分掌をなす」下方のシステムを指します。だから人体にとっての下位システムは単独の臓器や細胞ではなく、免疫システム・神経システム・循環器システム等です。
■免疫システムは異物侵入を無害化する機能を担います。神経システムは外的刺激に即時に反応する機能を担います。循環器システムはリソースを運搬する機能を担います。全体に関わる機能を分担する選択接続がポイントで、空間的局域を(必ずしも)意味しません。
■社会システムが、経済システム・政治システム等を下位システムとするという場合も同じで、部分(空間的局域)が、異なる機能を分掌するとの意味では必ずしもない。この点、デュルケームが有機的連帯たるべしと述べた近代的分業概念との混同には注意が必要です。
【下位システムへの分化の利得と、癒合の阻止】
■とはいえ類似点も重要です。一単位で複数の機能を包括的に担うより、単位ごとに異なる機能を分掌した後に連帯した方が多くの富を分かち合えるとの発想は、「分化と統合による遂行能力performanceの上昇」という、機能的分化の機能(利得)を言い当てています。
■即ち、システムが自らの存続に必要な機能的達成を下位システムに委ねる必要は必ずしもないが、下位システムをあえて分出することの利得は機能的な遂行能力の上昇にあります。この遂行能力の上昇は、生き残り戦略上有利で、近代社会の圧倒的強さを帰結します。
■機能的に分化した近代のシステムは、他よりも多くの人口を養えて、他よりも高度な技術を達成でき、他よりも人々の雑多な要求に応じられ、他よりも人々の多様な行動や内面を許容できます。だから近代社会は他の社会を打ち負かし、また人々は近代化を選びます。
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■社会学の基礎概念を説明する連載の第一七回です。第一部(第一回~第五回)では、社会システム概念自体の理解に必要な説明をしました。第二部(第六回~第一六回)では、社会システム理論が分析用具とする個別概念を説明しました。今回からは、第三部です。
■第一部は「社会とは何か」で始まり、第二部のラスト二回は「人格システムとは何か」「自由とは何か」で終わりました。慧眼な読者にはお分かりの通り、こうした順序は、社会学という学問の性質をご理解いただくために、それなりに考え抜かれた構成なのです。
■社会とは、私達のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体だと言いました。そうした社会を考察するべき理由は、自由について考察するときに浮き彫りになります。私達が自分達を自由だと思うことと、社会の中にあることとは、どんな関係にあるか。
■拙著『サブカルチャー神話解体』(1993年、石原英樹・大塚明子と共著)に記した通り、文学・漫画・映画・写真などの歴史を見ると、各人が能うる限り自由に表現した作品であっても、社会毎、時代毎に明確な型が刻印されます。当人は型を必ずしも意識していません。
■かかる現象が起こる理由は、各人のコミュニケーションが暗黙の非自然的な前提によって条件づけられているからだと理解できます。こうした条件づけは、デュルケームが「契約の前契約的前提」(『社会分業論』)と称した問題を拡張したものに相当しています。
■本人の目から見て端的に自由であるものが、傍目(観察者の目)から見て社会的に条件づけられていること。このことの意味を徹底的に考察し、それがどんな具体的現象を帰結するのかを徹底的に観察すること。これぞ、近代的学問としての社会学の学問目的です。
■しかしそうした学問であるが故に、前回紹介したような誤解が生じ勝ちなことにも留意すべきです。「本人が如何に自由だと思っても、傍目には社会的に条件づけられてある以上、結局のところ自由はあり得ない」とする思考です(自由を自己決定と置き換えてもOK)。
■この種の誤解が社会学者──とりわけ共同体主義を主張する者──の間にさえも蔓延します。前回を復習すれば、カントの自由意思論(『実践理性批判』)が示すように、自由とは因果的な自己原因性ではありません。即ち、因果帰属でなく選択帰属の問題なのです。
■自己原因的でなくとも──社会的に規定されていても──意思が妨げられていない以上は別の行為を意思できた筈だと理解される。私達が現にそう理解しているということです。その限りで当事者に意思の自由があると見做され、帰責が──倫理が──可能になります。
■社会学を誤用して「自己決定はあり得ない」と称する自称共同体主義者は笑止です。自己決定があり得ないなら、「自己決定はあり得ない」と“言論市場”で喚くのは無意味そのもの。共同体的言説もまた“言論市場”で自己決定的に選ばれる他ありえないのだから。
■むろん自己決定は社会的に規定されます。共同体や伝統によって浸されます。そのことの自覚は、自己決定の意図せざる結果を免疫化する意味で重要です。であればこそ「自己決定を伝統で縛れ」の自己矛盾と「自己決定で伝統を選べ」の再帰性との差異が重要です。
■かかる差異は、「近代の限界」に対するに「近代の超克」を以てするか、「近代の徹底」を以てするかという伝統的対立をも帰結します。日本の共同体主義の嚆矢たる亜細亜主義者は大半、「近代の徹底」を以て「オルタナティブな近代」を構想する者の、謂いでした。
■日本の右翼のルーツたる玄洋社が「民権派」であると同時に「亜細亜主義」を標榜したことが象徴的です。まさに国家の強制ならざる国民の自己決定において、流動性を前提にした収益価値よりも、多様性を前提にした共生価値を選ぶことを、賞揚したのであります。
■そのことに鑑みれば、今般目立つ「社会的被規制性を以て自己決定を否定する輩」「自己決定が共同性や伝統を破壊すると見做す輩」「自己決定が多様的近代ならざる流動的近代をのみ後押しすると看ずる輩」こそ、右翼の名に値せぬ唐変木だと断定して差支えない。
【政治にも経済にも還元できない社会システム】
■さて、前回の予告通り、今後数回に渡って、宗教システム、法システム、政治システム、家族システムなど、社会システムの近代的な下位システムの幾つかを、記述していきます。それに先だって、下位システムとは如何なる概念なのかを、説明しなければなりません。
■連載初回に述べた通り、社会の概念は、仏革命期以降の社会的不透明性の増大に呼応し、19世紀半ばまでに生まれました。一般的定義は先に紹介した通り。それ以前、社会の類似概念に「ソキエタス・キウィリス」「ビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト」がありました。
■それぞれ邦訳すると「市民社会」となりますが、含意はそれぞれ別物です。ソキエタス・キウィリスは、アリストテレスの倫理学や政治学に登場するギリシア語の概念です。ビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフトは、ヘーゲルの諸著作に登場してくるドイツ語の概念です。
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■連載の第一六回です。前回は「人格システム」概念を紹介しました。復習しましょう。通念では、社会の構成要素は個人。ところが、社会システム理論では、社会システムの構成要素は行為です。行為からなるシステム(行為システム)に、社会システムと人格システムとを区別します。
■行為の纏まりが、自らに属する行為と属さない行為を、自ら境界設定する働きを示すと見做される場合、行為システムと呼ばれます。中でも、複数の個人主体に跨る選択連鎖(選択接続=コミュニケーション)に準拠したときに見出される行為システムが、社会システムです。
■他方、単一の個人主体が展開する選択連鎖の纏まりに準拠したときに見出される行為システムが、人格システムです。社会システムも人格システムも、要素たる行為が、物理的同一性でなく意味的同一性により定義されるので、間主観的な了解を前提とした概念です。
■「日本社会」に属し得る行為と属し得ない行為を「日本社会」自身が境界設定すると見做される場合、社会システム概念が適用され、「宮台真司」に属しうる行為と属し得ない行為を「宮台真司」自身が境界設定すると見做される場合、人格システム概念が、適用されるのです。
■噛み砕くと「日本社会」には「日本社会」なりの“行動傾向”があり、「宮台真司」には「宮台真司」なりの“行動傾向”があるとされています。“行動傾向”の由来は、反省的には行為同士を結合する内的メカニズムであり得ますが、取り敢えずはブラックボックスです。
■人格システムと混同されがちなものに、心理システムの概念があります。人格システムを同定する(そこにあると見做す)に際し、行為がそこに属するか否かを判定するにために用いられ得るエンパセティカル(同感的)な帰属処理の宛先が、心理システムなのです。
■人格システムには観察可能な要素(行為)がありますが、心理システムには観察可能な要素がありません。表象にせよ感情にせよ、心理システムの要素は全てエンパセティカルな想像物です。故に、人格システムと違い、心理システムは普遍的な概念ではありません。
■社会が複雑になって期待外れが頻繁になるに伴い、各人毎に違った心があるという帰属処理の宛先として、心理システム概念が分出します。更に社会が複雑になれば、心理システムに対して、不透明な固有性(入替え不能性)としての個人性individualityが想像され始めます。
■心の不透明性としての個人性を学的対象とする「心理学」は、政治的次元(集合的動員機能)にも経済的次元(資源配分機能)にも還元できないコミュニケーションの不透明性としての社会性を学的対象とする「社会学」と、奇しくも同じ19世紀に誕生したのでした。
■心理学の目標は、心理システムを記述することによって、心に問題を抱える状態を、問題を抱えない状態へと導く処方箋を見出すこと。社会学の目標は、社会システムを記述することによって、問題を抱える制度や文化を生み出す社会的メカニズムを解除する処方箋を見出すこと。
■両者は対称に見えて実はそうではありません。社会学から見ると心理学の処方箋は、制度や文化が抱える問題を等閑視したまま、妥当な適応の方策を探るものに見えます。例えば心理学は家族の病を解決しようとしますが、社会学は家族を営むべきなのかどうか疑うのです。
【前回の敷延:「再帰性の思考」と社会学】
■敷延すると、社会学の対象に心理学(を支える諸前提)が出現するのに対し、心理学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することは、論理的にあり得ないということです。ところが社会学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することが論理的にあり得ます。
■連載第一回と第二回を思い出して下さい。社会とは我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体で、それを明るみにすることが社会学の営みでした。我々のコミュニケーションには社会学も当然含まれます。だから社会学は反省的な営みになります。
■社会学の伝統は「前提を遡る思考」にあります。ところが「前提を遡る思考」にも19世紀的なものと20世紀的なものを区別できます。19世紀的なものを「潜在性の思考」と呼びます。フロイトの「無意識」概念やマルクスの「下部構造」概念に、典型を見いだせます。
■要は「見えるものは、見えないものによって規定されている」とする思考です。この思考は、しかし、この思考自身が見えないものによって規定されている可能性を、等閑視します。例えば虚偽意識(イデオロギー)論は、虚偽意識論自体が虚偽意識である可能性を必死で隠蔽します。
■これを批判するところに生まれるのが、20世紀的な「再帰性の思考」です。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念やルーマンの「社会システム」概念が典型ですが、例えば言語ゲーム論自体が言語ゲームの一つだという自己言及的循環に、意識的に言及します。
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■社会学の基礎概念を紹介する連載の第一五回です。前回は「役割とは何か」を説明しました。「役割」とはヒトに付与されるカテゴリーのことです。例えば私は、男として、宮台真司として、都立大教員として認識されます。因みにヒトとは心を持つ存在のことです。
■ヒトとは(1)内側から世界を分節していると想像され、(2)その分節がエンパシー可能だと信じられる存在です。前回を補えば、コミュニケーションの相手となり得る存在のことです。原初的社会では万物がコミュニケーション可能ですから、ヒト概念は拡がり得ます。
■役割の中で最も重要なのが「個人役割」と「制度役割」です。前者は、固有名で呼ばれうる「その人」性のことで、後者は、医者や都立大教員など資格該当が制度的に決まったカテゴリーです。「制度的」とは、任意の第三者がそう認定すると、予期できることです。
■この他に行為ならびに体験を割り振られた当体のカテゴリーとして「行為役割」と「体験役割」があります。前者は、殴る人、見る人、意図する人など。後者は、殴られる人、見られる人、悲しむ人など。以上4つのどれにも属さないものを「属性役割」と言います。
■制度役割の機能は、履歴に依存しない信頼を呼び出すこと。私たちは、相手がマクドナルド店員だというだけで、コミュニケーション履歴とは無関係に信頼を寄せます。別言すると、個人役割と結合した人格的信頼を、制度役割と結合したシステム信頼が免除します。
■制度の機能は、任意の第三者の社会的反応(についての相手の知識)を期待できることで、(1)私の個人的反応についての相手の予期を操縦する必要を「負担免除」し、(2)相手のありうる違背に対し「免疫形成」することです。制度役割は制度の機能と表裏一体です。
■制度役割の出発点は原初的社会における血縁的続柄です。しかし血縁原理(血縁的続柄による資源配分原理)の支配ゆえに個人役割と制度役割が未分化な原初的社会では、人格的信頼もシステム信頼も未分化なままで、潜在的可能性をいまだ開花させてはいません。
■血縁原理が充分に縮退した近代社会になって初めて、見知らぬ者を制度役割ゆえに信頼する匿名圏(システム信頼の領域)と、コミュニケーション履歴のみで個人役割を帯びた者を信頼する親密圏(人格的信頼の領域)が同時に拡大し、社会の複雑化を可能にします。
■前回を補えば、行為に対する認知的予期も規範的予期も、「役割xを帯びた者は、状況yにおいて、行為zを為す(だろう/べきだ)」というf(x,y)=z的な函数形式を取ります。「警官は職務中は禁煙すべし」などが典型ですが、xには制度役割以外の役割も入り得ます。
【社会システム・人格システム・心理システム】
■さて、制度役割がシステム信頼に結びついて匿名圏を、個人役割が人格的信頼に結びついて親密圏を、形成すると述べました。システム信頼とは社会システムの作動への信頼で、人格的信頼とは人格システムの作動への信頼ですが、人格(人格システム)とは何なのか。
■人格システムの概念は、社会システムの概念と同じく、T・パーソンズが提起しました。社会の要素は人格的な個人だと考えるのが従来の通念だったのを、彼は社会システムも人格システムも同じく行為を要素とするとした上、準拠枠の違いが両者を分けるとしました。
■ルーマンも同じです。観察可能なのは社会でも人格でもなく行為ですが、一群の可能的行為を、コミュニケーション的纏まりに準拠して内外差異を設定すると社会システム、エンパセティカルな心理的纏まりに準拠して内外差異を設定すると人格システムになります。
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■連載の第一四回です。前回の「行為とは何か」を復習します。第一に、野球を知らない火星人が眼前の野球を記述できないことから分かるように、行為の同一性──行為がその行為であること──は、物理的なものではなく、意味的なものです。
■第二に、行為の意味は、行為の潜在的な選択接続の可能性──先行しうる行為の束と後続しうる行為の束──によって与えられます。ただし、意味とは、刺激を反応に短絡せず、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールして選び直しを可能にする機能です。
■第三に、行為には出来事性と持続性の二重の相があります。「嘘をつく」行為が時点的出来事でも、嘘をついたという事実は取り消せずに社会的に持続します。だからこそ後続して「嘘を認める」「シラを切る」などの行為が選択接続の可能性が開かれるのです。
■第四に、出来事性を持続性へと回収する際に帰属処理が行なわれますが、システムに生じた出来事が、システムの選択性へと帰属される場合がシステムの「行為」であり、環境の選択性へと帰属される場合がシステムの「体験」です。
■この定義では、問題のシステム(定常性を維持する当体)が個人でも企業でも国家でもありうるので、個人の行為や体験のみならず、企業や国家の行為や体験をも包括できます。これは行為や体験についての日常的語法とマッチします。
■第五に、法実務に見るように、当初は宮台へと帰属された個人行為が、都立大の組織行為として問題化(再帰属化)されたり、それが更に東京都の組織行為として問題化(再帰属化)されることがあり得ます。
■これと裏腹に、行為責任を問われた東京都が、都立大という部署の組織行為として問題化(再帰属化)して懲罰し(予算減額等)、それを都立大が宮台の個人行為として問題化(再帰属化)して懲罰する(懲戒処分等)ことがあり得ます。
■第六に、こうした内部責任を問う再帰属化の連なり(=選択接続)の最終単位が個人行為になります。責任を問われた個人が、個人の内部にある何か(無意識等)の責任を問うといったコミュニケーションは許されていません。
■第七に、個人行為は「一定の形式を帯びた発語や身体挙動が、文脈次第で異なる社会的事実──意味的な持続──をもたらす」という形で現実化します。この社会的事実としての同一性を「遂行性」と言います。冒頭の「行為の意味的同一性」に相当します。
■個人行為が、個人のもつ関係性を文脈として様々な形で再帰属化されることで、企業や国家などの組織行為が成立します。さて、第六に述べた、個人行為の意味的同一性は文脈次第だという際の「文脈」とは具体的に何なのか──。前回はここまで話しました。
■追補すると、個人行為の「行為者」は、物理的水準、遂行的水準、帰責的(反省的)水準の、三水準で考えられます。物理的行為者とは、発語や身体挙動を帰属される自己推進的基体で、遂行的行為者とは、社会的事実として選択性を帰属される主体です。
■イタコの口寄せが典型ですが、物理的発語(はつご)者がイタコでも、遂行的発話(はつわ)者が「亡き父」だという具合に、両者は必ずしも重なりません。更に、遂行的発話者が有する関係性次第では、反省的認識における有責性の帰属先も別になりえます。
■つまり当初の遂行的行為者と有責的行為者がズレることがあり得ます。脅迫して犯罪を行わせた者のように、別の個人が有責的行為者になる場合もあれば、組織成員の公式業務のように、当初の遂行的行為者が属する組織が有責的行為者になる場合もあり得ます。
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