昨日の男女素敵化講演会、実況ツイートを、宮台の発言を中心にまとめます。最小限の文言修正しました。括弧内は実際の発言を補ったものです。実況者は『恋とセックスで幸せになる秘密』 @love_sex_bot さんです。
【ニコ生タイムシフト案内】宮台真司✕二村ヒトシ 男女素敵化講演会 チケット購入者向けタイムシフトで2014/02/21(金) 23:59までご覧いただけます。http://goo.gl/fW104v
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【はじまり】宮台さん二村さん会場入りしました。 RT@miyadai『「絶望の時代」の希望の恋愛学』刊行記念 『希望の恋愛学』を語る--男女共同参画・男女素敵化プロジェクト --講師:宮台真司・二村ヒトシ http://goo.gl/txbRkK #宮台二村
【不変の構え】宮台さんと及川さんの出会いは、及川さんが95年にした人生相談から。異世界と思える女性(援交女子高生)に恋してしまってパニクった及川さん。たいていの人からは「やめとけ」と言われたが、宮台さんは「(他の馬鹿男とは違った反応を君が示せれば)チャンスじゃん」と言ってくれて開けた(宮台さんのスタンスは少しも変わっていない)。
【心の穴】二村「自分でもどうしようもない言動は、親との関係に根っこがある。それを本人が肯定しているとたいして苦しくないが、肯定していないと、苦しくなる。自分を肯定したくてもできない社会状況。それは女性も男性も同じ」
【孤独な死】宮台「どんなに金があって社会的地位があったとしても、多くの場合モテない。それが著しく本人を傷つける。モテないという不全感。モテなかったなぁ…と思いながら死んでいくということ(の苦しさを本当は誰もが身にしみて知っている⋯それが二村ヒトシさん『すべてはモテるためである』の基本モチーフ))」
【女性性】宮台「二村さんには女性性がある。僕は幼い頃から女装の趣味があった。そこに共通点がある(女が感じていることを自分の中で引き起こすこと)。女性がかわいそうだと思う。なぜなら[自分の中に入ってもらえないので]女性の望む恋愛ができていない。男は[射精すりゃOKなので]できてしまう」
【女の不全感】宮台「自分が思うような恋愛ができないという女性の思いは、どれだけつらいのだろう(と胸が痛む)。かわいそう。(一人一人に対処しても)救える人はごくわずか。もう少し規模を広げていきたい、なんとかしたいと思った。そこが二村さんと響き合うところではないか」
【女性性】二村「[宮台にとってサイボーグ003がそうだったように]永井豪の『キューティハニー』が僕の最初のおかずだった。僕がキューティハニーになって男性の主人公を犯していくのを妄想していた。自分がやられている男だけじゃく犯している強く美しい女性もやられる弱い男も僕。気づけばAV撮影も同じものをやっている」
【受動性】二村「『ラブレース』という映画を観た。ポルノでしっかりしたフェラチオを最初にした映画。僕は初めて男の乳首をなめるAVを初めて作った。女性がなんで私が彼の乳首をなめなきゃいけないんだろうと思っていたとしたら、僕のせいです」
【受動性】宮台「僕が10代の頃に付き合っていた子は、日本人じゃないんだけど(←正しくは米国からの帰国子女)、乳首やアナルをなめられてくれた。受動的快感、女性的快感を早い段階で知ることができた(ことが、元々の僕の女性性を非常に強めてくれた)」
【作法】宮台「(京都の花街に)作法の世界が残っている。(作法を踏まえないのは)関西ではイケズ。日本人男性は(作法の)ゲタを履いてこられたから。(作法がないと)自分で選択したことは説明できないといけない。それは男にとってつらいことだから(性愛の敷居が高くなる)」
【物格化】宮台「(昨今の男子は)マニュアルを遂行できていることに対して自分が達成感を感じている。コントロールできないものがあるという不安があるから、コントロールできるもので自分を満たしたいという欲求(が生じて女を物格化する)。それは親からのコントロールが元」
【物格化】宮台「無防備にコントロールされたりする(という受動性に対する)怯えから、コントロールしたくなる」
【変性意識】宮台「変成意識状態を意識したのは、海に潜っていた時。時間の感覚が変わった。10分だと思ったら1時間経っていた。ありえないことがありうる状態」
【変性意識】宮台「こんなことを話したらへんだと思われる」というようなことを(男を相手に)話しても驚かれないと、カプセルに入ったような(変性意識的な)状態になって、女性は(ふだん話せないことを)話しやすくなる」
【変性意識】宮台「「自分探し」ではなく、「自分なくし」。変成意識状態に入るということ(の醍醐味)はそういうこと。それは自分と他人の境界線をなくす(ことで二人ともLCL液体になって混ざり合うこと)」
【埋め合わせ厨】宮台「男女のフェアな関係性を追い求める時に、(そのことを気にして)変成意識状態にセックスで(男女共に)入れないというのは、悲しいこと(また逆に、変性意識状態に入れないがゆえの劣等感が、頭でっかちなフェアネス厨を生む)」
【埋め合わせ厨】宮台「最近の僕の中のキーワードは、さもしい、あさましい(そのココロは「劣等感の埋め合わせで強いものにすがる」「変性意識からの見放されをフェミで埋める」といった〈埋め合わせ〉のみすぼらしさ)」
【埋め合わせ厨】宮台「性愛をうまく生きられないということは、他の部分もうまく生きられないということ。逆にいうと性愛がうまくいっているということは、他の部分もうまくいっているということ(それが二村ヒトシさん『すべてはモテるためである』の基本モチーフ)」
【共同身体性】宮台「(二人が液体化して溶け合うような共同身体性を、性愛が実現できるのと同じように)お祭りは共同身体性を共有している。変成意識状態も同じ(ようにそこに存在している)」
【感情の劣化】宮台「(河野太郎と河野洋平の区別もつかぬネトウヨが跋扈する事がネット社会を象徴するが)間違ったことを言ってもやっても、誰からも言ってもらえない、叱られないでも生きていけてしまうのが今の日本(それが〈感情の劣化〉を放置させ、性愛を困難にする)」
【感情の劣化】宮台「ヒトラーが政権を取った時(CIA前身組織が)彼に吸引される意識を研究した。ヒトラーは今でいうとキモい人。(だからこそキモいという自意識を持つ人が)だったらオレはヒトラーの味方だ!となる。それは安倍ちゃん問題と一緒。感情の劣化現象」
【感情の劣化】宮台「感情が劣化すると共同体はすりへっていく(そして性は感情の劣化を図る物差しになる)。そう考えると性の問題は小さくない。感情の劣化を克服する物差しは(性愛以外に)そんなにはない。ネットで承認されたって(性愛の承認に近づけるかと言えば全然)ダメ。」
【感情の劣化】宮台「(性愛が、感情の劣化を計測できる物差しになるだけでなく)性愛をうまく生きるということが(訓練の場になって)、感情の劣化を克服できるのではないか」
【鍵の掛った箱の中の鍵】二村「(性愛を訓練の場にするとして)じゃあ具体的にはどうしたらいいか? 経験した人にしか(性愛に関わる各概念が)分からないのではないか」 宮台「同じことを二村さんに聞こうと思っていた」
【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(鍵を開けるヒントは)二村さんの『すべてはモテるためである』の最終章に書かれていたこと。モテるのに寂しいというところ。僕も自分の失敗記録が本になっている。最初からうまくできる人はいない(失敗しないための訓練でなく、失敗自体が訓練になる)」
【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(鍵開けの方向は単純で)ある程度、苦労、失敗を重ねた時間がないと得られない境地(こそが訓練の目標になる)。(だから)失敗を重ねるということが大事。(失敗を過剰に恐れる若い人が多いので)それがハードル」
【鍵の掛った箱の中の鍵】立石「宮台さんと二村さんの本は、失敗してくださいと言うわりに、丁寧に書きすぎている。先取りしすぎ。そのまま(失敗をしないための)マニュアルとして生きるやつもいるはず。実際に何人か知っている」
【鍵の掛った箱の中の鍵】立石「本当の失敗は、本人の覚悟がないと失敗できない。覚悟をいかに決めるか。性愛や人生に真剣になるか」
【鍵の掛った箱の中の鍵】二村「失敗するぞって覚悟して経験したことは、痛みではない。(失敗の覚悟という)その言葉自体が罠」
【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(立石発言は)失敗の意味かちがうのだと思う。とても苦しい状態になると幽体離脱状態になって自分を見るという視点がある。それをもてるようになってほしい。マニュアル(による失敗の覚悟)というよりも本当に苦しい状態になった時に起こる現象。」
【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(そして苦しみゆえの幽体離脱状態の真っ最中に)この苦しい状態は絶対にステージアップに役立つはずだと思いながらそこに臨む」
【目標設定】宮台「(ステージアップという場合)ではどこにゴールを置くか。(80年代前半に)代々木忠さんのAV(←新東宝時代のピンク)を見て(初めて女性の性的ポテンシャリティを)知った。自分にはできていないことがそこでは起きていた。そこ(=ポテンシャリティの現実化)に目標設定をした」
【目標設定】宮台「女性にはポテンシャルがある(にもかかわらず、それと無関係に)男のニーズに応じる作品ばかりになっているのが今のAV界のダメなところ。ニーズに応じたら必ず劣化する。制作者側からのこれはすごいだろう、というのが大事」
【受動能動反転】二村「僕のAVは、女性にもよく見てもらえている自負がある。フェミニストだと言われるが、僕はそうではない。女性の欲望を描いているようで僕の欲望を描いている。自分の欲望を女優さんに演じてもらっている。一体感を得られるが僕にとって都合のいい女」
【受動能動反転】二村「実際の女性との関係では、自分が支配されているようなモードをとることで、実は自分が支配しているんじゃないかとも思う」
【受動能動反転】二村「撮影で、男優も監督としての僕もコントロールを手放した状態ができることが最近、ある。自分が否定していた母との邂逅が起きたりする。コントロールを手放すの大事」
【男ニーズのしょぼさ】宮台「(最初期以来の)AVが好きすぎて昔、アダルトビデオファン大賞というのを高橋がなりさんからいただいたことがある。がなりさんは、ニーズに答えるとこうなるんだということを示して農場に移っていった(それを見ると高橋がなり氏がニーズに応えつつ心理的距離を保っていたのが分かる)」
【性愛の未規定性】宮台「(深い理解を支えにした性愛で快感を得るだけでなく)モノのように扱われることで快感を感じるということが男も女もある。だがそれは(←性愛の在り方はどんなものであれ)仮の姿。なにかだけになってしまうのはまずい」
【性愛の未規定性】宮台「(高橋がなり氏が始めた)SODのAVのようにあそこまで(男の)欲望(のニーズ)がパッケージ化されているのはすごいこと。しかし二村さんのようにパッケージ化されない(未規定さ)というのも大事」
【性愛の未規定性】宮台「(SOD的なニーズに応じた)パッケージ化(による性愛の規定化)にみなさん巻き込まれているんじゃないか?」
【独りよがり】二村「痴女女優さんと本物の童貞を合わせると、「僕はクンニがうまいにちがいありません」と言って空中でベロをすごい早さで動かし始めた。若い男の子はそれで豊かなセックスができると思っているという状況、宮台さんどう思われます?」
【独りよがり】宮台「(クンニ男の愚昧な独りよがりは、広告代理店やテレビ局の男にしばしば見られる)潮を噴かせるのが好きな男にも通じる。潮を噴くということについて、みんな勘違いしている」
【独りよがり】二村(←正しくは宮台)「潮を噴く女性に本当に気持ちいいの?と聞くとわかる。潮を噴くよりもハグの方がよほど女性の満足度は高い。どうして女性にそれをモニターせずに、やったぜオレできた、となっているのか?を考えることが大事」
【独りよがり】宮台「(クンニ男や潮吹かせ男は)勘違いを修正してくれることがないということに関係している(それは河野太郎と洋平の区別がつかない馬鹿と同じ)」
【独りよがり】僕や二村さんの若い頃は寂しいということが切実だった。彼女がいない・セックスできないということが。(だから現実に乗り出さざるを得ず、勘違いを修正できた)。今は寂しさを埋め合わせられるものがたくさんある。(勘違いを修正できない)悪い状況」
【独りよがり】宮台「スケボーのうまい子たちは、スポンサーも女性もたくさんつく。でも女性とセックスはしないし付き合わない。滑っているほうが気持ちがいいという。それは変成意識状態(として機能的等価)。女性とめんどくさいことをしなくても気持ちよくなれる」
【独りよがり】宮台「女性にどういうセックスが好きか、どういうシチュエーションが好きかということをモニタリングする時にAVは使える。(AVの体験仕方で)男女で非対称性が出てくる。男はAVの中の女性に興奮するが、女性はAV男優に興奮するのではなく女優に同一化する」
【独りよがり】宮台「みなさんAVをそういうふうに使ってほしい。男性は、女性の卑猥な妄想や卑猥な体験をぜひ聞いてほしい」 二村「僕も同じことを本に書いたが、立石くんは?」
【独りよがり】立石「AVやマニュアルというものが、そのまま正解だと思って演算、反復している。正解があらかじめ多すぎる。簡単にいうと洗脳。経験なくやることができてしまう」
【変性意識不全】宮台「ステディな人が相手だと試行錯誤しにくい。旅をして試行錯誤して気づきを得て、ステディに持ち帰ってするのがよい。ステディだとお互いのフレーム(による解釈への予期)がある(ので試行錯誤が頓挫する)」 質問者「旅をしてもダメだったんです」 二村「愛にいきたいのだね」
【変性意識不全】質問者「(二人そろって変性意識に入るためのあらゆる努力をすべきだとの答えに対して)深い信頼関係がないとトランスには入れないと思うので、チャレンジはしてみたい」
【変性意識不全】二村「僕は挿入にこだわらなくてもいいのでは、と思う。男がペニスじゃないところで受け入れる。勃起していないことにとらわれているので、自分の体の中での旅をしてもらいたいと思う」
【変性意識不全】会場質問「女性というものはどうしたら分かることができるのか。セックスすればするほどさっぱり分からない。した後にとても女性がつまらなくなることもあれば、魅力的にも見えることも。女性に対して男は何を求めているのか、わからない」
【変性意識不全】宮台「(質問者は性愛にエモーション系ならぬアッパー系の濃密さを求めているのではないか。)アッパー系の刺激は強くしても慣れてしまう。エモーション系は感情が身体に影響する(ことを用いる)。エモーション系に慣れはない。現象としてはセックスはスローなものになっていく」
【変性意識不全】宮台「男とは女とはと問題設定しないほうがいい。そこにとらわれることはない。変成意識状態(に入ったSEX)だと男女の差異の意識がなくなっていく。相手に生じたことが自分に生じるようになっていく。エモーションの次元で繋がることをしていく」
【変性意識不全】宮台「(性別を意識する場合にも)男とは女とは、ではなく、この男・この女、と個別のもの(にだけ意識を徹底的に集中することでエモーション系の変性意識状態を呼び込める)」
【脱マニュアル】宮台「認識することとコミットすることはちがう。分かったからといってやろうとするかどうか⋯。(また)強くやろうと思っても適切にできるかどうかも分からない。僕らの本を読んで、頭で理解してもあまり意味はない(実際にやってみないと真の動機づけは得られない)」
【脱マニュアル】宮台「たとえば、今日、この大雪の中にこの会場に来る(実際に予約の8割以上の方が来られた)ということはコミットがあるということ(。これはとても良い兆候で、コミットがある方にはどうコミットすべきかを語れる)」
【自発性から内発性へ】宮台「トラブルが起こるとコミットしやすい。たとえばケンカ。トラブル回避するには、腹を割って話すことが必要(になる)。(必要から始めたのに)理解するということの喜びが生じる。そこにはトラブル回避できたという以上の喜びを感じることができる。そうやってステップを踏む」
【自発性から内発性へ】二村「男と女がなぜ付き合うのかと…。セックスや付き合うことになるとケンカは必ず起きる。それはわざとトラブル起こしているんじゃなくて、自分の心の穴を刺激する相手だから。そのトラブルには意味がある。それを体験し学ぶこと」
【自発性から内発性へ】二村「挿入して目を見て、15〜30分ぺろぺろキスしていると変成意識状態になる。それは勃起とか相手をイカせるとかいうこととは関係なくなる。イカせるというのも失礼な話。自分がイカないと不安だから女をイカせてアリバイがほしいだけ」
【自発性から内発性へ】宮台「一緒に散歩、(買い物から始めて)料理を一緒にする。するとシンクロ率があがっていく。こんなにちがうんだということでも、こんなに合うんだということでもいい。セックスの外側にあることについての輪郭をつかまないと、いいセックスは難しい」
【自発性から内発性へ】会場質問「相手の女性に対するリスペクとが強ければ強いほど勃起しなくなるという傾向がある。その原因を知りたい」
【自発性から内発性へ】宮台「(質問者の問題を)僕は克服した。リスペクトした相手と早い段階からセックスだけに集中せず、その外側の輪郭をつかみながらセックスするというクセへをつけておけばいい。それは感情(と結びついたSEX)を生じさせること」
【4回セオリー】宮台「(ステディにする前に)相手の人とは4回セックスしろというのがセオリーなんだけど。3回目以降盛り下がることが起こりやすい。でもそれは事前にはわからない。実際にやってみて兆候をつかむしかない(そして盛り下がる場合は考え直す)」
【美しい女の困難】宮台「美しい女性にはたくさんの男性がよってくる。そのことをその女性も知っている。それはその子にとっていいことではない。キレイじゃない人は関係性ができあがらないとセックスする段階に行きにくい」
【美しい女の困難】宮台「女性がかわいそうだなと思うのはキレイな時。男が浅い関心で「僕にとって君がすべてだ」と言う。美しい女はそういう男の速度についていけず、(セックスしながら)ギャップを感じている。そのギャップが男に跳ね返ってくるので、セックスがよくないと思ってしまう」
【性別ギャップ】会場質問「チャットレディをやったことがある。男のファンタジーを満たして世界を悪くした、みたいな気持ちになった。こちらが会話をしようとすると瞬時に落ちたりする。葛藤をしていた」
【性別ギャップ】二村「途中で切ってしまう男は、本当は寂しくて仕方ないが、そうすることしかできない。僕もAVや本に何かを織り交ぜることでしか生きていけない。あなたも日比葛藤しながらやっていくしかない。気が済めばちがう方にいく」
【性別ギャップ】宮台「性別のセクシャリティの非対称性。多くの人が気づかないが、チャットレディの人は気づいてしまう。男は(射精しに来ているのであって)コミュニケーションしにきているわけではない。男(の多く)はこういうセクシャリティなんだ(=コミュニケーションあっての射精じゃないこと)と理解していくと何か開けるのでは」
【物格化】宮台「数年前に母をガンで亡くした。闘病生活の中で(母と関わることで)母への恨みを手放せた。同時に女性への支配(への欲望)も手放せるようになって、(女性との)関わり方が変わってきた」
【物格化】宮台「子育てでは(親の)心の内側が伝染する。そういった次元でも親への恨みが生じる。(心の内側の話だから)親がどんなに頑張っても難しい(そのことを今の僕は真剣に考えている最中だ)。今日はこみなさん来てくださって、ありがとうございました」
【迷える脱原発派へ①】脱原発候補が、共産党と社民党の推薦を受けた段階で、脱原発がイデオロギー問題にシフトしてしまう。それでも支持増大が期待できるなら良いが、実際には前回知事選で「宇都宮票は共産党基礎票60万票台にも拘わらず90万票台に留まった」。この事実は何を意味するだろうか。
【迷える脱原発派へ②】電事連と各巨大電力会社は、反原発派=左翼プロ市民、というイメージを定着させるために、従来あらゆる方法を用いてきた。だから彼らは「宇都宮候補を、共産・社民の推薦を受けたからこそ徹底的に人畜無害と見做し、脱原発候補として宇都宮を支持する人々を鼻で笑う」。
【迷える脱原発派へ③】宇都宮候補が前回・今回の知事選を通じて住民投票問題に言及しないことが象徴的するように、「共産と社民に推薦された脱原発候補」なる存在を支持することは「〈原発をやめられない社会〉を構造的に離脱しようとする意欲を持たずに情緒的表出に終始するという民度」を意味しよう。
【迷える脱原発派へ④】原発都民投票条例の制定を求める住民直接請求代表人だった僕は「署名活動に参加した方々の中から、脱原発問題をイデオロギー問題化する機能を持つ共産・社民推薦候補の支援に回る方が少なくない事実」を見るにつけ、住民投票運動の目的についての周知の不徹底を痛感せざるを得ない。
【迷える脱原発派へ⑤】もちろん僕は全力で「〈原発をやめること〉もさりながら〈原発をやめられない社会をやめること〉こそが大切だ!そのための住民投票運動なのだ!」と受任者の会議や街頭で繰り返し、それもあって法定署名数の獲得に成功したと思っているが、その先に更に大きなハードルがあるのだ。
【もう少し解りやすくとの要求に応えて】(1)党派的運動だと見做された時点でイデオロギー問題化し、直ちに集票できなくなること。(2)党派の機関決定に従属する活動では〈任せてブー埀れる〉だけで〈引き受けて考える〉作法にシフトできず、〈原発をやめられない社会〉を離脱できないこと。
【住民投票だけじゃ無理という批判に対し】連投の主題はそこにはありません。問題がイデオロギー色を帯びた時点で、脱原発候補は意味を持たないということです。重武装化的な憲法改正が保守派ではなく市民派から提起されたときに実現しやすくなるのと同じで、むしろ自民党勢力が脱原発を唱う方向に持ち込むのが賢明です。
書店に並ぶのは10月20日以降になりそうです。
小室ゼミのOBたちが集まったシンポジウムの記録(加筆)と、新たに加えられた対談群と、書き下ろしの文章群が、収録されております。
2月23日土曜日の朝日カルチャーセンター新宿で行なった、宮台真司による見田宗介全集刊行記念の講義について、何人かの方々のご要望に答える形で、以下にその前半部分のみをテープ起こしをベースに再現します。後半は「宮沢賢治に見る右翼の真髄とは何か」をめぐる込み入った議論に。別の機会に。
見田宗介先生は当初、公刊された修論『価値意識の理論』の如く日本人の価値意識を実証&理論的に探る仕事をした。社会意識論(社会構造が社会意識を規定するというマルクス的上部構造論に依拠した枠組)に相当。南博ばりに「社会心理学者」を名乗ることも。上部下部構造論は今も捨てられていない。
「社会心理学者・見田宗介」という構えは60年代末2年間のメキシコ留学を経てが変更された。象徴的なのが、コミューンに言及する真木悠介の筆名と、七三分け&瓶底眼鏡から眼鏡を外したイケメン風への外見チェンジ。宮台が大学に入った70年代半ばには見田ゼミは絶大人気。多くの信者がいた。
そう。当時の宮台は「見田ゼミ信者」という言葉を揶揄的に使っていた。見田ゼミに出入りする女子はふわっとした花柄スカートに白ブラウスといった具合。見た目が大いにダサかった。ゼミでは見田宗介への否定的コメントはほぼ絶無。そうした暗黙規範に従わない宮台は当初から完全に「浮いて」いた。
ところが程なく、かかるゼミの佇いが見田宗介の「立場変更」と密接に関連することを発見した。コミューンを主題化するからコミューン憧憬者が集まるのもある。だがより本質的事情が見通せる。その事情とは、メキシコ留学後の「立場変更」が個人的なものというより時代的なものだったことに関係する。
宮台定番用語を使う。60年代後半の〈政治の季節〉。人々は「ここではないどこか」を現実に探した。70年前後の挫折を経て〈アングラの季節〉へ。人々は「ここではないどこか」を現実でなく、虚構に探した。巷間の誤解と違い寺山や唐やATGのピークは70年代前半。見田=真木はこの時代にシンクロした。
当時の宮台の見立てはこう。〈政治の季節〉の世直しは敗北した。今は革命を企図しても詮ない。ゆえに雌伏の時期。即ち我々にとっての現実ならざる社会を構想する想像力を育む段⋯。まさに「ここではないどこか」を現実ならざる虚構に探す〈アングラの季節〉に同期する認識。そこが見田人気の背景だと。
だからこそ宮台はシニカルになった。見田ゼミでは現実ならざる虚構の構想が重視されるが、〈癒し宗教〉の背理ではないか?〈癒し宗教〉は〈世直し宗教〉をこう批判する。革命家が天下取り後に残酷な独裁者になるのはよくある話。そうなれば世直しに加担した宗教は倫理問題を問われて存続不能になる。
ラツィンガー(ベネディクト16世)が、救済の神学を擁護する穏健派教授から、バチカン入りして保守派の異端審問官に変じたのは、ハーバマスによればかかる〈世直し宗教〉の背理に想到したから。だが、〈癒し宗教〉も、〈世直し宗教〉の側から「現体制を擁護する阿片に過ぎぬ」と批判されてきた。
つまり社会心理学の帰属理論的問題。宗教が〈癒し〉に成功すれば、本来〈世直し〉されるべき問題が放置され、悪辣な現世権力が補完される。マルクスが「宗教は阿片」の物言いで止目するのもそこ。そう。革命をしばし断念して「ここではないどこか」を夢想する見田ゼミ系もソレだ、と宮台は思った。
酷薄な現実に打ちひしがれた上、革命構想も断念せざるを得ず、悶々とする、そんな人たちに、見田ゼミは「週末のシャワー」を提供する。現実の中で汚れきった身を、週末のシャワーで洗い流し、「回復」した後、再び現実の中に帰る。これが現実の補完物でなくて何なのか。見田ゼミ生は単なる馬鹿だ…。
この疑問を見田宗介にぶつけたことがある。だが彼は百も承知だった。実際かかる認識を69年の廣松涉先生との対談でも吐露していた(見田宗介にそれを読めと言われた)。実際に見田宗介はそれ以降宮台に真木用語で語ることは一切なかった。彼が僕に語る時は専らシステム理論の用語系の枠内だった。
さて70年代後半当時の宮台は見田ゼミを体制補完の「週末シャワー」と見做した。だが15年余り経て宮台は認識を変えた。確かに「週末シャワー」の機能があった。見田宗介はそれを百も承知だった。だが95年刊行『現代社会の理論』を読んで仰天した。見田宗介は資本主義の廃絶を希求してなかったのだ。
見田=真木の初期業績を振り返ろう。『気流の鳴る音』や「旅のノートから」に代表される著作群。そこに頻繁に登場するのが〈狂気としての近代社会〉という言葉。そう。当初から見田宗介は、社会構造よりも感覚フレームを--宮台用語で言えば〈世界体験〉の枠組を--専ら問題にしていた。感覚の変革へ!
有名な「まなざしの地獄」NN論。都市的存在たること=表層性(外見や属性)による規定を生きること。これはシステム的帰結で、個人は如何ともし難い(一人一人は「他人を構う余裕はない」)。かかる都市的疎外が連続発砲へ…。若松&足立の風景論(どこかに行けそうで、どこへも行けない)と対立する解釈だ。
都市論的疎外⇔風景論的疎外。風景論:近代=「ここではないどこか」の憧憬と二重の挫折。(1)60年代の挫折=「こんなはずじゃなかった感」。それ故の「ここではないどこか(キューバや中共)」追求。(2)かかる〈政治の季節〉再挫折=「こんなはずじゃなかった」。⇒どこかに行けそうでどこにも行けない!
実はこれが二十年後への伏線だった。都市論的疎外からの回復構想は容易(⇒実際に情報化消費化構想へ)/風景論的疎外からの回復構想は困難(⇒ハイデガー的困難[退屈しのぎの背理]と宮沢賢治的困難[世直しの背理])。宮台の先取的疑問:真の問題は都市論的疎外でなく、風景論的疎外ではないか?
もとい。見田的構想は、社会意識を規定してくる社会構造を問題にするのとは違っていた。革命で体制を変えても、〈世界体験〉の枠組が変わぬのなら、所詮スターリニズムの如きに堕して終わるとの認識。そこが慧眼。つまり〈近代の狂気〉を徹底問題視しない左翼革命を否定した。その妥当性を歴史が証明した。
逆に言えば、ここには「体制を変革せずに、感覚革命をなし得る可能性」への認識が、懷胎されている。むろん体制(社会構造)は感覚フレーム(社会意識)を規定する。だが規定の仕方は「常に既に」必然ではない。パラメータ(外生変数)が変われば、同じ社会構造の上でも社会意識は別様となり得る。
「体制を変革せずに、感覚革命をなし得る可能性」を直接追求したのが95年『現代社会の理論』。資本主義を廃絶せず、現行の情報化消費化社会の流れの果てに、市場の限界・資源の限界・環境の限界に対処し、持続可能な資本主義社会を達成する構想。共同態⇒相克態(旧資本制)⇒相乗態(新資本制)。
復習する。市場の限界とはマルクスの枠組:生産性上昇⇒市場の飽和⇒価格低下⇒生産設備稼働率低下⇒融資返済停滞⇒金融恐慌という回路。フォードモデルからGMモデルへの転換:些細なモデルチェンジで、まだ使える商品を廃棄させ、新たな商品を購入させる。資本主義が「市場の限界」に対処可能に。
資源&環境の限界は70年代ローマクラブ的枠組。95年朝日新聞で論壇時評担当の宮台は流行の「たまごっち」に触れて説明した。《大食らいのペットは資源負荷と環境負荷が大きいが、たまごっちは同等な享受可能性を保ちつつ資源負荷と環境負荷が小さい。所詮我々の〈世界体験〉は差異の享受=情報的》。
そこで宮台の疑問。小疑問:情報化消費化段階の前の重化学工業化段階をスキップするための構想は?始点と終点を繋ぐ過程論が不十分だ。大疑問:〈狂気としての近代社会〉の体験枠組の自明性--相克的感受性--は、ゲームが物的世界から情報的世界にシフトした程度では変わらないのではないのか?
大疑問を前提にすると、持続可能性の乏しい物的世界から、資源・環境の限界の克服ゆえに持続可能性に満ちた情報的世界へのシフトは、むしろ〈狂気としての近代社会〉の永続、即ち地獄を意味する。実はここに、先の述べた[都市論的疎外/風景論的疎外]の差異が孕む問題がコピーされていると分かる。
小括。見田=真木は、一貫して体制革命ならざる感覚革命を追求してきた。当初は、近代社会で失われた〈世界〉の接触(という〈世界体験〉)が希求されたが、二十年後になると、感覚革命の射程が「物ゲームから情報ゲームへ」と切り縮められた結果、むしろ「終わりなき日常」の永続が構想された。
補足。『現代社会の理論』以降の見田は、雑誌・新聞取材で、物の消費から情報の消費へのシフトを、審美的ないし耽美的なアートの享受に代表させる。だが、情報の消費がアート的なものになる保証は、見田の議論にない。仮想空間での戦争や出世競争や性愛争奪が消費対象(相克!)にならない保証がない。
以上は講義の前半。後半を予告する。95年『現代社会の理論』では〈世界体験〉の質の議論が脱落した。見田宗介は気づいていないか。否。直前の『宮沢賢治論』(存在の祭りの中へ!)や『自我の起源』(多様なるものの流れの結節!)で、『気流』『旅の』的な感受性に更に明確な輪郭を与えている。
戦略の分化だ:(1)社会持続=『現代社会の理論』。(2)感覚革命=『自我』『宮沢』。OK?No!「感覚革命の成功」が「社会持続の不能」を招く可能性が未検討。「感覚革命の成功」と「社会持続の成功」の結合は非必然的。國柱會的日蓮主義信者宮沢賢治はこの非必然性を主題化。だが見田は意図的にスルー。
宮台による朝カル見田関連レクチャーの、時間的な前半部分についての、ツイート再現は以上です。レクチャーを聴かれた方で、ここが落ちてる、というのがあれば、教えてください。よろしくお願いいたします。
一部は見田先生やゼミっ子だった方々に失礼な言い回しがありますが、そこは大学生時代の20歳頃の僕がそう思ったという過去の話の紹介ですから、ご寛恕いただければ幸いです。むしろ昔の大学生にはそういうことを考えるヤツもいたんだなという具合に、一つの資料としてお読みいただきたいと思います。
若松監督のご自宅で
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