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モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

昨今の「一見そうは見えないバンパイヤ映画」について書きました

投稿者:miyadai
投稿日時:2016-02-29 - 08:46:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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『マジカル・ガール』『リップヴァンウィンクルの花嫁』はバンパイヤの回帰を告げるのか
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【<贈与>から<交換>への転換】
■ギリシャ悲劇はデルフォイの神託を核とする。神託に予言された悲劇──「オイディプス王」で言えば母との姦淫──を回避しようと渾身の努力を重ねることで却って悲劇が呼び寄せられる。そこでは「苦労して精進すれば報いられる」との<交換>の論理が否定されている。
■ソクラテス言行録『ファイドロス』では、悲劇を回避しようと神に拝跪して生贄を捧げ罪を雪ぐ営みが、神からの交換的返礼への<依存>(ゆえの神強制)として警められ、かわりに「予言の回避が予言の実現させる不条理」を承知の上で邁進する<贈与>の論理が奨励される。
■双方共通して、苦労して精進すれば報いに預かれるという類の<交換>の論理を否定。かわりに神託の予言の回避に向けた努力が予言通りの未来を呼び込むという世の摂理を、承知の上で突き進む<贈与>の論理を賞揚する。即ち<世界>はそもそもデタラメだと告知する。
■『グリム童話』における民話改鋳として知られるように、民話の多くは<交換>の論理の否定によって貫かれる。赤頭巾ちゃんも元々の方は祖母お性の優しい娘が狼に食べられて終了。最後に猟師が狼の腹から娘を救出するという<交換>はグリム兄弟が付加したものだ。
■昨今、認知考古学や進化生物学など諸分野で、かつての人類学における「遊動段階/定住段階」の二項図式が浮上する。一万年前からの定住化を背景にストックが可能となり、対抗贈与なき<贈与>だったものが、対抗贈与を伴う<交換>で上書きされたとするスキームである。
■このフランス的思考伝統を逸早く摂取したのがラカンだ。彼に従えば<贈与/交換>は[象徴界未然/象徴界][全愛/部分愛][主体未然/大他者による主体創出]として現れ、社会の中で各々は[過剰な快(という不快)/快][狂気/正気][アンバランス/バランス]として体験される。
■定住社会と<贈与>の過剰は両立不可能である。だから<贈与>例えば「無償の愛」は夢だとされる。だが人類史上は<交換>が支える定住社会こそが泡沫の夢。<贈与>が与える遊動社会が長き現実だった。夢に過ぎぬ現実を擁護すべく、現実と両立不能な<贈与>が禁圧された。
■我々は<贈与>の過剰を「病気」「夢」と見做すことで、<交換>のバランスで成り立つシステムを過去1万年間「正常」「現実」だとしてきた。だが抑圧された記憶は回帰する(フロイト)。それを表象するのがバンパイヤ譚だ。バンパイヤはラカン図式の左辺全てを体現している。

【滅んだはずのバンパイヤの回帰】
■邦画監督として古くは今村昌平・寺山修司・大島渚を、新しくは園子温・岩井俊二・塚本晋也を、敬愛するカルロス・ベルムト監督の『マジカル・ガール』は、アニメ・モチーフの映像構成に於いてだけでなく、世界観の基本モチーフに於いてもこれら邦画監督に連なっている。
■一口で言えば、「頑張れば報われる」「愛すれば愛される」の類の<等価交換>のバランスを保つ<社会>など所詮は虚構で、むしろバランスを欠いた無償の<贈与>──無償の剥奪を含む──に満ちた<世界>こそ圧倒的な現実だとの予感に満ちること。だから日本的だと感じる。
■邦画監督の一部に見られるこのモチーフを我々は「戦後市民社会の虚妄」の喩と捉えがちだ。空爆での大勢の死者と急速な戦後復興ゆえに、<交換>でバランスされた社会など夢に過ぎないとの認識に到達し易かっただけ。認識としてはギリシャ悲劇の古典に遡る伝統だ。
■本作では2種の<贈与>即ち、双方向的「部分愛」ならぬ一方向的「全愛」が描かれる。第一は父ルイスから娘アリシアへの全愛。第二はダミアン(出獄した元教員)からバルバラ(ダミアンの餌食になった元教え子)への全愛。全愛だから、それぞれが反社会性を帯びる他ない。
■ダミアンの<贈与>は小児性愛と見做され投獄されたであろう。ルイスは白血病で死に行く娘(日本的!)に高価な魔法少女グッズを購入するために、精神科医アルフレドとの結婚生活を営むバルバラを、性的「過ち」をネタに幾度もゆすり、娘への<贈与>を実現するであろう。
■繰り返す。我々の社会と<贈与>の過剰は両立せず、<贈与>例えば「無償の愛」は夢だとされる。だが人類史上は<交換>が支える定住社会こそが泡沫の夢で、<贈与>が与える遊動社会が長き現実だ。夢に過ぎぬ現実を擁護すべく、現実と両立しない<贈与>が禁圧されてきた。
■だから我々の現実から見れば、ダミアンやルイスの過剰愛は反社会的である他ない。他方、バルバラとダミアンを2種の<等価交換>が覆う。バルバラはアルフレドと形だけの夫婦を演じ、ダミアンは小学生時代のバルバラを相手に犯した「罪」で十年間服役するだろう。
■この<交換>は社会の喩だ。だがダミアンもバルバラも<交換>に適応しないバンパイヤだ。バンパイヤとは誰か。血を吸えれば相手を問わない。ディープ・セクシュアルの喩にもなる過剰に満ちた存在だ。我々はこれを抑圧、対象a(ラカン)という固有名的存在に快を限定した。
■<贈与>の過剰(バンパイヤ)を「病気」「夢」と見做し、<交換>のバランスが支えるシステムをこの一万年間「正常」「現実」と見做して来た我々に、抑圧された記憶が回帰する。そして全ての起点に一見犠牲者に見えるバルバラがいる。バルバラからダミアンへの全愛がある。
■翻れば、生徒バルバラを餌食にした教師ダミアン同様、人妻バルバラを凌辱した黒蜥蜴(乱歩!)の男も、相手を問わぬ肉欲に駆られたバンパイヤ。<等価交換>からなるこのシステムは程なく終りを告げ、全ての起点にバンバイヤが存在することが気付かれる。希望か絶望か。

【どちらが「優しい嘘」なのだろうか】
■ベルムト監督が敬愛する岩井俊二の新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』も、一見そうは見えないが、彼が反復してきたバンパイヤ譚そのものだ。詳しくは劇場パンフに記した解説(原稿用紙30枚)を参照していただくとして、ここでは極く要点だけを述べるに留める。
■全編を通じ、宮沢賢治の諸作品・機動戦士ガンダム・リップヴァンウィンクルから引用されたモチーフが満載だ。最も重要なのはワシントン・アービングの短編「リップヴァンウィンクル」から借りた「妻殺しの夢を見る夫」(本作では「夫殺しの夢を見る妻」へと翻案)である。
■そこには夫≒ファルス(象徴的男根)≒象徴秩序≒システムという喩の連鎖がある。夫殺し=システム殺し。どんなシステム殺しの夢か。本作は一口で言えば、AV女優・真白が、便利屋・安室を通じて、形だけの結婚生活を送る七海を「かどわかす」話だ。夢を見るのは真白である。
■《お店の人が⋯私なんかのために御菓子や御総菜なんかを袋に詰めてくれてる訳。それを見てると胸がギュッとして泣きたくなる。⋯この世界はさ、幸せだらけなんだよ。⋯人の真心や優しさがハッキリ見えたら、ありがたくてありがたくて壊れちゃうよ。だからそれをお金に置き換えて見なかったことにするんだ。だからこの世界は本当は優しいんだよ》
■全ての<交換>について<贈与>の夢を見る。真白は誰もが忘れた「大古の記憶」を夢に見る女。その意味で<まゆづくり系>(虚構の現実化)に配当される。だが昨今の学問が示す通り「大古の記憶」こそが悠久の現実で、我々が現実だする「クソ社会」が夢に過ぎないかもしれない。
■我々が自明視するようにこの「クソ社会」を現実だと見れば、真白は<まゆづくり系>に配当されるが、逆にこの「クソ社会」こそ一時の夢だと見れば、真白は、夢に過ぎない「クソ社会」を現実である「かのように」演技的に生きる<なりすまし系>(現実の虚構化)に配当される。
■かつて永く存在した<贈与>の過剰に満ちた時空が回帰する可能性が現にあるのだとすれば、我々が「クソ社会」を生きる上での前提が変わることになるだろう。この「クソ社会」では無償の愛(贈与)が「優しい嘘」だとされるが、本当は全く逆だという話にならざるを得ない。
■即ち、所詮は儚き「クソ社会」を、少しでも持続させるべく、端的な<贈与>である真実の愛を「優しい嘘」だと敢えて見做す「優しい嘘」が語り継がれているだけ、という話になる他ない。<贈与>が「優しい嘘A」か。<贈与>を「優しい嘘A」だとする見做しが「優しい嘘B」か。
■真白が安室に「一緒に死んでくれる人」を探させる理由は明らかだ。真白は、<贈与>される幸せに耐えかねて壊れるから対抗贈与としてお金を支払うという「優しい嘘B」を取り去れば、<贈与>に満ちた時空が露わになると考える。だから自分のために死ぬ存在がいて当然だ。
■真白は自死の間際に、お金(対価)は不要だと言う七海を受け容れた。即ち七海からの<交換>ならぬ<贈与>を、対抗贈与なき純粋贈与を、原則を曲げて受け取った。つまり真白は、受け取ることによって壊れることを受け容れて、実際に壊れる=自死することに、なるのだ。
■だが、我々の社会こそ自明な現実だとする立場からすれば、真白の自死=過剰な快(ラカン)ゆえの壊れは、所詮は社会を生きられないバンパイヤの自己合理化だ──<贈与>を「優しい嘘A」だと見做す「優しい嘘B」こそが「優しい嘘C(≒A)」だ──という話になる他ないであろう。
■真白の死後、七海は真白の支払いを受け容れ、<贈与>を夢だと見做す、「クソ社会」を生きる営みを支える「優しい嘘A」に回帰した。だが七海は既に「クソ社会」が「優しい嘘B」なのを知っている。彼女は「優しい嘘B」に気付かぬふりをする<なりすまし系>として生きるだろう。
■「クソ社会」を生きるための一瞬の夢としての<贈与>があるのではない。それは単なる<まゆづくり系>の実存に過ぎぬ。そうではなく、<贈与>の過剰こそが現実で、「クソ社会」自体が一瞬の夢に過ぎない。そのことを意識しながら生きることをこの映画は推奨しているのだ。

【持久戦を戦うバンパイヤの<なりすまし>】
■<贈与>の過剰を生きる(がゆえに社会を生きられない)パンバイヤを巡る「現実」「夢」の反転──希望と絶望の反転──をモチーフとするのが、アンジェイ・ズラウスキ監督『ポゼッション』(1981年)。ポーランド出身監督によるベルリン舞台の米国映画(台詞は英語)である。
■諜報部員の夫が出張から帰宅すると妻には間男がいた。嫉妬に狂う夫。興信所を使って調べると妻に第三の男がいた。だがソレは成長する怪物。それを知った興信所の男も間男も妻に殺される。だが夫は怪物と性交する妻を受け容れた。直後夫妻は警察に射殺される。
■米国版Blu-rayの監督解説と小論*によれば、監督の実体験から来る思いが籠められている。自分を裏切った妻への怨念、寝取った間男への怨念、自分を祖国から追放した政府への怨念。だがそう読み取っても面白くない。そこに写し取られた無意識の図柄こそ興味深い。
■監督解説では怪物と性交する妻を最終的に夫が受け容れた理由が説明できない。これを説明できるのはバンパイヤへの感染だけ。映画では「怪物⇒妻⇒夫」という感染経路が描かれる。感染した夫は、怪物との性交に右往左往する間男に対し圧倒的に優位な立場に立つ。
■怪物はと言えば、妻とイエス像との想像的性交で産まれたことが暗示される。即ち「イエス⇒怪物⇒妻⇒夫」という経路が示される。イエスはと言えば、ヤハウエ信仰の<交換>(神強制)の論理を<贈与>の過剰で置き換えた(=新約)その人。ここには監督の無意識が働いている。
■監督の意識では<交換/贈与>の対比が「体制が要求するfaith/内から湧くchance」なる体制批判に変換されている。妻の台詞がそれを示す(日本語サブタイトルは「善/悪」というデタラメ訳)。だが性愛をモチーフにした結果、凡庸な社会批判がパンパイヤ譚に昇格した。
■だがラスト直前、夫に瓜二つの姿に成長した怪物が幕引きの自死を図る。ラストでは、夫が憧れていた妻瓜二つの女教師の元を何かが訪れる。磨りガラス越しに見える影は、夫のようにも、夫姿に成長した怪物にも見える。夫は「感染済み」だからどちらでも同じだ。
■そこでは「イエス⇒怪物⇒妻⇒夫⇒女教師」の連鎖可能性が暗示される。だが夫妻の射殺といい、怪物の自死といい、何かが女教師を訪れた際の息子の自死といい、そこではディープ・セクシュアルな<贈与>的バンパイヤと<等価交換>的社会との両立不能性が暗示されている。
■かつて人妻を誘惑していた時代を思い出す。代々木忠監督が示し続けて来たように、社会に依存的な男と違い、周辺化された女こそがモノガミーを超えたディープ・セクシュアルな本体に戻り易い。スワッピング取材を含めた私の体験は代々木監督の正しさを追認する。
■しかし人妻たちの多くは、自らのバンパイヤ次元を確認するや、『リップヴァンウィンクルの花嫁』の七海のように「一瞬の夢」に過ぎない「クソ社会」に回帰する。<なりすまし系>に昇格した「卒業後」の彼女たちとは連絡さえ取れなくなる。そのことが意味するものは何か。
■彼女たちには夫がいて、何より子供たちがいる。連載でも示してきた通り(特に『コングレス未来学会議』を論じた回)、愛おしい存在を背負うがゆえに「クソ社会」の中で自己犠牲的に戦う責任を引き受ける生き方がある。そのためにも<なりすまし系>になる他はない。
■だが連載で論じた一連の映画や、昨今目立つ(それとは見えない)バンパイヤ映画の数々から、東側社会に留まらず「クソ社会」の<交換>的秩序自体が保たないのではないかとの予感が感じ取れる。持久戦を戦い抜いた後、いつかバンバイヤが蜂起する時代が来るだろうか。
■ラカンは「汝、欲望を諦めるな」と言い、人が欲望を諦めるときに最も理由となり易いのが「身近な人を守るため」だと指摘する。だがガチの断念は倫理を歪める。元喫煙者ほど過剰に喫煙者を嫌悪するように。だから説法は<なりすまし>ている事実を忘れぬことを推奨する。

*Andrzej Zulawski POSSESSION (1981), UNCUT Special Edition[Digipak], MONDO VISION(2014).なお封入されたブックレット内の小論(essay)は Daniel Bird “God Figured as a Public Whore Gone Crazy”。訳せば「人々の拘束具だったはずの神が失調した」。主人公の名前の由来なとを含めてほぼ監督の自己認識に沿った解説がなされている。