MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
12345678910111213141516171819202122232425262728293031

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

押井守監督『東京無国籍少女』について書きました(後編)

投稿者:miyadai
投稿日時:2015-09-28 - 07:28:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
────────────────────────────────────
押井守『東京無国籍少女』は「まどろみから覚醒し、戦闘態勢で生きよ」と呼び掛けるが②
────────────────────────────────────

【「私は兵だ」が全体モチーフを集約】

■押井守監督『東京無国籍少女』を引き続き論じる。「なぜお前はここにいるか? 」「私は兵だ」の遣り取りに全体モチーフが集約されていた。それは彼の作品系列を知る者には衝撃だ。すなわち「覚めない夢を現実のように生きろ」から「クソな現実を臨戦態勢で生きろ」へ──。
■「クソな現実より、マトモな夢を」から「クソな現実より、マトモな現実を」へのモチーフ変更。これは既に『スカイクロラ』で予告されていた。だが前回述べた通り、「マトモな現実」への渇望が描かれるのみで、「マトモな現実」を手元に引き寄せる方途は描かれなかった。
■今回は違う。「兵として現実を生きること」が方途だと断言される。同時に従来になく圧倒的で濃密な身体性に充ちている。実は私にとって唐突ではない。『スカイクロラ』製作前に押井か空手を習得したように、私も中高大時代に嗜んだ空手の修行を復活させている。
■同じく自宅の防音室にドラムスセットを設置、練習を再開した。私だけではない。院ゼミの日本人院生男女10名前後の全員が、私が推奨した訳でもなく、武道を嗜んでいる。空手あり、ムエタイあり、合気道あり。「私は兵だ」は、私やその周辺の共通感覚になっていよう。
■好戦的な安倍晋三やそれを擁護する2ちゃん系ウヨ豚とどこが違うか。戦後の夢のまどろみを否定したい気分は確かに私の中にもある。誰か守りたい者たちがいるなら、自分一人でもクソな現実で戦わねばならぬ、仮令その人たちがまどろみ続けるのだとしても──。
■この種の倫理が、傑作SF映画、アリ・フォルメン監督『コングレス/未来学会議』に見出せる事実を述べてきた。だが倫理と疑似倫理を分けられなければ我々を安倍晋三やウヨ豚どもから区別できない。歴史認識や政治認識の妥当性を以て分けることを誰もが思いつく。

【社会がなぜクソなのかを考察せよ】
■そこに踏み込んでも良いが、馬鹿が相手である場合は妥当性を巡る水掛け論に終始する。全くの別角度から倫理と疑似倫理の分割可能性を模索したい。ヒントはクソ社会がなぜクソなのかという理由にある。先取すれば理由は社会が概念言語を基礎に成り立つ点にある。
■むろん我々は社会を生きないことができないので概念言語に依存する他ない。我々が生きている以上は言語的に構築されたシステムの自己運動から逃れられない。永続するのはシステムで、我々は使い捨ての部品。そう。『スカイクロラ』が示すモチーフそのものだ。
■哲学はシステムの自己運動という逃れられない檻への抗いの方途を模索してきた。嚆矢がニーチェとハイデガー。共に紀元前五世紀前半─メタ万物学(形而上学)以前の初期ギリシア万物学(自然学)─を参照した。「近代哲学=メタ万物学」ならぬ「現代哲学=万物学」の流れ。
■代表格がデリダの「脱構築」だ。システムは概念言語の二項図式を転轍機=リレイスイッチとする。だが概念言語の否定自体が概念言語の二項図式に填まることを意味する。だから「概念言語の二項図式を、引き受けつつも、一切信じずに前進する」方法が推奨されている。
■それには、音声言語(ミメーシス)を書記言語(イデア)よりも優位に置く初期ギリシャ的伝統(を重視する現代哲学)から離れ、書記言語にツキモノの脱主観的誤配を重視するのが大切だとした。社会学者ルーマンも「脱パラドクス化」の概念を用いて似た推奨をしている。
■要は概念言語を基礎に自己運動するシステムは謂わば自動的にズレて自同律から逸脱すること。私はこうした処方箋に意味があるとは全く思わないが、それはともかく、システムの自己運動という自同律への抗いの方途を提案する映画として何を思いつけるかを考えた。

【社会を生きるのをやめろとの布教】
■ふと思いついて黒沢清監督『キュア/CURE』(97年)を昨晩の夜中に見直した。萩原聖人が演じる医大生の間宮による言語実践こそ「概念言語の二項図式を、引き受けつつも、一切信じずに前進する」実践そのものだ。そこには誤配や遅配を待つ悠長さはなく、単刀直入だ。
■刑事高部が娼婦惨殺現場に駆けつけた。胸元をX字に切り裂く連続殺人。現場で犯人が捕まる。全ての連続殺人で容易に犯人が捕まった。だが相互に接点がない。一様に、殺した方が良いと思ったと動機を語る。友人の精神科医佐久間に尋ねるものの答えは得られない。
■海岸を記憶障害の間宮が彷徨う。彼を助けた小学教師は、話術に引きずり込まれ妻を切り裂く。間宮を保護した警官も同僚を切り裂く。間宮を問診した女医も他人を切り裂く。間宮が催眠術発明者メスマーを研究する医大生だと知った高部は、催眠暗示だと思い至る。
■高部は間宮に接触して調書作成を試みる。だが心を患う妻への殺意を指摘され激昂した。すると間宮は高部を自分の唯一の理解者だとホメる。妻を入院させた高部の精神状態を危惧して間宮と接触するなと忠告した佐久間だが、自らを切り裂いた自殺体で発見された。
■自死直前に間宮を布教者と呼んだ佐久間も、間宮のトリコになっていたのだ。高部は間宮を故意に脱走させ、かつて病院だった廃屋で間宮と再開する。本当の自分に出会いたい人間はここにやって来ると語る間宮を、高部は銃殺する。全ては終わった──はずだった。
■だが病院では妻が切り裂かれ、高部が常連のレストランでは馴染みの女給仕が包丁を手にとる。高部は間宮を継ぐ布教者となっていたのだ──。全編を一貫するモチーフは、間宮と接触した者が、例外なく取り込まれ、彼の指南通り「社会を生きるのをやめる」ことだ。
■記憶を失った間宮は一貫して「社会はクソだ、アンタも知ってる筈だ、ならばクソ社会を生きるのをやめろ」と布教する。それが催眠を用いた殺人教唆だと社会からは見える。それを私はかつての批評で「〈社会〉から〈世界〉へ」の図式で記述した。今でも妥当な解釈だ。

【本質疎外論でなく受苦的疎外論へ】
■間宮と接触した者は例外なく取り込まれる。境遇が悪かったなど社会から排除されたからクソ社会なのではない。万人にとって社会はクソだと映画は断言し、我々は説得される。なぜ社会は誰にとってもクソなのか。この作品を批評した15年前の私はうまく言えなかった。
■今は言える。「社会がクソである理由は、概念言語によって閉ざされた領域だから」。そのことを暗に突き付けた『キュア』を引き継ぐ『東京無国籍少女』は、身体性を前景化することで「社会がクソである理由は、概念言語によって閉ざされた領域だから」と明示する。
■この思考はハイデガーを思わせる。彼によれば、人間は概念言語を用いる理性的な存在だから、どんな〈ここ〉にも〈ここではないどこか〉を対置してしまう。その〈ここではないどこか〉も〈ここ〉へともたらされた途端に〈ここではないどこか〉を夢想してしまう。
■これを「脱自」と呼ぶ。ハイデガーの言葉では〈ここ〉が非本来性で〈ここではないどこか〉が本来性だが、人間は「脱自」するから本来性に行き着けないということだ。換言すれば、人間はいつも別様であり得る可能性=〈ここではないどこか〉から、疎外されている。
■これを〈受苦的疎外論〉と呼ぶ。人間が本質を見失っているとする〈本質疎外論〉と対立する。〈本質疎外論〉では回復されるべき本質が想定される。〈受苦的疎外論〉はかかる本質の措定を拒絶する。マルクスは〈本質疎外論〉から〈受苦的疎外論〉にシフトした。

【〈世界〉が奏でる調べに開かれる】
■認知考古学者スティーブン・ミズン『歌うネアンデルタール』(原著2004年)に従えば、ネアンデルタールは言語と音楽が未分化で、正確に言えば全て音楽だった。ここで言う音楽とは音声ストリームの全体で、それが引き起こすミメーシス(感染的摸倣)が音楽体験だ。
■即ち、音声ストリーム=調べの果たす機能は、記述よりも、巻込みや引込みや呼掛けなどの動機づけにあった。ところがクロマニヨンズを含むホモサピエンスは調べを分割、分割された要素を入替可能にすることで語彙(単語)を手にして、それが概念言語に繋がった。
■ちなみにネアンデルタール源流とホモサピエンス源流は50万年ほど前に共通の祖先から分化した。ヨーロッパではネアンデルタールが2.4万年前まで生存し、4万年前に欧州に進出したホモサピエンスと1.5万年余りの間オーバーラップしている。当時は氷河期だった。
■最終氷期によるヨーロッパの寒冷化で、ネアンデルタールは食料をめぐる争いに敗れて絶滅した。ホモサピエンスに優位をもたらしたのが、複雑な分業的協働と、技術の蓄積的伝承を可能にする、4〜5万年前から始まった概念言語の使用であったと推定されている。
■マックスプランク研究所の研究チームはネアンデルタールとホモサピエンスがFOXP2という遺伝子群を共有する事実を示した。これをマウスの受精卵に埋め込むと長く歌うように鳴くマウスになる。FOXP2が音声ストリーム(調べ)を奏でる能力に関連すると推定される。
■ところが、ネアンデルタールとホモサピエンスの間でFOXP2自体に違いはないものの、ホモサピエンスだけがFOXP2の周辺遺伝子に一箇所突然変異を生じた。そこに或る蛋白質が結合することでFOXP2の機能が一部抑制され、それが概念言語の獲得に繋がったとされるのだ。
■音楽から概念言語が分化したとするミズンの『歌うネアンデルタール』の議論と併せると、奏でられる調べに関わる音楽的直観のミメーシス(感染的摸倣)が抑えられた分、それを埋め合わせるためのノン・ミメーシス的な概念言語が発達した、という展開を思わせる。
■概念言語が与える記述は〈世界〉の一部でしかないが、調べが与える感覚は〈世界〉全体に関わる。だから辞書のように概念言語を言語的にパラフレーズできても、音楽体験を詳しくは言語化できない。だが調べ次第で〈世界〉が悲しくなり、喜びに溢れ、切迫する。
人間はまず〈世界〉が奏でる調べを体験しながら、概念言語を使っている。だから映画音楽次第で台詞(概念言語)の意味が変わり、歌詞(概念言語)がどんな曲想に乗るのかでマジになったり冗談になったりする。コンピュータと違ってフレーム問題で決定不能に陥らない。

【倫理と疑似倫理を分けるのは調べ】
■「歌う遺伝子」FOXP2の働きが突然変異で抑制されたことで概念言語が生まれ、ホモサピエンスに勝利をもたらした。概念言語が分業編成や技術伝承を可能にしたのが理由だ。抽象的に言えば、ソシュールが言う通り、概念言語が、人のものというより社会のものだからだ。
■概念言語による情報外部化で、個人が死んでも「社会が」分業編成や技術を不可逆に進化させる。だがそれゆえ「社会がクソである理由は、概念言語で閉ざされた領域だから」「人間は概念言語を用いるから、どんな〈ここ〉にも〈ここではないどこか〉を対置する」となる。
■社会を生きる限り我々は〈ここではないどこか〉を夢想する。そのことと概念言語からなるシステムのマッチポンプ的な循環に埋め込まれることが同義だ。だから、これぞ本来性だと思えたものを引き寄せて理想社会を実現しても、その実現ゆえに社会はクソになる。
■『キュア』はそれを描く。タイトルが暗示する。人は間宮の布教に従って社会を生きるのをやめればキュア(治療)される。それは社会が言葉で出来ているからだと間宮の逸脱的言語行為が示す。その意味で『キュア』は、『スカイクロラ』が描く「閉じ」を、理由づける。
■「閉じ」を理由づけた『キュア』は概念言語の外側に突き抜けよ──象徴界から想像界へ突き抜けよ──と反倫理的に推奨する。押井の『東京無国籍少女』は理由づけを『キュア』と共有する。但し概念言語の外側への突き抜けこそが我々に倫理を回復すると告げる。
■冒頭、「覚めない夢を現実のように生きろ」から「クソな現実を臨戦態勢で生きろ」へという推奨を受け入れるとして、それと愛国心をガナる2ちゃん系ウヨ豚を区別するもの──倫理と疑似倫理を分けるもの──は何かと問うた。答えが得られた。象徴界から想像界へ。

【ミソとクソを一緒にする概念言語】
■理想社会を実現すれば人が幸せになるとする発想を私は高校時代から嫌悪してきた。理想社会を実現しても人は幸せにならない。その思いを長らく、主意主義と主知主義、右翼と左翼といった二項図式(概念言語!)を用いて記述してきた。私の立場は主意主義=右翼だ。
■この40年来の感覚に、分子進化学を中心とするここで紹介したような最近の業績を通じて学問的正当性が与えられつつある。我々は、〈世界〉の奏でる調べに開かれるのを程々にして、概念言語を手にしたことで「勝利」したが、そのことで〈社会〉に閉じ込められたのだ
■〈社会〉から〈世界〉への突き抜け─脱社会化─を、『キュア』は反倫理的だと描き、『東京無国籍少女』は倫理的だと描く。倫理的だろう。さもなくば「戦後レジームからの脱却」を唱える輩が「対米ケツ舐め路線」という最大の戦後レジームを邁進する愚昧を逃れられまい。
■概念言語を使いつつ信じないこと。そして〈世界〉が奏でる調べを聴き、人の佇まいが奏でる調べを捉えること。バタイユの「呪われた部分」という概念がある。リーチの「リミナリティ」概念に継承された。共に、概念言語が覆い隱したものについての指し示しである。
■彼らによれば概念言語はカサブタだ。カサブタの下にダイナミックな血肉がある。血肉を忘れれば我々は内発性(内から湧く力)を失う。だから原初的社会(部族段階)では例外なく「呪われた部分」を再認識させる装置を都度都度動かし、頽落しかけた動機付けを回復する。
■計算可能性が覆う近代で、例外的に眩暈(変性意識状態)をもたらす営みとして性愛が許容されてきたのも、それに関連する。だが我々がクソ社会を辛うじて生きることを可能にさせていた祝祭も性愛も失われつつある。かくてカサブタの下にある血肉を感じられなくなる。
■最近の押井守が身体性のモチーフで警告するのもそれ。カサブタの下にある血肉を感じられない劣化厨は戦闘状態に入っちゃ駄目だ。永久にヲタ系の夢を見てろ。クソ社会を戦闘状態で生きるとは、カサブタが覆い隱す血肉を感じつつ、革命や正義の言葉を信じず進むこと。
■思えばバタイユも革命を嫌った。革命が果たされても昨日とは違う別の問題に悩ませられると。かわりに彼が推奨したのは絶えざる反抗。フーコーがそれを継承した。先程の話と同じだ。概念言語が可能にする社会システムを、概念言語を信じず、戦闘状態で生きよ。