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アリ・フォルメン監督『コングレス未来学会議』について書きました

投稿者:miyadai
投稿日時:2015-08-15 - 18:51:35
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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フォルメン監督『コングレス未来学会議』は夢と現実の関係についての最高峰の考察だ
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【先端的な哲学の実在論と反実在論】
■我々はどんな方法を使っても電子を観察できない。だが電子の存在を仮定することで説明可能になる現象は数多ある。電子が存在するとしたら存在するはずの現象が現実に多数見つかる。この地点で、電子の存在という説明仮説を、実在(に極めて似たもの)についての言明と見る実在論と、実在だと考えてはならないとする反実在論が、分岐することになる。
■巷では知られていないが、分岐は倫理的だ。20世紀戦間期以降の主流は論理実証主義に代表される反実在論である。従来、惑星運動はニュートン力学(に基づくケプラーの法則)で説明されてきた。だが1919年に登場した特殊相対性理論は全く異なる仕方で惑星運動を説明し、以降パラダイムがシフト。ニュートン力学は実在からかけ離れていると見做された。
■だが相対性理論を提案したアインシュタインが疑念を唱えた量子力学(における不確定性原理)が十年も経たずに基本パラダイムとなった。かかる歴史に明らかなのは或る時期まで現実をよく説明してくれる(という意味で役立つ)理論も程なく別の説明に代替される事だ。説明仮説を実在を言い当てる言明だと思い込むことは、こうした歴史を無視する暴挙だ⋯。
■とする反実在論の立場は倫理的だが、実在論が反倫理的だとも断じられない。現実をよく説明してくれるという意味で役立つとはどういうことか。現在でも弾道計算したり構造計算する際に相対性理論を持ち出す者はいない。これらはニュートン力学に基づいて計算される。その意味では今も十分に役立つ。つまりニュートン力学で計算可能な現実が実在する。
■それは或る角度から見た場合の近似に過ぎないと反論できる。だがこの反論は或る角度から見た近似だと見做せる何かが現実に存在することを前提とする。であれば説明仮説を或る角度から見た場合の現実によく似た記述だと見做すべきではないか。さもないと現実認識は悉く現実に届かない仮説的ビジョンだ──全ては仮説だ!──という話になりかねない⋯。
■アインシュタインは明確に実在論の立場に立つ。ユダヤ人の彼にしてみればナチスによるユダヤ人600万人大虐殺を記述する歴史的言明がムー大陸が存在したとする類の言明と選ぶ所のない仮説的ビジョンに過ぎなくなるのは許しがたい。だからこそ彼は観測以前は不確定なものが観測行為によってその都度収束するという類の言明さえ受け入れたがらなかった。

【クスリを摂取した自分こそ本来だ】
■覚醒剤やコカインのようなドーパミン吸収体ブロック系の精神ドラッグの緩和薬としての機能を果たすリタリンが合法的だった時代に──雑誌『ダ・ヴィンチ』に映画評を連載していた21世紀初頭の7年間に重なる──原稿の締切時期になるとリタリンを服用していた。最初にこれを使ったときの或る種の全能感は私の記憶に強烈に残っている。敢えて紹介する。
■薬がキマったとき、私は徹夜で仕事を終えた後で運転中だった。一挙に雲が晴れた。或いは画面が突然ハイビジョン映像に変わった。道路上の全ての車・自転車・歩行者の動きが、見えていない筈の側方や後方に到るまで完全に把握できているという感覚が訪れた。この細道を時速百キロで走れるぞと思えた。事前の知識による免疫があったので無論思い留まった。
■緩和薬だから脳内ドーパミン濃度の立ち上がりが覚醒剤やコカインより緩やかなだけで、ドーパミン濃度が上昇した段階での体験の質は変わらない。事前の知識とは薬物依存症からの回復と社会復帰支援を目的としたNPO法人ダルクの元覚醒剤中毒者から聞いた「良きこと」「悪しきこと」を全て含めた薬物体験についての情報だ。それが飲み込まれを抑止した。
■服用を繰り返す内にやはり事前に聞いていた認識が訪れた。当初は薬物が効いている間だけ自分が特別な状態になるのだと感じられた。やがて薬物が効いている間の自分こそが本来の姿だという感覚へと逆転した。薬物が効いていない間に体験される薄ぼけた自分と世界がむしろ本来のものではないのだと思われ始めた。事前の免疫がなければ危ない状態だった。
■この体験を考察することで私は〈世界〉と〈世界体験〉の違いを腹に落とした。〈世界〉は社会システムとパーソンシステムによって〈世界体験〉へと変換される。科学的方法や概念を使うと否とに拘わらず我々に与えられるのは〈世界体験〉に過ぎない。「〈社会〉の外側にある〈世界〉からの訪れ」の文を私は頻用するが、我々に〈世界〉は与えられない。
■この論理を突き詰めればこうなる。我々はどのみち社会システムとパーソンシステムによる〈世界〉の、或る意味では恣意的な体験加工から逃れられない。社会や人(パーソン)が違えば体験加工の仕方が変わるように、同じ人でも脳内環境(ドーパミン濃度等)によって体験加工の仕方が変わる。どれが真実の体験でどれが虚偽の体験だと言明することは不可能だ。
■だが私は最終的に薬物をやめた。同じ薬物を常用する親しい友人(見澤知廉氏等)が薬物が原因で死んだり精神病院に入院する事態が重なり、私はどんな究極価値を抱くのか、それに従ってどんな最終目標を立てるのか、最終目標と両立不能な選択肢はどれか、を徹底的に考えた。そこで究極価値・最終目標によるプライミングを重視するアドラー心理学を知った。

【シミュレーション仮説の映画たち】
■「我々はシミュレーテッドリアリティを生きている」。スウェーデンの科学哲学者ニック・ボストロムのシミュレーション仮説である。古くは荘子の「胡蝶の夢」以来、自分が現実だと思っていた世界が実は夢なのかもしれないというアイディアは、古今東西にあまねく存在し、人を魅了してきた。このテーマは映画史においても、幾度となく登場してきた。
■『惑星ソラリス』では人の夢を実体化する惑星が描かれ、『トータルリコール』では記憶の売買を行う企業が登場する。『バニラスカイ』では冷凍睡眠による夢世界への移住がサービスとして提供され、『マトリックス』ではまさにボストロム仮説が現実のものとなった世界が描かれる。『インセプション』も現実と夢の境目を相対化することに成功していた。
■そこに決定版と言える作品が登場した。イスラエル人アリ・フォルメン監督『コングレス未来学会議』だ。今紹介したような映画の系譜に位置づけられる。原作は『惑星ソラリス』の原作者でもあるスタニスワム・レム。後で述べるように重要な部分で原作とは異なるモチーフを選択している。原作にないエピソードがあるという類の巷のショボイ話ではない。
■映画は前半と後半に別れる。前半は実写、後半はアニメ。前半と後半は20年という時によって隔てられる。前半の実写部で描かれるのは近未来のハリウッド。CG技術の発達で、本物の役者が不必要なものになろうとしていた。「スキャン」と呼ばれるモーションキャプチャの一種で俳優の感情や表情をコピー、そのデータをスタジオが商品として所有する。
■かつてスター女優だった主人公ロビンも決断を迫られる。当初は頑なに拒絶したロビンも、重い病に冒された息子を養う責任からCG女優となろうと決意する。決断を促したのマネージャーのアル。彼が説得の際にかけた言葉は象徴的だ。「君は最悪の決断しかしてこなかった」「君を恐れから解放したい」。これらは後に我々全員に向けられたものだと分かる。

【すべての現実は夢のなかにある?】
■映画はロビンのスキャン完了後20年が経過したと告げる。2013年型カレラに乗って荒野を疾走する老いたロビンが向かうのはアニメ都市アブラハム・シティ。そこで開催される「未来学会議」に出席するためだ。映画は誰かの夢の中のような荒唐無稽な展開を見せ始める。アブラハムという都市名はロビンの娘の名サラと呼応。旧約聖書との対応関係を示唆する。
■アブラハム・シティでは人はアニメキャラとして存在する。入管で薬を嗅がされシティに入るロビン。気づくと彼女も世界もアニメ化している。そこからはジェットコースタ・ムービーだ。未来会議直前、ロビンは、「単なるCG女優でなく、誰もが夢の中でロビンとなり、或いはロビンと好きな物語を生きられるようにする」新薬が開発されたことを告げられる。
■未来会議では、来る新時代アブラハム・シティが地球大に全域化、我々は本当の自由を手にすると謳われる。CG女優第一人者ロビンはゲストとして壇上から「目を覚まして」と訴えるが来場者の耳に届かない。そこに突如反乱軍が来襲。サラもメンバーだと分かる。だがシティ側が散布した幻覚剤を深く吸い込んだ彼女は昏睡、治療のために20年間凍結される。
■彼女の解凍を待っていたのは、20年前までCG女優ロビンのプロデューサーで未来学会議の直前に辞職したディラン。世界はアニメ化に加えて完全に薬理化していた。性別も年齢も容姿も薬で自由自在。希望を薬理的に実現できるから争いがなく平和だ。だがロビンは未来学会議の際に家に置いてきた病気の息子に会いたい。彼はアニメ界には来ていないらしい。
■アニメ界は美しく、デュランとの恋も魅惑的だった。だが息子と会いたいロビンは、デュランの助けを借りて現実界に戻る。色彩が『マトリックス』を彷彿させる、薄汚れ荒廃した現実界。人々は幻覚を見つつゾンビの如く彷徨い、管理者がそれを統制する。だが『マトリックス』と異なるのは、現実を知る者の中に、現実に期待する者が一人もいないことだ。
■息子の消息を尋ねるためにロビンが会いに向かった医者は「夢も現実も変わらない」と告げる。そこでは唯脳論的世界観が語られている。仕事の達成も快楽殺人もスポーツもセックスもドラッグも脳内物質の分泌で満足を得る一点で変わらない。ならばアニメ界も現実界も同程度に無価値で無意味になる。現実と夢という区分に何の意味もあり得なくなる他はない。
■現実界に息子を探しに行ったロビンに対し、息子は一年前にアニメ界に旅立ったと医師が告げる。迷った末ロビンはアニメ界に戻る決意をする。だが今度は息子として。そして自分は息子の夢に登場する。こうして母と息子は再会し、映画が幕を閉じる。その瞬間に観客は我々が生きる世界の〈クソ〉ぶりに打ちのめされ、母の決断に否応なく同意させられる⋯。

【責任を果たすというプライミング】
■前回『Mommy』で問うた。なぜ我々は甘美な想像界を捨て象徴界へと向かうか。社会を営むことに辛うじて意味があると信じられるからだ。それが信じられないなら象徴界を捨てる他ない。映画『コングレス』では想像界がアニメ界(夢)で象徴界が現実界。『マトリックス』と違って最終的に世界が現実を取り戻すという終幕はない。ずっとラディカルである。
■だが原作と比較すると微妙な問題が浮かぶ。原作は映画以上にリアリティが混沌とする。原作は以前紹介したバラード基準に従い、「未来には未来の感受性がある」という線を崩さない。「だから」映画が用いるアニメ界と現実界の対比はない。未来にはそうした区別はないからだ。唯脳化が完遂され、脳内環境を「元に戻す」のも薬理的加工の一種だと等価化される。
■アニメ界(夢)と現実界という区別を用いる映画版の方が、数百年後のものではない我々の現在的な批判規準を用いるから一見保守的だと感じる。だがそう断じるのは早計だろう。たとえ原作の如く夢と現実の区別がつかない「底が抜けた」リアリティを描いた場合でさえ、我々は、現在的な批判規準を用いて、「こんな世界はゴメンだ」と受け取るだろうからだ。
■確かに現在的な批判規準に適合した夢と現実の区別が持ち込まれた映画の方が判り易い。だが、監督が原作にない夢と現実の区別を持ち込んだのは、判り易さを狙ったからではない。それは監督の前作『戦場でワルツを』を念頭に置けば明白だ。『戦場〜』は、虐殺が行われた戦場における、監督自身の選択的記憶喪失を主題とした、ドキュメンタリー・アニメだった。
■要は、見たいものだけを見る(覚えて置く)、見たくないものは見ない(忘れ去る)という、意識しなくても生じがちな選択作用を批判していた。映画『コングレス』も同じ問題を批判にしている。大虐殺の現場にいながらそれを忘れ去ったという監督自身の出自に関わる痛切な実存問題に由来する主題だ。監督の自身に感じる痛みが、この映画にも貫徹している。
■原作にないアブハラム・シティの名もこの一貫した主題に関連する。旧約聖書のアブハラムは紀元前18世紀のヘブライ民族創始者たる族長。聖書の神と初めて交流した。ノアであれモーセであれイエスであれ、ヤハウエとの交流は共通して「他の者が見ようとしない見たくない現実を見たがゆえに約束を守る“責任”を引き受ける」ことを、聖書上、意味してきた。
■だから映画には「見たくない現実を見よ」というメッセージが貫徹している。無論それだけなら『マトリックス』に似る。だが、先の医師は「夢の外にいる者(管理者たち)もまた夢を見ている」という趣旨を語る。これは、原作を踏まえたモチーフであること以上に、監督の映画に前作から一貫する主題に関わる、倫理の表明として、理解されなければならないだろう。
■原作は、夢と現実の区別がもはや論理的に成り立たなくなった世界を描く。それを読む現在の我々は倫理の底が抜けた「イヤな感じ」を抱かせられる。が、そうした「イヤな世界」も突然降って湧いたのではない。知らず知らずのうちにそうした世界に移行した筈だ。今は移行過程かもしれない。ならば「夢の外にいる者もまた夢を見ている」との自覚を捨てられない⋯。
■母である主人公が進行性の難病に冒された息子を守り抜くという“責任”を負おうとする、という原作にないモチーフが主軸になる理由も、最早明瞭だ。夢と現実を厳密に峻別しない者は他者を守る“責任”を貫徹できないからだ──こうした“責任”概念を持ち込むがゆえに、映画『コングレス』は原作『未来学会議』よりもむしろラディカルになっていると感じる。
■先に触れた『Mommy』と違い、『コングレス』では、社会を営むことに辛うじて意味があるからではなく、他者(達)を守る責任を果たす“責任”をためにこそ、現実の社会を生きよ、と唱える。だがラストで我々は混乱させられる。主人公は“責任”を果たすという体験を得るために現実を捨てて夢の世界に入ろうとするのだ。そこに驚くべき洞察が含まれている。
■「“責任”を果たすべく夢ならぬ現実を生きよ」という推奨は無条件ではない。“責任”を果たし得るほど現実に実りがあれば推奨は意味を持つ。だが現実がそうした実りを失った場合は? “責任”を果たしたいという〈内発性〉が人間に生来のものなら、それを「現実」化させるために「現実」ならぬ「夢」を準備する必要がいずれ出て来よう⋯映画はそう予言している。