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「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」の後編です(前編と中編に続きます)

投稿者:miyadai
投稿日時:2015-01-07 - 23:57:22
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
カトリックの教会で「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」と題する90分間のレクチャーをしました。〈感情の劣化〉という問題に関する一つの側面を理解するするのに役立つので、アップします。前編(冒頭20分間)中編(開始20分〜50分)は既にアップしてありますが、残りの後編(開始50分〜80分)部分を以下にアップします。質疑応答部分(80分以降)は省いてあります。

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「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」後編(開始50分〜80分)
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【代官山の街作りと聖書の主題】
 私は代官山の街作りの運動に関わっています。そこに「七曲り」という小径があります。江戸時代から職人たちが暮らしていた所です。そこに大木があります。「日陰になる」「落ち葉が汚い」等と近隣住民から切り倒しの要求がありました。切り倒しはまずいと考えた住民有志の人たちが説得に当たりました。
 用いられたのは京都学派の影響を受けた環境倫理学者B・キャリコットの枠組です。彼によれば、場所は、人や生物だけでなく、土や石や川や海や山をも要素とした「全体としての生き物」です。我々は、人にとって良かれと思って開発の是非を決めます。でも「生き物としての場所」のタイムスパンは「生き物としての人」よりも長大です。
 だから人にとって良かれと開発して、人の尊厳を奪う結果になりがちです。「生き物としての場所」が尊厳と結びつくからです。私はこれを入替可能性という言葉で記述します。便利で豊かならどこでも引っ越す構えであるなら、私にとって場所は、あるいは場所にとって私は、入替可能です。でも、私にとって故郷は入替可能ではありません。
 あなた方は代官山が好きで越していらっしゃた。江戸時代から続く代官山は一つの生き物です。あなた方は「生き物としての代官山」に惹かれておられる。「生き物としての代官山」がどんなものか歴史を振り返ると然々です。大木が「生き物としての代官山」にとって不可欠であることがお分かりになったでしょう……かくて大木は残りました。
 言うまでもなく聖書の主題です。私たちは愚かです。自分たちの尊厳が何に支えられているかさえ自覚できません。その愚かさを自覚し、尊厳と場所の結びつくを出来るだけ自覚できるよう、人の愚かさを前提にした上で、熟議を経て「我々の尊厳を支える生き物としての場所とは何か」について“気づき”を得ることが大切です。
 話を〈感情プログラム〉全般に拡げられます。私たちは愚かです。自分たちにどんな〈感情プログラム〉がインストールされているのか自覚できません。しかし確かに一定の〈感情プログラム〉があるからこそ尊厳を脅かされるのです。私たちは何によって尊厳が脅かされるかを事前に知ることはできないということです。
 それが意味する問題は重大です。社会の再構築には、適切な〈感情プログラム〉が社会成員にインストールされねばなりません。でもどんな〈感情プログラム〉をインストールするべきなのか簡単に分からないのです。個人に良かれとなされる教育も、独りよがりになりがちですが、社会に良かれとなされる教育は尚更です。

【環境倫理学の三段階と尊厳ある死滅】
 私は新国立競技場の建設に反対しています。一九六〇年代から代官山の街作りを中心で担って来られた建築家の槙文彦さんとこの運動を立ち上げました。私がコミットする理由もまたキャリコットの枠組ゆえです。枠組を更に説明すると、環境倫理学には三段階あります。P・シンガーの功利論、T・レーガンの義務論、B・キャリコットの全体論です。
 功利論は、「皆」の快不快を集計し、快が最大化するように制度を設計する発想です。シンガーは「皆」の中に人だけでなくて生き物も入れよと提唱しました。確かにそれで生き物を大切にできそうです。でも功利論には御都合主義があります。シンガーもそう。例えば家畜を殺していい理由について、彼は「最大多数の最大幸福だから」と言います。
 これは優生学にも繋がる危険な発想です。そこで義務論が出てきます。レーガンがカントの義務倫理学を導入しました。カントによれば人倫の基本は「人に関わる際の」無条件命令です。レーガンは「人に関わる際の」の「人」を他の生き物に拡げよと提唱しました。でもこの議論には、無条件命令の名宛人がそれでも「人」に留まるという無理があります。
 キャリコットによれば功利論と義務論の失敗は人間を生き物を含めた「準人間」に拡げただけの人間中心主義が原因です。彼は西田幾多郎や田辺元ら京都学派の影響を受け、場所全体を一つの生き物として考えないと御都合主義を克服できないとします。今日では無生物を含めた地球生命圏を一つの生き物として捉えるガイア理論に影響が及んでいます。
 地球生命圏の「生き物としての全体性」を守るには、戦争などで人類が真っ先に滅びるべきだとする環境ラディカリズムにも影響が及んでいます。水爆の打ち合いで死滅したところで放射能の影響は高々数千年だ云々。こうした全体主義的極端化を回避すべくキャリコットは「尊厳」概念を持ち出しますが、「尊厳ある死滅」の発想を却け切れません。

【場所性への気づきと、共同性への気づき】
 ここでもやはり尊厳が問題です。尊厳とは何か。場所が尊厳とどう結びつくのか。独力では明らかにし切れません。コミュニケーションが必要です。私が住民投票の活動家として動くのはなぜか。住民投票の本質が、投票に先立つファシリテイターを介した熟議にあるからです。熟議はコミュニケーションによる気づきを与えます。
 住民投票は政策人気投票ではない。住民投票に先立つワークショップや公開討論会が本丸です。そこに多様な人々が参加できることが望ましい。私が関わった「原発都民投票条例の制定を求める直接請求」で示した条例案が高校生や永住外国人に投票権を与える内容になっていたのはそのためです。多様な人々の参加が望ましい理由は何か。
 自らの尊厳に限らず、他者の価値について、コミュニケーションによる気づきが得られるからです。例えば、熟議を通じて、日本人にも浅ましい輩が沢山おり、外国人にも立派な人が沢山いることへの、気づきが得られます。その意味で、慎重に座回しされた熟議によって、「我々」の境界線をズラし、「新しい我々」を創造できます。
 ファシリテイターが慎重にサポートする熟議によって、自分たちの尊厳がどんな「生き物としての場所」と結びついているのかについて気づきが得られると同時に、そのプロセスで同じ「生き物としての場所」に尊厳が結びついた者たちという「新しい我々」が獲得できます。「場所性の気づき」と「共同性の気づき」は表裏一体です。

【ウエストファリア体制と、世俗国家的「我々」の隘路】
 「我々」について述べます。日本人やフランス人など〈見ず知らずからなる我々〉としてのネーション(国民共同体)の意識は、二段階で成立しました。第一段階は、一七世紀前半の三〇年戦争。新教と旧教の諸侯間のこの宗教戦争を、各諸侯に信仰の自由があるとして手打ちしたのがウェストファリア条約です。
 本来は「神が人を選ぶ」以上──「あなた方が私を選んだのではない、私があなた方を選んだ」(ヨハネ福音書15章16節)──「人が神を選ぶ」とする手打ちは敢えてする虚構です。ちなみに当初は主権sovereignityの概念の元になるsovereignも「諸侯」を意味しました。「信仰の自由」が自明になったのではありません。
 第二段階は、フランス革命での王朝崩壊で露呈した諸侯弱体化ゆえに一九世紀前半に「皆で武器をとらないと掠奪される」との危機感が生じたこと。諸侯に代わる我々=〈見ず知らずからなる我々〉の国民意識が生まれました。同時にsovereignityが世俗の最高性(主権)を意味するようになり、「信仰の自由」の観念が自明になります。
 サンデルは『民主主義の不満』で「信仰の自由」の観念が近代社会のボトルネックだとします。ヨハネ福音書を持ち出すまでもなく「個人が神を選ぶ」「相対的存在が絶対的存在を選ぶ」という観念はパラドックスです。信仰とは啓示に襲われて回心するもの。選ぶという能動でなく、選ばれるという受動です。
 サンデルは、個人が全てを選択できるというリベラリズムの思考に見られる「負荷なき自己」を拒絶、「負荷を与えられた自己situated self」を押し出します。信仰が、選ばれるという受動である他ないというのも、一例です。ところが一七世紀前半の「手打ち」から二百年を経て、「神を選ぶ」という観念に違和感を覚えなくなる頽落が生じました。
 同一神を信じるユダヤ・キリスト・イスラム教は、相対的存在に過ぎぬ人間の世俗集団が最高性を持つとの考えを絶対神概念を元に否定してきました。それを踏まえれば「国家の主権=世俗の最高性」の概念には無理がある。ISによるカリフ制の主張は、国民国家の主権の否定で、戦間期に国民国家体制に組み込まれたイスラム「諸国」の否定です。
 国民国家では、暴力的異議申立てがあると政府は直ちに「テロリストとは交渉しない」との立場をとる。でもイスラム法によれば犯罪と反乱は違う。反乱の場合、首謀者の主張に理があれば統治権力の側が改め、首謀者の主張に理がなければ反乱をやめるよう通告、聞き入れなければ討伐する。それに比べると国民国家の主権概念は一方的です。
 ISが言う通りイスラム法では人は相対的存在。ユダヤ教やキリスト教が元々考えていたのと同じで、旧約の原罪概念が意味する所。人は神に支配を任されたにせよ、真理を独占できない。加えてイスラム法は真偽2元論でなく5段階スペクトル。だから反乱軍首謀者の主張に耳を傾ける時も真偽2元論ではない。強力な普遍主義です。

【キリスト教は普遍主義を体現できるのか】
 新教皇フランシスコはISに危機感を抱いているはずです。宗教的覇権意識よりも本質的です。国民国家からなる国際関係の出発点は、諸侯間の宗教戦争に関する「諸侯が信仰を選ぶ」との手打ちです。それが各国民の「信仰の自由」に拡張、社会が世俗プラットフォームに変じて、そこに最高性=主権が持ち込まれました。
 これは旧約聖書的な普遍主義の否定ではないのか? 「カリフ」アル=バグダーディの発言が新教皇にはそう聞こえるはずです。彼はこう言う。サウジ王家は巨万の富を持つのにスーダンの貧民を救わない。イスラム法の原則からすればあり得ない。なのに世俗主義という「普遍主義の否定」ゆえにそれが起こっている。イスラムを普遍主義に差し戻せ。
 彼の呼び掛けにキリスト教圏に育った若者が大規模に反応しています。それに最も危機意識を抱く教皇が選ばれ、福音書通りに異教徒の足を洗ってみせた。ちなみにイエスによる福音の本質は「神は分け隔てしない」(ルカ福音書第10章34節)。ゆえに国境と宗教を超えて貧富の差や暴力の蔓延に関心を示す。普遍主義を巡る競争があります。
 教皇フランシスコの危機意識を私たちは共有しているか。グローバル化による格差と貧困を主権国家が温存するという現実に、キリスト者が心を痛めないでいられるか。主権国家の出発点は、新旧両教徒がこれ以上殺し合わないために為された「虚構的な手打ち」だったはず。なのに主権も国境線も絶対のものになってしまった。おかしくはないか。
 ISは単なるテロリズムの問題じゃありません。不正義と不公平を温存する主権国家体制への一部のイスラム教徒の異議申立てである事実を見逃してはいけない。人間の相対性を踏まえた普遍主義ルネサンスとしての側面を見逃してはいけない。それを弁えない限り、〈感情の政治〉に席巻された主権国家の民主政治が惹起する紛争を回避できません。
 私たちは資本主義主権国家民主政治が両立すると思って来ました。しかしグローバル化が進んだ昨今、資本主義がもたらす不正義・不公平を、主権国家が温存するがゆえに、疲弊するがままの社会で〈感情の劣化〉を被った大衆が民主政治を誤作動させる事態が蔓延します。かかる事態の進行を、主権国家を誕生させたキリスト者たちが事実上放置してきました。
 
【損得感情を超えた、内から湧く力】
 ⑴「我々」とは誰か。⑵我々の「尊厳」とは何か。⑶それらは「場所」とどう結びつくのか。これまで述べて来た危機的事態は、こうした一連の疑問を私たちに突きつけます。それらに共通するのは、入替可能性ならぬ入替不可能性です。ハーバマスに倣い、諸事物を入替可能にする場を〈システム〉、入替不可能性を保つ場を〈生活世界〉と呼びましょう。
 私たちは具体的にどう振る舞えばいいのか。話を進めるに当たり、資本主義と主権国家と民主政治の両立可能性を脅かすグローバル化の帰結を復習します。第一に、グローバル化は〈社会がどうあれ経済は回る〉状態を帰結します。賃上要求や法人増税要求があれば資本を移動すれば良いので、グローバル企業は社会の手当てに関心を持ちません。
 第二に、グローバル化は〈社会がどうあれ政治は回る〉状態を帰結します。グローバル化は中間層分解と共同体空洞化をもたらします。ネット化をも背景に人々は分断され孤立した状態で不安と鬱屈を抱えます。連帯がないので革命運動の恐れはなく、政治は〈感情の釣り〉を用意して〈感情の政治〉をすれば社会の手当てをせずに済みます。
 かくて〈社会がどうあれ政治&経済は回る〉状態になります。これは〈社会がどうあれ巨大システムは回る〉とパラフレーズできます。巨大システムは先の〈システム〉に当たります。これに抗うには〈巨大システムがどうあれ我々は回る〉と言える我々を再構築する必要があります。この我々は先の〈生活世界〉に当たります。
 我々はかつての社会より小さなユニットです。かつての社会は前述した〈見ず知らずからなる我々〉=国民共同体です。中間層分解と共同体空洞化を被った上、ネット化で個人が分断され孤立した状況なので、社会というマクロ・プロセスでは、民主制の健全な作動を期待できません。だから社会より小さな我々を再構築します。それはどんな我々か。
 その前に〈社会がどうあれ巨大システムは回る〉に抗うべき理由を押さえます。第一に、巨大システムが故障すればシステム依存的生活は一貫の終り(R・ソルニット)。第二に、人々が自らを巨大システムの入替可能な部品として理解し、尊厳が失われる(ハーバマス)。第三に、社会の空洞化が招く〈感情の政治〉が戦争を通じてシステムを破壊する(サンスティーン)。
 では〈巨大システムがどうあれ我々は回る〉という場合、それはどんな我々か。巨大システムの駒として動く人々の動機は、損得勘定の〈自発性〉。であれば、巨大システムがどうあれ回る我々の動機は、損得を超えて内から涌く力つまり〈内発性〉でなければならない。〈自発性〉ならぬ〈内発性〉なくして巨大システムに抗えません。
 先に、目的を共有する人々によって手段的に組織されたアソシエーションと、それ自体の存続が目的となるコミュニティを区別しました。手段的なものは入替可能だからアソシエーションは〈システム〉ないし巨大システムに近縁です。目的的なものは入替不能だからコミュニティは〈生活世界〉に近縁です。
 実際、アソシエーションの成員動機は、目的に役立つか否かの損得勘定=〈自発性〉です。コミュニティの成員動機は、損得を超えた貢献性や利他性=〈内発性〉が優位です。アソシエーションないし〈システム〉は損得勘定をベースとし、コミュニティないし〈生活世界〉は絆をベースとする、ともパラフレーズできます。
 ただし、3.11以降の「絆ブーム」に見られた“いざという時に助かりたければ絆が大切”という構えは、自分御大切の損得勘定に過ぎないから、絆の反対物です。何があろうと自分を差し置いて助けたいと思う相手がいるかどうか。それだけが絆の有無を証(あかし)します。日本人の劣化を示す事例です。

【初期ギリシャの知恵とイエスの福音】
 損得勘定の〈自発性〉と、内から涌く力の〈内発性〉の区別は、キリスト者にとっては自明なはず。「善きサマリア人の喩え」(ルカ福音書10章25〜37節)が知られます。イエスもファリサイ派の出自ですが、ファリサイ派は「戒律に従えば救われる」と考えていた。「路傍に倒れている人を助けなさい」という戒律はない。だから倒れた人の傍らをラビでさえ通り過ぎる。
 ところが、ユダヤの被差別民族であるサマリア人が思わず駆け寄って助けようとするのです。自分たちが救われようとして戒律に書いてあることだけを行うというファリサイ派と、戒律とは無関係に思わず駆け寄るサマリア人と、どちらが神の望みにかなうか。それがイエスの問いです。そこでは〈自発性〉と〈内発性〉が対比されています。
 損得勘定である〈自発性〉と、内から涌く力である〈内発性〉の峻別は、紀元前五世紀前半の初期ギリシャに遡ります。ソクラテス『ファイドロス』は、神罰を恐れて正しく振る舞おうとするセム族系宗教(ユダヤ教の原型)を「エジプト的」だとして却け、善いサマリア人と同様、内から涌く力に従って進む営みが「ギリシャ的」だと愛でられます。
 新約の福音書はコイネーギリシャ語で書かれているので、福音書の記述に初期ギリシャ哲学(万物学)の影響があったとする説もありますが、ルカ福音書10章25〜37節の「善きサマリア人の喩え」でも、ソクラテスによる(とプラトンが記述する)エジプト的/ギリシャ的と相似形の区別があります。
 この「内から涌く力」をラテン語でヴィルトゥス、英語でヴァーチューと言います。「美徳」と訳されがちですが不適切です。損得勘定と区別されるものだから「内から涌く力」ないし〈内発性〉の訳が適切です。死後に永遠の命を得たくて善き事をするのは、いざという時に助かりたいと思って絆作りに勤しむのと同じで〈内発性〉の反対物です。
 イエスによるファリサイ派的な戒律の否定を、ヨハネ福音書8章3~7節「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」を引き合いに出して、外形(行動)よりも内面(心)が大切という意味だと多くの人が理解しますが、そうではなく〈自発性〉よりも〈内発性〉が大切だという意味です。
 今日「罪なき者のみ石を投げよ」の箇所は「トーラーに戻れ」の意味に解されます。トーラーは神の言葉を人が述べ伝えたものだが、矛盾に満ちているので困る。そこで「これを踏まえれば救われる」という準則(ミツワー)を人が作った。人が作った準則に従おうが従うまいがどうでもいい。それが「トーラーに戻れ」で、外形か内面かは関係ない。
 生贄を捧げて神の赦しを引き出す振舞いは、準則を守って救いを引き出す振舞いと同じく、神強制です。イエスに従えば神強制は瀆神行為で、救われる為になされる営みは利己行為です。自分が救われんと必死に「人が作った準則」を守る浅ましい利己的存在が、娼婦に石を投げる資格などあり得ない。それが「罪なき者のみ石を投げよ」の意味です。
 
【救いを求める祈りの意味と人文社会諸科学】
 最後の審判で永遠の命を得るといった救いを確証しようとあれやこれやの営みに勤しむ姿にM・ウェーバーはプロテスタントのエートスを見出します。エートスは「倫理」と訳されていますが正しくは「心の習慣」(R・N・ベラー)です。ウェーバーの『プロテスタトの倫理と資本主義の精神』はそこから資本主義が生まれたと考えました。
 私はカトリックの祈りはこれとは異なると考えます。前教皇ベネディクト16世は「見る神」の表象を重視し、かつ共同体を重視します。それに従えばカトリックの祈りは「神よ、私が皆を裏切らないよう、どうか見ていて下さい」「神よ、私はあなたのものです」という二つの柱があることになります。
 前者は、私は弱いから損得勘定に左右されがちだが、あなたが見ていて下されば私は損得を超えられるとの内容です。かくして現に損得勘定を超えて皆を裏切らずにいられることそれ自体が「救い」です。後者は「私は人を助けますから、私を救って下さい」という神強制の、放棄宣言です。私がどうなるかはあなたの御心(計画)のままにと委ねるわけです。
 こう理解することで、イエスが克服しようとしたファリサイ派の誤謬を超えられます。その意味でイエスの「神は分け隔てしない」という福音が、損得勘定の〈自発性〉ならぬ、内から湧き上がる力としての〈内発性〉を擁護するものであることが、再確認できます。神は、たかだか人が作った準則に従うか従わないか(≒ユダヤ人であるか否か)如きで、人を区別しないのです。
 ギリシャに戻ると、プラトンを介してソクラテスの影響下にあるアリストテレスは、二つの社会秩序を区別します。第一は、罰を恐れ賞を求める人々が織りなす秩序。要は罰が恐くて人を殺さぬ社会。第二は、ヴァーチュー(内から湧く力)に従う人々が織りなす秩序。要は殺せないから人を殺さない社会。第一の社会にだけ価値があるとします。
 そのギリシャでは、プラトン以降は崩壊過程ですが、ソクラテスの時代すなわち紀元前5世紀前半のペリクレス治世までは、立派な者が何よりも愛でられました。損得を気にせず前に進む存在です。そして浅ましき者が非難されました。神罰を恐れて善いことをしたり悪事を控えるが如き存在です。まさに〈自発性〉ならぬ〈内発性〉へという図式。
 初期ギリシャでなぜ〈内発性〉が愛でられたか。紀元前12世紀以降の「暗黒の四百年」を含め、絶えず戦争があったからです。暗黒時代が明けポリス的集住が形をとり始めても、ポリス間戦争は常態でした。成員が損得勘定を専らの動機づけとするなら、そのポリスは戦争に負ける。重層歩兵の集団密集戦法が支配的だった時代の生き残り戦略でした。
 “損得勘定を超える貢献動機を持つ成員が多数を占める場合だけ、社会が存続できる”という初期ギリシャ的な発想は、エマソンからデューイを経てローティに至るプラグマティズムの流れにも、戦間期にプラグマティズムを社会学に導入したJ・H・ミードにも、20世紀半ばに社会システム理論を立ち上げたT・パーソンズにも見出せます。
 初期ギリシャ的な〈内発性〉の思考とイエスの福音の間に共通性があると述べました。そして今回、初期ギリシャ的な〈内発性〉の思考を自覚的に引き継ぐ哲学から社会学まで含めた近代の思考を紹介しました。イエスの福音と、私がコミットしている人文社会科学との間には、従って〈内発性〉の賞揚において共通性があることになります。