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「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」の中編です(前回の前編に続きます)

投稿者:miyadai
投稿日時:2014-12-06 - 15:21:13
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
カトリックの教会で「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」と題する90分間のレクチャーをしました。〈感情の劣化〉という問題に関する一つの側面を理解するするのに役立つので、アップします。前回は前編として、冒頭20分間のイントロ部分をアップしました。今回は中編として、本論の前半部分(開始20分〜50分)をアップします。本論の後半府分(開始50分〜90分)を一ヶ月以上したらアップします。


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「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」中編(開始20分〜50分)
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【啓蒙主義から反啓蒙主義へ】
 十七世紀と十八世紀には人間が理性(知性)に従って適切な社会を作れると信じる啓蒙主義がありました。例えばカントです。ただし理性(知性)を万能と考えたのではありません。カントは人の理性(知性)に限界があるとし、​限界を見極める能力を新たに「理性Vernunft」と再定義、従来の理性(知性)を「悟性(理解)Verstand」と言い換えます。
 十八世紀末にフランス革命が起こり、「啓蒙思想」にかわり「反啓蒙思想」が広がります。革命後の混乱を理解するための思想です。最初に登場したのがエドモンド・バークの「保守主義」。理性(知性)にはカント的限界があり、その限界を超えて複雑な社会を全体として作り替えられないのですが、それを無視したから混乱が起こったのだと考えました。
 続いてバクーニンやクロポトキンの「無政府主義」が登場します。「国家を否定する中間集団主義」です。中間集団は家族より大きく、国家より小さなユニットです。ユダヤ系や中国系の大規模血縁集団、地縁で結びついた地縁集団、ギルドなど職能集団、教会など信仰集団を含みます。顔が見えない巨大規模の支配が社会混乱の理由だ、と考えました。
 その後「マルクス主義」が登場します。これは市場の無政府性が社会的混乱の源だと考えました。そして、資本主義的な市場経済を否定。かわりに労働者階級による行政官僚制を通して、資源配分を中心とする社会制御を達成しようとしました。マルクスによれば、「無政府主義」を採用したところで、中間集団同士の階級対立を超えられないのです。
 そして十九世紀末になるとデュルケーム流「社会学主義」が出てきます。無政府主義の影響を受けるものの、国家を否定しません。つまり「国家を肯定する中間集団主義」。国家を肯定する理由は、中間集団同士の対立を超えるためです。その理屈は啓蒙思想家のホッブズに似ていて、互いに争う個人を、互いに争う中間集団に置き換えたものです。
 個人同士が争うと、本来自由であるはずの個人が互いに傷つけ合うから、自由の一部をゲバルト独占体である国家に委ね、自由(とりわけ契約の自由)を享受できるようにする。それが、ホッブズの社会契約説です。デュルケームの考えでは、中間集団同士にも同じ理屈が使えます。国家を否定すると、軍閥闘争の如きものを回避できないのです。
 この「社会学主義=国家を肯定する中間集団主義」は、欧州近代の「補完性の原則」や、アメリカの「共和制の原則」として、現実化しています。自分たちでできることは自分たちでやり、それが困難な時にだけ、できるだけ小さな行政ユニットを呼び出す。それでも困難なら、次第に大きな行政ユニットへと上がっていく、という形式を有する発想です。
 アメリカは、英国国教会の抑圧を逃れた清教徒(新教過激派)の新天地ゆえ、宗教改革以降の万人司祭主義の流れで宗派が細分化しがちです。しかし元々は同じ宗教なのだから仲良くしようという合意(メイフラワー協約)に従って、信仰共同体の共存共栄を図ります。これが合衆国(ユナイテッド・ステイツ)というフェデラリズムの考えです。
 欧州には、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)から欧州経済共同体(EEC)そして欧州共同体(EC)を経て欧州連合(EU)に至る、米ソ両国に距離を取る広い意味での安全保障を確保する枠組があります。その中心にあるのが「補完性の原則」です。アメリカと違い、自治都市の歴史的伝統を踏まえたもので、最上位に国家ならぬ国家連合が置かれます。

【ユクスキュルの環界=世界体験】
 十九世紀は「反啓蒙の時代」で、その思想的な代表格が「保守主義」「無政府主義」「マルクス主義」「社会学主義」だと言いました。このうち、今の先進諸国の統治原則として利用され続けているのが「保守主義=漸進的改革主義」と「社会学主義=国家を肯定する中間集団主義」です。今日では「無政府主義」と「マルクス主義」に基づく社会は一つもありません。
 「保守主義」と「社会学主義」の思想には今日では密接な関係が認められます。例えば今日の政治学では、グローバル化(資本移動自由化)による社会の空洞化に抗うべく、共同体自治と、それを持続可能にする感情教育の必要性が提唱されます。これは私の考えでは「保守主義」の現在的な姿であると同時に、「社会学主義」の現在的な姿でもあります。
 それらのことを理解するには別の補助線が必要です。十九世紀末以降のドイツ哲学的人間学の流れです。昨今では、コミュニタリアニズム・進化生物学・徳倫理学・道徳心理学・プラグマティズムを貫通して感情プログラムが注目されています。その理由の理解にも役立ちます。それを理解すると、「保守主義」と「社会学主義」の現在的意味も分かります。
 ドイツ哲学的人間学の祖はマックス・シェーラー(1874-1928)ですが、彼に大きな影響を与えたのが十歳年長の動物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)。ユクスキュルは、ゾウリムシにはゾウリムシの、蛇には蛇の、ヒトにはヒトの環界があって、人間は高度で、ゾウリムシは低レベルだなどと考えてはいけないと言いました。
 環界とは〈世界体験〉のことです。ミミズにはミミズの必要があって〈世界体験〉があり、ヒトにはヒトの必要があって〈世界体験〉がある。〈世界体験〉以前に客観的な〈世界〉があってそれを〈世界体験〉が写真のように写し取る、のではない。だから、フィデリティー(忠実度)を問題にするのは愚昧だ⋯⋯。そういう論理が示されました。
 こうした理解は最近の比較認知学でも踏襲されています。ヒトとチンパンジーは四百万年ほど前に分かれました。その頃がどうだったかは分かりませんが、分化した後の今のチンパンジーの短期映像記憶photographic memoryの能力はヒトの十倍以上あります。でも、チンパンジーになく、ヒトにあるものが、不在absentなものを保持する力です。
 チンパンジーも嫉妬しますが、目前で性愛行為が展開された場合だけです。ヒトは十年前のことでも嫉妬心を抱き、お前はあの時裏切ったと粘着します。ヒトは手足が失われると、手足さえあれば幸せな生活が送れたのにとリグレットします。チンパンジーは、手足がなくても、使えるもの(表情筋や声など)を使って、今まで通り明るく振る舞う。
 四百万年間の分化を見て分かるように、何かを失うことで、何かを獲得します。そのこと自体に優劣を論じられません。ただ事後的に分化がその後の展開に前提を与えます。ヒトは粘着なので、過去のことで後悔すると、二度と後悔しないように、現在の時点で未来に備えようとします。そこから過去・現在・未来の〈時間体験〉が分化したのです。
 似た話。チンパンジーを含めたサルは四手ですが、ヒトは下肢が足に戻って二手・二足です。サルの乳児は母親に四六時中捉まれますが、ヒトの乳児は無理なので仰向寝するしかない。これは劣位に見えますが、だから赤子は周囲の注意を引くべく泣き、周囲の関わりへの報酬として笑顔を見せるようになって、豊かな感情表現の獲得に繋がります。

【シェーラーの自由からゲーレンの不自由へ】
 ユクスキュルのこうした議論を踏まえ、シェーラーはこう考えます。動物ごとに環界が違うのは確かだが、ヒトの場合、お話ししたように(本誌12月号参照)どこでどう育つかによって認識の枠組や感情の働き方が変わるから、個人ごとに環界が違うのだ、と。それを彼は、「動物は〈世界緊縛的〉だが、人間は〈世界開放的〉だ」と表現しました。
 ここでは、動物は「本能で規定された存在であるがゆえに、世界が予め規定されてある」のに、人間は「本能で規定されきらない存在であるがゆえに、世界が未規定でどうとでもあり得る」という具合に対比されています。シェーラーはこうした未規定性を、学習によって世界がどうとでもあり得ることから、人間の自由の根拠なのだとしました。
 シェーラーを踏まえ、動物学者のアドルフ・ポルトマン(1897‐1982)が生理的早産論というネオティニー説を唱えます。他のサル(を含めた他の哺乳動物)に比べヒトは早く生まれる(生理的早産)。だから、世話が必要だし、未規定なので親があれこれ教えなければならず、それらを通じて、多様で恣意的なプログラムを学ぶのだとしました。
 「人間は本能的に未規定であるがゆえに世界が未規定性である」という考え方は、当初、宗教的に決定された世界という中世的な世界観に対し、人間の自由を初めて理論的に擁護するものと理解されました。でもやがてそれが否定され、未規定な人間が未規定な世界に向き合えば、あらゆる体験と行為が不可能になることが理解されるようになります。
 それを最初に喝破したのがドイツ人間学の泰斗アールルト・ゲーレン(1904-1976)です。彼によれば、未規定であるがゆえに不自由な人間は、制度に支えられて初めて規定された存在となり、それゆえに世界を規定できて、自由に振る舞えるようになります。確かに制度は恣意的ですが、個人にとって制度は、選べない与件としての規定性です。
 哲学の経験科学化を提唱したゲーレンですが、後に脳科学の営みが彼のテーゼを傍証します。脳の視覚機能が健全な人が、例えば十二歳になって初めて光に触れたとすると、脳機能が問題なくても、当初は世界がまったく分節できず、光のカオスになることが実証されています。なぜか。視覚と概念を結びつける習得したプログラムがないからです。
 本能に規定されていない、つまり生得的プログラムがないことは、自由なのではない。カオスを前にして何もできないということ、つまり不自由なのです。未規定であるがゆえに不自由な人間は、習得的なプログラムをインストールされ、規定されることで、何が何であるかを識別し、何かを目差して行動できる。自由な存在になるということです。
 この習得的プログラムの大半は恣意的とはいえ、一定範囲で社会的に共有されています。社会的な習得プログラムをゲーレンは「制度」と呼びます。これを踏まえると、ゲーレンは「動物は、本能に規定されているから世界を規定できるが、人間は、本能に規定されないぶん制度に規定されることで、世界を規定できる」と言っていることになります。

【負担免除という〈反啓蒙の思考〉】
 もう少し詳しく言うと、制度つまり社会に共有された習得的プログラムがないと、人間は一歩一歩手探りで、未規定性から規定性に向かって前進する他ありませんが、制度がある御蔭で、この手間暇を一挙に免除されて、自由に振る舞えるようになっているわけです。これをゲーレンは「制度による(自由になるための)負担の免除」と呼ぶのです。
 この思考が、お話しした(本誌12月号参照)「共同体で生まれ育つことによる〈感情の越えられない壁〉の形成がなければ、コミュニケーションも合意形成も不可能だ」というコミュニタリアンのマイケル・サンデルの主張と相似形であることが分かるでしょう。巷で理解されていませんが、コミュニタリアンの主張の鼻祖の一人がゲーレンなのです。
 コミュニタリアニズムが、ジョン・ロールズ流のリベラリズムへの対抗思想である事実は周知です。ロールズの反照的均衡、つまり現実の社会的営為と突き合わせつつ理性的仮説によってリベラルな社会を正当化する理性的啓蒙の試みは、人間が恣意的だが選べない〈感情の越えられない壁〉をインストールされる以上、普遍的には成功できません。
 この対抗図式も、十七・十八世紀の〈啓蒙の思考〉に対抗する十九世紀の〈反啓蒙の思考〉の到達点としてゲーレンの「負担免除」の思考があったという形で、既に先取りされていたことが分かります。〈啓蒙の思考〉は、本来自由な人間を、(理性的に合意された)制度が制約すると捉えます。例えばホッブスの「国家論」などがそれに当たります。
 ところがゲーレンに従えば、「未規定な人間は、制度による負担免除を経て、自由に選択できるようになる」のです。制度が自由を制約するのでなく、制度が自由を可能にするのです。人間が生来普遍的な理性を行使できる存在である筈もない。社会ごとに異なる制度によって負担を免除されて初めて社会ごとに異なる理性と感情と意志を示すのです。
 私はニクラス・ルーマン(1927-1998)というドイツの社会学者の影響を受けました。私が東大助手の時に来日し、東大講演会で下働きしました。彼は事実上ゲーレンの弟子。ゲーレンの「制度」の部分に「システム」を代入すれば、「未規定な人間は、システムによる負担免除を経て、自由に選択できるようになる」というルーマンの命題になります。
 十九世紀の〈反啓蒙の思考〉では、人間が未規定なことが自由の根拠だったのですが、二十世紀になると、未規定なことは不自由であり、制度やシステムによる規定可能化が自由の前提だと捉え直されました。私たちは未規定な存在だから、制度やシステムによって縫合される存在で、制度やシステムによって縫合されないと、一前に進めない、と。
 ちなみに「人間が未規定たるがゆえの、世界の未規定性」は当初、宗教的に決定された世界という中世の世界観に対し、人間の自由を初めて理論的に擁護したと理解されました。やがて、「未規定な人間」が「未規定な世界」に向かいあえば、あらゆる体験や行為が不可能になると理解されるようになります。そのことを喝破したのがゲーレンなのです。

【「選べない恣意性」という思考へ】
 ここに、〈反啓蒙の思考〉の流れにおける十九世紀的人間観と二十世紀的人間観の相違を見て取れます。十九世紀的人間観では未規定性が自由だと捉えられているのに、二十世紀的人間観では不自由と捉えられた上、未規定性による不自由が制度(ゲーレン)やシステム(ルーマン)によって縫合されないと、人は一歩も前に進めないと理解されます。
 この場合、制度やシステムは、⑴主体に対して「選べない与件」として現れますが、⑵しかし徹底的に「恣意的」です。言い換えると、どんな制度やシステムに私たちが組み込まれるのかを私たち自身が選べません。私たちは制度やシステムの中に産み落とされます。でも、その制度はシステムは「必然的」ではありません。どうとでもあり得るのです。
 この〈選べない恣意性〉の思考は、ゲーレンの哲学的人間学の特徴ですが、先に〈反啓蒙の思考〉の四番目の流れとして触れた十九世紀末以降のデュケーム的な社会学の思考とも親和的です。例えば、デュルケームの「社会的事実」という概念もまた、⑴主体に対して「選べない与件」として現れるが、⑵徹底的に「恣意的」であることを指すものです。
 どうとでもあり得る制度やシステムなのに、私たちがどんな制度やシステムの中に産み落とされるのかを選べないということ。この〈選べない恣意性〉の発想は、十九世紀末から今日に至るまで、人文・社会科学の基本的視座です。サンデルがいう共同体ごとに異なる〈感情の越えられない壁〉という発想も〈選べない恣意性〉に注目しています。
 補足すると、デュルケームの「社会的事実」という概念は、「科学的に考えれば神はいない。神は人間が作り出したものだ。その証拠に人間が神の表象を持つのはある時期からだし社会ごとに神も違う。だが人間にとって神の存在は太陽が東から昇って西に沈むのと同じようにどうしようもない与件だ」というもので、〈選べない恣意性〉の思考です。
 こうしたデュルケームの思考は、マリノフスキーやラドクリフ・ブラウンの機能主義人類学から、リソースを借り出したものです。その意味で、シェーラーからポルトマンを経てゲーレンに至る一九世紀の哲学的人間学の流れと、機能主義人類学からデュルケームに至る一九世紀の人類学から社会学への流れが、ルーマンで合流したと考えられます。
 〈選べない恣意性〉の発想を確認すると、“「恣意的な」しかし主体にとって「選べない与件」がなければ、人間は一歩も前に進めない”という思考です。この思考は、哲学的人間学の流れにも、機能主義人類学から社会学への流れにもありますが、既に述べた通り、サンデルを始めとする一九七〇年代以降の米国のコミュニタリアンにも見られます。
 そのことからも判るように、コミュニタリアニズムが共同体を擁護するのは、それがないとか寂しいとか孤独だという話でなく、トロッコ問題に見られるように、私たちの選択が常に既に文化相対的な〈感情の越えられない壁〉に裏打ちされている(=負荷がかかった自己である)、という〈選べない恣意性〉に関わる厳然たる事実に注目するからです。

【感情プログラムを人為的にインストールする】
 最近の人文・社会諸科学の最先端に共通の考え方を話しています。“「恣意的な」しかし主体にとって「選べない与件」がなければ、人間は一歩も前に進めない”という〈選べない恣意性〉の話をしました。最近では、ポストモダン(後期近代)では、この“「恣意的な」しかし主体にとって「選べない与件」”の政治的な(再)構築が必要だ、と考えられています。
 ポストモダンを一般的に定義すれば、「選択の前提もまた選択されたものだ」という無限背進に繋がる気づきが様々な領域で自明性を脅かす時代、となります。こうした気づきを「再帰性」と呼びます。そうしたポストモダンの時代には、“〈選べない恣意性〉もまた選ばれたものであり、選ばねばならない”というパラドクシカルな認識が拡がります。
 例えばリチャード・ローティは、アムネスティ・インターナショナルが毎年オクスフォード大で開く連続講座で一九九三年にこう講義します。人権とは何かについて呑気な議論をする連中がいるが、米国では一九六五年まで黒人と女は人間に数えられてなかった。誰を人間として数えられるかは、呑気な議論でなく「感情の教育」という実践の問題だと。
 ご存じの方もおられるでしょうが、ローティ(1931-2007)はジョン・デューイ(1859-1952)の正統な後継者を自称するプラグマティストです。プラグマティズムは、ラルフ・W・エマソンに発する、「内なる光=損得勘定を越えた利他心や貢献心」の受け渡しを最優先事項とする思考。認識の正しさよりコミットメントの正しさを重視する枠組です。
 ローティの「感情の教育」は、従って「内なる光」を受け渡す実践=感情の働きを受け渡す実践を意味します。感情は本来〈選べない恣意性〉としての〈感情の越えられない壁〉によって規定されています。ここには、〈選べない恣意性〉であるはずの〈感情の越えられない壁〉を、操縦しよう=人為的に選択しよう、という「不遜な」思考があります。
 サンデルのコミュニタリアニズムはこの「不遜さ」を前に立ち止まりますが、認識の質は似ます。いわく、元々米国のリバタリニズム(自由至上主義)は近接性や共在性を背景とした〈感情の越えられない壁〉の共有を前提としていたのに、交通や通信の発達で前提が破壊されたので、万人の入替可能性を前提とするリベラリズムが出てきたのだ、と。
 だか、近接や共在の破壊で〈感情の越えられない壁〉の共有が期待できない社会でリバタリアニズムを主張すれば、社会が破壊され、かといって万人の入替可能性を前提とするリベラリズムは〈感情の越えられない壁〉を無視した愚昧な思考だ。近接や共在が破壊された社会で〈感情の越えられない壁〉の再共有という不可能を目差すしかない、と。
 サンデルの『民主主義の不満』は概略こうした思考経路を辿り、ペシミズムで終ります。ペシミズムの核は、第一に〈感情の越えられない壁〉の共有の破壊というアノミー状況に抗うには〈選べない恣意性〉を選び直す逆説的な振る舞いか必要だが、第二にアノミーの進行ゆえに〈選べない恣意性〉を選び直すことはもはや不可能だという事です。
 これはローティのオプティミズムとは対照的です。それはローティが具体的な政治過程を考えていないからです。それを考えた上でサンデルのペシミズムを越えられるでしょうか。そのための試みがジェームズ・フィシュキンやキャス・サンスティーンによって提案されています。彼らの提案は、慎重に操縦された熟議というマイクロ・プロセスです。
 私は「みんなで決めよう!原発国民投票」の共同代表、あるいは「代官山ステキなまちづくり協議会」の協力者として、二つの観点から慎重に操縦された熟議を推奨してきました。第一は、原発絶対安全神話・全量再処理神話・原発安価神話など〈巨大なフィクションの繭〉を破るため。第二は、気づきを通じて〈分断された地域共同体〉を再統合するため。
 そこでは、〈フィクションの繭〉を破る〈参加〉や、〈地域住民の分断〉を越える〈包摂〉に向けた、ファシリテイターを介する熟議の機能が期待されます。フィシュキンやサンスティーンが言う通り、ファシリテイターを介した熟議の操縦が必要です。大声で極端な事を叫ぶことで議論を引き回すラウドマイノリティの影響力を奪うのがファシリテイターです。

【グローバル化による社会の空洞化に抗うために不可欠】
 ファシリテイターを介した慎重な熟議の提唱は、グローバル化(資本移動自由化)による社会の空洞化を背景に、哲学的にというより、政治的に「待ったなし」の問題としてなされています。グローバル化を背景に、法人税が高ければ低い国に企業が逃げ、賃上げ要求があればそれがない地域に企業が逃げます。それゆえ社会はますます疲弊します。
 グローバル化が進めば、中間層が分解し、共同体(近接性)が空洞化します。以前と同じ手立てだけでは、回避できません。中間層が分解して共同体が空洞化すると、感情的安全が脅かされます。脅かされた人々は、不安と鬱屈ゆえにカタルシス(感情的浄化)を求め、排外的で非寛容になります。これに応じる〈感情の政治〉が、ポピュリズムです。
 民主制の存在ゆえに〈感情の劣化〉に政治が引きずられるのが〈感情の政治〉です。私が問題の深刻さに気づいたのは、二〇〇〇年の米大統領選です。アル・ゴアは知能指数200、ブッシュは100以下の馬鹿」とネットで喧伝されたら、逆に「だったら俺たちはブッシュの味方だ!」という動きか盛り上がりました。同じことが安倍総理にも言えます。
 安倍総理が立憲制の何たるかを弁えず、先進国のエスタブリッシュメントから馬鹿にされまくっている事実があります。それを指摘しても安倍支持者は動かない。それが「B層狙い」の意味です。B層とは「社会的弱者なのに、それを自覚しないIQの低い人々」。二〇〇五年小泉総選挙で竹中平蔵関連コンサルのメモにこれを標的にせよ、とありました。
 ローティ「感情の教育」も、ほぼ同内容のアンソニー・ギデンズ(1938-)「感情の民主化」も、資本移動自由化を背景とした〈感情の劣化〉が民主制の健全な作動を脅かすことに、抗う政治実践だと位置づけられます。〈感情の劣化〉に抗う実践は、国民国家のマクロ・レベルでは短期的には不可能です。だから、スモール・ユニットでの熟期が提唱されます。
 マイクロ・プロセスの建て直しを出発点に、欧州の「補完性の原則」や米国の「共和制の原則」に従って、顔が見える我々か出来ることは、まず我々がやり、それが困難ないし不可能な場合にのみ、出来るだけ低いレイヤー(層)から行政を呼び出す、という営みを再構築する必要があります。社会学に伝統のある「国家を否定しない中間集団主義」の回復です。
 ローティの言う「感情の教育」もギデンズの言う「感情の民主化」も、民主主義に相応しい感情プログラムのインストールすることです。あるがままに任せていたのでは民主制の作動が全体主義を帰結するので、意図的に民主制の健全な作動を支える感情プログラムをインストールしなければ、民主主義的な社会はもはや存続しない、と言うのです。
 一見そう見えませんが、サンデルも理路から言えば、似た考え方をしています。民主制に限らず特定の制度が、従来通りの健全な作動をするか否かは、共同体が涵養する人々の〈感情の越えられない壁〉次第。実際に合衆国がそうであるように、共同体が空洞化すれば、従来自明だった〈感情の越えられない壁〉が変質し、制度が誤作動します。
 制度の誤作動を回避するには、自明だった〈感情の越えられない壁〉が綻びるのを人為的に繕わねばならず、かつてと同じものを回復できるそうもないなら、機能的に等価な新たな〈感情の越えられない壁〉を構築する必要があります。でもこうした道は不遜なパターナリズムで、それを許容するなら共同体は厳密には共同体ではなくなりそうです。
 つまり、それを許容すれば、共同体はアソシエーションに変じそうに見えます。ちなみに、アソシエーションとは、目的を共有する者が手段的にメンバーシップを獲得するもの。共同体は、成員がそこに生まれることでメンバーシップを得るので、目的の共有は(たとえ想定されがちでも)資格条件にならず、むしろ共同体自体が目的になります。
 それもあってサンデル(などのコミュニタリアン)は、〈感情の越えられない壁〉の人為的な設計とそれに基づくインスタレーションについて否定的です。そのため、コミュニリアニズムの思想は、共有された〈感情の越えられない壁〉の不可欠性と(今日における)不可能性をともに見据える、いわば「不可能性の思想」の形をとるわけです。
 確かに、企業などの個別組織がアソシエーションなのは当たり前ですが、そこで生まれ落ちることで人が否応なく成員となる社会が、一定条件(感情プログラムの共有)を満たす者にだけメンバーシップを許容することがあって良いのか、疑問になります。しかし翻れば、伝統的な共同体も、教育という形で資格付与をしてきた歴史を持つのです。
 そして教育は、「今は分からなくても、共同体を生きるお前にとってこれが最善」というパターナリズム(父性的温情主義)を暗黙の前提とします。子供が自ら選んでいないプログラムをインストールする試みです。しかも教育内容は、諸情勢に鑑みて時代毎に意識的に修正されるのが、部族段階でも当たり前。さして違いはないとも言えそうです。
 とはいえ、その場合でも、社会は変えられないものとしてまず存在し、そこに生まれ落ちる子供たちが社会に適応(adapt)するためにサポートしているのだ、と考える傾きが大きかった事実があります。他方、この二十年のギデンズやローティや否定的ではあれサンデルらによる、感情プログラムのインストールに関わる議論は、そうではありません。
 放置すれば滅茶苦茶になってしまうという理由で、現状の社会を変更し、失われた社会を再構築するために、敢えて感情プログラムをインストールしていこうという考え方になっているのです。その意味で、子供の将来云々といった観点で論じられやすい従来の「教育」に対して、社会の回復的な存続を意識する「再帰的教育」だと言えるでしょう。

(後編に続きます。後編は長いかも)