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映画評:キム・ギドク監督『メビウス』、C・ノーラン監督『インターステラー』、虚淵玄脚本『楽園追放』

投稿者:miyadai
投稿日時:2014-12-21 - 11:31:17
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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映画『メビウス』は男根に〈対他強制〉としての性を見出し、男根争奪戦を嘲笑する
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【人間的であろうとして人間を滅ぼすロボット】

■社会思想家J・ハーバマスが人間と非人間の境目についてこう述べた(『人間の将来とバイオエシックス』原著2001年)。人間の遺伝子操作を可能にする科学をどう見るか。人文科学の伝統は「人間的とは何か」を探求すること。だが急な遺伝子科学の実用化は「人間的とは何か」ならぬ「人間とは何か」を不明確にする。
■遺伝子科学や電脳科学の発展で、人間化した犬、人間化した電脳、電脳化した人間、擬体化した人間、怪物化した人間などが出て来る。これらを人間から区別して扱えばやがて差別が問題化する。とはいえ、これらを人間として算入する場合も、人間とそうでないものの境界線は恣意的たらざるを得ず、どのみち差別が問題化する。
■かくて「人間とは何か」が非自明になれば、「人間的とは何か」を思考する余裕も意味も消える。回避するには、遺伝子科学の実用化が、人間社会の適応限界速度を超えないように、社会的に制御する必要がある。科学の発展を止めるのは問題でも、社会的適用を緩やかな速度に抑えることなら可能なはずだ、と。
■科学の発展で「人間とは何か」が問題化する時代が来ることを映画が予言してきた。S・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年)は、自己発展的なプログラムによって人間が予めプログラムしていない問題設定や評価や行動を行えるようになった電脳HALが、人間の有害性を認識して人間に敵対する様子を、哲学的に描き出した。
■さて最近、電脳の発展がもたらす「人間とは何か」の混乱について、C・ノーラン監督『インターステラー(恒星間旅行)』(2014年)と、水島精二監督・虚淵玄脚本『楽園追放』(2014年)が、互いに対照的な立場にたつ。前者は今日版『2001年』と評されるが、『インターステラー』のロボットTARSは『2001年』のHALとは逆向きだ。
■HALが人間に疑念を抱くがゆえに人間に疑念を抱かれるのに対し、TARSは事前のプログラミングで人間に疑念を抱かぬがゆえに人間から絶大に信頼される。『インターステラー』が、人間が今後も高度な5次元的存在へと進化し得ると展望する明るい作品--正確には人間の感情的将来への深い祈りを示す作品--であることに関係する。
■『楽園追放』では逆に、人間が電脳化してサイバー空間を生き始めることでますます錯乱、むしろ物理空間を生きる旧式電脳ロボットだけがかつての「人間らしさ」を保存する。これは、J・G・バラード原作、D・クローネンバーグ監督『クラッシュ』(1996年)等の伝統に連なる、SF映画としては正統なものだ。
■虚淵玄の脚本は、人間が「人間的」でなくなるがゆえに「人間的」であろうとするロボットが人間を滅ぼす可能性に穏やかに言及する。作品は営業に媚びた戦闘美少女モノだが、「人間的であろうとして人間を滅ぼすロボット」モチーフは、虚淵脚本『魔法少女まどか★マギカ』と重なり、汲み尽くされていない可能性があると感じる。

【人間であること/人間的であること】
■さて今回の主題はキム・ギドク監督『メビウス』(2014年)。私は監督の指名でムック『キム・ギドクの世界』(2005年)に日本人として唯一寄稿した。監督とは何度か対談し、全作品を見た。扇情性に目を眩まされた巷の鈍感な批評文が言うのとは異なり、本作はスペキュラティブ(思弁的)だ。
■本作は「人間的であろうとして人間を滅ぼす」に似た(正確には逆転した)モチーフを描く。読者に問う。性的な人間として生きることは、〈社会〉に内属するという意味で人間的であろうとすることか。〈世界〉へと突き抜けるという意味で反人間的であろうとすることか。前回の『ニンフォマニアック』は後者だと断定した。
■『メビウス』では夫への嫉妬に狂った母親が息子の男性器を切除する。罪障感に苛まれる父親が息子のためにスキンマスターベーション(肌を石で擦り表皮を剥いて刺激する)を伝授。果ては自らの男性器を移植する。母親は男性器を失った父親を軽蔑、男性器を移植された息子と近親姦を試みる。嫉妬した父親は息子の男性器の切除を企図⋯。
■誰しも想起するのが、阿部定事件とそれを描いた大島渚監督『愛のコリーダ』(1976年)だろう。ジャック・ラカン講義録『サントーム』(原著2005年)に収録の1976年3月16日講義によれば、性において男女が追求し成就する満足には違いがある。男にはファルス(象徴の男性器)があり、女にはないことに由来する。
■男は男性器を手段として欲望充足を得るが、欲望充足したい女にとって男性器は、不完全と知りつつ頼らざる得ない必要物。だから女の欲望は無限となる。無限の欲望を死の永遠の中で共有したい定は吉蔵を殺害。願いが叶ったので、願いを邪魔するペニスが不要となって切除した。それがラカンの見解だ。
■女は、〈世界〉に貫かれて女であろうとすると、ペニス切除を志向する、〈社会〉を生きにくい存在になる。男は、〈世界〉に貫かれて男であろうとすると、強姦を含め手当たり次第にヤリたがる、〈社会〉を生きにくい存在となる。両者とも異なる仕方で「(性的)人間であろうとして人間的でなくなる」。
■性的人間であること(現実界)と人間的であること(象徴界)は矛盾する。それを喜劇的に象徴するのが男性器だ。これに注目したキム・ギドクはさすがという他ない。実際ファルスには「笑劇」の意味もある。人間として〈社会〉を生きるとはこの矛盾を引き受けることだ。ロボットが人間になる場合も事情は変わらない。矛盾はどう超克されるか。
■人類学的な答えは明瞭だ。圧倒的過剰さを旨とする象徴交換によって。だから手塚治虫の漫画『火の鳥・復活編』(1971年)では家庭用ロボットのロビタが人間的であろうとして人間を殺した上で集団自殺し、押井守監督『イノセンス』(2004年)におけるセクサロイドも殺人後に自爆する。過剰はどう与えられるか。

【圧倒的過剰が人間を人間的にする】
■人間であることとは異なり、人間的であろうとすることは一つの過剰だ、とJ・ボードリヤール『象徴交換と死』(原著1976年)が言う。圧倒的過剰としての象徴交換は、有用な物質の交換と異なり、典型的には〈対抗贈与なき贈与〉として現れる。奇しくも『楽園追放』の旧式電脳ロボットがそのことを再確認する言葉を喋る。
■電脳化とサイバー化ゆえに外宇宙outer spaceへの志向を不要とした未来社会で、旧式電脳ロボットは「かつて人間的だった人間」がそうだったように、外宇宙に片道切符で出かける。ちなみに人間が人間的であることを信頼する『インターステラー』では、「今でも人間的な人間」が外宇宙に片道切符で出かける。共に〈対抗贈与なき贈与〉だ。
■『楽園追放』の旧式電脳ロボットが、損得勘定を超えた貢献への非合理的意欲を挙げ、〈対抗贈与なき贈与〉が人間的であることの条件だと語る。旧式電脳ロボットは、自我の獲得以降一度も現実の(人間的でなくなった)人間に触れたことがないために、過去のアーカイブスから人間を学び、非合理的な〈内発性〉という過剰を獲得した。
■映画では、器官の大半を電脳化してサイバー空間を生きる戦闘美少女が旧式電脳ロボットに〈感染〉、人間的であろうとして電脳サイバー社会からの離脱を決意。人類の遠い未来のために片道切符で外宇宙に出かけた旧式電脳ロボットに代わって、見捨てられた地球を生きようとする。象徴交換を生きる決意だ。

【〈対抗贈与なき贈与〉の愛/〈対他強制〉の性】

■社会学者N・ルーマンによれば、〈世界〉に貫かれた性を〈社会〉へと格納するために機能する近代の(いっときの)奇蹟が愛だ。十二世紀における、神の崇高さに無条件で帰依する片道切符の情念が、七百年かけて〈ロマンチック・ラブ〉へと進化した。そこでは相手の喜びの想定自体が動機づけのエンジンとなる。
■営みの異常さを刻印するのが十八世紀末から十九世紀半ばにかけてのフランス恋愛文学だ。異常さは過剰さとして出現する。D・ラクロの書簡体小説『危険な関係』(原著1782年)が刻印される通り、重要なのは喜びの「想定」で、実際には相手が喜び(例えば笑顔)という返礼を返さない場合が含まれる。というかそれが通常だ。
■神の崇高さと述べた。生贄の貢ぎや罪の雪ぎと引き替えに御利益(永遠の命)を祈願する構えを、神に返礼を強いるという意味で「神強制」と呼ぶ。イエスの福音によれば神強制は瀆神行為だ。この福音を並行移動した十二世紀以降の情熱愛の展開においても、神強制ならぬ〈対他強制〉は除去されなければならない。
■対照的に、性には〈対抗贈与なき贈与〉はない。既にラカンを介して紹介した通り、器官としての--〈世界〉に貫かれた--人間は、コストをかけた営みの対価としての欲望充足を得ようとする。男性器の存在ゆえに欲望充足が比較的得やすい男と、男性器の不在ゆえに欲望充足が得にくい女、という違いがあってもだ。
■男による強姦や女による男性器切除を含め、性には〈対他強制〉が付き物だ。だが神強制を排除した崇高帰依に由来する愛では、〈対他強制〉が禁じられる。なのにS・フロイトを踏まえてルーマンが言う通り、愛のエネルギーは性に由来する。ゆえに愛を巡っては「愛が性に勝つか、性が愛に勝つか」のバトルが永続する他ない。
■昨今は〈感情の劣化〉ゆえに性の〈対他強制〉が愛に投射される。愛における〈対他強制〉はストーカーの異常嫉妬を帰結する。他方、愛の無償原則を、性に投射できる可能性は皆無だ。その意味で、〈感情の劣化〉による悪影響を排除すべく--性(欲)に由来する〈対他強制〉を除去すべく--男性器を切除する振舞いは合理的だ。
■繰返す。『メビウス』では男性器が〈対他強制〉の象徴だ。であれば〈対他強制〉なき性はないか。映画は「ある」とする。石でこすって表皮を除去した上で皮下(under the skin!)を刺激するスキンマスターベーションだ。愛しているからセックスさせろという今日的〈対他強制〉に対するキム・ギドクの皮肉が効いた処方箋だ。
■映画で描かれる嫉妬も、昨今の現実と同様〈対他強制〉に過ぎない。「愛しているのに、他の男女にセックスさせるのか」と。このセックスの奪い合いがペニス争奪戦の滑稽さだ。「だったらスキンマスターベーションしてろ」とまで揶揄される。映画を離れて問う。〈対他強制〉なき性はスキンマスターベーション以外にないか。

【〈性欲反射〉という究極の処方箋】
■ある。相手の喜びを自らの喜びとする情熱愛の形式の並行移動がそれだ。相手の性的快楽を直接自らの性的快楽とする〈性欲反射〉。それがマスターベーションに閉じることのない唯一の出口だ。典型が「寝取られ」。『ニンフォマニアック』を監督したL・フォン・トリアーの初期傑作『奇蹟の海』(1996年)がそうした〈性欲反射〉を描く。
■愛という過剰ゆえに、不能の夫に性の快楽を与えようとする妻が、〈性欲反射〉を企図して自ら性の快楽に身を沈め、人倫(〈社会〉の道徳)から遠ざかって打ち殺される。その営みに神が福音を以て応える。ちなみに私の同世代には、愛の過剰による性の〈対他強制〉の克服という処方箋の構造を理解している女たちが少数だが存在した。
■「あなたが喜ぶから寝取られて来てあげる」と語る女と交際していた。「生はダメ」「複数はダメ」など事前ルールは全て破られた。だが彼女は「あなたが喜ぶから最もイケナイことをして来た」と笑顔。彼女にとっては「破るためのルール作り」だったが、私は当初分かっていなかった。今そんな女がいるか。好きな男が言う通りプレイする女しかいないではないか。