MIYADAI.com Blog

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先日のDocomo主催「モバイル社会における技術と人間」[思想塾との共同企画]に関連する文章をアップします

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レポート
Kawakita on the web (http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20061017)
END_OF_SCAN (http://d.hatena.ne.jp/paraselene/20061017/1161092122)

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『フラガール』を含めた李相日の最近作は、人畜有害なカオスの一歩手前まで描きながら、不思議な収束を示す。そのことを切り口に〈世界〉ならざる〈社会〉の未規定性を考える
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■この連載でも紹介した『紀子の食卓』(06)の園子温監督とロフト・プラス・ワン(新宿)で対談する機会があった。その席で園監督が日本におけるこの映画の不人気ぶりを嘆いた。試写会でも「これは映画ではない」と言い捨てて帰る「映画評論家」もいたらしい。
■そう言い捨てる理由を問われた評論家は、《ナマっぽ過ぎて、表現として昇華(消化?)されていないから》と答えたという。この映画で不意打ちを食らってパニック症を呈した観客もいると聞く。確かに「人畜有害」な映画だろう。園監督はそれをこそ意図している。
■園監督は昨今の邦画の「人畜無害」に呆れかえると慨嘆する。むろんそういう映画はあっていい。しかし全てが全て「人畜無害」とはどういうことか。挙げ句、批評家が「人畜有害」であることを批判するとはどういうことか。欧州ならばあり得ないと園監督は言う。
■それはそうだろう。欧州の芸術享受は初期ロマン派的だからだ。初期ロマン派的享受とは、“〈社会〉に浸った者が〈世界〉へと連れ出されてカオスを経験したあと再び〈社会〉に戻るが、そこでは以前と違った形で〈社会〉が経験される”という通過儀礼的図式である。
■謂わば「世の摂理は人智を越える」ないし「人間万事塞翁が馬」。重要なのは、〈社会〉が人智の世界で、〈世界〉が人智の及ばぬ世界だ、と理解されていることだ。初期ロマン派が憧憬する初期ギリシアやギリシア悲劇においては、実は必ずしもそうでなかった。
■初期ギリシアでは〈世界〉は〈社会〉に浸透している。人々は理不尽な内発性に貫かれ、人と人の関係性自体が人智を越えた動きを示す。ギリシア悲劇、例えばソフォクレスの『オイディプス王』を想起すれば、思い半ばに過ぎる。そこでは〈社会〉が人智を越えるのだ。
■かかる構成はギリシア神話と通底する。即ちドーリア人侵入によってアカイア人との間で血みどろの混乱を生じた「暗黒の四百年」を忘却しないための工夫だった。逆に言えば、19世紀のロマン派の時代には、もはや人々は〈社会〉にその種の記憶を投射できなかった。
■園子温監督はギリシア悲劇というよりは1960年代の「人畜有害」な映画たちに影響を受けたと言う。監督は若松孝二や大島渚らの名前を挙げた。確かに「人畜有害」な映画だらけだった。松本俊夫『薔薇の葬列』(69)『修羅』(71)の如き意識的なギリシア悲劇の反復もあった。
■そこでは〈社会〉自体の理不尽が主題化された。三池争議が象徴する階級闘争があったのもある。だが60年代後半の大学闘争の時代には、自由でも不自由、革命が成功しても人は救われないという、都市的アノミーに起因する〈社会〉と個人の不整合が主題化された。
■まさに〈世界〉どころか〈社会〉が人智を越えていた。園監督の作品がこうした1960年代的感覚に貫かれることは見易い。通過儀礼的図式と見えて着地点もカオスになる。雨降って地固まらない。固まる映画を撮ると、社会的見識を疑われる──そんな時代だった。
■確かに時代が変わった。日常の陳腐さ(終わりなき日常!)に辟易する時代になった。初期ロマン派と同じく、人智を越えるものは〈社会〉でなく〈世界〉に帰属されるようになった。その意味で〈社会〉の「人畜有害」ぶりに注目する園作品は、今日特異なものだ。

李相日監督の資質への疑念】
■そんな園監督が「人畜無害」な映画の筆頭に挙げたのが、李相日監督の『フラガール』(06)だった。PFFのスカラシップ作品『BORDER LINE』(02)のプロモーションに協力し、同作品のDVD版に監督との対談が収録された私にとっては、縁の浅からぬ監督だ。
『BORDER LINE』は連載39回で紹介した通り、感情のフックを使った「没入」とマルチスレッドを使った「距離化(寓話性)」を両立させた希有な邦画だった。距離化した視座から絶望の不可避性(ゆえの救済)が語られる。その意味で「人畜無害」ではなかった。
■当時、彼のようなタイプの監督には二つの将来が開かれていると私は感じた。ウェルメイド的方向に行くか、作家的(自分しか撮れない)方向に行くか。娯楽性に向かうか、寓話性に行くか。感情性に向かうか、表現性に向かうか。感情のフックか、世界観の提示か。
■むろん第三ないし第四の道もある。欧州やハリウッドの一流監督たちは、ウェルメイド性と作家性、娯楽性と寓話性、感情性と表現性を、両立させるべく腐心する。または、かつて若松孝二監督が言ったように、三本撮って稼いだら、一本は表現的な作品を作る……。
■知られる通り、スカラシップ作品の後、李相日監督は『69』(04)『スクラップ・ヘブン』(05)と立て続けに、アンチ・ウェルメイドにも料理出来る素材を敢えてウェルメイドに処理した。両方ともメジャーな娯楽作品として良質だが、素材が素材だけに彼の資質に疑念を抱いた。
■例えば『69』。1960年代の輝きは、「解放ゆえの非日常」に由来するのか「鬱屈ゆえの超越志向」に由来するのか。どちらを採用するかで「60年代」のイメージは一変する。時代に無関連な娯楽としては前者が良いが、「人畜無害」ゆえに社会を見る目を疑われる。
■同じく『スクラップ・ヘブン』。今日の若い連中の鬱屈は、不自由に由来するか、自由に由来するか。前者は「解放」、後者は「狂気」に繋がる。前者は「抑圧と解放」の二項図式を使うカタルシスがあるから娯楽的だが、同時代と無関連な「人畜無害」を免れない。
■李監督はいずれにおいても前者の道を採った。元々メジャー志向が強いのかもしれない。それはそれで良い。問題は素材だ。扱う素材が微妙なものであれば、単に娯楽的に処理するとオツムを疑われる。『フラガール』における炭鉱町という素材も極めて微妙なものだ。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2006-10-24 - 09:23:37
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李相日監督『Border Line』映画評

■2000年6月21日、岡山の高3少年は、自分をいじめる野球部の4人をバットで殴って負
傷させた。殺人したと思い込んだ少年は「母親に迷惑をかけたくない」と今度は母親をバッ
トで撲殺。自転車で逃げた彼は16日間で千キロを走り、7月6日秋田県で逮捕された。
■この逃避行をめぐっては、比較的忠実な再現から、事件にモチーフを借りたフィクショ
ンまで、私の知る限り幾つかの映画化の企画が立った。李相日監督『BorderLine』は後者
に当たる(タイトルは「境界線」とも訳せるし、精神医学で言う「境界例」とも訳せる)。
■私自身はこの事件をめぐる別の企画に関わっているが、高3少年の動機づけをめぐって
は主要2つの謎がある。一つは、親子関係がいかなるものだったのかということ。もう一
つは、なぜ北方に千キロも走ったのか、少年はどこに行くつもりだったのかということ。
李相日監督は、後者については「母を訪ねて」という当たり前の理由を立ててクリアー
の上、もっぱら前者──親子関係──について想像力を集中して映画のドラマツルギーを
組み立てる選択をした(私自身は後者すなわち、なぜ「南」でなく「北」かに集中する)
李相日監督が選んだのは「親許し」のモチーフ。「親許し」モチーフの映画は、「父許
し」に限定しても、生前の和解ならエットーレ・スコラ監督『Barに灯ともる頃』、死後
の和解ならばクリス・エア監督『スモーク・シグナルズ』などが、すぐに思い出される。
■そのエッセンスは“親の理不尽な振舞いを恨む子が、長じて親と向き合った結果、親に
は親の事情(究極の逆境や壊れた人格)があって選択の余地がなかったと知り、地獄の煩
悶の末に許す”という形を取る。要は「親の心、子知らず」という諺に集約されるのだ。
■この伝統的なモチーフを反復することは、過去の名作と競合関係に入るという困難な道
にチャッレンジすることを意味する。そうしたチャレンジを成功させるには、過去の名作
に互してポイントを稼がなければならない。『BorderLine』はみごとに勝ち抜いてみせた

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投稿者:charlie
投稿日時:2003-06-10 - 15:17:00
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