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■ 宮台真司、東浩紀を語る!
98年の秋に、ある出版社の編集者に対して、東浩紀『存在論的、郵便的』と社会システム理論との関係について語ったものです。

宮台、東浩紀の〒(郵便)本を語る その1

 僕に言わせると、僕の言説の内部に意味にも強度にも還元できない両義的なものを探すというのは、非常に反動的な身振りです。僕の語ったことの内部にそれを見い出さなくてはいけないという必然性は全くなくて、世界の中に見い出せばいいわけですから。

 つまり、僕のしゃべっていることが重要だという前提になっちゃうじゃないですか。僕のしゃべっていることは別に重要でも何でもないし、もうちょっと厳密に言えば、それが一貫しているかしてないかというのは、さして問題ではない。僕にとっては問題です、一貫したものを提示しようとする僕の個人的なオリエンテーションや目的はありますけども、それと全く無関係に、僕の本を読む人が、「宮台が言っているから」とか、「宮台の言っている範囲の中で宮台の言っていることを理解しなければいけない」とか考える必要は全くない。

 あるいは、東浩紀氏の書いていることを真に理解しているならば(と言うと「真の理解」という言葉の中にいろいろ誤配可能性もあるので指し示すことしかできませんけれども)、東理解の一つの誤配が、正にこのようなものであるというふうに言わざるをえないでしょうね。

 例えばルーマンのシステム理論的なコミュニケーション論の中に脱パラドックス化という概念があるんですね。これはどういうことかと言うと、無時間的な状況で考えれば、ゲーデル的な不完全性、あるいはゲーデル的な意味で言うと、ゲーデル数的な特異点が、どのシステムにも、あるいはどのようなコミュニケーションにも、どこか閉じた領域を発見しようとすれば必ず見つかるわけです。システム理論はそういう前提なんですね。

 意味が意味について言及しようとする時は、そういうゲーデル的問題が必ず生じる。クレタ島人のパラドックスと全く同じ形式ですけれども。「意味がないから良き生が送れないのではなくて、良き生が送れないから意味にすがるのだ」というニーチェ的言説に接して「そうか!意味に頼っていちゃダメなんだ」と思う人間は、ニーチェ的言説の意味を頼っているというゲーデル的問題がありますよね。あるいは、「自己決定は大事だ」という宮台的言説を真に受けて「自己決定は大事だ」とオウム返しに語る人間は自己決定をしていない、という逆説がありますよね。もう、いろんなところにいくらでも同じような図式を見いだせるわけです。

 しかし、現実において、それによってコミュニケーションは滞らないわけです。あるいは滞ることはむしろ例外的であるわけです。つまり「全てのクレタ島人は嘘つきである」とクレタ島人が言ったところで、それによってコミュニケーションは滞らないで、例えばそこでもし逆説が見つかるのであるならば、逆説についてのコミュニケーションが始まるわけですね。

 もちろん逆説についてのコミュニケーションが逆説に満ちている可能性がありますが、そうすると今度はその逆説に満ちている部分についての新しいコミュニケーションが始まる、というふうにして、逆説によってコミュニケーションが滞る代わりに、むしろコミュニケーションはどんどん続いていく。それを「逆説にも関わらず続いていく」と言うことはむしろ正確ではなくて、逆説があろうがなかろうが、コミュニケーションが続いていくとかシステムが回るという事態は全然別問題なんだ、ということです。事実の問題として続いていくと言うしかない何ごとかであるわけですね。

 そういう意味で言えば、ゲーデル的な問題が世界の中でどういう位置を占めるのか、むしろ極めて部分的なものではないか、あるいはそのゲーデル的な特異点がそれほど重要なことか、という感受性は、デリダ=東的な文脈以外に、システム理論の中で十分に考えられてきているわけです。つまり、それが「脱パラドックス化」という概念に象徴されるものであります。

 それを入り口にして語れることはいくらでもあります。例えば東的に言えば、ゲーデル的な特異点あるいは言及不可能な両時性が存在することによってシステムの全体性が担保されている、つまり全体性に回収不可能な何ごとかによって全体性が仮想的に成り立っている、というゲーデル的な問題の外側にもっと重要な問題がいっぱいしかれている。その際たるものが郵便の誤配の問題だ、ということですよね。

 この部分はシステム理論ではどう語られているのかといえば、 システムがうまくにしろまずくにしろ別にして、回り続けるというのはどういうことなのか。あるいは人体が、有機体が、社会システムが、それそのものでありつづけるというのはどういう事態なのかということの中に実は捉えられている問題なんですね。

 「脱トートロジー化」との対比で言えば、実は機能主義という枠組みが、実はそのような誤配可能性という問題を元々繰り込んだ設定になっているわけですね。

 機能主義の伝統に遡る必要はないと思うんですけど、ルーマンという人が、機能主義の存在意義について「機能主義、あるいは機能論は、因果主義、ないし因果論に対立する」と述べています。因果論とは何かといえば、存在論的な思考である、というわけです。つまり、どうしてそれがそこに存在するのかについて疑問を持つ。それがそこに存在せざるを得ない理由を排他的・一義的に説明しようとする図式である、と。

 もちろんそれは東的にいくらでも言い換えることができるわけで、つまり現前の唯一性というか、そうしたものに対する信仰が存在する議論なんですね。機能主義は存在論に、つまり因果論に対抗する。機能主義は、何故それがそこにあるのかは説明しない。機能主義が説明・記述するのは、それが寧ろ取り替え可能なものであること。それで、何と取り替え可能であるのかということも一義的には言えず、準拠視点(フレーム・オブ・リファレンス、言及視点)から、何と取り換えられるのかということについては、どうとでも言えるわけですね。

 例えば僕、今コーヒーを飲んでいますけどね、この時に、のどの乾きをいやすという点から言えば、コーヒーじゃなくても、紅茶でも水でもいいわけです。でものどの乾きをいやすというよりも、例えば一服したいというようなことであれば、タバコとだって取り替え可能だったかもしれませんね。あるいは、香りを楽しみたいということであればね、別にアロマテラピーみたいなものだってよかったかもしれない。つまり、僕は今コーヒーを飲んでいますけれども、そのコーヒーは実はいろんなものと取り替え可能で、たまたまそこにコーヒーが存在するだけで、そのコーヒーが存在する存在論的な必然性はなかったということです、簡単に言えば。

 今、たまたまコーヒーを出しましたけれども、コミュニケーション、あるいは行為の全ての個々のアイテムはそのようなものであると。あるいはもう少し一般的に言えば、社会的な形象と言われるものは、基本的に全てが何とでも取り替え可能だし、何と取り替え可能であるのかも見方によってはどうとでもなり得る。つまりそれが存在するのは、それこそ理由について、存在論的に言及不可能な偶然にすぎない、ということですよね。

 これはもう学問の方法論的な限界も始めから存在していて、例えば、「『それ』が何でそこに存在するのかは偶然である」と言う時に、「それ」という同一性・現前性は言えない。例えば、僕が今可視光線の中である種の物体を目撃していて、それをコーヒーだとかコーヒーカップだとかいうふうに理解して、それが何故存在するのかと問うわけですが、それはつまり、一定の条件の元でそのような知覚が与えられるという事実がある。その意味で言えば、同じような条件の元で同じような知覚を与えるようなものであれば、それが何であるかということは言及不可能なわけじゃないですか。それがそこにあるのは何故か、とそもそも問うてる時に、じゃあ「それ」自体は何かという問題があり、このことに答えることは不可能であるわけです。

 この問題は、システム理論の内側にも外側にも取り付いていて、そのことについてもちろん自覚的であるわけです。ですからそのことを前回石島さん(*インタビュアーの方)にお話した時に、「システム理論はうまく回っているかどうかしか議論しない、あるいはそれを議論しさえすれば十分だと考える、あるいはそれ以外のことは議論できないと考える枠組みである」というふうに言いましたよね。 

  例えば、生理有機体としての僕が今いますよね。僕の生理有機体システムが回っているわけですが、大いなる可能性において、一般に普通の臓器が入っていて、普通の循環器系、消化器系、神経系が内蔵する、と期待されているわけです。

 果たしてそうか、という問題がまずあります。MRTでスキャンしたらそうなった。しかし「そうなった」というのはあくまで操作的な問題であって、ある刺激を与えたらあるリアクションが返ってきたということですから、同じリアクションが返ってくるものであれば、それでなくたっていい可能性がある、という問題がありますよね。

 これはもう、非常に一般的な問題ですから、どんな例にも応用可能な問題ですけれども、更に言うならば、例えば僕は自分の心臓は人工心臓じゃないと思っていますけれども、人工心臓である可能性もあるわけです。しかし人工心臓じゃないといっても、それでは人工心臓じゃない心臓が心臓なのか、という問題もあるわけです。つまり、いろんな場面で心臓のふりをするエイリアンだという可能性もあるわけですよ(笑)。つまりそれが心臓の「誤配」です(笑)。誤配された何ものかが心臓のふりをして、そのことに気が付かないだけかもしれない。あるいは心臓のふりさえしていないのに僕達が心臓だと思い込んでいるだけかもしれない。

  我々がそれを心臓として、あるいは偽物として受け取るという認識の問題じゃなくって、我々の体のシステム自身が、実はそれが誤配された何ものかであろうが、本物の心臓であろうが、人工心臓であろうが、「うまく回っている」という事実だけがあるわけですね。

 簡単に言えば、システムが回っているという時に、そのシステムの部品が何であるかということを存在論的には言えないわけですね。そのシステムがうまく回るということに差し障りがない機能を果たしているという事実についてだけ言えるということですよね。

 おのおののパーツが何であるかということは存在論的には言えないという前提なんです。また、どういう機能を果たしているのかということも、存在論的には言えない。それはどういうフレーム・オブ・リファレンス(準拠枠)を取るかによって、どういう機能を果たしているかということは、さっきのコーヒーの例のように、違って見えてくるわけですね。

 更に厳密に言えば、あるフレーム・オブ・リファレンスから見た時にこういう機能を果たしている、という言明でさえ、実はあくまで暫定的な言明にしか過ぎない。つまり、その準拠枠、視点を何が支えているのかということについて自己言及できませんから、実際の所どういう視点から見ているのかということについて厳密に言うことができないわけですね。実はその視点から見ればそういう機能を果たしているという言明についても、「そういう視点ってどういう視点だ」という問題について、実は同じように問えるんですね。「そういう視点のフリをした別のものじゃないか」「誤配された何ものかが視点のフリをしているんじゃないか」とか、永久に言えてしまうんで、無限背進になってしまいます。

 だからシステム理論というのは、言語ゲーム論とちょっと似た形式ではあります。つまり論理学というのは論理学というゲームがあって論理学者がいるだけだと。論理学のゲームについて記述しようとすると論理学の外側に観察するゲームを置かないといけないけど、観察するゲームがどういう論理に基づいているか、新しい、観察するゲームの論理学を打ち立てようと思うと、それをまた外側から観察しなきゃいけないという議論があるのと同じでね、特権的な場所がないわけです。これはルーマンに限らず、基本的にシステム理論のオブザベーションということを巡る洞察なんですよね。

 つまり、フレーム・オブ・リファレンスから見て、そういう視点から見るとそれがそういう機能を果たしているように見える、というふうに言えるということも実は存在論的には言えない。厳密に言えばそういうことでもあるわけですよね。

 更に、もう一つ、さっき言ったようにフレーム・オブ・リファレンス、視点そのものは多様であり得るということ。この多様性自身は、東が言っている「文脈によって多義的である」という多義性に回収できる問題だから、別にそれ自身はシステム理論の<幅>でも何でもないわけですけれども。

 いずれにしても、存在論的な議論に対して距離を取るというのが機能主義の根本的なコンセプトで、機能主義は今述べたように、「視点とは何か」というのも簡単には、視点の機能を果たすものですから、そういうような機能的な無限背進というのを続けていくと、存在論的な思考は一切できないという当然の帰結になるんですね。

 あともう一つ、3番目に言おうとしたことは、システムがうまく回っているというのはどういうことかっていう、非常に重要な問題なんですね。

 これは、社会の崩壊とか国家の崩壊と言われるのが何なのかという具体的なことを考えてみれば分かるわけですよ。「社会の崩壊」と言うときに、ブラックホールに飲み込まれて全て消えるということではなくて、現実に崩壊するのはある種の法共同体だったり国家だったりするわけで、それでも生きてる人間は残っているし、飯を食ったりセックスしたり犯罪犯したりとか喧嘩したりするとか、いろんな人が生きている現実は変わらないわけです。

 そういう時に、じゃあ「システムが崩壊する」というのは何であるのか、というのはとても重要なんですよね。これについても、実は先見的に言うことはもちろんできないわけです。

 例えば生物有機体に関して言えば、この程度のことまではある程度言えることがあります。例えば「ロボットが生命体ではない」ということをどういうふうに言えるのかというと、ロボットは確かに一つのシステムですけれども、ロボットをバラすと、そのロボットとしての機能は果たさなくなりますが、各部品は残る。その部品を組み立て直せばまた動きますよね。簡単に言えば、暫定的ですが、ロボットというのは部品の組み合わせで動く。その意味では、暫定的ですけど、部品のある種の同一性が、ロボットっていう実体とは別に存在すると言えるわけです。

 ところが、生物有機体というのはそうじゃないわけですよね。人間というのは死にますが、しかし死んでも臓器はしばらく生きていますから、移植をすれば延命できるわけです。その人間は復活しなくても、臓器は別の人間の体内で臓器として生き続けることができますよね。臓器が崩壊しても実は細胞というのは生きていて、死後何日も経った人間の生体細胞を増やしたり、そこから生きて機能するDNAを取り出したりすることができるわけですよね。

 その意味で言うと、例えば「僕が崩壊する」「僕が死ぬ」というときに言われている事態は極めて限定されていて、ある種の機能が失われる、その機能を果たすような関係が失われるということ以上のことではないわけですよね。

 実は社会が崩壊するというのも同じようなことで、ある視点から見た場合のある機能とそれを支える関係が壊れるということであって、実はその部品が壊れるということではない、ということと、あともう一つは、にもかかわらず面白いことに、例えばその臓器も全体が死んでしばらくすると、臓器も細胞も死んじゃうわけですよね。全体がなければ部分もない。それで言えば今言っているような「社会が無くなっても残るものがあるぜ」と言った時に、社会が無くなって残ったものが、その前のものと同じであるのかということは言えない。というか、同じものでは現実にはあり得ないわけですよね。ですからそれを観察するシステムが外から「同じだ」とある機能的な同一性に基づいてアイデンティファイ(同定)するという操作と共に、社会は崩壊したけれども人々は生きているというような言い方ができるだけのことですよね。

 ですからそういう意味で言うと、システムがうまく回っている時のそのシステムの同一性というのは、やはり実は存在論的なものではなくて、観察するシステムと相関するものでしかない、しかし観察者が全て決めているかというとそうではない。これもシステム理論で何度も言われていることですけれども、ウィトゲンシュタインの例ではありませんが、ある言及不可能なシステム、例えば観察するシステムの論理学は、観察するシステム自身には分からないわけです。つまり自分がどのように観察しているのかということについて分からないがゆえに観察が可能であるわけです。もちろん自分がどのように観察しているかについて記述する観察<セカンド・オーダー=2次の観察>を出すことができますが、その新しく出来た観察<2次の観察>は記述されていませんから、…というふうな無限背進可能性の中で現れてくるような同一性であるわけですね。

 にもかかわらず実はシステムの中には、やや例外的に変わったものが存在する。自意識、自分とは何かということを厳密に言うことはできませんが、例えば免疫システムが自己と他者を区別するというのとは違った意味でね、自意識というのを持つものがある、「自分とは何か」という定義を行うものがある。それがつまり人間であり、あるいは社会的なコミュニケーションなんですよね。社会的なコミュニケーションは、その社会に属するものとそうでないものを識別するという機能を果たしているし、識別されているということを前提にして機能するもの、つまり内側と外側とを暗に、あるいは明示的に区別する何ものかですよね。そのような社会的なコミュニケーションは、何が内側で何が外側であるのかということについて、その<2次の観察>の中で言及するということをやっているわけですね。そこにやや特殊な事態があります。

 自意識とは何か、あるいは反省とは何かといえば、システムとシステムの外側つまり環境との関係をシステムの中でリプレゼント(表象、再現)することなんですね。つまり自分とはこういうものである、こうなっているというふうにコミュニケーションするわけです。しかしそう言っているのは自分だし、コミュニケーションという概念は正に、自分、あるいは自分達という概念の中に入り込んでいるという構造があって、これはゲーデル的な問題です。無時間的な論理で言えば、決定不可能です。つまり「自分がこうなっている」という言明は何を言っているのかということは、論理学的には決定不可能です。しかし、論理学的には決定不可能ですが、自分はこうなっているというカッコつきの自意識、自己定義を前提にして引き続く意識やコミュニケーションが現に存在するんですね。

 だからシステムに自意識があるというのはその程度のことであって、システムの自意識の「自」というのが、それが自分であるかということについてはもちろん端的に言及不能、ということを言っているわけですよね。

 ということで考えると、「郵便の誤配」という点についてシステム理論が提示できるのは、ある機能を果たしている限り、それが何であるかは言えない、これは原理的な問題だと。どの機能を果たしているかということも、実は観察するという機能との相関ですから、無限背進してしまうので厳密には言えないと。

 結局「終わりよければ全てよし」ではないが、そのように理解し、そのようにコミュニケーションし、あるいはそのように思考する、つまり表象の連鎖が存在するということの中で、取り立てて中断、齟齬が存在しないという事実だけがある、と。

 郵便が誤配だろうが正配であろうがさして問題ではなくて、誤配であると気付かなければ気付かないで物事は全て回る。誤配だと気付いたとしても、その後新たに送ってもらうというコミュニケーションがあったりとか、あるいは誤配ということに気付いたことによって、今まで前提としていたものを前提としないで進むというコミュニケーションもありますけれども、ただ、そういうコミュニケーションですら実はある前提にのっかってますから、それが誤配されたものでないとは言えないわけだし。

 だから基本的には、「郵便の誤配」という概念は、「存在論的な思考ができない」と言っているに尽きるんですね。あるいは存在論的な思考をする必要がない、あるいは、しても構わないが存在論的な思考によって把握可能な世界はローカルである、というか、そういう感受性です。あくまで感受性の水準でしか言えませんが、そういうものが実はデリダ=東的な思考とシステム理論の双方に共有されていると。 

 誤配の反対概念に正配があるとしますよね。ただし、郵便配達。しかしそれはあくまで相対的です。それは、こういうふうに考えればいいわけです。例えば、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』とか『名指しの必然性』的な問題設定があるわけですよね。つまり、何が足し算であるのか、何が足し算の規則であるのか、つまり正確に言えば何が足し算という営みの同一性を決めている同一的なルールであるのか、つまりこれは、僕達の経験が有限でしかあり得ない以上、基本的に、自分があるいは誰かが従っているルールはこれだ、と同一的に言明することは不可能だと、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』でクリプキは言っているわけですね。『名指しと必然性』でも同じことを言っていて、「固有名は述語(確定記述の束)には還元できない」、つまりどのような確定記述を付け加えようと有限ですが、その固有名の固有である部分というのは、有限性には還元できない。有限性は全部取り替え可能ですから、固有名は取り替え不可能< >しますから、アリストテレスはああだ、こうだと有限の記述を積み重ねようが、それは全て取り換えられる。少なくとも思考実験においては取り換えられる。あるいは思考実験じゃなくて現実にアリストテレスがこうだ、という述語があった場合に、その述語を取り替えてもアリストテレスがアリストテレスであるという所以は失われないという思考を継続できる。こういうのを「理念的な問題」と一般的に呼ぶわけですよね。あるいは理念的というのを別の言い方をすれば「超越論的」です。経験を超えている問題です。

 このようなことについて、にもかかわらず我々が足し算であると信じたり、アリストテレスがアリストテレスであると信じたりするのは何故であるのか。つまり我々の経験は有限でしかないのに、超越論的なものを前提にし得るのは何故か。

 そこでクリプキが出す有名な結論は、固有名についていえば「指示の伝達」です。つまり、言葉は間違いなく受け渡されてきているということであり、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で言うならば「共同体」です。

 これについて東君は、「クリプキは解答を出したのではなく、むしろネガティブに『どう解答できないか』を言うために出してきたものだ、したがって暫定的な結論を批判してもしょうがないのだ」ということを言っていますが、それはその通りだと思います。

 ただここで問題にしたいのは、指示の伝達という事実性だけがある。例えばアリストテレスという言葉がただ受け渡されてきた事実性がある。この事実性は言葉の中には存在しないわけです。言葉の中ではなく外の端的な事実性。

 「共同体」というのも非常にナゾの概念なんですけれども、「生活形式を同じくする者たち」「生活形式の家族的類似性」とかなんとか言うわけですけれども、非常に言及不可能な曖昧模糊としたものとして考えられているわけです。

 それに対して東が出してくるのは、むしろクリプキを徹底すればこういうことだろう、ということです。

 つまり超越論的なものが可能であるかのようにコミュニケーションできるのは、可能であるかのように見せる何者かがあるからではない、それでは否定神学(ゲーデル数に相当するような言及不可能な何者かがシステム内部もしくは内部/外部とも言えない場所に存在していて、それが世界を支えているという思考)になってしまう、と。

 実は超越論的なものがあるかのようにではなく、超越論的なものはない。我々が「超越論的なもの」と呼んでしまうのは何故かというと、いつでも間違いの可能性が存在するからだと。だからいつでも間違いの可能性が存在する、つまり経験的なものは全て誤配可能性にさらされているという言い方は本当は語弊があって、いつでも何でも「それは間違いだ」というコミュニケーションを始められるわけです。「アリストテレスは**だ」「いや、それは間違いだ」、「足し算とは**だ」「いや、それは間違いだ」というようなコミュニケーションをいつでも・どこでも・誰でも始められるという事態を解釈的に遡行する時に、それこそ遡行的に捏造されるものが超越論的なるものだ、という言い方をしているんですね。

 実は、これに相当する認識は、システム理論の中にも似たような形で存在する。

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