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宮台、東浩紀の〒(郵便)本を語る その3 そこで分岐点がある。言及不可能なものが存在するんです。言及不可能なものというのはもう一度限定すると、「無時間的な論理的な言及関係の中で決められないものが存在する」ということは事実ですけれども、そのことをどう評価するかですよね。 論理的にこの世界は完全ではない…という言い方も本当は語弊があるんだけども、まぁそういうことが、分かりやすく言えば重要であるかどうか。重要であると考える人間は、不可能であるにもかかわらず可能であるかのように見せるような装置が存在しなければいけないと、こうくるわけですよね。つまり、不可能で不完全、これは決定的なことだと考える人間はそういうふうに考えるわけです。 ところがルーマン、あるいは後期デリダ的な思考は、もちろんある意味では決定的なことだと考えるんだけども、そのことが世界の中で持つ意味は、さして大したことではない、と。寧ろそういう無時間的な言及可能性の外側に大半の事態が存在すると考えるかどうか。考えない場合が否定神学で、不可能なものの可能性を論じなければいけない、あるいは不可能な全体の可能であるかのように見せる仕掛けを考えなきゃいけない。 全然否定神学的ではあり得ないのは、「語り得ない」ということが何の問題もないということです。何故ならば本当は、大半のことは語り得ない。語り得ないものの間の言及関係や主従関係、あるいは配達関係というか、そうしたものを辿っていくことによって、どっかにシワを寄せて、さっきの神のような特異点を作り出すかどうか。それを作り出そうとする人間は、さっきの話で言えば、重視するタイプの人間なんですね。特異点が何かを支えているという思考をしようとするわけですが、僕は必ずしもそういう思考はしません。 それは、ある種の感覚の問題としか言い様がないわけです。その在り処に言及できないということがあるとしますよね。言及できないものはたくさんありますが、言及できないという体系に直面した時に、それをどう思うかということですよね。言葉の限界が現れたのはそりゃそうですけど、さも重要な事態であるかのようにこと上げして言及するという方向もありますけれども、そうでないやり方もあるわけで…。 あるいは、さっきの話にもあったけど、僕の語ったことの輪の中に郵便的なものがあるかどうかということじゃないんですよ。寧ろ、僕が何かを語っているということ自体が郵便的であるかということなんです。僕の語っている中身にどういう概念が存在して、それが郵便的かどうか、両義的かどうかというのはさして重要ではなくて、僕が語っていると言われることそれ自体ですよ、簡単に言えば。 僕はよく「ミヤダイ」と「みやだい」と言っていますけれども、そんなの僕にも分からないんだ、本当言うと。よく言われるんですよ、「ミヤダイさんですか、みやだいさんですか、今どっちですか?」って。それはどっちだって言ってもいいんですが、難しい。 自覚して使っていると言って構わないんですが、「自覚している」という事態が何を意味するのかよく分からないところがあって、「ミヤダイ」であるつもりでモロ「みやだい」になっているという場面を目撃する瞬間があったりするわけじゃないですか。これは「みやだい」じゃないか、モロに、って(笑)。その瞬間誤配されてしまったわけですけれども、そのような事態を論理的に回避できませんから…そういうことなんです、簡単に言えば。 せいぜい僕がその質問を受けて答えることができるのは、「どっちに見えますか?」という言い方でね、「いやぁ、『ミヤダイ』っぽく見えますけど…」「あぁそうですか」…その時に「誤配されたな」と思ったりとか(笑)。それは「誤解」という意味じゃなくって、僕が「みやだい」のつもりであって「ミヤダイ」になってしまうという事態が事態として端的に存在するわけで、別に誤解があるわけじゃないです。それは事実なんだから。相手にはそう受け取られているわけだから、これは誤解じゃないと思います(笑)。 これはすごく、唯物的な問題ですよ、それこそ。 そう言われたとして、自分でどう受け止めてもいいんですが、「誤解だよそれは。僕は実は今はね、『みやだい』なんだよ」とか、逆に「『ミヤダイ』だよ」とか、どう言ってもいいんです、それは。どうとでも言えます。「誤解だ、僕の真の意図は…」というふうにコミュニケーション接続することもできます。あるいは「君が見えた通りだと思います、君がそう見たということはそうでしかあり得ない」と言ってもいいような気がします(笑)。それは端的な事態ですから、別の人は『ミヤダイ』だと思ってある人は『みやだい』だと思う。僕は『ミヤダイ』だというつもりだったけれども、『ミヤダイ』だと思うことによって『みやだい』になってしまっているという事態は絶対否定できないから(笑)、そういうことですよね。 ★(石島さん:この宮台掲示板(世紀末的宮台BBS)の書き込みの方は、宮台さんの言説の中に入りこんで、存在論的とか郵便的だとか言っちゃっているということがあるわけですよね。) だから、蓮實重彦じゃないけれども、「排他と選別の機能」というのが言説では働いていて、例えば東を読んだ人間が「東的に言うとこれは郵便的で、これは存在論的で…」というふうに郵便箱に仕分けするように言説を配列、あるいは選別していくという反動的な営みに入りがちなんだけど、それは端的に、笑えばいいだけの話です。 そのような事態がバカバカしいという話を蓮實は言っているわけだし、またデリダも言っているわけですから、さしてそのことに問題はないわけで、言明の内部を制御できると思うこと、東的、宮台的であり得ると信じたりすること自身のうちに実は反動性が宿っているわけですよ。 だから蓮實が語っているとか、デリダが語っているとかいう事態の中に端的に示されている誤配可能性があるんです。それは正配可能性があるという意味ではなく、「みやだい」と「ミヤダイ」の問題みたいなものがあって、それを排除できないという自覚の元に、例えばデリダ・蓮實・宮台の…(中断) ………この東本が、もし多くの人に理解されるものであるならば、諸手を上げて評価していいんですが、それがちょっと…(笑)どこまで理解可能かという問題があります。 僕は、こういうことを一般の書籍でしゃべってもいいと思っていなかったので、その意味で言うと、これを語っていいならば、僕が方法的に本質的に踏まえている前提についてもしゃべっていいはずで、もししゃべるんだったらもう少し分かりやすく言えるということです。 例えばさっきの吉幾三のウインナーコーヒーの比喩一本でいけると思うくらい、実際は極めて単純な事態なんですよ、僕の言いたいことは。 そうした問題を議論して盛り上がるような同時代なのかな、ということについて、ネガティブ・エクスペクテーションですね、盛り上がらないと思っていたというよりも、盛り上がるとは想像していなかった。でもこの本がこれだけ盛り上がっているということで、ネガティブ・エクスペクテーションに対する違背が生じて驚くと同時に、分かって盛り上がっているのか、分かってウケているのかという疑いがやはり生じます。多分正しい疑いだと思いますけども、だとしたらこういうものが出た以上、こういう方向をプッシュするような作業がこの日本では多分必要だと思うんですよね。 だからこの宮台掲示板(世紀末的宮台BBS)の書き込みの方に見るように、非常に誤解されやすいんですよ。蓮實も非常に誤解されやすかったし…例えば蓮實は以前、四方田犬彦という彼の一番弟子を自称している人間の映画批評に対して、ものすごいネガティブな評価を下しているわけです。つまり蓮實的な言説を模倣するというのは蓮實的ではないわけでしょう。だからデリダ的な言説を模倣するのはデリダ的ではないし、東に対しても同じことが言えます。だから、そこに孕まれているある種の困難、真に受けようとすると必ず両義的になってしまう、自分がどういうポジションを取っているのか分からなくなるような言説というのがあるんですね。ニーチェの言説もそうなんですけれども、デリダも、ゲーデルもそうです。 そういうものについては、真に受けてオウム返しにするようなタイプの言説は、本質的に例外なく全て無効であると言っていいと思うんです。 これは、本質的に無効であるけれども機能するっていうことももちろんあるわけです。何に機能するのかよく分かりませんが、そのうちの何かに機能しているということはあると思いますが…。 模倣者が出てきてしまうという事態は、致し方ないです。必要経費みたいなもので。だからそこから後の言説の反復は、あってもなくてもいいんですよ。「なるほどね」って。地上に出たことのないやつがずっと「夕日が赤いってどういうことなんだろう」と思っていて、夕日が赤いというのはこれだよ、と指し示されて「そうか」と思った瞬間に、そこから後のコミュニケーションは自由でしょう。どうとでもありえます。 だから、一般的にこういう思考は「ルーズさ肯定」という、非常に重要な、二十世紀末に必要な、ある観点から見て極めて機能的なコミュニケーションをしているとは思いますね。それは僕と目的を同じくすると言ってもいいです。 今の話をちょっと要約すると、ルーマンが難しくしゃべった、デリダが難しくしゃべったというのは理解可能な理由があると思っていて、最初彼らを理解する人間たちには正しく理解してもらわなくてはいけない、と。分かりやすく書くとやっぱり誤解されるので、分かりやすく書けなかったというのがあると思います。しかしその使徒の連中が有る程度増えた段階では…使徒が布教する段階では、と言ってもいいんですが、むしろ誤解の可能性があっても分かりやすく語ることに意味がある。それは、例えある程度誤解されたとしても、ある程度厚味のある使徒の連中がそれを正せるということです。 もちろん郵便的というか、教祖から使徒へ受け渡されたものが正しい郵便になるかどうかは、厳密には言えません。それはさっき言ったように、いつ何時教祖に「それは違う」と言われるか、あるいは使徒同士でお互いにチェックし合う事態にならないとも限らないが、それはそれで構わないわけです。 むしろそういう誤解を正すというコミュニケーションがある意味で効率的に行われるためには、最初寧ろ難しい語り口が必要だったかもしれないと思いますね。 非常に短絡的で分かりやすいコミュニケーションは、その短絡的な部分を誤解した人間たちを増やして、その人間達は相互にチェックし合うことはできないで、みんなある自明さを生きちゃいますから、物事は単純じゃない。今言った誤配可能性の問題も含めた、謙抑的な、自己規制的な態度というのだけでも実は伝承されていないと困るわけですね。 今回の東君のこの問題で、「使徒」というと「ああ、東も使徒か」みたいな感じです。そういう意味でいうと、使徒がある程度<人数が>いるのか、という感じがします。特に東、若いですから。柄谷とか浅田とかじゃなくて、僕よりかはひと回り若い。若い連中がそういうことを言うようになった、非常にいいチャンスだと思います。 そうすると、何がいいのかっていうと、彼(東)は批評家に<なりたい>のだけれども、文芸批評や映画批評という場面で、そういうある種の態度はすぐにでもあらわれると思う。それは別に存在論的・郵便的な合意で語るとか、システム論的な合意で語るという問題ではない、誰かがメディアについて何かを語っているっていうことについて目くじらを立てるようなことではない。どう受け取ろうが、どうせ郵便なんですから(笑)。こちらの言い方で言えば、どう受け取ろうがそれはコミュニケーションの接続であるという事態において、何の選ぶとこもないですから、正しかろうが間違っていようが、コミュニケーションは接続する、と。地球は回るという事態ですけれどもですね。 寧ろ最終的には、多様性を許容するタイプの…僕はリベラリズムと言っていますが、リベラリズムにとてもふさわしい、適合的なコミュニケーションにつながると思います。 「この映画はこう見なきゃいけない」とか「この哲学はこう受け取らなきゃいけない」とか、そんなことがあるわけがない。…というようなことを書いたデリダとか東の本を「こう受け取らなきゃ」というところに…つまり、そういうことになっちゃうんですよ、伝道をうまくやらないと。困ったもんですね。 でも、東のこういうものが出てきたということは、政治的な意味で非常に重要なチャンスだと思います。 広い意味ではデリダだって、東だって僕に言わせればリベラリズムです。ウザいものはウザいという話なんですよ、リベラリズムというものは。「別に本人がいいって言ってるんだからいいんだよお前は」ってことなんです、簡単に言えば(笑)。 正しく理解しなきゃいけないって、分からないじゃないですか。本人がそういうふうに理解してうまくいってるんだからいいじゃねぇか別によぉ、ウインナーコーヒーだろうが何だろうがさぁ、ということですよ。 ★(石島さん:今のお話で、いわゆる文化相対主義言説の中で、ある民族が割礼をしているのをどう評価するかというので、介入するか否かという問題が出てくるわけですが、それに対してリベラリズムはどういう姿勢を取るのでしょうか。) それはそれで、いいんですよ。ただ、問題は、文化の内部で「自分は割礼は嫌だ」という人間が出てきたときに、それをどうとらえるかというところで、更に分岐があります。 僕はこう思います。「割礼は嫌だ」という人間が共同体から出て別の共同体に所属したりあるいはプータローになるということが前提で、どのような邪宗だろうが何だろうが、その共同体でそれで固執すりゃいいということですよね。抽象的に言えばそういうことです。 共同体から出れば生きていけないとか、いろんな利害関係の中で「出る」という可能性が抑止されているとすれば、リベラリストはやっぱりそれをチェックせざるをえないわけですよ。じゃあそれに端的に正当性があるかといえばそんなことはなくて、一つの価値観ですから、ただ単に逃走あるのみ。だからその共同体から逃げ出したいやつがいたら助ける、と。だからそれは共同体を批判するということとはちょっと違うということです。 それが何故難しいのかというと、共同体から出る人を無理矢理押しとどめることに問題ないというふうにその人以外の全員の人間が思っている、ある種の自由を規制する、<他者への不自由>の自由を認めないということにその人を除いて全てが合意しているという論理的に限界な事態というのがあるからです。その時には、端的に助ける、と。 それはその人の価値ですから、「こういう理由で正しい」と言う必要は全くなくて、単に奪還するとか、解放するというだけのことです。「それは邪宗だ」とか「お前ら間違っている」と言うのはもちろん勝手ですが、…そういうところにある種のゆるさがやっぱり必要なわけですよ。 リベラリズムというのも、ちょっとメタ的ではあるけれども、「様々な価値を許容せよ」という価値的な立場ですから、これは元々ゲーデル的な意味での背理があるわけです。(了) |