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■ 宮台真司、東浩紀を語る!

宮台、東浩紀の〒(郵便)本を語る その2

 少なくとも僕は、東浩紀と同じ年齢くらいの時に、東のところまでは達成できなかったんだけど、似たようなことを考えていた。「超越論的なものはない」というところまでは同じなんです。つまり、我々はいつでも間違う可能性がある。間違う可能性があるというのはどういうことかというと、間違いがあった時に…これは柄谷行人が言っていることと同じなんですけど、僕はそれを消極的予期」と言ってましたけれども、「そのようには予期していなかった」という事実を知るわけです。

 例えば、この「消極的予期」はよく「積極的予期」と見間違われていて、例えば僕達は、「明日地震がある」とは思っていないですよね。「明日地震がないと思っている」、というふうに表現を変えてしまいます。「明日地震があるとは思わない」ということと、「明日地震がないと思っている」こととは全然違うわけです。「ないと思う」というのは主題的な予期ですからポジティブですよね。意識しています。しかし「明日地震があるとは予期していない」というのはネガティブなものです。これはそのように予期していないということに気付いていません。これは期待外れ・失望があったときに初めて、どのような前提にのっかっていたのかということに気がつくわけです。

 地震のケースは、気がついたときにそれを「地震」と呼ぶことができますが、実際には、我々が使っているカテゴリーというのはほとんど普通名詞も含めてそういうものだと言うことができるわけです。

 ウィトゲンシュタイン=クリプキ=東的に言えば、「足し算とは何であるか」とか「固有名とは何であるか」という問題をあえて取り出して、理念的・超越論的なるものの背理を指摘できると言っているわけですが、普通名詞に関しても全部同じことが言えるわけです。

 何故かというと、普通名詞もあるルールに従って用いられている、つまり普通名詞の用法のルールにのっかってるわけですよ。その使い方が正しいか、例えば何を「コーヒー」と呼ぶのかということが正に足し算のルールと同じで、普通名詞の使用法のルールですから、その意味で言えば「正しい足し算をしている」ということと、「正しいコーヒーという言葉の使い方をしている」ということは論理的には全く同じことですから、結局これはポジティブには本当は言及できません。

 ただコミュニケーションのプロセスで、「えっ?それをコーヒーと言ってたの?」ということはいくらでも存在するわけです。

 こないだちょっと出しましたけど、吉幾三の笑い話というのがあるわけですよ。

 吉幾三は青森から東京に出てきたときに、喫茶店で働いていたわけだ。ある時マスターがいなくなっちゃったんで、一日中自分が店を任された。客がやってきて、メニューを見て「ウインナーコーヒーはありませんか」と言った。吉幾三ははたと考えて「聞いたことがない、しかしウインナーコーヒーと言うくらいだから、ウインナーとコーヒーのことだろう」と思って、コーヒーと、フライパンであぶったウインナーを出したら、客は何の疑いもなく食べて帰っていった。

 たまたまそれについてはね、吉幾三が「今日ウインナーコーヒーって言われたんでウインナーとコーヒーを出しときましたがそれでよかったんですか」って言って「バカヤロウ」って(笑)いうことになったんで、笑い話が成立したんですが、「ウインナーコーヒー」って普通名詞ですけどね、例えばそこで吉幾三がマスターから「違うぞ」って言われなければそこで間違いに気がつかなかった。そのまま一生を終えたかもしれませんね。客もそうです。「間違いだ」と誰かに指摘されるチャンスに出会った可能性もあるけど、出会わない可能性もありますよね。

 でもそれを考えると、全ての普通名詞がそうでしょ。つまりそれで「間違いだ」と指摘されないことによって、カテゴリーを支えている消極的予期を顕在化しないで済んでいる。その消極的予期というのはネガティブ・エクスペクテーションということで意識していませんから、何がコーヒーだと思っているのかについては、間違いが出てこない限り分からないんですよ。

 固有名だけじゃなくって、普通名詞も含めてカテゴリーは全てネガティブ・エクスペクテーションという言及不能な地平によって支えられていて、それは間違いだと指摘される、言い換えれば期待外れという端的な事態に出会った瞬間に、全体は分からないですけど、ネガティブ・エクスペクテーションのある輪郭が分かるというだけのことで、そういうことによって実はコミュニケーションが支えられているんだ、というのが僕の論文「消極的予期とコミュニケーション」というものなんですよね。

 この論文で僕が批判していたのが、クリプキの共同体という概念、これはもちろん、ある種の暫定的で、取りあえずの指示なんですけれども、大澤真幸という私の一年先輩が、それを多大に解釈して「共同体とここで彼が言っているのは第三者の審級である」(審級…三人称でしか呼べない超越論的他者(例えば神、貨幣、愛)のこと)とかいう論文を出し始めた。「『かのように』を可能にするようなメカニズムが存在する、超越論的なものは、端的には不可能であるにしても、それを可能にするかのように見せる装置が存在しないと人はそれを『かのように』とは信じないだろう」というのは僕に言わせると誤りで、そのような「かのように」と信じさせるような装置はいらない。「かのように信じさせる装置」というのがさっき述べた東が言うところの「否定神学で言う特異点」なんですよ。

 このようなものは端的に不要である、と書いた論文なんです。なかなかいい線まで言ってると思いませんか。

 それで、そこから先、東は「いつでもどこでも間違えることができるということが遡行的に超越論的なものを捏造させる」と言ったことが新しいところですけれども、前段のところまでは二十年前に僕もシステム理論という枠の中で気がつくことができました。

 「消極的予期」という概念は、実は他のシステム理論家にあるわけじゃなくて、僕がシステム理論の延長線上で単に考えてきただけのことでありますが、それは僕はシステム理論という枠で戦略的に括りますし、括って全然構わないと思うんで言っていますけれども、さっきの吉幾三のウインナーコーヒー的なるものがこの世界なんですよ(笑)。それが僕の認識であるわけです。あるいはシステム理論的認識というのは吉幾三のウインナーコーヒー的なものによって満たされたものがこの世界である。それ以外のものは、端的に言えば、あるかないか分からない。

 要するに吉幾三のウインナーコーヒー的なものがシステムのパーツですよね、簡単に言えば。あるいはそのシステム全体の同一性も吉幾三のウインナーコーヒー的なもので(笑)、どこまで行ってもそうなんですよ。簡単に言えばそういうことなんですよね。

 僕はこの吉幾三の例がすごい好きで、これはシステム理論を考える時の出発点だと思っているわけですよ。それによってコミュニケーションは回っている、と。

 下手をすれば何も齟齬が露にならないまま、ある種の偶然によって事態が推移する可能性がある。その結果、ウインナーコーヒーがある時期を境に意味を変えてしまう可能性があるわけですよね(笑)。実は、本当はそういうふうにして言葉の意味というのは変わっている可能性があるわけで、例えばよく「気のおけない仲間」という言い方を誤用の例として出しますよね。「気のおけない」の「気」というのは「隙間」という意味だから、元々は「親しい仲間」という意味だけれども、今の若い連中は「気を許せない仲間」という意味で使うようになってますよね。明らかに誤配されていますが、それで全て回ってしまっていて、異世代とコミュニケーションしていない限り、何の問題もないわけじゃないですか。通じているんです。通じているという事態でさえ、実はウインナーコーヒー的事態の外側にあるわけじゃなくて、いつ何時同世代の「気のおけない仲間」という用法が、お互い誤配されたものである、あるいは相手が誤配していると指摘しあえるものであるという可能性をいつでも抱えている。絶対に否定できない。こういうことなんです。

 否定神学批判というのは、東の一つのモチーフですよね。つまり、簡単に言えば「超越論的なものは不可能であるが可能であるかのように見せる何者かが存在する、それは言及不可能である」と。これを何故否定神学と言うかというと、元々神というのがスコラ神学の中でそのようなものと考えられていたわけです。つまり神は世界の造物主です。その中で我々は神とコミュニケーションできる、と考えるとするならば、神は外側であり、内側なんですね。しかしそこで論争が起こっていて、もし神がこの世界を作ったとするならば、神は世界の外にいるから神とはコミュニケーション不可能である。こういう議論があります。

 「いや、しかし神という概念を手にしているじゃないか」。つまり神という概念は我々の世界の中に存在してる。何故か。それはやはり神がコミュニケーション可能性を残しているというか、持っているのである。つまり世界の中にいながら外であるような特異点が神である。

 ルーマンという人はこういうことを言っていて、「このような両義的な存在を特権的に、ある暗号つまり神という特異点に集約するという思考は、唯一神的な、文化的に特異なものだ」という言い方をしているわけです。

 つまり、我々の世界には自己言及的な矛盾、言及不可能なものが満ちあふれているわけだけれども、そのような言及不可能なもの…ある種の「皺(しわ)」ですよね。これを集約して寄せて、ある場所に追い込んで、そういう総体をある特異点が担っているという思考がルーマン的に言えば「唯一神」の趣向なんですね。

 これは正にデリダ=東的に言う否定神学的な特異点に相当する。つまり不可能なものがそこに存在することによって他のものが全て一貫して可能になっている「かのように」見えてしまうというね。

 否定神学というのはもう一度簡単に言えば、超越論的には不可能だ、しかし不可能であるにもかかわらず可能である「かのように」見せる何ものか、ある装置が存在する。その装置は多くの場合彼が言う単数のゲーデル数的な特異点だと考えられている、と。

 これを否定するということは、これはシステム理論と同じ問題意識ですけれども、超越論的というのは不可能である、と。超越論的なものがある「かのように」見せる装置は存在しない、と。単に齟齬に出会わない、トラブルに出会わない、今のところ否定されていない、というだけのことに過ぎない。これがつまり否定神学的なものの否定なんですよね。

 だからその意味で言えば、実は存在論的な思考に対するアンチテーゼというのは、哲学とかデリダとかの領域を問わずして、1960〜70年代にかけて一挙に噴出した思考だと思います。フランスのデリダにおいても、アメリカのクリプキにおいても、ドイツでも、全くルーツは別ですけれども、ルーマンによって同じようなことが語られているわけですね。そうすると、これは僕はよく分からないけれども、同じ60年代という時期に、相前後するにしても、そういうタイプの存在論的なものに対するアンチテーゼが出てきたのか、ということは大変興味深いことですよね、それ自身が。

 その理由はちょっと僕には分からないんですけれども、少なくとも社会システム理論の中だけでは簡単に答えられると思います。僕は大学院時代、「記述なのか説明なのか」という話をよくやっていました。「説明」というのはそれがそこにある理由を、一義的に、ユニークに、つまり存在論的に説明することができる、存在論的に言明することができる。だから、社会学は説明はできない。あるいは社会学だけじゃなくて、複雑なシステムについて扱う言明の集合があるとすると、それはさっき言ったような一義的な存在理由や因果性の説明をするということは基本的には不可能であると。あるいは、複雑だから不可能であるという相対的な問題ももちろんあるんだけど、それ以上に社会システム理論の記述ということになると、記述自身が社会的な営みですから、自己言及をはらんだりすれば当然、論理的に不可能になってしまいますよね。

 そのような中で社会学的体系があるとすれば、一義的な説明を放棄するしかない。たまたまそれがあるという記述ですけれども、どこまで行っても記述でしかなく、記述に記述を繋げていくという記述の連鎖があるという事実以外のことはあり得ないという認識です。

 だからそれは、社会というものの複雑性が、例えば自己言及的な構造を含めて認識されるようになるということを契機としていますよね。

 多分哲学で言えば、これは想像でしかないけれども、ウィトゲンシュタインが大きいと思うんです、何だかんだ言っても。ウィトゲンシュタインが前期から後期へ移り変わる時に、彼が直面していたであろうと想像される問題に対する考察が、多くの人間に共有されることになった。そこに多くのきっかけがあるだろうと思います。

 それで言えば、ウィトゲンシュタインと社会システム理論とは、やや共通のベースがあって、僕は前から言っていますけれども、やっぱりゲーデル的な問題…言及される対象に言及する側が含まれているという事態に意識的に直面することができた。その事態、つまりトートロジーとかゲーデル数的と言われるような決定不能な命題、特異点をどう評価するのか、どう理解するのかという問題に共通して哲学も社会システム理論も出会ったと。そこから先の解釈、解答の出し方は、いくつかのパターンがあったと思うんですが、そのうち比較的理論的に強力なものとして広大に評価されるものになったのは、結局同じような分岐です。超越論的なものがあるかのように、つまりそういう事態を可能にする装置があると言わなくてはいけないのか、言わなくてもいいのかという点で、同じように分岐が存在するということです。

 ★(石島さん:何故宮台さんはお話の中で時間性というのを重視するのですか?)

 さっき「システムがうまく回る」という言い方をしましたよね。そういう事態はシステム理論で「持続」と言いますが、さっき言ったように何が持続しているのかということは視点相関的だから、存在論的には言えないんですが、取りあえず言えば、システムが存続、持続するという事態がうまく回るということですね。

 したがって、実は論理的・無時間的に言及関係を見ていくと、ゲーデル数的なもの、自己言及的なもの、決定不可能なものが存在すると考えざるをえない。という言い方は「それはそうだ」ということに過ぎないわけで、それは冒頭の話と結びつくわけですが、「何かが続く」という事態にとっては、そういう論理的な一貫性というのは寧ろ必要がないと。必要がないという意味は、理由があるからじゃなくて、そういうふうに世界はできている、と。論理的に、無時間的に一貫したものが回転するというふうには、この世界はできていない。これは「説明」と「記述」の違いにも関わってきます。

 この世界は、存在論的には理解できないという出発点とほぼ等しいものなんです。だから存在論的には理解できないということをいろいろな形でブレーク・ダウンする時に、もっとも分かりやすいブレーク・ダウンの仕方は、時間性という概念を導入してくることだと。「存続する、うまく回る」という事態の元では事態が成り立つという、これも一つの機能ですけれども、そういうフレームから見ていくと、それが何であるのか、あるいは何であるのかが決定できるかできないかっていう問題は、さして、あるいは全く重要ではないという、こういう考え方です。

 それは理由があるということではなく、「世界はそのようにできている」という思考の出発点がある。だから、システム理論をやっていると主張する人の中に、実はパラドックスとか自己言及あるいはゲーデル数的なもの、あるいはデリダで言うところの代補的なもの、あるいはクレタ島人のパラドックス的なものを重視する人と重視しない人がいる。デリダは途中から重視しなくなった。ルーマンは当初から全く重視しない。何であるかについて決定できないということはどうでもいい。決定できなくても事態は進む、つまりコミュニケーションは継続するし、出来事は起こる。これは根元的な世界観です。

 しかし東浩紀が、それがさも新し気に言っているとするならばやや問題があるかのような…。ということです。

 ★(石島さん:否定神学的言説は、この言説世界には満ちあふれている、とさっきおっしゃったと思うのですが…)

 だから例えば、宮台インターネット掲示板(世紀末的宮台BBS)で、東さんの高校時代のお友達が、「宮台氏が『ニーチェ的な瞬間の再来は語り得ない』と言ってしまうところは優れて否定神学的です」と書いてますが、これは違うわけです。

 例えば、論理的に無時間な言及関係を考えれば、「語り得ないものが存在する」ということは、デリダも、ルーマンも、東も僕も、誰もが認める端的な事実です。しかしそれが何であるのか、つまりその言及できないものの存在………

     (テープ切れ。B面へと続きますです)

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