宮台真司からの近況報告です。更新はセンセの忙しさ次第で不定期?
Message from ミヤダイ |
2003年10月23日
(前回の書き込みは10月19日です)
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姜尚中・宮台真司『挑発する知』双風舎の、まえがき
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【本書の成立経緯】
■本書は、姜尚中さんと私・宮台が、二〇〇三年六月から八月にかけて行なった三回のトー
ク・セッションを、若干の加筆修正の上、成書化したものです(六月二九日・三省堂神保
町店、七月一九日・青山ブックセンター青山店、八月二四日・リブロ池袋店)。
■テーマは「ナショナリズムをどう評価するか」。第1章と第2章が、昨今の戦争をナショ
ナリズムとの関連でどう考えるか。第3章と第4章が、ナショナリズムをめぐる思想をど
う考えるか。第5章と第6章が、学問人がメディアと関わることをどう考えるか、です。
■経緯は、双風舎の社長・谷川茂さんがかつて在籍した教育史料出版会の複数の書物に姜
さんと私が執筆していた機縁で、谷川さんから「二人の立場が対照的に見えるのでトーク
対決してほしい」と依頼されたことです。第一印象は「おそれおおいな」というものです。
■姜さんの近著『反ナショナリズム』『ナショナリズムの克服』(後者は森巣博さんとの
共著)を読むと、ポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズの路線に則って
「国民国家」の幻想性を糾弾していらっしゃり、確かに私の立場と違うと思えました。
■私の立場は、国民国家の幻想性は、今や「新しい歴史教科書をつくる会」の面々でさえ
踏まえる常識であり、むしろそれを踏まえた上、市民の利益になるように国家を操縦する
べく、国家に徹底的にコミットする意欲をかき立てることこそが必要だ、というものです。
■拙著から私の立場をご存じの谷川茂さんは、私が丸山真男の大きな影響を受けているこ
とから「丸山論や戦後論にまで拡げてトークしてみたらどうか」、二人ともテレビに登場
することから「メディア論も含めてみたらどうか」と、おいしい話を持ちかけてきました。
■一回で二時間、三回で合計六時間のトークは、これらの話題を包括するにはどう考えて
も短すぎるように思えましたが、姜さんも私も執筆機会が多いので補足は後で幾らでもで
きると考え、また何よりも姜さんとお話しさせていただける光栄さゆえに、承諾しました。
【姜さんとの個人的関係】
■私が姜さんに興味を抱いたのは一二年前。九一年度から九二年度までの二年間、私は東
京外国語大学に勤務していました。そこで私のゼミに入ってきた男子学生が、その前に国
際基督教大学で姜さんのゼミに所属していた機縁で、彼から姜さんの話をよく伺いました。
■彼は私のゼミに所属しながら姜さんのゼミにも出入りし続けていて、「向こうのゼミで
は今何やってるの」とモニターしていました(笑)。マックス・ウェーバーを原書で丹念
に読み込むゼミをしていらっしゃったようで、私も出席したいなと思った記憶があります。
■だから私にとって、そのころの姜さんは、マックス・ウェーバーやフランクフルト学派
などのドイツ社会思想の泰斗というイメージでした。私の専攻は社会システム理論ですが、
社会思想史に大きな興味を抱いてきたので、姜さんの言動に注目してきた経緯があります。
■二〇世紀最後の年、私は当時妻だったジャーナリストの速水由紀子と、4姜さんの研究室
を東大に尋ねて話を伺いました。その後ドイツのデュッセルドルフから姜さんと私に講演
依頼が来たのを、私が多忙だったので、代わりに速水が出席したということもありました。
■その少し前ぐらいからだったと思いますが、姜さんがマスコミ、とりわけテレビで、在
日の問題、対北朝鮮外交の問題、政局の問題などについて積極的に発言するようになられ
ました。そのせいで、学問の世界以外の人たちにも広く知られるようになりました。
■本文でも申し上げている通り、単なるチンピラではなく、徹底的に学問を修めてきた方
が、学問の世界の外側にいる人たちにメッセージを分かりやすく伝えることが重要だと考
えてきた私は、僭越ながら、姜さんのご活躍をとても嬉しく、かつ頼もしく思いました。
■実を言うと少しほっとしたのもあります。理論分野で博士号を取ったとはいえ、その後
あれこれメディアで発言をしてきた私のことを、姜さんは軽蔑しているんじゃないかと恐
れていました。それが、姜さんだって『朝生』に出てるじゃないかと、救われたわけです。
【「リベラルアート」対「制御の学」】
■さて、実際にトークしてみると、思想内容が先鋭に対立するというよりも、戦略的な力
点の置き方がやや違うという感じになりました。もしかすると、姜さんが、浅学非才の身
である私のことを思いやってくださったのかなとも思います。実に申し訳ない気持ちです。
■ただ振り返ると、元々私は「国民国家の閉鎖的な幻想性を解除せよ」との主張に反対し
ておらず、それを前提に「国民国家の閉鎖性を解除するべく国家の操縦に徹底コミットせ
よ」という主張こそが「今は必要だ」と言ってるのだから、妥当な形かもしれません。
■皆さん考えてみてください。最近の姜さんの活動と私の活動はそっくりです。テレビな
どのメディアで本をあまり読まない人たちに向けても語りかけ、国会の参考人質疑に呼ば
れて議員さんたちにあれこれと語りかける。まさしく国家の操縦へのコミットメントです。
■それを踏まえて、聞きそびれた感のあることを、お伺いしたい感じもします。「国家の
幻想性を認識せよ」という主張と、「幻想的な国家を操縦せよ」という主張とでは、明ら
かに主張の目的が違います。前者は「認識」が目的であり、後者は「操縦」が目的です。
■さらに立ち入れば、前者は目的プログラムであり、認識を通じて「森羅万象の本質や抽
象的普遍へと到達する」ことを目的とします。後者はif-then的な条件プログラムに過ぎず、
「与えられた環境で最適化ないし満足化をめざすなら、こうせよ」と仮言命令を発します。
■東浩紀さんが論じていた記憶がありますが(『誤状況論』)、前者は中世ヨーロッパの
大学に、従ってイスラムやギリシアの学問に遡る自由学芸(リベラルアート)の伝統です。
後者は一八世紀末の産業革命以降に展開する制御の学(エンジニアリング)の伝統です。
■私が専攻する社会システム理論も制御の学をルーツとして二〇世紀半ばから発展します。
システム理論を基礎とする社会学的啓蒙の構想も、庶民の生活の知恵から、かつてのリベ
ラルアートの領域まで、全てを妥当な条件プログラム(if-then文)で覆おうとします。
■さらにシステム理論の背後には機能主義があり、真理を含めた全ての「内容」の向こう
側に、機能を果たすという「形式」を見出します。例えば社会システム理論は「リベラル
アートは真実性によってというより機能によって社会的に要求されていた」と記述します。
■その上でシステム理論は、そうした機能に基づく記述(制御の学的な条件プログラム)
への需要が、ある時期以降、真理性に基づく記述(リベラルアート的な目的プログラム)
への需要を上回る時期が来ると考え、機能的記述の社会的機能に自己言及するのです。
■私見では真理性に基づく記述(リベラルアート的な目的プログラム)よりも、機能に基
づく記述(制御の学的な条件プログラム)の方がトタリテート(全体性)において優位な
──梯子を外されにい──時代になったと思うのですが、姜さんはどう思われるでしょう。
【言説のトタリテートを回復するために】
■これは私の創見ではなく、私が大きな影響を受けたドイツの社会システム理論家ニクラ
ス・ルーマンが約四十年前から提唱してきた見解です。こうした見解に対するリベラルアー
ト側からの抵抗がなされてハバーマス・ルーマン論争に発展したという経緯があります。
■ブントの政治活動家でもあった哲学者廣松渉に心酔していた二十五年前の私は、廣松渉
から「この論争はルーマンの勝ちだ」と言明されました。彼の政治活動家(条件プログラ
ム家)たる一面の露呈とも言えますが、この一件が私をシステム理論家と方向づけました。
■各方面で顰蹙を買っている私的見解ですが、かつての師匠廣松渉は、言説の真理性より
もむしろ機能(政治的効果を含めて)を優位させていました。機能を優先させるがゆえに
こそ、真理性の過剰な追求がなされたという「胡散臭さ」が、廣松渉には確かにあります。
■政治主義の優位ということなら単なる胡散臭さで片付けられますが、真理性に基づく内
容的記述(目的プログラム)よりも機能に基づく形式的記述(条件プログラム)の方がト
タリテートにおいて優位たらざるをえない社会的段階に達したというのが、私の考えです。
■そういう社会的段階に達したとは、具体的にいえば「社会的複雑性の増大」のことです。
真理性を支えていた単一の文脈が崩れ、真理の文脈依存性が露わになればなるほど、文脈
を限定した上での(=if文)真理性の言明(=then文)にならざるを得ない道理でしょう。
■さらに言えば各領域で生じている「タコツボ化」もそこから説明できます。多くの人が
いまだにナイーブに真理性に寄りかかろうとするので、真理性を支える社会的文脈の分岐
から、自動的にローカルな内輪のコミュニケーションに終始せざるを得なくなるのだ、と。
■そこで、先ほどよりも強い主張なのですが、アカデミックな言明が、かつてのリベラル
アート同様のトタリテートを獲得しようと思えば、システム理論的な「機能に基づく形式
的記述(条件プログラム)」へと移行することが不可欠だと思うのですが、どうでしょう。
■かつても今も、制御の学といえば、トタリテートとは無縁な、部分学──対症療法的な
学問──だと思われています。でも制御の学から発展した社会システム理論は、制御の学
を包括するはずのリベラルアートをさらに包括することを構想します。その可能性や如何。 |
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