年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2012年版が『週刊読書人』に掲載されます。中心的主題は民主制。
皆さんお待ちかね、年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台真司」鼎談2012年版が『週刊読書人』に間もなく掲載されます。例によって宮台発言の一部をピックアップしておきます。今回は民主制の危機が中心的な主題でした。
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【宮台】『熟議が壊れるとき』は重要です。サンスティーンは「集団的極端化」を論じます。みんなで決めることでかえって極端な議論になること。ネトウヨ化現象やアメリカのティーパーティ運動を含めた共和党化現象が好例です。彼は集合的極端化が起こるのは二つの条件が重なるからだとします。第一は承認を求めるコミュニケーション。ミドルクラスの空洞化で人々が絶えず承認を求めて右往左往する状況です。
1950年代に『孤独な群衆』を著したデヴィット・リースマンが共同体空洞化で剥き出しになった個人を描いたのを想起させます。同時期のジョセフ・クラッパーは「限定効果説」で、ポール・ラザースフェルトは「二段の流れ説」で、マスコミ情報が個人を直撃するかわりに対人ネットワークや小集団を緩衝装置としてきた事実を実証します。サンスティーンはこの伝統の上にあります。
第二の条件は不完全情報。情報が不完全な領域では過激なことを言う人ほど堂々として潔く見えます。これら二つの条件が重なると、情報が不完全な領域で、共同体空洞化を背景に、不安で鬱屈した人々が、承認を求めて過激なことを言い募り、これに同調しないとヘタレに見えるので周囲の人々が同調します。
集団的極端化を避ける処方箋ですが、共同体空洞化やミドルクラスの分解を手当てするのは困難です。そこで熟議型世論調査の提案で知られるフィッシュキンの言う、熟議を通じた完全情報化を提案します。熟議を通じた完全情報化によって、過激な物言いによるヘタレのポジション取りの可能性をつぶすわけです。
熟議は単なる長時間討議ではない。アクセル・ホネットの言葉で言えば「地平を切り開く討議」。つまり事実認識や価値評価のフレーム自体が変わるような討議です。フィッシュキンは、そのために一定の仕掛けが必要だと言います。有能なファシリテーターを設定し、複数の論点毎に立場の違う専門家らに対論させること。これに耳を傾けた上で最後は専門家を排して住民同士が話し合い、票を投じる(世論調査に答える)。昨今の医療におけるインフォームドコンセントとセカンドオピニオンの結びつきに似ています。
この場合、第一に、学会の多数少数に囚われてはいけない。権益が関連するからです。実際、日本の原子力関連学会では資金権益を背景に原発推進派が圧倒的主流です。第二に、誰をファシリテーターにするか、誰を専門家として呼ぶかを官僚に任せてはいけない。日本の審議会では官僚が専門家を人選した段階でシナリオが決まります。中立性を信頼された人や機関が必要になります。
サンスティーンが注目していますが、フィッシュキンの実証研究によれば、同性婚についてであれ犯罪重罰化についてであれ、主題に関係なく、熟議を経た世論調査ないし投票では、熟議を経ない世論調査や投票と比べて必ずリベラル方向にシフトします。過激な物言いでのヘタレのポジション取りを塞ぐからです。
彼らの議論は、苅部さんがご専門の丸山眞男が仮説的に述べたことです。民主制が健全に機能するには、個人の自立が必要で、個人が自立するには、共同体の自立が必要だと。丸山はイギリスのヨーマン層を参照しますが、一般にトックヴィル主義と呼ばれる枠組です。丸山は、日本では共同体が国家に依存するが故に、個人の自立が妨げられ、民主制が全体主義的に機能するのだとします。依存的共同体から生み出された依存的個人が、抑鬱感情を抱きかつ知識社会から排除されていると、軍事や外交などで「やっちまえ!」と噴き上がる。丸山はそうした日本をとりわけアングロサクソン社会より後進的だと考えていました。
でも、グローバル化を背景にミドルクラスが分解すると、共同体空洞化が進み、依存的共同体から生み出された依存的個人が、ポピュリズムに動員されやすくなります。今や先進国に共通の現象です。これらは、一方で承認を求めて「やっちまえ!」的な<釣られ層>になり、他方で何かというと周囲に敵を見出す<クレージークレーマー層>になって、民主制はダメになります。[グローバル化⇒ミドルクラス分解⇒共同体空洞化⇒剥き出しの個人⇒承認と敵を求めて右往左往⇒民主制の機能不全化]。『熟議が壊れるとき』の議論はそうした含意です。要は、民主制が健全に機能するには前提が必要で、昨今の前提の脆弱化ゆえに熟議による完全情報化と分断克服が必要だと言うのです。
【宮台】渡辺さんが最初におっしゃったことに関連して、昨今の先進各国には政策的パッケージ化現象が生じます。一方に[外交は強硬派、内政は自助重視、意志決定はトップダウン、効率志向]というパッケージがあり、他方に[外交はリベラル、内政では共助公助重視、意志決定は熟議、多様性志向]というパッケージがあります。先進各国を覆うポピュリスティックな立場は前者のパッケージ。グローバル化で格差化と貧困化が進むと分厚くなります。これは不完全情報状態を放置した決定になりがちで、いずれは国益を損なう。だから後者のパッケージを有力化する為の工夫が必要で、そのための制度的工夫が熟議を通じた完全情報化と分断克服だというのがフィッシュキン&サンスティーンです。
原発についてもTPPについてもこうしたパッケージを理解した上で考えないといけません。個人的なことを申し上げると、僕は原発賛成から反対に変わり、TPP賛成から反対に変わりました。不完全情報の状態から脱したことが理由です。原発については三年前にデンマークにCOP15の取材に出かけた頃までは、欧米のディープエコロジストの大勢に倣って原発賛成でした。蓄電池技術とスマートグリッド技術が高度化するまでは再生可能エネルギーの不安定さを克服するための二酸化炭素を出さない安定した電源として、原子力が必要だと。ところが各国と違って日本だけが「絶対安全神話」「全量再処理神話」「原発安価神話」の<フィクションの繭>の中にいることが分かった。これでは「なんとかに刃物」「ブレーキのない車」です。日本は「技術の社会的制御」ができない原発禁治産国です。
TPPも同じ。日本の農政だけが価格支持政策を採用し、所得支持政策を採用していない。所得支持政策だけが大規模効率化に繋がるのに。これを妨げているのがJA(農協)。農協の最重要事業である農林中金は零細農家に農機具を貸し付けて儲けます。だから大規模化で10ヘクタールに1台のトラクターになるより、1ヘクタールに1台のトラクターのままの方が良い。僕はずっとこうした不合理を批判してきましたが、一向に変わらない。ならばアメリカの力を借りた方が良いのではないかと思ったわけですが、ふと思い出した。
80年代後半に農産物自由化交渉がなされ、続く日米構造障壁協議で年次改革要望書スキームができあがった。かくして農産物輸入自由化、大規模店舗規制法緩和、文部省トロン配布中止、430兆円公共事業と米国企業参入が決まり、その後も、建築基準法緩和と米国輸入木材建築解禁、郵政民営化と米国金融機関参入、司法近代化と参審制などが続きます。当初アメリカが使ったのは日本の消費者利益のためという理屈。「これだけ手帳」の竹村健一が繰り返しテレビに出てアメリカは消費者の味方だと喧伝します。常識的に考えてアメリカが日本の消費者利益を考えるはずもなく、上下両院合計3万人のロビイストを背景にした市場拡大と雇用拡大を狙っただけ。流通合理化は既得権を移動させるので日本自力ではできない。その弱みを突いてきた。アメリカは国益増大のために当然の戦略を採っただけです。
TPPも同じ図式なんですよ。日本の農業は都市住民向けの野菜や果物では効率化を遂げましたが、それでも稲作を中心に巨大な非効率が価格支持政策を支えとして残り、それを集票装置としてのJA=農協が支える。かつてWTOの農水側の交渉役だった山下一仁氏らがこれを批判し、僕もマル激や講演でこうした批判を応援してきた。なのに民主党に政権交代しても農業構造改革を完遂できない。ならばアメリカの力を借りよう。僕もそう考えたのですが、そこで何かに似ていると思い出した。重要なのは、日本が自力で既得権益移動を伴う産業構造改革が出来たなら、30年前も今回も「アメリカの助けを借りずに=アメリカに弱みを突かれずに」済んだこと。繰り返すと、これは陰謀でも何でもない。日本が自力で合理的な全体改革ができないことを、かなり以前からアメリカが戦略的に利用しようと考えただけ。それに気付かない日本がダメなのです。
昨今はウィキリークスでTPPの秘密交渉の一部が漏れたのもあり、アメリカの狙いが年間11兆円を超える著作権収入にあることが分かってきた。農産物で獲得できる外貨よりもずっと多い。著作権法制の厳格化――具体的には刑事罰化と非親告罪化――によってコミケのような二次利用市場を完全に潰し、著作権収入で唯一「出超」を誇るアメリカの輸出収入を激増させることを狙う。直前に話題になったACTA(反偽造通商協定)とワンセット。アメリカの狙いに気付いた欧州議会は9割以上の圧倒的多数でACTA批准を否決したけど、日本の国会を何の議論もなく通りました。農業要求は噛ませ犬で「農業分野で譲るから著作権分野で譲れ」と来るだろうと思います。
【宮台】尖閣問題は「前原問題」です。主権争いは意志貫徹の鍔迫り合いだから戦争だけが解決策です。戦争回避には主権棚上げ以外ない。実際、一九七二年の日中共同声明、鄧小平声明、日中漁業協定と、三段階を通じて確認されたのは、(1)主権は棚上げ、(2)施政権は日本、(3)将来的な共同開発。日本に圧倒的に有利な枠組で、これを一方的に破棄したのが当時の前原国交大臣。利を得たのは中国海軍などの強硬派です。彼らによれば、電撃的に占領してしまえば良い。安保条約上アメリカが「義務」を追うのは日本の実効支配の範囲に限定されるし(中国が占領すれば中国の実効支配)、第五条を読むとアメリカは実は「義務」さえ負ってないし、アメリカは尖閣を日本の領土とすら認めていない、という話です。
昨年『日本の国境問題』(筑摩書房)を出した孫崎享さんが今年は『不愉快な現実―中国の大国化、米国の戦略転換』(講談社)と『戦後史の正体1945-2012』(創元社)を出されたけど、彼も指摘する通り、竹島問題はその帰属をアメリカが決めると定めた「ポツダム宣言問題」だし、北方領土問題は日本に南千島(国後と択捉)を含む千島を放棄させた「サンフランシスコ講話条約問題」です。(1)畢竟日米問題であるものを、アメリカに何も言わずに周辺国に吠えたところでどうにもならないし、(2)外交概念として無意味な「固有の領土」云々より、直前までの条約や協定の積み重ねに専ら意味がある。それが外交です。
【宮台】パブリック・ディプロマシーは「民意の要求に応じた外交」でなく「民意を取り道具として使う外交」です。政府は自国民の強硬世論に縛られるし、強硬世論を宥めれば相手国政府に恩を売れる。政府が相手国民の強硬世論の火をつければ相手国政府はそれに縛られるし、相手国民の世論を宥和すれば相手国政府のフリーハンドを増やせる。パブリック・ディプロマシーの適切化には政府と自国民との距離が大切です。尖閣問題での中国政府からのメッセージ発信は外務補佐官止り。人民日報が強硬論で覆われても胡錦濤国家主席や温家宝首相が上書き出来る体制を維持しました。日本は外相や首相まで「断固!決然!」大合唱で「弱い犬ほどよく吠える」状態でした。
後期近代社会では、企業は消費者のニーズに応えるだけではジリ貧化を免れず、国家は国民の世論に応えるだけではジリ貧化を免れません。アメリカは、北朝鮮から朝鮮戦争戦没兵士の骨を返して貰った際、日本での横田めぐみさんの一件と同様に骨が偽物だと気付きましたが、国民に伏せた上で「黙って置くから、本物を返したら、援助をする」と取引きし、本物の骨を取り返した。テーブルの上でのゲームとは別に、テーブルの下でサインを送り合うのが外交です。この基本が出来て初めてパブリック・ディプロマシーを最適化できます。
【宮台】国会前デモはピーク時20万人が現在は2千人。だからデモは無効との議論もある。でも内閣官房の役人に聞くと官邸内や国会議員には大きな影響を与えました。当初は、総合資源エネルギー調査会基本問題委員会が答申した四選択肢のうち、原発15%が新エネルギー政策に盛られる見込みだったのが、9月14日のエネルギー環境会議で「2030年代に原発ゼロを可能とする」との新戦略が設定された背景には(3日後に「参考にしながら進める」と格下げ扱いになったものの)デモが作り出した圧倒的空気があったそうです。
でも自画自賛でなく、デモの機能をもっと高める工夫や、どのみち鎮静化するデモを引き継ぐ戦略の、検討が必要です。その点、僕も脱原発の趣旨では足りないと思う。欧州では「スローフード」が有機野菜などの食材選択より「食の共同体自治」の問題であるように、「脱原発」も電源選択より「エネルギーの共同体自治」の問題です。要は原発は共同体自治を中核とする民主主義に相応しくないのです。ドイツ「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の議論はこうです。原発は「規定不能なリスク」を抱えるから、それを引き受ける決定は「後は野となれ山となれ」と決定したのと同じで非倫理的だ。共同体が他に類を及ぼさない限りで「未規定なリスク」を引き受けることはあり得るが、原発災害は範囲もまた規定不能だと。委員会に参加した神学者の文章でも鍵概念は「後は野となれ山となれ」。単なる科学的合理性を超えた、どんな社会を作るべきかという「価値の話」になっています。他方の日本のデモは脱原発を掲げた後「価値の話」に繋がらない。選挙の争点にもならない。
【宮台】ニコ生での彼との対談を見れば[坂口恭平さんの]魅力が分かります。ひと言でカブキ者。頭が良くて合理的計算ができるが、それだけじゃ越えられない壁があることを弁えてトリックスターとして振る舞う。僕は初期ギリシアに賞揚されたミメーシス(模倣的感染)をよく持ち出しますが、彼は感染の大切さを知った上で感染を惹起できる稀有な人物。社会には感染なくして超えられないボーダーがあります。社会学者ウェーバーが社会の始源にカリスマ的支配を置き、デュルケムが集合的沸騰を置くのも同じ問題です。
平たく言えば、祭りのフュージョンがあれば抜本的に新しいフレームにシフトできる。いわば一宿一飯。坂口君は知っている。ホームレスのことを思いやれと言われても言葉以上のことは簡単にできない。ボーダーが想像力の働きを妨げるからです。でもボーダーがフューズする非合理=非日常の時間空間を共有すると想像力が拡張し、かかる出来事があったという事実性が後のコミュニケーションに前提を与える。合理に還元できないこうした事実性は、シャンタル・ムフなどラディカル・デモクラシー論者も注目するところです。
祝祭的フュージョンは、学園闘争を踏まえて七〇年代以降に展開する「新しい社会運動」論的にも大切です。生産点での階級闘争運動から、消費点での女性運動・共同購入運動・反原発運動・貧困撲滅運動へ。当事者の異議申し立てから、非当事者の祝祭的巻き込みへ。いわば「楽しいから参加すること」の肯定へ。それがとりわけ重要になったのは八〇年代。アングロサクソン社会の過剰市場化による中間層分解と郊外空洞化を背景に、同時期、アメリカのサウンブロンクスでヒップホップが、イギリスでレイブ(セカンド・サマー・オブ・ラブ)が、ドイツでスクワッティングが拡がる。これは「新しい社会運動」の本質である<我有化>運動です。街を我々のものに取り戻す。<我有化>には祝祭が必要です。
これは反差別など公民権運動とは異質です。むしろ公民権運動の成果で、黒人の一部が白人化した結果、黒人内部に分断線が走る。沖縄が本土並み化した結果、沖縄内部に分断線が走る。地方参政権化した結果、在日コリアン内部に分断が走る。部落差別を知らない人が増えた結果、被差別民内部に分断線が走る。<共同体空洞化による我々の忘却>に加えてこうした<平準化による我々の忘却>に抗う。それが<我有化>、つまり我々を、自分達を、取り戻す運動です。坂口君の営みは一般ピープルによる稀有な<我有化>運動だと思います。
【宮台】同感。朝日新聞に萱野稔人君を持ち上げる記事が出ました(逆風満風 11.3)。僕の発言が記事の最後に載っています。記者から「あえてアドバイスしたいことは?」と問われて、僕が『朝まで生テレビ』に毎回出演していた時代を思い出しつつ、マスコミに使われるなと言いました。マスコミに出るなら、マスコミを使って社会を革命するという心意気が大切です。そこではやはり感染がポイント。感染は、語りの内容的妥当性に還元できません。規定不能な要因によって感染可能性が生じます。感染力の減衰を感じたら直ちに撤退し、俗情に媚びることによる延命を回避せよ。それが僕からのメッセージです
もっとも最近は語りの内容的妥当性にも問題があります。それぞれのイシューについてもっと深い議論ができる人が多数思いつくのに、若手というだけでマスコミに呼ばれる。背景にはマスメディアがインターネットユーザーに媚びることで延命しようという浅ましい戦略があります。「若手論者はマスコミに媚びず、マスコミを操れ」に擬えれば「マスコミはネットに媚びず、ネットを操れ」ですが、マスコミにはその能力がありません。そうした末期症状のマスコミ的俗情に媚びると、見えるはずのものが全く見えなくなります。僕は長年、自分が企画段階から関われない限りテレビに出演しないことを決めています。マスコミ的人選の出鱈目や、既に決まった愚昧な構成台本へのハメコミは笑止です。
【宮台】著者[『高校紛争』の著者・小林哲夫さん]は編集職の社会人で僕の私塾に在籍しますが、重要な本です。デモに関連して「新しい社会運動」に触れましたが、僕なりに言えば「新しい社会運動」の本質はフュージョンを通じた<我有化>です。<我有化>とは分断線を乗り越えて<我々>に包摂していくこと。ただし新しい分断線を引いて終わり、でなく、<我々>を拡張していく。社会にはいろんな問題があります。当事者は別にして非当事者にとって、なぜ他の問題たちではなくその問題が一番大切なのかと問われて、クリアな答えは難しい。差別をとっても、男女差別、民族差別、学歴差別、非正規雇用差別などいろいろあるからです。
分断線を乗り越えて<我々>を拡張する。そうした<我有化>としての「新しい社会運動」の出発点が学園闘争です。僕が麻布学園で直接体験した中学高校紛争も<我有化>でした。思想やイデオロギーは口実だった。「結局お祭りをしたかっただけだろう?」と言われ、そのことを長らく否定的に捉えていたけど、今は逆。思想やイデオロギーが口実に過ぎない<我有化>の運動だからこそ、高校紛争を再評価すべきなのです。僕自身、今は<我有化>を<共同体自治>とパラフレーズしつつ住民投票運動を実践しています。これは投票に先立つワークショップや公開討論会などに力点を置いた熟議の運動で、目的は、<参加>による<フィクションの繭破り>と、<包摂>による<分断線の克服>です。
【宮台】七〇年前後までは論壇が存在しました。大御所が誰なのか共通了解があり、アカデミズムの重鎮が語りました。その人が喋れば反対の人も賛成の人もそれを踏まえて議論した。人だけじゃない。思想についても、賛否の別はあれ誰もがマルクス主義を踏まえて議論した。トピックについても、賛否の別はあれ誰もがベトナム戦争を踏まえて議論した。社会学者のニクラス・ルーマンはそれを「対立は統合の証」と言います。統合とは共通前提の存在です。共通前提が希薄になった現在は、内輪での議論に終わるか、広い全体に届けるための共通前提構築に膨大なコストをかけるかになっています。いずれにせよ社会成員全体を拘束する決定に向けた動員に経済学で言う高い取引コストがかかるのです。
僕らのように社会科学系アカデミズムにいれば、先進国が共通に[グローバル化⇒格差化&貧困化⇒不安&鬱屈⇒承認&カタルシス追求⇒ポピュリズム的極端化⇒民主制機能不全]という否定的状況を抱えるのは自明で、フィッシュキンやサンスティーンの名を出すまでもなく、対処を迫られる切実な問題を久々に共有している感覚があります。ところがお二方がおっしゃるように「この人が知識人だ」という共通前提がとうに失われて分断があるため、社会全体でいえばフィッシュキンもサンスティーンも殆どの人が名を知らない。丸山の「ササラ型」という類型化を思い出すけど、分断された知的プラットフォームをITを味方につけながら再構築するしかないように思います。この鼎談もその努力ですね。
【宮台】将来不安ゆえに、本当は実利にも繋がらないのに、実利的に見えるものに向かいます。資格取得とか実践語学とかが分厚い大学に行くように、教員や親も勧める。こうした親や教員や子供のニーズに応じていては駄目です。そこで踏まえたいのが昨年触れたアップル故スティーブ・ジョブズ。「Think Different」のスローガンの意訳は「みんなは間違ってる」。ジョブズはニーズに応じることを愚昧だとし、スペック競争をせずに機能をそぎ落とした。さもないと俗情に媚びたニーズ適応競争に巻き込まれる。だからニーズの逆を行くのです。
同じことが大学にも言えます。大学の役割はもともと社会を担う枢要なエリートたる資質を身につけさせること。畢竟、成長してもらう為の場所。トラブル、困難、ノイズ、不合理、不条理⋯。そうしたものに出会い、乗り越えて成長した者以外は、エリートの名に値しない。ところが、人は普通トラブルも不条理も要求(need)しません。だから人々のニーズにマッチした環境では成長はあり得ない。その意味で、分かりやすい講義を求める学生らのニーズに応えるのも程々にした方が良いのです。
35年前の学部生時代に僕は橋爪大三郎さんが立ち上げた社会学の研究会(言語研究会)に出たところ、一割も理解できませんでした。橋爪さんに相談したら、半年すれば慣れるから大丈夫ですと。そうなった(笑)。僕は今の学生たちに同じことを言います。分かることだけを学べば成長は遅い。分からないことを必死で分かろうとするからグングン成長する。騙されたと思って半年我慢しろ。面白いように分かるようになる。僕がニーズに応じて分かりやすい授業をしたら到達点は数分の一だと。何事においてもニーズに応じていたら縮小再生産です。
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