皆さんお待ちかね、年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談が『週刊読書人』に間もなく掲載されます。例によって宮台発言の一部をピックアップしておきます。
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【宮台】震災前に書いた拙論「日本社会の再設計に必要な思考」が、震災直後に出た『朝日ジャーナル』(特集・日本破壊計画)に載りました。日本は既に終っているから再設計せよという話。当時は菅政権が末期状態でしたが、政治的混乱の原因を(1)総理の資質、(2)党の性格、(3)政治文化のどれかに帰属させる議論が専らだった中、(4)先進各国の共通の危機に起因すると考えろと論じた。ポイントは「グローバル化と民主主義の両立不能」です。グローバル化=資本移動自由化が進むと市場も国家もうまく機能しなくなり、民衆が不安に陥る。するとポピュリズムが席巻し、グローバル化への適切な対処から遠ざかります。新興国に追いつかれる産業領域では利潤率均等化の法則通り労働分配率が低下し、格差が拡大するから、産業構造改革と財政出動と増税が必要だけれど、既得権が脅かされると不安がる民衆が抵抗します。こうした各国共通事情を踏まえて、政治風土や党内ガバナンスや総理の資質を考えるべきなのに、スルーする議論ばかり。出版が震災後だった御蔭で多くの人に理解して貰えました。グローバル化と高度技術化が進んだ今、どの国も震災や原発災害の如き非常事態に対処できる統治形態にシフトすべきですが、日本はそうしたシフトがない。ウルリッヒ・ベックがチェルノブイリ事故の86年に出した『危険社会』(法政大学出版会)で、予測不能・計測不能・収拾不能なので利得期待値を計算できない未規定なリスクが、現代を覆うとしました。これにも日本は向き合わず、政府の委員会では未だに期待値計算をしている。ドイツの原子力倫理委員会が、期待値計算が不能な領域を「残余のリスク」として概念化したのと、対照的です。日本でのベック・ブームは何だったのか。
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【宮台】そう。さて「グローバル化と民主主義の両立不能性」と言ったけど、そもそも日本に民主主義があったのか。政治過程論や投票行動論が明らかにするように日本の政治文化は民主主義から遠い。戦後憲法の施行直後に文部省が配った「あたらしい憲法のはなし」。リベラル勢力が推奨してきたこのテクストに「多数決で決めたことは滅多に間違わない」とある。チャーチルの「民主主義は最悪の制度」云々を待つまでもなく、多数決で決めたことは大抵間違いです。民主主義の本義は「参加&自治」と「理性的討議&少数者尊重」。その本義が日本国憲法前文に書いてあるのに、憲法を国民に噛み砕く際に骨抜きにした。占領軍の意図なのか知らないが、戦後の初期段階で民主主義の概念が風化していた。丸山眞男に代表される戦後の近代派ないし啓蒙派の営みにどんな意義があったのか。
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【宮台】文化が制度を不可能すると。でも難しい問題がある。政治文化はあります。僕も〈任せて文句垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ、〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へと「べき論」を述べてきた。でも『制服少女たちの選択』(94年)で反復したように「べき論」で社会は変わらない。ここで「文化が社会システムへの主体的な合理的選択だ」とする議論が注目されます。轢き逃げされた少女を通行人らが見殺しにした広東省の悦悦ちゃん事件。中国文化の粗暴が話題になったけど、こんな反論があります。日本人は勘違いしてる。日本人も中国で暮らせば中国人と同様に振舞う。日本人は礼儀正しいから列に割り込まないというのは嘘。中国で暮らしてみろ。列に割り込まなければ死ぬ。生きるには割り込む他ない。見殺しにしたのも同じだ。貧困地域では今でも口減らしのために子供が捨てられ、皆が見て見ぬふりをして通り過ぎる。冷たいと言うなら中国の貧困地区で貧困所得で暮らしてみろ。捨て子を全員引き受けて育ててみろ。薬も食物も買えずに死ぬ。文化といっても既に回っている社会システムを前提にした合理的適応戦略なのだと。社会の行動傾向は文化か合理的選択か。長い論争があります。アンソニー・ギデンズの構造化理論以降は両者に循環が想定されるので論争はもういい。問題にしたいのは、こうした循環があるなら文化の修正は「べき論」でなくソーシャルデザインによるべきことです。そこで僕は〈褒美を貰うべく行政に従う社会〉から〈善いことをすると儲かる社会〉へと提唱する。「補助金行政から政策的市場へ」とも言えるけど、只の「べき論」でなく、〈任せて文句される作法〉や〈空気に縛られる作法〉に淫する共同体を淘汰する戦略です。生ぬるい「べき論」から冷厳な「淘汰と選別」へ。ただし弱者を含めた万人が「淘汰と選別」に晒される事態を想定しない。共同体同士が、優秀で共同体思いのエリートを育成する競争を通じ、非ゼロサム的に切磋琢磨する社会です。
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【宮台】[原発の地元と地元以外リアリティは]決定的には違わない。基地の沖縄や、箱物の誘致で破綻した夕張市と同じリアリティ。自己決定で依存したと言いつつ(自律的依存)、抜けられない依存(他律的依存)に堕するのです。福島原発も立地当初のスローガンは「福島を仙台に!」。仙台の如く発展した暁には原発から卒業すると。夢物語でした。原発がなければ成り立たない社会に変質した。自由意志による契約と言いつつ実は選択肢がない「附従契約」状態。同種の警告をスーザン・ジョージやアマルティア・センが三十年以上前に発したのに愚昧すぎます。
ソーシャル・キャピタルに根ざしたコミュニティは、ハーバーマス的には〈システム〉への相対的依存から〈生活社会〉の相対的自立へという共同体自治の推奨です。(1)安全保障の観点から推奨するギデンズ、(2)決定正当性の観点から推奨するベック、(3)美学的観点から推奨するラッシュの対比が有名ですが(ギデンズ、ベック、ラッシュ『再帰的近代化』而立書房 97年)、温かいから共同体が大切なのではない。平時に回る〈システム〉が壊れた非常時、〈生活世界〉こそが生命線になるという安全保障が分り易い。飽くまで合理性の見直しです。共同体といえば思考停止を意味する日本とは違う。ソーシャル・キャピタルこそ非常時の生命線。その欠如が如何に恐ろしいか。我々はやっと学びました。
[ルイ・メナンドの]『メタフィジカル・クラブ』は、リチャード・ローティの「アムネスティ・レクチャーズ」が嚆矢です(ロールズ他『人権について』みすず書房 98年)。人権の形而上学に学者たちが淫するけど、米国では1965年まで黒人も女も人間じゃなかった。誰が人間なのかという境界設定は形而上学じゃなく感情教育の実践問題だと。それを「プラトンからデューイへ」と彼は表現した。無効な「べき論」から「ソーシャル・デザイン」による淘汰へという僕の議論も同じです。人々の行動原則を変えるには何が必要かを問うのがプラグマティズム。それが日本でもリアルになりました。まさにプラグマティズムが見直されるべきで、僕のゼミでもジョン・デューイの『経験と教育』(講談社学術文庫)を読みます。
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【宮台】[現実生活と抽象原理の間を架橋するべく歴史を学ぶの]であれば、行動原則の変更にどんな過程が必要かに関連して、プラグマティックな教育実践を通じたエリート概念再構築を提案したいと思います。柳田國男を読み直して一昨年に没した小室直樹師匠を思い出しました。極貧の母子家庭に育ち、近所の人の助けで高校に行き、京都大学入試の交通費まで出して貰って理学部数学科に入った。神童として共同体から特別扱いをされて帝大生から帝国官僚になった日本的エリートと同じです。昨今は経産官僚らの国民愚民視が問題ですが、柳田的エリートは愚民視どころか負債意識を背負うがゆえに公的貢献動機を持った。公的貢献意識を持つ「べき」などと叫んでも駄目。プラグマティックな教育実践で負債意識を埋め込むしかありません。
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【宮台】人心掌握のポピュリズムとして[自分の過去を忘却しないという巧みなメッセージを送ることで]過去の記憶に訴える橋下戦略は有効だけと、単に批判しても済みません。僕なら「形にこだわる〈伝統家族〉から、機能にこだわる〈変形家族〉へ」と言う場面だけど、かつて機能したモノを、実体として再建するのは、社会的文脈が変わったから不合理です。見かけは昔と違っても機能的に等価な仕組が必要です。
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【宮台】参加的自治のルート[が昔はあったのに壊れたからポピュリズムになるという議論]ですね。ならば行政の役割を変えねばなりません。原発問題、基地問題、箱物問題に共通する需要サイドの「自律的依存ならざる他律的依存」を話したけど、供給サイドに目を転じると行政の不合理が目につく。日本は役人の人口比が小さいのに政府の借金が最も大きい。理由は事業効率の悪さ。〈褒美を貰うべく行政に従う社会〉と言いました。特措法を作り、特別会計を確保し、天下り先としての特殊法人や公益法人を通じて、業界にカネをばら撒く補助金行政。カネの切れ目が縁の切れ目。だから特措法の延長だらけ。イノベーション動機に乏しい。70年代に福祉国家政策が破綻して「小さな政府」が議論された際、欧米では補助金行政をやめる動きが生じ、かわりに「補助金行政から政策的市場へ」の動きが生まれた。行政は〈善いことをすると儲かる社会〉を作り出すルールメイカーになった。事業主体は民間だから金はかからず、イノベーション動機も働く。アメリカではレーガン政権でNPO補助金が打ち切られ、かわりに自ら資金を賄うソーシャル・ビジネスが誕生した。日本では国交省が土木予算をつぎ込む公園建設も、アメリカではNPO。日本のNPOは補助金漬け。それを自明視する市民が問題です。
ここに更にハードルがある。アメリカでは会社とNPOの間に回転ドアがあり、人材もノウハウも往来します。でも上下両院合わせて三万人のロビイストが政治を動かすアメリカ。メガNPOがルールメイクに影響力を行使し、大規模な広告や広報で寄付金を集める。かくしてNPOと社会的ニーズが乖離します。ルールメイクが民主的じゃない訳です。
そこで住民投票や国民投票に合わせて開発された北欧の「コンセンサス会議」が注目されます。議論するテーマ毎にコーディネーターをバトンタッチし、顔が見える範囲でワークショップを積み重ね、住民投票を通じてルールメイクする。日本で住民投票というと産経や読売が批判するポピュリズムの衆愚政治を想起するけど、そうした恐れがあるからこそ、住民投票が開催される1年後に向けて、議会でのステイクホルダーの手打ちと区別された中身のある議論をやり、住民同士が相互に陶冶し合って民度を上げる。そこでの行政の役割は、ワークショップに必要な場の提供や情報公開です。日本は「補助金行政から政策的市場へ」の第一段階をクリアした後、「ロビイングからコンセンサス会議へ」の第二段階のクリアが必要。第一段階のクリアさえ目処が立たない日本では気が遠くなります。
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【宮台】[NPO運動はもともと草の根共同体だったのにメガビジネス化したという悩みは]そうですが、日本はそれを悩む所まで距離がある(笑)。日本では「補助金ぶら下がりマインド」を淘汰する設計が必要です。ちなみに僕は中沢新一さんやマエキタミヤコさんと「グリーン・アクティヴ」というプラットフォーム作りに参加しました。グリーンの一点で価値をシェアできればどんな団体や個人も関われる場を提供する。コンセンサス会議の場の提供。多様な団体が随時連合し、得意領域毎にコーディネータを交替し、ワークショップを開く。ワークシップを開けばOKという訳じゃない。皆で議論すればいいことが決まるなんて戦後民主主義的な錯誤です。愚民が話し合っても愚民のまま。どうすればワークショップを有効化できるかのノウハウが大切です。主題毎に交替するコーディネーターが努力して、中身のある討議に必要な専門家、つまり科学の民主化に貢献するミドルマン(ポール・ラザースフェルト)を連れてくる。コンセンサス会議のポイントは非専門的な参加者全員が決定に関与することだからです。専門家にどうすれば素人が異議申し立てできるか工夫する。「専門家でもないクセに」と愚昧な揶揄をする一部2ちゃんねらーの如き馬鹿を徹底淘汰する。僕は世田谷区でこれを現実化しようと思いますが、実践を通じて浮上する問題が多々あり、学びもあるでしょう。ポッパーが言うピースミール・ソーシャル・エンジニアリングです。うまく行くことが確実な実践しかしないなら、不合理な既得権益が生き残ります。コンセンサス会議が発想されたのは、ヨーロッパでさえ議会がステークホルダーの手打ちの場所だからです。議会で権威ヅラする「専門家」をワークショップに呼んだら素人の異議申立てに耐えられなかったりする。ワークショップを通じて形成されたネットワークが新しい課題に取り組んだりもする。加えて大切なのは、コンセンサス会議と住民投票の組合せがあると、議会も中身のある議論をしたがること。いざとなれば議会の決定の妥当性を衆目の前で転覆できるので、議会も緊張感を持たざるを得ない。僕が神保哲生さんと十年以上関わってきた「マル激」のようなネットメディアが、政府と東電の嘘を垂れ流したマスコミを緊張させるのと同じですね。
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【宮台】[博士学位を持った御用学者という存在をどうするかについて]先に触れた、「オピニオンリーダー」概念を作ったラザースフェルトが、50年代前半に「ミドルマン」概念を提起します。定義は苅部さんが指摘されたのと同じです。ミドルマンは博士学位を持つ専門家だけど、学会をリードするよりも、学会の現在をピープルに繋ぐ媒介役です。ミドルマンがテレビや新聞などマスコミに入っていくことで「科学の民主化」がなされ、それをベースにした討議で「民主の科学化」がなされる訳です。
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【宮台】[原発関連の地に足のついた議論として開沼博『フクシマ論』に加えて]武田徹さんの『「核」論』増補版も良い(『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ)。開沼博さんもそうだけど、原発立地の歴史を調べた人は、原発政策の社会過程が少しも特別でなく、日本のどこにでもある過程だと弁えます。東電や経産省を批判するだけじゃどうにもならないと分かっているから、にわかエキスパートの勇ましさに出遅れ気味になる。その気持ちが分かるから、僕は当初から、東電的・経産省的コミュニケーションが日本中に蔓延していると言ってきました。東電を批判する朝日新聞も、十年間で広告費が半減したのにネット版価格を配達版と揃える言語道断はどうなの。販売店が困ると言い訳するなら、原子力ムラが困るという言い訳と変わらない。
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【宮台】渡辺さんの指摘通りティーパーティー運動とオキュパイ運動に共通なのに、日本のプレカリアート運動にないのが、共同体自治への志向。まあアメリカの建国精神そのもので、メガ政府であれメガ金融であれ、巨大で不透明な何かに依存することを否定する。日本のプレカリアート運動は、生きづらさを何とかしてくれという依存的センチメントから離脱できない。ネット右翼にもネット左翼にも共通する浅ましさです。
ところで、共同体自治への志向は、アメリカでもヨーロッパでも国家の信用低下問題にかき消されがちです。資本移動の自由がなければ新興国の発展はあり得ないが、資本移動が自由だと相対的にリスクの低い方にどんどん資本が逃げがちです。何か微妙なことがあると金融派生商品から逃げるばかりか通貨からも国債からも逃げる。企業の投資係数(単位産出あたりの投入)が上昇するので増税も財政出動もできません。例えば一昨年、アメリカのガイトナー財務長官は日本に対して「財政出動→景気回復→輸入増加→市場拡大」を望みました。でも債務増大を嫌う日本政府が財政出動しない。そこで仕方なくTPPによる規制緩和を通じて米国企業の市場拡大を企図するようになった。これだと日本は更にデフレ化して景気回復が遠のきます。相似形の逆説をどこの政府も抱える。そんな中で共同体自治を論じても迂遠な感じ。ここにも逆説があります。資本移動自由化の下でどんな統治形態が有効かを慎重に議論すべきなのに、それができない。
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【宮台】アガンペン流に言えば、グローバル化がもたらす不安ゆえのポピュリズムや、不透明性ゆえの行政官僚制の否定的猛威を、クリアするには、統治ユニットを縮小する共同体自治化か、独裁制しかない。中国の学者らと話して、国家のバーゲニング・パワーが一層重要になると思いました。中国は2015年から人口減が始まります。ハイテク産業化しても労働集約的生産性に依存する中国。人口減による生産力低下を技術革新でカバーできないとマズイ。そこを尋ねると、未知の領域だから不透明だが、楽観できると言います。EU加盟国のGDP全体の2%に過ぎないギリシアの問題でこれだけ世界経済が沈むのだから、中国が沈めば全世界が沈むことは自明で、それゆえ先進各国は最先端技術を中国に贈与するはずだと。我々も「日本が沈むと世界が沈むんだから世界は日本を助けろ」と言ってみたい(笑)。でもアメリカに対してさえ言えないのが歯がゆい。
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【宮台】中国ではナイのソフト・パワーに役人も学者も大学生も強い関心を寄せます。中国は2030年までにアメリカのGDPをたぶん追い越すけど、この経済力に釣り合う文明的輝きを持てるかどうかという関心です。ナイの発想では、経済力が文明的輝きを伴って初めて軍事に匹敵する国の柱になる。単にコンテンツ産業の外貨獲得力に関心を寄せる日本は大ボケだけど、中国は日本のコンテンツが持つ魅力の秘密を国策的に究明し始めました。文明的輝きには価値の発信が必要だけど、中国にできるのか。価値発信と言えばスティーブ・ジョブズが亡くなった。「Think different」(違ったやり方で考えよう)という口上が有名だけど、意訳は「君たちは間違っている」。一般のマーケティングだと、まず新製品を示し、次に「速度3倍、ストレージ5倍…」と宣伝する。ジョブズは「違う、君たちがコンピュータに期待していた眩暈を帯びた輝きはそんなことじゃなかったはずだ」とオルタナティブな価値を訴える。皆がそうかも…と思った瞬間、「だったらコレだ」と製品を示す訳です。昨年BMWの執行役員を取材をしました。お蔭でBMWの電気自動車を半年間モニター中です。彼も同じ科白を言います。電気自動車は家電だという話が真実なら、先進国の車産業はどのみち新興国に追いつかれて利潤率が低下、労働分配率も下がる。回避するにはプレミアムな価値に訴える車を作るしかない。プレミアムな価値を探索する階層は社会貢献的な価値に関心を持つ。だから逸早く1500時間労働制や時間貯金制や農業支援金を導入し、どこより早く環境対応を打ち出してきた。バイエルン発動機という社名に相応しい地元貢献であると同時に、プレミアムカーのプロバイダとして合理的だと。似た話があります。ドイツのフィードイン・タリフ(全種全量固定価格買取制度)では、従来的電気料金の5〜6倍の価格で自然エネルギー電力を送電会社に買い取らせますが、それで電気料金は6割増以上に上がった。それでも国民が納得する理由を尋ねたら、ドイツ緑の党副党首ベーベル・ヘーンさんは、先進国は新興国が発信できない価値を発信して市場を開拓しないと「先進国として」生き残れないと言います。戦後処理でドイツが独特の個人補償図式を採用した理由に似ます。福山前官房副長官との共著『民主主義がなかった国、日本』に書いたけど、COP3京都議定書の意味も、新興国が現段階で発信しにくい「子々孫々のために環境を守る」という価値を発信し、新興国が手付かずの領域へと産業構造改革を遂げること。政治的に市場を作るという意味でまさに政策的市場が目的。だから温暖化懐疑説の決着は重要じゃないんです。中国政府はそれに気づき、共産党独裁制を利用して風力発電と太陽光発電に莫大な投資を始めた。頓珍漢な日本は周回遅れ(笑)。
ところで共産党独裁が注目される中国だけど、武装警察を中心とする公安ゲバルトも重要です。大統領の許可なしでCIAが要人を暗殺できたクリントン政権前のアメリカを思い出します。大統領の許可なしで暗殺OKだったのは、大統領権力の弱さじゃない。大統領に塁が及ぶことなくゲバルトを使えるのですからね。中国やかつてのアメリカの、対行政的な政治権力の強さは、予算権と人事権だけでなく、ゲバルトの掌握がポイントです。翻って日本をみると、霞ヶ関の予算権と人事権さえ政治が掌握していない。とほほです。
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【宮台】暴力団排除条例が全都道府県にできました。本来は国法化すべきだけど、市民に組員の差別を命じる内容で人権に反するから国会審議を回避しました。地方議会も警察庁に舐められたものだよ(笑)。昭和30年代に関西で育った僕には自明だけど、売春のような決してなくならない商売が非合法だと、トラブルに際して警察を呼び出せず、ヤクザが出てくる。警察も自分たちが入れないから、ヤクザを情報屋にする。また共同体にはあぶれ者がつきもので、ヤクザは彼らに裏共同体の受皿を与えてきた。少年院を出た爪弾き者でも電話番や運転手として組員にする。でも92年の暴力団新法施行後は不可能になって彼らが野放しになった。組員や右翼団体員なら上に話をつけて制御できるけど、元組員や元右翼が銃器を携帯してウロウロしても制御できない。秩序維持において警察とヤクザは持ちつ持たれつです。警察はヤクザに情報を貰う代わりに非合法行為を見逃し、非合法行為を見逃す代わりに銃器押収の手柄のためにヤクザに協力して貰う。こうして危機的カオスを防止してきたんです。ところが歌舞伎町で暴力団を一掃した後はどうか。力の空白のせいで上海系と福建系の組織が抗争して青竜刀で斬首する大変な事態になった。旧来の秩序維持装置を壊すなら、それが果たしてきた諸機能の代替装置が必要です。(1)売春など非合法商売の場面での紛争処理をどうするか。(2)これら領域からの情報取得をどうするか。(3)共同体から排除された者の包摂をどうするか。(4)かつてストーカー問題がそうだったけど警察が「被害が出るまで動けない」とする領域での被害防止をどうするか。代替措置を手当てしないと、従来の裏世界よりもアングラに潜る。結果、人がたくさん死にます。
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【宮台】ロシアが選挙不正問題で揺れていますが、メドベージェフとプーチンが退いたらロシアが秩序立つのかと言えば、めちゃくちゃになるに決まっています。