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9月末日、中森明夫氏と彼の新作小説出版を記念するトークをしました(東京堂書店)

投稿者:miyadai
投稿日時:2010-10-15 - 08:34:24
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
このトークの模様は来週に出る『週刊読書人』に収録されます。
収録される文字起こしから、宮台発言を一個だけ下に紹介します。
中森さんが意外にも突然サンデルに言及されたのを受けての発言。

【宮台】日本でサンデルが話題になる前から、私塾で執拗に読んできました。作業仮説ならざる作業質問がある。サンデルだけでなくコミュニタリアンと呼ばれる人がそれを自称しないのはなぜか。理由はコミュニタリアンがアナーキストと同根だからです。
 補助線を引きます。フランス革命から百年後の一九世紀末。革命後の「意図せざる結果」を反省する三つの思想があった。第一がアナーキズム。「国家を否定する中間集団主義」です。第二がマルクス主義。「市場の無政府性を批判する行政官僚主義」です。第三が社会学。「国家を肯定する中間集団主義」です。強いていえば第四がバーク流の保守主義。「理性の限界に理性的に対処する再帰的伝統主義」です。
 現実社会は、欧州連合的「補完性の原則」をみても、合衆国的「共和主義の原則」をみても、「国家を肯定する中間集団主義」の流れです。でも本家本元の社会学がこの思考伝統を忘れました。そこを後継するのがサンデルやテーラーなど現実政治に積極的にコメントないしコミットするコミュニタリアンだと思います。
 他方、第一の「国家を否定する中間集団主義」は、中間集団同士の紛争を調停する法共同体を基礎づけられずアウト。第二の「市場の無政府性を批判する行政官僚主義」は、行政官僚制の副作用を中和する方法を持たずアウト。第四の「理性の限界に理性的に対処する再帰的伝統主義」は、ピースミール・ソーシャル・エンジニアリングを推奨するポッパーや、ハイエクやフリードマンなど帰結主義者に継承されます。
 現実政治を方向づけるのは事実上「国家を肯定する中間集団主義」と「理性の限界に理性的に対処する再帰的伝統主義」です。そこに「共和主義」「状況づけられた自己」「融解する地平」などの概念を持ち込み、普遍主義を放棄した上でプラグマティックに意味がある方向づけを狙うのがコミュニタリアン。その意味で「共」という概念を持ち込もうとするネグリも加えていい。こうした流れの中に、実は「近接性(プロクシミティ)」を要諦とするアナーキズムの精神は脈々と生きています。ちなみにリバタリアニズムという言葉の最古の用法はアナーキズムと互換的です。
 「近接性」を重視するアナーキズムは「観念を否定する実物主義」で、自分の周りにあるもの、手に触れられるもの、自分が所有するもの、絆で結ばれた人間関係以外は、信じない。国家主義的右翼ともマルクス主義的左翼とも遠い。サンデルの本の帯にそれを書いたけど、どこかの馬鹿が「宮台はサンデルをわかっていない」と批判をしてた。わかってないのはお前だよ。「近接性」を重視する立場をサンデル自らは共和主義と呼びます。昨今でいえばクリント・イーストウッドみたいな「草の根保守」です。
 問題はここから先です。近接性のみに信頼を寄せるといっても、昨今の若い人たちは近接性そのものを持たない。日本ほどでなくても、統計によれば先進各国は似た方向です。市場にも国家にも過剰に依存しない共同体の自立が失われたからです。親族集団にせよ、地域集団にせよ、職能集団にせよ、近接性の存在を自明の前提として近接性護持を主張したのが大杉栄を含む広義のアナーキストです。この自明の前提の空洞化を自明の前提に、近接性再建を主張するのがサンデルを含む広義のコミュニタリアンです。
 問題はここからだと言ったのは、近接性が抹消された後、再び近接性を構築するとして、どんな近接性をどう構築すれば自然か。それを語らねばならないけど、語れば必ずパターナリスティック(上から目線)になり、語るだけでなく動員すればファシズムになります。だからコミュニタリアンはこれぞ我々の共同性だとは言わない。コミュニタリアンを自称もしない。それはいつもプラグマティックな問題でしかないと構えます。これを民主主義はどのみち領域内部的だという話に結びけて議論するのがムフです。
 現にサンデルは歴史的事例や寓話的事例を挙げて、君たちはどうするかと尋ね、自分は意見を言わない。意見を言わないのは卑怯だと難詰する中森さんのような人が出てきたら、これには決まった普遍的答えがなく、まして自分の意見に特権的な意味がないのに、自分が意見を語れば権力的に作用するとか何とか言ってごまかすでしょう。
 中森さんが引用した「トロッコ問題」は、昔から倫理学者が持ち出す、生物学者マーク・ハウザーの思考実験。ハウザー自身、道徳判断が理性(帰結主義的合理性)によらないことを思考実験から導き出します。サンデルも同じです。加えて、待避線に入って1人轢く事例と、デブを突き落としてトロッコを停める事例とを較べ、後者の方に抵抗感を感じる者が(どこの国でも)多いことに注目して、先に述べた「越えられない壁」問題がいたるところに偏在することを示す。でも「越えられない壁」を否定的に捉えず、そもそも社会を営むとはそういうことだと思考を逆転します。
 こうした思考系列も初期ギリシアからあります。ペロポネソス戦敗北後のプラトンは、「越えられない壁」を超える卓越者と、越えられないパンピーを区別し、前者を「哲人君主」と呼びます。普通は越えられないという主張と、卓越者であれば超えよという主張は、両立します。
 もう一点、サンデルはユダヤ人で、彼の思考はユダヤ哲学と深く関係します。ユダヤ民族はディアスポラ(離散民族)。放っておいたら消滅する。だから離散にもかかわらずユダヤ民族「が存在する」と言えるための必要条件を探求する。キリスト教と違って厳格で細かい戒律を持つ理由もかかる観点から理性的に正当化できます。
 これも「超えられない壁」に関係します。ユダヤ民族「が存在する」と言い続けるには「越えられない壁」を作る「必要がある」。ユダヤ哲学はスコラ神学と違って、宗教よりも理性が大きいと考えます。ただしユダヤ民族であり続けようとすること=厳格で細かい戒律に従おうとすること自体、つまり「大目的」自体、理性で説明できない。でもそこで「それが信仰ということだ」と言います。サンデルの議論形式と似ます。
 サンデルには、アナーキズム(中間集団主義=近接主義)の系列と、ユダヤ哲学(「存在する」と言える条件を探る)の系列が、両方あると感じます。ちなみに、ルール「が存在する」とか、固有名の指示対象「が存在する」と言える条件を厳密に探索したのがクリプキですが、彼もユダヤ人です。
 アナーキズムの背後にもユダヤ哲学の背後にも、ニーチェ的「悲劇の共有」があります。その分両方とも日本人に縁遠い。尖閣諸島の紛争にみるように、シュミット的な友敵図式に耽って固着します。友敵図式を含む二項図式自体は、悪くないというより論理学が示すように我々の思考に不可欠です。それと「A対B」に対して第三項を考えるのが苦手だということは別問題です。他方、かかる第三項を持ち出すのは「内在と超越」という激烈な対立をもつユダヤキリスト教圏では容易です。
 イエスがなぜユダヤ教から分出したか。ユダヤ教=戒律を守る/守らない、に対して、第3項=どうでもいい、を付け加えたから。デリダの脱構築も同じです。近代=構築の肯定/否定、に対して、第3項=どうでもいい、を付け加えたから。デリダの脱構築論は、エクリチュール論ですから、当然ながら初期ギリシアを参照しています。日本人は不得意です。第3項を考えるのはKY(空気を読めない奴)として忌避されます。
 そんな僕たちが「自分たちは善、前田特捜検事が悪」などと言うのは糞。前田という馬鹿は僕たちないし僕そのもの。第3項を考えられないことと密接に関連します。空気を読める/読めない、組織適合/非適合、といった二項図式「に耽る」のは前田も僕(たち)も同じで、だったら前田と同じポジションにいれば同じことをするのです。