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『チャット依存症候群』(教育史料出版会)解説+近況

投稿者:charlie
投稿日時:2003-06-15 - 15:14:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
梅雨入りしましたが、皆さんはお元気でお過ごしですか。
最近の書籍を幾つか紹介させていただきます。

6月10日に、宮台真司×宮崎哲弥『ニッポンの問題。M2:2』(インフォバーン)が公刊されました。初版8000部スタートでしたが、BK1で総合2位を獲得するなど人気でしたので、即日5000部増刷となりました。

5月22日に、斎藤環さんの『OK?ひきこもりOK!』(集英社)が出版となりましたが、この本には斎藤環×宮台真司の長い対談が2本(原稿用紙100枚以上)が収録されています。

4月20日に、吉田司さんの『聖賤記』(パロル舎)が公刊されましたが、この本には吉田司×宮台真司の長い対談「天皇と日本──大亜細亜主義宣言」が収録されています。

以下は最近の原稿です。


『チャット依存症候群』(教育史料出版会)解説

【帰属処理の類型学】
■物事がうまく行かないとき、周囲が悪いと考える仕方と、自分が悪いと考える仕方とが
ある。さらに周囲が悪いという場合にも、だから周囲を作り直せばいいという場合と、ど
こかに「いい周囲」を見つけて立て籠もればいいという場合とがある。
■言い換えると、システムと環境とがフィットしないとき、第一に、環境を作り変えると
いう意味で「環境を『変える』」仕方と、第二に、別の環境を探し当てて閉じ籠るという
意味で「環境を『替える』」仕方と、第三に「システム(自分)を変える」仕方とがある。
■これらの違いは、例えば、生きづらさを抱えた人々が宗教教団に入る場合に、その教団
が提供できる方法の違いに相当する。すなわち、「革命」や「世直し」を提供する、「出
家」や「世捨て」を提供する、「修行」や「自己修養」を提供する、という違いだ。
■一般に、「物の豊かさ」が達成され、そこから先何が幸いなのかが人それぞれに分岐す
る「近代成熟期」が到来すると、自分の不幸を「世直し」みたいに社会の全体を変えるこ
とで撲滅できるという感覚が後退し、代わりに「世捨て」や「修行」が前面に出て来る。
■ちなみに「自傷」という行為は、自分のコンディションを変えるという意味で、「シス
テム(自分)を変える」ことに相当する。「依存」という行為は、薬物にしろ嗜癖にしろ、
「環境を変える」のではなく、代わりに「環境を替えて」閉じ籠ることに相当する。
■日本でもどこの国でも、成熟社会化に伴って「物の豊かさ」が達成されると、少年の犯
罪や若者の革命行動が減少していく代わりに、自傷が増え、依存や嗜癖が増えてくる。こ
れは「環境(社会)を変え」てもどうにもならないという「閉塞感」に由来している。

【アノミーの類型学】
■今から百年以上前に活躍したエミール・デュルケームという社会学者は、『自殺論』と
いう有名な書物で、「金持ちが急に貧乏人になって自殺するケース」と「貧乏人が急に金
持ちになって自殺するケース」とを対比させている。
■デュルケームは、自殺の原因は一般的にアノミーすなわち「どうしていいか分からない
状態」に由来すると見なしたが、「金持ちが急に貧乏人になるケース」と「貧乏人が急に
金持ちになるケース」とでは、直面するアノミーの種類が違うと考えた。
■五十年後、社会学者ロバート・K・マートンが、前者を「機会のアノミー」、後者を「目
標のアノミー」と名づけた。機会のアノミーは「手段のアノミー」とも言うが、金持ちが
急に貧乏人になると、今まであった機会(手段)が失われ、追い込まれることに相当する。
■目標のアノミーは「目的のアノミー」とも言うが、こういうことだ。貧乏人はいつも金
持ちになりたいと思い、何か問題があると自分が貧乏だからだと考える癖がある。それが
急に金持ちになると、目標が失われ、問題の帰属先も失われて、追い込まれてしまう──。
■一般に、「物の豊かさ」が達成され、何が幸いなのかが各人で分岐する「近代成熟期」
が到来すると、自分の不幸は貧乏のせいだといった「機会のアノミー」よりも、何をして
いいのか分からない、生きる意味が分からないといった「目標のアノミー」が重大になる。
■「機会のアノミー」が優越する場合には、自分から機会を剥奪しているものを攻撃する
という具合に「外への志向」が際立ち、「目標のアノミー」が優越する場合には、生きる
意味や実感が沸かない自分を責めるという具合に「内への志向」が際立つことになる。

【不自由の類型学】
■社会システム理論は不自由を(従って自由を)三類型に分ける。第一は、選択肢が端的
に不在だという不自由。第二は、選択肢は存在するが特定の選択が抑圧されるという不自
由。第三は、選択肢があり、選択抑圧もないが、選択能力が不在で選べないという不自由。
■例えば、未開人には「テレビを見る」という選択肢がない。その意味で「第一の不自由」
に合致する。だが、未開人はそもそも選択肢を知らないので、そのことを不自由だとは思
わない。すなわち「第一の不自由=選択肢の不在」は「主観的な不自由感」を伴わない。
■さて、未開の地に近代化の波が押し寄せると、金持ち階級は「テレビを見る」ことがで
きるのに、貧乏人階級は「テレビを見る」ことができないという具合に、選択肢を知って
いても選べない「第二の不自由」が浮上する。これは「主観的な不自由感」を伴う。
■ところが、人々が貧富の差を意識する「近代過渡期」が終わって、階級所属を意識しな
いで済む「近代成熟期」が訪れると、テレビはあるし、チャンネルも何百とあるけれど、
何を見ていいのか、何を楽しめばいいのか分からないという「第三の不自由」が浮上する。
■この「第三の不自由」は、抑圧されているという「不自由感」とは無縁だが、自由にの
びのび生きているという実感とも無縁で、絶えず「不全感」に苛まれる。ちなみに「第二
の不自由」は「機会のアノミー」、「第三の不自由」は「目標のアノミー」に関係する。
■選択肢が存在して抑圧もないのに、選択能力や選択原則が欠落するので選べないという
「不全感」に悩む者は、能力や原則を欠いた自分自身を責めがちであるのみならず、選択
肢の多い環境から、選択肢の少ない──ゆえに迷わずに済む──環境に退却しがちになる。

【チャット依存の機能的本質】
■以上のような意味で、私たちの成熟社会で、選択肢の少ないノイジーでない空間に「穴
ごもり」「引きこもり」したり、社会や他人などといった「外」に責めを負わせる代わり
に自分という「内」に責めを負わせる傾向が存在することは、完全に必然的なものだ。
■本書を読めば分かるように、「チャット依存症候群」なるものは、ノイジーで雑多な空
間から退却して「穴ごもり」するという志向と、さまざまな問題の責めを自分に負わせる
という自虐的な志向とが、クロスするところに存在する多様な現象の内の一つである。
■ちなみに、チャット用のソフトを使ったリアルタイムのコミュニケーションにはまるこ
とは、掲示板にはまったり、より広くネットにはまったりすることとは、やや違った趣き
がある。それは、今は懷かしきダイヤルQ2の「パーティーライン」を思い出させる。
■私は今からちょうど十年前に「パーティーライン」のフィールドワークをしていたが、
そこで出会った数知れぬ「パーティーライン依存症候群」の男女の佇まいと、本書で描か
れた「チャット依存症候群」の男女の佇まいが、実によく重なるのだ。
■違いがあるとすれば、音声が伝わることがない文字ベースの「チャット」のほうが、自
己提示を容易にコントロールできるせいで──「自己情報制御」がノイズに撹乱されにく
いせいで──「自分でありたい自分」であることが、はるかに容易だということだろう。
■こうした「自己情報制御」を通じて「ネット人格」を構成することで、本来なら責めを
負うべき自虐部分が、巧妙に回避されたり加工されたりする。その結果、責めを自分に負
わせる者が、負った責めの重荷にもかかわらずコミュニケーションできるようになるのだ。
■一口でいえば「チャット依存」の機能的本質は、(1)責めを自分に負わせる自虐的存在が、
(2)ノイジーな社会から退却し、(3)自己情報制御の容易な空間に穴ごもりすることで、(4)責
めの重荷にもかかわらずコミュニケーションに踏み出し、(5)一定の自己像を維持する(以
外に尊厳維持の方法がない)というところにある。

【本書を読んで自由になる】
■繰り返すが、私たちの社会が「チャット依存症候群」に見舞われるのは、必然的なこと
だ。正確な言い方をすれば、皆が皆ではないものの、一定割合の者が「チャット依存」に
よって辛うじて尊厳を維持するしかなくなるという状況は、全く必然的にもたらされた。
■社会学者としての私は、状況を必然的たらしめる要因を徹底的に理解することで、今ま
でチャット依存を知らなかったり、知っていても偏見を持っていたような、生きづらい人
たちには、「チャット依存も『あり』なんだ」と思っていただき、自由になってほしい。
■しかしまた、既にチャット依存する人たちには、自分がチャット依存によって解決しよ
うとしている問題が何なのかを理解し、問題をチャット依存以外の方法で解決する可能性
を含めて、もっと多くの現実的な(つまり選べる)選択肢を手にしてほしい。
■ちゃんとしたリソースがないと、人々は客観的に存在する選択肢を見通すことができな
いし、見通された選択肢の何が選べて何が選べないのかを判断できない。願わくは、本書
がそうしたリソースとなることで、読者の皆さんが自由になるようであってほしい。