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社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか

投稿者:miyadai
投稿日時:2003-12-11 - 18:52:17
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
宮台院ゼミ本『21世紀の現実~社会学の挑戦~』あとがき

【社会学からの全体性の脱落】
■あらためて言うまでもないことだが、社会学という学問が、フランス革命から第三共和制に至る社会的不透明性の体験──個々人の意思や意識とは独立かつ予想不可能な形で社会が動くという経験──から立ち上がったとき、社会学には「全体性」が要求されていた。
■社会学が、帝国主義時代の19世紀末に「近代はいかにして可能か」という問題設定を手にした際も、「契約の前契約的な前提」「権力の前権力的な前提」を問う形で、経済学的・政治学的な対象性自体を支える、従来の学問よりも大きな「全体性」を志向した。
■先に述べたフランス革命以降の「国家暴走」の経験に応接して出現した無政府主義(国家を否定する中間集団主義)やマルクス主義(国家暴力装置論)に対抗して、国家や社会を論じるという伝統的な問題設定も、敵方に劣らない「全体性」への志向へと向かわせた。
■しかし、これまた言うまでもないが、今日の社会学から「全体性」が失われて久しい。個別領域への穴籠りが進み、異なる穴の住民同士では言葉さえ通じにくくなった。それに並行して、過去三十年間ながらかに一般理論志向が失われて、理論社会学は低迷している。
■むろんこれは社会学だけの問題ではない。経済学や政治学からも、これらの学問の政策科学化に伴って全体性が失われてきたし、そもそも全体性とともにしかありえない哲学が、分析哲学のテクニカルな議論へと縮退してきた。しかも先進各国すべてに共通してである。


【全体性への需要に応えられない抑鬱】
■幾つかの理由が語られてきたし、私自身も折に触れ発言してきた。社会の複雑化によって限られたマンパワーが部分問題に手間暇とられるようになったのもあろう。社会的共通前提が空洞化したためコミュニケーション一般から全体性への志向が脱落したものあろう。
■しかし大学の教壇に立ち、様々な学会に出入りし、多様な媒体で情報発信してきた経験から言うと、そう簡単には言えない。部分問題の手間暇ゆえに全体性に言及できない、あるいは共通前提崩壊ゆえに全体性に言及できないからこそ、抑鬱的な気分が拡がっている。
■つまり、社会的不透明性の増大ゆえに、透明化をもたらす全体性への要求が高まり、要求が高まるがゆえに、社会的不透明性への苛立ちが高まる、といった循環が確実に回っている。すなわち全体性への需要はある。が、社会学が、哲学が、それに応答できないのだ。
■確かに「貧乏な社会で誰もが近代化を望む時代」は遠い過去となった。今日ではDVだ、引きこもりだ、移民問題だ、環境問題だ、戦争問題だという具合に、解決されるべき部分問題が山積みになり、問題解決志向的なプラグマティズムの価値が否応なく高まっている。
■人文・社会科学の政策科学化をもたらすこれら要因は、私が東大助手をしていた15年前には顕在化していた。当時の私は、個別の問題解決への需要が高まる以上、学問のプラグマティズム化は避けらず、学徒らの「実学志向化」も自然かつ不可避だと思っていた。
■理論社会学や数理社会学を出発点としながら、90年代半ばに諸般の事情からプラグマティックな問題に土俵を移さざるを得なかった(少なくとも一般理論との二股を強いられた)私は、ほどなく、「実学志向化が全体性への志向を失わせた」とは思えなくなった。

【プラグマティズムでなく「真理の言葉」の病】
■考えてみれば自明なのだが、プラグマティック化は、いったんは全体性への志向を放棄させるが、最終的にはむしろ全体性への志向を呼び戻す。社会がうまく回るための処方箋はいいとして、「なぜこの社会がうまく回らねばならないのか」がエポケーされるからだ。
■このエポケーは今日大きな疑念と抑鬱をもたらしている。典型的には「この社会」とは「どの社会か」という先鋭な問題だ。日本やアメリカなどの一国なのか。OECD加盟国やWTO加盟国などの先進各国なのか。南側やイスラム圏を含めた地球大のものなのか。
■ひいては「社会=コミュニケーション可能なものの全体を、人間圏や人間的なものの範囲に限定する」という近代人の自明性は、今後も果たして保たれるのか。かくして、プラグマティズム化を支えてきた自明性や共通前提が揺らぎ、再び全体性が問題化されるのだ。
■社会学や哲学で約三十年前から進行してきた全体性志向崩壊は、十余年前の冷戦体制終焉で体制全体の正統性を問う必要がなくなって、いったん正当化されたかに見えた。だが以降進展したアメリカン・グローバリゼーションは、問題を完全に振り出しに戻している。
■だが全体性志向への再要求に応答する成果は乏しい。とりわけ若い社会学徒にそうした興味関心が乏しく、相変わらず等身大のコミュニケーション問題に集中している。私は、その理由を社会の複雑化を背景にしたプラグマティズムに帰属するのでは不十分だと思う。
■結論から言えば、社会学徒が伝統的に「真理の言葉」を追求することが、むしろ全体性を遠ざける機能を果たすのだと思われる。かつては「真理の言葉」を追求することこそが全体性を近づけると思われたが、それも今は昔。全体性は「機能の言葉」を要求している。

【「機能の言葉」で全体性を企図する社会学的啓蒙】
■「真理の言葉」とは、認識を通じて「森羅万象の本質や抽象的普遍へと到達する」ことをめざす目的プログラムである。「機能の言葉」とは、「与えられた環境で最適化・満足化をめざすなら、こうせよ」と仮言命令を発するif-then文的な条件プログラムである。
■東浩紀がかつて論じた通り、「真理の言葉」は、中世ヨーロッパの大学に、従ってイスラムやギリシアの学問に遡る自由学芸(リベラルアート)の伝統であり、「機能の言葉」は、一八世紀末の産業革命以降に展開する制御の学(エンジニアリング)の伝統である。
■社会システム理論は、制御の学をルーツとして二〇世紀半ばから発展した。そして社会システム理論を基礎として提唱される「社会学的啓蒙」の構想は、生活の知恵のレベルからかつてのリベラルアート領域まで、妥当なif-then文=条件プログラムで覆おうとする。
■社会システム理論の背後には機能主義がある。社会システム理論は、「真理の言葉」で全体を覆わんとするかつての「理性的啓蒙」ですら、一定の機能ゆえに要求されていたと「機能の言葉」で記述する。むろんフランクフルターの啓蒙的理性批判の影響があるが。
■社会システム理論(に基づく社会学的啓蒙)の特徴は、真理の道具化への批判にはない。むしろ、社会が複雑化すると、理性的啓蒙が依拠する「真理の言葉」が無効になり(簡単に梯子を外され)、「機能の言葉」のみが機能を果たせるようになる、と見切る点にある。
■理性的啓蒙から社会学的啓蒙への代替プログラムは、リベラルアート的な目的プログラム=真理に基づく記述よりも、制御の学的な条件プログラム=機能に基づく記述が、全体性においてすら優位に(梯子を外されにくく)なったとの機能的な判断を基礎としている。
■これは私の創見ではなく、私が大きな影響を受けた社会システム理論家ニクラス・ルーマンが、四十年前から提唱してきた見解だ。こうした「機能の言葉」派の見解に、リベラルアートの伝統に立つ「真理の言葉」派が対抗して、ハバーマス・ルーマン論争となった。

【「真理の言葉」の機能化戦略の失墜】
■別の機会にも記したが、ブント活動家でもあった哲学者の廣松渉に傾倒していた二五年前の私は、彼から「この論争はルーマンの勝ちだ」と言われ、そのことが社会システム理論にコミットする個人的な契機になった。むろん廣松の判断はある種の政治主義に基づく。
■巷は「市民派左翼ハバーマス」と「テクノクラート主義者ルーマン」が対立しているとの理解だった。だが廣松は、ドイツの新左翼は通念に反してハーバマスよりもルーマンを評価しているのだと教えてくれた。理由は政治的有効性だと言う。まさしくむべなるかな。
■という意味は二つある。一つは、ルーマンの機能主義のほうが政治的に有効だとの一部左翼の判断の合理性。これについては言うまでもない。もう一つは、廣松渉がそう述べるということの廣松的な一貫性。彼は哲学者で「真理の言葉」派であるはずだというなかれ。
■各所で顰蹙を買う個人的見解だが、廣松渉の過剰な真理性追求は、そのことの機能(政治的有効性)に注目するからこそなされていた。晩年に亜細亜主義者たる「馬脚」を躊躇なく現したのも、自らの「真理の言葉」の政治的機能不全に苛立ってのことだと思われる。
■フランクフルターが「真理の言葉」の機能化(啓蒙的抑圧)を批判したのに対し、廣松は「真理の言葉」の機能化を逆手に取ろうとして失敗した。そう理解した私は、「真理の言葉」の機能化ではなく、「機能の言葉」の機能化をめざすべきだとルーマンに接近した。
■「廣松からルーマンへ」という私のキャリアは、大まかにはそういう展開だ。が、ここで問題にしたいのは、「真理の言葉」の政治的機能が鈍化する背景と、「真理の言葉」が全体性から見放される背景とが、完全に同一の社会的文脈だ、と見倣しうることである。

【中心や頂点を欠いた「機能の言葉」が目指す相対的全体性】
■結論から言うと、社会的文脈が複雑な──多様で流動的な──ものとなることで、真理性を支えていた単一の文脈が崩れ、真理の文脈依存性が露わになったのだ。むしろ文脈を限定した上での(=if文)真理性の言明(=then文)でなくしては、空間を直進できない。
■「真理の言葉」にアクセスしたがるリベラルアート的なアカデミズムがタコ壷化する事態が象徴的だ。ナイーブに真理性に依拠しようとするアカデミシャンは、真理性を支える社会的文脈の分岐ゆえ、自動的にローカルな内輪コミュニケーションに囲い込まれるのだ。
■だとすれば、アカデミックな言明がかつてのリベラルアートと遜色ない全体性を獲得しようと思えば、「真理の言葉」から「機能の言葉」への、人文学的な「真理に基づく内容的記述」から社会システム理論的な「機能に基づく形式的記述」への移行が不可欠なのだ。
■かつても今も、制御の学といえば、全体性と無縁の部分学──対症療法的な学問──だと思われてきた。制御の学の泰斗といえば、知識人というよりエキスパートに過ぎないと思われてきた。制御の学をルーツとする社会システム理論はかかる通念の逆転を企図する。
■「真理の言葉」は「機能の言葉」によってその機能的前提や機能的波及効果に言及されることで梯子を外される。「機能の言葉」は「機能の言葉」によって機能的前提や波及効果に自己言及することで、限界効用が逓減するまで自己自身を増殖し、全体性に接近する。
■別の問題もある。「真理の言葉」は究極的真理から派生的真理までラブジョイ流の「存在の大いなる連鎖」を構成する。つまり中心や頂点が存在する。「機能の言葉」にはジャンプやループを含むリゾーム状のネットワークがあるだけで、そこには中心も頂点もない。
■分かりやすくいうと「機能の言葉」は、梯子を外されること(条件依存性に言及されること)を前提にする言説の相互言及的な網を形成する。そこには「真理の言説」的なカタルシスはない。しかし「真理の言葉」は全体性から見放され、ある種のカルトを構成する。
■「機能の言葉」は、「真理の言葉」的なカタルシスを放棄する代わりに、相互言及の網によって相対的に全体性へと接近する。カルトを構成するだけの「真理の言葉」的なカタルシスを攻撃する点で、ニーチェの弱者論やハイデガーの非本来性論と一部重なっている。

【2ちゃんねる的に嫌われる「機能の言葉」】
■多くのアカデミシャンは、先に言及した東浩紀もそうだが、「真理の言葉」が「機能の言葉」に駆逐される現代的状況を、「機能の言葉」の実効性を認めつつも、全体性からの遠ざかりとして嘆く。だが見る所、カタルシスの不在が心理的な苛立ちをもたらしている。
■しかし問題はアカデミシャンに限られない。機能的前提や機能的波及効果に言及することで条件文化する──その意味で梯子外しを奨励する──「機能の言葉」は、日本の総合掲示板サイト「2ちゃんねる」のコミュニケーションが嫌われるのと同じ意味で嫌われる。
■このことが先の心理的な動機の内実を明らかにする。「真理の言葉」のカタルシスは、普遍妥当性要求の承認によって与えられる。しかるに普遍妥当性要求の承認蓋然性は社会的前提の共有如何に依存する。共有がなくなれば、普遍妥当性要求は梯子外しに晒される。
■「2ちゃんねる」的コミュニケーションの拡がりを、梯子を外したがるイジワルな奴が増えたのだと理解するのは片手落ちだ。むしろ社会構造の変化ゆえに、社会的文脈の分岐を無視した普遍妥当性要求が、弱者の不遜さとして見えるようになった今日の状況がある。
■むろん北田暁大が言うように、今日の「2ちゃんねる」こそが、全体性への──自分自身の文脈依存性への──配慮を欠いたまま梯子外しに戯れる、痛々しい弱者の共同体に見えるのは事実だ。としても、梯子外しを感情的に嫌うという形で問題に対処すべきでない。
■むしろ先に述べたような機能主義者が「機能の言葉」の自己適用を試みることに倣って、他者の梯子を外したがる自分自身の梯子への無頓着という「優位に立ちたがる弱者の痛々しさ」を克服、自己適用をも含めた梯子外しの徹底をこそ推奨しなければならないだろう。
■アドルノの「権威主義的パーソナリティ」論やフロムの「社会的不安」論が述べたように、優位に立ちたがるのは確かに弱者の心性かもしれない。真理や梯子外しによってカタルシスを得るのも同じだ。社会学的啓蒙は弱者のカタルシスを排し、全体性を志向する。

【全体性のためにカタルシスを犠牲にする「機能の言葉」】
■十年前に私が、石原英樹・大塚明子と共著で上梓した『サブカルチャー神話解体』(パルコ出版)が相当大きな反発に出会ったのも、今思えば、分析が「機能の言葉」によってなされていたことによるだろう。「2ちゃんねる」的な梯子外しだと受け止められたのだ。
■分析は「情報による〈世界〉解釈」と「サブカルチャー神話解体論」の二部からなっていた。前者では、人格類型ごとに、享受したがる漫画・音楽・宗教・性的メディアなどがワンパッケージで決まっていることを統計的に明らかにする作業に、力点が置かれていた。
■その上で、人格類型ごとに期待外れに対処するホメオスタシス(恒常性維持)戦略が異なることために、人格類型ごとに独特の〈世界〉解釈が要求され、その〈世界〉解釈を支援するためにサブカル素材が用いられるのだ、と人格類型に準拠した機能分析が施された。
■後者では、自由であるはずの表現が時代ごとに明確な定型を示すことを明らかにする作業に力点を置いた上で、これを下部構造決定論の類によってではなく、システムの内部状態が外部環境の受け止め方を決め、それが次時点の内部状態を決めるという形で説明した。
■すなわち、前者=「情報による〈世界〉解釈」では、サブカル表現の人格類型に対する機能に焦点を合わせたのであり、後者=「サブカルチャー神話解体論」では、サブカル表現の、社会システムのオートポイエティックな自己運動の中での機能に焦点を合わせた。
■こうした、個人のホメオスタシス上の機能を問題にする手つきは、サブカル表現の受け手を馬鹿にするものだと受け取られ、社会のホメオスタシス上の機能を問題にする手つきは、サブカル表現の送り手を馬鹿にするものだと受け取られた。私たちにその意図はない。
■しかしこれは意図の問題ではない。サブカル表現を真理性の深さにおいて問題にする内容的な「真理の言葉」が人々を勇気づけ、サブカル表現を個人や社会のホメオスタシスにおいて問題にする形式的な「機能な言葉」が人々の気持ちを挫く。これは一般的傾向だ。
■確かにかつての上部構造論も「機能の言葉」だった。とはいえ、私たちが下部構造的に屠られていながら騙されているのだとする疎外論で、「真理の言葉」への覚醒に向かうものだった。私たちの分析はそうした覚醒体験のホメオスタシス機能をこそ問題にしていた。
■ことほどさように、「真理の言葉」は社会的文脈の分岐によって全体性から見放されていく一方で、心理的な安定化の機能を発揮し続ける。「機能の言葉」は全体性への近接と引き替えにカタルシスを犠牲にすることで、心理的に人々から遠ざけられ、カルト化する。

【ノイズを除去しても「真理の言葉」は通用しない】
■先に紹介した廣松渉が「この論争はルーマンの勝ちだ」と言ったとき、廣松は直接にはハバーマスの「理想的発話状況」という概念に言及して、彼の概念構成を批判していた。すなわち、このような概念を立てた時点で、論争に負けることが決まっていたのだと言う。
■その意味はもはや自明だろう。発話の参加者があらゆる前提を白紙化・中立化できる理想的状況という想定は、むしろ「真理の言葉」の普遍妥当性要求が「通用」する場面が、一般的文脈においては現実に存在しえないということを、自ら告白する形になるのだから。
■言い換えれば、ハバーマスの論理は、理想的すなわち架空の社会的文脈を想定しない限り、合意の真理性──真の合意であること──は担保できないというものだ。これでは合意の真理性基準への合意が要求されて無限背進するとのルーマンの批判に、対抗できない。
■にもかかわらず、当時私たちの周辺ではルーマンよりもハバーマスの議論に圧倒的な人気があった。ルーマン流の「機能の言葉」よりもハバーマス流の「真理の言葉」のほうが耳目を引きつけやすいという既に述べた要因以外に、以下に述べるような要因もあった。
■論争が行われた1970年の時点を振り返ると、ドイツを含めたどの先進国も、「モノの豊かさを達成して以降、何が幸いなのかが各人ごとに分岐する」近代成熟期の、到来直前だった。多くの人々が今よりもずっと社会的共通前提の存在を当てにできた時代だった。
■それもあったのだろう。「架空の社会的文脈を想定しない限り、合意の真理性も、真理性への合意も、担保できない」にせよ、当時は「ノイジーな利害打算や立場性が真理性を曇らせるのだから、こうしたノイジーなゴミを除去すれば足りる」と考えられたのである。
■当時の時代的な共同主観性と共振していたという意味において、ハバーマスの議論は時代性を刻印されており、いわば「過去のもの」だ。それ以降、近代成熟期を迎えて社会は激烈に流動化・多元化し、グローバル化の時代を迎えて国民国家の機能不全も顕在化した。
■その結果、ノイズによる曇りを除去すれば真理性が露わになり、全体性にも接近できるとする近代的な想定は、アンリアルになってきた。むしろそうした真理観を持つ限り、ノイズが除去されたと思い込むローカリティに纏いつかれがちなことも明らかになってきた。
■9・11後のアフガン攻撃からイラク攻撃に至る「ネオコン」の自己弁明を繰り返し聞かされて来た私たちの多くは、アカデミズムに縁のない人々も含めて、十年前の社会学者たちに比べてもはるかに深くかつ切実に、そのことを受け止めていることだろうと念う。

【19世紀の「潜在性の思考」と20世紀の「自己言及の思想」】
■かつては全体性に近しいと思われていた「真理の言葉」が、社会の複雑化でむしろ全体性から遠ざかり、逆にかつては全体性に乏しいと思われていた「機能の言葉」こそが、際限ない自己適用化によってむしろ全体性に近づきうるのだと述べた。この点を補足したい。
■結論から言うと、「真理の言葉」を通じた全体性獲得は19世紀的思考図式と近縁であり、「機能の言葉」を通じた全体性の獲得は20世紀的思考図式と近縁だ。ちなみに19世紀的思考とは「潜在性の思考」であり、20世紀的思考とは「自己言及の思考」である。
■ノイジーな曇りを取り除いていけば透き通った全体性が露わになるだろうというときの全体性と、事物「を」可能にする前提的事態と事物「が」可能にする派生的事態を芋蔓式に機能分析していけば全体性に近づくだろうというときの全体性とは、その意味が異なる。
■「機能の言葉」で全体性に近づこうとする社会学的啓蒙においては、ある種の不可能性があらかじめ先取りされている。機能的言説の機能を問う言説なるものは、言語ゲームを観察する言語ゲームと同じで、論理的に無限背進が不可避的で、捉えきれない尻尾が残る。
■それゆえにスタティックに問題にすると「クレタ島人のパラドクス」に逢着してしまう。自己言及による決定不可能性の問題である。そこにルーマンの「脱パラドクス化」の概念が登場する。システムは、尻尾が残るにもかかわらず、というより、残るからこそ、回る。
■尻尾を残さずに全体性を獲得しようとする思考は、19世紀的な「潜在性の思考」の特徴である。スタティックな構造の中に、目に見えるものと見えないものがある。目に見えないものの覆いを取り除いてやれば、すべてが可視化されて、全体性を獲得できるとする。
■これに対して、言語ゲーム論や社会システム理論に代表される「自己言及の思考」では、スタティックな構造においてならパラドクスを帰結する尻尾を、許容するどころか、世界の駆動因そのものと見倣す。この思考においては、完き全体性は永久に獲得不可能なのだ。
■とりわけ社会システム理論は、パラドクスを消去した静止画のごとき状態を良き社会と見倣す形而上学を激しく拒絶する。それは20世紀半ば以降のSF小説が「ユートピアはディストピアだ」との逆説的モチーフを冷戦を背景に繰返し展開してきたことに対応する。

【モデルビルディングと「真理の言葉」との差異】
■今から三十年以上前に、小室直樹は、社会システム理論は経済学の「相互連関モデル」とサイバネティクスの「制御モデル」を結合したところに展開されるべきだとした。これは、社会学を「真理の言葉」との直接の結合から切り離そうとする、先駆的な試みだった。
■現実観察から得た初期条件(周辺条件)をモデルに入力すると、一定の出力変数が得られて、それが現実観察から得られたデータに合致する場合に、モデルは「現実適合的」だと評価される。現実適合的なモデルは、現実の説明・予測・制御に用いることができる。
■言うまでもなくモデルビルディンクは「真理の言葉」ではない。モデルは現実適合性という機能の高低によって──すなわち「機能の言葉」によって──、相対的に評価される。そこでは同一の説明力(という機能)を持つ競合的なモデルの存在が予め想定されている。
■この説明力が、説明や予測の一意性──因果的決定──によって評価されるのが自然科学的な因果モデルだが、これに対しルーマンは、複雑な社会システムでは因果モデルの追求は不毛だとし、認識利得を機能的等価項目の開示に置く機能モデルを提唱したのだった。
■因果モデルから機能モデルへ。因果的一意決定から機能的等価項目開示へ。因果的説明から機能的記述へ。こうしたルーマンの提案は、伝統的因果モデルでさえも、森羅万象の本質や抽象的普遍への到達を目的とする「真理の言葉」とは異なっていることを前提する。
■彼の提案は、「真理の言葉」とは切断されているはずの因果モデルが、因果的な一意的決定という、森羅万象の本質や抽象的普遍に関わる真理観に深く浸食されているとし、モデルに対する期待を伝統的な真理観とともに刷新してしまおうとする意図に基づいている。
■しかしルーマンのこうした提案が、イリヤ・プリゴジンのような自然科学者に深く理解されながら、社会学者に殆ど理解されなかったところを見ると、社会学者の多くは相変わらず、全称命題的な「真理の言葉」によって、社会の本質に近づきたがっているのだろう。
■そのことが「今どき真理を追究してる社会学者って何者?」(一流の経済学者にはこう揶揄する者が多い)という具合に梯子外しを生む。社会学者は社会的文脈のローカリティの烙印を押され、「真理の言葉」に本来要求されている全体性から逆に遠ざけられるのだ。
■本人は真理を追究しているつもりで、周囲から見るとローカルなカルトに過ぎないという落差が、ニーチェが形而上学を弱者の妄想として批判したのとまったく同じように、社会学は弱者のおしゃぶりに過ぎないと見倣す「2ちゃんねる」的な揶揄を、生み出すのだ。
■実際この批判を的を射ている。それゆえ、全体性を追求する伝統をもつ社会学が「真理の言葉」に寄りかかる胡散臭いカルトとして、若き有能な学徒に忌避される。とするなら、社会学は速やかに「真理の言葉」から距離をとり、全体性への志向を回復する必要がある

【「機能の言葉」の後進地域からの社会学的啓蒙構想】
■周知のように、社会学は英米圏では完全に落ち目であり、とりわけ全体性を希求する思弁的な社会学──たとえばルーマン──について言うと、もっぱら旧枢軸国で読まれ、議論の対象となっている。英米圏では社会学研究者の大半が実証モノグラフを量産している。
■これについては別の場所で論じた通り、旧連合国圏と比べて人権・近代・憲法といった観念の自明性が低い旧枢軸国圏で、これらの諸観念の前提を問う思考が要求されがちなことが一つにはあろう。因みに、社会学の伝統は、前提を遡及して全体性に近づく所にある。
■もう一つの背景がある。旧連合国圏は、リベラルアート(自由学芸)的なものがエンジニアリング(制御の学)的なものによって駆逐されている度合が、旧枢軸国圏に比べて高い。旧連合国圏はプラグマティックなのに対し、旧枢軸国は全体性を志向する傾向がある。
■俗にいう「啓蒙の挫折がロマン主義を呼び寄せる」なる図式で理解できる。あらゆる事物が制御可能だと信じられる啓蒙先進国では、実用の制御知(知恵)が席巻する。制御不可能な不合理が分厚く存在すると信じられる後発国では、制御知よりも全体知が優位する。
■近代的な社会的形象の自明性が低く、かつ、制御知よりも全体知が優位しがちな場所から、制御知を構成する「機能の言葉」を使って、「真理の言葉」によって失われがちな全体性をアイロニカルに回復しようとするルーマンの試みが出て来るのは、ある意味必然だ。
■アイロニカルだというのは、知識ならぬ知恵的なもの(プラグマティズム)の後進地域から、知恵的なもの(機能の言葉)の潜在性を使い尽くす形で、先進地域ではとっくに廃れた全体性への志向を回復しようとするからだ。このアイロニーは長く理解されなかった。
■しかし、旧連合国圏に続いて旧枢軸国圏でも社会学の衰退が誰の目にも覆いがたいものとなり、加えて社会科学や人文科学の全分野で全体性への志向が頓挫することで学そのものの衰退が危ぶまれる今日、このアイロニーを深く理解することが焦眉の急だと思われる。

【機能的分析の職人芸と今日的な逆風】
■機能的前提や機能的波及効果への敏感さを奨励する、社会システム理論的な機能主義の立場は、デュルケーム以来の「前提を遡る」社会学的思考伝統に連なるが、機能的分析を随時正確になしうるかどうかは、高尚な知識より、職人的な訓練に依存する部分が大きい。
■かつて『サブカルチャー神話解体』のあとがきでもそのことに触れた。システム理論、ないし機能主義の立場を採用するというだけでは、何の認識利得もない。あらゆる事象に機能的分析を柔軟に適用できる分析者の敏感さだけが、機能的分析の認識利得を保証する。
■ところが「機能の言葉」を自在に駆使する機能的分析に必要な訓練は、ある種「梯子外し」能力の訓練に近いものがある。「あなたはそう言うが、その機能的前提は…」「あなたはそう言うが、その機能的波及効果は…」という具合に瞬時に焦点をずらす力だからだ。
■「真理の言葉」で普遍妥当性要求をなす者に対して、要求のローカリティを瞬時に突きつける反射神経だと言ってもいいだろう。「前提を遡る思考」と言えば聞こえはいいものの、前提(や波及効果)をスッとあてがうことで相対化する実践の、訓練だとも言えよう。
■先に述べた事情で社会システム理論や機能的分析に覚醒した私自身は、その直後に偶然関わることになったマーケケット・リサーチの仕事を通じて、そうした実践を徹底的に自らに訓練することになった。ところがそうした実践が周囲から相当嫌がられた覚えがある。
■2ちゃんねる的な梯子外しが嫌がられるのと全く同じ理由で、機能的分析の達人は、いわゆる「真理くん」たちに嫌われる。すべての言葉に──とりわけ「真理の言葉」に──機能的相対化を施す実践は、多くの場合、問題を真剣に論じない不真面目さだと取られる。
■それとは別に、絶対的な言葉で全体性に到達しようとする「真理の言葉」のローカリティを拒絶し、相対的な言葉に過ぎない「機能の言葉」で全体性に到達しようとする社会学的啓蒙の実践は、いわば全体性へと向かう遠大な迂回路で、隔靴掻痒に感じられるのもある。
■しかも、先に述べた通り、たとえ遠大な迂回路を経由しても確固普遍の全体性に到達したという達成感は皆無で、「機能の言葉」のジャンプやループを含んだネットワークが、以前よりも機能的前提と波及効果への敏感さを拡げているという相対性しか、ありえない。
■成熟社会化に伴う社会的不透明性の増大がもたらすディプレッションへの反動から、クリアカットな真理性や全体性が希求される今日的に拡がった心理状況の下では、パーシャルな「機能の言葉」の集積で全体性に向かう社会学的啓蒙の試みは、逆風に出会っている。

【社会の複雑化がもたらす社会学的啓蒙への順風】
■しかし逆に、こうした逆風をもたらす社会の複雑化──多様性と流動性の増大──が、社会学的啓蒙の実践に順風になる部分もある。一つには、そうした社会状況の変化こそが、「真理の言葉」で全体性に向かう実践のローカリティを、顕在化させてしまう側面がある。
■それは既に述べたことだが、それとは別に、社会の複雑化による共通前提の空洞化が、「機能の言葉」による梯子外しに対する抵抗感を弱める側面もある。これについては拙著(共著)『サブカルチャー神話解体』が出会った反発が、分かりやすい例になるだろう。
■この本自身が詳細に述べる通り、サブカル表現の授受をめぐる細分化(島宇宙化)は77年頃から展開するが、当初は細分化する以前の記憶を共有する者たちの差別化競争であって、社会学の言葉でいえは「視界の相互性」「役割取得の可能性」が存在していた。
■それが、83年頃から本を執筆していた92年にかけて、なだらかに崩壊していく。細分化する以前の記憶の風化や、既存の島宇宙への後続世代のタダノリもあって、島宇宙の間に相互理解の可能性が薄れ、自分が属する島宇宙の全体的な位置づけも困難になっていく。
■こうした崩壊現象は、類型化ブームの終焉に象徴されている。80年代後半は「金魂巻」から「富士総研G感性5分類」まで類型化ブームだったが、類型に対して「ありがち」と頷ける視界の透明さが消えていくに従って、92年までには次第に終焉へと向かったのだ。
■92年といえば、サブカル・ヒストリー特集を続けていた雑誌『宝島』が、特集を打ちきってエロ雑誌化する年でもある。同じ年に私たちは『サブカルチャー神話解体』を連載していた。この年を境にして、サブカル・ヒストリーを語ることは、急速に困難になった。
■細分化したサブカルチャーの歴史を語ることは、細分化したにせよ自分たちは同じ舟に乗っているという、共通前提への信頼や視界の透明さがあって初めて可能になる。同じ舟の航跡が歴史を構成するからである。それが失われれば歴史語りは単に酔狂の営みとなる。
■細分化したにせよ自分たちが同じ舟に乗っているという感覚があった時代には、歴史語りは辛うじて享受可能だ。そうした時代の最後である92年に提示された私たちの機能的分析は、自分たちは舟に乗っていないかのように高みから見下す振舞いとして反発された。
■ところが、共通前提への信頼や視界の透明さが失われ、サブカル歴史語りが享受可能性から見放されて以降、私が随所で行うサブカルの機能的分析は以前ほど反発を買わなくなった。分析を自分には関係ないと無関連化できるからだろう。似た順風は各所に存在する。

【普遍/特殊、限定/非限定(一般)、の差異】
■今日、「真理の言葉」と「機能の言葉」は、自由学芸と制御の学とが対立すると信じられた近代過渡期(前期近代)までとは違い、前者が全体性に近づき、後者が部分に留まると素朴に信じるわけには行かない。ハバーマス・ルーマン論争の最大の含意はそこにある。
■この中核的含意が全く理解されないところに、真理を追究しようとする若い学徒が、道半ばにして志を放棄したり、志を継続した結果カルトの一員以外ではあり得なくなる理由も見えてくる。一口で言えば私たちはまだまだ「真理の言葉」への断念を欠いているのだ。
■複雑な社会において、(複雑さがもたらす抑鬱ゆえに)梯子を外されない「真理の言葉」のカタルシスを追求する者は、社会的文脈の分岐が理由で絶対に全体性には到達できない。全体性への接近を企図する学徒には、普遍妥当性要求を全面的に放棄して貰う必要がある。
■そのことを理論社会学の初学者に徹底的に理解させ、「機能の言葉」の増殖化による相対的な全体性追求へと切替えさせることなくして、理論社会学とりわけ一般理論の復興は、あり得ない。これは学徒の力量の問題ではなく、知識社会学的な構造問題であると言える。
■むろんこう言っても、“「機能の言葉」の相対性の海に浮かぶより、たとえカルトのメンバーしか承認してくれないにせよ普遍妥当性を要求し続けたい”と自覚的に意思する学徒も出て来る。だがカルト化を嫌って学を離脱する前途有為な若者が多いのも事実なのだ。
■パーソンズのパターン変数用語を使えば、普遍/特殊と、一般/限定という価値は重ならない。普遍妥当性要求ゆえに言葉が限定されたカルトにしか通用しない一方、相対化可能な特殊性を僭称するがゆえに言葉が空間を一般的に直進する、という事態がありうる。
■言葉の「普遍性」を取るか「一般性」を取るかはパーソンズ的には価値観の問題だ。が、周知の通り、近代の近代性は、普遍性を諦めた条件プログラム化によって一般性を調達するところにある。とするなら、学徒の多くは、道さえ示されれば「一般性」を選択しよう。
■学の領域においてだけ──とりわけ社会学の領域においてだけ──いまだに「一般性」を犠牲にして「普遍性」の価値が選択され続けるのだとすれば、端的に言って、社会学が、社会の諸環境から隔離された時代遅れのアジールと化していることを、意味していよう。

【障子紙の格子穴から見えてくる向こう側】
■私が指導する大学院ゼミの学生たちによるジャニーズ・ファン、一卵性母娘、中学受験、同性愛、写真雑誌「アウフォト」、韓国と日本のマンガ、インターネットなどの分析は、対象は雑多に見えても、以上に紹介してきたような「機能の言葉」の適用事例に当たる。
■分析する言葉自身を含め、全ての事象について、機能的前提(何「が」可能にするか)と機能的波及効果(何「を」可能にするか)を記述していこうとする。それによって全体性を伺うような「機能の言葉」の増殖可能性が開かれているかどうかは、読者の判断だ。
■が、私の見るところ、興味深いことに、各論文が全体として集合することで、すべての論文が、共通の全体性を前提としているだろうことが見えてくるのだ。そしてまさしくそれこそが、私がゼミの学生たちに一見野放図とも見える研究対象の拡散を許容する理由だ。
■膨大な格子からなる障子紙を、格子ごとに少しずつ外していくと、やがて全体からみると少数の格子しか見通せないのに、向こう側の図柄が見えてくる。かつて土井勝が司会をしていたテレビ番組『ゲーム、ヒントでピント』の、「ゲーム16分割」のようなものだ。
■もちらん格子の全てが素通しになることはなく、格子の向こう側の図柄も動的に変化している。図柄の全体像に到達することは永久にない。が、各格子か見えるものが単独自存するものではなく、不透明な全体の図柄の一部として意味を持つこともまた、自明なのだ。
■私がゼミで推奨するのは、各格子からの見えとは無関連に「これぞ全体像なり」と想像することでも、各格子から見える個別の図柄を描いて何かをしたつもりになることでもなく、個別の図柄を観察しながら全体性を想像し、それにより図柄の意味を判定することだ。
■奇しくも、というか当然ながら、宮台ゼミの院生たちによってランダムにはがされた障子紙の格子は、集合的な効果として全体像の図柄を想像させる機能を持つ。ゼミでの長年のセッションもあって、各人が想像する全体性には大きな共通性を見てとることができる。
■ゼミでは各人が各人なりに全体像を想像しながら各格子の個別の図柄を観察することが推奨される。各論文には各人によって観察された個別の図柄と、想像された全体像が示されている。各々の微妙に異なる全体像の重なりが、読者に全体性のイメージを与えよう。
■多くの読者の目には、あらゆる個人やエージェントが、社会の過剰な流動性と多様性──総じて複雑性──に抗って、何らかのホメオスタシス(恒常性の維持)機能を実現するべく、悪銭苦闘している姿が浮かんでこよう。そのことについて、一言だけ述べて置こう。

【最先端の政策課題との関連】
■数多くの社会領域で、流動性と多様性に抗する悪戦苦闘の姿を目にした多くの読者は、次のような問いへと促されるかもしれない。すなわち、「近代の社会システムが実現した過剰な流動性と多様性は、果たして良いことだったのか」と。それは自然なことである。
■実際ここ二十年、社会学よりもはるかに議論の活発な政治思想の最先端では、まさにそのことめぐる価値観の分岐が先鋭である。そこにおける私自身の立場を抽象的に言えば、多様性と流動性を両方増大させたままにするのは無理で、流動性を制約すべしとするもの。
■因みに私自身の最近の仕事のキーワードは「包摂」(異物の排除ではなく両立可能化)と「ブロック化」(主体の単位を異にするマルチレイヤー化)だが、前者は「多様性の維持」機能に焦点化したものであり、後者は「流動性の低下」機能に焦点化したものである。
■それとは逆に、「流動性を維持」し(それどころか際限なく上昇させ)、「多様性を低下」させよういう、全く逆の処方箋を提示する、80年代のネオリベから最近のネオコンに至る政策パッケージの流れもある。日本は明らかに後者の道をたどろうとしている。
■どちらが良いのかは価値観の問題で、論理的に決着できない。とはいえ、流動性と多様性の上昇が、どこでどんな問題をどのように引き起こしているのかを──各格子ごとの図柄のそれぞれを──徹底して観察することなしには、価値判断以前に判断材料が不足する。
■しかも、この流動性と多様性は、社会の各領域で──格子ごとに──独立に操縦できるものでなく、おおまかに言えば社会全体として流動性や多様性を上げるか下げるかを構想するしかない。まさに格子を徹底的に観察しつつ全体性を見通すことが必要とされている。