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『サマリア』評:抒情的ならざる叙事的な荒唐無稽さに開かれよ

投稿者:miyadai
投稿日時:2005-03-18 - 10:23:22
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(2)
■本誌でキム・ギドク監督をインタビューしたとき、国際的評価の高い『春夏秋冬そして春』であるにもかかわらず、それらの評価が「仏教的世界観を描いたものだ」との理解に基づくことに、監督が不満を述べていた。
■そこでも紹介したが『春夏秋冬〜』は通過儀礼の映画。「離陸面→カオス→着陸面」という図式に即せば、離陸面は、主人公が〈社会〉に閉じ込められた状態。着陸面は、主人公が〈世界〉へと開かれた状態に当たる。
■主題は輪廻転生云々にはないのだ。ならば主題は何か。まず用語から。〈社会〉とはコミュニケーション可能なものの全体。〈世界〉とはありとあらゆるものの全体。〈社会〉の外には、コミュニケーション不可能なものがざわめく〈世界〉が拡がる。
■彼の映画は同一図式を反復する。理由不明だが〈社会〉をうまく生きられない男がいる。男はもがき苦しんだ末、普通の映画なら〈社会〉に再帰的に(選び直す形で)着地するところが、彼の映画では、男は〈社会〉から以前より更に遠くに着地する。
■〈社会〉から更に遠い場所。それは先の着陸面──〈世界〉へと開かれた場所──に当たる。抒情的な場所から叙事的な場所へ。主観性の内部でつじつまが合う(と思える)世界から主観性の内部にどうにも収まらない世界へ。そうも言い換えられる。


■さて『サマリア』。奔放な友人の援交を手引きする堅気の少女が、警察の手入れで友人が墜落死したことに罪障感を覚え、友人の手帳を頼りに、友人が過去に援交した相手を呼び出して性交してはカネを返す。かくして罪障感から自由になる──。
■ここまでが前半。前半を見ると、性的な〈社会〉と折り合えない主人公が、友人の事故死やら何やらのカオスを経て、〈社会〉と折り合える場所に再帰的に着地する、という話。日本の映画にもありがちな、今風の、しかし凡庸な映画に過ぎない。
■むろん二人の少女は実に魅力的だ。その対照も日本の少女漫画のように鮮烈だ。しかし、そうした映画であれば私は何度も見てきた。というか、見飽きた。だが普通の映画ならそこで話が終わるのに、この映画では、意外な後半が展開するのである。
■少女の父親は警察官。ラブホテルでの現場検証の最中、向いのホテルの部屋に娘が中年男といるのを目撃する。以降、父親はストーカーのように娘を尾行し、娘と交渉した男を難詰する。娘はそれを知らない。やがて父親は男の一人を撲殺してしまう。
■父親が、突然のり巻きを握る。笑顔で娘に母親の墓参りに行こうと誘う。二人は車で出かける。まさにロードムービー。途中で車が瓦礫にスタックする。娘が丁寧に石を取り除く。再び動いた車が川原に出る。川原に石を並べ、父親は娘に運転を教える。
■そこに車が一台やって来て、二人の男が父親を車内に誘う。父親は「もう一人で運転できるよ」と言い残す。父親の乗った車を娘がじぐざぐ運転で追いかける美しい俯瞰画面に感動しつつ観客は思う。自分が見ていたのは援交映画ではなかったかと。
■全く違う映画がある。援交映画なるものに我々が期待する抒情はない。例えばリグレットはない。少女が堅物で援交できないのは必然的。友人が奔放で援交を通じて喜びを得るのも必然的。友人の死を巡る少女のリグレットも「逆援交」を通じて何もなかったかの如く馴致される。
■父親が娘に何も言えないのも必然的。男を難詰するのも、逆上して殺害するのも必然的。即ち、父親にもリグレットはない。登場人物、そして観客は、世の摂理が人知を超えることを納得する。〈世界〉が決して主観の内部に収まらないのだと──。
■この抒情的ならざる叙事的な境地を「終わりよければ全てよし」とか「人間万事塞翁が馬」等と我々は言う。しかし我々はどこが終わりなのかを知らない。だから、何かが良いことなのか悪いことなのかを判断できない。そのことの荒唐無稽さに開かれよ──。そう映画は呼び掛ける。