文字起こし|【月イチ宮台】日本は過酷な「悲劇の共有」がないと永久に変わらない|J-WAVE|2020.06.02
【月イチ宮台】日本は過酷な「悲劇の共有」がないと永久に変わらない
JAM The World | J-WAVE|2020.06.02(火)放送
青木理さん:ジャーナリスト
宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:立石絢佳 Twitter:@ayaka_tateeshi)
〜
▶敗戦後アメリカのケツを舐めた日本では「悲劇の共有」がされなかった
青木理(以下、青木): 今夜は火曜日恒例の月一企画「月イチ宮台」です。社会学者で東京都立大学教授の宮台真司さんにリモートでお話を伺います。宮台さんこんばんは。
宮台真司(以下、宮台):■はい、こんばんは。よろしくお願いします。
青木: 前回も申し上げたんですけど、1ヶ月っていうスパン。昔は月刊誌とかがあって、物事を思考するのになかなかいいんじゃないかって改めて思っていてですね。この1ヶ月間でいろいろな物事が動きましたですね。リスナーの方々からも、宮台さんに聞きたいことというのがいっぱい来ています。
ラジオネーム:エビさん
「権力と賭け麻雀の問題もあり、権力とメディアのあり方が改めて問われていると思うのですが、日本でジャーナリズムが自浄作用として機能するためには、どのような制度設計が必要なのでしょうか。生活必需品だから軽減税率が適用されるはずの新聞よりも、文春のほうが良い仕事をしているのもなんだかモヤモヤします」
と(笑)。宮台さんはどんなふうに思われます?
宮台:■制度設計の問題ではないんですよ。これは「倫理」の問題です。倫理を持つ人間たちが日本では育たないように、もともとなっているんです。だから、制度よりも「文化」の問題です。じゃあ「倫理」とはなにかと言うと、いつもキョロ目の日本人には分からないかもしれないけれど、ユニバーサルには「これは絶対に許せない」っていう感覚の公共性です。たとえば世界の法はいろいろあると見えて、「殺すな・盗むな・火をつけるな・犯すな」は全て共通しています。これは、「ひどいことについては絶対許せない」という強いネガティヴィティの感覚を、自分が持ち、自分だけじゃなく多くの人も持つだろうと期待できるということ。そういう社会に「倫理」があるということです。実際に、すべての社会で、「殺すな・盗むな・火をつけるな・犯すな」という法は共通しています。だから、そこから自然法思想(法は人が作ったものではないという思想。対極が実定法思想)も出てきます。それに対して、何が善いことかというポジティヴィティのほをは、人それぞれに分解しやすいんです。
■さて、「倫理」は、いま申し上げたように、「絶対許せないこと」についてのこだわりをみんなが持つかという期待を要素とするんだけれど、そういうふうに期待できるかどうかを左右する歴史的な前提が、「悲劇の共有」なんですね。
青木: 「悲劇の共有」。
宮台:■なぜかっていうと、簡単です。もし「それが絶対いけない」ってことをみんなでシェアできなかったら、その社会は事実として滅びてしまったからです。滅びに瀕した社会は、そのことを記憶としてたえず再生しながら、倫理を保ってきたわけです。ところが、日本の場合には「悲劇の共有」がないんです。先の敗戦も、悲劇としては共有されなかった。理由は単純で、アメリカのケツを舐めたからですね。実際アメリカに戦争で負けたあと、東西冷戦体制があって、アメリカについていけばいいことがあると思えた。まさにそれが「ギブ・ミー・チョコレート」であって、庶民感覚でもあったんですよね。
■しかし、冷戦体制はいずれ終わってしまう。実際、終わってしまった。冷戦体制が終わってしまえば、「アメリカが自由な西側を守ってくれる」という公共性がアメリカ自体から失われていきます。なので、冷戦体制が終わった90年代半ばに、日本はアメリカのケツを舐めるのをやめるのかと思ったら、「2+2」という実務者会議を通じて、全く逆に、「アメリカが戦争をしたらついていきます」という図式になった。それが1999年の通常国会での周辺事態法であり、有事法制であり、盗聴法=通信傍受法であり、国旗国歌法であったわけです。その意味でいうと、残念ながら、未だに日本人には一般的に倫理がない。もちろんメディアにもないし、政治家にはましてない。
青木: いま宮台さんがおっしゃった「悲劇の共有」って言葉がキーワードなんですけどね、宮台さんは、先の対戦におけるところの無残な敗戦も、悲劇として共有されなかったというふうにおっしゃったんですけども。ただ、一定度は共有されたというかね……「あのようなことはしちゃいかん」とか「戦争だけはやめよう」とか、憲法9条がいいかどうかは別としてですね、旗頭として「憲法9条を大事にしようじゃないか」というような一定程度の共有はあったんだけれども、しかし……。
宮台:■いい加減でした。
青木: いい加減かつ、そういう体験者・共有者たちが、どんどんどんどん社会の中枢からいなくなっていって、ますます悲劇を忘れ去るというか、共有しなくなってしまった。こういう見方はできないですか?
宮台:■それを、「私たちが悪かった」VS「私たちはダメだった」の対比で考えるといい。ドイツでは、「私たちは悪かった」ではなく、「私たちはダメだった」というふうに、「ダメさ」を明らかにして、そこを変えなければ、また同じ悲劇が起こると考えたわけです。
■日本人の場合、謝罪が大好きという文化もあるけれど、「悪かった」って言うものの、じゃあどこが悪かったのか、つまり、どこがダメだったのかを、はっきりさせない。だから、ダメさの根源を全く変えられないまま、「たえずキョロ目しながら(周りを見ながら)所属集団の中でのポジション取りにいそしむ」とか「統治権力にべったり依存し、統治権力に文句を言う人を見つけると『不安を煽るのかー!』と浴びせかける」といった、敗戦を導いた劣等性つまりダメさを、変えられないままなんです。
青木: 「悲劇の共有」って意味でいうと、たとえば3.11――東日本大震災と福島第一原発の事故――、あるいはここにきての新型コロナの感染拡大。いわゆる「検察庁法改正案に抗議します」っていうムーブメントがネットで拡がったっていうのは、ある種の悲劇を市民たちが共有したので、「ポンコツ政府に任しておくと大変なことになるよ」ってことにようやく気づいたことによって、「これは許すべきじゃない」っていうのが一定程度は拡がったというふうに見るべきですか。
▶日本はもっともっと奈落の底に落ちなければならない
宮台:■そういうふうに見られればいいですけど、そう簡単じゃない。それは1960年の安保条約改定の時とか警職法(警察官書職務執行法)改正の時とか、たびたび日本でも大規模な異議申し立ての運動が生じているんだけど、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということが繰り返されてきたんですね。
■そこで、丸山眞男[政治学者]が、日本人がキョロ目で周囲に依存し、ヒラ目(上目遣い)でオカミに依存するままでは、同じ悲劇を繰り返してしまうから、日本人は「一身独立して一国独立す」という福沢諭吉の自立原則に戻るべきだ、とはっきり言いました。多くの人たちは「まさにそうだ!」と思って、丸山眞男のブームが知識人に限らず、大衆的に起こった。
■ところが、結局は「ブーム」に過ぎなかった。周りが読んでいるから、丸山を読む。周りが「良い」と言っているから、「丸山は良い」と言う。キョロ目して丸山につどった人間たちは、ブームが終わると丸山から離れて、気がつくと社会には丸山の痕跡が残っていない状態になりました。10年経つと、もう社会は丸山を完全に忘れた状態になったんですね。
■なので、いっとき「これは絶対に許せない」っていうふうに国民が噴き上がるだけでは、「噴き上がっては、また忘れて」という同じことが永久に繰り返されるんです。そのことを、そろそろメタ的に学ばないとまずいな、日本は消えるだろうな、というふうに思います。
青木: 宮台さんに質問がきています。
ラジオネーム:ミュラー13さん
「安倍内閣はなぜこのような状況の中でも、政局にならないのでしょうか。もう嘘で固められた内閣で、使えないマスクを配ろうとしたり、お国の一大事の時に出てくるものとは程遠い感じがします。なにしろそれを自慢するのですから、目も当てられません。どうしてこうなるんでしょうか」
っていうお尋ねも来ているんだけど(笑)。今のが答えっていうことですか。
宮台:■そうです。悲劇を共有していないからです。なので、「安倍をトップに頂いていることで、日本が奈落の底に落ちる」という悲劇を、ぜひとも経験していただきたい。それを「加速主義的な立場」というふうに申し上げてきました。その意味で、僕は次安倍内閣が誕生したときも喜んだし、今も安倍さんに四選してほしいと思っています。日本人が、自分のいい加減さによって、自業自得の悲劇を被るだろうと予測したからです。早くもそうなりつつあるのは、とても良いことです。
■でも、まだまだウヨ豚が跋扈しるし、「安心厨」がウヨウヨ湧いている。周りをうかがってポジションを取るキョロ目厨と、上をうかがって媚びへつらうヒラ目厨が、合体して「安心厨」になっている。醜悪です。相変わらず「自分の頭で自分が置かれている状況を観察し、自分の周りの人間たちを守るために決して安心せずにベターな選択をしていく」という当たり前のことができない。「不安を煽るのかー!」「バーカ、不安にならないと各人が安全に近づけないんだよ」っていう(笑)。そういう頓馬が大勢いるので、もっと落ちるべきです。
青木: これね、宮台さんは別の場所でも議論されているのを注目したんですけれども。恐らく多くの人々、それなりにきちんと思考能力のある人であれば、決して、今の日本の国だったり社会だったり政治だったりっていうのが、いい方向にいっているとは思っていないと。しかし「なんとかやれているよね」と。
最近、某大手新聞社がですね、なんでこんな世論調査をしたのか、意味があるのかどうかは別にして、未だに日本の人の6~7割は「自分が中流だと思っている」と。つまり、「まだまだ呑気に暮らせるよね」と。宮台さんの言葉で言うと「ゆでガエル」ですかね。急速に温度が上昇していけば気がついて「これは許せない」っていうふうになるんだけど、まだ「なんとなく暮らせちゃっているよね」と。徐々に温度が上がっているので、悲劇がどんどんどんどん先送りされて、カタストロフの度合いがでかくなっちゃうんじゃないかって恐怖も、僕は描くんですけど。
宮台:■カタストロフは本当は不幸なことだけど、日本人には必要です。日本の経済データは「盛られたものしか発表されていない」。失業率は非正規で盛られ、株価はGPIFと日銀の買い入れで盛られている。盛れないのは最低賃金と一人当たりGDPですが、実にひどい値でしょ。最低賃金はアメリカの高いところや欧米の3分の2ないし半分です。個人別GDPは、去年、韓国とイタリアに抜かれました。国家レベルのGDPを見ると、日本は20年間まったく成長していない。家計レベルの実質所得が1番高かったのは97年で、なんと23年前。皆さんどう思っているかわからないけど、オリンピックは多分もうありません。
青木: そうですね。
宮台:■それは、選手に、練習や選考会を強いることが残酷だからです。日本でそれができたとしても、他の国ではできません。すると、いま日本は経済的になんとなく成り立っているように見えますけれど、これからは成り立たなくなります。オリンピック後はどの国も過剰投資の反動で必ず不景気になるし、1964年のオリンピック後も日本は不景気になったけど、これがオリンピックが不開催となれば、ダメージは計り知れません。
■日本人は能天気なので、モダン・マネタリー・セオリー=MMTが成立するかどうか、つまり財政が破綻するかどうかってことを議論します。財政は破綻しないかもしれない。ちなみに年金財政だって破綻しない。いざとなったら受給をキュッと絞っちゃえばいいだけ。問題は、日本人がどんどん貧乏になっていることです。財政破綻しなくても、貧乏になる。貧乏になれば、日本は8割が内需で回っているけど資源やエネルギーは外に依存するので、購買力に比べて高い身銭を切らされる。それで、ますます貧乏になり、という悪循環です。
■今でさえ義務教育費は先進国の中で最低の予算比率。だから、皆さんは家計の中から3分の1から4分の1のお金を教育に回す。だから、それを除いた可処分所得が低く、中流以下はたいへんです。ヨーロッパを中心として多くの国では、教育は無料。医療も北欧を中心として無料。その代わり、税金は高い。税金は高いけど、中流以下が貧乏に喘ぐことはない。ヨーロッパ全体として、所得は日本よりも高いが、物価も日本よりも高い。最低賃金は日本の1.5倍から2倍である代わりに、ワンコインで外食はできない。昼間でも1000円以下では無理。でも、賃金が高くて、物価も高いということが、豊かな国ということなんですね。
■そういう意味で、日本はもう終わっているんですけど、それをマスメディアが報じないですね。それは、みんなのいい気分、何となく中流でいられるみたいな気分を、壊すことで不人気になりたくなりからですね。しかし、潮目があって、閾値を超えると、逆に、能天気なことを言うと叩かれるように変わります。それは、近いうちに生じます。でも、潮目を超えるまでは、何となく中流気分のまま。だから、真実を知るにはカタストロフが必要なんです。
▶「倫理」「貫徹」がない日本は歴史が作り上げた特性
青木: これだからね~、カタストロフに行く前の段階でね、宮台さんがよくおっしゃってる産業構造の変換にしてもね、その他いろいろな問題点というのに気がついて、どこかでなにかを変えるっていうのが、あるいは変わるっていうのが、人間の理性であり知恵であり知性でありという感じがするんだけれども、おっしゃるようにカタストロフなのか、あるいはカタストロフの直前までいかないと変わらないっていうのは、これは日本人特有ってことなんですかね。
宮台:■特有です。これは古い歴史があるので、よほどひどい「悲劇の共有」がなければ変わらないでしょう。人類学や民俗学を調べればわかるけど、日本人はね──日本という国はと言っておきましょうか──この地域は、実は農耕が始まる前から定住していました。縄文の初期段階がそうです。縄文の途中から農耕が入ってきますが、その前の狩猟採集段階から定住していました。半定住と言います。それは、日本の国土は当時9割が山地で、各地に多数点在する小さな沖積平野に人が住んでいて、動き回れなかったからです。沖積平野と沖積平野の間に距離があって、狩り場を争う必要もなかったので、ジェノサイドもなかった。山だらけだけれど沖積平野が極端に少ない台湾先住民(かつて首狩り族とも呼ばれた)とはそこが違います。
青木: 地域的にいうと、日本という国の、ある種の島国根性という言葉によく置き換えられるのかもしれない。たとえば直接的に侵略されたこともないし、存立事態が本当の意味での危機に陥ったというのが……先の大戦は、自業自得で存立事態の危機に陥ったんだけども。そういう意味でいうと、よく言えばのんびりしているというか、悪く言えば自分たちが生き残るためになにを選択し、どういうふうに向かっていったらいいかってことができなかった。
宮台:■そうです。過酷な全殺戮がなかったから「倫理」がない。代わりに周りに合わせるだけ。倫理とは「貫徹」です。「それをしなければ我々は滅びてしまうから、許せないことは絶対に許さない」という「貫徹」なんです。でも日本にはその「貫徹」がない。代わりに「学習」がある。キョロ目して態度を変えるんです。「周りがもういいって言っているんだから、いんじゃない?」っていうふうにね。それはそれでやってこられた。淘汰されずに済んだんです。それは、地政学的ないし風土的な特徴があったからです。そういう特徴がある場所って世界にはないので、これは日本人の歴史が作り上げた特性だと言えます。
青木: まぁそれはちょっと……悲しい気もしますけれども。
宮台:■そこで考えてもらいたいのは、それがひどいことにつながる可能性です。まず、日本人が日本人だけでゲームができた時代が終わっている。脳天気な民族と、倫理的な民族との間の生存競争では、倫理的な民族だけが生き残ります。次に、テック。いまZOOMとFaceTimeを使って、このブロードキャストをやっています。こういうリモートワークやリモート授業が拡がると、2wayではあるけれど、集まりの構造=ギャザリングがなくなります。ところが、みなさん小学校の頃を思い出してください。教室の教室たる所以って、先生と生徒との間の双方向のコミュニケーションというより、「横のつながり」だったでしょ?
青木: 「横のつながり」。
宮台:■生徒の間のつながりです。生徒同士で遊んだりとか、組替えで知らない子と出会って「喧嘩して仲良くなる」みたいなプロセスですね。そうしたギャザリングがあったから、先生に聞けない質問を友達にしたり、先生に言えない悩みを友達に相談する。単に親しくなるだけじゃなく、仲間の知恵で問題を解決をするという「知識社会化」を学べたわけですよ。でも、いまはリモート化のせいで、アメリカの二国間外交みたいに分断された、レクチャラーと生徒の間の縦割りの関係があるだけ……。あれ、パソコンが落ちました(笑)。
青木: あ、それじゃ宮台さん、ここで曲を1回挟んで仕切り直しましょう。
宮台:■わかりました、ありがとうございます。
~
ミュージック
~
▶コロナ禍で横のつながりがなくなると「倫理の基盤」がつくれない
青木: 宮台さん、後半もよろしくお願いします。
宮台:■よろしくお願いします。
青木: 前半の後半部分、スタジオにいる作家の人間が「僕も興味あるんです!」と言っていたんですが、要するにリモートでいろいろ出来るのは利点も利便性もあるんだけど、ギャザリング、つまり集まることができなくて横の場がなくて分断されちゃうという話でしたけども。これはやっぱり問題ある?
宮台:■めちゃくちゃ問題ありますね。倫理の基盤って何だろうって考えると、基本的に「言葉の外」「損得の外」「法の外」でつながっているというシンクロ感覚なのです。これはたとえば、外遊びで生じることです。一人で虫を取っていても無理で、みんなで虫を取る。みんなで球技をする。みんなでブランコで遊ぶ。長縄跳びなんてのが一番わかりやすいけれど、共同身体性が生じて、それをベースにした共通感覚が生じるんです。すると、人が「痛っ」てなると、自分にも痛みが生じる。ダイレクトな身体性でつながるっていうことです。そういう「共同身体性が与える共通感覚」という経験の中で与えられるものが、倫理の基盤。
■それが失くなってしまうと、残念だけど、たとえ「仲間」という言葉が残っても、僕らには仲間を作ることができなくなっちゃう。そうすると、「僕だけが許せない」じゃなくて「みんながそれを許せないはずだ」という感覚や、それをベースにした「仲間のために自分が問題を背負うぞ」という意欲も消えます。すると、残念だけど、僕らからは倫理が消えます。今でさえ安倍や官邸官僚に見るように、共同体の空洞化でどんどん脱倫理的になっている。辛うじて残っていた子ども時代の外遊びが消えることで、加速度的にひどくなるでしょう。
青木: つまり、ただでさえ日本人には希薄な「これは許せないことなんだ」という公共性みたいなものが、このコロナ禍の中で――子どもたちでいうと、3ヶ月くらい喪失しているんですけど――、これが更に進んでしまう可能性があると。
宮台:■可能性があるということです。今後、新型コロナで、ロックダウンあるいは疑似ロックダウンをしてはそれを緩和してってことを、グローバル化状況の下で長い期間くり返すことになるので、「集まりの構造」をどれだけ意識的に保つのかが非常に重要になります。
■当たり前だけど、コロナで死ぬのも大変だけど、経済死、経済で死ぬことも、大変ですよ。ただ、経済で死ぬって言ったって、餓死することじゃなく、日本の場合は自殺なんですね。失業率と自殺者数はとても高い相関率ですから、コロナ死者数と自殺者数を合わせた数を、減らさなければいけない。もっというと、コロナ死と、経済死と、縦割りに分断されることによる社会死=孤独死との、合わせた数を、減らさなければいけないんですね。
■なので、コロナ死者数を減らすほうがいいけれど、そればかりに傾注するのはまったくダメ。貧しくなった人々の経済状況と、人々の倫理的感覚のベースになる集まりの構造を、保つ必要があります。それも、長い間、意識しながら保っていくことが必要なんです。もしそのことがうまくいくのであれば、まさにコロナを奇貨として、日本人が自覚しなかった倫理の基盤を、僕らが再構築できることになるかもしれません。
▶9月入学は日本社会が良くなることを意図していない
青木: 宮台さんに聞くのは愚問かもしれないけど、9月入学っていうのが一時盛り上がって、政権基盤が揺らいでいるので与党からはねられたらしくって、結局ポシャったんですけど。9月入学への移行っていうのは、宮台さんはどんなふうに考えてらっしゃるんですか。
宮台:■くだらないと思います。それは以前デイ・キャッチっていうラジオ番組でも言ったことですがね。「安心・安全・便利・快適」っていう便宜っていう観点からすると、留学がこれから増えていく──出ていくのも入っていくのも──のであれば、9月入学にしたほうがコストが掛からなくなるように見えます。全部じゃないけど9月入学の国が多いのは事実なので、4月と9月の半年間という無駄な時間を使わなくて良くなるってことですね。
■でも、ちゃんと考えてほしい。国際化って、これからはイメージが変わるんです。ビル・ゲイツがどうしてBH=ビッグヒストリーに関心を持ったかというと、コロナ以前から始まっていた大学のリモート授業なんですね。それをでビッグヒストリー関心を持って、ビッグヒストリー研究に10億円を出したってことで、ビッグヒストリーがブームになった。これからは、海外に留学するって言っても、リモート授業にお金を払って参加するって形になる可能性があります。たまにスクーリングやコーチングを受けるために、ワンシーズンに一度チューターに会って、1週間セミナーを受けるみたいな形になっていくでしょうね。
■そうすると、英語教育の問題と同じ未来になります。ポケトークみたいなのがどんどん性能アップして普及していけば、一般人には英語教育はいらなくなります。これは英語教員にとっては非常に大きな利権問題だけれど、どのみちそうなることは百パーセント確実なんですね。留学もそうで、リモート授業やリモート学習が中心になることは確実なんです。どちらも、新型コロナの流行で5倍速・10倍速で進むだけの話ですね。テクノロジーが発達した未来に何が生じるのかを考えれば、人の移動が要らなくなっていくに決まっています。
■さて、日本の場合、なぜ4月なのだろう。日本の春って、単にいろんなものが芽吹くというだけじゃない。桜が咲いて、花見をして、桜の木の下で宴会して、墓参をする。日本人が長く続けてきた生活形式と、それに結びついて長く抱いてきた共通感覚に、マッチしているということがあると思うんです。さっきの「集まりの構造」っていう話でいえば、お花見に集まって、新しい一区切りのはじまりを称え合う形で新年度を迎える、っていう日本的な感受性って、結構、大事かもしれない。
■なぜ大事「かもしれない」っていう言い方をするかっていうと、安全・安心・便利・快適みたいな計測可能なエビデンスに還元できない可能性があるからです。以前、全米ライフル教会の会長をやっていたチャールトン・ヘストンが、「銃を持つことによってカナダの300倍も人が死んでいます。これはおかしいんじゃないですか?」と尋ねられて、「あなたの言う通り、ガンを手放せば、たしかに秩序は保てるだろう。だが、アメリカ人にとってガン(銃)はシンボルである。ガンを手放して秩序が得られたとしても、もはやそれはアメリカではない」って言ったんだね(笑)。
■だから、「社会が良くなる」っていう言い方をする時、単に「安全・安心・便利・快適」が増すっていうふうな、のっぺらぼうな考え方でいいのか、ということです。つまり、まさしく、「日本人にとって、日本の社会が良くなること」を意味しているのか、ということなんですよ。それを考えるのが、実は、合理の知のみを考える主知的な「左」とは区別された、情意を考える主意的な「保守」ないし「右」っていうことです。
■僕らの共同身体性と共通感覚を、壊すような社会の改革によって、「安全・安心・便利・快適」の度合いが上がったとしても──それで確かに抽象的な意味で社会は良くなったにせよ──「日本の社会」つまり「日本人にとっての社会」が良くなったことを意味するのか。これは文学者が長く問うてきた問題です。三島由紀夫が「空っぽな日本」という言葉で問うた問題です。日本浪漫派の保田與重郎が、「西洋的なもののパッチワークしかできない、キョロ見とヒラ目で右往左往するだけの恥ずかしい日本人が、それでも日本人たる所以だと言えるもの」として言挙げしたことです。
青木: ということは、9月入学なんてものをレガシーが欲しいのかなんか知らないけれど……。
宮台:■レガシー欲しいだけの、クズの損得計算でしょう(笑)。
青木: この期に乗じてやろうなんていうのは、いまの政権だったりとか、今回進めようとしていたのは、自称「保守」の人たちなんだけど、とても保守とは思えないと。
宮台:■単なるインチキ保守ですね。
青木: ははは(笑)。
宮台:■だって牢屋に入りたくないというだけで、特別法の優越するはずの国家公務員法を、たかが行政機関であるくせに勝手に解釈変更して、黒川の定年延長をはかるなんてことをやった。黒川さんは今、東京高検の検事長ということになっているけど、僕は検事長としては認めない。なので、黒川決済の書類が出てきたら、みなさんどんどん行政訴訟を起こしましょうと呼びかけているわけです。
▶自粛警察は神経症。彼らの内側に倫理はない。
青木: ふふふ(笑)。それとね、もう1つ屁理屈を唱えるわけじゃないんですけれど、「これは許せない」っていう公共性っていうのが、どうも日本人は薄いんじゃないかという話だったんですけれども、一方で最近、新住民と自粛警察っていうね。「自粛警察」ってコロナでムーブメントになったじゃないですか。これってある種、「みんなが我慢して感染防止のために頑張っているのに、こんなことしているヤツは許せない!」っていう感覚を持っている人たちとも言えないことはないかなと(笑)。
宮台:■そう。それはしかし、「みんなで頑張っていれば安心」という具合に、安心と安全を取り違える、劣化した「安心厨」の神経症的な個人感情で、ショボい。自分たちはキョロ見とヒラ目で思考停止で頑張っているのに、正々堂々と自分の頭で考えて生きている人たちを見ると、自分が否定されたと感じて、劣等感を覚える。だから、みんなで一斉に叩く。これは不倫炎上にも見られることで、内側に倫理があるからじゃない。なぜかっていうと、こうした劣化した連中は、周囲次第で基準がコロコロ変わるからです。「安倍がこう言っているのに!」って強く大きなもの(笑)をヒラ目で参照して、みんなでキョロ見しながら従っていく。ところがそこに自由な人が一人いると、「こいつ目障りだからやっちまえ!」となる。日本人の劣等性がまさに「安心厨」「自粛警察」として現れていると思います。
▶アメリカ社会の排外主義や人種主義は神経症とは違うもの
青木: 「許せない」っていう公共性がないっていうのが、日本の場合もともと無いのかもしれないけども、たとえばアメリカなんかでも、トランプ政権なんか見ていると、トランプを支持している人たちっていうのは、別に悪いわけじゃないんだけど、そういうものが崩壊していってるっていうかね。自分たちが中流から落ちたせいなのか、あるいはエスタブリッシュメントへの反発なのか理由は別として、なんか「許せない」っていう公共性がアメリカでも壊れかけているっていう感じがするんですけど、それは違うと思いますか?
宮台:■アメリカの場合はだいぶ違うと思います。トランプの支持母体はラストベルトの、旧自動車工業を中心とする、昔に中流だった白人の製造業労働者たちなんですね。この10年間、オピオイドがアメリカで蔓延していますが、こもも、この人たち、つまり白人の旧製造業労働者たちが中心です。この人たちは、まず心身ともに痛んでいて、次に「昔はこうじゃなかったのに」って思っている。そこにトランプが出てきて「オレに任せろ。あの古き良きアメリカをオレが復活させてやる。オレがお前らの痛みを止めてやる」って言っている。
■すごくアメリカ的ですよね。というのは、「あの古き良きアメリカをオレが復活させてやる」ってところで、インテリのテクノロジスト──反動主義者や加速主義者──もトランプを支持しているからです。彼らは、テクノロジーを通じて――それはバーチャルとかオーグメンテーションだけれど――「古き良きアメリカを復活させる」ことを願っています。
■つまり、アメリカには、たえず「古き良きアメリカ」という参照点があり、それから離れれば離れるほど痛みを感じる旧中流層が増えるという法則があります。だから、「オレに任せれば痛みを止めてやる」と「古き良きアメリカに戻してやる」っていうメッセージが合体する。もちろんポピュリズムです。政治的動員を意図した感情的扇動であって、政策の合理性は埒外。けれども、それが意味を持つところに、アメリカ的な文化を感じますね。
■これが実は、いま起こっている人種暴動の背景でもある。アメリカを一つの乗物だと考えましょう。リチャード・ローティ[アメリカの哲学者]が1990年代半ばにこう言った。「リベラルの思想は、乗り物の座席に余裕がたくさんある時の話。余裕があったから、昔は乗ってなかったヤツが座っていても、たとえば女や黒人やヒスパニックが座っていても、まぁいいかとなった。だが、座席が減ってくると――90年代半ばからだんだん減ってきた――、何でお前が座っているんだよ、そこは元々オレたちの席だったんだ、と昔から座っていた人間たちが主張しはじめる。これが人種主義や性差別や排外主義の復活として現れる」と。
■7世紀の飛鳥時代から大陸中国の帰化人と長く共存してきた日本での「不安を埋めたいだけのウヨ豚みたいな神経症的排外主義者」と違って、アメリカの排外主義や人種主義を担う人々は、神経症的な気休めなだけじゃなく、座席が少なくなってきたときに「元々誰の場所だったのか」を入ってきた順番で主張する人たちです。これはむしろ「移民国家だから」起こることです。「最初に入ってきたのは誰か」から来ていることです。
■だからアメリカは多様性があるって言うけど、それは「古き良きアメリカ」を作っていた、白人男性キリスト教徒の多様性です。「クエーカー教徒(プロテスタント一派)が作ったペンシルバニア州があってもいい」「モルモン教徒(キリスト教新興宗教一派)が作ったユタ州があってもいい」という多様性。13州による合衆国とはそういう意味です。それは白人男性キリスト教徒の多様性でしかなかった。そこには女や黒人やヒスパニックはいなかった。だから「バスの座席に座っていなかったな。だったら出てけよ」となるわけです。
■その意味で「古き良きアメリカ」という参照点がある分、原理主義的になりやすい。日本の場合に、原理主義になりうるような参照点がない。だから、たとえば安倍や安倍信者のように「保守」を自称する連中を見ても、「一体こいつらなにを参照しているんだろうな? 頭は大丈夫なの? まず劣等感を何とかしたら?」っていうふうにしか感じられないんです。
青木: わかりました。宮台さん、そろそろお時間です。毎回本当に頭の中がギュッと絞られるくらい、知的刺激を受けつつ、あっという間に時間が過ぎちゃうんですけど。また次回、月一ですから、7月7日ですけども、よろしくお願いします。
宮台:■はい、よろしくお願いします。
関連記事: 文字起こし| 【月イチ宮台】 日本は過酷な