究極の名作、グザヴィエ・ドラン『たかが世界の終わり』について、論じました
グザヴィエ・ドランの新作は、家族の言語的歪みが<クソ社会>を生成する事実を発見した
【<場>への埋め込み=<妄想>の共有への信頼】
■グザヴィエ・ドラン監督『たかが世界の終わり』(2016)を見ていたら吐き気がしてきた。援交女子高生らを取材していた二十年以上前、家族の葛藤話を多数聞いたが、その頃の気分を思い出した。そういえば園子温監督『紀子の食卓』(2006)を見た時もそうだった。
■今回のキーワードも前回と同じ<妄想>だ。前回は片渕須直監督『この世界の片隅に』(2016)を論じたが、少し復習したい。かつて人々は<場>に埋め込まれていた。パラフレーズすると<妄想>の共有を信頼していた。主人公すずも<場>に埋め込まれた存在だった。
■例えば、日本人は長らく「狐が憑く」とか「狐が化かす」といった観念を共有してきた。私は昭和34年生まれだが、昭和10年(1935年)生まれの母は無理でも、大正4年(1915年)生まれの母方の祖母は私が子供だった昭和40年頃、実に頻繁に「狐が〜」と口にしていた。
■かつての日本人にとって狐は共有を信頼された<妄想>である。祖母が狐を<妄想>した頃、狐の<妄想>は皆のものだと誰もが思っていた。単なる語彙としての狐に留まらない。時には人々は生々しく狐を共体験した。実は私にも似た経験がある。UFO目撃体験だ。
■ユングが『空飛ぶ円盤』で注目したようにUFOはしばしば集団で目撃される。私は伊豆修善寺サイクル・スポーツセンターで親友と一緒に目撃した。因みに連載の編集担当・辻陽介氏も高田馬場のコアマガジン本社ビルから同僚と一緒にUFOを目撃したという。
■複数人が目撃して確認し合ってもUFOが実在すると見做す必要はない。「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」というユングのテーゼは依然有効だ。<妄想>の共有を信頼し合う時=共通の<場>に埋め込まれている時、人々は様々な共同体験を手にするからだ。
■<妄想>の共有を信頼する時=<場>に埋め込まれる時、人々はそうでない時には耐えられなかった事柄に耐えられる。かつて人は事も無げに間引きや姥捨てをした。システムに寸断された個人には耐え難い営みを、生活世界の<場>に埋め込まれることで乗り超えたのだ。
■『この世界〜』の主人公も兄や母の死や義父の入院を事も無げに克服。姪を自らの右手と共に失っても程無く前を向いて家屋根を貫徹した焼夷弾の消化に挺身した。戦禍の拡大を自然災害の如く受容して来た主人公が唯一動転し激昂したのは終戦の詔勅の折だった。
■それは<場>を翻弄して来たものが自然ならぬ人為である事実に瞠目したからだ。想像界(生活世界)が象徴界(政治システム)の介入で切断されて来た事実が詔勅によって誰にも自明になった。爾後彼女はもはや共同体に埋没できない個人として数多の死と向き合おう…。
■と思いきや、戦後に孤児を家族として育てるうちに主人公は笑顔を取り戻す。<場>が──共有された<妄想>への埋め込みが──取り戻されたからだ。繰り返す。<妄想>の共有を信頼し合える時、人々はソレが共同的体験であることを以て、相当な残酷さに耐え得る。
■我々は既に<場>への埋め込みから見放され、<妄想>の共有を信頼できない。その所為で被害妄想に苛まれがちになった。数多の拙論で示した通り、日本では1983年以降急速に暗渠化・鉄柵化・屋上閉鎖・校庭閉鎖が進められて来た。起点が1979年「隣人訴訟」だった。
■若者の為に言えば、<妄想>の共有への信頼不能性を象徴するのが近隣騒音。近隣騒音で警察が呼ばれるのは今や普通だが、昔はあり得なかった。私も経験があるが、何かのついでに立ち話の機会を設け、「そう言えば…」という具合に伝える。それが「昭和の作法」だ。
■実験心理学によれば知り合いの出す音は騒音だと感じにくい。だから近隣が「アカの他人」になれば騒音だと感じられ易くなる。だが警察に通報される事態は別の問題を示唆する。「夜に音を出すとは自分の事しか考えない鬼畜に違いない!」という狂った被害妄想だ。
■満員電車が刺々しい雰囲気になったのは90年代半ば。同じ頃、ストーカーの存在があちこちで報告され始める。トンガリキッズの援交第一世代が離脱し、自傷系の援交第二世代が参入したのも90年代半ば。ストリートブームが終焉し、ジモティーのお部屋族が勃興した。数多の統計が示すようにこの頃から全国的に若い世代の「性愛からの退却」が始まった。
■全てに共通するのは、<渾沌と眩暈>の回避、<安心と安全>への傾斜だ。恐らく<妄想>の共有が信頼不能になった事態がこうした傾向を後押しした。逆に<妄想>の共有が信頼可能だった頃、街は微熱感に満ち、至る所でアオカンがあり、今の約3倍もナンパが存在した。
【言葉の自動機械が醸し出す<クソ社会>】
■タイトルが暗喩するようにドランの新作は家族映画「ではない」。劇場パンフやレビューに「類い稀な家族映画」に類する記述があるが間違いだ。私の考えではこれは<社会>がクソである理由を洞察した作品だ。クソである理由は「言葉の自動機械になり下がったこと」。
■そこには主体性があると見えて自動運動しかない。カント『実践理性批判』を想起させる言い方だが、カントの場合は感情の自動機械。欲望の自動運動に抗う端的な意志が評価される。今回の私は理性=概念言語プログラムこそが没主体的な自動機械だと述べている。前回述べたが、こうした思考はフロイトやシュタイナーに共通する19世紀的な意味論だ。
■死を前にした主人公は<クソ社会>に外がない事実を弁える。パーソンも社会も言語的な自動機械から逃げられない。かつて『紀子の食卓』を論じた際、自由に振舞うほど言語的自動機械に囚われる逆説からの脱出口として、園子温が2つの道を提案していると述べた。
■第1は、共有された<妄想>への信頼を回復すべく近親姦を用いる『奇妙なサーカス』方向。第2は、言語的自動機械に抗うかわりに自覚的に自動機械に<なりすます>『紀子の食卓』方向。前者は近親姦を否定する社会を前に<被害妄想共同体>を構成せざるを得ない。
■園子温作品は、他者を巻き込む自慰的営みに過ぎないとし、この方向を否定した。我々にはもはや[<妄想>の共有を信頼し合える可能性=共通の<場>に埋め込まれる可能性]は家族の規模に於いてすら残されていない──それが園子温作品を通じた「診断」であった。
■そうした「診断」は、抽象的な水準での一般解に過ぎない。だが一般解の導出ロジックを弁えることは、一般解に抗う例外的営みの構想へのヒントになる。『たかが世界の終わり』は一般解の導出ロジックを明示することで、園子温の解を証明してみせてくれた。
■家を出た劇作家の息子が、自身の死を前に帰郷、長年の不義理を詫びて別れの挨拶を告げようとするが、啀み合う家族に何も伝えられず、1日で家を離れる。それだけの話だが、作品は「なぜ家族が啀み合うか」への回答を通じて、<クソ社会>に外がない理由を示す。
■家族全員が共約不能性incommensurabilityを刻印された孤独な<妄想>を生きる。共有された<妄想>への信頼は一切ない。全員の<妄想>は大宇宙の星々の如く決して交わらない。その理由も明白だ。言葉の所為。別言すれば、各人が象徴界の牢獄に囚われているからだ。
■映画を凝視すれば各所に象徴界未然的な想像界の痕跡がある。だが劇中人物も観客も一瞬後には象徴界へと回収され自動機械に頽落する。概念説明。我々には<世界>ならぬ<世界体験>が与えられる。<世界>を<世界体験>へと変換する函数として言語的自動機械がある。
■こうした社会システム理論の概念系をラカンのそれに対応させると、<世界>が現実界、<世界体験>が想像界、言語的自動機械が象徴界、となる。但し、象徴界に媒介されない想像界、即ち、象徴界未然の想像界があり得る。そこが我々にとっての思考のポイントになる。
■ヒトが概念言語を用いて4万年。ヒトが言語的自動機械の度を高める書記言語の誕生以降3千年。これに比べるとヒト(サピエンス種)が種的同一性を得て50万年。3万年前まではサピエンス種とネアンデルタル種の間で子が産まれた。ホモ属内部での通婚があったのだ。
■ヒトは歴史の大半を──ホモ属に拡張すればより長い歴史のほぼ全てを──象徴界未然の想像界すなわち言語的自動機械に媒介されない<世界体験>を、享受しながら生きてきた。ヒトの感情や意志のメカニズムは、言語以前的な共同生活に即して適応的な進化を遂げた。
■だが言語の獲得で技術の伝承的高度化と分業編成の伝承的高度化が可能になり、人類(ホモ属)の中でヒト(サピエンス種)だけが直前の氷河期を生き延びられた。引き替えに、伝承される技術や分業編成から眺めると、我々は自動運動するシステムの部分品に縮退した。
■長き言語以前的な共同生活という進化生物学的な基底に鑑みれば、「そこ」に無理がある。「そこ」とは、想像界が象徴界に媒介されるメカニズム。フロイト=ラカン的には、そうした無理ゆえの副作用として無意識が生じる。無意識は享楽を通じて人を操縦する。
【言語の不自由こそが自由であるという逆説】
■映画は以上の全てを踏まえた上で、<クソ社会>で家族ユニットが果たす役割を洞察する。その洞察は、私が多数の取材を経て得た結論に重なる。ここで<クソ社会>とは、共約不能な個人化された<妄想>を人々が生きているという大規模定住社会の平常運転を言う。
■私は取材の積み重ねを通じて、個人化された<妄想>の出発点が家族にあるとの確信を得て、それが二十年前の「専業主婦廃止論」の論拠となった。但し論理的には母親でなくてもいい。親が子を抱え込もうとする場合、「<妄想>の玉突き」が生じるということである。
■子には、親の要求が分かっても、要求を生み出す親の<妄想>の全体像は分からない。だから、自己像の一貫性を保つべく、自我(=自己像「を/が」可能にするメカニズム)が一定の<妄想>を紡ぎ出す。抽象的に言えば、親の<妄想>に適応するための自分の<妄想>だ。
■子が長じて親になると、また同じことが繰り返される。加えて「<妄想>に適応する為の<妄想>」すなわち「<妄想>の玉突き」は、兄弟姉妹間にも生じ得る。我々がこの映画に見出すのは、「<妄想>の玉突き」が生み出すコミュニケーションの典型だと言えよう。
■どの劇中人物も自分の強迫神経症的な反復に気付いている。今では強迫性障害とも呼ぶフロイトが最初期に注目した神経症の特徴は「分かっていてもやめられない」こと。鍵の閉め忘れが気になる程度が異常だと自覚できたとしても、決してやめることができないのだ。
■だから劇中人物には悪意がない。母も妹も反省的構えでは全体を見通す。母は「兄と妹が出て行かなかったからこうなった」と語り、妹は「直ぐに出て行きたい」と語る。兄は通念上「出て行けない」と弁えるがゆえに「出て行った」弟をフリーライダーだと感じる。
■こうした動かせない関係性の中で、各人は自己像を保つための──自己のホメオスタシスのための──<妄想>に淫する。そしてこの<妄想>自体がホメオスタティックな自己運動を示す。結局、映画が描き出すのは悪意ではなく、そうした「どうしようもなさ」なのだ。
■映画はきょうだい間・親子間の葛藤の詳細を描かず、<妄想>の共約不能性という「関係の絶対性」を描く。「然々の事件があったからこうなった」という因果理解を退けるためだ。事件があろうがなかろうがどのみち似た関係が実現した筈。だから「関係の絶対性」なのだ。
■この「絶対性」すなわち自動運動の必然的帰結は言語に媒介される。言語的な自動運動が劇中人物ら自身を差し置いて進んでしまう。だから、息子が死を告げに帰ってきたと気付くのは、母や兄や妹ではなく、コミュニケーション障害を抱えた初対面の兄嫁だけなのだ。
■この設定はドランの定型だと言える。前作『マミー』でも、言語的自動運動の地獄を生きる主人公に道を示すキーパースンは、吃音の隣人だった。言葉の自由こそが不自由であり、言葉の不自由こそが自由である、という逆説モチーフがドランの全作品を貫徹する。
■そこでは、相手の<妄想>に適応すべく自らも固有の<妄想>に棲まう他なくなるという「<妄想>の玉突き」を生み出す、今日的な家族の「閉じ」が問題にされる。そうして自己形成を遂げた者が、<妄想>のホメオスタシスに役立つもの以外を見ない人格になるのは必然だ。
■かくして『たかが世界の終わり』は、我々の大規模定住社会が、自分(達)を辛うじて保つべく共約不能な<妄想>にすがる、相互にコミュニケーション不可能な者の集合体になり下がるべき必然性を描き出すことに成功した。<クソ社会>の必然性が数学的に証明された。
【社会は「家族内のシノギ」によって滅びるのか】
■言語的な葛藤と緊張に満ちた時空に観客が疲れると、いつものように音楽と舞踏が憩いの時空を用意する。それは劇中人物らにとっての憩いでもある。だが今回は少し違う。音楽と舞踏のミメーシスが劇中人物らに憩いを提供したのはたった一度、10秒間ほどだ。
■日本でいえばラジオ体操のようなダサい音楽に合わせて、母親に釣られるかのように娘がエアロビックス・ダンスを踊る。この映画最大の名場面だ。今述べた平常運転との違いは、<クソ社会>に対する昨今の観客の気付きと絶望の度合に合わせたものだと感じられる。
■ドラン自身はどうか。ギャスパー・ウリエルは、主人公ルイ役を、抱え込み的家族への適応を出発点とする、両立不能な<妄想>の自動運動的な鍔迫り合いに、コミットしようにもできない幽霊として、演じ切る。そう。各人の<妄想>に巻き込まれるのは馬鹿げている。
■だがドランは個人化された<妄想>に淫する者を罵っていない。<妄想>に耽ることで辛うじて自己を保つ他なかった「関係の絶対性」をこそむしろ描く。そこには憐憫と愛情を見て取ることさえ出来る。だからこそ、我々は感情的にも理性的にも混乱させられてしまう。
■共約不能な<妄想>へと分断された者同士が辛うじて繋がれるのが、共通の敵を掲げるショボイ被害妄想に於いてであることは、とっくに知られている。それが目下の社会に、マクロにはトランプ現象から、ミクロにはクレージー・クレイマーまでを、もたらしている。
■それゆえに我々の大規模定住社会はもはや風前の灯火という風情である。だが、その出発点にあるのが、この映画が描くような平凡でショボイ「家族内のシノギ」だとするなら、問題はさほどでもないのか、とてつもなく深刻なのか。果たしてどちらなのだろう。
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