MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
12345678910111213141516171819202122232425262728293031

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

3ヶ月前に書いた『この世界の片隅に』評をアップします

投稿者:miyadai
投稿日時:2017-02-24 - 07:45:41
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
映画『この世界の片隅に』は我々の大規模定住社会が立ちゆかなくなる理由を示す




【<社会>の中で<世界>を、<世界>の中で<社会>を、夢見る】

■前回『裏切りの街』を論じた。そこでは、社会的な言語プログラム(象徴界)に操縦された<世界体験>(想像界)の、回避と受容がモチーフとされた上で、<社会>を拒絶した性愛の眩暈と、<世界>(現実界)の偶発的閏入が、受容を可能にする通過儀礼として描かれた。
■作品に内在する限りでは説得的なものの、理不尽な<剥奪=贈与>からなるフィジオクラティックな起点を想像可能だった前世紀の物語だと言わざるを得ず、映画を見終わった後に「これは我々の現在的な体験から遠く隔たっている」という違和感を抱かせられた。
■今回『この世界の片隅に』を扱う。『裏切り~』と同時期に公開された『この世界~』は奇しくも対照的に、言語プログラムに操縦された<世界体験>を・圧倒する<世界>(現実界)による<剥奪=贈与>の・回避と受容がモチーフだ。分かりやすく対照しよう。
■『裏切り~』の主人公らは、言語プログラムに操縦された<社会>への<世界>の閏入(妊娠)を“事後的に”望んだ。秩序立った<社会>が、<世界>という混沌の海に浮かぶ筏に過ぎない事実を想像できた時にだけ、我々はフラットな<クソ社会>を生きていけるからだ。
■言い換えれば、フィジオクラティックな起点を想像できた際にだけ、ヒトは<社会>を<なりすまし>の相で生き得る。古来フィジオクラティックな起点の想像を、祝祭が可能にしてきた歴史を思えば、『裏切り~』の主人公らは“事実上”祝祭を待望していたと言える。
■他方『この世界~』の主人公すずは、秩序立っていたかつての<社会>を一縷の望みの如く想像することで、<世界>からの<剥奪=贈与>、即ち<社会>の外部としての<世界>が与える怒濤の<世界体験>に、耐え・適応し・成長する。だが話はそれでは終わらない。

【フィジオティックな起点は<社会>の産物に過ぎない】

■ところが、玉音放送の“鶴の一声”で、<社会>の外部にある<世界>が与えるフィジオクラティックな起点たと思えたものが所詮は<社会>の──言語プログラムの──産物に過ぎなかった事実を、残酷にも突きつけられ、主人公は初めて呪詛を吐露することになる。
■有名な話を思い出す。なぜ日本人は原爆投下や東京大空襲をした米国を憎まなかったか。空からの攻撃だったから──。空襲は、自らを殺戮しようとする相手の顔が見える地上戦が巨大な憎悪を刻むのとは対照的に、天災(天変地異)のように体験されるというのである。
■地上戦を体験した沖縄の年長者が挙って米兵への怨念を語る現実を想えば、そうかもしれない。ここで「天災の如く体験される」とは、<社会>の外部にある<世界>からの<剥奪=贈与>(フィジオクラティックな起点)として受け止められるという<世界体験>の形式を意味する。
■だが、「空襲か、地上戦か」は所詮、天ならぬ人が選ぶことだ。ことほどさように、フィジオクラティックな起点(天災による剥奪)に見えて、実際のところソーシャルな決定(人災による剥奪)に過ぎない、といった事態が、様々なバリエーションをとって現実にはあり得るのだ。
■『この世界~』の主人公すずは、自然災害に見舞われた<社会>に適応するかのように、戦況の悪化した<社会>に適応し、成長するだろう。ところが「終戦の詔勅」によって、“自然災害”が単に言葉によって──人為によって──もたらされたことが一瞬で明らかになる。
■<社会>にそもそもの前提を与えるフィジオクラティックな起点、即ち<社会>の外部にある<世界>からの<剥奪=贈与>。そう思われたものが、結局は<社会>を作りなす言語プログラムによって操縦された<世界体験>に過ぎないという酷薄な事実が暴露されたのである。

【平和な<社会>はそれゆえに<クソ社会>に頽落した】

■だから主人公すずは激昂する他はない。怒りは恐らく2方向に及ふ。1つは、フィジオクラティックな起点(=<世界>からの贈与と剥奪)を偽装した<社会>への怒りで、もう1つは、<世界>に適応したつもりで<社会>に適応してしまった自分という<パーソン>への怒りである。
■これを支配層(に騙された自分)への怒り、天皇陛下(に騙された自分)への怒りだと理解すれば──そうした理解が目立つ──この作品は“単なる”反戦映画になる。「友/敵」図式を用いて敵を名指し、カセクシス(充填)とカタルシス(解放)の回路を駆動させるということだ。
■しかし本作は、支配層や天皇ではなく、<社会>という摂理を問題にしている。そうした「充填と解放の回路」を駆動させても何も変わらずに反復する摂理こそが描かれるのだ。そのことはエンドロールを通じて表現される強烈なアイロニーによって更に強く印象づけられるはずだ。
■エンドロールでは、敗戦時に激昂した主人公が、時を経るにつれて、秩序を取り戻した<社会>の中で、自らの右手と共に吹き飛ばされた姪の、生まれ変わりとして迎え入れた戦災孤児の少女と一緒に、幸せになっていくだろう姿が、示される。これはむろんアイロニーである。
■20年以上前であれば我々はハッピーエンドとして受け止めたかもしれない。だが我々は既にこの20年間の「成れの果て」を知っている。秩序を取り戻した<社会>の延長線上で、我々がどんな<クソ社会>を体験せざるを得なくなっているのかを、弁えているのである。
■<クソ社会>の中で、共同性を剥奪された我々は、スーパーフラットさに倦んだ上、「正義と享楽の分離」ならびに「享楽の優位」を生きている。つまり「正しいが楽しくない」平和主義者を鼻でせせら笑い、「正しくなくても享楽に満ちた」ヘイトクライムに淫している。
■戦時は暴力的悲劇に面しつつ、天災の如く受けとめた。震災と戦災が区別されていないが、間違いなく「災」は体験されていた。そう。<社会>の外が露呈していた。だが今は違う。<社会>の外が見えないスーパーフラットさゆえに、我々は<社会>の外を欲望する。

【日常への閉塞で暴力性をやり過ごしているという誤解】

■アイロニーは二面ある。第一に、<社会>の外(<世界>)は<社会>が作為的に呼び込んだ。<社会>の外から<世界>が天災の如く訪れたのではない。<社会>の中に<世界>が孕まれていた。そう、ギリシャ悲劇の如く<社会>の中に<世界>を見なければならない。
■第二に、ハレとケの交替のように、ヒトは<社会>に留まれなくなれば<世界>の只中(フィジオクラティックな起点)で<社会>の奇蹟を夢想するが、その同じヒトが<社会>に閉ざされれば<社会>の外に拡がる<世界>(フィジオクラティックな起点)を夢想するのだ。
■前述の通り、フィジオクラティックな起点に見えるものも、多くの場合、所詮は<社会>の自作自演に過ぎない。ならば、エンドロールのアイロニーは「ヒトは“<社会>の中で”<社会>と<世界>の間を行ったり来たりするだけ」という摂理を告げる。摂理とは<世界>(現実界)だ。
■<社会>の中を<世界>が貫徹する。だがヒトはそれを忘れる。だからこそ初期ギリシャが叙事詩やギリシャ悲劇を共有する。<社会>を<世界>の海に浮かぶ奇蹟の筏のように体験し続けることによる<なりすまし>の継続だけが、ヒトに辛うじての自由を与える。

《『この世界の片隅に』は…戦争や政治的な暴力といった巨大な力に対抗するための小市民的な生活への自閉を描いている。…これは一言ってみれば戦後日本の姿そのもの。「アメリカの影」に守られながらそれを「見なかったことにして」消費社会の終わりなき日常を満喫してきたんだから。…平和国家のアイデンティティを云々とか経済ナショナリズム万歳とか言い出さずに、正しく日常に逼塞するのがこうのの美学と幸福感》(『サイゾー』2017年1月号)。

■いま偶然目にした宇野常寛の発言だが、原作に即しても間違っている。《平和国家のアイデンティティを云々とか経済ナショナリズム万歳とか言い出さずに、正しく日常に逼塞するのが“吉本隆明”の美学と幸福感》と言い換えれば、凡庸な吉本批判の図式を反復しているのが判る。
■吉本は江藤淳を意識していた。江藤は、「アメリカの影」を見ようとしない戦後日本人の中で、田中康夫『なんとなく、クリスタル』だけが自覚的にこれを見ようとしているとして、徹底的に擁護した。江藤に従えば「アメリカの影」を見ようとしない消費社会の住民はクズなのだ。
■だから吉本は逆を張る。「アメリカの影」を見ようとしない消費社会の住人を擁護、埴谷雄高との論争へと展開する。吉本は、転向論以来[知識人/大衆]図式を用いて知識人の肩を持つ議論を嫌悪し、大衆の側につく構えを反復してきた。だが、時代が進めば歴史的文脈が脱落する以上、愚昧だ
■「こうの=吉本」と等置して宇野は江藤を反復する。だが吉本か江藤かという過剰に古びた図式は本作には一切関係がない。主人公はフィジオクラティックな起点を「見ない」のではない。「見ている」のに文字通りフィジオ(自然=世界)と見做す。そしてやがて虚構に気付くのである。

【深い傷が可能にする<なりすまし>が共通モチーフ】

■どんな<社会>も例外なく、理不尽な<剥奪=贈与>を起点とする。この<剥奪=贈与>は、それを<社会>の外と見做せば、文字通りフィジオクラティックな起点を意味しよう。だが、複雑な大規模定住社会では多くの場合、<社会>の外は<社会>の自作自演である。
■<社会>の自作自演を忘れたふりをすることで──やがては本当に忘れることで──、“その起点”は<社会>にとっての文字通りフィジオクラティックな起点のように観念されよう。だが、そうした観念を、受け入れようにも受け入れられない者が、存在する。
■その者とは、フィジオクラティックな起点に見えるものも結局は<社会>の自作自演に過ぎないという事実を、「巨大な傷」ゆえに到底忘れられない者のことだ。「巨大な傷」とは、本作で言うなら、主人公すずの失われた右手であり、すずの失われた姪・晴美である。
■だが「巨大な傷」を負った世代もやがて退場する。傷を知らない世代は、フィジオクラティックな起点に見えたものも所詮は<社会>の自作自演であることを、記憶し続けられない。<社会>に過ぎないものが<世界>に<なりすまして>いることを、覚えていられない。
■それが摂理なのだ。そして摂理こそは<世界>である。その意味で<社会>は常に既に<世界>に貫かれる。とするなら、<社会>を生きるということは、“<社会>に<なりすまして>いる本当は規定不可能な何か”を、生きるということ以上ではあり得ないだろう。
■その感覚を──「終わりなき日常」を<なりすまして>生きる感覚を──失わない限りにおいて、「平和の中では戦争の享楽を望み、戦争の中では平和を夢を抱く」という“行ったり来たり”をする、摂理に翻弄されるだけの自動機械から、我々は辛うじて自由になれる。
■平和から渾沌を夢想した後、現に渾沌に襲われ、傷を抱えて平和を生きる『裏切りの街』。渾沌から平和を夢想した後、渾沌から傷を負い、その傷を抱えて平和を生きる『この世界の片隅で』。2つの作品は「傷が可能にする<なりすまし>」映画としてシンクロする。

【「場」の破壊が析出した「個人」は正義を欲望できない】

■かつては人の死よりも大きなものがあり、それを誰もが当然視していた。老婆おりんの楢山参りを描いた『楢山節考』の登場人物らは「場」への関心を生きていて、「個人」への関心はない。だから、近代の価値観ではあってはならない「遺棄」が淡々と遂行されるだろう。
■『この世界~』でも、兄の死、義父の入院、母の死が、こともなげに描かれていたし、自らの右手と共に姪を失っても、すずは直ぐ前を向き、「場」を守るべく家を貫通した焼夷弾に布団を被せ、消火に挺身した。その彼女が初めて呪詛を口にしたのは玉音放送の時。
■詔勅が流れた瞬間、「場」を支えてきた想像界(共同体の生活世界)が、象徴界(国家の行政システム)による介入で人為的に切断された。或いは切断可能性が露呈した。すずは、もはや共同体に埋没できない「個人」として、数多の死と対峙させられる他なくなろう。
■「ぼーっとしたままでいたかった」というすずの嘆きは、知恵の木の実(言語プログラム=法)を得たヒトが抱えることになった原罪──ジュリアン・ジェインズが指摘する「意識の獲得=神々の声の喪失=個人の誕生」ゆえの必謬性──の、獲得を想わせて余りある。
■少女時代から嫁ぎ先での戦中にかけて、戦局が厳しくなりゆくにつれ、すずが見ている世界は、「個人」化された妄想の度を強めるが、戦後に原爆孤児を引き取って夫の家族と共に生きていく中で、すずは笑顔を取り戻す。それを可能にしたのも「場」への愛だった。
■システムに寸断された「個人」には耐えられないものが、共同体の生活世界という「場」に埋め込まれることで乗り越えられる。それを描くエンドロールは同時に、システムによる寸断の悲劇を忘れた我々が、それゆえに「場」を忘れたことを、アイロニカルに告発する。
■システムによる寸断で共同体の生活世界という「場」を失った結果、言語プログラムの自動機械として右往左往するだけの「個人」へと頽落した我々。だからこそ我々は映画の冒頭から感情が揺さぶられる他ない。すずの少女時代の広島には「場」が満ちているからだ。
■片渕監督が徹底した時代考証を経たのは、ホジクリ主義ではなく、かつて満ちていた「場」を、当時の記憶を持つ年長世代に違和感を与えることなく、再現するためだったと考えられる。システムの中の「個人」ではなく、名字を与えられた「場」の中のヒトを描くためだ。
■『裏切り~』における名字は、システムの入替可能なパーツであること以外意味しない。そこには享楽が欠けている。だから享楽を探して<社会>の外(<世界>)を欲望し、妄想する。それはやがて<社会>への再帰をスキップし、正義の外を欲望することに繋がろう。
■既に我々の<社会>では、正しいが享楽を欠いたもの(リベラル)と、享楽に満ちているが正しくないもの(ウヨク)が分離、後者が勝利し続けている。正義と享楽の一致は、我々が共同体の「場」に埋め込まれている時にだけ可能になる。「個人」には到底不可能なワザだ。