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映画評:ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』

投稿者:miyadai
投稿日時:2014-11-21 - 12:27:15
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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映画『ニンフォマニアック』はキリスト教を前提として不完全な〈社会〉に福音を見る
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【〈社会〉と違って〈世界〉は交わらない】
■前回、ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン』(2014)の後景にスコットランド独立運動が登場するのに、それが「異星人に感情が宿ることによる任務放棄と、それによる悲劇」という物語と、一切交わらないどころか、それがスコットランド独立運動であることすら説明されないことを紹介した。それが極めて激しい寓意性を帯びるのだった。
■そのことを更に深める。これについても似た作品を見た覚えがありつつ思い出せなかった。それを昨日思い出した。真利子哲也監督『NINIFUNI(而二不二)』(2011)である。強盗を働いた二人組の片割れ(宮崎将)が盗難車で砂浜に辿り着き、車内で自殺を図る。手前に黒い骸があり、ダッシュボード越しの遠景にアイドルグループが歌い踊る姿が見える。
■直後にカットバックすると、潑溂と歌い踊るももいろクローバー(早見あかり脱会以前)を手前に据えた遠景に、見えるか見えないかギリギリの胡麻粒の如き盗難車が見える。異星人の悲劇とスコットランド独立運動は決して交わらなかったが、少年の悲劇とももいろクローバーの営業活動も決して交わらない。それらが共通して強い印象を与える。なぜか。
■寓意とは「〈世界〉は確かにそうなっている」という体験を与えるもの。ベンヤミンの言い方では「砕け散った瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座」である。彼によればシンボルの規定可能性に、寓意の規定不可能性が対比される。規定可能なのは部分だからで、規定不可能なのは全体たからだ、と言う。〈世界〉はありとあらゆる全体だから、規定できない。

【自意識を与える〈社会〉から遠く離れて】
■この周知の定式を踏まえて敢えて問う。この寓意をどう規定できるか。『NINIFUNI』を見たとき、自分がAKB48を嫌悪する理由が分かった。AKB48はここに登場できない。ももクロでなければならない。AKB48が俗情に媚びるがゆえに〈社会〉にまみれるのに対し、ももクロはミメーシス(感染)をもたらすがゆえに〈世界〉を告げ知らせる存在である。
■別の言い方をする。『NINIFUNI』において、主人公の死は「自意識ならぬ」世の摂理を指し示す。同じく、アイドルグループの潑溂とした営みも「自意識ならぬ」世の摂理を指し示す。だから主人公は「他ならぬ」天才俳優宮崎将でなければならない。同じくアイドルグループは「他ならぬ」ももクロでなければならない。双方は同じものを指し示す。
■巷間の誤解と違い、両者の対比が何かを指し示すのでは、ない。そうした理解は凡庸過ぎる。そうではない。宮崎将の自死行為は何とも交わらない無償のもの。同じくももクロの営業行為も何とも交わらない無償のもの。例えば、ジャニーズ系俳優が演じればこの自死は俗情に媚びた有償取引となり、AKB48が撮られれば俗情に媚びた有償取引になる。
■この[有償/無償]の二項図式は無論[〈社会〉/〈世界〉]に対応する。宮崎の自死もももクロの営業も「同じく」〈世界〉からの告げ知らせである。だから而二不二なのだ。観客の〈感情の劣化〉を見越して「映画の読み方をタイトルで示唆する」是非はともかく、感情による歪みや曇りを除いて〈社会〉に向き合えば、そこには〈世界〉からの訪れがある。
■だから「他は醜悪なのに」宮崎将は美しく、「他は醜悪なのに」ももクロは美しい。同じ理由では、「他は醜悪なのに」異星人は美しく、「他は醜悪なのに」スコットランド独立運動は美しい。少なくともそう見える寓話的視座を『NINIFUNI』と『アンダー・ザ・スキン』が提供する。だからこそ両者は、我々に感情が宿る不思議さを最後に突きつけて来よう。

【完璧な〈世界〉から不完全な〈社会〉へ】
■このくだりを書きつつ僕は涙を拭う。涙の理由を僕は知っている。感情がなければ〈世界〉は単に叙事的に美しいだけだ。なのに、なぜ喜怒哀楽の感情を以て〈社会〉に叙情的に向き合うのか。そこには慚愧の念を伴いつつ敢えて「捨てることで選択する」営みが確実にある。〈世界〉の方が優れているのに、それを捨てて不完全な〈社会〉を選ぶという倒錯だ。
■この倒錯はキリスト教的だ。主なる神は何ゆえ敢えて蛇にイヴを誘惑させ、人を必謬的な善悪判断を行うように、敢えて作り為したのか(所謂「ヤハウエの意志問題1」)。なぜ不完全な人の営みを無関心に放置せず、イエスなる存在を通して人とコミュニケーションしたがったのか(所謂「ヤハウエの意志問題2」)。要は「主なる神はなぜ感情に関心が寄せるか」。
■〈世界〉の方が優れているのに、それを捨てて不完全な〈社会〉という倒錯を敢えて選ぶ背後にある動機を、クリスチャニティ(キリスト教性)に言及しつつ明瞭に指し示そうとする映画が現れた。ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』(2014)だ。それは奇しくも『アンダー・ザ・スキン』『NINIFUNI』が提示した問いに回答を与える。

【〈社会〉から〈世界〉への往相:東方性】
■路傍で行き倒れた自称“色情狂”の女が、助けてくれた童貞老人を相手に自らの半生を回顧する。「私の罪は夕日に多くを求めすぎたこと」というランボーの詩「永遠」を彷彿させる語り出しから明かされるその人生は、分かりやすく破廉恥なものだ。彼女が幼少期よりひたすら性の快楽を、あるいは性交そのものを、追い求めてきたことが示される。
■『アンダー〜』の異星人同じく、彼女もまた〈社会〉を生きることがない。性交に耽溺するのは、彼女が〈世界〉とストレートに接続しているからである。だから彼女にとって〈社会〉は、〈世界〉とのダイレクトな接続を妨げる、窮屈で居心地の悪い装置に過ぎない。ゆえに彼女は『アンダー〜』の異星人同様に、〈社会〉では残酷さを分泌するしかないのだ。
■ただし、敢えて残忍さを好むのではない。単に〈社会〉を気にとめないのだ。例えば自分の淫蕩遊びが原因で一つの家庭を崩壊させても気にならない。人倫(人間的な営み)に感情が反応しない。とはいえ、感情が溢れそうになる例外があった。父の死である。動揺した彼女は、見知らぬ男とのセックスでのオーガズムで〈世界〉を取り戻そうと、必死になる。
■その父の死を挟んで、不意に不感症化が生じる。不感症化を埋め合わせのための過剰な性交で、妊娠・出産する。〈世界〉との繋がりを断たれ、同時に〈社会〉への関与を強制される立場になった彼女は、脆く醜く衰弱していく。そのタイミングで、主人公を演じる女優が若手のステイシー・マーチンから、老練なシャルロット・ゲンズブールへと変わる。

【〈世界〉から〈社会〉への還相:西方性】
■輝きを失った彼女は、再び〈世界〉との接触を取り戻すべく、数多の性的倒錯に身を投じる。そのうちの一つ、サディスト男によるスパンキング・セッションが、果たして彼女に再びオーガスムの灯を点す。だがその遊戯への没頭から、彼女は夫と子供を失う。家族を捨ててサディスト男の元に駆けつける彼女に、少女時代の如き無垢な残酷さは、もはやない。
■〈死〉〈誕生〉〈家族喪失〉いう一連の巨大な〈社会〉イベントを経、また加齢ゆえにエクスタシーという〈世界〉の直接性から〈社会〉的に隔離されゆくことで、彼女は否応なく〈社会〉へと閉じ込められる。以降彼女は〈社会〉を裏切り続けた自責に涙を流すだろう。彼女は「〈世界〉と合一する至福から、〈社会〉を生きる苦難へ」と軌道を変えたのだ。
■童貞老人は、〈世界〉と合一する至福が東方教会、〈社会〉を生きる苦難が西方教会に対応するとし、歴史的には、耐えがたき宣教の苦難ゆえに、西方教会的なもの(十字架像)が東方教会的なもの(聖母子像)へと転変したと説く。〈社会〉の苦難を〈世界〉からの訪れを以て耐える道だ。だが、彼女は「〈社会〉から〈世界〉へ」というこの道を逆走し始めた。

【「捕食する側」から「捕食される側」へ】
■彼女は当初〈社会〉の視座から自らを「セックス依存症」と規定する道を、拒絶。〈世界〉の視座から自らを「色情狂=ニンフォマニアック」と規定しようと固執する。だが性器酷使による損傷で性交不能となり〈世界〉への通路を失った彼女は、性欲発露の代わりに借金取立屋の暴力的営みで己を満たすが、〈世界〉との接触はなく、やがて加齢限界に直面する。
■取立屋のボスに勧められるまま、自らの跡取りを育てるべく孤児に接近して籠絡を試みる。試み自体は成功したが、もはや彼女は胸に込み上げる感情を抑えられず、孤児を道具として見切れなくなっていた。以降は『アンダー・ザ・スキン』と同じ展開である。〈感情の回復〉を果たした彼女は、それゆえ〈クソ社会〉で醜く自滅していく他はなくなる。
■かつては「補食する」側だった彼女も、いまや自ら育てた後継者に「補食される」側だ。裏切られ傷ついた彼女は、路傍に行き倒れ、かくて映画は冒頭に繋がる。人生を語り終えた彼女は、自分が背を向けてきた〈社会〉はクソだが、「それでも生きる価値がある、そこで戦う価値がある」と語り、〈社会〉から〈世界〉への逃避の道を閉ざすべく、性交封印を決意する。
■童貞老人のように性交せずに死ぬ者もいる以上、性交封印は可能なはずだ。そうした覚悟を与えてくれた聞き役の童貞老人に、彼女は「あなたは私にとって最初の友人」と語り、安らかに眠りにつく。彼女に優しく布団をかけ微笑む老人⋯…が逸物をぶら下げて襲いかかり、「いろんな男にヤラせたんだからいいだろ」とほざく。何たる〈クソ社会〉か!

【主なる神がイエスを送り込んだ理由とは】
■記号の配置は明瞭だ。性交を形容するフィボナッチ数列やバッハのポリフォニーはそれが〈世界〉の運動である事実を示す。彼女は〈世界〉に準拠している。幼少期から彼女に〈世界〉に準拠すべきたと説いたのは、樹木を指し示しつつ森を共に散歩した父だ。父が固執したのが、北欧神話で世界樹=生命の樹とされるトネリコだった事実に、注目したい。
■ギリシヤ神話では、トネリコに精霊メリアスが宿る陸地がニンフ。ゆえにニンフォマニアとはそもそも世界樹に貫かれてあることだ。主人公が性交人数を競うナンパを、童貞老人がフライフィッシングに喩えるのも、それが人倫コミュニケーションというより数学的形式に過ぎない事実を示すため。そう、僕自身が性愛ワークショップを通じて人々に示してきた。
■すると映画冒頭の「私の罪は夕日に多くを求めすぎたこと」という科白の意味も明瞭だ。夕日は、〈社会〉の感情(の儚さ)と無関連な、〈世界〉の摂理(の永遠)を指す。〈世界〉からの訪れに開かれようとして〈社会〉を蔑ろにするのは確かに罪だ。〈世界〉への往相が夕日によって、〈社会〉への還相が(童貞老人の部屋に反射する)朝日によって、示されている。
■ユダヤ教とキリスト教の太陽暦では、我々の感覚とは逆に、日没は一日の終わりでなく、日没時点から一日が始まる、すなわち〈社会〉が始まる。だから、夕日への固執が〈世界〉に淫する営みを暗喩する一方で、朝日は〈社会〉が〈世界〉に祝福されてあることを暗喩する。さて、こうした巧みな記号操作を通じて導かれるのは、一つの重大な逆説である。
■〈世界〉への開かれは加齢で失われ、〈社会〉への開かれは加齢で深まる。〈社会〉は儚い夢で〈世界〉の永遠が奇蹟、なのではない。逆に〈世界〉こそが儚い夢で〈社会〉の儚さこそが永遠の奇蹟なのだ。だから主なる神は、不完全な人間の未熟な感情が織りなす〈社会〉に奇蹟を見、人とコミュニケーションしようと思った。それが受肉の秘密である。