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モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

間もなく弟子たち(鈴木弘輝・堀内進之介)との共著『幸福論--〈共生〉の不可避と不可能』が出ます

まえがき

【「幸せへの設計」は如何にして可能なのか】
■本書の目的は、我々の幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)が、如何にして可能か(ないし不可能か)を論じることにある。簡単に言えば「幸せへの設計は如何にして可能か」だ。「なぜそんなことを問わなければいけないのだ」という反問が予想される。
■答えよう。ソーシャルデザインは常に既に行われている。このデザインが我々の幸福へと向けたものであることが厳密には不可能であることは、意外にも社会学的常識だ。ところがそれが社会学の専門知の囲いを突破して広く知られた結果、混乱が渦巻き始めているのだ。
■「ソーシャルデザインが常に既に行われていること」は誰もが知っている。立憲制の下で市民(国民)が統治権力(国家)に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際に既に始まっているとも言える。
■「このデザインが我々の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能」なのは、かつて社会学者や政治学者しか知らなかった。この不可能とは、換言すれば「公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない」という驚愕の事態を意味する。
■第一に、我々の幸福と言っても「我々」の範囲は恣意的で、「我々」内での公正や平等を図る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。第二に、古くはコンドルセCondorcetに遡るが、特殊な条件がない限り、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。
■「我々」の範囲の恣意性を「我々」が解消することは論理的に出来ない。投票以前的な決定過程を投票的に解消しても無限後退するだけだ。要は、我々は社会を──それが近代社会である限り──恣意的な事実性factualityを前提とした上で、運営するしかないのだ。
■このことを最も早くに理解したのがウェーバーMax Weberだった。彼は市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じ、「市民は法を守るべき義務を負うが、政治家は法を守ることが意味を持つ社会を維持するべく、時に応じて脱法すべき義務を負う」とした。
■ウェーバーの影響下でシュミットCarl Schmittは憲法制定権力自体が憲法外的なものであることを指摘し、非常大権を許容した。読者は「あれっ?」と思うかも知れない。ウェーバーもシュミットも、9・11以降のネオコン=ブッシュ政権の物言いそのものではないか、と。
■或いは、多少なりとも社会学や政治思想に興味を持つ読者であれば、ネオコン(新保守主主義者)はもとより、9・11以降の米国の行動を正当化したリベラリストたち(ギデンズAnthony GiddensやウォルツァーMichael Walzer)の議論との相同性に、気づくだろう。
■重要なことは、彼らが学術誌の論文ではなく、新聞や声明文を通じて、非専門的な一般読者向けに「そのこと」を語っていたことだ。「そのこと──完全に公正なソーシャルデザインの不可能性──」自体は、前述の如く社会学のオーソドックスな学説に過ぎないのだが。

【「正しい学説」が導く「間違ったシニシズム」】

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投稿者:miyadai
投稿日時:2007-03-14 - 03:21:52
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全体性の消失──IT化に最も脆弱な日本社会──【後半】

[前半から続く](前半の「続きを読む」にアップされた文章につながります]


【ソーシャル・デザインに必要な概念セット】

■〈システム〉と〈生活世界〉の関係を確認します。〈システム〉ではデニーズ的アメニティが提供されるのに対し、〈生活世界〉では地元商店的アニメティが提供されます。前者は「役割&マニュアル」優位な関係性で、後者は「善意&自発性」優位の関係です。だから前者は匿名的・入替可能で、後者は記名的・入替不能です。
■近代化とは、〈生活世界〉で賄われて来た便益を〈システム〉に置き換える「合理化過程」。置き換え途上の段階ゆえに〈システム〉化され切らない〈生活世界〉が残っていると信じられるのが「近代過渡期」(モダン)で、置き換えが完遂して汎〈システム〉化=脱〈生活世界〉化した段階が「近代成熟期」(ポストモダン)。
■近代化がある程度進んで、「まだ〈生活世界〉が残っている」というより「敢えて〈生活世界〉を保全している」と言えるようになるのが「再帰的近代」です。これにも2段階あって、いったん汎〈システム〉化した後に、かつての〈生活世界〉の機能的等価物を再構成したのが「ポストモダン的な再帰的近代」ということになる。
■再帰的とは、選択の前提もまた選択されたものだという性質です。近代化が相当進みますと、「手つかずの自然」は、昔ならフロンティアの存在が前提だったのが、今や敢えて手をつけない選択をした結果になるので、再帰的です。学習の仕方の学習も、昔なら前提だった学習方法を、選択的な学習対象とするので、再帰的です。
■〈生活世界〉を「敢えて残す」にせよ「構築し直す」にせよ、「手つかずの自然」が文字通りにはあり得ないのと同じく、無垢な〈生活世界〉もあり得ません。即ち、全てが機能的評価を踏まえた選択対象(として入替え可能)になっているので、〈生活世界〉も厳密には〈システム〉の外でなく、〈システム〉の局域に過ぎなくなる。
■こうした再帰的近代においては、人々が選択をやめて安らげる選択以前的な選択前提はありません。一般的に言えばこれは過剰負担です。選択前提の再帰性を万人が意識して日日を生きるのは困難です。そこでは選択前提の再帰性を意識する者と意識しない者が分化し、社会システムは多かれ少なかれディズニーランド化します。
■言い換えれば再帰的近代においては全てがグッドフィール・ステイトになります。私が先ほどから推奨しているのは、厳密にはグッドフィール・ステイトの拒否ではない。それは今述べた通り論理的に不可能だからです。そうでなく「良いグッドフィール・ステイト/悪いグッドフィール・ステイト」の識別基準を提唱しています。
■過剰負担を吸収するためのディズニーランド化=グッドフィール・ステイト化は、エリーティズムを帰結します。過剰負担に相対的に耐え得ない存在/耐え得る存在、という区別です。その場合も、一般人がエリート的認識(再帰性への通暁)にコネクトし得る扉を、相対的に大きく開ける/開けない、という選択肢があり得ます。
■レッシグ教授は、選択前提の設計に基づく建築家的な権力が作用するグッドフィール・ステイト化を仕方ないものとしつつ、どんなアーキテクチャが自分たちを方向づけているのかを自覚できる認識チャンスを開いておくのが大切だとします。但し、開いた認識チャンスが、利用される社会/されない社会、の別が出てきます。
■今説明した社会学の最先端を構成する概念セットを十分理解した上で、「日本」ないし「我々日本人」に何が選択でき、何が選択できないかを考えます。「神よ、変えられない事を受け入れる心の平安を、変えられる事を変える勇気を、そして 変えられる事と変えられない事を知る英知を授けたまえ」(ラインホルト・ニーバー)

【日本はIT化の副作用に一番脆弱な社会だ】

■欧州には、階級を前提とする都市国家的(自治都市的)伝統ならびにローマンカトリックからの独立確保を目指すウェストファリア的伝統があります。そこでは、スタイルの均質化が、自治の敗北や教会への敗北と見做されます。かかる伝統ゆえに、近代化においても〈生活世界〉の保全が意識的に遂行され続けてきています。
■それゆえ、維新以降の集権的近代化によるローカルリソース簒奪で〈生活世界〉がいったん完全に空洞化した日本が〈生活世界〉を「構築し直す」しかないのに対し、欧州は〈生活世界〉を「敢えて残す」というモードに留まり続けられます。それが南欧ルーツのスローフードやスローライフ運動の要諦ということになります。
■これに対して米国には、宗教的良心を前提とする宗教的共和というメイフラワー的伝統ならびに明示的ルールを前提にした共生という結社主義&連邦主義(合わせてトックビル主義)の伝統があります。だから移民受け入れに見られるように流動性が極めて高く、〈生活世界〉保全よりも〈システム〉構築に関心が向きがちです。
■これは米国におけるネオリベ的優勝劣敗を考えるときに重要です。「小泉的優勝劣敗政治は米国でも行われているのだから、日本で行ってもいいじゃないか」という竹中的蒙昧があります。これは正当性についての無分別です。米国では正当性の源泉はいつも宗教的良心です。「頭の悪いネオコン」にとってさえそれは同じです。
■米国で優勝劣敗的ネオリベ的路線が維持できるのは「宗教的良心への信頼」が存在するからです。実に多様なNPO・NGO活動があり、老若男女のボランティア活動があり、多額のドネーション(寄付)があって、これらが政府とは別のパブリックセクターを構成して、政府の優勝劣敗路線がもたらす問題の穴埋めをしています。
■日本には「宗教的良心への信頼」はありません。日本は欧州と同じく政府部門の不完全をローカリティが埋合せて来ました。ところが小泉改革によって最後のローカリティ=〈生活世界〉が破壊され、なおかつ超越神をベースとする「宗教的良心への信頼」もない。そんな社会で優勝劣敗的ネオリベ路線を継続すればどうなるか。
■当然「なんでもあり」となります。だから「国家や社会を草刈り場とする各種エージェントの権益争奪戦」が延々と生じ、全体性をウォッチするエージェントがいなくなり、それゆえの無方向無定型な変化がもたらす不安からポピュリズムが蔓延し、それを餌として権益争奪戦が増幅していく、といった体たらくになっています。
■IT化や高度情報社会化による不安や不信の増大はどこの国でも起こり得ます。だからといって単に横並びで考えてはダメ。不安や不信を埋合せる社会的リソースが何であり得るかは、当該社会の歴史性に依存して変わる。欧州には欧州の歴史性があり、米国には米国の、亜細亜には亜細亜の、日本には日本の歴史性があるのです。
■その意味では日本は一番脆弱です。IT社会的なものに対して弱点を晒しやすく、公共性の基盤を失いやすい。百数十年続いた集権的再配分政治の中でローカルコミュニティの自立的相互扶助は完全に簒奪され、一神教的な宗教的良心も元々信頼可能ではないからです。IT社会化の副作用は日本でこそ最も観察しやすいのです。
■但し欧州でも米国でも従来信頼可能だったプラットフォームが空洞化しつつある。フランスのCPE(初期雇用契約)を巡るメデフ(経済団体)の動きが象徴的です。従来はフランス的なものの保全の中で利益の最大化を目指していたのが、フランス的なものに拘ると生き残れない、グローバライゼーションに棹差そうと言い出した。
■米国の宗教的良心も信頼できないものになりつつあります。宗教活動が政府活動の不全を埋合せるバランサーとして働くというより、テレビ神父が国民を政府活動に同調する方向に煽動することに見られるように、不安ベースの米国社会につきもののオブセッシブでクレイジーなヒステリー傾向を補完するように機能しています。
■欧州にせよ米国にせよ、遠くない将来に日本のようになるかもしれません。信頼可能な〈生活世界〉も放棄し、脱空間的な〈宗教的善性〉も放棄し、〈システム〉の自律的な──各人が作動上の結節点に過ぎない──回転に、ひたすら身を委ねる他ないような社会ということです。その意味で日本は先端的実験社会だと言えます。

【〈生活世界〉再構築とポストモダン的正統性】

■〈システム〉の自律的回転に身を委ねる今日的状況から、巻き戻すことができるか。日本の場合〈宗教的善政〉の構築はあり得ないので、〈生活世界〉の再構築は可能かという問いになります。ここで【ソーシャル・デザインに必要な概念セット】を思い出して下さい。選択前提もまた選択されたものだという観念が再帰性です。
■「自然が残っている」から「自然を残している」のシフト同様、「〈生活世界〉が残っている」段階から「〈生活世界〉を敢えて残している」段階にシフトしたのが「再帰的近代」です。残すべき〈生活世界〉が一旦廃絶されて以降、かつての〈生活世界〉の機能的等価物を構築する段階が、「ポストモダン的な再帰的近代」です。
■家族政策が分かりやすい。直前の時代の典型家族──例えば核家族──が衰退していくとき、ある閾域を越えると「典型家族を守れ」的政策のコストパフォーマンスが悪くなり、代わりにかつての典型家族と機能的等価な関係を奨励する「変形家族を守れ」的の有効性が高まります。実際に70年代以降の欧州各国でとられました。
■「家族」でなくても「家族のようなもの」なら支援しようという政策です。具体的には、婚外子の支援であり、シングルマザー(を核とする関係性)の支援であり、同性婚の支援であり。70年に日本とイタリアの婚外子率は1%未満でしたが、今ではイタリアは20%を越えて出生率が劇的に回復したのに対して、日本はご覧の通り。
■「ポストモダン的な再帰的近代」にはハーバーマスのいう「晩期資本主義における正統性の問題」がつきものです。古い時代からの残存物であれば奪人称的ですが、構築物であれば「誰がどういう理由で作ったのか」という人称性が露わだからです。ごれは「典型家族から変形家族へ」というテーゼが日本で抵抗に出会う所以です。
■「昔からあるものではない」という文字通りの正統性問題──人称性問題──を回避するには、多様性を認める他ありません。変形家族といっても一種類ではなく、多様な変形家族を認めるのです。ところが日本では「多様性が自分たちを脅かす」とビビる、多様性フォビアとしてのリベラルフォビアが蔓延している状況なのです。
■話を戻すと、汎〈システム〉化による〈生活世界〉の全面的空洞化を経由した後、とりわけ「記憶を失った世代」が〈生活世界〉(の機能的等価物)を再興する場合、これこそがあるべき〈生活世界〉(の機能的等価物)であるべきだとのビジョンは、選択の恣意性を免れません。そのことはお台場一丁目商店街に行けば体験できます。
■確かにそこには昭和30年代と思しきものが再構築されています。しかし多くの年長世代は「昭和30年代の街を名乗るなら、これはこうじゃないだろう、それはそうじゃないだろう」と直ちに異論噴出です。同じことが『Allways:三丁目の夕日』という映画に再現された昭和30年代に対する年長世代の異論として反復されています。
■ですが単なる「再帰的近代」でなく「ポストモダン的な再帰的近代」においては、〈生活世界〉として再構築されたものへの異論は構造的に避けられないのです。あるべき〈生活世界〉は本当にそれなのか。別の〈生活世界〉ではダメなのか。こうした懐疑の可能性が絶えず存在するのです。それを悪いことだと考えてはいけない。
■むしろ、教育を通じて多様性フォビアとしてのリベラルフォビアを克服して多様性に耐えうる人々を増やし、そのことを前提として「家族ならざる家族のようなもの」「〈生活世界〉ならざる〈生活世界〉のようなもの」の多様性を実現することで、「最大多数のまあまあの幸せ」を実現する。それがポストモダン的公共性です。

【「市民的視座の固着」から「視座の輻輳」へ】

■社会的多様性を実現する有力な方法の一つがゾーニングであることは、周知です。憲法上の幸福追求権に「見たくないものを見ずに済む権利」を書き留めたものです。私は松文館裁判の証人陳述などを通じて、性表現規制を、刑法175条の猥褻規制の如き表現規制から、行政上のゾーニング規制にシフトすべきだと訴えて来ました。
■そうしたロビイもかけて来ましたが、成果がありました。そこで以前から危惧していたゾーニングの行き過ぎに議論の焦点を移しました。都では竹花副知事と警視庁が条例を強化して青少年が深夜に立入れる場所をなくし、繁華街の監視カメラ化を進め、風営法上の取締強化で店舗風俗を壊滅させてきました。
■「環境浄化策」と呼ぶのは不正確で、正しくは「見える環境を浄化した分を、見えない環境「へと移転させる政策」。典型が店舗風俗の撲滅で、店舗減少分は全てデリヘル化した。デリヘルは、個室の派遣営業なのと、最近の女性の特性から、「本番化」競争になり、セックスワーカーが性感染症や性暴力の危険に晒されています。
■警察官僚や関連議員の煽りがあるにせよ、民衆には強いゾーニング要求があります。それに応えてゾーニング規制を進めると、民衆から見えない所で「権益配置とリスク配置の不透明化」が生じ、違法なカオスが拡がります。全体性(システム合理性)の観点から言えばこれは不合理であり、システムの安定的存続を脅かします。
■ゾーニング権を要求するのは市民的視座です。皮肉にも市民的視座がグッドフィール・ステイト化を加速するということです。他方、社会的不透明性の増大をソーシャル・デザインの全体性という観点から憂うるのは官僚的視座です。因みに近代社会では、大きく市民的視座、行政的視座、財界的視座を区別する必要があります。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2006-07-12 - 09:50:41
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連載第一六回:自由とは何か?

■連載の第一六回です。前回は「人格システム」概念を紹介しました。復習しましょう。通念では、社会の構成要素は個人。ところが、社会システム理論では、社会システムの構成要素は行為です。行為からなるシステム(行為システム)に、社会システムと人格システムとを区別します。
■行為の纏まりが、自らに属する行為と属さない行為を、自ら境界設定する働きを示すと見做される場合、行為システムと呼ばれます。中でも、複数の個人主体に跨る選択連鎖(選択接続=コミュニケーション)に準拠したときに見出される行為システムが、社会システムです。
■他方、単一の個人主体が展開する選択連鎖の纏まりに準拠したときに見出される行為システムが、人格システムです。社会システムも人格システムも、要素たる行為が、物理的同一性でなく意味的同一性により定義されるので、間主観的な了解を前提とした概念です。
■「日本社会」に属し得る行為と属し得ない行為を「日本社会」自身が境界設定すると見做される場合、社会システム概念が適用され、「宮台真司」に属しうる行為と属し得ない行為を「宮台真司」自身が境界設定すると見做される場合、人格システム概念が、適用されるのです。
■噛み砕くと「日本社会」には「日本社会」なりの“行動傾向”があり、「宮台真司」には「宮台真司」なりの“行動傾向”があるとされています。“行動傾向”の由来は、反省的には行為同士を結合する内的メカニズムであり得ますが、取り敢えずはブラックボックスです。
■人格システムと混同されがちなものに、心理システムの概念があります。人格システムを同定する(そこにあると見做す)に際し、行為がそこに属するか否かを判定するにために用いられ得るエンパセティカル(同感的)な帰属処理の宛先が、心理システムなのです。
■人格システムには観察可能な要素(行為)がありますが、心理システムには観察可能な要素がありません。表象にせよ感情にせよ、心理システムの要素は全てエンパセティカルな想像物です。故に、人格システムと違い、心理システムは普遍的な概念ではありません。
■社会が複雑になって期待外れが頻繁になるに伴い、各人毎に違った心があるという帰属処理の宛先として、心理システム概念が分出します。更に社会が複雑になれば、心理システムに対して、不透明な固有性(入替え不能性)としての個人性individualityが想像され始めます。
■心の不透明性としての個人性を学的対象とする「心理学」は、政治的次元(集合的動員機能)にも経済的次元(資源配分機能)にも還元できないコミュニケーションの不透明性としての社会性を学的対象とする「社会学」と、奇しくも同じ19世紀に誕生したのでした。
■心理学の目標は、心理システムを記述することによって、心に問題を抱える状態を、問題を抱えない状態へと導く処方箋を見出すこと。社会学の目標は、社会システムを記述することによって、問題を抱える制度や文化を生み出す社会的メカニズムを解除する処方箋を見出すこと。
■両者は対称に見えて実はそうではありません。社会学から見ると心理学の処方箋は、制度や文化が抱える問題を等閑視したまま、妥当な適応の方策を探るものに見えます。例えば心理学は家族の病を解決しようとしますが、社会学は家族を営むべきなのかどうか疑うのです。

【前回の敷延:「再帰性の思考」と社会学】
■敷延すると、社会学の対象に心理学(を支える諸前提)が出現するのに対し、心理学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することは、論理的にあり得ないということです。ところが社会学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することが論理的にあり得ます。
■連載第一回と第二回を思い出して下さい。社会とは我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体で、それを明るみにすることが社会学の営みでした。我々のコミュニケーションには社会学も当然含まれます。だから社会学は反省的な営みになります。
■社会学の伝統は「前提を遡る思考」にあります。ところが「前提を遡る思考」にも19世紀的なものと20世紀的なものを区別できます。19世紀的なものを「潜在性の思考」と呼びます。フロイトの「無意識」概念やマルクスの「下部構造」概念に、典型を見いだせます。
■要は「見えるものは、見えないものによって規定されている」とする思考です。この思考は、しかし、この思考自身が見えないものによって規定されている可能性を、等閑視します。例えば虚偽意識(イデオロギー)論は、虚偽意識論自体が虚偽意識である可能性を必死で隠蔽します。
■これを批判するところに生まれるのが、20世紀的な「再帰性の思考」です。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念やルーマンの「社会システム」概念が典型ですが、例えば言語ゲーム論自体が言語ゲームの一つだという自己言及的循環に、意識的に言及します。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-08-11 - 14:26:38
カテゴリー:連載・社会学入門 - トラックバック(2)