【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|You Tube2020.05.02(土)ライブ配信
ダースレイダーさん :ミュージシャン
宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし :立石絢佳 Twitter:@ayaka_tateeshi)
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▶コロナによって宗教はどう変化していくか
ダースレイダー(以下、ダース): はい、みなさまお待たせしました。本日5月2日(土)の15時から「100分de宮台」の第3回。ゲストに宮台真司さんをお迎えしてお送りしたいと思います。「片目のダースの叔父貴」ことダースベイダーです、よろしくお願いします。
宮台真司(以下、宮台):■宮台です。よろしくお願いします。
ダース: なんか宮台さん、先程まで取材を受けていたということで。家籠もり中も忙しい感じですか?
宮台:■うん、雑誌がお店で売れなくなってしまったので、Web展開を含めて生き残りをかけているんですね。取材謝礼も、ずいぶん相場が下がりましたね。どこもかしこも経済が回ってないので、広告が取れなくなっちゃってるそうなんですね。なので、実売の部数×価格から全てを賄わなければいけないということで、謝礼額もかなり下がっていますね。
ダース: 広告の種類だったり、どういったものが機能するのかっていうのも変わってきていると思うので、なかなか難しい。なにを載せるのか、誰に対して広告を打つのか、そういったことが難しくなっているとは思うんですけれども。
で、このシリーズ3回目で、2回目もいまのところアーカイブで残していて、結構な数の人が見てくれていて、ありがたいんですけれども。今回も生配信をしていて、ライブ配信の制作費、この配信を製作するにあたっての制作費は、見ている方々のチャットの「投げ銭」で賄うことにしているので、ぜひ、「面白かった!」と思う人は「投げ銭」をしてくれると、広告主とかを媒介した経済の回り方とはまた違う……まあこれもGoogleとかに一定は持っていかれるんですけれども(笑)、プラットフォーム代としてそれは発生するものだとして……。割と直接「この人たち面白かった!」ということにお金が払えるというのは、これはYou Tubeに限らず、いろんなところで実装されていくと思うんですよね。
宮台:■ただし、Googleにずいぶん持っていかれますよね(笑)。
ダース: そうですね(笑)。ただ、それでも利率はユーチューバーはいいほうで。
宮台:■あ、そうなんだ。
ダース: それは、マネタイズするのにハードルがいくつか用意されていて、チャンネル登録者が1000人以上いて、400時間再生とかっていう条件をクリアしていないと、そもそもYou Tubeを使ったマネタイズができないっていう設計にはなっているんですけど。
宮台:■なるほどね。
ダース: 昨日くらいに、ストリーミングのプラットフォームをFacebookで用意するっていうことをザッカーバーグ[Facebookの創業者]が発表していて、Facebookがそう動くってことは、基本的には世の中がそこに投資するっていう方向に入っていると思うので、とくにいま音楽系の配信が……ZOOMをトークでは扱っているんですけども、音楽だとどうしても音質の劣化とかがあって、しかもタイムラグとかが発生するため、セッションをネット上でやるっていうのは、まだまだ難しいところがあるのをどう解消していくかってことに、かなりあちこちが頭を使っているっぽいですね。日本だとe+[イープラス]っていうチケットを売っているところが、ハイレゾの、すごく音質のいい配信をできるようにして、それで少しお金を回して、前売りチケットを売ってURLを発行してって形で、演者だったりにお金を循環する方法っていうのを構築しているみたいなんですけれども。
宮台さんが前回言っていたテクノロジーが10年早回しで進化していくっていう中で、目に見えてわかりやすく伸びていっているのは、インターネットを使った配信サービス。単純な、FaceTimeの電話とかもそうだと思うし、いろんなところが一気に進むと思うんですけれども、それが一気に進んだときに、これはなにが起こっているのかっていう分析っていうのを、定点観測しながらやっていく必要はあると思っているんですけれども。
少なくとも、このZOOMとかを使ったトークっていうのは、ほぼ世界中で当たり前になってきている。この絵面も、世界中でこの絵面が並んでいるっていう。なかなかね、見栄えも慣れちゃうとなんか、最初の頃は面白いなと思って「ゼーレの会議」みたいな雰囲気があったんですけど。
宮台:■うん。今日の話につながるポイントだと思うけれど、テックの10倍速の変化がもたらすこと。いい面を言えば、ゆっくり変わると、「ゆでガエル[の法則]」が適用されちゃう可能性があるけれど、早く変わると、変化の方向についての問題点が発見しやすい。これは以前お話したところだと思うけれど。
■他方で、変化が早いので、このインターネット配信、たとえばZOOMの場合には、一方向でレクチャーを聞くとか、そのアーカイブスをあとで取り出して聞くっていうことじゃなくて、質疑応答もできるし、グループ分けをして班内でのコミュニケーションもできるでしょ。そうしたテックを通した、遠隔をものともしない臨場感と、それゆえに持続する注意力を知ってしまうと、従来の、教室という空間に集う授業形式って、今後どうなっちゃうんだろうって思う。
■同じことで、ZOOMイベントみたいな情報の授受に慣れ親しむと、それまでのテレビやラジオの享受はどうなるんだろう。ZOOMイベントがどんどん増殖して耳学問が可能になる中で、本を売るっていう書店はどうなるんだろう。既にいろんなところにめちゃくちゃ大きな影響を与えていて、急激すぎるので、ゆっかり吟味してみた場合には淘汰されてはいけないと判断されるところも、淘汰されてしまう可能性があります。非常に気をつけなければいけない面だと思います。
■しかし、また良い面を言うと、幼稚園や小学生の時分から、この番組みたいなZOOM配信に馴染んだ人たちが、高校や大学に上がった時に、テレビ見たりラジオ聞いたりするだろうかと考えてみると、はっきり言って絶望的だと思うんですね(笑)。
ダース: そうですね~。
宮台:■インターネットだと、自分にふさわしいコンテンツ、あるいは、自分にとって救いになるコンテンツを、探すことが、すごく容易になりますよね。すると、これは本日の主題に関係すると思うけれど、現実に絶望して宗教に救いを求めるしかなかった人たちが、必ずしも宗教に救いを求めなくてもよくなるかもしれない。また、従来の、カルトを含めた宗教が、成立するための「わざわざ集まる」といった条件が、インターネット化でスキップされるようになった時、宗教はどうなってしまうのかも、考えてみたいですね。
ダース: いま宮台さんが話の筋道を作ってくれたんですけれど、あらためて今日「100分de宮台」で伺いたいテーマっていうのが、「withコロナ・afterコロナにおける宗教の役割や意味」っていうものを考えたほうがいいと僕は思っていて、いまの話のちょっと前に戻ると、なにが残ってなにが失われるのかってことの検証をしてないと、あとになって失くなってしまったらどうにもならないとうことは起こり得ると思うんですけど、そういったことの中に、宗教というもののあり方っていうのがどう関わってくるのかっていうのが、僕はちょっと疑問を感じていて、宮台さんにそれを聞きたかったんですけれども。
そもそも、このコロナをめぐる社会の一番の変化っていうのは、「人々が集まってはいけない」「ソーシャルディスタンスを保て」っていう中でなにができるかってことを、みんな模索して、それがZOOMだったりって言っていると思うんですけれど。そもそも集まるっていうことをベースにして成り立っていたのが、宗教的なあり方……世界にはいろんな宗教があると思うんですけれど、基本的には集まってなにかをする。で、具体的な例でいうと韓国の大邸[テグ・韓国の都市]の宗教組織で、クラスターが発生してしまったと。エジプトで「ラマダン[断食月]」がはじまって……昼間はみんななにも食べずに、暗くなってからお祭り騒ぎをして、そしてまた朝になるっていう、イスラム教がずっと続けてきたあり方っていうのが、それをやってはいけないっていう強制力がある。実はそれって、宗教的に積み重ねてきた歴史の長さと……コロナって最近はじまったばかりのことじゃないですか。でもそれによって塗り替えられてしまっているっていうことが、宗教にとってどういう意味があるのか。
すごく小さな例でいうと、日本のどこの神社か忘れてしまったんですけれど「触るとご利益がありますよ」という石が置いてあると。ところがいま「触ると感染リスクが高いから、触らないようにしてください」ってなると、いままで「この石に触るとご利益がある」というみんなが信じて、そしてみんなが信じることによってそういう力を持っていた場所っていうのが、動きが封じられてしまったときに「これってどう理解すればいいのか」という人々の気持ちだったり。
もう1点が、この時期に必ずでてくるなと思っていて、それがどういう形になるのかまだわからないんですけれども、僕の考えでは、コロナによって生まれる新しい宗教。これが、必ずなにかしらの形で出てくる。僕が考えられるパターンとしては、重篤患者になった人が治癒して戻ってきたときに、なにかしらの「啓示を受けた」「こうして私はなにかに出会った」「こういった体験をした」っていう話をもとに……それは実際にその人がコロナを克服したゆえに持つ説得力とともに、いろんな人たちに拡がっていくんじゃないかって、こういうことがあり得るのかっていうところを……まあ、「宗教ってそもそもなあに?」っていうあたりを宮台さんに聞きながら、考えていければなと思います。
▶「オウム真理教」と「オタク」のブームはシンクロしている
宮台:■はい。どこから喋ればいいでしょう。じゃあ手始めに、僕が最初に振った、宗教に対するニーズが増えるのか減るのか、もしかしたら減るかもしれないという問題について、1つだけお話をしますね。
■文脈を省いて言いますが、「オウム真理教」の事件が1990年代半ばに起こります。その頃までは、70年代後半から続く新・新宗教ブームが隆盛でした。従来の宗教は、「貧・病・争」ゆえに、生きることが物理的に苦しい人たちが、どうしょうもなくて宗教にすがるっていう形だった。それが、新・新宗教のブームでは、「オウム真理教」もそうだったけれど、中流階級以上で、学歴もあって、将来的に食うに困らない人たち、あるいは争いを経験していない人たちが、入信するようになったんですね。
■実は、オウムの動きが、オタクのブームとシンクロするんです。オタクは、90年代に入ると、激しい差別やバッシングの対象になります。きっかけは「M君事件=宮崎勤事件=連続少女誘拐殺人事件」です。ネットで検索すればすぐ分かるので、調べてほしいんだけれど、この事件では、テレビの捏造報道で、宮崎勤がオタクだったっていう嘘が流されまくったことで、オタクバッシングが生じるようになったんですね。学校の教室でも、オタクだというだけで、いじめの対象になるということが起こったわけです。
■ちなみに、オタクって何なのか。90年代以前の文脈を知らない人たちは分からないと思うんで、マニアとオタクの違いから説明します。マニアは一般市民です。パラフレーズすると、マニアは一般市民から理解できます。ところが、オタクは一般市民じゃない。パラフレーズすると、オタクは一般市民から理解できない。いわば「エキセントリックな変態」っていう位置づけです。だから宮崎勤がオタクだったってことで、オタク差別が拡がったんです。
ダース: 共通しているのは「エキセントリックな一般市民ではない人」っていうカテゴリで、「じゃあオタクだろ」って結びつけたってことですよね?
宮台:■そういうことです。実は同じことが宗教にもあった。既成宗教とカルト宗教の違い。既成宗教は一般市民が参加するもの。だから、一般市民から動機も教義も理解できる。信じるかどうかは別としてね。でも、カルトは一般市民じゃない。つまり、一般市民からは動機も教義も理解できない。「頭が狂ったヤツが入る」っていうイメージになる。だから、カルトとオタクは、概念的には、機能的に等価なポジションです。まず、そのことをみなさんに踏まえていただいたうえで、次に進みます。
■オタクが、90年代前半にめちゃくちゃバッシングされた。それで、オタクがどんどん生きづらくなった。だから、オタクの間に拡がったのが「ハルマゲドン幻想」なんです。フランス語だと「アルマゲドン」。要は、キリスト教の新約聖書の「ヨハネ黙示録」に出て来る宗教的最終戦争です。それが前提としているのが「アポカリプティック=黙示録的」って呼ばれる世界観。世界が終わる時に、長らく沈黙していた神が現れ、新しい「ERA=世紀」がはじまるっていう。
■これをオウムが取り込んだ。たとえばオウムの食堂に行くと、「ハルマゲ丼」っていうどんぶりがあったりしましたよね。
ダース: 「ハルマゲ丼」ありましたよね(笑)。
宮台:■ふふふ(笑)。そこがオウムのポピュラリティ(人気取り)戦略だったんだけれど、オウムは、自分たちでキャッチーなアニメを作って、「ハルマゲドン幻想」を増殖させるようなことをひたすらやり続けた。
ダース: なんか「ハルマゲドン」っていう名前自体のキャッチーさがあって、結構90年代の中盤くらいからよく見かけたなと思うんですけれど。「ハイスクール奇面組」っていう漫画が昔あったんですけれど、その主人公は僕と同じ名前で「一堂零[イチドウレイ]」(ダースレイダーさんは和田礼)、その隣の家に住んでいたヤツが「春曲鈍[ハルマゲドン]」ってヤツで(笑)。
宮台:■ふふふふふ(笑)。
ダース: そいつがすごくどん臭いヤツなんですけど。そういった意味ではある種、キーワード的に浸透しやすい。「アルマゲドン」って映画も出たり……97年くらいかな、あれは。で、いまの話って、[この配信を]見ている人の年齢層によっても変わると思うんですけれど、90年代の中盤から後半に至っての終末思想的なものは、別に信仰があるとか教養があるに関わらず、なんとなくそうなるんじゃないかなってイメージが、みんなの中に共通してあって。それは、ちょうどいまYou Tubeで無料公開されている『新世紀エヴァンゲリオン』とかそういったものにも具体的なイメージとして描かれるようになっていたり。様々な創作物に、なんとなくこういう終わり方をするっていうイメージが……黙示録とかに書かれているものを映像化したりとか、小説にしたりってことをしているんですけれども。結構色濃く共有されていた時代感っていうのがわかると、いまの話はすごくストンとくると思う。
宮台:■「オウム真理教」と、「終末論的オタク」と、この両方の拡張媒体として機能した学研『ムー』と。これらが三位一体になって、時代の気分を増幅する役割を果たしたんですね。オウムの麻原の「空中浮遊」の写真も、『ムー』に掲載されたことで、たくさんの信者を呼び込んだ、という事実も実際にありました。
ダース: 『ムー』は買ってましたよ、僕も(笑)。
宮台:■僕も買ってた(笑)。小学生時代から「世界の七不思議」系が大好きなのでね。
■ところが、95年にオウムによる「地下鉄サリン事件」が起きて、オウム教団がめちゃめちゃバッシングされた。それだけじゃなく、カルト宗教から既成宗教まで含めて、宗教一般が差別の目で見られるようになる。それで、どの宗教教団も、新規参入者のエンロール(巻き込み)に困るようになった。それが95年半ばからの話です。そこに出てきたのが、95年10月から放映された『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズ。モチーフがその後も継承されて「セカイ系」という系列が生まれました。『エヴァ』の製作はその1年前からだから、95年の、オウム事件と『エヴァ』放映開始は、偶然に起こった一致です。
■偶然の一致と言えば、翌96年がいろんな界隈でエポック(画期)になります。たとえば援助交際のブームが終わった。それまでは、女の子たちのロールモデルになるようなカッコいい子が援交していて、だからこそ拡がったんだけれど、フォロワー層が増えるにつれて、自傷系の子たちが増えて、カッコ悪いイメージになっちゃったのが背景です。それだけじゃなく、援交に限らず、性愛に過剰にコミットするヤツは「イタイ」って話になる。
■ほとんど同じタイミングで、オタク界隈でも同じことが起こった。知識で圧倒する「うんちく競争」に勤しむ過剰さが「イタイ」として避けられるようになったんですね。そのかわりに、“隠れオタク”(外から見分けられないオタク)や“多元オタク”(相手次第で違う引き出しを開けるオタク)に見るように、オタクであることがワイワイガヤガヤ戲れるためのコミュニケーション・ツールになった。
■こうしてオタク界隈が「表層的な戯れ」になる一方で、「表層的な戲れ」だったはずの援助交際が「イタイ系」の自傷ツールになっていった。それで、性愛的・ナンパ的なものが地位を落とし、オタク的なものが地位を上げた。その結果、ナンパ系によるオタクの差別が終わった。僕が89年の『中央公論』論文で予測していた「総オタク化」(これは論文内の用語でもあった)が97年には実現した。こうして、ナンパ系も、あまたあるオタク系トライブの1つになり下がったんですね。
▶オウム事件後に登場した『新世紀エヴァンゲリオン』の役割
宮台:■ここで、「痛み」というキーワードを導入します。僕は70年代後半の学生時代から、田川建三という宗教学者の影響を非常に受けています。彼によると、世界の宗教は、近代においては例外なく、アフリカや中南米や東南アジアも含めて、「痛み」の宗教なんです。それは、みなさんも想像がつくように、「この『痛み』を失くしてください」っていうことでもあるけれど、もっと重要なのが、「なぜこの『痛み』があるのですか?」「なぜこの『痛み』が、他ではなく、この私を/この国を、襲うのですか?」という問いに答えることです。僕は「痛みの意味の理解」と呼んでいます。僕は、田川建三さんの影響を大きく受けているので、宗教を考えるときはいつも「痛み」を起点にして考えます。
ダース: いまの宮台さんの言っている「痛み」っていうのは、メンタルの「痛み」あるいはリアルな外傷・怪我とかも含めた「痛み」、それと社会全体に与えるダメージだったり、格差が生むダメージだったり、ある種、王様であろうがどんなガバナンスであろうが統治機構が生み出す「痛み」だったり、様々な「痛み」っていうのが全て入っている「痛み」っていうことですね?
宮台:■全部入っています。「貧・病・争が、他ではなく私を襲うのは、なぜか?」みたいな物理的な痛みから見ると小さく見えるけれど、「私は何のために生きているのか?」とか「私が生きていることに意味があるのか?」という「規定不能なものについての悩み」の全てが、ここでいう「痛み」です。それをどうにかすることが、宗教の機能です。具体的には、「その未規定性は、この神を信じないことに由来するのだ」という形で、信心を奨励する方向で解決してみせるわけですね。
■このように「痛み」を、他ではなく自分を襲うのはなぜか、という「規定不能性」や「未規定性」の問題として理解すると、重大なことが分かります。新・新宗教以前の入信動機だった「貧・病・争」を、「よい社会」がどんなに解決してくれたにせよ、「なぜ私はここに生きているのか?」という問題は、「貧・病・争」の解決によっては解決できない問題として残るということです。その意味で、「痛みに関わる未規定性」という視座からすると、「宗教の機能」が永久に要求されることが分かるんですね。
■それを踏まえて、次に進みます。90年代半ばから宗教がバッシングされたことで、人々は宗教に帰依する代わりに、実はオタク・コンテンツの中に「痛みに関わる未規定性」についての回答を求めるようになるってことが起こりました。それを象徴したのが、『新世紀エヴァンゲリオン』のブームだと思います。その証拠に、エヴァンゲリオンの主人公「碇シンジ」は、リストカッターみたいな「自傷系」の一種として設定されていました。つまり、95年のオウム事件の、翌年の96年から「自傷系の時代」が始まったんですね。
■援助交際する女子高生も、自傷系だらけになりました。リストカッターもました。インプランティング・マニアもいました。タトゥーイング・マニアもいました。この人たちは総じて、自分を傷つけて、フィジカル(物理的・身体的)な「痛み」を感じることで、「自分はここに生きているんだな」と感じる。そうした「自傷系」が、大挙して『新世紀エヴァンゲリオン』になだれ込み、それと完全にシンクロしながら「私はAC(アダルトチャイルド/アダルトチルドレン)です」ってカミングアウトする人たちが出てきた。
■「私は『碇シンジ』です」っていう人がたくさん出て来たけど、同じです。ACとは何かというと、「自分は、両親や先生に気に入られる『いい子』になろうとして生きてきた結果、いつの間にか『自分が誰なのか』が分からなくなりました」っていうタイプの人たちです。こういう人たちが、「自分はACです」ってカミングアウトすることで、コミュニケーションの回路を切り開くっていう営みが、96年から大爆発したんですね。それが『エヴァンゲリオン』ブームの、意味なんです。
ダース: いまの話ですごくわかりやすいのは、「痛み」に対する回答を宗教に求めていて、それを求める対象っていうのをみんな必要としていたけれど、表面上宗教というものにすがれなくなった、バッシング受けるから。それで全く同じ機能を持つものを探した結果、そこにちょうどタイミングよくスポンとハマったのがエヴァだったり、ACとして自分に名前をつける、ある種ラベリングして、こういうことで自分の「痛み」とか「なんで痛いのか?」ってことが、このラベリングを貼ることで、もしかしたらわかるかもしれない。エヴァを見ることでわかるかもしれないっていうふうに、そのままただスライドしたっていう。
宮台:■その通りですね。僕は95年から連載した朝日新聞の「論壇時評」で初めて「セカイ系」の内容を説明しています。「『エヴァンゲリオン』の特徴は『世界の謎』の解決と『自分の謎』の解決とは等価であると主張したところだ」とね。当時はまだ「セカイ系」という言葉こそなかったけれど、「『自分の謎』を解決したら『世界の謎』も全て解決するという特殊な設定」と僕が言ったことが、4年すると「セカイ系」と呼ばれるようになります。2000年に始まった高橋しんの連載漫画『最終兵器彼女』から出て来た言葉です。
■これなんかが象徴的だけれど、等身大の「憧れの彼女」と自分がどう関わるかが「世界の救済」に直接結びつくという表現です。この「セカイ系」的な表現の元祖が、『エヴァンゲリオン』の最終2話です。「セカイ系」は明らかに「自傷系」の世界観です。「自分はなんでここにいるんだろう?」「なんで生きている感覚がないんだろう?」という問いが、「自分についての問い」であると同時に、「そういう自分がいるという世界についての問い」でもあることに注目してください。この種の「自傷系」を取り込むことで、オタク・コンテンツ界隈の内容の豊かさや深さが、ものすごく増したんですね。
ダース: それまで宗教組織が担っていたことを、ある種そういった創作作品がそのまま機能として担うことになっていくことによって、宗教的な深みというものが与えられていくということですよね。どんどん考えていくわけだから。
宮台:■そうです。僕こないだ、下北沢のイベントスペースDARWIN ROOMで「宮台真司・第5回・映画批評ラボ」を開催して、そこで「世界はなぜ世界なのか」「世界が世界であるとはどういうことか」というテーマを設定しました。実はそれも、90年代後半以降の、アニメを中心とする日本のコンテンツ界隈がもたらしたものなんですよ。最初は95年の『エヴァンゲリオン』だったけど、10年後には『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)、その5年後には『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)に継承されたでしょう。
■このモチーフが、いまや完全にユニバーサルに引き継がれていて、アニメだけじゃなくて、ハリウッド映画を含めた全てのコンテンツに拡がっています。いま流れているNetflixオリジナル・アニメでいえば、日本人スタッフが作った3Dアニメーション版『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX2045』がそうだし、アメリカ人スタッフが作った『ミッドナイト・ゴスペル』がそうです。
■「世界が世界であるとはどういうことか」という問いのモチーフ。これは、日本のアニメが90年代半ばから急速に深めていったモチーフが、海外の人たちに継承されて展開しています。そして、その出発点を遡ると、「オウム事件」による「宗教からコンテンツへの大量移民」なんですね。歴史というものは、とても不思議です。
ダース: それを、ちょっとすごく危険な言い方をしますと、「オウム起源」とも言える90年中盤に日本で起こったカルチャーのスライドみたいなものが、ある種の世界宗教として、宗教の代替物として発展していったものが世界に拡がっているという意味では、世界の宗教的な役割を、アニメからスタートしたものが担っているという現状が実際にあるということですよね。
宮台:■そうですね。
ダース: 終末思想のときにちょっと話した、要は別にみんなそういった教養がなかったり聖書とかを読んでなかったりしても、なんとなく終末イメージっていうものを共有していたっていう感覚が90年代末くらいまであったと思うんですけれど、いまの世界中の、そういったコンテンツを消費している人の共有しているベースが、実はエヴァからスタートしていった「世界とはなんなのか」とか「セカイ系」的な考え方っていうのが、別に教養として意識していなくてもなんとなく実装されちゃっているっていうのが、いまの世界。
▶モヤモヤを共有する集まりこそが宗教的な共同性を生み出す
宮台:■そうなんです。ただね、そこから「集まり」っていう問題に移動することができるんですね。たとえば、いわゆる「セカイ系」のコンテンツの末裔たちというか、最近の「世界が世界であるとはどういうことなのか」というモチーフの映画は、おしなべて、やはり難解なんですね。これは当たり前です。この問いは、難解でなければ意味を持たないし、御利益もないんですよ(笑)。
ダース: 要は、わかんないから、それがわかった気になるっていうハードルがちゃんと設定されていて、「これがわかったということは!」という錯覚も含めた感覚を起こさせるという機能があるんですよね。
宮台:■そこです。それがすごく大事なポイントです。そうしたモチーフのコンテンツがすごく分かりやすかったら、「自分はこんなに分かりやすいことに悩むようなポンコツだったのか」っていう話になっちゃうでしょ(笑)。だから、「自分が自分の悩みを悩んでいるのは、当然のことなんだ」って、悩んでいる人に思わせるくらいのハードルの高さがなければダメなんです(笑)。その高いハードルを超えて、「おぼろげながら回答」を与えることが要求されている。しかし、その回答は「おぼろげ」なので映画を見終わったあとに、完全にクリスピーな(輪郭がはっきりした)感じにはならないんですよね。
■さて、そこで僕が振り返って気がつくのは、そういうタイプの表現、「世界はなぜ世界なのか」っていうタイプの表現の、ルーツって、実は1950年代後半以降の英米のSF、とくに「ニューウェーブ」と呼ばれる1960年代のSFなんですね。僕は自分が中高生だった1970年代前半に、そうしたSFに耽溺しています。でも、中高生だったから、SFの本を読んだあとの「モヤモヤ感」といったらたいへんなものだった。だから、学校に行ってSF研の先輩や同級生と話して、「そういうことなのか!」ってやっと思えたんですね。
■今にして思えば早合点だったのかもしれないけれど、それでも別に構わないんです。モヤモヤを抱えたまま長い時間を生きるっていうことをしないで済んだところがポイントです。実は、それが、宗教でいう、キリスト教の「チャーチ」や、そのルーツであるユダヤ教の「シナゴーグ」なんです。SF研みたいに、定期的に行われるギャザリング(集まり)を通じて、モヤモヤをそれなりに腑に落とすこと。あるいは、そういう仕方でモヤモヤを腑に落とすことができるのかって分かること。あるいは、「モヤモヤしていたのは自分だけじゃない、みんなも同じだったんだ」って思えること。それが大事なんですね。
ダース: いまの機能性の話を整理したいと思ったんですけど、教会でいうと、牧師でも神父さんでもいんだけど、なにかを語ってくれる人がいて、みんなモヤモヤを抱えて日曜日に教会に行ったとして、なにか抱えているのを、なんかよくわかんない話をされることによって、なんかわかった気にしてとりあえず1週間送るっていう。すごく機能的に、人間が抱えている悩みだったり、不安っていうものを解消する機能として、設計をずっとされてきたっていうのが教会の役割としてあって。
で、SF系の話とかも先輩が「それはそういうことなんだよ」って言ってくれることが大事で。そのメンタルに作用する機能っていうのが、実は人間にとって必要なんだよっていうのがいろんな場所で、集まりとして行われていて。
僕なんかすごくSF研の話でポンとわかったのが、「それで世界はこういうことなんだ」っていう解釈を与えられるっていうものが出てきたのが、藤子・F・不二雄[漫画家]の表現だったり……SF研で集まって話してたことっていうのがそのまま漫画とかにスポンと描かれていくっていうのが60~70年代くらいにあったなあと。
宮台:■藤子不二雄A[漫画家]は別として、藤子・F・不二雄には明らかにSF研の匂いがあります。彼の漫画コンテンツって、読み終わったあとに不可解感でモヤモヤさせるものですよね。「あれ、この話って結局なんなのかな?」っていうふうに(笑)。実際、1960年代当時のSFマガジンによく単発の漫画が載っていましたよね。それを読んだあと、SF研の定例会で、「これ、分からなかったんですけど、先輩、これって何なんですか?」って尋ねたわけですよ。
■そこでのポイントは、「チャーチ」「シナゴーグ」「SF研」もそうだけれど、「モヤモヤしているヤツが集まっている」「モヤモヤしているヤツは自分だけじゃないんだ」っていうコミューナリティ(共同性)です。すごく重要なポイントだったと思うんですね。「モヤモヤしている同士だから話し合えるんだ」ということです。実際、素晴らしい先輩がいて、「それはね……」って答えてくれるから、みんな取り敢えずは納得して家路につくことができた。そこでは、「私は納得した」じゃなくて、他のみんなも納得したと思えるので、「私“も”納得した」という体験が生じます。それこそが、宗教的なコミューナリティ(共同性)のポイントだったと思うんです。
ダース: あの、やっぱり共同性の話になると同じ構造が……。たとえば60年代だったら、学生運動の人たちも同様に、「なんでこの社会ってこんなにわけわかんないことになっている?」と。安保闘争していた人たちも、「なんなのこれは?」っていう人たちが集まって、その度にちょっとエリートだったり教養のある人が難しいことを言うことによって、みんな「そうだー!」っていう構造っていうのは、実は完全に宗教と同じことが、左派でも右派でも学生が集まって行われている場所で、実は同じ機能のことが行われていたんだなって、いまの話聞いていてすごくわかりましたね。
宮台:■ちょうどその裏腹で、宗教とコンテンツ享受の違いは、「いままでのところは」って限定をつけると、コンテンツ享受のほうには充分な共同性がないということです。もちろん年に1回のコミックマーケットはある。でも、あれはお祭りですから、モヤモヤを共有する場所じゃない。たとえ黙示録的・終末論的なコンテンツをどんなに深く享受していたところで、モヤモヤを共有するかつてのSF研に相当する集まりの契機は無いわけですよ。
■別の言い方をすると、「自分はこういうふうに解釈したんだけれど、その解釈でいいのかな?」って、他人に投げる機会が無い。だから、集まりを経て、思い違いがあったなと反省して、更に先に進むっていうことが無い。「ああ、そうか、俺だけじゃないんだ」って、悩みや痛みを共有できているという体験の機会も無い。それが「宗教からオタクコンテンツへの移民」によって解消できない問題だったんだと思います。
■今回のコロナ禍で、こうしたZOOMのセミナーやトークイベントなどを含めて、かつて触れたことの無かった内容に、かつて想像もしなかったやり方で接触できる機会が増えていくでしょう。当然ながら、宗教的なコミュニケーションも、多分ZOOMのような形式になるでしょう。そのときに、いまさっき話してきたようなギャザリング(集まり)の機能を、どれだけオフラインと同等以上に再現できるのかということが、大きなポイントになると思うんですね。
▶オンラインの集まりでは、従来ある「すでにできあがっている」状態が作れない
宮台:■さっきダースさんがおっしゃったことに含まれていたけれど、チャーチやシナゴーグに集まるのは週1回ですよね。場合によっては2回の人もいるけれど。週に1回チャーチやシナゴーグに行く場合の時間感覚が、昔のお祭りと似ています。「シナゴーグやチャーチに行くのを楽しみにしながら、モヤモヤに満ちた日常を生きる」。あるいは「日曜日にモヤモヤを解消できると思えるから、平日を耐えて生きられる」。お祭りもそうですね。
■僕は「御柱祭」が好きで、何度か行ったことがあるけれど……といっても7年に一度だから二度だけれど(笑)。地元の人たちは、お祭りが明けたらすぐに、7年後の祭りに向けて準備を始める。そして、祭りを待望しながら、毎日のつまらなさをやり過ごす。僕の言葉でいえば、仮の姿に「なりすまして」毎日を生きる。これに相当するチャーチやシナゴーグの時間感覚を、ZOOMは実装できるだろうか。ZOOMイベントって、空いた時間にすぐ開けるし、すぐ見られる。しかも移動しなくていい。チャーチのように場所はいらないわけ。
ダース: 教会とかシナゴーグ、僕がロンドンに住んでたときにはユダヤ人地区に住んでいて、その通りの一番はじっこの角にシナゴーグがあって、そこにみんな日曜日の朝行くわけですよ。で、その行く家で準備して、出かける支度をして……みんな丸い帽子を被ったりしてっていう行動から全てはじまっているから、すぐシナゴーグに移動できてはじまるっていうよりは、朝起きて「今日は行きますよ」って家族で集まって準備して行って、お話を聞いてみんなで集まって帰るっていう全体の動作の機能性っていうのがあって。そのシナゴーグって場所があって、そこでありがたいお話を聞けるっていう表面上のそのことだけが大事ではないっていうことはすごく実生活のリズムの中で組み込まれていたと思うから、冒頭で宮台さんが言った、テクノロジーが進化していくときになにが失われるのか。失われたものが、実はそれこそが大事だったんだってことが起こり得るっていうのは、まさにそういったことで、実感としては……あれは、多分、無駄ではないはずだっていうのがあるんですよね。
宮台:■そうですね。実は、コンテンツ享受にとっても、こうした時間感覚は重要な意味を持ちます。松本雄吉さん[演出家]の「維新派」という芝居の集団があって……松本さんは何年か前に亡くなったけれど……維新派の芝居は、瀬戸内海の小島とか、本州の山奥でやるんです。行くの大変なんですね。最寄り駅から歩いて2~3時間のところに場所が設営してある。最初、知らない人は「なんでこんなところでやるんだよ」と思う。でも、実際に行けば分かるんですね。
■長い間歩くうちに、これは散歩と同じだけれど、リズムや体温上昇や疲れで身体性ができあがっていく。維新派の芝居は、それぞれの季節の夕暮れ時に始まる。散歩しているうちに、日没で暗くなってくる。芝居の場所には「飯場=屋台の集合」が設営してあって、歩いていくと遠くに篝火(かがりび)が見えてくる。近づいていくと、「逢魔が時」のダークブルーの空間にわぁ~っとオレンジ色の祭り場が拡がっている。そこで、ちょっとした晩ごはんを食べたり、屋台の杏子アメを楽しんだりしていると、やがて芝居が始まる。すると、芝居が始まる前なのに、既に前座を観てきたかのように「できあがっている」。
■さっきダースさんがおっしゃった問題も、こうした時間性……ただの物理的時間じゃなくて「準備をして、みんな揃ってでかけ、それまでとは異質な空間に入っていく」という助走路を進む営みによって……シナゴーグに入ったときには「できあがっている」んです。「その時空に入ったときには、既にできあがっている」っていう状態を、ZOOMでは絶対作れないわけですよ。それをどうするかってことですね。
ダース: そこなんですよね。これもすごくズレた例えになっちゃうかもしれないんですけども、漫画の話で、「美味しんぼ」って漫画があって、美味しんぼでおもてなしをしなきゃいけなくて、ごちそうを用意してくれってなったときに、すごいお金持ちの爺さんだから、「世界中の有名なシェフの料理なんか食ったことあるし、なんにもそんなの用意されても面白くねえ」とか言う爺さんに、山をひたすら登らせて、延々歩かせて、それでたどり着いた小さな小屋で、水を一杯だすと。ほんで、水を飲んで「はぁ~」って言ったときに、「実はこれでおしまいです」って話をされて、「これで良かったんだ」っていう会話をする回があるんですけど。いまのはまさにそういうことで、ごちそうっていうのは、「走って、用意して、そしてその瞬間に喜ぶ顔を見るために準備することがごちそうなんだ」みたいなことが解説されているんですけれども。
それが本当に、ZOOMで突然ポンっとやって会いたい人に会えるっていうのでは、その距離……要は待望したりたどり着かないってことを味わうっていうことが先につながるっていう……最初に宗教の役割で言ったとき「痛み」っていうテーマも、「痛み」って「なんでこんなに歩かなきゃいけないの?」とか。「え、めちゃめちゃ遠いじゃん」っていうのも、これは鈍いけど実は「痛み」の一種だと思うし、それが到達したときにできあがるっていうことが、ある種それまでの長い緩やかな「痛み」の回答として与えられるって機能が同時にあると思うので、これはZOOMとかネットでっていうのが、ちょっと難しい気がしますね。
宮台:■そうなんです。これは宗教にとって極めて大事な論点です。オウムの麻原彰晃が、ヘッドギアのような電気刺激と、LSDのような薬、マントラのような声や音の反復を通じて、長年の修行の末にやっと到達できるとされてきたはずの法悦……ニルヴァーナですね……に100倍速で到達できるんだ、というふうに言っていた。この物言いをどう理解するべきか。確かに、快楽状態そのものは、脳内環境の対応物です。だからといって、快楽状態に対応する脳内環境を再現すれば、法悦の再現になるのだろうか。
■もちろん、なりません。それは、ダースさんがおっしゃったのと同じ理由です。難航苦行を乗り越えて、やっとここまで到達した結果得られる法悦だ、という記憶をベースにした時間感覚が、本当の解放を与えてくれる。つまり、さっきの「できあがった状態」というのも、やはり記憶をベースにした時間感覚抜きにはあり得ないということです。そう考えると、脳内環境のコントロールで快感を再現しても、それは法悦とは別物であらざるを得ないだろうと思われる。それは時間感覚=記憶が伴ってないからですね。
ダース: たとえば釈迦牟尼でもイエスでも、歩くじゃないですか。これは当時、物理的にそうせざるを得なかったっていうのは当然あるんですけれども、すごい距離を弟子と歩いたりして、そして街から街へと歩いたりして、そこでなにかしらの話をする。で、話自体は短い話をぽっとするだけで、また次に旅立っていくんですけれども、その工程の長さっていうものの意味がもう実はわかっているというか、これは歩いて、しかもその間は水一杯で砂漠を歩くとか山を超えていくっていう体験をしたあとの言葉こそありがたいっていう感覚が、実はかなり早い段階から実装されているっていうのがわかりますよね、そういう話を聞いていると。
(以上前編、以下中編)