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■ なぜいまメディアリテラシーなのか?(1)

■ベトナム戦争後の米国がハイテク兵器開発に力を入れた理由として、若い米兵の命が二万人も失われたことが激烈な政府批判や反戦運動を招いたとの反省がある。兵器の遠隔制御化によって若者たちの命を危険に晒さずに済まそうしたのだ。

■だが十年前の湾岸戦争から最近のアフガン攻撃への流れを見るにつけ、従軍カメラマンらによる生々しい戦場報道を避けようとするメディア対策としての側面も、勝るとも劣らない重要性を持つと分かる。そこでメディアリテラシーの話だ。

【疑似現実論から多元的現実論へ】

■リテラシーは「読み書き能力」と訳されてきた。それに倣えばメディアリテラシーとは、メディアを利用して、情報を受容し(=読み)、発信する(=書く)能力だ。ここ十年ほど、メディアリテラシーの重要性が叫ばれる背景は何か?

■読者は「メディアは真実を覆い隠しがちだから、騙されないようにしたほうがいい」という話だと思うだろう。詳しくは拙著(『サブカルチャー神話解体』『制服少女たちの選択』など)に譲るが、それほど単純な話ではない。

■リップマンからブーアスティンまでの議論に見られるように、近代が成熟期を迎える前──1960年代まで──は、マスコミが真実をいかにして歪め、覆い隠すかという問題設定が、社会を覆っていた。これを「疑似現実論」という。

■ところが、近代が成熟期を迎えると、メディアの向こう側に手つかずの真実があるという発想は急速に廃れ、代わりに、多様なメディアチャンネルごとに異なる現実性が宿るという議論が主流になる。これを「多元的現実論」という。

■「多元的現実論」では、真実は何かという不透明性よりも、誰がどういう現実性を生きているかという不透明性の方が問題視される。「疑似現実論」では、戦争報道や大統領選挙報道の「歪み」が問題にされても、報道が大衆にどう受け取られるかは自明だった。

【高度情報社会化と脱政治化】

■変化の背景に二つの事情がある。一つはメディアの多様化と細分化。数少ない情報チャンネルに「大衆」が群がる図式から、細分化した情報チャンネルごとに島宇宙化した「分衆」が群がる図式に変わる。これを「高度情報社会化」という。

■似た語法に「高度消費社会化」がある。消費社会とは「これを買えば我が家も世間並みだ」といった〈物語〉と共にモノが買われる社会だが、〈物語〉が細分化して誰がどういう動機でモノを買うかが不透明化するのが「高度消費社会化」だ。

■もう一つは自由の意味変化。リベラリズムは政治的自由と市民的自由を区別する。政治的自由とは政治に参加する自由、政治「への」自由だ。これに対し市民的自由とは政治権力を顧慮しなくても日常を送れる自由、政治「からの」自由だ。

■政治的自由は参政権(選挙権)として憲法に規定される。市民的自由は表現の自由、思想信条の自由、経済活動の自由、移動交通の自由など多様な基本権(基本的人権)として規定される。後者に共通するのは政治権力に縛りをかけることだ。

■近代が未成熟だと政治権力がメディアに介入することで市民的自由を脅かすことが恐れられる。同時にそれによって歪んだ情報による投票行動が生じがちになり、政治的自由がスポイルされることも恐れられる。「疑似現実論」の背景だ。

■近代が成熟して市民的自由が自明の前提になると、人々は急激に政治参加に興味を失い(「私化」という)、人々は自分の意志で、自分にとって享受可能性の高い脱政治的なメディアを取捨選択するようになる。「多元的現実論」の背景だ。

【政治参加が私的問題になる時代】

■さて最近、脱政治化した人々がNGOやNPOに見られるように再政治化する動きが社会の一部に見られる。環境問題に象徴される社会存続への不安と同時に、IT化とグローバリゼーションの結合が地球規模で草の根を掘り起こし、リアリティの連結を可能にしたことが大きい。

■これは市民的自由が自明でなかった時代の政治参加への公的要求(公民権運動)とは対照的な、市民的自由を存分に享受できることを前提とした政治参加への私的要求だ。まさしくそういう時代に問題化してきたのが、メディアリテラシーだ。

■この概念は、多元的現実ゆえに人ごとに政治に関心があったりなかったりする成熟近代におけるメディアの政治的機能への自覚を促す。そこで機能しているかつてよりもずっと不透明な現実構成のメカニズムをどう意識化するかが社会の存続に関わるとの意識がある。詳細は次号。

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