Texts
■ なぜいまメディアリテラシーなのか?(2)

■前回の最後に、メディアリテラシーとは、昔の「市民的自由が自明でなかった時代の政治参加への公的要求」とは違い、「市民的自由を存分に享受できることを前提とした政治参加への私的要求」がメインになる時代(NGOやNPOが象徴的)に対応した概念だと述べた。展開しよう。

【政治的であるよりも文化的な概念】

■メディアリテラシー概念のルーツは、八〇年代のカナダ。国境を接する米国からのメディアの影響で自国の固有文化が損なわれるのを危惧した高校教員が、米国メディアのダイレクトな影響を中和するために始めた自発的な教育活動だった。

■背景には、同時代の大英帝国圏で浮上していた「多文化主義」とのシンクロがある。大英帝国圈の旧植民地からの人口逆流を背景に、近代の枠内だけで自由を認める米国的「文化的多元主義」では差別や紛争を回避できないとして、近代の特権性を相対化する立場のことだ。

■前回紹介したリップマンらによるメディア批判の出発点が、大統領選や戦争に関わる世論形成のバイアスを危惧する「政治的視点」に基づくとしたら、メディアリテラシー概念は、成熟社会の多様性を背景にしつつアンデンティティを問題化する「文化的視点」に力点があるのだ。

■その意味で、かつての日本における三島由紀夫の文化防衛論や、それとシンクロする左翼反米思想とも似た所がある。三島は日本国内に米国と入替え可能な文物しかなくなるなら国を守る意味がなくなると危惧した。天皇を持ち出すかどうかは別にして、今でも納得できる議論だ。

■左翼反米思想は、一九六〇年の岸内閣による安保改訂や、六〇年代後半のベトナム戦争出撃基地化など、日本が米国帝国主義の走狗となることを拒絶する政治的動機が中核だったが、高度経済成長と都市化を背景とした日本的文物の消滅が醸し出したアノミーも、重大な背景だ。

■むろん違いもある。メディアリテラシー概念が多文化主義を背景とするというとき、米国的グローバリズムに対抗するという意味だけでなく、国内的な多様性に敏感になるという意味をも含む。三島の文化防衛論も左翼反米思想も、この点については比較的鈍感だったと言っていい。

■日本は、反米と域内多様性との双方に敏感な「大亜細亜主義」の右翼的伝統もあるが(例えば大震災時の朝鮮人虐殺調査をした黒龍会)、ここは右翼思想の紹介の場ではないので、メディアリテラシー概念が私たち日本人に馴染み深い文化的論点を含むことを示唆するに留めよう。

■ことほどさようにメディアリテラシー概念は、政治的であるより文化的である。正確に言えば、文化をこそ政治的争点化するものだ。日本ではこのことがあまり理解されず、支配階級による政治的バイアスを見抜くメディア読解力のことだと思いこむ市民的左翼が大半を占めている。

【経済的であるよりも文化的な概念】

■さてメディアリテラシーを、文化的にでなく、経済的に理解する人々も、日本ではあとを絶たない。実際多くの人が、パソコンを使える能力がないと会社でリストラされちゃうぞとか、ITをめぐる国際競争で日本が置いていかれちゃうぞという話だと、思い込んでいる。

■むろんそれは重大だ。コンテンツが充実しなければハードへの需要は伸びず、インフラ整備の速度は落ちる。そうなればITを使える能力を持つ人間が拡がらないから、クリエータも出て来ず、コンテンツも充実しない。そうした悪循環が日本経済の苦境を深めているのは周知だ。

■そこで悪循環を絶つべくITを使って自由に情報を受発信できる能力を養う必要が提唱される。一見尤もらしい議論だが重大な落とし穴がある。「能力」があっても「動機づけ」がなければ、ITを使った自由な情報の受発信への要求はあり得ない。その事実が見落とされているのだ。

■むしろ成熟社会の教育問題一般と同様、「動機づけ」さえあれば「能力」は自動的ついてくる。ポケベル暗号から携帯メールまで女子高生を牽引力とする携帯情報ツール重要の拡がりを見れば自明だ。暇潰しの携帯情報ツール需要を越える新需要を惹起可能なのかどうかも、同じ理屈。

■ここでもメディアリテラシー概念は、経済的であるより文化的だ。能力(一定入力からどれだけ出力が得られるか)という経済合理性と異なり、動機づけは「自分にとって生きるとはどういうことか」という自己把握と表裏一体だからだ。

■冒頭に戻ると、市民的自由を自明の前提とした政治参加への私的要求が主軸になる時代とは、政治的コミュニケーションが各私的実存を動機としてなされる時代のことだ。各私を動機づけ、動機づけられた各私を結びつけるのがITである。だからメディアリテラシーが必要なのだ。

<→次号へ>


Top