MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
12345678910111213141516171819202122232425262728293031

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

エリート論に関連してパターナリズム論を書きました。

投稿者:miyadai
投稿日時:2012-10-13 - 20:12:02
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
今日パターナリズム研究が重要な理由
〜グローバル化と民主制の両立不能性〜



目次
【グローバル化による困難と、日本であるがゆえの困難】
【グローバル化による困難:リスクの配分と感情の政治】
【日本であるがゆえの困難:エリート層と非エリート層】
【今日も全く変わらぬ日本の状況:尖閣諸島と北方領土】
【日本的状況の進展の歴史:クレージークレーマー問題】
【共同体空洞化に見舞われた日本を追いかける先進各国】
【共同体は全体主義のインキュベーターかストッパーか】
【自立的/依存的個人と、自立的/依存的共同体の関係】
【実践論へ:住民投票とワークショップの組合せの意味】
【民主制の条件が不十分ならばパターナリズムは不可避】



【グローバル化による困難と、日本であるがゆえの困難】
■今日パターナリズム研究が重要な理由は二つある。二つとも学の外側からつきつけられた要求である。第一は、グローバル化即ち〈資本移動の自由化〉への妥当な政治的対処と、民主主義の政治体制(民主制)とが、両立しがたくなっていることだ。
■グローバル化がもたらす不安ゆえに、民主制が悪い意味での〈感情の政治〉に陥りがちで、グローバル化への妥当な対処を導く政治的決定が困難になりつつある事実を指す。これは今日、各国で「ポピュリズムの危険」として意識される様々な動きに関連する。
■第二は、日本が民主制にとって必要な社会的条件を満たさないということである。丸山真男によれば(1)、日本には自立的主体がない。だが、そんな日本が近代の要件を備えるかと問うても意味がない。自立すべしと説いても所詮は祈りに過ぎず、何の効力もない。
■丸山は、日本が持つ既存リソースを組み合わせて社会を制御することで、欧米近代に伍して生き延びる他ないとした。これは佐藤誠三郎が批判したように(2)六〇年安保の国民運動以降示した市民に期待を寄せる啓蒙派的立場とは相容れないパターナリズムである。
■欧米的な近代の要件--主体の自立--を具備せずとも、日本社会を欧米近代に伍する力を持つようにする以外ない。それには欧米近代には既に不要な「有効な民主制を導く方策」と「不完全な民主制を補完する方策」が必要だ…それが丸山の考えていたことであった。

  (1)丸山眞男 1968「個人析出のさまざまのパターン」、
    『丸山眞男集・第九巻』岩波書店。
  (2)佐藤誠三郎 1996「丸山眞男論」、『中央公論』1996年12月号、
   190-208頁。




【グローバル化による困難:リスクの配分と感情の政治】
■第一の問題、即ち〈グローバル化への妥当な対処と民主制の両立し難さ〉は昨今の欧州信用不安に如実である。グローバル化の本質は先進国にとっては新興国との競争だ。新興国との競争では多くの場合、労働分配率切下げ競争が不可避で、中流層が貧困化する。
■その結果、税収減少と、社会保障や財政出動へのニーズ上昇が、同時に生じる。でも無い袖は振れぬ。グローバル化の下では先進国政府が借金を抱えがちで、融資元からの信用を獲得するためにも、緊縮財政政策(小さな政府)は、政策というより不可避な選択だ。
■だが貧困化による格差拡大を背景に、緊縮財政が抑鬱感と将来不安を惹起し、人は〈感情の政治〉に釣られ易くなる。実際、ポピュリズムが機能し、緊縮策を批判する大統領や与党が誕生した。かくて政府に借金返済意志がないと見做され、国債と通貨が売られた。
■かくて財政は破綻。政府に貸す(国債を買う)他国の銀行を巻き込んだ欧州信用不安が拡がった。グローバル化対応に必要な施策を採ると、グローバル化で不安を募らせた人々が感情的に噴出する。こうした噴出に迎合したポピュリズムが、全てを台なしにする。
■抽象的に言えば、民主制は、右肩上がりの社会で〈富を配分〉する際には妥当に機能しても、右肩下がりの社会で〈不利益を配分〉する---リスクを配分する---する際には、不安がポピュリズムを惹起するので妥当な機能が妨げられる。謂わば〈民主制の限界〉だ。
■グローバル化状況下で不可避な緊縮策を、一方で感情的噴出を招かないようにうまく説得しつつ、他方で不安を過剰に惹起しないように馴致しつつ遂行するしかない。〈民主制の限界〉を克服するのに必要なのは、こうしたパターナリズム以外にあり得ない。
■実際、欧州危機の中で選出されたフランス大統領オランドはそう考えているに違いないというのがフランス論壇の専らな見方だ(3)。危機への妥当な対処には政策的選択肢が殆どなく、中身はサルコジと大差ない政策を、感情的噴出を馴致しつつ遂行する他ない…。

  (3)山田文比古 2012『オランドが追求、財政・政調の二兎
    〜仏大統領選挙を読む』時事通信社web




【日本であるがゆえの困難:エリート層と非エリート層】
■第二の問題。丸山は、日本的ファシズムの駆動因を、非エリート層については〈共同体空洞化を背景に噴き上りがちな付和雷同層〉に見た。彼に従えば政治的無関心層には隠遁層と付和雷同層がある。後者は、社会的に恵まれないと自覚し、知的ネットワークから孤立した、鬱屈した存在だ。
■この存在は、元々政治や社会や歴史に関心がなく、知識もないがゆえに、軍事や外交など〈感情の政治〉の釣針に釣り上げられやすい。こうした亜インテリ層を狙ったマスコミ(朝日新聞など)の煽りが、更にこの層を分厚くし、戦争の合理的制御が不可能になった。
■他方で、丸山はエリート層については、政策決定部署が現状分析部署の報告を無視して権益のみを参照して政策を決め、現状分析部署がそれに従って現状分析を書き換えるという〈現状を見ずに権益だけを見る出鱈目な政策立案〉という大問題を見出した。
■これと対になる非エリート層の作法が、今述べた〈共同体空洞化を背景にした噴き上り〉だ。我々は、福島原発事故以降〈現状を見ずに権益だけを見る出鱈目な政策立案〉〈共同体空洞化を背景にした噴き上り〉を如実に目撃した。何も変わっていないだ。
■丸山の言う〈共同体空洞化を背景にした噴き上り〉は「ネトウヨ」を含めた〈釣られ層〉を想起させる。社会にも歴史にも関心がなく知識もないがゆえに、軍事外交分野で〈感情の政治〉の釣針に釣り上げられて噴き上る付和雷同層。むろん今も大問題だ。(4)

   (4)宮台真司 2009「「小さな国家と大きな社会」へ」、
     神保哲生・宮台真司他 2012『格差社会という不幸』春秋社。




【今日も全く変わらぬ日本の状況:尖閣諸島と北方領土】
■例えば尖閣問題。元外務省国際情報局長孫崎享が言うように(5)、田中・周恩来協定(日中共同声明)、大平・鄧小平協定(鄧小平声明)、日中漁業協定を通じ、(1)主権棚上げ、(2)日本の実効支配、(3)共同開発が合意されてきた。これは日本に有利な協定だった。
■それに基づき、中国漁船が実効支配領域に侵入したら①停船でなく退去を要請し、②退去しない場合は停船させるが、逮捕&起訴でなく拿捕&強制送還で対処すはずだった。だが当時の前原国交大臣が国内法適用(逮捕&起訴)を宣言し、コンフリクトが生じた。
■孫崎によれば、相手国への説明責任は日本側にあり、かつ元々は周恩来の大幅譲歩から始まった日本に有利な協定を破棄したことについて国内への説明責任が政府にある。協定なき主権の争いとなれば、憲法九条下で戦争せざるを得ない日本には圧倒的に不利だ。
■また北方領土問題。元々はサンフランシスコ平和条約で日本が千島を放棄した。日本政府は国後と択捉は千島に含まれないとするが、放棄当時この両島は南千島と呼ばれ、外務省条約局長も両島が千島に含まれると確認していた以上、日本政府の主張は無理がある。
■現に五五年の日ソ平和条約に向けた交渉でフルシチョフは、千島に含まれないからこそ歯舞・色丹を返還する意向を示し、五六年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹二島返還を明記した。ところが日ソ接近を嫌う米国が、これに突然横槍を入れてきた。
■二島返還で合意すれば米国は沖縄と小笠原を返還しないと脅してきたのだ。慌てた外務省は、米国の要求通り放棄した千島のうち、新たな米国の要求通り南千島の国後・択捉だけは日本の領土だと主張を豹変させ、歯舞・色丹を合わせて「北方領土」と呼び始めた。
■こうした経緯ゆえに「歯舞・色丹の先行返還と国後・択捉の継続交渉」という日ソ共同声明段階---米国の横槍が入る前の段階---に戻り、着実な漸次返還を実現しようとしたのが二〇〇〇年頃の日ソ交渉だった(検察特捜部の出鱈目な国策捜査で頓挫)。五五年段階で領土返還を妨害したのは米国だったのだ。
■外交交渉の帰趨---いわば手打ちの可能性---は、元々固有の領土だという主張の当否よりも、むしろ外交交渉の歴史の積み上げにこそある。尖閣問題も北方領土問題も同じだ。かかる交渉履歴を知らない〈釣られ層〉が、情緒的に噴き上れば、外交交渉の足手纏いだ。
■第二の問題に関わる丸山の議論は、吉本隆明が批判するように、俺たちは駄目だとの罪責感を引き起こしがちだが(5a)、米国や欧州の各国が〈民主制の限界〉を露呈するようになった昨今、民主制の手本だったそれらの国がむしろ日本に近づいてきたように見える。

  (5)孫崎享 2011『日本の国境問題〜尖閣・竹島・北方領土
    (ちくま新書905)』筑摩書房。
  (5a)小熊英二 2002「第14章「公」の解体―吉本隆明」『〈民主〉と〈愛国〉
    ―戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社。




【日本的状況の進展の歴史:クレージークレーマー問題】
■日本に近づいてきたと述べた。日本の状況を詳しく見よう。最近私が世田谷区の行政に関わる中で直面する問題を切口に描写したい。その問題とは〈全体を見ない新住民的な排除の論理〉だ。典型的には〈クレージークレーマー(以下CC)〉問題として現れる(6)。
■一九七七年に三重県で「隣人訴訟」が提起された。隣家に子供を預けて出かけた夫婦が、その間に子供が池で溺れ死んだ件で、隣家の夫婦を訴えたものだ。全国から訴えた側に批難が集中し、控訴を取り下げた結果、八三年に一審判決で確定した。有名な事件だ。
■判決内容は隣家や事業者や行政にさしたる責任はないとするものだった。だが世の中の動きはこの間に逆転。何かというと設置者責任や管理者責任を問う訴訟が陸続した結果、屋上や放課後校庭のロックアウト、小川暗渠化、遊具除去の動きが八〇年代に進展した。
■丸山図式を使えば、こうした〈CC〉は地域共同体が空洞化した帰結だ。空洞化がなけれは、第一に〈CC〉の声は地域の総意に囲い込まれて効力を失い、第二に〈CC〉を生む孤立と抑欝が包摂によって緩和され得る。可能性に過ぎないとはいえ重要な可能性だ。
■地域空洞化は、八五年施行の風営法改正と、新風営法対策として八五年に始まったテレクラにも見出された。テレクラの全国拡大は地域との縁がさして深くない新住民の分厚さを前提とした。実際、同時代はワンルームマンション化とコンビニ化のラッシュだった。
■程なく、地域の組事務所をどけろ、エロ本自販機をどけろ、店舗風俗をどけろ…といった動きが全国化した。そうした流れの延長線上に九二年の暴対法施行があった。〈見たくないものを排除せよ〉は権利の一つであり得ても、社会全体を見ないことに繋がり易い。
■九五年には、若者が踊るために集うクラブを、風営法の終夜営業違反で摘発せよとの声があがる。当時の私はNHKのETV特集枠で、クラブが「良い子」の居場所になっている事実を描くドキュメンタリー『シブヤ・音楽・世紀末』に関わり、摘発の動きを抑止した。
■ところが同じ頃にピークを迎える援助交際への反発から、九六年の岐阜県議会の動きを皮切りに青少年条例改正(テレクラ排除、未成年との交渉の厳罰化等)が進み、九九年の児童ポルノ法や再改正風営法(営業地域限定化、年齢確認厳格化等)の施行に繋がった。
■その流れ上に今世紀に入ると都を皮切りに店舗風俗の取り潰しの動きが全国化。各地でちょんの間街が消え、派遣風俗(デリヘル)化の動きが加速した。地回りのケツ持ちがないので、働く女性が生本番競争による性感染症と暴力の危険に晒されるようになった。
■こうした七七年以降の動きの延長線上に、昨今の暴排条例全国化がある。これら〈見たくないものを排除せよ〉の流れは、確かに警察利権の拡大をもたらしたが、警察の謀略というより、新住民化=地域空洞化こそが最大の原因だ。警察はそれに悪ノリしただけだ。
■加えて、〈見たくないものを排除せよ〉の流れが、「世界のどこより安心・安全・便利・快適で、どこより幸福度が低い」逆説的事態を生み出した。日本人の幸福度は世界で七五位〜九六位を低迷。英国四倍の高自殺率。孤独死や無縁死や乳幼児虐待放置を誇る。
■社会全体を見ようとしない〈見たくないものを排除せよ〉の流れは、異質に見えるものの神経過敏的排除を通じて、裁量行政を背景とした警察権益拡大をもたらす一方、行政依存による地域空洞化を加速し、〈安心と安全〉と引換えに〈幸福と尊厳〉を手放した(7)。
■グローバル化=資本移動自由化を背景に人は不安になる。不安から逃れたいからますます悪者探しにかまける。不安なのは、中国人がいるから・風俗があるから・組事務所があるから…。〈CC〉が激増し、上っ面と引換えに行政依存が拡大、不安が増大してきた。

  (6)宮台真司&モーリー・ロバートソン 2012「         」、
    磯辺涼編『踊ってはいけない国、日本』河出書房新社。
  (7)宮台真司 2012「ヤクザがいいのか、マフィアがいいのか」、
    亀井静香 宮崎学 又市征治編『排除社会の現場と
    暴対法の行方』同時代社。




【共同体空洞化に見舞われた日本を追いかける先進各国】
■グローバル化が先進各国に引き起こした中間層没落が、社会的に恵まれていないと自覚し、知的ネットワークから孤立した鬱屈した存在を、〈共同体空洞化を背景に噴き上りがちな付和雷同層〉として増殖させる。かくして手本だった欧米諸国が日本に似てくる。
■社会学は“剥き出しの個人は危険”と考える伝統がある。20世紀半ば、米国の社会学者ラザースフェルドがコミュニケーションの二段の流れ仮説を提唱、マスコミ情報は個人を直接ヒットせず、小集団のオピニオンリーダーの解釈を介し伝播されるとした(8)。
■それに先立ち、クラッパーが限定効果説(selective exposure theory)を提唱した(9)。暴力的・性的コンテンツが直接に暴力や性を煽るとする強力効果説は誤りで、本人要因(資質)と環境要因(対人ネットワーク)次第で影響が変わるとし、悪影響を気にするなら受容環境を制御せよと述べた。
■悪影響をy、コンテンツ要因をc、本人要因をp、環境要因をeとすると、強力効果説はy=f(c)、限定効果説はy=f(c,p,e)だ。後代の効果研究を見ると、p要因とe要因の詳細化の方向に進展したものの、一部で言われるような限定効果説の乗り越えがあった訳ではない。
■対人ネットワークとは子供がコンテンツを誰と一緒に観たか。家族と?友人と?知らない人と?濃密な関係の中で観るほどコンテンツの影響は中和され、一人ぼっちで観るとリスクが高まる。彼によれば、悪影響を気にするならこうした受容環境の制御こそが肝だ。
■逆に言えば、孤独な受容環境でコンテンツに接する者は、ささいな感情のフックで噴き上り易い。その意味で確かに“剥き出しの個人は危険”である。ラザースフェルトと同時期、リースマンがマスコミに右往左往する剥き出しの個人を「孤独な群衆」と呼んだ。
■地域、家族、あるいは信仰共同体が、個人を集団に包摂し直し、暴発囲い込みと感情的安全の調達を果たして安堵する必要がある。だが、一旦大衆社会論的な分断化が進んでしまったら、個人を集団に包摂し直す試みは、パターナリスティックにならざるを得ない。
■なぜなら、どんな集団にどう包摂するのかという恣意性が可視化されてしまうからだ。昔から皆がそうして来たという自明性が頼れなくなれば、この非自明性を機能的な尤もらしさで埋め合わせる他ない。だがどんな機能が必要なのかに合意するのは容易ではない。

  (8)Katz, E., Lazarsfeld, P.F. 1955 Personal Influence:
    the Part Played by People in the Flow of Mass Communications,
    Free Press.
  (9)Klapper, Joseph T. 1960 The Effects of Mass Communication,
    Free Press.
  (10)Riesman, David 1950 The Lonely Crowd: A Study of the Changing
    American Character, Yale University Press.




【共同体は全体主義のインキュベーターかストッパーか】
■米国でのこうした議論には、社会学的思考伝統の影響に加え、個人の自立の背後に信仰共同体を含めたアソシエーションを見出すトックビル主義的思考伝統の影響がある。日本にはむろんそうした伝統はない。とすれば中間集団の正機能を過大視するのは危険だ。
■先日(二〇一二年七月)山口県知事選挙の現場を見た。従来自民党候補が楽勝してきた中、脱原発立県を掲げた非組織候補が立候補した。選挙運動の現場で「物言えば唇寒し」ないし「面従腹背」の実情を多数目撃した。実は山口県で何度も目撃してきたことだ。
■某市の講演会で講師を務めた際、事前に質疑応答タイムの設定を要求したところ、主催者が「事前に依頼しておかないと質問は絶対に出ない」として質問者を準備してくれたのだが、いざ当日になると、依頼していたはずの五人がなぜか一人も質問に立たなかった。
■事後彼らに尋ねると、こう答えた---いざとなると恐くなりました。ここは肉屋で牛肉を買うと数時間後には、××さんの家はスキヤキだと近所に噂が拡がる場所です。講演会に出るだけじゃなく質問までしたとなると、どんな噂になるやら。それを思うと恐くて……。
■今回も同じだ。非組織候補のポスターを店に貼ったり、フェイスブックにツーショット写真を載せたりした人々に---それどころかこの候補の選対に事務所スペースを貸した不動産屋にまで---「明日から生きていけると思うなよ」の類の圧力がかけられたのだった。
■同じ二〇一二年七月、大津市いじめ自殺事件で、いじめ首謀者の親がPTA会長だったことをマスコミが話題にしている。これも九〇年代末の少年犯罪フィールドワークをした際に各地で目撃した。親の力関係が子供の力関係に反映し、かつ周囲の親や子が黙るのだ。
■いじめを研究する社会学者内藤朝雄がこれを〈中間集団全体主義〉と名付けた(11)。私もそれ以前から、『制服少女たちの選択』(1994年)『まぼろしの郊外』(1997年)などの拙著で「理不尽な同調圧力をもたらす共同体主義を却けよ」と繰り返し述べてきた(12)。
■一体全体、中間集団は望ましいものなのか。共同体は望ましいものなのか。このことに関し、私はかねて「伝統の空洞化が伝統主義をもたらす」「共同体空洞化が愚昧な共同体主義をもたらす」「中間集団空洞化が〈中間集団全体主義〉をもたらす」と答えてきた。
■こうも述べてきた。明治5年学制改革以降の統治戦略は、小学校区を用いた自然村の行政村への置換に見られるように、それが小学校区であろうが町内会であろうが隣組であろうが、共同体を行政依存的に再構成した上、統治の出先機関として用いることだったと。
■私自身の従前の記述を踏まえた上で、旧枢軸国に見るように中間集団は全体主義のインキュベータなのか、それとも旧連合国に見るように中間集団は全体主義へのストッパーなのか、という問いについて、暫定的ながらも、纏まった回答を残しておきたいと思う。

  (11)内藤朝雄 2001『いじめの社会理論』柏書房。
  (12)宮台真司 1994『制服少女たちの選択』講談社。
  (13)宮台真司 1997『まぼろしの郊外』朝日新聞社。




【自立的/依存的個人と、自立的/依存的共同体の関係】
■丸山は前掲論文で、〈妥当な民主制〉〈自立した個人〉を必要とし、〈自立した個人〉〈自立した共同体〉を必要とする、との図式を残した。言うまでもなくこれはトックビル主義の図式で、〈自立した共同体〉の自立とは、国家からの自立の謂いである(14)。
■その場合、〈自立した共同体〉(としてのステイツ)同士が、信仰共同体の保全という共同利害の共同防衛のために、道具的観点から国家権力を樹立した、というアソシエーショニズムの意味論が強調されるならば、米国の独自性という色合いが強調される。
■とはいえ、私が各所で述べてきた通り、欧州連合の基本原則でもある欧州伝統の補完性の原則も、国家形成の歴史物語としてはいざ知らず、絶対主義やファシズムという〈悲劇の共有〉を前提とした知恵として、基礎自治体の自立を説く赴きであるのが実情だ。
■抽象化すれば、中間集団と国家の間の関係づけにおいて、米国のトックビル主義と、欧州の補完性の原則とは、機能的に等価である。この等価性の地平を私は従前〈国家を否定しない中間集団主義〉と述べてきた(14a)。ここでは〈広義のトックビル主義〉と呼ぶ(以下では単にトックビル主義と記述する)。
■他方、こうした丸山(ないしトックビル)図式を裏返すと、国家にぶら下がる〈依存的な共同体〉は、〈依存的な個人〉をもたらし、〈依存的な個人〉〈デタラメな民主制〉をもたらすという図式になる。〈デタラメな民主制〉は実質的にファシズムを帰結する。
■もはや言うまでもなく、〈中間集団全体主義〉とは、〈依存的な共同体〉〈依存的な個人〉の間に成立するものである。なぜなら、〈依存的な共同体〉は、国家に異議申立てをする〈自立した個人〉を、国家の手先よろしく、必ず抑圧しようとするからである。
■付和雷同的個人を囲い込み、包摂するような共同体。或いは、出撃基地であり、かつ帰還場所であるような共同体。そうした〈自立した個人〉を可能にする〈自立した共同体〉を模索する営みこそが、〈あるべき共同体主義〉である、と暫定的に言うことができる。
〈自立した共同体〉では〈引き受けて考える作法〉〈合理を尊重する作法〉が奨励されるのに対し、〈依存的な共同体〉では〈任せて文句埀れる作法〉〈空気に縛られる作法〉が奨励される。グローバル化への妥当な対処を導くのは、論理的に前者のみである。
■冒頭に述べたように、丸山はトックビル主義的なものを先進性だと見做し、全体主義的なものを後進性だと見做していた。そうした後進性にもかかわらず、先進的な欧米列強に伍して生き残るにはどうしたら良いか、と問うのが、丸山的な問題設定だったと言える。
■だが〈資本移動自由化〉がもたらした先進社会の過剰流動性と過剰格差化によって中間層の没落が生じ、実存の〈不安化〉とコミュニケーションの〈不信化〉が深まり、国家への依存が進んだ結果、事実上かつての全体主義社会と似た事態が生じるに至っている(14b)。
■その結果、問題への直面に関しては、後進的だったはずの日本がむしろ先駆するように見えるという、皮肉な事態になっている。それは、二十年前には後進性の表れと見做された、金融機関への税金投入(金融の国家依存)先進各国がなぞる事態にも、象徴される。
■或いは、とりわけ米国のゲイテッド・コミュニティ化や英国におけるクリミナル・ジャスティス・アクト(15)化に象徴されるような9.11同時多発テロ(2001年)以降の〈セキュリティヒステリー〉が、日本の〈クレージークレイマー〉現象を後追いする事態に象徴される。
■とすれば、〈デタラメな民主制〉〈妥当な民主制〉へと立て直すために必要な、〈依存的な共同体〉から〈自立した共同体〉へのシフトにおいて、遥か以前から日本が直面してきた困難の少なくとも一部を、これらの国々が後追い的に経験することが予想できる。
■とりわけ重大な困難は、〈資本移動自由化〉が帰結した〈依存的な共同体〉を、〈自立した共同体〉へと再活性化するプロセスでは、論理的に〈自立した共同体〉を当てに出来ないがゆえに、〈中間集団全体主義〉へとますます頽落しがちになるという恐れである。

  (14)Tocqueville, Alexis de 1835 De la démocratie en Amérique 1.
    1835 De la démocratie en Amérique 2. →岩永健吉郎・松本礼二訳、
    1972『アメリカにおけるデモクラシー(研究社選書)』研究社。
  (14a)宮台真司 2004「戦後家族の空洞化への、抜本的な処方箋を、
    徹底的に思考する」、『わしズム』2004年11月号。  
  (14b)宮台真司 2004「「ブッシュの悪」で「アメリカの悪」を覆い隠すな」、
    金子勝 藤原帰一 宮台真司 2004『不安の正体!
    -メディア政治とイラク戦後の世界』筑摩書房。
  (15) The National Archives (UK) “Criminal Justice and Public Order Act1994”
    http://www.legislation.gov.uk/ukpga/1994/33/contents




【実践論へ:住民投票とワークショップの組合せの意味】
■考えてみれば当然なのだが、〈自立した個人〉が支える〈妥当な民主制〉なるものが、丸山が強調するように歴史的に形成された社会的文脈を前提として初めて成り立つ以上、そうした社会的文脈が自明でない場合には、論理必然的にパターナリズムが要請される。
■だが、そこで呼び出されたパターナリズムが、現実に妥当な働きをするか否かは、当該のパターナリズム自体によっては、論理的に保障されようがない。従って、当該パターナリズム自体がたえず俎上に上り得るようなアーキテクチャを設定する以外にないだろう。
■ここから先は実践論にならざるを得ない。私自身は如上の問題設定に基づき、〈住民投票とワークショップの組合せ〉を推奨し、現に二〇一二年前半を原発都民投票条例の制定を求める住民直接請求の請求代表人として、法定数の署名を集める活動をしてきた。
■二〇一二年七月現在、原発新潟県民投票条例や原発静岡県民投票条例の制定を求める直接請求のための署名活動に、協力している。そこで私がとりわけ重大視しているのは、この論文で述べてきたような問題意識を、できるだけ多くの人に理解して貰うことである。
■私はこう説明してきた。原発住民投票に二つ誤解がある。これを正す。第一に反原発条例ではない。脱原発であれ原発推進であれ原発についての住民意志の表明を目的とする。現に私は二年前まで原発推進を表明してきた。それをやめたのは第二の誤解に関連する。
■第二に世論調査に基づく政治的決定ではない。そうした誤解の上でポピュリズムによる衆愚政治を危惧する向きがある。むしろ逆だ。〈資本移動自由化〉の下で進む〈不安化&不信化〉によってポピュリズムに陥りがちな議会政治を正すためにこそ住民投票がある。
■どう正すのか。数ヶ月後に実施される住民投票に向けての公開討論会やワークショップを通じてだ。一部は法令に基づき国や自治体に情報を公開させ、企業や研究者からも情報を出させた上、論点毎に対立的立場の専門家を呼び、住民が意見聴取と質疑応答を行う。
■その上で最後は専門家を廃して当事者たる住民が住民投票で決める。この理念は医療におけるインフォームドコンセントとセカンドオピニオンの組合せに酷似する。患者が医師に任せることなく、複数の医師から違う意見を聞き、最後は患者自身が決めるのである。
■その意味で住民投票の本体は討論会やワークショップにある。だからこそ討論会やワークショップのやり方が問題だ(16)。私はデンマークで考案されたコンセンサス会議という方法を推奨してきた。理由は、審議会等と違い、会議の正統性を絶えず問う仕組みだからだ
■会議は、対立的専門家から成る専門家パネルと、市民パネルの二段階だ。市民パネル成員は公募抽選で選ぶ。専門家パネル成員は市民からなる常設独立機関と市民パネル成員が長時間協議して選ぶ。専門家パネルの目的は〈科学の民主化〉つまり専門知のシェアだ。

  (16)宮台真司 2012「まなびとワークショップの社会学」
    苅宿俊文・佐伯胖・高木光太郎編『ワークショップと学び 第一巻』
    東大出版会。




【民主制の条件が不十分ならばパターナリズムは不可避】
〈住民投票とワークショップの組合せ〉は大目的のための手段に過ぎない。大目的は二つある。第一は〈巨大なフィクションの繭を破ること〉。第二は〈分断された住民を知識社会に包摂すること〉。かかる大目的に照らし絶えず機能がチェックされねばならない。
■第一の〈巨大なフィクションの繭を破ること〉とは例えば、追加的安全対策を阻んだ、日本にだけ存在する「原発絶対安全神話」や、原発電源は安いという嘘を可能にした、日本にだけ存在する「いつかは回る核燃料サイクル神話」だ。他にも枚挙に暇がなかろう。
■第二の〈分断された住民の知識社会への包摂〉とは次のことだ。我々が提示した都民投票条例案では住民投票資格を「16歳以上の住民」「永住外国人を含む住民」としたが、趣旨の力点は、投票資格というよりも、公開討論会やワークショップへの参加資格にある。
■かかる参加を通じて極めて効果的な公民教育が可能になり、かつ「最近の若者ときたら…」「大人なんて結局…」「中国人たちの陰謀が…」といった経験に裏打ちされない思い込みを顔を合わせた討論を通じて解除し、かつ討論実績を通じて信頼醸成を行うのだ。
■これは冒頭に述べた〈ファシズムを駆動する孤独で無知な付和雷同層〉の囲い込みと包摂にも繋がる。〈クレージークレーマー〉〈釣られ層〉が政治と行政に影響を与えないようにするのが囲い込みであり、彼らを生む知的ネットワークからの排除と孤独を緩和するのが包摂である。
〈巨大なフィクションの繭〉〈知識社会から排除され分断された住民〉を放置したままでは、原発について妥当な〈技術の社会的制御〉ができない。かつて日本は、零戦を作る技術はあっても戦争を合理的にマネージするノウハウを欠いたが、同じ理由に基づく。
■日本は昔も今も〈技術の社会的制御〉面については〈ブレーキのない車〉だ。二年半前までは(1)再生可能エネルギーの不安定さを吸収できるベース電源たり得て(2)二酸化炭素を出さないとの理由で原発推進を唱えた私が、「日本ではダメだ」と判断を変えた所以だ。
■つまり私が〈住民投票とワークショップの組合せ〉を推奨するのは、それを通じて〈依存的な共同体〉〈自立的な共同体〉へとシフトし、〈デタラメな民主制〉〈妥当な民主制〉へと立て直すことで、〈原発をやめられない社会をやめること〉を大目的とする。
■繰返す。〈自立した個人〉が支える〈妥当な民主制〉なるものが、出撃基地と帰還場所と貢献動機を個人に提供する〈自立した共同体〉を前提として初めて成り立つ以上、かかる社会的文脈が自明でないなら、論理必然的にパターナリズムが要請されざるを得ない。