右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり
■援交フィールドワークをしつつ女子高生を擁護していた頃の私は「自己決定=自己責任
原則」を旗印にしていたが、「人は自分のことを決定できない」「人は自分の責任を取り
きれない」など稚拙な批判に遭った。
■イラク人質事件での「自己責任」大合唱を聞くにつけ、「自己決定=自己責任原則」の
専門家たる私としては心強い限り(笑)。と思ってよく聞くと「政府に逆らう奴は自分で
ケツを拭け」だと。三度ヘソで茶を沸かした。
■政治家から国民までこれほど民度が低いとは。福田元官房長官は「政府に迷惑をかけて
おいて」だと。「外務省職員は寝てないんだ」とさ。雪印食品の社長に噛みついた記者の
「俺だって寝てないんだ」発言を思い出す。
■取材で眠らないのは記者の仕事。パスポートを持つ国民の救出で眠らないのは役人の仕
事。国民の憲法的命令に服するは公僕たる役人の本務。犯罪者だろうと国民救出に全力を
尽くすのは憲法的義務。寝ないでやれ。
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■政府組織や軍隊に先立って非政府組織(NGO)が現地活動するのは国際常識。この者
たちの命を危険に晒すのが所属国の出兵だというのも国際常識。それを知りつつあえて出
兵した「国民的決定の自己責任」が問われるのも国際常識。
■アフガン攻撃開始後のテロ特措法審議で参考人に呼ばれたペシャワール会の中村哲氏。
イラク攻撃開始後のイラク特措法審議で参考人に呼ばれた放射能研究者の藤田祐幸氏。
NGO活動の大御所たる両名が揃ってこれら国際常識を弁えよと主張した。
■「国民的決定の自己責任が問われる」の意味が日本人には分からないだろう。ここでの
焦点は「立場可換の想像力」だ。パウエル国務長官の「命がけで活動する者がいるのを誇
るべし」の発言もこれに関連する。
■冬山の軽装登山で遭難した者が自己責任を問われ、捜索した現地山岳団体から費用の一
部を請求されるのは珍しくなくなった。今回は政治家たちがこの例をしばしば持ち出して
いる。
■一民間団体の費用請求を、憲法上の国民保護義務を負う政府による費用請求と同列に論
じるアホさは置く。アホの尻馬に乗った国民について言えば、税金の使い道にクレームを
つけるのは「タックスペイヤー意識の向上」でよろしい(笑)。
■問題はその先。歌舞伎町が危険地帯だと知って犯罪に遭う場合、「危険と知って出かけ
た以上、自己責任たから費用を払え」との議論は出てこない。寝煙草で失火する場合もそ
う。なぜか。要は「明日は我が身」的な「立場可換の想像力」が適用されるから。
■アダム・スミスが『道徳感情論』で述べた市民社会の基本たる「観照的態度での同感可
能性」。ジョン・ロールズが『正義論』で述べた公正の基盤としての「無知のベール下で
の態度」。共に「明日は我が身」の想像力に言及する。
■現地NGO活動について「今回行かなかったが自分もいずれ行く」「自分も行きたい」
「周りに行っている人が沢山いる」とのコモンセンス(共通感覚)さえあれば、「費用を
払え」は出て来ない。
■逆に言えば「費用を払え」大合唱は、危険を顧みぬNGO活動に対し「明日は我が身」
と連なるコモンセンスを持ち合わせるかわりに、「奇人扱い」して切り離すだけの、国辱
的な民度の低さをさらけ出す。
■元人質のうち二人が、同じ日にまず弁護士会館で日本人記者相手に、ついで外人記者ク
ラブで外国人記者相手に記者会見した。二人の発言は同じだったが、記者の雰囲気が対照
的なのだ。
■日本の国辱記者どもは「迷惑をどう思うのか」「謝る気はないのか」と頭を下げさせよ
うとする。外国人記者たちは「よく帰ってきた」「ご苦労さん」という雰囲気に満ち、「明
日は我が身」の想像力を示す。
■日本の記者どもの国辱ぶりは、NGOで人命救援活動をする者を「奇人」としてカット
アウトする民度の低さに留まらない。現地で記者活動をする者をさえ「賤民」としてカッ
トアウトする大手メディアの堕落ぶりも同じだ。
■後者は後で述べるが、前者はコモンセンスをめぐる民度の低さのみならず、国民概念へ
の無知をも露呈した。言うまでもなく現地NGO活動も現地記者活動も「ヒューマニタリ
アン的活動」たりうる。
■この活動たるや、自国政府の方針がどうあれ信念に基づく行動を貫徹する所にこそ、本
義がある。自国政府がお墨付きを与える活動のみに限定するなら「ヒューマニタリアン的
活動」が聞いて呆れる話。直ちに国際的な嘲笑の的だ。
■「自国政府が許容するものだけがヒューマニタリアン活動だ? バカか!」という程度
の話だが、この種のタワゴトが日本を埋め尽くすなら「国家の前に国民あり」とする近代
国家的理念への国民的無知を晒すことになる。
■国民は憲法的命令で国家を操縦する。これが常識。政府の言うことを聞かない国民は反
日分子とほざく議員がいた。法的命令がない限り政府の言うこと聞かないのが国民だろう
が。憲法に国民の義務を書けとほざく輩が議員を名乗る国ならでは。
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■こうした恥晒しが何ゆえに起こるか。理由は三つ。第一は既に述べた近代国民としての
民度の低さ。法的命令のない限り国家に自由に逆らい得るのが国民だとの憲法的常識もな
く、国民的活動に同感可能性を示しうるコモンセンスすらない。
■第二は2ちゃん的な「サヨ嫌い」の背景にある右翼左翼概念の未成熟。戦後日本は、日
の丸に一体化するヘタレを「右」、赤色旗に一体化するヘタレを「左」と呼ぶ。「大いな
るもの」に寄り縋るヘタレぶりにおいて目糞鼻糞。
■本来の概念では、政治的再配分を肯定するのが左で、否定するのが右。ネオリベで言え
ば、再配分を否定するから「小さな政府」となり、「小さな政府」で担えないから伝統的
共同体や性別役割分業を「保守」する。
■古典的右翼とネオリベの違いは、前者が「伝統共同体の護持→小さな政府→集権的再配
分の否定」となるのに、後者が「集権的再配分の否定(財政逼迫)→小さな政府→伝統的
共同体の護持」となる点。似ているが魂が異なる。
■極右とは古典的右翼のラディカル部分。米国で言えば「憲法修正第二条に基づいてリン
チや謀叛を肯定する」ミリシア(民兵)。クリント・イーストウッドを見よ。日本で言え
ば「愛郷の志に基づく謀叛を肯定する」2・26青年将校や三島由紀夫の立場。
■番組で文科大臣に私はこう述べた。教育基本法に愛国心を書け。戦後初めて公教育にお
いて「国賊政治家ならびに奸臣これ討ってよし」の「愛国ゆえの謀叛」を堂々教えられる
と。政府に従うのを愛国と呼ぶヘタレ大臣は凍りついていた(笑)。
■政治的再配分を肯定する左はマルクス主義からリベラリズムまで含む。今日では以下の
二つを区別せよ。国家による集権的再配分を重視するか。ローカルな自律的相互扶助に基
づく分権的再配分を重視するか。
■マルクス主義は集権的再配分、社会福祉政策も集権的再配分、田中角栄から経世会に連
なる補助金交付金行政も集権的再配分。どれも自律的相互扶助のシステムを壊滅させる点
で共通する。
■これに対し、アジア主義者、アナーキスト、アンチスターリニズムを主張した極左の一
部、ネオリベに対抗する新社会民主主義としての「第三の道」を主張する者は、自律的相
互扶助のシステムを擁護してきた。
■興味深いことに、集権的再配分に抗してローカルな共同体の自律的相互扶助を擁護する
点で極右と極左は円環する。違いは「内在」ならざる「超越」を肯定するか否か。三島由
起夫の全共闘への条件付きシンパサイズはそうした理路だ。
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■右と左の本義を忘れた戦後日本的な茶番は何に由来するか。一つは後発近代化国ゆえの
枢軸国的メンタリティ。ムラの外に出られない田吾作どもを大いなる国家へと糾合して一
挙に国民化を図ったファシズム的近代化のせいだ。むろん後進性の証。
■もう一つは土井たか子的護憲左翼の罪。「九条護憲は平和主義」という思考停止を招い
た。平和のために命を捨てるのが平和主義だろうが、と人々が「ぬるいエゴ」感じ取るの
も問題だが、もっと重大な問題がある。
■九条の下で朝鮮戦争以来五十年以上行使し続けてきた集団的自衛権の問題だ。米国戦時
下でも横須賀などで米艦船に燃料物資を補給し続けた。かかる兵站提供は国際法上れっき
とした戦闘行為。
■政府の言い訳は、米艦船の行き先について米国政府から報告がなかったと。だが戦略行
為を事前に報告するわけがない。ならば集団的自衛権の不行使は「絵に描いた餅」。それ
を五十年以上も放置して来たなら、放置こそが国民の憲法意思だ。
■今さら九条を楯に米国に事態の変更は迫れない。国民の憲法意思が変更されたことを示
すイベントが皆無だから。以上のように九条には「対米ケツ舐め的な集団自衛権行使」を
翼賛する。
■ならば九条改憲せよ。まず改憲して集団的自衛権を明示的に認めよ。最低でも解釈改憲
せよ。同時に国家安保基本法を作って集団的自衛権行使の要件を安保理決定とせよ。こう
すれば米国の理不尽な要求にも「安保理を通せ」と国際的にも正統に拒否できる。
■冷戦体制崩壊後の国連中心主義は、国連理想主義と関係ない。軍事力を一極集中した米
国の言うがままにならないための手練手管。だから国連の決定なら正しいとは限らない。
であればこそ正しい決定を出力すべく国連で奮闘する責務を日本も負う。
■自称「左」がこうした提言の実績を積んでいれば「馬鹿の一つ覚え」的な九条護憲はな
いはず。「馬鹿の一つ覚え」と言えば「右」も目糞鼻糞。自衛隊を外に出しさえすりゃ一
人前? 三島由紀夫なら即死する。米国のケツを舐めてる間は一人前はない。
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■戦後史を思い出すべし。冷戦深刻化ゆえの四八年以降の米国からの再軍備要求に対し、
吉田茂のとった選択は、米国のくれた九条を逆手にとる「最小限の応諾」。警察予備隊と
双務的安保条約で話をつけようとした。
■ところが外務省の拙劣な交渉術とダレス国務長官の横暴で、出来た条約は片務的。基地
提供してあげたのに米国は本土防衛義務を負わない。ときは朝鮮戦争下。九条反対の共産
党を含めて国民全体が「護憲=抗米ナショナリズム」との図式に移行した。
■要は護憲も安保も「対米ケツ舐め」に抗うツールだったはず。それが六〇年安保改定時
「米国の犬」岸信介の拙劣な議会運営で生じた国民運動を機に、安保=米国ケツ舐め=右、
護憲=平和主義=左という、捩れた図式に移行した。
■2ちゃん的サヨ嫌いの気持ちは分かる。だが「自衛隊派遣反対がサヨ、賛成がウヨ」は
ありえない。国際刑事裁判所設立問題に続く「対米ケツ舐め」で日本は今や国際的恥さら
し。「対米ケツ舐め自衛隊派遣」に思考停止的に賛成する者こそ売国奴だ。
■むろん何事も、時間をかけたリソース蓄積が大切。今述べた問題意識に基づくリソース
蓄積があって初めて「ケツ舐め回避」も可能だ。今般のリソース不足のままでは自衛隊派
遣以外の選択肢は選択困難なのは事実。吉田茂ならずとも五十年の計が必要な所以だ。
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■ケツ舐めの象徴が日米地位協定。米兵の身柄引渡はどうでもいい。「立会人をつけるこ
とが身柄引渡の条件」とする米国との間で、外務省は「米国側捜査官の立ち会いならば」
と手打ちした。国辱的ゴマカシだ。
■その意味は民度の低い日本国民が想像するものと逆。米国はNATO諸国との間にも地
位協定を持つが、身柄引渡は判決確定後。それで問題がない。地元国の警察検察が指定す
る時と場所に米軍が容疑者や被告を連れて来て、粛々と取り調べと公判をする。
■それに比べて、起訴段階で日本に身柄引渡をする日米地位協定は実は恩情的。それでも
日本政府が身柄引渡をギャアコラ言うのは、それだと「日本的取り調べ」が出来ないから。
弁護士抜きで自白を強要する二日+十日+十日の「代用監獄」だ。
■近代国家から見れば近代司法制度の風上にも置けない蛮族の制度。(ただでさえ恩情を
かけているのに)代用監獄のために身柄引渡するなど米国民的にありえない。拷問国に身
柄引渡できないのと同じ理屈で正当だ。
■ 起訴前(警察段階)の身柄引渡を要求するなら「代用監獄」の廃止が筋。だが日本では
外務省は法務省のケツ舐め省庁だから、法務省がダメと言えば動かない。 今回米国が大幅
に譲歩。「立会人OKなら起訴前に身柄引渡する」と言ってきた。
■ところが法務省はノー。日本人の国内犯罪でも立会人を付けるしかなくなり、「代用監
獄」が崩壊するから。そこで外務省エリートの捻り出した妙案が立会人ではなく捜査官。
これなら日本人への取り調べに影響しない。
■ことほどさよう身柄引渡問題はクダラナイ。沖縄県民の言う「地位協定見直し」は身柄
引渡のことではない。外務省が身柄引渡に問題を限定し、地位協定自体を見直さずに手打
ちしたのは、沖縄県民の声に従うと「パンドラの箱」が開いてしまうから。
■米国が日本との地位協定で身柄引渡に恩情的なのは、その他で屈辱を与えているからだ。
沖縄県民を除く我々は、日々主権を侵害され屈辱を与えられているのを知らない。例えば
日本の航空管制権のブライオリティは基本的に米国にある。
■那覇から離陸する民間機は数十キロに渡り低空を飛ぶ。八〇年代に初めて沖縄に行った
とき、飛行高度が低すぎるので乗務員に理由を尋ねた。答えは「航空管制権が米国にある
ので」。沖縄は目に見えやすいだけ。日本全国がそうだ。
■車の重量税はどうか。米軍車両も日本の道路を使い、標識を使い、信号を使う。なのに
無税。動植物の検疫はどうか。米兵家族は軍用機で勝手にバカスカ動植物を持ってくる。
なのにお咎めなし。こりゃ何だ。
■こうした日々のケツ舐めに比べりゃ身柄引渡など屁。被害者感情を考えろ? 少女レイ
プ事件の米兵犯人らは日本の法律で裁かれ、懲役七年で、既に大手を振って歩いてるぜ。
米国法なら終身刑だ。被害者感情を言うなら国内法を変えろ。
■私が前から言うように「米国ケツ舐めを前提とした権益配分ゲーム」に勤しむのが外務
省。条約局と北米局を頂点とする階級制度が証拠。外務省に吹き込まれた首相官邸やその
周辺の政治家がパンドラの箱を開けて「主権回復」を要求するわけがない。
■まさしく売国役人に売国政治家。主権とは国民国家における「自己決定=自己責任」原
則。それに無頓着な者どもが「国民の自己責任」を大合唱する。かたはら痛しとはこのこ
となり。
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■日本政府の出鱈目さ同様、日本のNGO運動のナイーブさも重大だ。ヨーロッパやアメ
リカだと、紛争地域でのNGO活動が自国政府や自国軍との間での情報のやりとりや物資
の支援抜きではあり得ないのが常識。
■日本だとNGOと自己政府が敵対関係になる。情報収集やサバイバルの技術を習得すべ
く自衛隊に体験入隊しようものなら、NGOグループ内での爪弾きは必定。他方、政府関
係者に言わせれば「NGOは左翼の巣窟」。
■NGOとは活動主体の区分だが、NPOというと納税対象ならびに社会部門。日本も名
ばかりのNPO法があるが、NPO概念自体が理解されていないので、肝腎の税制措置を
欠く。
■必要な概念理解は何か。日本では公的部門と言えば政府部門。成熟社会以降の欧米では
公的部門は政府部門と市民(NPO)部門からなる。NPOはれっきとした公的部門だか
ら寄付は控除され、税金は政府に納めても好きなNPOに収めてもいい。
■なぜ政府だけが公的部門でないか。複雑な社会では、政府が集権的に公共性や公益性を
判断するのはコストも錯誤可能性も大きい。だから民間に公共性や公益性への模索活動を
委ね、先の「寄付投票」や「税金投票」で淘汰する。
■政府部門とNPO部門は共に公的部門であって敵対関係に入ることはありえない。多く
の国は猟官制だから、政権交代を機に前者から後者に、後者から前者に人材とノウハウの
移動する。
■日本もそうなるといい。それには直ちにNPO税制を敷け。そうすれば脱サラ、脱役人、
あらゆる者がNPOに参入する。かくしてNPOから「政府と取引きする者を爪弾きする
サヨ色」が薄まり、政府も組みやすくなる。
■ちなみに徴兵制ないし国民皆兵も同機能を果たす。国民皆兵思想こそレジスタンス思想
すなわち「君側の奸臣これ討ってよし」のベースとなるのは基より、特定の階層人種のみ
が国民軍兵士だとの偏りもなくなる。NGOも自国軍と協力しやすくなろう。
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■最後はメディアに触れる。大量破壊兵器という大義の消えたイラク攻撃とその支援につ
いて、米国を含めて全ての国で重大な正統性問題が起こった。ただ一国、日本のみが例外
で、これまた国辱的だ。
■正統性とは何か。マックス・ウェーバーによればこれは自発的服従契機。法的なことに
限らず、資格ある者が正しき手順に則り決定を下すことにより、内容に疑義あれども誰も
がこれに服従せんとするとき正統性が機能する。
■内容の正しきことすなわち正当性justificabilityは、正統性legitimacyの一部。内容的に
正しき決定にも自発的に服従しうるが、自発的服従契機にとって内容的正しさは不可欠の
条件でない。その意味で正統性は正当性よりも服従チャンスの調達蓋然性を高める。
■日本のみが正統性感覚の欠如を露呈する原因の一端がマスコミにある。役人や政治家の
発言を官報よろしく垂れ流す記者クラブ5系列16社体制だ。この者どもは、周囲の奇異の
目を余所に、政府のケツを舐めてサマーワにも記者クラブ的報道管制を敷いた。
■「マスコミは第四の権力」(立法・行政・司法のチェック&バランス機関)が聞いて呆
れる。この「政府ケツ舐めメディア」ぶりを証明するのが、現地入りして取材する者らへ
の「立場可換の想像力(同感可能性)の不在」という異常現象だ。
■各国記者に散々尋ねられた。日本の記者どもの一種異様な雰囲気、政府の意に従わざる
者をあたかも非国民呼ばわりしかねない傍若無人ぶりは、何なのかと。私は日本の記者ど
ものマヌケぶりによって恥辱を浴びたのだ。
■この手のマスコミ人どもが気に懸けて右往左往するのが「2ちゃん世論」。私は知り合
いのマスコミ人に言ってきた。「2ちゃん世論に右往左往するな。2ちゃん世論の世間的
分布を検証せよ」と。
■新聞は「三人の人質家族のもとへ連日の抗議ファックス」の見出しを立てた。笑止千万。
現実には8割以上が応援ファックスだ。見出しは誤りではないが、2ちゃん世論的な俗情
に媚びるあさましさ。
■私はマスコミ人たちに「ブログを見よ」と呼び掛けてきた。2ちゃんが「自己責任バッ
シング」の嵐でも、ブログで「自己責任」をキーワードに検索すると大半が「自己責任バッ
シング批判」。その意味を考えよと。
■答えは、私が一年前からブログ普及を呼び掛けてきた理由に関連する。私の舎弟にも大
手プロバイダーが提供するブログを設計させた。既に何十万人も使っている。答えは「悪
貨に良貨を駆逐させないこと」。
■ブログは日記用として生まれ、デモクラティズム的な公共性に資することが分かって、
デモクラットらによって改良を重ねられた。ポイントは評判システム。トラックバックを
中核とつつ、コメント評価プラグインを周辺とする。
■渋谷陽一氏が自らのブログに自説を書く。私が内容に価値がある思えば自分のブログに
渋谷氏のブログからトラックバック(引用)を引く。すると渋谷氏のプログにそれが表示
される。表示件数が多いほど評判がいい。観客は評判いいサイトだけ見る。
■2ちゃんにありがちな煽りや垂れ流しにトラックバックは付かない。ついてもクソコメ
ント。本人が寂しくなるばかりか恥さらし。見事淘汰される。評判のいいブログにもクソ
コメントがつくが、コメント評価プラグインで淘汰できる。
■ブログが普及するほど「2ちゃん世論」とは何かが明白になる。評判システムで生き残
るには「構築されたオピニオン」が必要だ。思考停止で垂れ流される「下痢便メッセージ」
は生き残れずに2ちゃんに吹き溜まる。
■マスコミ人に「ブログを見ろ」と一喝する意味は明白だろう。2ちゃんは2ちゃんであ
りつづるし、俗情ガス抜き装置としてはいい。だがマスコミは低レベルの俗情に媚びては
ダメ。大きなオピニオン市場が別にあり、かつ公共的だ。
■それにしても「保守系オヤジメディア」のヘタレぶり!「自作自演だ、共産党ファミリー
だ」と騷ぐ。たとえそうでも「事柄の本質」に微塵も差異はない。保守とは「事柄の表層」
に目を奪われず、深い教養を軸に「事柄の本質」にどっしり身を構える太っ腹。
■女子供のごとき(失礼!本気じゃないよ)ヒステリーを見るにつけても保守が聞いて呆
れる。「事柄の本質」を見極める教養なき者に「保守」を名乗る資格はないし、「奸臣ど
もこれ討ってよし」の2・26青年将校の気概なき者に「右」を名乗る資格はない。
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