MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
12345678910111213141516171819202122232425262728293031

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら
MIYADAI.com Blog (Archive) > 『中学生からの愛の授業』のあとがきです。都条例改正問題とも関連するテーマです。
« 『愛の授業』がまもなく発売されます。 | 都条例改正問題のツイートのまとめはこちらを! »

『中学生からの愛の授業』のあとがきです。都条例改正問題とも関連するテーマです。

投稿者:miyadai
投稿日時:2010-05-20 - 08:10:28
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(1)
────────────────────────
【あとがき】
課外授業――あとがきにかえて
────────────────────────

 今回、僕がこの『愛の授業』を行うことにしたのは、「みんなに幸せになってほしい、幸せに生きてほしい」という願いがあったからです。もちろん、僕なんかに言われなくったって、誰だって「幸せになりたい、幸せに生きたい」と思っていることでしょう。
 けれど、なぜか、それができないのです。とりわけ昨今の日本ではできにくくなっています。なぜか? どうしたら少しでも幸せに生きられるのか? それをできるだけ簡単にわかりやすく説明するために、中学生の女子たちを生徒にして授業をしてみました。
 では、ここで全体のまとめとなる課外授業をしましょう。これまでの授業の中でも述べてきたことですが、幸せになるためにまず必要なことは「経験」です。昔から「可愛い子には旅をさせよ」「若いときの苦労は買ってでもせよ」という言葉があるようにです。
 最近は親や先生が良かれと思って、子供を苦労させないように、子供をノイズにさらさないようにします。でも、ノイズを避けて平穏な毎日を過ごすだけでは「経験」の蓄積にはなりません。人は「経験」から学び、「経験」によって成長するのだから問題です。
 それと「知恵」も大切です。自分で経験しても「知恵」が得られますが、年長の人からリアルな経験談を聞いても「知恵」が得られます。インターネットで膨大な情報を目にしても、それは単なる情報に過ぎない。それが「知恵」になるには、経験が必要です。
 僕がここで「経験」と分けて「知恵」と言っているのは、誰かから教わる「知恵」のことです。その意味での「知恵」は、単なる情報じゃない。経験を積んだ人、苦労した人の、たたずまいにミメーシス(感染)をすることで、身についていくものなのです。
 今述べた意味での「経験」と「知恵」は車の両輪です。自分に「経験」があればこそ他者にミメーシスして「知恵」を引き出せます。そして「知恵」があればこそ「経験」から多くを引き出せるし、「経験」によって「知恵」が確かなものになるのです。
 こうして考えてみると大切なのは「差異」にさらされることです。「差異」は平穏無事な毎日にとってはノイズです。自分を緊張させるような出来事の「経験」も、他者へのミメーシスから得られる「知恵」も、「差異」を与え、そのことで人を成長させます。
 成長した人にしか「幸せ」は手に入りません。未熟な人の「幸せ」は逃げ水のようにすぐ逃げてしまいます。その意味で、子供たちをノイズから隔離したがるーー例えば本気での喧嘩を回避させたがるーー大人たちが溢れる昨今は、それ自体が一つの「試練」です。
 この「試練」を乗り越え、大人たちが隔離しようとする「差異」に、自分で意志して身をさらさなければなりません。「試練」だというのは、僕が中高生だったころは、自分で意志しなくても、自動的に「差異」に身をさらして生きることになったからです。
 どんなにスゴイ人間でも、人ひとりが考えたり行動したりできることには限界があります。しょせん人生は短いからです。僕がこの『愛の授業』で語ったことも、僕ひとりが考えたものじゃない。先人から受け継がれてきたことを、まとめたものでもあります。
 はっきり言うと、いろんな物事を、自分で情報を集めて自分の頭だけで解決しようなどと考えるのは、100年早い。100年生きる人間が稀にしかいないことを考えれば、自分の力で情報を集め、自分の頭だけで解決しようとしても、たいていは「空回り」です。
 今まで生きてきた人たちの「知恵」を受け継いで、自分の「経験」を積み重ねていくことが、とても大切です。このように言う僕の『愛の授業』も、中高生のみなさんにとっては「先人の知恵」になればいいな…。そう思って、『愛の授業』をやってきました。

 最後に、「愛」について。「愛」のたいせつな働きは「包摂」にあります。「包摂」とは、のけ者にすること(排除)の反対で、手を差し伸べて仲間にすることです。もはや経済が当てにならない昨今、「包摂」なくして人を「幸せ」にする社会は望めません。
 近ごろ「イラッとくる」という言葉が若い子を中心によく使われています。その前は「KY」という言葉が流行りました。日々の生活で「イラッとくる」ことがたくさんあるのは理解できます。むしろ「イラッとくる」ことばかりだと思います。僕だってそうです。
 ねたみ、嫉妬、恨み、羨み、いろいろあります。それは仕方ない。でも、だからといって、感情のままに、相手を攻撃して「排除」するようでは、その人自身も「幸せ」にはなれません。「包摂」によって人を「幸せ」にする人だけが「幸せ」になれるのです。
 もう一度言います。「幸せ」になれるのは、他人を「幸せ」にする人だけです。「イラっとくる」からにせよ、何にせよ、感情のままに振る舞って人を「不幸」にする人は、結局は自分が「幸せ」になることはできません。というか、一人寂しく死ぬことになる。
 世界的な宗教の優れた信仰者たちは、人を「幸せ」にする人だけが「幸せ」になれることを例外なく説いています。つまりこれは恋愛、家族、学校、職場などの人間関係に限られません。社会と社会の関係、民族と民族の関係、国と国の関係でも同じなのです。
 小さな問題に目くじらを立てていたら、一人一人の人間関係も、民族と民族の関係も、国と国の関係も、メチャクチャになります。逆に、大きな心で「いつでも親密な関係に入れるぞ」という構えで、ビシッと言うべきことを言うのであれば、素晴らしいです。
 クダラナイことで「排除」的になることが愚かであるのと同じように、ノイズやトラブルを恐れて「言うべきことを言わない」のは愚かです。そのような愚かな存在は、相手との間に、腹を割れるような信頼関係も、切っても切れない絆も、絶対に作れません。
 「愛」も「包摂」も、ノイズやトラブルのない平穏無事な毎日を送ろうとする人には、決して手に入らないものです。そして「愛」や「包摂」が手に入らなければ、人は「幸せ」にはなれないし、人を「幸せ」にする社会も作り上げることができなくなるのです。
 『愛の授業』では、クダラナイ雑誌に書いてある「こういうときはこうせよ」みたいな細かい具体策を指南しません。「光」に近づく大まかな方向を明らかにするものです。その光が実はみなさん自身に宿る「内なる光」であることを分かってほしかったのです。
 あとがきから読みはじめた人は、何だかなぁと思ったかもしれない。その人が、自信をもって自分は幸せだと言えるのなら、それでOK。つまり『愛の授業』はいらない。「人を幸せにすることで自分も幸せになりたい人」に向けて『愛の授業』は開かれています。