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西田亮介氏との.reviewトークの一部を再録します。完全版は文学フリマで

投稿者:miyadai
投稿日時:2010-05-17 - 09:51:02
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
.review × TSUTAUA TOKYO ROPPONGI連続トークイベント「コミュニティの過去・現在・未来」

キックオフイベント
2010年3月25日20時~21時半
宮台真司 × 西田亮介「現代のコミュニティとはなにか」


(完全版は5月23日文学フリマにて発売を開始する『.review 001』所収)
http://dotreview.jp/

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.reviewがTSUTAYA TOKYO ROPPONGIにて開催する、毎月第四木曜日二〇時~の連続トークセッション「コミュニティの過去・未来・現在」。プレイベントとして、去る二〇一〇年三月二五日、政策論を専門とする西田亮介と、社会学者宮台真司の対談「現代のコミュニティとは何か」を開催した。議論はウェブメディア論、若者論、コミュニティ論と多岐に渡った。師弟関係に当たる両者が見せた激闘の軌跡をここに再録する。
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[宮台発言の一部のみの再録で、完全版が含む西田氏の発言、寺脇研氏の発言は再録されておりません]


■濃密な空間とはなにか

宮台: よろしくお願いします。

宮台: まず生産性や濃密さについて言いましょう。小室ゼミでは、東大の経済学部三年生と四年生でやる専門課程二年分の授業を一週間でやるんです。朝九時から夜一二時までを一週間続ける。最初の四日がミクロ、残りの三日がマクロです。あるいは、ウェーバーの宗教社会学を一五時間くらいぶっ続けでやって一日でマスターする。
 要は、「自分は社会学の学生です」とか「経済学の学生です」とかっていうアイデンティティのフレームを壊されてしまうんですよ。小室先生は口が悪い人じゃないのでダイレクトには言わない。けれども、みんなに伝わるわけね。つまり、経済学部の学生なんていうのはクソと同じで、そこで学べることはせいぜい小室ゼミ一週間分で終わりなんだと。
 小室先生はこういうことも言っていました。君たちのようなレベルの人間が、夜を徹して勉強したとして、どのぐらいで一人前になれるのか。理論物理学は六年。経済学は二年。社会学は半年。人類学や民俗学は三ヶ月。一流の研究者と同水準に達するのに必要な勉強の期間でさえそのくらいなんだ、というふうに言ったんですね。
そういうこともさらっと仰っていた。そこで多くの人たちにやはり伝わるわけですよ。大学にまじめに通って二年間勉強しましたなんてのはクソと同じ。そういうのは非常にテンションの高いセッションを通じて一瞬でやるべきものだと。だから、二年間もかけて経済学だけやってるヤツとか社会学だけやってるヤツとかはやっぱり駄目なんだと。
実際二年間も時間があるんだったら、非日常的なテンションの中であれば、経済学も法学も社会学も文化人類学も政治学も宗教学も、基本的には全部マスターできるんだぞと。事実上そういうふうに教わっている。こうしたフレームの中で授業を受けるわけですから、それは皆さんが普通の大学で受けている授業とはまったく異質なテンションです。
みなさんが自学自習をしたりとか、グループワークをしたり、研究会をやったりするときの印象とは[もし参加したら]まったく違う印象を抱くはずです。だから、例えば、僕がゼミをやるときも、最低三時間は通してやるし、合宿する場合には、一日一二時間以上、朝から晩までぶっ続けてやるわけです。それでも小室ゼミの数分の一の密度です。

■学習の生産性を向上させるために

宮台: それは単純なことです。もうすぐ性愛論と就活論が出るんだけど、メッセージは両方共通です。「社会はいいとこ取りができない」です。性愛だけいいとこ取りするとか、仕事だけいいとこ取りをするということは、できなくて。いままでどういう生き方をしてきたのかっていうことの関数としてしか、性愛活動も就職活動もありえないんです。
 だから、性愛マニュアルや就職マニュアルを読んで何とかしようとしている時点で、もう終了してるんです。っていうような話が、性愛論と就活論の冒頭に書かれているんで、両方とも別々の編集者なんですが、マジ泣いていました。僕に言わせれば、当人だっていずれは親になりうるので、なぜうまくいかないのかを理解することが大切なんですよ。
 同じことで、朝から晩まで一〇数時間もセッションをする研究会を継続させるには、参加者が小中学校のときから部活動やクラブ活動を死ぬほどやる経験が必要なんです。僕も空手部だったから、中高のとき、雪が降る中、砂場に水を張って、組み手をやっていた。そうした積み重ねのない人に僕らがやってたような研究会ができるはずがない。以上です。

宮台: だから、君らのせいじゃないけど、君らはヘタレじゃん。九二年に小学校に入学する一九八六年生まれの人は、いま二四歳だと思うけれど、それよりも若い人たちは、誤解された「ゆとり教育」のせいで、知識を詰め込まれていないでしょ。同じように、僕らのときと違って「しごき」がイケナイことだったんで、部活でも無理強いをされていないでしょ。
 大学を受けるときも、覚える単語は三〇〇〇語とかでいいんでしょ。 俺らのときは最低一万語以上だったよ。友だちはたいてい一万二千語水準の単語帳を持ってたね。僕は文系だったけど、数IIIをとったんで、微分方程式、指数関数、対数関数、n対m行列計算、全部教科書で学べた。

宮台: 何をアウトプットしようとしているのかということによるんだと思うんだよね。僕から見ると、西田君は学校教育のフレームに近いところで活動しているような気がする。簡単に言えば、一般化されたメソッドで、できるだけ多くの人に何かを伝えたり学習させたいというふうに思ってると思うんだよね。
 で、それはそれでひとつの目標設定だけど、小室ゼミあるいは僕自身のゼミっていうのは、そういう目標設定をしていない。例えば、小室ゼミは事実上一〇年余り続いたけど、その中で、スゴイヤツっていうのはごくわずかしか――僕がみるところ二、三人しか――輩出できなかった。つまり、昔だってそのくらいの歩留まりなんですよ。
 あるいは、僕が私的に師事した廣松渉先生も、僕から見ると、いわゆる制度的な愛弟子や直弟子っていうのは、まがいものばかりでね。で、彼の本当の精神を継承しているのは、宮台しかいないっていうふうに理解しているわけです。つまり、やっぱそのくらいの歩留まりの悪さなんですよ。
 しかし、それでいいんじゃないかと。つまり、それが小室先生や廣松先生の活動目標だったんじゃないか。そういうふうに僕なんかは考えたい。わかりやすく言うと、日常のフレームでは駄目なんです。非日常のフレームの中で行動できなければいけない。お二人とも、その非日常的なフレームとして、ある種の絶対性を持ち出すわけですよね。
 そうした部分は表立って書かれていないから、そういうものを密教的に伝承しようということがあったと思うわけ。ポイントは、〈社会〉を生きても仕方ない、〈世界〉を生きよってことだと思うんですよ。ここでいう〈社会〉とは、あり得るコミュニケーションの全体で、〈世界〉とは、ありとあらゆるものの全体です。
 普通の人は〈社会〉の中で幸せになろうとします。〈社会〉の中で人に承認されようとしたり、〈社会〉の中で成功しようとしたり、上昇しようとします。でも〈社会〉って水物だから、〈社会〉で幸せになろうという欲求を持つヤツって、ちょっとした障害があるとすぐにヘタレてしまうんですよね。
で、そういう右往左往から自由で、一貫して世直しに乗り出せる人間ってのは、〈社会〉よりも〈世界〉を生きようとする人なの。別の言い方でいうと〈横の力〉とは無関係な〈縦の力〉に感染する人なんだね。〈社会〉からの〈横の力〉が相対的だとすると、〈世界〉からの〈縱の力〉は絶対的です。ちなみに、こうした理解は経験的なものです。
廣松先生のような人のスゴさは、絶対性が道具として持ち出されているところです。絶対性に帰依するから世直しがあるんじゃなく、世直しという最終目標のために有用なものは何でも利用するという構えで絶対性が持ち出されている。道具としての絶対性といえば、亜細亜主義の最終形態である日蓮主義ですよね。世直しに天皇を利用しようとした。
僕は中学二年生のときに倫理社会の先生に勧められて高橋和巳『邪宗門』を読んでハマったのが大きいです。主人公の千葉潔は、教団の跡取りとして生まれるんだけど、宗教から離れて革命家をめざす中、世直しに有効だからという理由で宗教に帰還するわけです。髙橋和巳は、亜細亜主義の背後にこうした日本的メンタリティを見たんただと思う。
僕から言わせると、やっぱり西田君はフツーのやり方をしすぎる。〈横の力〉の枠内で――社会的なメカニズムを使って――何かを達成しようとしている。そこで生み出せるものはそれなりのものかもしれないけれども、戦前の亜細亜主義者たちが考えたような世直しエリート、例えば小室直樹先生や廣松渉先生のような存在は、絶対に生み出せない。

■学術的コミュニティと高学歴ワーキングプア問題

宮台: あのね、時代によって変わってしまう部分をどう制御するかという問題は、時代によって変わらないんだよ。時代によって変わるのは西田君が言うメカニズムにかかわる部分です。例えば、一九九〇年から大学院重点化、九一年から大学設置基準大綱化で、簡単に言えば、お互い相違工夫して、頑張って競争しなさいみたいなふうになった。
 そこから結構色んなものが変わったんですね。例えば、大学院の定員数は「欧米並み」という単なる数合わせのせいで、社会学について言えば東大も四倍とか五倍になった。他分野も同じで、枠を拡げたので旧帝大系の大学院は当然質が下がる。周辺大学も旧帝大系に持っていかれて当然質が下がる。大学院は押し並べてものスゴイレベルが下がった。
 僕は一九八七年から大学教員になってるんで、よく分かるよ。大学院で教えている人の多くが言うように、一九八〇年代の学部四年生のレベルと、今の博士課程一年生のレベルがほとんど同じくらいな感じ。特に偏差値の高い大学でそれが顕著です。東浩紀君が言うように、そのときから、九〇年代半ばにはすでに高学歴ワーキングプアの出現が予想されていた。

宮台: 博士号を取得しても就職できないということを問題にしてるんじゃなく、大学院生のレベルが劇的に下がっていることを問題にしている。博士号取得者のレベルが劇的に下がったのは間違いない。博士課程修了ってのは課程博士の学位をとることだけど、僕が博士号をとった一九八九年の段階だと、僕は東大社会学で戦後五人目の課程博士なの。
 九一年以降、大学同士が実績を「競争」して、博士学位を乱発するようになったんです。高学歴ワーキングプア問題を語るときに「博士号をとったのに」という言い方がされるけど、乱発された博士号が価値の高い貨幣として流通すると思っている時点で、はっきり言ってその人は終わりだということを言いたいわけ。
博士号の取得者のレベルが下がるだけだったらさして問題ないけど、大学院教育全体のレベル低下は問題です。僕からすればそれは仕方ないです。大学院教育全体のレベルが下がる方向で制度改革したんだから。でも、僕のプロジェクトからするとそういう変化ってどうでもいいんですよ。西田君のプロジェクトからすると重要なことですが(笑)。

宮台: 大学院の定員枠が何倍にも拡大した以上、大学院生というカテゴリーか持つ意味が以前と変わってしまったんで、大学院生をどうにかしたいという話に関心はない。そういう人たちを救う営みは誰かがやればいい。そうじゃなく、かつて大学院が本当に少人数制だった頃にありえた水準の教育を、同じ少人数相手に再現できないかということです。
 東大大学院の社会学は、僕の一年前は四人、僕のときから八人が進学した。いまは二〇人以上採ってる。四人しか採ってなかったときと、二〇人採る現在とでは、教育水準が違ったものになって当たり前。小室ゼミだろうが、どこゼミでも同じです。人数が違っていて、揃えている人材が違うんだから、大学院教育のレベルを問題にしても始まらない。
 そうすると、僕にとっての課題は、昔は大学院の枠組を利用してやれた「supremes(卓越者)を生み出す」営みを、昨今ではどんな枠組を利用して再現すればいいのかということです。現在の大学院の教育システムがそういうものにまったく向かなくなったとすれば、私塾という形で、それをどう再生できるのかを考えているわけです。

■到達目標の差異

宮台: 大学院生の多くがプレゼンスを獲得できるような工夫はやってみたらいいんだと思うんだ。けれども、トライアルの目標が西田君と僕とはやっぱり違うんですよ。僕が考えているようなアウトプットを目指す場合、インターネットを使うことは基本的には役立たないんですね。大学院生のレベルが少しあがる程度でもどうにもならないんです。
 西田君がやっていることは、プロゼンスを獲得するためのシーンを作ること。書く場とか討議する場という意味でメディアを作ることでしょ。「シーンが失われつつある、メディアが失われつつある、したがってプレゼンスを示すことができない、だから新たにシーンを作りましょう、アウトプットを出せるメディアを作りましょう」という話ね。
 それは単なる利害問題や権益問題であって、既存のシーンやメディアが役立たないから、新たなシーンをメディアを作ろうという話。それはそれでおやりになればいい。西田君たちは当事者なんだから、僕が四の五の言う問題じゃない。ただ、僕はそういうことはまったく考えていないということを申し上げてるんです。

宮台: 西田君と時間軸のスパンが違う理由は、大学院生が就職できるかどうかじゃなく、世直しに不可欠な人材を輩出できるかどうかにフォーカスしているからです。僕は膨張した大学院生にとってのシーンやメディアの「回復」よりも、スゴイ人材を、ごくわずかでもいいんですけど、生み出せるかどうかということに賭けたいんです。

宮台: 内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』という本を書いたよね。どうしてユダヤ文化圏がノーベル賞受賞者を含めて優秀な研究者を輩出するのかを追究されていて、やっぱりユダヤ哲学を読んでおられるでしょ。ユダヤだけでなくチャイニーズのネットワークを含めて、どの社会でもスゴイ人材を生み出すために必要なソーシャルリソースがある。
 ユダヤ哲学だと、「在る」ということを可能にするものは何かというところから、単一性(入れ替え不可能性)を経て、超越性の契機が必要だという理性的結論に至る。「在る」ためには超越性と理性が二本柱的に不可欠なわけだ。ディアスポラであるユダヤ民族は、放っておいたら「在る」かどうかが不確かになってしまうがゆえの、思考の営みだ。
 スゴイやつを生み出すためには、承認とか成功といった〈社会〉におけるポジション取りとは別のロジックで作動する別のメカニズムを使わないと駄目だということです。だから僕は、ある人がユダヤ系であるということが、その人の学問の営みにどういう刻印を残しているのかってことに関心を持つ。必ず何らかの絶対性の契機を持っているんですよ。
 はじめに超越神ありきではなく、なぜ超越性が要求されるのかについての徹底的考察が最初にある。だからスコラ哲学とユダヤ哲学とは全く違う。はじめに超越神ありきではない点、ユダヤ哲学はむしろギリシア哲学に似たところがあるし、現にギリシア哲学を参照する。こうした思考の営みの一環として、世俗的な学問のアウトプットがあるんです。
 ユダヤ人の遺伝子にも知能指数にも特別なところがないのは学問的に実証されているから、超越と内在をめぐる――〈世界〉と〈社会〉をめぐる――意味論的構造が機能しているわけです。こうした構造的メカニズムが日本人にだけ働かないということはありえない。逆にいえば、学問的生産性には、超越と内在をめぐる意味論的構造が関係します。

■カリスマはなぜカリスマなのか

宮台: それは賛成です。で、それ[学問的領域への強い参入動機を与える場]を広い意味でシーンと呼んでもいいと思います。だた、さっき西田君がシーンというふうに考えていたもの[プレゼンスを得るための場]とは違うものだよね。例えば、僕のいうシーンでば、ロールモデル、ミメーシス(感染的摸倣)をもたらす感染源などが問題化します。
 昔は、競争動機とも理解動機とも違って、感染動機が強く働いた。ロールモデルに同一化することを喜びとする同一化欲求をベースにして頑張るということがあったんです。それは「わかる喜び」でも「競争に勝ちたい」でもない。これは大事なモメントです。初期ギリシャにおいても、最も強いものは感染動機だと考えられていたわけです。
こういう人みたいになりたい。どうしたらこんな人みたいになれるんだろう。というように憧れるようなチャンスをどれだけ子供に与えられるのか。そこが初期ギリシャ哲学の思考のポイントのひとつでした。そういう意味で、学問的領域への強い動機を与える場として、感染の連鎖が生じるようなシーンを考えるということは「あり」だと思います。
感染動機ではなく、みんなに競争動機をより強く刺激し合ってもらうため、あるいは教え教えられる関係を通じて分かる喜びを抱いてもらうために、コミュニケーションの場を拡げようというのは、それはそれで意義があると思うけれど、それは僕が考えるシーンとは違うものになります。

■村の聖

宮台: 西田君の発想は、気持はわかるんだけれども転倒しているんだよね。政治変革があり得なくなり、動員力のあるカリスマがいなくなったことが、コミュニティの濃密さの喪失につながったって言うけれど、そうじゃない。逆だよ。共同体の空洞化が、政治変革の望みを遠のかせ、動員力のあるカリスマを不在にさせたんだ。
 もともと日本がどういうふうにしてスゴイやつ生み出してきたのかという歴史を踏まえる必要がある。やっぱり共同体のベースが非常に重要です。この場合の共同体というのは、古典的な定義です。つまり生活時間と生活空間の大半を共有することで、同じものを同じように体験する(と期待し合える)者たちによって構成されるのが、共同体です。
これは、コミュニティという言葉が想像させるものよりも、ずっと濃密なものをイメージしている。分かりやすくいうと、コミュニティという言葉は新住民を想像させ、共同体という言葉は旧住民を想像させます。旧住民的な共同体がもともとあって、相互扶助の紐帯が極めて強い反面、長いものに巻かれる類の同調圧力も非常に強かったわけです。
もともと原初的社会段階における部族的共同体はそうしたものでした。これはユニバーサル現象なだけど、共同体のフリンジ(淵)というかペリフェラル(周辺的)な部分に、「村の聖(ひじり)」というのがいた。本当に神社の縁の下に住んでるような聖もいたわけ。江戸時代で言えば、そういう人間が寺子屋をやっていたわけ。
僕は、小室直樹先生に初めてお会いした瞬間「村の聖」だって思いましたよ。松下村塾の吉田松陰もそう。村から疎外され、変なヤツってことになってるが、いざとなったら松陰先生の所に行けば教えてもらえるって具合に、知恵袋としても使われる。疎外された存在だから、疎外された人たちが集まり、寝食を共にして、いろんなものを学ぶわけね。
その意味で、村の共同体とは違うオルタナティブな共同体なんだが、誰もが村の共同体で育ってきたがゆえに存在する資質を前提として、オルタナティブな共同性を構築する。だから、同じ体験枠組を共有することへの強い希求があり、それゆえに感染が生じやすく、スゴイ存在である「村の聖」のサクセション(継続)がありえたということです。
村の共同体の善くも悪しくも濃密な絆をキャンセルしたまま「村の聖」だけを生み出すことは、できない相談です。共同体的なベース――僕は「共同身体性」と呼ぶけれど――がない状態で、強い感染を引き起こそうとしても、これは絶対できないよ。冒頭で申し上げたように、幼少期からどういう生活経験を積んできたのかが決定的である所以です。

宮台: そうです。共同体があるからこそ誰が「村の聖」かに合意できるんだよね。

宮台: そこで、ちょっと待ってほしいんだ。僕はサバティカル期間中も月一回の「特別ゼミ」っていうのをやっていた。夏と冬の合宿もちゃんとやっていた。そこでは、小室ゼミほどじゃないけれど、それに準じる濃密な空間が拡がっていた。つまりね、いまの学生ってヘタレなんだよ。でも、タブララサ(白紙)なの。だから書き込めるんですよ。
半年から一年もあれば、昔流の先輩後輩関係も、昔流のホモソーシャリティも、昔流の師弟関係も、構築できる。昔流の「先輩から強制された風俗体験でバージョン・アーップ!」もね(笑)。つまりね、僕の話は「昔はよかった、いまは駄目じゃん」では終らない。いまでも十分に効果をあげる実践が可能だし、だから僕は実践をしているわけね。
イニシャルステージだけ見ると駄目に見えるけど、駄目に見えるからって放置するのはもっと駄目だし、放置せずにちゃんと実践すれば有効なんだよ。そういう観点から実践している人は僕以外にもたくさんいる。大塚英志もやっている。いろんな私塾が出てきているでしょ。いまは朝日カルチャーセンターに吸収された僕の「思想塾」もそうだよね。
最近『大学ランキング 二〇一一』 (週刊朝日進学MOOK)に書いたように、大学や大学院でのエリート教育を諦めて、私塾にしか濃密な学業的再生産の場はあり得ないと、僕を含めて多くの人が思いはじめています。大学院重点化と設置基準大綱化による制度的現状はノイズが大きすぎる。こんなのに期待するだけ馬鹿だよ。

■ネット空間におけるコミュニティ形成は可能か?

宮台: そうじゃないと思う。現実、僕のゼミには人がどんどん来る。公的ゼミの場合、僕か番頭かが面接し、信頼できる人かどうかを審査します。私的ゼミの場合、責任を持つ紹介者がいない限り入れません。信頼関係の場を作らないと駄目なんです。ディープな話題もヤバイ話題も出てくるからね。でね、そうした信頼関係をネットで作れますか。
 「ネットでやりとりしてきた限りでは問題はありません」みたいな話で、責任を持つ紹介者になれますか。ありえない。不安そうに見えないかどうか。目を見て話せるかどうか。こちらの話や反応を織り込んだ上で会話できるかどうか。約束を守るかどうか。口が堅いかどうか。ディープなゼミや私塾をやるには、こうした信頼が結構大事なんですよ。
 信頼とは負担免除です。いちいち底が抜けないかどうか、ダダ漏れにならないかどうか、なんて気にしなくていい状態。一歩一歩確かめながら前に進む必要を免除されることです。何が信頼を与えるのかは、僕がいうソーシャル・ヘリテージ(社会的相続財産)。文化によって、あるいは時代によって、大きく変わります。
 我々はキリスト教徒ではない。だから互いにキリスト教徒だというメイフラワー協約的信頼はない。我々はユダヤやチャイニーズじゃない。だから血縁主義に由来する信頼はない。我々には階級文化がない。だから同じ階級に所属することに由来するサンディカリズム的な信頼やビクトリア朝貴族的な信頼がない。じゃあ我々は何を使えるのかです。
 『日本の難点』で鏤鏤書いたけど、結局「長らくトゥギャザだった」という事実性に依存してできる絆が使える。「長らくトゥギャザ」は昔だったら地縁関係が与えたけど、いまはもう駄目。地縁が涵養する「長らくトゥギャザ」による信頼を、学校縁や会社縁に応用してきたんだけど、地縁による資質の涵養がないんで学校縁や会社縁に応用できない。
 「長らくトゥギャザ」による信頼の作法を涵養されてないんで、不安でたまらない。不安だから、承認欲求が肥大化して、「立ち位置野郎」が溢れているわけでしょ。こうした不安な連中が集まっているという状態で研究会をやって、そこにスゴイ人を放り込んでも、経験的には、感染は絶対に生じないです。
 どうしたらいいか。彼ら彼女らの「不安ベースの実存」を「幸せベースの実存」に、「不信ベースの関係性」を「信頼ベースの関係性」に、変えていくことですよ。そうしないと、どんな「仕掛け」を施しても感染は生じません。ネットでできるのは「仕掛け」レベルの工夫ですが、ベースの取り換えには「いまのところ」全く役立ちません。

宮台: いやいや。そういう部分はわかります。けれど僕が申し上げているのは、非常にテンションの高い伝達や継承を生み出すために、不安ベースの実存や不信ベースの関係性の解消が必要だということで、この解消があればネットを使ったいろんなデバイスが有効になるだろうが、この解消自体にはネットのデバイスが役立たないということです。
僕の感じだと、ゼミに来て最短で幸せベース&信頼ベースに移行するとして、半年。それは例外的で、多くの場合3年かかるんです。そいつに感染する奴が出てくるような揺るぎなさを作り出すまでに三年かかるんですよ。で、これがないと学問的に一人前になれないことに気づくまでに時間がかかりました。気が付いてからはやるしかないと思いました。
つまり、知識を伝えるため、感染させるために、スゴイ奴を放り込むというのは、前提が満たされないと、全部無駄なんです。前提とは、彼や彼女が置かれた不安な状況、居所がないと感じる状況、自分はつまらない人間だと思う状況が、手当てされること。これは、先ほど申し上げた「社会はいいとこ取りができない」というのと似ています。
「自己形成もいいとこ取りができない」んですよ。教養とはドイツ語で自己形成(ゼルプストビルトゥンク)で、自己形成の一部に学問がある。自己形成の残りの部分がデタラメなのに学問だけ一人前になるということは、ありえない。学問で一人前になるには、自己形成の最初の一歩を踏み出す必要がある。そこが僕の私塾の重要な目標になるんです。
最初の一歩さえクリアできれば、いろいろな道が開けます。ネットデバイスを使って学問的コミュニケーションを支援してもらうこともできるし、学問に限らず一人一人がバラバラに生活していてもさまざまな共同作業ができるようになるでしょう。ただし、これは、ひきこもりがちなヘタレをネットデバイスで支援するという話とは百%逆方向です。

■自己信頼のベースはどこにあるのか

宮台: 赤穂浪士のことかな(笑)。

宮台: やっぱり赤穂浪士の話だね。それ(「コミュニティの密度は、社会変革の実感と関連する」)大事だ。西田君は、普通の人間よりも高い自己信頼の値を得ていると思う。普通の人間よりも不安に駆られていないよね。だから、コミュニティが社会変革のために重要だと言うんだけど、「最初の一歩」のクリアのために重要だという側面が抜ける。
 僕の言い方だと、「最初の一歩」をクリアした連中にとっての共同性と、「最初の一歩」をまだクリアできていない連中にとっての共同性とは違うんだ。クリアできていない連中にとっての共同性は、ネットでどうたらというやり方じゃ話にならない。「こいつがちゃんとしていることはオレが命にかけて保証する」みたいな関係性が築けないからね。
 西田君がいろんな人たちを集めて何かを組織したとしても、僕に言わせると「最初の一歩」をクリアしているがゆえに西田君と同レベルでの自己信頼値を有するような存在をネットワークしないと、西田君自身がさっき言ったような政治的に意味のある活動は、スゴイ難しいと思う。
 逆に言うと、「最初の一歩」をクリアした西田君は、クリアしてない連中を利用できるわけよ。相手がヘタレであるほど利用するのは簡単だからね。西田君なら自由自在に利用できる。それはひとつの政治活動ではあるけれども、みんなが同志として、まさにコンパニオンとして結び付いて活動をするというタイプの政治活動にはなりません。
 僕は、そこは本当はひとつ重要なポイントだと思っているわけです。ネットが広がれば広がるほど、不安&不信ベースが手当てされなくてもコミュニケーションが増殖する。だからこそ、不安を一時的に解消するテンポラリーなツールも増殖する。その中にはコミュニケーションツールもあるということになっちゃう。twitterもその中に入るわけだ。
不安&不信ベースでも前に進めるコミュニケーションツールが増殖することも、その中に不安を一時的に解消するコミュニケーションツールが含まれることも、別にどうしようもないけれども、西田君が本当にやろうと思っているようなプロジェクトを実現しようと思ったら、このマッチポンプ的なベースから次のベースに移らなきゃ駄目じゃないかな。

■ コミュニティにおける異世代交流の必要性

宮台: それは僕に言わせるとイントロダクションだよ。イントロダクトリーなプロセスの後に本当のセッションがあるわけだ。本当のセッションが大変だからこそ、イントロダクトリーなゲートを広くして入りやすいくしましょうと。そこにはいろんな人が入ってこれるけど、本当のセッションはきついよ、みたいなこと考えてらっしゃるのでしょう。

宮台: いやいや、抜けていない。例えば、僕と接した、チャーリーと接した、つまりそこには異年齢集団のつながりがあった。で、それが重要だと思っているんでしょ? 僕らの若い頃もそうだったよ。体育会の活動でも、大学院での研究会でもそう。一〇歳上二〇上歳、三〇歳上の人間から成り立つコミュニティがあったから、十全に機能したわけです。
 そうしたコミュニティが、自分自身の脆弱な実存を克服するのに役に立ったし、それを克服しないと何をやっても駄目だということを、直接的・間接的に教わることができた。ということは、twitterだろうがブログだろうが、何を使おうが、同世代だけで集まっているようじゃ、もう駄目なんです。そうした活動は、僕に言わせると可能性がないんです。

宮台: 「ないよりはあった方がマシ」ということではそうでしょうが、僕あるいは西田君が、本当に考えているプロジェクトにとって、それは十分条件からあまりにも遠いんですよ。僕が政治家たちにロビイするときに最初に必ず「チャレンジするにも余裕から」と申し上げていますが、余裕と癒しとは違う。同世代の連携は単なる癒しのの場でしょう。

宮台: そこも僕の世代と西田君の世代との違いがあります。僕の世代は、八五年以降のテレクラから始まって、八六年以降の♯8301伝言ダイヤル、九〇年以降のダイヤルQ2伝言とQ2ツーショットとQ2パーティライン、九〇年代半ばからのネット出会い系、そしてゼロ年代からのケータイ出会い系、云々というプロセスを、全部ユーザーとして知っています。
 例えば、僕は、昨日(三月二四日)twitterで、ある種の実験的コミュニケーションをしました。ナンパツイートというやつです。「ほう宮台はこういうモードでコミュニケーションできるのか」って、できるに決まっている。今どきの若い人よりもいろいろやってきてるんだから。ところが、若い人たちは僕の世代のポテンシャリティを知らないわけです。
 年長世代もいろいろできるという話とはちょっと違う。キーワードは再帰性です。僕の世代は、テレクラ、#8301、Q2、パソコン通信、ネット、ケータイという具合にコミュニケーション媒体が変わることで、どうノリが変わってきたのかを知ってる。それだけじゃなく、これらの変わり方自体が同一パターンの反復であることを、知ってるわけ。
 他方で、それとは別に昔ながらの旧住民的共同体も知ってる。するとどうなるか。自動的にコミュニケーションが戦略的になる。戦略的というのは単に道具的ということではない。実存的にも重要です。例えば不安があると、罵倒や宥めを含めて自由自在なコミュニケーションがうまくできない。逆に自己信頼があれば自在にモードを切り替えられます。
 僕のtwitter実験は、昔とった杵柄が今も通用するのかどうか確認するのが目的でした。そしてもう一つ、今も通用するなら、若い世代に自在にモードを切り替える実践例を見て欲しいというのがあります。今的にいえば、リア充であればこそ、自由自在に虚構の演技ができるようになるんですよ。その一つに、学問モードもナンパモードもあるわけです。
 ひいて考えてみれば、そういうのって当たり前じゃんね。でも、そういうことがわからないで、特定のモードでのコミュニケーションでうまくなろうとベタに思う若い人たちが多い。それは学問であれナンパであれ同じなの。でも、そういうふうにベタに思っている時点で、僕に言わせればもう駄目なの。つまり見込みがないわけ。

■リア充とはなにか

宮台: 変化はないんだよ。メカニズム自体はね。例えばさ、昔から反動形成というメカニズムがある。ある人間が、スゴイ熱心であるように見えても、不安の埋め合わせである場合がある。この場合、不安が埋め合わせられたら、動機がなくなる。あるいは、不安を埋め合わせる別の有効な仕方が分かったら、動機がなくなる可能性がある。
 その意味で、不安の埋め合わせを含めて、自分の動機が機能的に他の動機と入れ替え可能なのかどうかを、検証する必要があるわけです。スゴイ勉強熱心な奴がいるとします。一五年くらい前によく女子が言っていたけど、勉強熱心な奴には童貞君が多かったんだ。そういう奴って童貞失った途端に勉強しなくなっちゃうんで、信用できないわけよ(笑)。
今もあまり変わらない。俺は女なんかいらんのです、とか言う奴に限って、風俗なんかで童貞捨てさせると、突然、態度もファッションも変わっちゃう、なんてことが、昔から変わらない事実としてあるわけ(笑)。そのとき、かなりの確率で、勉強しなくなっちゃうわけよ。どこでリアルを獲得するかは別にして、これが「リア充問題」の本質なのね。
だから、こういうトークイベントに集まって高尚だか低能だか分からないような僕らの話を、わざわざ聞いていらっしゃる観客の中にも、「埋め合せ野郎」がいてさ、風俗や出会い系で見つけたちょっといい女と数日間やりまくれば、もうこういうところに来なくなる。それは、そいつが「リア充問題」について事前に何を言ってるかなんて関係ないの。
だから僕は、いまどきの若い人が、「リア充問題」について口先で何を言っていようが、一切信用しないし、相手にもしない。どうせ置かれた状況が少し変われば発言内容もコロッと変わる程度のものなんだから。まぁ、弱者であるうちは「弱者を何とかしろ」とか叫んでいるが、弱者から離脱した途端に「弱者は自己責任だ」と言い出す輩と同じね。


■コミュニティの定義

宮台: 西田君は最初「コミュニティという概念はいろいろですけど」と紹介したけど、どういう立場を取るのかはっきりした方がいいと思うよ。僕の場合、日本語で言う共同体をベースに考える。コミュニティというと新住民的ニュアンスで、共同体というと旧住民的ニュアンスです。共同体はいわば人が初めから埋め込まれている。
 新住民が個人化がもたらす不安ゆえにコミュニティを作るとすれば、旧住民は共同体に埋め込まれていて、一部が不安を承知で脱埋め込み化を図るような存在だ。むろん共同体には同調圧力もあれば家父長制などの封建遺制もある。いろんなネガティブ要因もあるけれど、人々が相互扶助的な義務関係に埋め込まれていることも含めて、絆があるわけだ。
 その意味で、コミュニティは共同体ではないんだよ。さっき少し触れたけど、僕らには、米国流の市民宗教による義務関係もなければ、中国人のような血縁主義による義務関係もなければ、欧州流の階級文化による義務関係もない。かわりに「長らくトゥギャザ」であることによる義務関係があり得た。それを「地縁」みたいに呼んできたわけだ。
これらのどれもコミュニティではなく共同体を与える。ところで僕の考え方は時間的なんだ。共同体を背景にしつつ近代的な自己形成を遂げた者が、共同体を反省することを通じて再帰的に共同体を再構成する場合にだけ――これをコミュニティと呼んでもいいけど――それが感情的安全を与えるホームベースすなわち〈生活世界〉になりうると思う。
言い換えれば、共同体を通じた自己形成ができた人間だけが、共同体を越える――例えば同調圧力や絆の強制を克服した――共同体を作れるということなんだ。共同体を越える方途の一つとして「村の聖」になるというオプションも出て来る。でも、共同体を通じた自己形成を欠くがゆえに不安&不信ベースが自明であるような輩には、それはできない。
西田君がコミュニティという概念で何をさしているのかはっきりさせてほしいと思うのは、そこだよ。僕は、共同体を再帰的に克服して得られる絆関係だけをコミュニティと呼びたい。共同体を通じた自己形成を知らない者が不安&不信ベースで寄り集まる非絆関係をコミュニティとは呼ばない。言葉の争いはどうでもいいが、何を指すかは大切なんだ。
ちなみに、僕は同調圧力や絆強制がある共同体を単に肯定していない。日本の内需産業がどこよりも生産性が低い背景に日本的共同体の質があると僕は思ってる。ただ、パターナル(上から目線)に言うと、ネガティブ要因が過大にならないように制御できるのであれば、宗教であれ血縁であれ階級であれ地域であれ共同体での自己形成が必要だと思う。

宮台: あのね、「どうすれば西田君みたいになれるのか」という問題をエポケー(判断中止)するから、そういう言い方が可能なんですよ。それに対して、僕の話は「どうしたら西田君みたいになれるのか」も含めて論じているわけ。君の話は、「西田君みたいになれた後、何をどうすれば適切なネットワークを作れるのか」という話でしかないよ。

宮台: わかるよ。

宮台: 違うんだ。君はあえて僕の言ったことスルーしてるんだよ。君は「発見」って言ったけど、さっきの話だと「更地の社会」になっていて「発見」が難しくなってるってことじゃかったの? だったら「発見」じゃなくて「人材作り」が必要じゃない? 西田君はそれをやればいいじゃん。西田みたいなやつがたくさんいればいいと思わない?

宮台: 西田みたいなやつをどうやって生み出すんだよ。

■「カリスマ」を育てることはできるか

宮台: 甘いんだ。社会の中に西田君みたいな人材がそれなりに分厚くいる――割合が少なくても絶対数がそれなりにいる――場合は、そういう人材同士のネットワークを作り、情報を交換しながら「お前そっち方面でやれ、俺はこっち方面でやるぜ」というふうに効率的に連携して分業していく。これはすごく意味がある。ぜひやってほしいことだよ。
 でも日本は人材自体の頭数が少ない。西田君が他の国ならできるはずの「自分と同じような活動しているような連中を効率的にネットワークして、全体として有効なアウトプットを出す」という活動を、展開するのに必要な仲間(ボス、ヘッド、チーフ役をする人材の数)が少なすぎるわけ。その人材を生み出すにはどうすればいいかが僕の関心なんだ。

宮台: いいかな。社会の中でチーフのロールを演じられるような人材が分布している場合、そうした人材が効果的に協業するためには、いろんなテクノロジー、例えばtwitterが役立つだろう。今村君のことはよく知ってるからね。西田君と今村君の出会いって、そういうものの典型だよ。その通りで、だからそれは全然反論してない。
 でも、僕が言ってるのは、西田君や今村君のような人材の頭数が少ないってことなんだ。皆さんもご存知のように、日本のNPO活動は諸外国に比べてものスゴイ薄っぺらい。別の言い方をすれば、左翼残党的なNPOと行政依存的なNPOが多くて、市民活動の経験知のデータベースを構築してきたようなNPOが少ない。
 いま地域はめちゃくちゃ空洞化してるよね。空洞化している理由はいろいろあるけれど、そうした空洞化した地域を立て直そうとする場合、既得権益べったりの地方のノンキャリ官僚たちが実は癌になる。そうだとしても、有効なNPOが少ない以上、ノンキャリ官僚巻き込んで、経験知をつないで効果的な活動につなげていくことが必要です。
 そういうことをする人材が今は必要で、西田君や今村君はそうした人材の代表なんだけれども、君らの世代だと、西田くんと今村くんとアノ人とコノ人と、あと誰?みたいな感じです。つまり、何度もいうけれど、頭数が圧倒的に足りないの。頭数の足りなさをどうするのかというプログラムをスルーするわけにはいかない。

■ 「方法としてのコミュニティ」

宮台: NPOの活性度は、ロバート・ニール・ベラーがアメリカで「市民宗教」と名付けるようなキリスト教的なカリタス(社会貢献)概念と密接な関係があるよね。だから、NPOモデルはキリスト教文化モデルだと言えて、日本はキリスト教文化がない以上、欧米流のNPOモデルとは違ったモデルが必要だ、というのは、その通りだと思う。
 僕は、社会によって異なる、利用可能な社会貢献リソースを、社会的相続財産(ソーシャルヘリテージ)と呼んできた。エマニュエル・トッド的に言えば、アメリカを含むアングロサクソンは直系家族文化で、家族親族ユニットが小さく、ゲルマンや、ましてラテンは、家族親族ユニットが大きな、拡大家族文化です。彼によればこの違いは大きい。
 例えば、アングロサクソンは核家族ユニットの代表が市場で激烈に競争するイメージがあるので、それが対外的な新自由主義のイメージを形作った面がある。親族の相互扶助ネットワークが大きいラテンは、逆に、アングロサクソンが市場から調達する部分を相互扶助から調達するので、対外的には新自由主義から遠いように見えるというわけです。
 しかし、トッドも注目するように、本質は違わない。市場に乗り出しているのは、共同体代表としての個人であって、むき出しの個人じゃない。むき出しの個人が市場にさらされているということは、アングロサクソン社会にさえあり得ない。アングロサクソンだろうが、ラテンだろうが、市場と共同体を両立可能性を志向する点は、同じなんだよ。
 ところが日本人はそこを勘違いした。もともとは拡大家族文化なんだけど、それを直系家族文化に置き換えるだけならまだしも、小泉改革を翼賛した日本国民をみる限り、アングロサクソン社会にさえあり得ない「むき出しの個人が市場で競争するのが良い」という勘違いに陷ってしまった。こうした勘違いが横行したのは先進国では日本だけです。
 また、よく知られているように、小さい家族親族ユニットの代表が市場で競争するという形は、不安にさらされる度合が高いがゆえにプロテスタンティズムと親和性が高く、大きな家族親族ユニットの代表が市場で競争するという形は、相互扶助を頼れる度合が高いがゆえにカトリシズムと親和性が高い。
 こういう差異を、僕らは「宗教社会学的なバックグラウンド」と言います。このバックグラウンドがどういうものなのかが重要です。例えば、アメリカのようなドネーション(寄付)文化やアソシエーション文化は、小さい家族親族ユニットが市場で競争する(がゆえに相互扶助を頼れる度合が低い)ことに対応した、社会進化的な達成だと言えます。
 宗教社会学的なバックグラウンドがまったく異なる日本で、ドネーション文化やアソシエーション文化が拡がる可能性はありません。日本で可能なのは、先ほど述べた「長らくトゥギャザ」が意味を持つ非血縁主義的な疑似家族制度を前提にした、今しがた述べた比較的大きな単位での相互扶助を期待できる拡大家族制度ということになります。
 新自由主義とはそもそも、「むき出しの個人が市場で戦う」ことじゃなく、「小さな政府&大きな社会」です。「大きな社会」とは相互扶助的で包摂的な社会ということです。ただ英米で新自由主義が唱えられる場合、自動的に「大きな社会」が、「小さい家族親族ユニットに置ける紐帯」&「宗教的社会貢献による補完」を意味することになります。
 グローバル化が不可避である以上、日本も「小さな政府&大きな社会」でいくしかないのですが、その場合の「大きな社会」が、「小家族ユニット紐帯」&「宗教的貢献」を指すことはあり得ません。日本の場合、「政府に依存しない自立」を構想すべきユニットは、非血縁主義的つまり事実主義的な、より大きな集まりにならざるを得ません。
 言葉でいうとこういうふうに小難しくなるんですが、「あ、そうか地域社会の形成はこうすればいいのか」といったロールモデルになりうる事例は、たいていは「非血縁主義的=事実主義的な、より大きな集まり」を示すはずです。アングロサクソンにとってのロールモデルが、僕らのロールモデルだと感じられることは、馬鹿でない限りないでしょう。
 本土と違って沖縄は血縁主義的な場所ですが、農耕文化なので地縁も大きな意味を持ちます。だから、本土と同じように、僕らが沖縄に移住したとき沖縄に溶け込む唯一の方法は、沖縄で子供を産み育てることです。そうすると、子供がお呼ばれされたり、よその子供を呼んだりするということを通じて、親同士のネットワークに入っていけるんですね。
これは、本土でも新住民が旧住民に溶け込むときの知恵として知られてきたものです。ところがこの知恵が廃れてきた。ゴミ出しのルールを守らなくても管理人がやってくれるとか近所付き合いをしなくていいといった便利さを頼ってマンション住まいをするだけで、子供を産み育てることで地域ネットワークに入るという回路が使いにくくなります。
一戸建てでも、旧住民ネットワークが存在しない新興住宅地に住んでしまえば、この回路はやはり自明には使えなくなってしまいます。こういうことは、社会学的理論という二次的知識よりも前に、社会成員自身の一次的知識として伝承されてきて然るべきものです。コレが伝承されないのはなぜなのかということが、思考の出発点であるべきです。

■質疑応答

宮台: 僕ら二人はあなたが仰った議論に合意できるでしょう。合意したとして、次に、そうした共同身体性の場をどう組織できるのかという次元の話と、共同身体性の場を組織するために必要な西田君やあなた見たいな人材の頭数をどう揃えるのかという次元の話と、二つあるわけです。そして僕は、西田君はなぜ前者しか触れないのかと問うている。

宮台: 僕もソレを申し上げてきたつもり。西田君は、言葉では隱しつつ、ソレをやろうとしている(笑)。つまり、仲良くなりましょうみたいな話じゃなく、基本的には権力を行使し、一定のコンテクストをセットアップしようとしている。一回セットアップしてしまえば、西田君の言うような「キレイゴト」の枠内で、ものごとが動くようになる(笑)。
 で、セットアップってどうすんだよ、という話がとても大事です。そこではリーダーシップが必要です。そのリーダーは、あえてリスクを冐す。あえて複雑性を縮減しない。あえてポジションを求めない。そのようにして前に進めるような、〈縦の力〉に貫かれた奴。自身が凄い奴に感染しているがゆえに凄い奴。そういう人材が必要になります。
 そのことは、あまりにもリソースが不足する日本では、間違いないわけです。そのこと、つまりガバナンスができる人材の養成を、無視して、ソーシャルネットワークを整備すれば何とかできると考えている人間は、日本的なガバナンスのコンテクストがわかっていない、単なる馬鹿ということになります。

宮台: 「鳩山政権の」というのはどうでもよい。「新しい公共」とは、簡単に言えば「国(による再配分)」か「個人(による自助努力)」かという二項図式を否定して、間に「社会」を置くものだよね。グローバル化が進むと、財政規模という意味での「国」は小さくなるしかなく、「個人」もむき出しで市場にさらされたら生きてはいけなくなる。
 僕の言葉でいえば、“「小さな政府・大きな社会」でやるしかない”、または、“自己決定から共同体的自己決定へ”、という言い方になります。要は、“誰もが恩恵に預かれて、かつ誰もがそれなりに責務を果たすような、相互扶助のネットワークを作ろう”ということです。そのこと自体は、どう考えるも何も、選択の余地がないことなんだよね。
 二大政党制がダメだどいうのもこれに関係します。二大政党制は、左か右か、国か個人か、再配分か自助努力か、といった類の対立が意味を持った時代のもの。いまや「国による再配分」も「個人の自助努力」も単独ではあてにならなくなった。「社会を分厚くするとはどういうことか」というディティールを争う時代になったんだね。
 僕も『日本の難点』などで書いてきたけど、「社会を分厚くすることに国がどれだけ貢献すべきか」についての分岐、ある程度貢献することに合意できたとして「社会を分厚くするのに国がどこに貢献するのが有効か」についての分岐、そして、そもそも「社会をどの程度ぶ厚くするべきなのか」についての分岐が、ディティールを構成するわけだ。
 そのために新しいガバナンスが必要なんだが、従来ガバナンスを担当してきた霞が関が利害相反を起こす。まず、素朴に「国から社会へ」という動きに抵抗するし、狡猾に「『国から社会へ』の動きを加速するにも国の支援が必要だ」という具合に抵抗する。狡猾な理屈のほうは、それ自体妥当なものだから、すごく注意が必要になるんだね。
 ただ、鳩山民主党政権について言えば、亀井郵政改革を見てもそうだし、温暖化対策基本法を見てもそうだけど、残念ながら、霞が関官僚の作った狡猾な――でも僕らから見るとあからさまな――フレームの内側でしか振舞えない。その意味では、「正しいことが大好きだけど騙されやすいお坊ちゃん」だというほかない。
 僕が十数年前からよく言うようになった「法律文書リテラシー」つまり「官僚の書いた法律文章を読む力」もないし、「官僚の書いた法律文章を読む力を持つ人をネットワークして政権に生かす力」もない。だから、多くの優秀であるはずの人材を無駄使いしているわけです。そのことを国民も感じるようになったから、支持率が下がっているんですね。
安倍内閣や麻生内閣の末期とは違って――つまり自民党にはまるで人材がいないというのと違って――民主党にはそれなりの人材もいるし適切なマニフェストもあるのに、烏合の衆が「小沢の権力」と「鳩山の金」に群がる結果、党内民主主義の結果として逆にガバナンスつまり全体的最適化がデタラメになることに、国民がうんざりしてるんです。
小泉内閣二〇〇五年総選挙と同じで、二〇〇九年総選挙で議席が倍増した民主党与党が烏合の衆だらけになるのは仕方なく、そうなれば烏合の衆が支える権力者ゆえにガバナンスがでたらめになるのは仕方ない。ただ末期自民党と違って人材はそれなりにいるので、「烏合の衆が支える権力」が、夏の参院選での民主党大敗北で、除去されることを望みます。

宮台: 僕の考えが妥当かどうかコメントしていただきたいと思います。マックス・ウェーバーの行政官僚制論があって、今でも通用するものです。これによれば、「霞が関官僚を叩く」のは意味がない。行政官僚制はどのみち縦割りだし、どのみち手続合理性による実質合理性の簒奪が起こるし、その簒奪は組織的自己保身の方向に用いられる。これは昔から変わらないし、今後も永久に変わらない真理なんですね。
なので、彼によれば、その程度に過ぎない行政官僚制を前提にして、どのボタンをどういう順番で押せば、行政官僚制による公共性の簒奪を抑止できるのかがポイントになる。彼は十九世紀末のビスマルク帝国を擁護することで、強い政治による行政への統制を推奨するけれど、強い政治がどのみち間違いを生み出すという悲観を捨てませんでした。
ここにヒントがあります。強い政治が間違いを生まないにように、いわゆる脱藩官僚を含めて、寺脇さんのように行政官僚制の中身や行政官僚の動き方よくご存知の方々――霞が関の手の内を知り尽くした方々――が、政権の中でそれなりにパワーを持つことが必要だということです。
誰でもできる行政官僚制批判の寝言は暇人や馬鹿に任せて、「どこまでもその程度の行政官僚制を前提にして、それを自由自在に乗りこ�