皆さん!!
直前の告知で申し訳ありません。
僕の1999年ベスト1映画として
『絶望 断念 福音 映画』でも紹介させていただいた、
真の意味での幻の名作が、なんと今夜一夜かぎり、関係者のご尽力によって、公開されます。
高橋陽一郎監督は、まったりとした個人宅上映会に招待させていただいたりしたこともある、
NHKの天才ディレクターです。
あの、急逝された
林由美香さんが、この世に存在するのか存在しないのか分からない不思議な役柄で出演していらっしゃいます。
以下のホームページにおける告知をご覧ください。
ミヤダイ・ドットコムの過去ログにもある、この映画への言及も、大きく紹介されています。
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本日、ポレポレ東中野にて
高橋陽一郎監督『日曜日は終わらない』(出演:水橋研二、林由美香)
が一夜限りの特別上映!(7/5(日)21:00より)
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こんなに素晴らしく、美しい、死にたくなるような映画(正確にはハイビジョンドラマ)を見られる機会は、滅多にありません。
映画が好きな皆さんは、なにをおいても、出かけてご覧になってください。
ちなみに僕自身は、この作品を、60回以上観ております。
(ごめんなさい、高橋陽一郎さんから直接ビデオテープをいただいているんです)
「嗚呼、テレ日トシネマ−雑記−」さま、トラックバックでのお知らせ、ありがとうございました!
以下は、ミヤダイ・ドットコムの過去ログ(上記リンクから辿れますが、きわめて長大)からの抜粋です。
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宮台:僕はもともと屋上が大好きなの。だからヤクザ映画でもピンク映画でも屋上が出てくるたびに興奮した。さっき言った若松孝二の『ゆけゆけ二度目の処女』もほとんど全編屋上の映画。ヤクザ映画でもピンク映画でも、屋上って非常階段と同じ意味で「中途半端」で変ちくりんな場所。だから、普段起こらないことが起こる、っていうモチーフ。
熊坂:「中途半端」ってのは?
宮台:僕が昔に書いた文章があるんだけど、僕はずっと団地や学校の屋上にいたの。なぜ自分が屋上にいたのか。皆は、居場所のないヤツが屋上にたむろしたんですよ。不良も含めてね。
熊坂:あ、そうなんですか?
宮台:うん。僕は孤独な少年だったから。屋上で煙草吸ったり、アマチュア無線やったり、天体望遠鏡で星空…っつうか、女の子の家をのぞいたりしてた。で、なぜ屋上なのか。僕の考えでは、第一の理由は「機能的な空白」だから。たとえば学校で言えば、校庭は運動する場所だし、教室は学ぶ場所だし、廊下は歩く場所でしょ。
熊坂:あ、わかった。そういう意味で。
宮台:屋上って、とりわけ昔はそういう機能がなかった。だから「何もない場所」なの。
熊坂:「曖昧な場所」ってことですか?
宮台:「曖昧な場所」。だから「通行人」にもならなくて済むし、「勉強する人」にもならなくて済むし、「スポーツする人」にならなくても済む。「誰でもない人でいられる」ってのがあるわけ。
熊坂:はいはいはい。
宮台:あと、第二の理由は、屋上って、周囲に開かれていて、どこでも見渡せるし、街頭音も聞こえるでしょ。その意味で「開かれた場所」。なのに、屋上って「柵を越えたら死」じゃないですか。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」場所なのね。
だから場所自体がメタファーになるの。『ゆけゆけ二度目の処女』は、そこを凄く巧く使ってた。屋上って「開放的密室」なのね。開放されているのに密室で、密室なんだけど開放されてる。
若松孝二で言えば、69年っていう年のメタファーなわけ。69年は「革命の時代」でもあったし「学園闘争の時代」でもあった。若い奴らが結構ハジけて、当初はどこにでも行けそうな感じがあった。けれど結局どこにも行けなかった。
69年は「自由が輝いた時代」なんじゃなく、「どこかに行けそうで、どこにも行けない時代」。期待外れが巨大な抑鬱感を生んだ。抑鬱感がますます「ここではないどこか」を希求させて、希求がますます抑鬱感を増幅した。
そういう意味で、屋上って「曖昧な場所」だし「両義的な場所」。それが第三の理由につながる。つまり、曖昧さや両義性が、民俗学的時空――辻や橋やトンネルみたいな――を与えるわけ。民俗学的時空は祝祭の場所でもあって、性別や権力関係が逆転させられる。
たとえば、若松孝二の映画や当時のヤクザ映画でいうと、強いヤツと弱いヤツの立場が逆転する場所になるわけ。『ゆけゆけ二度目の処女』でも、レイプされた少女と、少女に恋をする管理人の少年が、彼らを陵辱したフーテン連中を惨殺するでしょ。
その意味では別に屋上じゃなくてもいい。ラロ・シフリンの『冒険者たち』だと、城塞に覆われた無人島でドンパチするのを覚えていらっしゃると思うけど。非常階段や屋上や無人島や廃墟が舞台であれば、ふつうならば描けない凄惨な殺戮が生々しく描けるわけ。
日比谷:僕は、いじめられっ子だったんですけど。屋上と公園でよくいじめられました。
宮台:僕も、そう。
日比谷:やっぱり、そこだといじめやすいのかなって思ったんですけど。
宮台:いじめやすいんだよ。でも「一発逆転の妄想」も屋上を舞台にしやすいよね。
熊坂:僕は実家が内装屋じゃないですか。屋上があったんですよ。小っちゃいときから屋上が好きで、よく行ってたんです…しょっちゅう行ってて。屋上に対する思い入れは僕もあって。色んな屋上に行きました。それこそ。
屋上は、割と僕的には日常的には一人になる場所で。でも花火大会とかなんかそういうことがあると皆集まってくるんですよ。僕の家が、結構高かったから。見に来るの。近所の人たちが。皆でバーべキューしながら花火したりとか。
あとはまあ、僕が友達つれてきて、僕もいじめられた経験あるんですけど。友達が来るんですよ、屋上があると。屋上で遊びたいから。
屋上には、たくさん、色んな思い出があるってことなんですけど。
日比谷:社宅の上が屋上だったんですよ。その意味で同じですね。やっぱ友達が遊びには来るんだけど、それはあくまで屋上に来たいんであって、僕と遊びたいわけじゃないんですよ(笑)。
熊坂:わかる。その感じはわかるなあ。わかるわかる。
宮台:結局、屋上って「ヤバイ場所」なんだよ。だから、ヘタにストーリーに取り込むと収集つかなくなっちゃうっていうのは、よくわかる。ただ、屋上っていうと「何かが起こる場所」っていうふうにわくわくしちゃうんです。
でも『パーク アンド ラブホテル』では、むしろ何も起こらない場所、時間が止まる場所でしょ。いつ行っても「同じ風景」があり、いつ行っても「同じ匂い」がするっていう。でも、それもまた屋上の特性なんだよね。流動性よりも非流動性っていう。
いつも「同じヤツ」がいるというわけじゃない。「同じヤツ」じゃなくて「同じようなヤツ」がいるの。都市社会学者の磯村栄一のいう、公でも私でもない「第三空間」。僕のいう、学校でも家でも地域でもない「第四空間」。だから映画をみて、なるほどと思った。
日比谷:出さんの"屋上観"として、ああいう割と落ち着ける場所に…
熊坂:そんなことはないけど…
日比谷:…にしたかったというわけではない?
熊坂:いや、今の話がまさにそれを示していて。多分、それぞれがそれぞれの思いとか経験を持って、色んな解釈を持てるんですよ。屋上って。曖昧であるがゆえに。だから、これからも、多分、屋上ってのは出てくるんだろうな、と思います。いろんな機能を持って。
日比谷:別にあれで全部、最初から最後まで、言いたいことを言ったわけではないってことですね。屋上について。
熊坂:屋上の一つの機能を持ってきた…ってだけじゃないですかね。
宮台:なので、ストーリーの中に屋上を活かさないということで、「屋上マニア」としての僕が思ったのは、なんかもっと凄いことがいろいろ起こってもいいのに、物足りないかなって(笑)。
熊坂:それは、わかりますけどね。
日比谷:美香(注:『PAL』登場人物)が髪を染められるシーンとかさ、マリカ(注:『PAL』登場人物)が自分の診断書を捨てちゃうシーンとか、あのシーンをやっていながら、皆、日常にいる、っていう、ああいう図式の中で使うっていう、ああいうポイントでは使われているわけじゃないですか。
熊坂:まあ、そうですね。美香とかねえ。
日比谷:そういう感じってところに留めたかったんですかね?ノート焼いちゃうのもそうじゃないですか。結構、ポイントになるとこは屋上には持ってきてるな、とは思ったんです。
熊坂:ええ、まあ、そうですね。ポイントは屋上に持ってきました。それは物凄く意図的に屋上に持ってきていました。
日比谷:そうだよね。ずーっとあのどどめ色に溜まっちゃった水がこぼれるのもそうだし。
熊坂:全部屋上ですよ。ポイントは。
宮台:NHKディレクターの高橋陽一郎が作った『日曜日は終わらない』っていう凄くいいハイビジョンドラマがあるの。権利関係が片付かなくてビデオやDVDになってないどころか、映画館でもかけられない。上映運動をやって1回上映したこともあるんだけどね。
物凄い傑作なんだ。で、この『パーク アンド ラブホテル』と、屋上の使い方が似てるんですよ。屋上での散髪シーンとか、夕暮れの屋上の使い方とか。でも、似ているぶん、かえって違いが際立つところがある。
高橋陽一郎って僕と年が違わないせいもあって「中途半端な場所」というコンセプトをつきつめるの。たとえば「現実だったのか夢だったのかわからなくなる」とか「それがいつだったのかわからなくなる」みたいに時間が変性しちゃう場所として描かれているのね。
けっして大袈裟な描かれ方じゃない。でも、主人公たちがそこを通過するたびにリセットされちゃう。「あれは何だったのか」「どういう意味を持つのか」わからなくなっちゃう場所として描かれるわけ。それに比べて、やっぱり日常なんだよね、屋上の描かれ方が。
だからこそ、さっき言ったような効果もある。今、町の中で、いつ行っても同じ空気感があって、人がたまっている場所があるか。磯村英一は、花柳界や色街なんかを例にして「馴染みの場所」っていったけど。そんな場所は今はないでしょ。
だから、『パーク アンド ラブホテル』の屋上は、アジールはアジールなんだけど、磯村英一的なアジールだよね。誰もが立ち寄れって自分に戻れるっていう感じの。
日比谷:これは、ちょっと、これは僕の凄い印象…主観なんですけど。"ラストシーンで皆を追い返すための屋上"っていう感じに、僕は感じたんですけど。あのラストシーンのために、屋上というのがあるだけでも、僕の中ではそれを納得してしまって。宮台さんのご指摘も色々と感じるところはあるんですけど、あそこで「人間だったら帰りましょう」って追い返して、一人になって、また日常が繰り返される感じの象徴として、あの引きで、ロールが流れて、一人になっちゃうシーンが凄く好きなんです。物悲しいんだけど。僕には、リアルだった。ただ、宮台さんが言われたような、「もっと」という感じは、確かに屋上に突っ込んで考えれば、あることはある。
宮台:僕が「屋上映画」だと思って見るから問題があるんであって。今おっしゃったことは僕も感じます。りりィ(注:『PAL』艶子役)はあのパラダイスの主催者なんだよね。でも彼女は自分の人生を主催できたって思えない。だからある種の代償行為として屋上を主催する。悲しい代償行為って感じがするの。でもそれは「いけない」って意味じゃないんだ。多かれ少なかれ、人はそういう代償行為を生きているわけ。そんな中では、一番いいものを代償行為にしているなって思う。
日比谷:色々あって結局は役所に電話した後、屋上に上がって来たときに、何とも言えない笑顔で(屋上の風景を)見るじゃないですか?
熊坂:はい。
日比谷:あそこにある"屋上の風景"に結末というのがあって、「"ちょっとだけ"皆、成長した感じ」がある。それが僕にはすごくリアルで。でも、そんなにすぐ物事は解決しない感じが。
宮台:そうですね。
日比谷:全然解決してないんだけど、ちょっと変化したっていうところが、僕はすごく好きなんです。
宮台:でも僕に言わせるとね、解決しているの。なぜかって言うと、彼女の日々の課題は、さっき監督に言ったんだけど、「火が消えちゃった女たちの心に火を点けること」なのね。
日比谷:ああ。はいはい。
宮台:皆、火を点けられちゃう。あの主婦(注:『PAL』登場人物)もそうだけど、火が点いたから「バイバイ」なのね。彼女は、屋上を主催するだけじゃなく、ちょっと枠を広げて「花咲かじいさん」みたいな役割を果たすってところに自分の存在意義を広げてる。
だから、ラストの彼女の顔も、その意味で言えば――僕の母が死んだばかりだからそう思うのかもしれないけれど――「もう自分は死んでもいいな」みたいな感じがあるのかなって感じました。火を点けるだけ点けて。明瞭な区切り感がありましたね。
熊坂:区切りはあるんですよ。決心はしたからね。ただ、まあ揺れるだろうな、とは思いますけれどね。色々あるだろうし。これからもね。
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