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『調査情報』2009年7-8月号(489号)に次著を予告する長文を掲載しました

投稿者:miyadai
投稿日時:2009-06-28 - 10:17:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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「昭和を知らない子供たち」へ
〜〜社会の記憶から消去された「昭和の終わり」〜〜
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■昭和から平成への改元は1989年。崩御の日に最初の著書『権力の予期理論』の後書を書き上げた。何ヶ月も続いた「自粛ブーム」や女子高生たちが大勢並んだ「ご記帳ブーム」のせいで、80年代のバブル的ないしポストモダン的な狂騒が何だったのか、よく分からなくなっていた。
■しかしそれは表層のこと。『権力の予期理論』の執筆時に私はテレクラ・フィールドワークに明け暮れていたのだが、テレクラの賑わいは「自粛ブーム」も何のその。こちらの方を見る限り、一旦外れたポストモダンの掛け金が決して元に戻ることがないことが、明白に告げられていた。
■抽象的な数理社会学を研究しながら性愛のフィールドワークをしていた(!)私にとって、昭和晩期から平成へのシフトは「ポストモダンの三段ロケットの三段目に火がついた」こととして記憶される。昭和の何が失われ、平成の何が新たに登場したか。私には朧気ながら見当がついた。

【ポストモダンの幕開け】
■ポストモダンがそれぞれの社会でいつから始まったのかは論争的だ。ポストモダンをどう定義するかにもよる。私の考えでは、ポストモダンの最有望の定義は「汎〈システム〉化による〈生活世界〉の空洞化」だ。「小さな物語の林立」や「再帰性」による定義はそこから派生できる。
■マックス・ウェーバーは近代化を「計算可能性をもたらす手続の一般化」によって定義した。ユルゲン・ハーバマスはこれを踏まえ、そうした手続が支配する領域を「システム」と呼び、そうした手続に支配されない領域を「生活世界」と呼んだ。だが、この定義はミスリーディングだ。
■なぜなら、「手つかずの自然」がまさしく「敢えて手をつけないという作為」(法律用語では不作為)の産物たり得るように、手つかずの「生活世界」に見えるものが実は「システム」の産出物であり得るからだ。それを明白に告知したのが、1966年のフーコー・サルトル論争だった。
■新聞紙上のインタビューで応酬のあったこの論争で、主体が批判の根拠たり得るとする実存主義者サルトルに対し、主体はシステムないし構造の産物に過ぎぬと喝破したのが「構造主義者」フーコーだった。ここでフーコーは、あなたの言説自体もシステムの産物か、と問われている。
■これに対してフーコーは、イエスと答える。それではあなたは何をしていることになるのか、という問いかけに対し、フーコーは影踏みのモチーフで答える。影を踏もうと前に出る。影はさらに前に移動する。だからさらに影を踏もうと前に出る。この繰り返ししかないのである、と。
■この論争は、しかし、人文科学の専門家だけが知っているもの(構造主義革命)だった。それはいまだその意義が十分に理解されていなかったとはいえ、先に紹介したハーバマスのような議論--システムが侵食していない領域が生活世界だ云々--を、直ちに木っ端微塵にするものだった。
■ちなみに私が〈システム〉〈生活世界〉という具合に山型括弧で括るのは、そのことを踏まえてのことだ。フーコーのような「気づき」があるか否かにかかわらず、資本利潤率ないし投資係数によって「開発」するか否かを決める資本主義において、生活世界は〈生活世界〉に過ぎない
■「主体にせよ生活世界にせよシステムの産物に過ぎない」という主張はやがて人口に膾炙する。私の見るところ、1970年上梓のジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』が先進各国で大衆的に読まれるようになったことが大きい(フランスでは当時ジャーナリストという扱い)。
■この本は、各人の行為目的が与える「使用価値」が消滅し、システム全体の中での位置(示差性)が与える「記号価値」だけが人々を商品に誘引するようになったと説く。正確には記号価値が使用価値を構成するようになったと記すべきだろうが、いずれにせよそこでは消費主体の特権性が剥奪された
■記号価値が使用価値になった商品においては、人々の行為目的(欲求)は自然でもなければ根底的でもない。欲求こそ「システム全体の中での商品の示差的位置」によって与えられるからだ。この議論は、「企業の広告が欲求を作り出す」というガルブレイスの「依存効果」論とは異なる。
■「依存効果」論においては、広告によって欲求を人為的に作り出す主体(の戦略)が前提されている。だがボードリヤールによれば、こうした戦略自体もまた「システム全体による示差的な決定」の産物である。記号価値が主導的になった消費社会では、もはや特権的主体は存在しない。
■最単純モデルとして車のカテゴリーを挙げる。ハイソカーというカテゴリーが独自の使用価値を指し示すのではない。コンパクトカー/ファミリーカー/ハイソカー/スポーツカー/SUVといった記号的なシステムの全体性が、ハイソカーというカテゴリーに記号価値を与えるのだ。
■だからこそ、A宅がB宅のSUVを見て「いったいどこにオフロードがあるってんだ」と嘲笑し、B宅がA宅のスポーツカーを見て「いったいどこにアウトバーンがあるってんだ」と嘲笑する。つまり「その意味」での使用価値はないのであり、問題なのは「全体」が与える記号価値なのだ。
■ボードリヤールの議論は、例えば日本においては、西武資本がパルコ出店に際して1973年に開発した「渋谷公園通り」的なものと、互いに手を携えるようにして人口に膾炙した。クリエーターも消費者もボードリヤール的言説を「知りつつ」いわば祝祭の如く消費生活を送りはじめた。
■その結果、当初は「〈生活世界〉を生きる我々が主体的に〈システム〉を利用するのだ」という観念があり得たが、やがて「〈生活世界〉や我々という観念自体が、〈システム〉による生成物に過ぎない」との観念が広く受け入れられた。そこには必ずしも否定的ニュアンスはなかった。

【本格的なポストモダンへ】
■だが私は、日本が本格的にポストモダン化したのは1980年代後半から末期にかけてだと思う。この本格的なポストモダン化の幕開けを告げたのが、まさしく、世界で最初の出会い系産業であるテレクラことテレホンクラブだった。テレクラの周辺には、巨大な社会的文脈の変化があった。
■82年にワンルームマンションブームが起こり、全国に建設反対運動が拡がった。82年にセブンイレブンのPOS化が始まり、86年に全店POS化を達成した。この間、コンビニ店数は倍増。公共料金支払、チケットサービス、宅配などの窓口となり、地域の情報ターミナル化となった。
■83年には女性向けエロ媒体である「レディスコミック」が、84年には男性向けエロ媒体である「投稿写真誌」が大爆発する。どちらもコンビニ販売を前提にしたもので、表紙を見る限りは、前者は普通の女性漫画誌に、後者は『BOMB!』のようなアイドル雑誌にしか、見えないものだ。
■84年には、首都圏近郊に出店しつつあったロヂャーズやダイクマといった「ロードサイドショップ」で、白黒テレビが二万円台、カラーテレビが四万円台という具合に、NIES諸国で作られたテレビが従来の半額以下で売られるようになって、一挙に「テレビの個室化」が進んだ。
■「テレビの個室化」のせいで、84年から87年にかけて、家族揃ってのお茶の間での視聴を前提としたクイズグランプリ、アップダウンクイズ、クイズ・タイムショックなどのクイズ番組や、夜のヒットスタジオ、歌のトップテン、ザ・ベストテンなどの歌謡番組が軒並み打ち切りとなる。
「テレビの個室化」に「電話の個室化」が続く。85年に日本電電公社が民営化されてNTTとなり、それまでは公社から貸与されてきた電話が、買切り制となったのを契機に、多機能電話がブームとなる。家族が各個室から他の家族に知られずに通話ができる時代が、突如訪れたのだ。
■さて同じ85年に、81年からのニュー風俗ブーム(のぞき部屋・ファッションマッサージ・デートクラブなど)を受け、新風営法が施行される。新風営法対策もあって、85年9月に新宿花園神社横にのぞき部屋を改装した世界初のテレクラ「アトリエキーホール」が誕生することになる。
■同年10月に新宿淀橋に初の個室テレクラ「東京12チャンネル」がオープンしたのを皮切りに、全国各地に一挙に個室テレクラが拡がる。85年中に新宿や渋谷や池袋などでは各駅10軒以上が出店し、首都圏では大宮・立川・町田・藤沢・本厚木・西船橋・柏などの郊外に続々と拡がった。
■家族と一つ屋根の下の疑似単身者が、夜中に稲荷寿司が食べたくなって深夜のコンビニを訪れ、ついでにレディスコミックや投稿写真誌を買い帰り、個室で稲荷寿司を食べながら頁をめくるとテレクラの広告があり、手元のコードレスホンからコールし、一時間後には見知らぬ者と性交…。
■見えにくい所で、こうしたかつてなら絶対にあり得なかった振舞が日本全国に大規模に展開するようになった。興味深く思った私は首都圏だけで50軒のテレクラの会員になり、北海道から沖縄までフィールドワークしはじめた。それで誰よりも全国のテレクラの歴史を知る者となった。
■このあたりの歴史を拙著『まぼろしの郊外』(1997)の第2章で詳述したが、この章は実は1995年に上梓予定だった『テレクラという日常』のために書かれたものだった。膨大な女性たちへのインタビューを中心に構成されるはずだったこの本は、しかし日の目を見ずに終わった。
■最大の理由は、この本のメインモチーフが、同年3月20日に起こった地下鉄サリン事件を皮切りとするオウム真理教事件を題材として緊急出版した『終わりなき日常を生きろ』(1995年)において表現され切ったと(少なくとも私には)思えたからだった。結局この本のためのデータは封印された。
■メインモチーフとは、豊かな郊外生活が、「にもかかわらず」どんなディスコンテント(不全感)を伴っているのかである。このモチーフに従って女性たちの証言が陳列されるはずであった。が、オウム事件後の緊急出版で私は、このモチーフを、オウム事件の背景要因として取り出した。
■仮に『テレクラという日常』が上梓されていれば、「日常」というタイトルの言葉が示すように、昭和の終わりとは「終わりなき日常」の完成であり、人々の課題は郊外における「終わりなき日常」の不全感をどうファインチューニングするかに収束してきた、という話になったはずだ。
■それが上梓されていれば、『終わりなき日常を生きろ』とモチーフが重なるものの、郊外における「終わりなき日常」の今日的な不全感がもたらされるに至る歴史的変遷を、それなりに微細に描き出すものとなっただろう。だが私は『終わりなき日常を生きろ』でガスが抜けてしまった。

【「昭和の終わり」というパラダイス】
■ところが『テレクラという日常』で利用する予定だったデータを使い、私がナンパカメラマンのドキュメンタリーなどで取材してきたナンパ師や、かつてのアダルトビデオ女優などへの取材を追加し、15年ぶりに『テレクラという日常』を上梓することに向けて動きはじめたところだ。
■『テレクラという日常』を上梓する予定だった90年代半ばに膨大な数の援交女子高生を取材していた私は、幾つかの理由から96年にフィールドワークをやめている。それから十数年経って、私の中で「昭和の終わり」についての当初抱いていたイメージが、随分変わったことがある。
■そのことを再確認する契機が富田克也監督『国道20号線』(2007)を見たことだった。このインディーズの傑作映画は、甲府の20号線沿線に立ち並ぶけケバケバしいパチコン屋や街金の看板を背景に、シンナー中毒で崩れていく男女が描かれる。ちょっと見では20号線沿線が廃墟として描かれる。
■だがそこに私はパラダイスを見出した。映画には明らかに浪漫と挫折が描かれているからだ。浪漫がなければ挫折もない。期待がなければ期待外れもない。ここには明白な廃墟が描かれているようであって、実は挫折や期待外れのドラマツルギーを揺籃する濃密な共同性の浪漫があった
■思えば私はかつて「16号線沿線的な風景」という言葉を多用した。『まぼろしの郊外』でもそうだ。私はこの言葉で当時、ある種の廃墟を指し示そうと思っていた。コミュニケーションの廃墟を、である。
■16号線沿線は当初からテレクラのメッカで、アダルトビデオ女優の供給源だった。田舎の共同体を前提とした青年団的な濃密さからも疎外され、都会の匿名性や流動性を前提としたナンパ・コンパ・紹介的なやりとりの濃密さからも疎外された「二重に奪われた場所=16号線沿線」。
■だが今振り返ると、80年代後半の16号線沿線は、映画『国道20号線』が描き出す世界と同じ意味でパラダイスだった。ちなみに『国道20号線』は監督たちによれば十年前という設定で撮られている。16号線とのタイムラグは、富田監督と脚本の相澤虎之助によって意識されていた。
■彼らによれば、当初は16号線沿線を舞台にするアイディアもあったらしい。しかし、取材とロケハンを重ねるにつれ、16号線沿線ではもはやドラマが描けないことに気づいたという。その意味で、『国道20号線』が消えつつあるパラダイスを描いているというのは正しいと答える。
■実際この映画はノスタルジックな印象を与える。ヤンキー文化の最後の煌めきを捉えていると感じられる。なぜ16号線でなく20号線にそれが残っていたのか。理由は甲府を舞台としたことにあろう。甲府は郊外というより地方であり、16号線よりもゆっくりと変化してきたのだろう。
ニューカマーには分からなくても、古くからその土地にいる者には分かる「消えゆくもの」がある。それは風景というよりも関係性である。映画には、地域共同体の存在を前提にした裏共同体としてのヤンキーの共同性が、地域の崩壊ゆえに徐々に空洞化していく有り様が描かれている。
■実は、首都圏や関西圏で「ヤンキー的なるもの」が「チーマー的なるもの」に代替されていくのは、多くの著作で述べてきた通り80年代後半のことだ。86年にはコンビニにヤンキーがウンコ座りすることが話題になったが、ヤンキーが話題を提供したのはせいぜいこの頃までである。
■89年には足立区綾瀬で女子高生コンクリート詰め殺人が起こる。事件は藤井誠二の『少年の街』が明らかにするように、昔だったらヤクザにケツモチされたはずのヤンキー集団が、年齢階梯制の空洞化で、地域から完全に孤立した存在になったことを背景に、引き起こされたものだ。
■ことほどさように、『国道20号線』に見出されるような地域差があるとはいえ、80年代後半は「ヤンキーからチーマーへ」の代替が生じる時期である。広く言って「古いものから新しいものへ」の代替が、必ずしも目には見えない関係性の次元で、大規模に生じる時期なのである。
■当時の16号線沿線が今から振り返って一種のパラダイスに思えるのは、なぜか。新規巻き直しの『テレクラという日常が意味したもの』(仮題)が検討しようとするのはこのことだ。「昭和の終わり」は単なる空虚ではなく、蝋燭の末期の煌めきのような観を呈していたということだ。

【光と闇の交差が織りなす濃密なドラマ】
■繰り返すと、「昭和の終わり」には「失われゆくもの」と「新たに来たるもの」とが交差したがゆえに、「浪漫と挫折」「期待と期待外れ」のドラマが渦巻いたのである。古きものの記憶を持つ者が、失われつつある古きものへのアンビバレンツに引き裂かれた時代だったとも言える。
■我々はかつて似たような時代が少なくとも二度あったのを知っている。第一は大正ないし昭和初期の「モダニズムの時代」。モダニズムは「近代主義」と訳すと間違う。一口で言うなら、近代化の眩しき光を希求しつつ、急速に失われゆく共同体の闇への執着に引き裂かれる心性を言う。
■具体的には泉鏡花的なもの、ないし『新青年』的なものすなわち江戸川乱歩や横溝正史に象徴される感覚だ。そこでは新旧の世界観がせめぎあう。都市建設の陰に妖怪がうごめき、国家建設に思いを託す帝大生の故郷には古い因習に囚われた家族がいる。まさに光と闇のコントラストだ。
■「失われつつあるもの」と「新たに来たるもの」の交差を、まさにそのものとして鮮やかに描いたのが、江戸川乱歩の短編「押繪と旅する男」だろう。そこには覗きカラクリの押繪の中にしか存在しなくなったものと共に居続けるために、押繪の中で生きることを決めた男が登場する。
■ここには、モダニズムの濃密さを構成する「光」と「闇」の二重性が、やがて「光」による「闇」の席巻で確実に失われることについての、乱歩の予期が描かれていよう。同時に、現実に「闇」が消えるのなら、虚構の中で「闇」と共に生きるしかないことへの、決意も描かれていよう。
■第二は1970年前後の「アングラの時代」。アングラ文化はまさにモダニズム的だった。例えば寺山修司。彼が反復する「記憶があっても不自由、記憶を失っても不自由」という両義的モチーフは、「闇への執着」と「闇からの解放」に引き裂かれた両義的な心性を、象徴していよう。
■寺山の短編フィルム『消しゴム』(1977)には、「記憶が人を不自由にしているから、消しゴムで消さなければならない」というモチーフと、「そうやって記憶を消してしまうと、自分は何者だかわかんなくなってしまう」というモチーフの、両義性が、実に鮮やかに活写されている。
■ちなみに「アングラの時代」は、1960年代の「政治の時代」が敗北してから、入れ替わりに、60年代末から登場して、77年の夏までに終わった。それと入れ替わりに、77年からは、ディスコブームや湘南ブームやテニスブームに色彩られた「性と舞台装置の時代」が始まるのである。
■「モダニズムの時代」も「アングラの時代」も共通してノスタルジックな回顧の対象になった。前者については、敗戦後、階級的上層のリベラル保守による回顧があった(拙著『サブカルチャー神話解体』)。後者については、アングラの時代は、現在も昭和30ー40年代ノスタルジーの一部として享受される
■80年代後半も「失われゆくもの」と「新たに来たるもの」の交差ゆえに、諦め切れない浪漫や両義的心性に由来する抑鬱感が渦巻いた。だがそのことがいまだノスタルジーの対象となった気配はない。例外的に当時の雰囲気を活写した著作が東ノボルによる『瞬間恋愛』(1994)だ。
■今日のテレクラや出会い系からは想像するスベもないが、「失われゆくもの」と「新たに来たるもの」の間で引き裂かれるがゆえの「浪漫と挫折」が、女性たちの口から言葉を溢れさせていた。お蔵入りにはなったが、私が声を録音した女性たちもとめどなく言葉を溢れさせたのだった。
身近な親や夫や兄弟にも決して語らないことを、初めて会った見ず知らずの男に、あたかも親しい間柄であるからのごとく悩みや鬱屈を語るという「匿名的な親密さ」は、むろん性行為にも及んだ。だから東ノボルは、このありそうもない不可能性の現実化を「瞬間恋愛」と呼んだのだ。
■繰り返す。「大正モダニズムの時代」と1970年前後の「アングラの時代」は、共通の形で後代にノスタルジーの対象になった。その理由を分析すると、「昭和の終わり」がノスタルジーの対象にならないことが、残念かつ不思議に思えてくる。私は「昭和の終わり」を蒸し返したい。

【ノスタルジーからこぼれた「昭和の終わり」】
■ノスタルジーの対象になってもよさそうなこの時期(80年代後半)が、しかしそうした対象にならない理由は明白に見える。テレクラといういかがわしいメディアが介在したがゆえに、のべ利用人数が膨大なものだったにもかかわらず、表立ったコミュニケーションがしにくいからだ。
■だが、たぶんそれだけではない。私が80年代後半の「16号線沿線」を長い間「廃墟」だと思い込んでいたように、当時ソレが「光と闇の織りなすパラダイス」だったことに同時代の誰もが気づかなかったからでもあろう。誰も気づかなかった理由は何か。これまた明白だろうと思う。
■例えば私自身についていえば、女性たちの口から語られるディスコンテント(不全感)やディプレッション(抑鬱感)にばかり注意が向いて、それが女性の口から見ず知らずの私に向けて語られているという「ありそうもなさ」に注意が向かなかった。それに気づいたのは96年だった。
■私は92年から始まるブルセラ&援交ブームをつぶさに追いかけてきたが、5年目の96年にフィールドワークを断念する。女性たちの口から見ず知らずの私に向けて何もかもが語られる(ように見える)という状況が、この年に終わり、従来の取材方法では立ちゆかなくなったからだ。
■後に『制服少女たちの選択--After Ten Years--』(2007)の後書で、96年まで援交していた子らを「援交第一世代」、96年から2001年までを「援交第二世代」、それ以降を「援交第三世代」と呼ぶ。私の見るところ、援交第一世代のコミュニケーション作法は、80年代後半から完全に連続していた。
■愚鈍にも私は、96年に第一世代が退場してから初めて、80年代後半の「16号線沿線」が一種のパラダイスだったことを思い知った。同時に、80年代後半のパラダイスこそが92年からのブルセラ&援交ブームを準備したことに気づく。もちろん80年代後半にはお金は絡まなかったが。
■私が『テレクラという日常とは何だったのか』を改めて上梓しなければならないと思った理由を語るべき段取りだ。80年代後半は性愛コミュニケーションの激変の時期だったが、そこで「新たに来たるもの」が何であり「失われゆくもの」が何であったのかを実存的に明らかにすること。
■実存的にというのは、社会的には既に明らかにしているからだ。『まぼろしの郊外』で記した「2段階の郊外化」論。60年代の団地化では「地域の空洞化×家族への内閉化(専業主婦化)」が生じ、80年代のニュータウン化では「家族の空洞化×市場化行政化(コンビニ化)」が生じた。
■市場化行政化とは、それまで専業主婦が担ってきた便益提供が市場や行政によって肩代わりされることを言う。これは折しも85年に成立する男女雇用機会均等法が目指す男女共同参画に資する生活形態の多様化を可能にした。これが明部だとすれば、語られにくい暗部が存在していた。
■この暗部を私は「第四空間化」と呼ぶ。家庭でも地域でも学校でもない空間にホームベースが移行することを言う。具体的には、70年代末から拡がる仮想現実(アニメやゲーム)、80年代半ばから拡がる匿名メディア(テレクラ・出会い系)、80年代末から拡がる匿名ストリートだ。
■当初「第四空間化」は華華しいものだった。テレクラでの出会い(匿名メディア)も、ビルの地下にあるクラブでの出会い(匿名ストリート)も、同じく「匿名的な親密さ」を提供できた。だが、やがて「匿名的な親密さ」は風化し、「第四空間」がホームベースを提供できなくなった。
■かくして不全感と抑鬱感が社会の全域をフラットに覆うようになった──私が社会的側面で明らかにできたのはここまでだ。だが、時間が経つにつれて私は、これだけでは足りないと思うようになった。理由は、これだけでは若い世代に過去がどんな時代だったのかが分からないからだ。
■もちろん過去は戻れない。「昔と同じような社会は戻らない」という意味と「さまざまな問題を抱えた昔の社会に戻るべきでない」という意味と二つある。だから新しい社会を作らねばならない。それは、過去の問題点を克服し、過去の良い点を継承するような方向に向かうべきである。
■だから若い世代に過去がどんな時代だったのかを知ってほしいと思う。そのために「失われゆくもの」と「新たに来たるもの」とが交差した直近の80年代後半--「昭和の終わり」--の、とりわけ実存の形式を若い世代に伝えたいと思った。これがテレクラ本を上梓したい理由なのだ。

【「彼女はいても心は非モテ」とは】
■このように思う背景に、拙著『日本の難点』(2009)や『14歳からの社会学』(2008)でも記した「彼女はいても心は非モテ」という状況がある。いくつかの理由があって、結論からいえば「セックスが蔓延して、濃密さが消えた」とでもいうべき状況が、拡がっているのだ。
■長年学生の相談に乗っているが、男子学生の相談傾向が「セックスする相手がいないんですけど」から「長続きしないんですけと」にだんだん変わってきた。それだけではない。1996年頃を境に「オタク系よりもナンパ系がカッコイイ」という観念が急速に廃れてきているのである。
■ちなみに96年頃から流行り出すガングロメイクは、異性関係よりもホモソーシャリティ(同性関係)を優位させるというシンボルだった。実際、ガングロメイクを苦手とする援交オヤジが多かったし、ガングロたちは色が白くて髮が黒い「男ウケするタイプ」を軒並み差別していた。
■何が起こっていたのかは明白だろう。生身の性愛に魅力がないと感じるようになったのである。98年だが、教え子にギャルゲーマニアが多いので、私が「生身の女とつきあえないからだな」というと、男子学生の一人が「つきあってもつまらないから、ギャルゲーなんです」と答えた
■若い人たちを調べてみると、生身の性愛に実りがないと(男女ともに)思うようになった理由は幾つかあるようだ。第一は、過剰流動性ゆえの疑心暗鬼。20歳代の男女を調べると、それぞれ半数以上が相手のケータイの着信記録やメールを盗み見たことがあるというデータが得られる。
■盗み見れば、自分が知らない異性(同性愛であれば同性)とのやりとりがあって当たり前。相手がタコ足ならば、リスクをヘッジしようと自分もタコ足化する。それが相手にも気づかれて、相手もタコ足化する--そうした悪循環が回りがちなのだ。それが様々な副作用をもたらしている。
■その一つは「ソクバッキー」現象である。過剰に束縛する男を言う。3時間ごとにメールを送れだの、1時間ごとにどこにいるのか写メ(ケータイ写真)を送れだのと言う輩が、溢れるのだ。女の側も問題で、同性間で「それって愛だよねー」「そーかなぁ」などという会話がなされる!!
■生身の性愛に実りがないと思うようになる第二の理由がある。「ダメなアナタ、でもそんなアナタが好き」と〈承認〉を与えてくれる女子を求める男子と、そんな男子に愛想を尽かし、心の奥底を打ちあけても〈理解〉してくれる男子を求める女子の、〈承認〉と〈理解〉のすれ違いだ。
■さらに第三の理由もある。かつてゲイが直面していたのと同じ種類の問題だ。すなわち、昔はセックスするまでに時間がかかったので関係性を構築できたのが、今はセックスまでの時間が短くなったので関係性を構築する前に「ガスが抜けて」しまう、という「身も蓋もない問題」だ。
■ここにも実は悪循環がある。関係性に実りが感じられないと性愛関係に対する期待値が下がるので、「そんなもんだ」と比較的低い敷居でセックスするようになる一方、低い敷居でセックスするようになるからこそ、実りがあるような関係性を構築できない、という悪循環が、それだ。
■結局(1)IT化をも背景とした過剰流動化や、(2)〈承認〉を求める男子の幼稚化や、(3)セックス自体の敷居の低下などが相俟って、生身の性愛関係にさして魅力がないと考える若い男女が増えてきた。そうしたプロセスを見ると、期待水準と願望水準の二重性という問題も見えてくる。
■現実に何が期待できるのかを「期待水準」、それとは別に自分か心の奥底で何を望んでいるのかが「願望水準」である。若い人たちの性交経験率が低かった頃--私が高3の頃は男は5%で女が3%程だったと記憶するが--は、期待水準も願望水準もともに高かった。現実がどの程度かを知らなかったからだ。
■性愛が自由になると、期待水準が現実に見合うものへと切り下げられていく。だが当初は「現実はそんなものだ」と分かっていても「自分としての自分の望みはこれだ」という具合に願望水準が高いままだった。時間が経つにつれて、願望水準が、期待水準に引きずられて下がっていく。
■以下のデータは東京都小・中・高等学校性教育研究会の3年毎の調査報告に基づく性交経験率の推移だ。93年から96年にかけて女子が男子を劇的に逆転した。女子は02年に4割台後半に達してからは頭打ち。男子は05年から08年にかけて急増し、女子に追いついていることが分かる。

    1993年 1996年 1999年 2002年 2005年 2008年
高3男 27.3% 28.6% 37.8% 37.3% 35.7% 47.3%
高3女 22.3% 34.0% 39.0% 45.6% 44.3% 46.5%

■私のフィールドワークとつきあわせると、93年から96年にかけての大逆転は、女子の期待水準が急速に現実に見合うものに切り下げられた「結果」を現していよう。期待水準の切り下げは、性交経験率の増加に数年先立つだろう。現実に合わせた期待水準の切り下げはいつから生じたか。
■少女漫画研究者としての私の推測では86年が境ではないか。というのは、少女漫画ブームが86年にピークを向かえた後、急速に退潮に向かうからだ。セックスまでに至らないものを含めたデートカルチャーの低年齢化が、現実に見合う期待水準の引き下げをもたらしたと思われる。
■とはいえ、援交ブームがピークを向かえる96年までは、援交する子たちの多く--私は「援交第一世代」と呼ぶ--は実に溢れんばかりに喋りたいことを持っていた。うまく水を向ければ、家族や彼氏に対する「満たされぬ思い」を縷々語った。彼女たちは高い願望水準を維持していた。
■ところが96年を境に、こうしたコミュニカティブな子はほぼ消滅した。取材が困難になったので私はフィールドワークをやめ、私にメールをくれる子だけを取材するようになった。友達の間で援交している事実を平気で喋っていたのが、よほど親しい間柄でも秘密にするようになった。
■私の推測はこうだ。若い女性は、デートカルチャーの低年齢化によって現実を学習するようになった結果、期待水準を切り下げた。だがそれまでの少女文化の惰性もあって、願望水準は維持されていた。やがて高いままの願望水準とのギャップゆえの抑鬱感が、援交ブームをもたらした。
■「彼氏に会ってもセックスするだけじゃん。やってらんないよ。それくらいならお金もらったほうがいい」。当時の女子高生から何度か聞いた科白だ。これはシニシズムに見えて、実は「会ってもセックスするだけ」じゃない性愛を願望する点で、むしろロマンティシズムの表れなのだ。
やがて期待水準と願望水準のギャップに耐えられず、次第に「自分としての自分が何を望んでいたのか」を忘れる。恋愛に夢を抱くからこそ「現実はこんなもの」に傷つく段階から、夢を抱かないので傷つかない段階にシフトする。女子の頭打ちと男子の再逆転はそのことを示すだろう。
■かくして本節の冒頭で述べたような「セックスが蔓延して、濃密さが消えた」という状況がもたらされたのではないかと思われる。言い換えれば、セックスはフラットな日常の中にフラットに組み込まれた。日常がつまらないのと同程度に、セックスもつまらないのが当たり前になった。

【サブカルチャーに見る「フラット化」】
■確認すると、現実を学習した結果として期待水準が下がり、ついでそれに引きずられる形で願望水準が下がった状態を、ここでは「フラット化」と呼んでいる。現実を願望しないがゆえに、期待もせず、従って現実がどうあってもさして傷つかないような状態が、「フラット化」である。
■こうした「フラット化」がサブカルチャーのシーンにどのように刻印されたのかを見てみよう。拙著『サブカルチャー神話解体』(1993)で述べたように、現実のコミュニケーションに於ける意味論的な変化は、必ずといっていい程サブカルチャーの意味論的な変化を随伴するからだ。
サブカルチャーの各シーンにおける「フラット化」は、これから述べるように、1992年に揃って生じた。音楽の享受形式、アダルトビデオの享受形式、エロ雑誌の享受形式、性風俗ないし売買春の享受形式の、ドラスティックな変化と、シンクロしていた。詳しく説明してみよう。
■その変化を一口でいえば「アウラの消失」となる。アウラとはむろんベンヤミンが複製技術がもたらす変化として言挙げしたもの。元々は神性降臨(advent)における降臨した神性(divinity)を指す。アウラが喪失するとは、およそ以下のような事態をさしているだろう。
■ベンヤミンによれば、彫刻は絵画よりアウラがあり、絵画は写真よりもアウラがあり、写真は映画よりアウラがあり、映画はテレビよりアウラがある。つまり、表現に降臨する実物性--別言すればソレが何かをsubstituteする表現だという性質--が生々しく感じられるということである。
■だがメディアの差異は必然的ではない。例えばソレが何か実物「についての」表現だという性質は、マスターベーションの場面で本質を現す。実物に興奮した自慰。実物「についての」メディアに興奮した自慰。そして最後に、実物「についての」表現はでないアニメに興奮した自慰…。
■むろんこの順でアウラが消失するのだが、重要なのは、こうしたアウラ度の差異に反応して実物に興奮する男と、アウラ度の区別抜きにフラット化した状態で--実物をアニメから区別せずに--実物に興奮する男との、差異だ。後者は、実物をアウラ抜きで「フラットに」享受している。
■まず音楽の享受形式から論じよう。1992年にカラオケボックスが大ブームになった。同時に、音楽の享受形式が大規模に変化した。それまでは、楽曲がそれ「について」表示する「シーン」や「関係性」に浸る没入的享受が一般的だった。それがカラオケブーム以降全く変わったのだ。
■カラオケはさして親しくない者同士をも盛り上げる社交ツールである。唄えば拍手・唄えば拍手の繰り返し。没入的な歌唱は意識的に回避され、誰もが知っている歌が唄われる。供給側もそれに適応した結果、CMとの、映画との、ドラマとのタイアップソングだらけになったのである。
■かくして、音楽が何か「についての」表現だという感覚は急速に薄れてしまった。かわりに「皆が知っているか否か」「気持ちいいか否か」だけが評価されるようになった。その意味で音楽はファッションや化粧品と同種の消費財になった。これがネット配信化にずっと先行したのである。
■音楽の領域ではこうした「脱表現化」に続いて「脱流行化」が生じた。ITMS(iTune's Music Store)に見られるアーカイブス化&ネット化と、享受者の「島宇宙化」を背景に、CDシングルを購入して新曲にアクセス(して話題に乗り遅れないように)する必要も、急速に消滅した。
■詳しくみれば、カラオケボックスブーム以降の「脱表現化」によって、表現の授受に必要とされる同時代的文脈への言及が免除されたことが、文脈抜きにアーカイブスを探索する「脱流行化」への道筋をつけたのだ、という具合に分析することができる。かくして「フラット化」した。
■次に、アダルトビデオの享受形式である。92年に「単体もの」から「企画もの」へのシフトが生じた。それまではピンをはれる女優が一本百万円で出演するのが相場だったが、顔にモザイクのついた素人が一本10~20万円で「アルバイト感覚」で出演するようになったのである。
■内容も、従来の物語性優位のものから、スカトロ系(うんこもの)、フェチ系(制服もの)、特殊状況系(痴漢もの)など、ピンポイントで性的嗜好に訴える--従ってマーケットの小さな--ものへと変化した。この「ピンポイント化」はインターネット化で加速されるようになった。
■アダルトビデオの、エロアニメ化も進んだ。これらに共通するのは、アダルトヒデオが、人気女優「についての」表現だったり、物語「についての」表現だったりする事態が終ったことである。女優に興奮するのでも物語に興奮するのでもなく、眼前のイメージに興奮するだけなのだ。
■加えて、エロ雑誌の享受形式も同じく変化した。「字モノ」から「絵モノ」へのシフトである。従来、エロ雑誌の本体はあくまで文章であって、イラストや写真が文章の説明(挿し絵)だった。それが新しいエロ雑誌では逆転し、文章がイラストや写真のキャプションへと降格したのである。
■活字を媒体として--まさに「媒体」として--文字の向こう側に何かを妄想するのでなく、エロ劇画やエロアニメの視覚的刺激自体に反応するようになったのだ。「字モノ」では文章が依り代に過ぎないから「アウラ」が宿るが、「絵モノ」は単に刺激物がそこにあるというだけである。
■最後が性売買における「ブルセラ化」である。女子高生がショップに下着や制服を卸し、ショップが男性客に販売する「ブルセラショップ」だが、本物の素人女子高生が下着や制服を売る現象は、正確に1992年から始まっている(それまでは実際には主婦やOLが下着を売っていた)。
■これを新聞記事を通じて社会に広めたのが私であり、「ブルセラ社会学者」の称号を賜った。「ブルセラブーム」には「援助交際ブーム」が後続した。94年のデートクラブブームの始まりから96年までが「援交ブーム」なのだが、これを取材して社会に広く紹介したのも、私だった。
■この二つのブームにおいても、「アウラの消失」が見られた。先に述べたように、アニメや漫画のキャラに興奮するのと同じように、実物の女子高生に興奮する。そうした事態を、拙著『制服少女たちの選択』(1994)で私は、「記号に興奮する」という言葉を使って表現している。
■その本で詳述したが、逆に女子高生の側も「ヘンなおじさん」「カワイイおじさん」といった記号を用いて、凹凸がある「現実」を「フラット化」していた。かくして男性客の側にも女子高生の側にも、「現実」を記号として捉える「フラット化」(現実の虚構化=演出化)が進んだ
■そこでは記号が「現実」を代表するのでも、記号が「現実」のかわりをするのでもない。「現実」自体が記号として消費されるのである。逆にいえば、記号自体が「現実」として消費された。記号の向こうに「現実」があるという「現実」の神性divinity即ち「アウラ」が、消失したのだ。
■こうして92年に「現実」から一挙に重みが消え「フラット化」する。そのことが96年頃からの「セカイ系」--「現実」と「虚構」とを自己のホメオスタシスの観点から等価に見做す作法--の浮上を準備した。これ以降の展開については、本書のテーマを越えるので、別の機会に譲ろう。

【「昭和ノスタルジー」の真実】
■こうした「フラット化」--虚構と選ぶところのない現実の「非」生々しさ--を背景としつつ、90年代になる頃からノスタルジーブームが生じた。これを「昭和ノスタルジー」という。多くは、昭和30年代から40年代まで、具体的には55年体制の開始から大阪万博までが回顧される。
■「昭和ノスタルジー」の担い手は当時の記憶を持つ者たちに限られない。むしろ既に幾度も指摘されてきたように担い手は「昭和を知らない子供たち」だ。例えば大学での私の教え子たちも享受者である。「記憶なき者たち」が「記憶なき過去」を回顧する点のは、いったいなぜなのか。
■ちなみにコンテンツに注目する限り、最初の「昭和ノスタルジー」は押井守監督『機動警察パトレイバー the Movie』(1989)に見出される。刑事たちが暴走プログラムを仕組んだ容疑者の痕跡を辿って昭和の下町的な雰囲気の残る場所を経巡るシーンが極めて印象的な作品である。
■更に狭義のコンテンツを離れると、ゲームセンターからテーマパークへの展開に、より早い嚆矢を見出せる。85年以降のゲームセンターは体感ゲームのブームとなるが、ゲーム内容が高度化してギャラリー(見物人)がつきにくくなり、89年には既にカップルで行ける場でなくなる。
■私は当時ゲームセンターの業界誌で--或いは直接セガの開発部長に--再びコミュニカティブな場を取り戻すべくギャラリーがつく判りやすいゲームへの復帰を呼び掛けたことがある。セガは85年に新クレーンゲーム(UFOキャッチャー)を開発したが、90年頃からブームになり始めた。
■直接の契機は、景品がカプセルからぬいぐるみへと進化したので女子高生を中心とする若い女性たちが注目するようになり、デートスポットに組み入れられたことだった。平行してモグラ叩きや射的ゲームなどのローテクゲームが復活し、92年のナムコ・ワンダーエッグ開業に繋がる。
■こうした経緯はノスタルジーブームの基底の一つを示唆しよう。キー概念は「コミュニカティブ」だ。92年に大爆発するカラオケボックスブームも全く同じだ。即ちそこでは、異なる島宇宙に属する(そのままでは)コミュニケーション困難な者たちが、共通前提を獲得できるのだ。
■カラオケボックスでは自らが耽溺する歌を陶酔的に歌う振舞が回避され、誰もが知る(CM・ドラマ・映画の)タイアップソングと並んで昔のアニソン(アニメ主題化)が選好されたが、そこでは必ずしもノスタルジックな回顧が主題化されていた訳ではなかった。ゲームも同じだろう。
■即ち、細分化した島宇宙を便宜的にブリッジするものとして、単に機会主義的に選ばれたものだった。言い換えれば、島宇宙の細分化に伴う何らかのディスコンテント(不満足)が、カラオケボックス(でのアニソン)のブームと昭和的ローテクゲームのブームの、共通の基底だった。
こうした島宇宙間のブリッジ機能から出発して、やがて別の副次的機能が発見されるという展開で「昭和ノスタルジー」が拡がったというのが、私の推定である。別の副次的機能とは何か。これを検証すべく、「若い世代が記憶なき時代を懐かしむ理由」を先日学生たちにたずねてみた。
■四種類の回答があった。第一は地方出身者の多くからの回答だ。即ち、彼らが育つ地域社会に残っている微かに残った古き共同体の痕跡が、過去の文物を描いたコンテンツに見出され、「そういうことだったのか」といろんなことがひと繋がりに了解できるからだ、というものである。
■第二は、年長世代から「昔は良かった」という科白を繰り返し聞かされて、昔ってどんなもんだろうと思っていたところに、昔を描いたコンテンツを見て「そういうことだったのか」と了解できると同時に、そう言われてきたこともあって肯定的に捉えるからだ、というものである。
■第三は、ウェブの発達によるアーカイブス化によって、過去と現在のコンテンツがカタログ的に横並びになった結果、昔のもののほうが面白いことに気づくからだというもの。昔のほうが面白い理由は、同時代の島宇宙化したコンテンツに比べて濃密な文脈を想定しやすいからだという。
■この説は、アーカイブス化によって時間軸が無関連化されるので歴史感覚が消えるとする通説と矛盾すると見える。だが通説が意味するのは、現在のアイテムを享受する際に歴史的文脈を参照して付加価値化することができなくなるということだから、必ずしも矛盾するものではない。
■むしろ「現在のアイテムには島宇宙の細分化によって歴史的文脈を想定し難いので、かえって歴史的文脈を参照しやすい過去のアイテムが選好される」可能性を意味する。それほどまでに現在という同時代的文脈を想定することが難しい(ので享受が難しい)という現実を意味している。
■第四は、第三回答と関連するが、同時代的文脈を共有できたがゆえに「我々」意識--同じ舟に乗る者たちという意識--を持つことができた時代、それゆえにたとえ見ず知らずの者とさえ濃密なコミュニケーションが可能だった時代に、憧れるからというもの。これは私自身の説でもある。
■この説は拙著『絶望 断念 福音 映画』(2004年)で表明したが、どんな時代でも一定の時間が経てばノスタルジーの対象になるのか(例えば未来になれば「平成ノスタルジー」が来るのかどうか)について、かつて社会学者の若林幹夫氏と私との間で交わされた私的な論争にも関連していよう。
■私の考えでは、昨今の「昭和ノスタルジー」の本質は「誰もが同じ舟に乗っていると思えた時代の濃密さへの憧憬」だから、共通前提があり得ないことが共通前提になった平成以降の時代が、単なる個人的な思い出の回顧を越えてノスタルジーブームの対象となることは永久にないだろう。

【結語:「昭和の終わり」を取り戻す】
■先に述べたことを繰り返す。私にとって--私を中心とする幅広い世代の男女にとって--「昭和の終わり」即ち1980年代後半は「テレクラ的なもの=16号線沿線的なもの」がパラダイスをなした時代であり、後めたさを除去できさえすれば、ノスタルジーの対象となって然るべきものだ。
■この時期は、失われゆく「昭和的なるもの」と来たらんとする「平成的なるもの」とが交差し、「平成的なるもの」の光が「昭和的なるもの」の闇を屠り尽くさんとする最後の瞬間だった。光と闇の綾が織りなす濃密なドラマがあり、「郊外のディスコンテント」という共通前提があった。
■80年代後半の数年間--正確には85年から91年まで--に継続してテレクラのユーザーだった者は、男女を問わず、失われゆく「昭和的なるもの」が何であり、来たらんとする「平成的なるもの」が何であるのか、明確に意識できたはずだ。この私自身も極めて明確に意識していたと思う。
■ただ先にも述べたように、当時はそうした意識が単なる苦痛として感得され、この苦痛を持つ者同士の共通前提--まさしく最後の共通前提--が極めて濃密なドラマを生み出しているという「ありそうもない事実」が分からなかった。だがかつてのユーザーの大半も、今では気づいていよう。
■だからこそ、昨今の2ちゃんねるの一部の「板」で、かつてのテレクラを巡るコミュニケーションが如何に濃密なものだったのかが回顧されるのだろう。だが、やはり後ろめたさゆえに、議論はせいぜい2ちゃんねる止まり。映画や小説の背景をなしたことさえ(管見では)未だない。
■この時期は「皆が同じ舟に乗っていた時代への回顧」という意味でノスタルジーの対象となる資格を持つだけでなく、しばしばノスタルジー化される「大正モダニズムの時代」「1970年前後のアングラの時代」と同じく「光と闇の織りなす濃密さ」という強烈な共通体験を与えている。
■しかし、既に述べたような障害があって、記憶のあるものさえこの時期を回顧することがないし、まして記憶なき若い世代がこの時期について「皆が同じ舟に乗っていると思えた時代」として憧れることもない。その意味で「昭和の終わり」は巨大なブランクになっているように思う。
■見知らぬ者同士がどんな恋人より恋人らしく濃密な時間を過ごせた「瞬間恋愛」(東ノボル)がなぜ「昭和の終わり」にだけ可能だったのか。なぜ今それが不可能なのか。この可能性と不可能性が我々の人間関係の作り方にどんな方向づけを与えているのか。多くの人は知らないままだ。
■「昭和を知らない子供たち」というお題を与えられた瞬間に、この私は、物書きを含めた多くの人々が想起するだろう「昭和ノスタルジー」(昭和30-40年代回顧)ではなく、ノスタルジーの対象になることがなかった「昭和の終わり=16号線沿線的なもの」のパラダイスを想起した。
■こうした文章をしたためながら、しかし、どれだけの読者が実感を伴う想起をしていただけるのか、私には自信がない。私が、15年以上も前のテレクラユーザーだった女性たち、男性たちの音声データを聞き直しながら、この時代を書籍化しなければならないと決意する所以である。