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大ヒット映画に対する出鱈目な批評の横行に文句が言いたい!

投稿者:miyadai
投稿日時:2007-11-23 - 08:19:30
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(1)

「類稀なる自己制御こそ他者による制御の産物なのではないか」という映画『ボ
ーン・アルティメイタム』の主題に、ポストモダン特有の再帰性の刻印を見出す

■当たり前だが、映画と演劇の別を問わず、芝居の享受には凡そ目に見えない前提が張り付いている。以前、平田オリザのワークショップに即してそのことをこの連載でも書いた。芝居の享受とは「見立て」だ。それを可能にするのは、知的・身体的・感情的な共通前提なのだ。
■キャッチボールの集団パントマイムより長縄飛びの集団パントマイムが容易だ。理由は、長縄飛びのほうが、小学校の標準カリキュラムに組み込まれていることもあって、キャッチボールよりも相互に身体的な共通前提を当てにできることがあるからだ。が、それだけではない。
■長縄飛びには「失敗して周囲に迷惑をかけるんじゃないかと緊張した」とか「失敗して笑われたのが恥ずかしかった」といった感情的経験が付き物だ。だから、単なる身体的パントマイムを越えて、感情的パントマイムが可能になる。それがリアルなパントマイムを可能にする。
■加えて、当然のことだが、芝居の演技を「見立て」るには知的な共通前提も必要となる。我々が「砂漠」や「携帯電話」について一切の知識を持たなければ、「男が砂漠に佇んで携帯電話をかける」というシーンは、演出家が意図するどんな感慨をも引き起こせないだろう。
■こうした個別のカテゴリゼーションに関わる共通前提だけではない。我々は各人各様に〈世界〉を知る。だからこそ「砕け散った瓦礫に一瞬の星座を見出す」かのように(ベンヤミン)、「ああ、確かに〈世界〉はそうなっている」と寓話的に享受することが可能になる。
■我々が〈世界〉を知る仕方は〈社会〉によって異なる。だから、米国人が米国映画から汲み取れる寓意を、同じ映画を観た日本人が享受できないということがあり得る。そうした典型例を、ポール・グリーングラス監督『ボーン・アルティメイタム』(07)に見出せるだろう。

【米国的〈社会〉観への暗喩】
■第一作のダグ・リーマン監督『ボーン・アイデンティティー』(02)、第二作のポール・グリーングラス監督『ボーン・スプレマシー』(04)に続き、第二作と同一監督によるこの第三作は、ロバート・ラドラムの小説シリーズを原作とした映画シリーズの完結編に当たる。
■2007年11月13日の朝日新聞にノンフィクション・ライターの沢木耕太郎が批評文を載せている。彼は、この映画を昨今量産される《記憶喪失者の物語》の一つであるとし、その背景を《私たちが「記憶を失う」ということに対して強い恐怖心を抱く》ところに求めようとする。
■以前連載で述べたが、記憶を扱う映画は「記憶喪失もの」に始まった。マーヴィン・ルロイ監督『心の旅路』(42)、セルジュ・ブールギニョン監督『シベールの日曜日』(62)、ジーン・レビット監督『記憶の鍵』(69)、マイク・ニコルズ監督『心の旅』(91)などだ。■90年代に入る頃からSF的設定の「記憶捏造もの」が前面に目立ち始める。ポール・バーホーベン監督『トータル・リコール』(90)、ウォシャウスキー兄弟監督『マトリックス』(99)、ロジャー・スポティスウッド監督『シックス・デイ』(00)など枚挙に暇がない。
■直近では、「記憶捏造」の仕掛人が実は自分自身だったという「記憶の自己改造もの」と言える作品が増えてきている。クリストファー・ノーラン監督『メメント』(00)、古厩智之監督『まぶだち』(00)、フランソワ・オゾン監督『まぼろし』(01)が挙げられるだろう
■そうした流れを踏まえれば、シリーズ完結編である『ボーン・アルティメイタム』は、まさに直近の傾向を代表しよう。なぜなら、大団円で明らかになるのは、殺人マシーンとしての精神改造を志願したのは他ならぬ主人公自身だったという、主人公にとって辛い事実だからだ。
■だが、そうした流れの上に位置づけてしまうと、この作品が米国流イデオロギーを前提にした寓話である事実が──米国という〈社会〉を前提にした〈世界〉体験を当て込んでいる事実が──覆い隠される。そう思うのは、私が米国流の催眠誘導の訓練を受けてきたこともある。
■催眠誘導とは潜在意識の一部を書き換える作業を言う。米国では1970年代後半からとりわけエグゼクティブの間で、自己制御の一環としての潜在意識の書き換えが流行した。欲望を規範で抑圧するより、欲望自体を変えてしまう方が、精神的コストが低く合理的だからである。
■それについては後述するとして、映画に戻れば、この作品に描かれるのは、記憶喪失者の悲劇ではない。潜在意識に何かを書き込まれた(と感じる)者が──心に何かを埋め込まれた(と感じる)者が──「誰が何を目的に何を潜在意識に書き込んだのか」を探索する物語だ。
■その意味で、主人公の道行きを旅になぞらえるなら、この映画は「二重の旅」を描く。一つは、今述べた「誰が何を目的に何を潜在意識に書き込んだのか」を探索する旅で、もう一つは、それを突きとめることで「潜在意識を本来の自分のものに書き戻す」という旅である。
■実は、私がこの作品を米国流イデオロギーを前提にした寓話だと感じた契機は、第三作で前景化する「潜在意識の書き換え&書き戻し」問題に気づいたことではない。そうでなく、第二作に独特の──第三作でも継承された──ミメーシス(感染的摸倣)に気づいたことだった。
■第二作・第三作に共通して、主人公を演じるマット・デイモンが、上下動のある独特の動作で大股かつ早足で歩く姿のバックショットが反復される。それが観客に身体的感染をもたらす。映画館を出た観客の多くは、マット・デイモンのように歩く自分に苦笑いしただろう。
■このシリーズでの主人公は、銃撃戦でなく、飽くまで肉弾戦を戦う。書籍だろうがタオルだろうが何でも武器や防具として使う機転が、知的な印象を与えてもいる。だが観客はカンフー映画を観た後のようにロッカーを横蹴りしたくはならない。単に早足で歩きたくなるのだ。
■言わずもがな、早足歩行は、主人公が日常を非日常として生きることを象徴する。シリーズ第一作から反復される通り、主人公は自らが歩いた経路の周辺物を全て記憶するように訓練されている。だから全てを武器&防具に使える。そうした主人公の生き方が早足に象徴される。
■主人公が日常を日常として生きる希有な一瞬が第二作冒頭に描かれる。直後に誤殺される恋人マリーと過ごしたインドでの一時だ。この挿話も併せ、「早足で歩きたくなる」という独特のミメーシスを米国的──正確には米国エグゼクティブ的──な戦闘モードだと感じたのだ。
■先に触れた「潜在意識への書き込み&書き戻し」のモチーフといい、「全日常が非日常(戦闘モード)」といい、〈社会〉を際立ってエントロピーの低い人為的状態だと見做し、〈社会〉を生きるための戦略構築を通常化する、米国的な〈社会〉観のメタファーだと感じる。

【「欠落したスーパーマン」への共感】
■この映画には、従来のスパイ映画やアクション映画と比較した場合、「特殊なヒーロー像」と、そうしたヒーローの「特殊なオルタレーション(翻身)」が描かれている。「特殊なヒーロー像」から述べれば、一口で「欠落したスーパーマン」と呼ぶことができるだろう。
■主人公ボーンは、身体に加えて精神をも殺人マシーンへと改造する実験的「トレッドストーン計画」の第一号。彼の精神面を管理してきたCIA支局員ニッキーは、第二作で《彼らに失敗はないわ》と述べ、変装せずに歩き実名パスポートを使うのも、故意の作戦だと指摘する。
■その作戦はCIAをおちょくることが目的ではない。CIAからの接触なくして主人公の本来の目的が達せられないがゆえのものだ。自らが囮になってCIAを誘き寄せた上、首の皮一枚で自らを守りつつCIAから目的の情報を引き出す。それがドラマツルギーの基調をなす。
■このドラマツルギーが反復される度に、観客は主人公をスーパーマンだと感じる。だがこのドラマツルギー──潜在意識の書き戻しという最終目的のためにCIAを誘き出しては出し抜く──は、主人公が潜在意識を書き換えられた「欠陥品」だからこそ超人である事実を示す。
■「欠落したスーパーマン」である主人公は、ジェームズ・ボンドを凌ぐ身体的・精神的能力をもつ非現実的存在でありつつ、男女を問わず共感を呼んでいる。巷では共感の理由として、母性的保護欲求への刺激や、沢木耕太郎のように自分探しの旅への共感が、取り沙汰される。
■違うだろう。米国の社会的文脈をあてがう場合、主人公が完全な自己統御ができるように訓練されていること自体が自己統御の欠陥──潜在意識が誰かによって書き換えられていること──を意味するという逆説的設定が、寓話的な共感を呼ぶように作られているという他ない。
■「潜在意識の書き換えによる殺人マシーン作り」は、複数の拙著で紹介してきたように定番かつ凡庸なものだ。我々が人を殺さないのは、人を殺してはいけないというルールがあるからでなく、人を殺せないように育っているからに過ぎない。それが戦闘行動の障害になり得る。
■だから、激烈な地上戦を戦う部隊は、国を問わず、オルタードステイツ(変性意識状態)で潜在意識のフレームを書き換えるための──正確に言えば一定のトリガー(引き金)によって呼び出せるようなアンカー(錨)を埋め込むための──「地獄の特訓」をやらざるを得ない。
■地上戦の英雄が大抵は潜在意識にアンカーを埋め込まれた者であることが、マーチン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(74)のような、米国ニューシネマ定番の「帰還兵もの」モチーフを与えた。彼らは地上戦の英雄であるがゆえにこそ社会を普通に生きられないのだ。
■だが「帰還兵もの」と、ジェイソン・ボーン・シリーズとの決定的な違いは、少なくとも二つある。第一は、「帰還兵もの」とは対照的に、ジェイソン・ボーンという主人公が「誰がなぜ何を潜在意識に書き込んだか」を突きとめ、「潜在意識を書き戻す」営みに成功すること。
■第二は、「帰還兵もの」とは対照的に、このシリーズでは主人公が単なる被害者として免責されず、小さな個人を翻弄する社会を批判する身振りを見せないこと。むしろ、類稀なる自己統御能力を持つ者が、何のための自己統御かを問い詰めることで、自由になる話なのである。
■誤解を恐れずにいえば、特殊なヒーロー像を描くこのシリーズは、米国のビジネスエリートに70年代後半から知られるようになった自己啓発セミナー(Awareness Training)の意味論を逆手にとることで自己制御のオブセッション(強迫)を批判する、極めて米国的な作品だ。
■それを踏まえると、ひ弱な優男マット・デイモンがキャスティングされる理由も分かる。彼の身体は謂わば人形のような形代としてある。人形は、人間より遙かに不自由なマチエールだからこそ、例えば世話物であれば、心中を決意する瞬間に〈縦の力〉が降臨するのである。
■ちなみに〈横の力〉とは財力やゲバルトなど、〈社会〉に由来する力を言い、〈縦の力〉とはそうした社会的リソースに還元できない、〈世界〉に由来する力を言う。社会学者ウェーバーならば「カリスマ」と呼ぶものだ。この映画でも、主人公は「決意によって」発光する。
■その決意とは、シリーズ第一作であれは「自分が誰かを知ろうとする決意」であり、第二作であれば「恋人を殺した者に復讐する決意」であり、第三作であれば「誰がなぜ何を自分の潜在意識に書き込んだのかを探索する決意」だろう。優男が決意ゆえに威丈夫に昇格するのだ。

【欲望制御への欲望自体が被制御の産物】
■「潜在意識を書き換えられた欠落したスーパーマン」という特殊なヒーロー像と、「欠落から回復しようとする(=スーパーマンでなくなろうとする)決意が優男をスーパーマンする」という特殊な翻身が、組み合わさる所に、弱さと強さが論理的に表裏一体の身体が結実する。
■こうした複雑な身体の造形自体が、米国の社会的文脈において切実な寓意を生み、それゆえにシリーズ第三作が米国本国で記録的な大ヒットになったのだろう。最後に、先に予告した通り、米国の社会的文脈として特徴的な、70年代後半以降の催眠誘導のブームについて触れる。
■私は80年代前半、米国から輸入されたばかりの自己啓発セミナー(Awareness Training)にそれなりに関わり、今までにエンカウンター療法、ゲシュタルト療法、交流分析、自律訓練法、神経言語プログラミング(NLP)などについて、一定の訓練や学習を積んできている。
■80年代前半に輸入された当初のセミナーには、バッシングの対象になった90年前後とは対照的に、エリートの卵がつどった。霞ヶ関キャリア官僚、芸大卒の音楽家や美術家、学者の卵が大勢いた。日米を問わず当時のエリートの卵に「潜在意識の操縦」への高い関心があった。
■米国ではベトナム戦争後のカウンターカルチャーへの反省からドラッグレスハイの追求がなされ、サバイバルブーム、カタログブーム(Whole Earth Catalog!)、マイコンブーム(Apple!)になった。他方でベトナム帰還兵を社会復帰させる精神療法プログラムに国費が使われた。
■日本も似る。連赤事件後の、「ここでないどこか」を現実世界で追求する〈政治的なもの〉への反省から、「ここでないどこか」を観念世界で追求する〈アングラ的なもの〉を経て、「ここでないどこか」を放棄、「ここの読替え」を追求する〈カタログ的なもの〉にシフトした。
■日米総じて、政治闘争への挫折から、オルタナティブワールドを精神的に模索する動きへとシフトした。一口でいえば「政治変革から自己修養へ」。米国でエグゼクティブの研修プログラムからAwareness Trainingの動きが生じ、日本に輸入されて自己啓発セミナーとなった。
■これらに共通するのは、欲望を禁圧する代わりに欲望自体を変える(潜在意識を書き換える)催眠誘導である。自己に使えば自己制御プログラム、他者に使えば他者制御プログラムとなる。双方継続的に開花したのは、日常を非日常として生きる宗教的伝統を持つ米国だった。
■だがそこで浮上するのが晩期ウェーバー的問題である。他者制御プログラムは、論理的には、他者を制御する自己に関わる自己制御プログラムのブランチに過ぎない。とすれば、自己の欲望を合目的的に書き換えようとする欲望自体がどこから由来するのかが問題化するのだ。
■神経症の療養のための長期イタリア旅行から帰国したマックス・ウェーバーは、合目的的であるか否かを判別する形式的プログラムを共有する近代の志向に関して、合目的性の果てにある最終目的が単なる社会システムへの適応に過ぎないことに、近代の閉塞を見出し、悲観した。
■かくして、『ボーン・アルティメイタム』の米国的寓意──米国的イデオロギーを背景とした寓意──が明らかになる。類稀な自己制御の能力(潜在意識制御能力)自体が、何者かによる他者制御(潜在意識への書き込み)がもたらした強迫の結果ではないか、ということ……。
■しかも、その他者による潜在意識の書き込みに関して、既に述べたように自己が免責されない。〈システム〉に関わる全ての欲望が、〈システム〉の外という観念まで含めて〈システム〉の産出物に過ぎないポストモダン(後期近代)についての、再帰的自覚がそこにはある。