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テレビの未来と「F1」対象群

投稿者:miyadai
投稿日時:2007-11-19 - 17:43:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
【はじめに】
 若い世代のテレビ離れが語られるようになったのは、私の記憶では十年以上前の話だ。援交女子高生が跋扈し(援助交際ブームのピークが1996年)、「コギャル」という言葉が世の中を席巻していて、「第二次女子高生ブーム」という言葉もマスコミで語られた。
 2007年現在「F1」(女性20〜34歳)に区分される対象群は、中間年齢27歳をとると、援交ブームやコギャルブームがピークの1996年に16歳の高二。「F1」とは、いわゆる「コギャル世代」を中心として、その周辺年齢を含む世代だと考えられる。
 今回の原稿依頼は、いわゆるテレビ離れの背景を、「F1」コーホート1の過去十年に渡るライフスタイルの変化を切り口として分析してほしいというものだ。ちなみに後でデータを示すとおり、「テレビ離れ」は「F1」に限る現象でなく、もっと広範な現象だ。
 従って、記述のスタイルとして、「F1」に限らず拡がったテレビ離れ現象の、「F1」世代に限らぬ全体を貫通する背景を分析して行きつつ、イグザンプルや、イメージメイキングなイラストレーションとして、「F1」コーホートの時間的変化に言及していきたい。

【テレビ離れの急進】
 以下、ビデオリサーチの2006年の視聴時間データと2002年の視聴時間データの比較を主な材料としつつ、データに見られる傾向の概略を押えておきたい。なおこの調査では1992〜1996年、1997〜2001年、2002〜2006年という具合に区間を区分している。
 視聴時間から紹介すると、2002年から2006年にかけて、「F1」の平日平均は3時間20分から3時間12分に、土曜日は3時間15分から3時間6分に、日曜日は3時間23分から3時間7分に、週平均は3時間20分から3時間11分に、すべて減少した。
 他区分の週平均を示すと、「F2」(女性35〜49歳)が4時間53分から4時間39分に、「F3」(女性50歳以上)が6時間8分から5時間49分に減少する。「F1」が9分減、「F2」「F3」が14分減と19分減だから、「F1」の減り幅はむしろ小さい。
 男性では「M1」(男性20〜34歳)が2時間28分から2時間14分に、「M2」〔男性35歳〜49歳)では2時間54分から2時間41分に、それぞれ14分と13分減少する。「M3」(男性50歳以上)だけが5時間6分から5時間21分に15分も増えている。
 「M3」のこうした特殊性は、「団塊の世代」(1946年〜50年生まれ)が、2002年に52〜56歳であったのが2006年に56〜60歳となり、仕事の最前線から退いたことや、「団塊の世代」以降のテレビ世代が大挙算入したことによるのではないかと思われる。
 2001年と1997年の視聴時間を比べると、こうした一律に近い低下はない。女性の週平均では「F1」が3時間26分から3時間22分に微減する一方、「F2」は4時間58分から5時間00分に、「F3」も5時間55分から6時間00分に増えているのだ。
 同じく男性の週平均を見ると「M1」が2時間28分から2時間25分に、「M2」が3時間06分から3時間01分に各々微減するが、「M3」は4時間52分から4時間56分に微増する。テレビ離れが「目立つ」ようになるのは、ここ4年間のことなのだ23。

【IT機器利用との競合】
 ここ4年間のテレビ離れの加速にどんな理由があるだろうか。すぐ考えつく理由は、可処時間所得ならざる可処分時間がテレビ視聴とは別の活動によって占有されることだ。別の活動には、別の情報メディアの利用と、メディア利用以外の活動が考えられる。
 別の情報メディアとしては、セットインユースが下がり続けるラジオ、出版部数が下がり続ける書籍・雑誌・漫画雑誌・漫画本を除けば、通話メディアとしての携帯電話、携帯情報端末としての携帯電話、インターネットに接続されたパソコンなどが考えられる。
 この4年、女性では「F2」「F3」即ち中高年層の視聴時間減少が著しいこと、男性では「M1」「M2」即ち高年齢層以外の減少が著しいこと4も傍証になる。専業主婦の多い中高年層では男性より女性の方がIT機器の私的利用に馴染んでいるだろうからだ。
 そこで、IT機器(情報通信機器)の普及率がどう変化したかを見て見よう。総務省が2006年3月に公表したデータによれば、2002年3月末(2001年度末)から2006年3月末(2005年度末)にかけて携帯電話の普及率は59.4%から71.8%に変化した56。
 それ以前の普及率は、1997年3月末(1996年度末)から2001年3月末(2000年度末)にかけて25.0%から54.3%に変化している。同じく、1992年3月末(1991年度末)から1996年3月末(1995年度末)にかけて1.4%から16.7%に変化している。
 即ち概括すれば、携帯電話の普及率は、1992年までは2割に満たず、2001年直前までは5割に満たなかったのが、2001年からようやく5割を超えて、2005年に7割を超える事態になった。携帯電話所有者が多数派になるのはここ4〜5年のことなのである。
 携帯電話の普及曲線と、視聴時間の減少曲線から見る限り、携帯電話所有者が多数派になった直後にテレビ離れが加速した。繰り返すと、この加速の内容は、女性の「F2」「F3」の視聴時間の急減と、男性の「M1」「M2」の視聴時間の急減を、指している。



 携帯電話を所有しても、それを使うことで可処分時間が占有されることがなければ、それがテレビ離れを加速させているとは言えないことになる。そこで、通話メディアならびに情報端末としての携帯電話が、どれだけの可処分時間を占有するのかを見てみよう。
 (社)電気通信事業者協会による2007年2月の調査7によれば、通話・メール・ウェブなどの利用で携帯電話を手にする時間は、1〜30分が12%、30分〜1時間が24%、1〜3時間が35%、3〜5時間が16%、5時間以上が13%(計100%)となっている。



 携帯電話の使用に1時間以上さく者の割合が6割以上(64%)、3時間以上さく者の割合だけでも3割(29%)に及ぶ現在、テレビの視聴時間は携帯電話の使用に大きく圧迫されていると想像される。ゲーム機やパソコン端末の利用を数えれば圧迫は更に大きい。

【「第四空間化」とは何か】
 公表された統計データは沢山あるので幾らでも細かい分析ができるが、ここで確認したいのは、「F1」では過去二十年間テレビの視聴時間は年2秒の割合でほぼ一貫して減り続けてきたのに対し、「F2」「F3」と「M1」「M2」がここ4年で急減することだ。
 この事実から、「F1」世代(コーホートではない)のテレビ離れが、IT化に伴うマルチメディア化やパーソナルメディア化とは別の要因群によって駆動されてきた可能性を考えなければならないことが分かる。この別の要因群とは何かを以下では考えてみたい。
 最重要の要因は「第四空間化」だろうと私は推定する。「第四空間化」とは青少年が家でも地域でも学校でもない空間に出て行くこと。「第四空間」は(1)仮想現実、(2)匿名メディア、(3)匿名ストリートに大別できる。「第四空間化」は70年代末から順次進行した89。
 「第四空間化」が生じた理由は以下のように推定できる。高度経済成長時代、テレビが流布させる文化的生活や郊外生活のイメージに駆動されて核家族化・専業主婦化が進んだ。「良き家族」イメージは、モノ(耐久消費財)が豊かになる過程と表裏一体であった。
 ところが70年代前半に石油ショックとともに高度成長が終った。モノが豊かになる過程によって「良き家族」イメージを支えられなくなった家族は、今度は子供を良い学校に入れることを「良き家族」イメージの代替的な支えとしはじめる。「日本的学校化」だ。
 「日本的学校化」とは、家や地域が学校のデミセに堕すること。現に70年代半ばから家計に占める教育費の割合が急増した。「猫も杓子も塾通い」が始まったのだ。学校で成績の悪い子は家でも成績の文句を言われ、地域でも子供の進学実績ばかりが話題になる。
 「尊厳のリソース不足」に陷った子供たちは、学校化されていない空間、即ち家でも地域でも学校でもない「第四空間」に出かけ、「名前を欠いた存在」になって10負の自己イメージの軛から離脱しようとした。先の三種類の「第四空間」の共通性は匿名性にある。

【「第四空間化」の性別的偏り】
 なぜ「F1」においてだけ「第四空間化」が視聴時間にマイナスに作用したのか。結論から言えば、仮想現実化が男子を、匿名ストリート化が女子を襲いやすい現象だったからだと推定される。ちなみにテレクラを別とすれば匿名メディアは男女別なく利用される。
 初期の仮想現実化を支えたのが『宇宙戦艦ヤマト』や、『ガンダム』『マクロス』などロボットアニメだったように、携帯電話やパソコンのようなIT機器が普及するまでは、仮想現実化は、テレビ視聴とはバッティングせず、むしろテレビ視聴を前提にしていた。
 これに対し、87年前後のチーマー11から始まり、90年代のコギャルにつながる匿名ストリート化は、口コミ化現象・脱マスコミ化現象と密接に結びついていた。それを象徴するのが90年代前半のクラブ・ブームにおけるフライヤー・コミュニケーションだった。
 初期を除けば、匿名ストリート化はカジュアルなお洒落化と社交化12を伴い、女子化を意味した。80年代末以降のストリートは女子だらけであり、中高の教室では仮想現実系(オタク系)は專ら男子に、匿名ストリート系(ストリート系)は專ら女子に、偏った13。
 「第四空間化」は、「日本的学校化」による「尊厳のリソース不足」に抗う尊厳維持戦略として始まったから、元々は主に青少年の現象だった。だが彼らが学齢期を脱しても、就職と結婚によって個人的に自由に使える時間が減らない限り、傾向は続くと考えられる。
 結果として、「F1」には「第四空間化」の性別的な偏りが反映されることになる。即ち「F1」には、テレビ視聴を含むマスコミ的コミュニケーションからの離脱傾向が強いストリート系が、「M1」などよりも大きなボリュームを占めるだろうと推定できるのだ。

【なぜテレビは劣位なのか?】
 先に紹介した通り、ここ4年間のテレビ離れは、「F1」よりも「F2」「F3」に顕著であり、「M3」よりも「M1」「M2」に顕著である。またそのことは、この4年間のテレビ離れが、主にIT機器の普及による可処分時間の侵食によるだろうことを傍証する。
 だが重要な問題が積み残されている。なぜIT機器の利用によってテレビの利用が侵食されてしまうのか、である。IT機器の利用が、テレビの利用よりもアドバンテージ(利点)を持つのはどんな点においてだろうか。いよいよ本質的な問題を論じるべき段取だ。
 それを論じることで、十〜十五年前にコギャルだった世代が今日「F1」を構成することが現在のテレビ視聴にどんな傾向をもたらし、彼女らが将来「F2」「F3」を構成することが、テレビ視聴にどんな傾向をもたらすことになるのかを分析できるようになる。
 キーワードは「共通前提」である。結論から言えば、狹い「島宇宙」14を維持するのに必要な共通前提を供給するには、マスメディアの利用は向かず、IT機器(携帯電話やパソコン)を用いたプライベートメディアの利用のほうが向いている、ということになる。
 例えばブログ上にプライベートな日記を公開する現象が拡がっているが、これは万人に読んでもらうことを目的としたものでなく、前提を共有できる不特定者や特定匿名者(コテハンこと固定ハンドルネームを含む)に読んでもらうことを目的としたものである15。
 マスメディアは、国営放送に類するメディアであれ、巨額の広告収入を頼るメディアであれ、大衆規模の共通前提を参照する以外ない。不特定者からなる出入りの激しい島宇宙であれ、特定匿名者からなる島宇宙であれ、ターゲットにすることが難しい性格を持つ。

【マスメディアが強いられる変化】
 〈生活世界〉の構成員の幸いのために〈システム〉が利用される近代過渡期が終わり、汎〈システム〉化によって〈生活世界〉が空洞化する近代成熟期を迎えれば、〈システム〉がサポートする幸いは〈システム〉が作り出したものとなり16、必然的に島宇宙化する。
 島宇宙化は、IT機器を利用したパーソナルメディア化をもたらすだけでなく、マスメディアの中身(コンテンツ)にも変化を迫る。典型的な事例が、野球の衰退と入れ替わりにサッカーが、プロレスの衰退と入れ替わりにK1的格闘技が、浮上する現象である。
 日本の野球は観客にとっていわゆる「蘊蓄ゲーム」で、試合の前後に敷居の高いデータベースを共通前提としたコミュニケーションをするのが目的となる。近代成熟期になって島宇宙化が進めば、こうした高度な共通前提を大衆規模で期待することはできなくなる。
 かわりに、島宇宙化にもかかわらず祭りを通じてその都度観客の共通前提を自己調達できるので、試合そのものが祭りであるような「コンサマトリーなゲーム」であるサッカーが、マスメディアに相応しくなる。プロレスからガチンコ格闘技への変化も同様である。
 もう一つの事例がドラマや映画の「ウェルメイド化」だ。文字通り良い作品という意味でない。高度な共通前提に依存しない、喜怒哀楽を刺激する単純な感情的フックがちりばめられた娯楽作品になることだ。複雑な感興を伴う寓意性が回避されようになるのだ。
 それに伴い、ドラマや映画についての批評が廃れ、泣けた・笑えたといった類の口コミ化――宮台は「一秒コメント化」と呼ぶ――が進む。或いは、中身に関心があるからというより、コミュニケーションツールになるという理由でのアクセスが專らになるだろう。
 「M1」と違ってオタク系メディアへの耽溺が薄い現在の「F1」コーホートが今後年長化するにつれて、後続の「M1」「F1」世代が従来の「M1」「F1」に見られた傾向を更に強めると予想されることもあって、テレビのターゲットとしての重要性を増そう。
 そこでは共通前提がなくても享受可能な方向への(1)祭り化(ガチンコ化やお笑い化)や(2)ウェルメイド化(一秒コメント化)が――総じて「メディアの動物化」が――いっそう進むだろう。ただし「マスを相手にするべし」との至上命題が続くのならば、だが。



1
「F1」コーホートとは、現時点で20〜34歳の集団を10年前には10〜24歳の集団として扱うという意味。コーホートとは同年ないし同期間に出生した集団を意味する。世代という言葉も「団塊の世代」などのように同じ意味で用いられることがあるが、「若い世代」といった言い方では特定時点において年齢区分された集団を指す。その場合、現時点における「若い世代」は時間が経つと「年長世代」に変じ、「若い世代」には新しいメンバーが入ってくる。コーホートはこれと違い、時間が経っても(死亡者は除かれるものの)同一性が変わらない。たとえば時代が変わっても「団塊コーホート」は「団塊コーホート」のままである。
2 更に過去のデータに遡っても同様。女性から見ると、「F1」の1997年週平均が3時間26分だと紹介したが、十年遡った1987年週平均3時間49分で、十年で23分(一年で約2分)の減少。「F2」の1997年週平均が4時間58分だと紹介したが、1987年週平均は4時間42分で、逆に十年で16分増加。「F3」の1997年週平均が5時間55分だと紹介したが、1987年週平均は5時間57分で、十年で2分増加である。「F1」はここ4年間(2002年から2006年にかけて)も1年で約2分の減少だから、女性の過去二十年間については総じて次のように言えよう。即ち、「F1」は一貫して緩やかな視聴時間の低下を見せる一方、「F2」「F3」にはそうした傾向は見られなかったが、2002年以降は「F1」が従来の傾向を続けるのに対して「F2」「F3」が視聴時間の著しい低下を見せるようになった、と。
3 男性についても同様。「M1」の1997年週平均が2時間28分だと紹介したが、十年遡った1987年週平均が2時間37分で、十年で9分(一年あたり一分未満)の微減。「M2」の1997年週平均が3時間06分だと紹介したが、1987年週平均が2時間48分で、十年で18分増加。「M3」の1997年週平均が4時間52分だと紹介したが、1987年週平均が4時間59分で、十年で7分増加である。男性の過去二十年間については総じて次のように言えよう。即ち、「M1」が微減傾向を見せる一方、「M2」「M3」はむしろ増加傾向があったが、2002年以降は、「M1」「M2」がともに激減傾向を見せるようになった、と。
4 注の(2)ならびに(3)を参照せよ。
5 時期区分を敢えてビデオリサーチの公表データの区切りに合わせてある。
6 ここ数年のPHSはパソコンに組み付けてネットワーク化するために用いる割合が多く、携帯電話と用途が異なることから、本論のここでの分析ではPHSを除いている。
7 2006年2月8日午前10時から2月9日午前3時まで、iモード、Yahoo!ケータイ、EZwebの、公式サイト「ザ★懸賞」上でのアンケート。有効回答3746人。性別内訳:男44%、女56%。年齢内訳:40代以上17%、30代44%、20代36%、それ以下3%。性別・年齢など属性別のデータは公表されていない。
8 ゲームやアニメなど仮想現実へのコミットメントは70年代末から展開、テレクラや伝言ダイヤルに代表される匿名メディアへのコミットメントは80年代半ばから展開、渋谷センター街に代表される匿名ストリートへのコミットメントは80年代末から展開し始めた。これら「第四空間化」進行に伴い、まず70年代末に家庭内暴力が沈静化し、次に80年代半ばに校内暴力が沈静化し、続いて80年代末に暴走族が沈静化した。家族や学校や地域に居場所を求めるがゆえに暴発するという「依存的暴力」が、「第四空間化」によって不必要になったためだと推定される。この件、詳しくは拙著『まぼろしの郊外』(朝日新聞社)を参照せよ。
9 テレビの最初の衰弱の徴候は1984年頃からのテレビの個室化に伴って現れたが、「第四空間化」と密接な関係を持つ。具体的にはロードサイド店でNIES諸国の白黒テレビが2万円台で買えるようになったことで、テレビが茶の間から家族各々の個室に移動、1984年から1987年にかけて家族団欒を前提としたクイズ番組や歌番組が打切りになった。『ザ・ベストテン』打切りが1987年である。かわりに登場したのがテレビの個室化を前提とした『カルトQ』など深夜番組。テレビに続いて1985年の電電公社民営化を契機とした電話の個室化(多機能コードレス化)が起こり、テレクラに代表される匿名メディア化につながった。個室で個人がメディア世界につながる個室化は、やがて個室を介さずに個人がメディア世界につながる携帯化につながっていった。その意味で、個室化は、家が居場所としての機能を持たなくなる傾向の出発点だった。
10 自分の名前と結びついた情報を知られないことで自由に振る舞えるようになる現象は、社会学で「パッシング」と呼ばれる印象操作の一類型である。この点、Goffman E. (1963a) Stigma;Notes on the Management of Spoiled Identity、Prentice-Hall、石黒毅訳『スティグマの社会学』せりか書房、を参照。
11 渋谷近辺の私立高校生らのブルジョア的パーティ文化から出てきた。80年代半ば過ぎからパーティ券をクローズドな範囲に撒いてディスコパーティなどを開催したが、やがて押売りまがいのパーティ券販売によるアガリを目的とした愚連隊化が生じ、90年頃には警察の摘発が始まった。チーマーの顛末とは別に、渋谷近辺のパーティ文化は滑らかに90年代のクラブ・ブームにつながり、渋谷はティーンの街となる。そのことは女子中高生(コギャル)の街になることを意味した。ちなみに73年の公園通り誕生から80年代を通じて、渋谷はティーンというよりも大学生や20歳代の若者の街で、当時は性別的な偏りは意識されなかった。
12 森川嘉一郎が渋谷を透明なガラスを通して「見られる」ための場所、秋葉原を不透明な壁の内側を埋め尽くすオタク的意匠を「見る」ための場所として区別したのは、適切である。前者はおおむね女子化を意味し、後者は男子化を意味した。現に街にいる若者たちの性別構成もそのような偏りを示しているだろう。
13 いわゆる「腐女子」(アキバ系女子)が話題になるのは2000年期に入ってからのことである。
14 若者たちのコミュニケーションが互いに共通前提の異なる小集団に分化する現象を、宮台は「島宇宙化」と呼ぶ。ただし「まる金とまるビ」「ネアカとネクラ」というような当事者にとって価値的落差のある分化ではなく、ストリート系もオタク系も価値的高低のない等価な趣味的トライブだとする当事者の把握があることを前提とした概念である。宮台が小学生の頃は学級の女子が2つか3つのグループに分れるのが普通だったが(共学の場合)、1990年前半には既に3〜4名ずつのグループ(従って5グループぐらい)に分れるのが普通になっていた。細分化が進むにつれて価値的落差が無関連になっていった(トライブ化した)。
15 鈴木謙介はブログ日記をプライベートとパブリックが混在したコミュニケーションだと見做す(『ウェブ社会の思想—〈遍在する私〉をどう生きるか』NHK出版)。宮台の把握では、島宇宙の構成メンバーを、「固有名が知られた特定他者・ではない存在」に、「特殊な共通前提の共有」をあてにしてコミュニケーションするところから生じる論理的性格である。「狭域に閉じた前提」を「少数の知らない人」に期待するのである。
16 〈システム〉が作り出した裂け目を〈システム〉が埋めるというマッチポンプ的な性格を、アンソニー・ギデンズは「再帰性」と呼ぶ。あるいは、選択前提もまた選択と同時に選択されたものだという選択前提の非自明的性格を、ニクラス・ルーマンは「再帰性」と呼ぶ。この件、ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』ハーベスト社、ルーマン『社会システム理論(上・下)』恒星社厚生閣を参照せよ。それぞれ準拠枠が異なる概念だが、外延的には同一の現象を指示する。「各々の再帰性が全域化した社会=汎〈システム〉化によって〈生活世界〉が空洞化した社会」が「近代成熟期=ポストモダン」である。